|
|
2011年07月26日(火) ■ |
|
「あなたの才能は親が心配するようなことにあるかもしれない」 |
|
『新絶望に効く薬』(山田玲司著・光文社)より。
(映画字幕翻訳者・戸田奈津子さんと著者・山田玲司さんの対談から)
【戸田奈津子:「ちょっと話戻るけど、今の好きなこと。若い方へのアドバイスを」
山田玲司:ぜひ
戸田:「すごいいい話があんのね。ジム・キャリーなんですよ。ジム・キャリーが来たときに、ほんとに今でも忘れませんけど、あの人は今名優になりました。コメディじゃなくてお芝居もする。最初は『マスク』かなんか。顔面芸っていうの? へんな顔つくって笑わしたでしょう。日本に来て記者会見でその顔面芸を披露したの。隣で、顔の皮膚がゴムみたいなんですよ。で、自由自在に伸びたりして、いろんな顔。で、ハンサムなのあの人。スラーっとかっこよくって、それがああいうふうなおどけた顔をするわけです。で、もうほんとに信じられない顔になるわけ。そうだもんで、私が記者会見が終わって、どうしrてあなたの顔ってよくゴムみたいに動くの? って言ったら、僕は子供のときから外になんか遊びに行かないでほんとに物心ついたときからバスルームの鏡の前で百面相つくってたっていうの。それが好きだったの彼は。親にはもちろんそんな馬鹿なこやめろって怒られたって。やめろやめろって。彼は好きだからやめなかった。親がね、あんまりやめないからある日、この子はこれが好きって。親がよかったのはもう止めなくなって、面白い顔だねって褒めてくれるようになった。もちろん彼は喜んでやるわけですよ。それで今の芸になるわけですよ。そのとき彼はこう言ったの。『あなたの才能は親が心配するようなことにあるかもしれない』
山田:あぁいいですねえ。
戸田:「いいでしょう〜。そういうふうに子供が言ってもらったらどんなに勇気づけられる? それ聞いて、今でも忘れない。十何年も前だけど。親が心配する、人殺しとかそういうのはいけないよ。だけど人に迷惑かけるんじゃなくて、親が心配するようなこと。誰も褒めない、鏡の前で百面相なんか。でもそれがひとつの芸になってトップスターになったんだからね。数学が得意とか絵がうまいとかそういう才能じゃないわけ。そんな人は何万人に1人。凡人はですね、好きなことを、親も心配するようなそういうものがもしかしたら花開くかもしれないですよ。それは今でも忘れません」】
〜〜〜〜〜〜〜
この話を読みながら、僕は『ドラえもん』の「のび太のあやとり」のことを考えていました。あれも、もしかしたら、「ひとつの芸」になったかもしれませんね。
このジム・キャリーさんの話、もうすぐ3歳になる子供を親としては、なんだかとても勇気がわいてくるのと同時に、悩ましくもありました。 ジム・キャリーは結果的に、「顔芸」をきっかけにスターとなり、成功をおさめることができたのですが、世の中には、たくさんの「ジム・キャリーになれなかった、自分の好きなことの呪縛から逃れられなかった人」もいるはずだから。
ジム・キャリーの親が、鏡の前で百面相ばかりしている息子を心配して、「そんなことはやめろ」って言ったのは、ごくあたりまえのことのように僕には思われます。 むしろ、途中で諦めて、「面白い顔だね」って褒めるようになったというほうが不思議なくらい。 だからといって、ジム・キャリーが無理矢理勉強やスポーツをさせられていたら、いまのように成功していたとは思えないし、僕たちも彼が出演する映画を観ることはできませんでした。
考えようによっては、野球やサッカーなどのメジャースポーツや、音楽や絵などの世界で「競争に勝ち抜いて、食べていけるようになる」のも、すごく狭き門ではあるんですよね。 そういう意味では、森博嗣先生が「勉強は、もっとも期待値が高いギャンブルである」と仰っていたのは、まぎれもない事実なのでしょう。 小説家や漫画家のごくごく一握りの「超一流」を除く99%よりも、「どこにてもいる、平凡な医者や弁護士」のほうが高収入ですし。
競争相手の少なさを考えれば、「顔芸」を極めるというのは、芸術の世界で頂点を目指すより、「合理的」なのかもしれません。 もちろん、「社会的なニーズの少なさ」を周囲としては心配してしまうのですが。
この『あなたの才能は親が心配するようなことにあるかもしれない』というジム・キャリーの言葉、親としては、頭の片隅には置いておくべきではないでしょうか。 たぶん、大部分の子供は、親が先回りして心配しているほど「特別なこと」に夢中になってはくれないんでしょうけど。
|
2011年07月19日(火) ■ |
|
「私の両手は血に濡れています」 |
|
『おおきなかぶ、むずかしいアボカド〜村上ラジオ2』(村上春樹著/大橋歩画・マガジンハウス)より。
