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2011年04月27日(水)
「『あのゲームをクリアーするまでは』とか『ファミ通に書いてあったあのソフトを見るまでは』とか思ってやり過ごしてきた」

『ファミ通』2011年4月21日号のコラム「伊集院光接近につき ゲーム警報発令中」(伊集院光著)より。

【平穏な日々が、大しておもしろくもないと思っていた日常が、突然に揺さぶられ音を立てて崩れていく。言葉もない。自分は東京で、ほとんど被害もないのにビビっている。悲しんでる。怯えてる。もしかしたら、その前からの卑屈や不満や、別段理由もない不安も上乗せして落ち込んでいるのかもしれない。テレビゲームの話など書いている場合なのかとか、バラエティー番組とか撮ってる場合かとか、怖い怖い怖いとか。

 2週間ほど経った。少し落ち着いたか。それも、あの瞬間に比べればという程度だが。いろんなことが迫ってるし。節電のために薄暗い部屋でパソコンの前に座って思うことは、サッカーファンにとってこういうときにサッカーなのと同じくらい、ゲームファンにとってこういうときこそゲームなのかもしれないなということだ。大きな天災でも何でもなく、いま思えば甘えでしかない、いくつかの事柄の前で、僕は何度となく人生を投げかけた。そのたび、「あのゲームをクリアーするまでは」とか「ファミ通に書いてあったあのソフトを見るまでは」とか思ってやり過ごしてきたような気がする。「その程度でやり過ごせることだったんだろ」と言われれば、そうなのかもしれない。そりゃあ未曾有の大惨事に比べたら屁でもない。でも、その時々で自分の情けないほど小さいキャパシティーの100%だったのは間違いない。ファミ通読者の皆様ならば少しはご理解いただけるのではないかと思う。いや、思いたい。
 高校を辞めたときも、真っ黒な考えや吐き気や体の中をめぐるトゲトゲしたものを抑えてくれたのは、何百回も繰り返した『エキサイトバイク』のタイムアタックだった。22歳のときだったか、それまでのお笑い人生の中で決定的とも思われるオーディションに落ちた。ひとりで部屋の中にいるとよくないことばかり浮かんでくる。でも最終的にいちばん強く思ったのは、「ファミ通に出てたスーパーファミコンってすごそうだなあ。11月発売か……もうちょっと先だなあ」ってこと。我ながら「22歳にしてそれかよ!」とは思うけど。

「『ゼルダ』が出るまでは」、「プレイステーション3が出るまでは」、「やりっ放しのRPGが終わるまでは」、「あのゲームキャラにもう一度会いたい」……。】

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 東日本大震災から2週間後に伊集院光さんが書かれたものです。
 僕自身は、今回の震災で直接の被害はほとんど受けていないのですが、この文章を読んで、子どもの頃のことを思い出さずにはいられませんでした。
 それこそ「いまから思うと、甘えでしかない」かもしれないけれど。

 親の仕事の都合で引っ越してきた土地に馴染めず、学校では方言に慣れず、人間関係もうまくいかず……ああ、なんかもう全部イヤだなあ、明日学校に行くのも、こうして生きていくのも面倒だなあ、と思っていた僕も、「『週刊少年ジャンプ』の発売日」「観たいテレビ番組が放送される日」「新しいファミコンソフトの発売日」までは死ぬのをやめよう、と思いながら、なんとか小中学生時代を乗り切ったようなものです。
 大学時代に、つらい別れを体験したときには、眠れずに、24時間以上『ダービースタリオン』をやり続けていたこともありました。
 おかげで単位を落としそうになったり、大事な約束に寝過ごしてしまったこともあったけれど、僕がこの年まで生きてこられたのは、「大きな人生の目標」よりも、「小さな楽しみの積み重ね」のおかげではないかと思っています。
 この年になると、「ああ、世の中には、『ドラクエ』の新作発売直前や、『スターウォーズ』のエピソード2まで観ていながら、『3』を観られずに亡くなっていった人もいるんだろうし、僕もいつか、そういう『心残り』を抱えながら死んでいくのかな」なんて考えてしまうのですけど。

 今回の大震災で、被災者の方々に「一刻も早く元の生活に戻れますように」「必ず復興できる」などの応援のメッセージがたくさん届けられています。
 でも、僕はなんとなく、そういう「大きな目標」だけが連呼されることに、違和感があったのです。
 あのガレキの山のなかで、いきなり「元の生活」って言われても、あまりにも現実とかけ離れすぎていて、かえって途方に暮れてしまうのではないか、と。