(「並外れた頭脳」という項より)
【世の中には、どう転んでもかなわないというすごい人がいる。そんなにいっぱいではないけれど、たまにいる。 たとえばロバート・オッペンハイマーがそうだ。オッペンハイマーさんのことは知ってますか? 第二次大戦中、核爆弾開発の中心となったユダヤ系アメリカ人の物理学者で、「原爆の父」と呼ばれている。ずいぶん前に亡くなったし、僕も直接お目にかかったことはないけれど、並外れた頭脳として世界に名を馳せた。 たとえば彼はあるときダンテを原書で読みたいと思い立ち、ただそれだけのために一ヶ月でイタリア語を習得した。オランダで講義をすることになって、「じゃあまあ良い機会だから」と六週間勉強し、オランダ語が流ちょうにしゃべれるようになった。サンスクリット語にも興味を持ち、『バガヴァッド・ギーター』を原典で読みふけった。とにかく興味のおもむくまま、少し意識を集中するだけで、たいていの物事はすんなり習得できてしまう。普通の人にはそんなことまずできないですね。彼が天才であることは、誰がどこから見てもすぐにわかった。 ただしそんな彼にも政治的なセンスだけは欠けていた。夢中になって原子爆弾をこしらえたのはいいけど、その実験を目の前にして「私はなんという恐ろしいものを作り上げてしまったのか」と真っ青になった。広島に原爆が投下されたあと、当時のトルーマン大統領に向かって「私の両手は血に濡れています」と言った。大統領は表情ひとつ変えず、きれいに折り畳んだハンカチを差し出し、「これで拭きたまえ」と言った。政治家ってすごいですね。】
〜〜〜〜〜〜〜
このロバート・オッペンハイマーさんとトルーマン大統領の話、村上さんが「原発」について言及した「カタルーニャ賞」のスピーチにも出てきます。 この本に収録されているエッセイは、『anan』の2011年3月23日号までに掲載されたものですから、これが書かれた時点では、2011年3月11日に、あんなことが起こるとは、村上さんも予想していなかったはずです。 スピーチにこのオッペンハイマーさんのエピソードを入れることは、考えておられたかもしれませんが。
ロバート・オッペンハイマーさんは、まさに「天才」だったわけですが、「政治的センス」というか、あまりに「目の前の仕事」に集中しすぎてしまって、「自分がやっていることが『現実』に及ぼす影響」への想像力が、欠けてしまっていたような気がします。 彼ほどの「天才」であれば、「原子爆弾の威力」は、数字の上では理解していたはずなのに。
そして、このエピソードで僕が考えてしまうのは、「私の両手は血に濡れています」というオッペンハイマーさんの「懺悔」を聞いたときの、トルーマン大統領の反応でした。 トルーマン大統領は、オッペンハイマーさんの言葉が「たとえ話」であることを、よく知っていたはずです。目の前にいた人の手が実際血にまみれているかどうかは、すぐわかるでしょうから。 にもかかわらず、トルーマン大統領は、即座に「きれいなハンカチ」を差し出しました。 それで、オッペンハイマーさんの「手についた血」が拭えないことは、承知のうえで。
もし、トルーマン大統領が、オッペンハイマーさんを「これはアメリカを、世界を救うために必要な犠牲だったんだ」と言葉を尽くして「説得」しようとしたのならば、それが日本人にとって正しいかどうかはさておき、そういう態度を「理解」はできるんですよ。 でも、トルーマン大統領は、そうせずに、ハンカチを差し出した。
これは、トルーマン大統領が、本当に「人の心の痛みを理解できない人」だったのか、それとも、「お前がどんなに自分を蚊帳の外に置こうとしても、いまさらもう手遅れだし、これが『現実』なのだ」と思い知らせようとしたのか? たぶん、後者なのだと僕は想像していますし、そのくらいの冷徹さがなければ政治家、とくに戦時の政治家なんて務まらないのでしょうけど……
どんな偉大な才能も、使われる方向によっては、「より大きな悲劇」を生み出すだけになってしまいます。 ちなみに、村上さんのこのエッセイによると、その後のオッペンハイマーさんは、 【彼は大量破壊兵器を世に送り出したという心の重荷を抱えつつ、残りの人生を送らなくてはならない。なんとかその埋め合わせをしようと務めるのだが、もともと向いていない政治の冷徹な世界に深く巻き込まれ、更に傷ついていく】 とのことでした。
「天才」でありながら、自分の能力の使い方について、あまりに無防備であるというのは、「大きな罪」なのかもしれません。 「日本には本物の政治家がいない」なんて言う人もいますけど、「本物の政治家」が必要じゃない時代のほうが、幸福なんだろうな、とは思いますね。
|
2011年07月12日(火) ■ |
|