 この文章を読んで、プロ野球の選手たちが、節電の必要があるとはいえ、開幕を遅らせるために「いまは野球なんかやっている場合じゃない」と「涙の訴え」をしていたことに、なんだか釈然としなかった理由もわかったような気がします。
 選手たちが、自分が「プロ」として、みんなが憧れる職業についていながら、「野球なんか」って言ってしまうのは情けない。そして、そんな「先が見えない状況」で、衣食住の次に必要なもの、とりあえず明日まで生きてみようという希望を与えてくれるものが、「たかが野球」である人は、けっして少なくないと思うのです。あの頃、僕を支えてくれたのが、将来への夢や希望よりも、「たかがテレビゲーム」であったように。

 電力の問題もあって、テレビゲームどころではないかもしれないけれど、みんな、なんとか生き延びてもらいたいと思っています。
 「大きな目標」はさておき、「小さな楽しみ」は、きっと、身近なところにあるはずだから。



2011年04月19日(火)
「ダメなリーダー」を見分けるためのキーワード

『無趣味のすすめ 拡大決定版』(村上龍著・幻冬舎文庫)より。

(「リーダーの役割」という項から)

【人望があるとか、剛胆であるとか、忍耐強いとか、リーダーとしての資質が話題になることが多い。だが、わたしはリーダーの「資質」などどうでもいいと思う。どんなに優れた資質があっても、「何をすればいいのかわからない」リーダーは組織を危うくする。リーダーは、「どこに問題があるのか」「何をすればいいのか」わかっている人でなければならない。映画『硫黄島からの手紙』で名将として描かれた栗林忠道大将にしても「何をすればいいか」をまず把握し、海岸線の陣地を捨て山中に無数のトンネルと地下壕を掘り持久戦に持ち込んで敵を苦しめた。
「何をすればいいか」を把握したあとは、戦術の細かな優先順位を考え、組織を団結させ、リスク要因を取り除き、ひたすらゴールを目指す。相変わらずリーダーの資質が話題になることが多いのは、近代化という大きな共通のゴールがあった時代の名残りだろう。何をすればいいかが社会全体で共有されていたから、単に資質を語るのが好まれてきたのだ。「わたしはこの会社を変えます」みたいなことを言う経営者はだいたいダメな人が多い。「わたしが日本を変えます」という政治家に対し、いつもわたしは「まずお前が変われ(代われ)」と思う。どう変えるのか、そのために何をするのか、優先順位はどうなっているのか、結果が出なければどう責任をとるのか、そういった具体的なことを言わないリーダーは信頼できない。
 ダメなリーダーに共通する特徴がある。訓辞や演説や会見において主語と述語がはっきりせず修飾語を多用するのもその一つで、最近だと、「命がけで」「しっかりと」「きちんと」「粛々と」などが流行っているようだ。】

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 ああ、これはあの人のことでは……と考えてしまう話なのですが、この文章は、東日本大震災以前に書かれたものです。

 こうして言われてみると、確かに「リーダーの資質」として、まず人格を語るのは、間違っているのかもしれません。
 「リーダー向きの性格の人」というのは、たしかに、「何をすればいいのか決断する能力」を持っているのでしょうけど、どんなに「決断力」があったとしても、その人に知識がなく、まともな選択肢を持たない場合は、どうしようもありません。
 間違った方向に「決断力」だけがある人が突撃していくのは、まさに悲劇。

 「いい人なんだけど、知識や決断力がないリーダー」よりも、「人格的には問題があるんだけど、とりあえず、『みんながやるべきこと』を具体的に示してくれるリーダー」のほうが、現場としては、はるかにやりやすいのは事実です。
 「あの人、けっこう人づかいが荒いんだよなあ……」なんて愚痴りつつも、その人がいないと困る状況というのはしばしばみられます。
 『カンブリア宮殿』や『プロフェッショナル〜仕事の流儀』に出てくる「リーダー」なんて、「この人の下で働くのは、しんどいだろうなあ」という人のほうが多いくらいですし。

 もちろん、性格が良くて、「やるべきこと」もちゃんと見えている人がリーダーであれば、それがベストではあるのですが、「リーダー」を選ぶときには、性格や言葉よりも、行動を重視すべきなのかもしれません。
 とくに、みんなが何をすべきか話からくなっている「有事」の際には。

 しかしながら、村上龍さんが指摘している「ダメなリーダーを見分けるためのキーワード」にあてはめてみると、いまの日本の政治家って、ほぼ全滅なのでは……
 



2011年04月12日(火)
長谷部誠選手が語る「カズさんがキングたる所以」

『心を整える。』(長谷部誠著・幻冬舎)より。

(長谷部選手が、プロ4年目に「カズ」こと三浦和良選手とはじめて一緒に食事をしたときのエピソード)

【カズさんはビシッとしたスーツ姿で現れた。あまりに緊張していたので、どんな店に行ったかまったく覚えていない。確か西麻布あたりのレストランだった。もちろん、すべてカズさんのセッティング。エネルギーに満ちあふれていて、17歳の年の差なんてまったく感じなかった。
 カズさんがキングたる所以は、メニュー選びのときに感じさせられた。野菜をたっぷり注文し、炭水化物はほとんど頼まない。試合の前はエネルギー源となる炭水化物を摂った方がいいけれど、普段は余計な脂肪がついてしまうからだ。やっぱりキングは違うと驚かされた。当然、デザートも食べない。
 僕はずっと聞きたいと思っていたことがいくつかあって、ここぞとばかりに矢継ぎ早に質問した。当時はまだ人見知りが激しかったけれど、さすがにカズさんの前ではモジモジしている時間がもったいなかった。
 カズさんは高1のときに単身ブラジルに渡り、さらにイタリアやクロアチアでもプレーした海外移籍の大先輩だ。当時、僕はヨーロッパリーグでプレーしたいという思いが強まっている一方で、はたして自分が通用するのかという迷いもあった。だから、素直にその気持ちを話した。するとカズさんは「絶対に行ったほうがいい。それもなるべく若いうちに行くべきだ」と言って、背中を押してくれた。同時に、生活面の不自由さやサッカー文化の違いといった海外挑戦の難しさもきちんと教えてくれた。当時はイタリア移籍の可能性もあったから、とても心強かったのを覚えている。もし、カズさんの一言がなかったら、僕は移籍のタイミングを逃してしまったかもしれない。
 それからもカズさんは定期的に声をかけてくれた。今までに計10回くらい、食事をさせていただいたと思う。ラモス瑠偉さん(現・解説者)が経営するブラジル料理店にも行ったりした。
 カズさんはみんなでご飯を食べていても、自分が決めていた時刻になったら、「じゃあ、明日練習だから」と言って帰っていく。まわりに流されず、長居はしない。やはり長く現役を続けている選手には理由があると思った。
 カズさんは今年44歳。まだまだ成長できる手ごたえがあり、そして、いまだ自分のプレーに納得していないのだと思う。僕もカズさんのようにサッカーを突きつめて、自分が納得するまで続けたい。そう思っている。】

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 現在(2011年4月)、ドイツ・ブンデスリーガのヴォルフスブルクに所属している長谷部誠選手は27歳。長谷部選手は藤枝東高校卒業後に浦和レッズに入団されていますから、この「カズさんとの出会い」は、いまから5年前くらいのエピソード、ということになります。
 先日のチャリティマッチでの三浦和良選手のゴールは、試合を観ていた多くの人たちを感動させました。
 僕はリアルタイムでは観ていなかったのですが、あのゴールを決めたあとのカズダンス、そして、そのあとのカズさんの喜びと責任を果たせた安堵と、そして祈りのこもった表情は、録画で観ても十分に伝わってくるものがあったのです。
 対戦相手の日本代表チームを率いていたザッケローニ監督も、「相手にゴールを決められて嬉しかったのは、いままでのサッカー人生ではじめてだ」と述懐していました。
 カズさんが決めたからこそ、あのゴールには、大きな意味があったのでしょう。