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」 |
|
『大人の流儀』(伊集院静著・講談社)より。
【それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。 夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。 信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。 私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。 ようやく四谷方面から空車が来た。 私は大声を上げて車をとめた。 その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。 タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。 私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、 「どうぞ、気付かなかった。すみません」 と頭と下げた。 二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、 「ありがとうございます」 と目をしばたたかせて言った。 私は救われたような気持ちになった。 いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。
あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。 という感情が働いたのかもしれない。 しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。 あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。】
〜〜〜〜〜〜〜
伊集院静さんの「前妻」は、女優の夏目雅子さん。 僕はこの文章を読みながら、この伊集院さんにタクシーを譲られた側の少年は、この日のことを覚えているだろうか?と考えてしまいました。 たぶん、覚えていないんじゃないかな。 それは、この少年が薄情というわけじゃなくて、僕がこの少年だったとしても、「知らないおじさんにタクシーを譲ってもらった」くらいのことを、ずっと覚えてはいないと思います。
ふだんの生活のなかで、「他人の事情」を想像することは難しい。 どうしても、相手の行動は、その人の「性格」によるものだと考えてしまいます。 たとえば、高速道路で、猛スピードで煽ってくる車。 僕はああいう車を見ると、「迷惑運転しやがって!そのうち酷い目に遭うに決まってるからな!」などと心の中で呪いをかけているのですが、もしかしたら、あの人がああいう運転をしているのは、母親の死に目に会うために、急いで病院に向かっているから、なのかもしれません。 まあ、だからといって、他人に迷惑をかけるような運転をするのは良いことではありませんが、自分がそういう立場だったら、そうせずにはいられないのかもしれません。 本当に「他人の事情というのは、わからない」のです。 もちろん、周囲の人々に対して、説明もせずに、こちらの特別な事情を理解してくれというのは、ムシがいい話ではあります。 それこそ、「人はそれぞれ事情をかかえている」のだから。
このときの伊集院さんのように、自分が「特別な事情」をかかえていたからこそ、「人それぞれの事情」について、考えることができる場合もある。 どんなときでも、自分に「事情」があるように、周囲の人にもそれぞれの「事情」があるのだけれど、相手の「事情」を想像することは少ないし、あまりに想像力を持ちすぎていては、生きていくのが大変になるのも事実なのでしょう。
でも、この伊集院さんの文章には、何かとても大事なことが書かれているように、僕には思われるのです。 人が「平然と生きている」ことって、実は、すごく大変なことなんだよなあ。
|
2011年07月05日(火) ■ |
|
「思いのほか広かった」では、読者に伝わらない! |
|
『文は一行目から書かなくていい』(藤原智美著・プレジデント社)より。
(芥川賞作家・藤原智美さんが「検索・コピペ時代の文章術」を書かれた本の一部です)