 僕は正直、三浦和良という選手が、あまり好きじゃなかったのです。
 言動は派手だし、いつもスター選手としてちやほやされ、夜は毎日遊び歩いているようなイメージを持っていたので。
 44歳になって、ほとんどゴールを決められなくなっても現役にこだわる姿は「往生際が悪い」とも感じていたのです。人気がある「キング・カズ」のおかげで、試合に出られない選手もいるだろうに、もうそろそろ、若い選手にポジションを譲ってやれよ、と。
 いや、三浦和良選手に限らず、スポーツ選手、とくに野球とかサッカーのような人気のあるプロスポーツ選手には、そんな先入観がありました。
 でも、この長谷部選手の本を読むと、世界で活躍しているサッカー選手の多くは、厳しく自己管理をしているのだということがわかります。
 現在ドイツで活躍している長谷部選手が、ヨーロッパに移籍している日本人選手たちと「同窓会」をしたときに、アルコールを口にした選手はひとりもいなかったそうです。もちろん、みんな「絶対に酒は飲まない」というわけではないようなのですが、試合どころか、練習の前日にもアルコールは「疲れがとれなくなるから」と口にしない選手が多いとのことでした。

 この「カズさんの話」を読むと、44歳になっても現役にこだわる三浦和良選手の「キング・カズとしての矜持」が伝わってきます。
 44歳、もうあと何年現役が続けられるかわからないし、いまはもう、トップレベルの選手だとは思われていないのに、厳しい食事制限を自分に課している男。
 そして、「みんなでご飯を食べていても、自分が決めた時刻になったら帰っていく」というのを聞いて、僕は驚いてしまいました。
 これって、「簡単なこと」に思えるけれど、実際にできる人は、けっして多くないはず。
 人間関係とかその場の雰囲気を壊すことを考えると、帰りづらいですよね、やっぱり。
 楽しく食事をしていたら、「帰りたくないな」と思うこともあるだろうし。
 でも、カズさんは、「プロサッカー選手であるために」帰っていくのです。
 立場上、「カズさんだから許される」のかもしれませんが、それにしても、なかなかできることじゃありません。

 それでいて、若手に対しては、真摯なアドバイスを忘れない。

 単に「長く現役にこだわっていること」だけが、カズさんの魅力ではなく、こういう「プロとしての執念」みたいなものが、カズさんを「キング」として輝かせ続けているんですね。



2011年04月07日(木)
「あなたはどう思いますか?」と訊くのと「国はどうするるべきだと思いますか?」と訊くのとでは、返ってくる答えが全然違うんです。

『ラジオの魂』(小島慶子著・河出書房新社)より。

(ラジオパーソナリティ・小島慶子さんが、1998年にはじまったラジオ番組『アクセス』のナビゲーターとして考えていたこと)

【番組ではいろいろなテーマをリスナーに投げかけました。「テレビのニュース番組は信頼できますか?」「過去に書かれた名作に登場する差別表現は撤廃したほうがいいと思いますか?」「伴侶を亡くしたときの覚悟はできていますか?」――。公的な問題から私的な問題まで、多種多様な投げかけをしましたが、いつも思っていたのは、設問の作り方ってとても大事だということでした。
 例えば、自衛隊をテーマにしたとしたら「あなたはどう思いますか?」と訊くのと「国はどうするるべきだと思いますか?」と訊くのとでは、返ってくる答えが全然違うんです。「国は……?」のほうが断然答えやすい。それは、遠慮なく批評や批判ができるからです。「国は自衛隊を持つべきだ」「いやそうでない、なぜなら……」と持論を展開できて、格好いい意見もいっぱい来ます。自分でない誰かが主語になると、人は思い浮かんだことをすらすらと言うことができるんですね。
 しかし、「あなたは……?」という風に投げかけると、バシッと明快に答える人は少なくなります。一挙に曖昧な答えが多くなる。「国が自衛隊ではなく軍隊を持ったら、あなたは軍に入りますか?」というような「あなたは」を問う設問には、歯切れの悪い答えがたくさん集まってくる。
 私はこの「歯切れの悪さ」がとても好きでした。「好き」と言うと語弊があるかもしれませんが、人が自分に向き合っている嘘のない姿を見ることができるようで、「いいなあ、最高だなあ」と思うんですね。人間の本音は、歯切れの悪いこと、白か黒かで答えられないことの中にしかない。堂々と、理路整然と、スパッと言い切ることができる考えや意見というのは、だいたいにおいて他人からの借り物や受け売りだったり、生活の実感とは遠いところにあるんですね。どんな問題でも「『誰か』ではなく、『自分』だったら?」と己に向かって問いかけてみると、必ず自分の中にある矛盾とか、奥底に沈んでいる嫌な部分にぶつかってしまう。直視したくないもの、しかも自分のそれを見るのは決して気持ちのいいことではありませんが、本音というのは「心地良くない作業」をしないと絶対に自分の中から発掘されないものなんです。
 リスナーに、そんな「心の作業」をさせるようなテーマを設定したい。だから設問の作り方、投げかけ方を工夫しなければと思いました。意見を寄せてくれる人だけでなく、聴くだけの人にもそのほうが心の真ん中に届くし、聴き応えがあるものになってくる。議論もリアルに、活発になる。番組が始まった当初からそう思っていましたから、ディレクターはときに喧嘩をしながら、テーマを作っていきました。話し合いをして、設問の言い回しを変えたことも何度もあります。】

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 小島慶子さん、先日『情熱大陸』に出演されていました。
 僕は、「小島慶子キラ☆キラ」という番組は聴いたことがないのですが(僕が住んでいる地域ではオンエアされていないので)、この本で語られている、小島さんの「ラジオというメディアへの信頼と覚悟」を読んで、あらためて「ラジオの力」というものについて考えさせられました。

 今回の大震災で、いろんな人が、さまざまな意見を述べているのを、ブログやtwitterなどで眺めているのですが、人間というのは、ネットのような「大勢に向かって発言できる舞台」に立ったとき、どうしても「格好いい意見」を言おうとしてしまいがちです。
 「日本は○○すべきだ」というのは、難しいようでいて、けっこう簡単なんですよね。
 自分に関係のないところであれば、「どちらかを選ばなければならないのだとすれば、1万人が犠牲になるよりも、100人が苦しむほうが良い」と、けっこう「客観的」に言ってしまいがちです。
 でも、そこで、「苦しむ100人」のなかに、「自分」や「自分の大切な人」が含まれていたとしたらどうでしょうか?
 それでも、何も悩まずに「正論」を振りかざせるのか?

 世の中には、「物事の中心から少し離れて、冷静に事態に対処するべき人」も必要です。
 僕がまだ子供だった頃、お葬式でずっとお金の管理ばかりしていた叔父さんを見て、「なんて冷たい人なんだ」と内心憤っていたことがあるんです。
 いま考えてみれば、そういう場では、誰かがそうやって、「事務的な処理」をしなければあとから様々な問題が出てくるので、あえて叔父はその役割を「悲しみの当時者から少し距離を置いて」やっていたのだということがわかります。
 そういう存在は、どんな状況下でもたしかに必要だし、自覚してそれがやれるというのは、すごいことなのだと思うのです。

 しかしながら、ネットで「正論」を振りかざしている人の多くは、自分もこのコミュニティの一員であるにもかかわらず、「当事者意識」を持っていないように見えるのです。
 「少し離れた場所から、当事者のひとりとして、自分のできることをやる」というのではなく、「最初から関係ない人間と自分を位置づけて、『正論』を吐くことにより、自分の正しさを証明しようとする」ことにばかり夢中になっているだけ。

 東電の社員がさまざまな嫌がらせを受けている、というニュースに対して、「もし自分の身内や友人が東電に勤めていたら…」と想像することもない人が、あまりに多すぎると僕は感じています。
 東京電力というのは、日本のなかでは、「珍しくもない大企業のひとつ」であり、東電だけモラルが破滅的に低い、というわけではないはずです(もちろん、「飛び抜けてモラルが高い企業」というわけでもないのでしょうが)。
 自分が勤めている企業で同じようなことが起こったとして、自分が嫌がらせをされても、「仕方がない」とあきらめられるでしょうか?

【どんな問題でも「『誰か』ではなく、『自分』だったら?」と己に向かって問いかけてみると、必ず自分の中にある矛盾とか、奥底に沈んでいる嫌な部分にぶつかってしまう。直視したくないもの、しかも自分のそれを見るのは決して気持ちのいいことではありませんが、本音というのは「心地良くない作業」をしないと絶対に自分の中から発掘されないものなんです。】

 微力ながら、僕はここで、「あなたはどう思いますか?」と問い続けたいと思っています。
 いや、「あなた」だけじゃなくて、「僕は本当はどう思っているのか?」と、自分にも問い続けるつもりです。
 「自分のこと」となると、なかなか財布から義援金を取り出せなかったり、ついついペットボトルの水を買い込んでしまうのが「人間」なのだし、それを自分で認めることからはじめないと、いつまでたっても、「当事者」にはなれないから。

 更新頻度は週に1回くらいが限界かもしれませんが、もうしばらく、ここで続けてみるつもりです。
 これからもよろしくお願いします。