【二十四歳のころ、クルマ雑誌でユーザーレビューを書いていた時期がありました。いまだから明かせますが、私はクルマという乗り物に興味がありませんでしたし、マイカーすらないペーパードライバーで、その仕事にまったく自信がもてませんでした。それでも引き受けたのは、いうまでもなく、かけだしの貧乏ライターで、仕事など選べなかったからです。 その雑誌で、あるクルマの運転席について「思いのほか広かった」と書いた原稿を編集者に見せたところ、「これではどの程度の広さなのかが読者に伝わらないよ。安易に形容詞を使っちゃダメだ」と厳しい指導を受けました。 広い、熱い、きれい、おいしい、すごい……。 私たちは会話で使っている形容詞を、深く考えることなく文章にも用います。しかし、ある人が「広い部屋」といったときに思い浮かべている広さと、それを聞いた人が想像する部屋の広さにはギャップがあります。 そのギャップを埋める工夫をせず、形容詞を投げつけるだけでは、読み手に不親切です。私が書いた「思いのほか広かった」は、まさしく読み手無視の独りよがりな表現でした。そのままレポートを掲載していたら、読者は実際のクルマの広さがまったくイメージできなかったでしょう。 では、形容詞を使わずにどのように表現すればいいのでしょうか。 ユーザーレポートにダメ出しした編集者は、「ユーザーの身長を書いたらどうか」とアドバイスをくれました。たしかにユーザーの背丈は166センチという情報を加えて、「身長166センチの試乗者は、運転席から後部座席をスムーズに振り返ることができた」と表現すれば、「広い」という形容詞は不要になります。 ポイントは自分一人の主観ではなく、多くの人と共有できる客観的な物差しを使うことでしょう。たとえば「14インチのモニターが2つ置ける広さだった」「新型新幹線と同じくらい速い」というように身近にあるものに置きかえてみます。 身近なものに置きかえるといっても、「東京ドーム○杯分の大きさ」のように手垢のついた置きかえは避けたほうがよいでしょう。わかりやすいという利点はありますが、ありきたりすぎて読み手の記憶に残りにくい。わかりやすさと同時にインパクトのある表現を、自分なりにいくつか用意しておくことをおすすめします。】
〜〜〜〜〜〜〜
これは本当に勉強になりました。 「広い」とか「きれい」とか「すごい」のような形容詞、僕もあまり意識せずに使ってしまいがちなので。
たとえば、テレビのグルメ番組のように、映像があったり、レポーターに対する予備知識があれば、「おいしい!」のひと言だけでも「伝わる」こともあると思います。 でも、雑誌やブログなどの「文章だけで伝えなければならず、どんな人が書いているのかわからない場合」はとくに、形容詞というのは、「伝わりにくい言葉」になってしまうのです。 もちろん、長い間、ひとりの文章を読み続けていれば、ある程度の「好み」は把握できるのでしょうけど、そういう暗黙の了解に頼っていたら、新しく来る人への間口はどんどん狭くなってしまいます。
この「思いのほか広かった」という表現なんて、まったく意識せずに、サラッと書いてしまいそうなだけに怖い。 若いころの「未来の芥川賞作家」ですら、そうだったのです。 「(自分にとって)思いのほか広い」と感じ、それをそのまま書いてしまうのは、自然なことです。 しかしながら、それだと、「ひとりよがり」になってしまう。 166センチの人にとっては「思いのほか広い」空間も、2メートルある人にとっては、「狭い」のが当たり前。 形容詞というのは、あくまでも主観的なものなのです。
たしかに、「身長166センチの試乗者は、運転席から後部座席をスムーズに振り返ることができた」だと、読んだ人は、自分の身長にあわせて、この情報を補正できますし、具体的な「広さ」が、読んだだけで伝わります。 それにしても、「定型文」のようなクルマ雑誌の「試乗車レビュー」でも、ここまでの配慮がなされているんですね。 文章でお金をもらうというのは、簡単なことではないようです。
その一方で、「形容詞の曖昧さ」というのは、必ずしも悪い面だけではありません。 先日、ある作家が、「本の魅力というのは、読み手が自由に解釈できるところだ」ということを書いておられたのを読みました。 「この世のものとは思えない、美しい女性」という言葉に対して、読み手が思い浮かべる女性の姿は、ひとりひとり異なるはずです。 でも、自分が思い浮かべた想像上の女性に対して、「これは違う!」と思う人はいません。 もしこれを映像化して、その女性をひとりの女優さんが演じるとすれば、どんなに美しい人をキャスティングしても、「これは自分のイメージとは違う!」と感じる人がいるはずです。 むしろ、「イメージどおり」の人のほうが少ないくらいでしょう。
あまりにも「読み手の想像力に頼り切ってしまうような小説」を読まされると「金返せ!」という気分にもなるんですけどね。 想像力をはたらかせるには、イメージを膨らませたくなるような「魅力的な世界」が必要だから。
|
|