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2011年02月25日(金)
「これから生まれてくる子供たちに観せる時に、『スター・ウォーズ』はどっから観せるのが正しいのかな?」

『たてつく二人』(三谷幸喜、清水ミチコ共著・幻冬舎)より。

(三谷さんと清水さんのラジオ番組『DOCOM0 MAKING SENSE(J-WAVE)』を書籍化したものの一部です)

【三谷幸喜:「スター・ウォーズ」なんかも、最初は僕らが大学生の頃に観たじゃないですか。

清水ミチコ:1ね。

三谷:1というか、3というか、4か。

清水:あれが初めて観る人の気を削ぐよね。「まだ『スター・ウォーズ』観てないんです」という人に説明する時に、「4からなんだけど、面白くって」って言っても「4から観るの? 面倒くさー」って顔してるものね。


三谷:これから生まれてくる子供たちに観せる時に、「スター・ウォーズ」はどっから観せるのが正しいのかな。

清水:そうなんですよ。私は作った順番でいいと思うけど。ああ、でもちょっと難しいかな。水道橋博士さんの子供なんかも全部観てるんだよね。1から観せたんだっけかな。

三谷:でも1から観せると、変な感じがしないかな。

清水:そうなんですよ。説明過多なんですよね。

三谷:やっぱり作った順がいいんですね。作る立場からいっても作った順番に観てもらいたいですもん。

清水:それをザッとCGで編集して観せるのはどうかな。

三谷:総集編ってこと? 一番ダメでしょ。

清水:今、総集編をけなしたけど、大丈夫? 総集編に携わっている人、怒るんじゃない?

三谷:スター・ウォーズの総集編はまだないですから。】

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 僕自身は、「作られた順番に観る以外の選択肢はなかった」ので、この「『スター・ウォーズ』はどこから観るべきなのか問題」で困った経験はありません。
 でも、まだ『スター・ウォーズ』をまったく観たことがない子供たちに、どういう順番で観せるのが一番良いのか?というのは、考えてみるとなかなか難しいですよね。

 もちろん、『エピソード3』や『エピソード5』から観るべきだ、という主張をする人はあまりいないでしょうから、実際には『1』と『4』のどちらを最初に観るべきか?ということになるのでしょうけど。

 ストーリー上の時系列でいえば、『1』から『6』だし、制作年でいえば『4』〜『6』のあと、『1』〜『3』を観るべきだ、ということになります。
 ただ、『1』〜『3』を先に観てしまうと、『4』〜『6』というのは、どうしてもCGが安っぽく見えてしまうと思うんですよ。だからといって、映画の本質的な面白さには関係ないのかもしれないけれど、やっぱり、気になるところではあります。
 『4』〜『6』の知識がなくて、『1』を観ると、「説明過多」に感じてしまうというのは、これを読んで「なるほど」と思ったところです。僕はそれを意識したことはなかったのですが、『4』へのつながりをアピールするためのキャラクターや説明は、『1』からはじめて観る人にとっては、たしかに「説明過多」に感じられるかもしれません。
 制作した側も、『1』〜『3』の観客は、『4』以降を知っているものだという前提でつくったのでしょうし。

 そう考えてみると、やはり制作年順、『4』からが「正解」なのではないか、と自分がその観かたをしているだけに考えてしまうのです。
 でも、これから観る人にとっては、「なんでわざわざ先のストーリーを知ってから、過去の話に遡らなければならないの?」というのが「普通の感覚」なのかもしれませんね。

 さて、僕の息子には、どんな順番で観せるべきなのか?
 まあ、「そんな古い映画になんか興味無いよ」って言われてしまう可能性も、少なからずあるのですけど。



2011年02月17日(木)
「人間というものは本質的に理解できないものかもしれないという、畏れ」こそが映画である

『本に埋もれて暮らしたい〜桜庭一樹読書日記』(桜庭一樹著・東京創元社)より。

【さっきお風呂で読んでた沢木耕太郎が、『17歳のカルテ』の映画評で”犯罪事件の報道などで登場する、ある種の精神科医は、どんな人間のどんな行動も理論で説明できると思ってるよう”だけど、”人間というものは本質的に理解できないものかもしれないという、畏れ”こそが映画である、というようなことを言ってた。小説のほうを読み終わって、それを思い出して、いいこと言ってたー、と風呂まで沢木耕太郎を取りにいった。
 わたしもよく、理屈っぽくいろいろ考えるけども、でも小説も理屈を書いたり読んだりするものじゃない。ある現象があって、それを理論にして、分析して、とずーっとやっていると、最後に「どうしても理論では太刀打ちできない、不思議でおそろしいもの」が、ちょっとだけ、残る。それが小説の核だ。だからその一粒をみつけて糧にするために、ずーっと、ずーっと、一人で考えてるのだ。理屈というのは、その一粒をみつけるため、現実をふるいにかける網でしかない、と思う。】

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 最近、『逮捕されるまで』という、市橋達也容疑者が逃亡生活について自ら書いた本を読みました。
 その本のなかで、市橋容疑者がテレビで自分の居場所を探す「超能力捜査」を観て、そのあまりの的外れっぷりにあきれる場面がありました。
 そういう「怪しいもの」だけではなくて、「プロファイリング」などの科学的に確立された手法もあり、実際の捜査に行かされているのも事実なのですが、「テレビに出ている精神科医による分析」の信頼度は、現時点ではまだ、「超能力捜査寄り」だと考えるべきなのかもしれません。

 精神科医の分析ですべてわかるようであれば、地道な捜査も取り調べも必要ないはずですし。

 でも、そういう「理屈」の面を全く無視してしまっては、行き当たりばったりの思いつきにしかなりません。
 桜庭さんは「理論では説明できないものを見つけだすためには、理論が不可欠なのだ」と仰っていて、これはたしかにその通りだなあ、と思います。
 科学が無い世界では、「非科学的なもの」が存在しないのと同じですよね。

 いやほんと、人間って、わからないものです。
 僕は最近、自分で自分の「本心」みたいなものが、わからなくなることがあるのです。
 ましてや、他人を完璧に「理解」することなんて、やっぱり不可能ですよね。
 その一方で、データをどんどん増やしていけば、「100%的中する行動予測」みたいなことが可能になるのではないか、という気持も、まだ捨てきれないのですが。



2011年02月10日(木)
「駆けっこ競走で転んだ子どもを気づかう子どもと、ひたすらゴールを目指す子ども、いったいどちらが正しいのか?」

『生きるチカラ』(植島啓司著・集英社新書)より。

【こうした社会では、どんどん価値観が壊されていく。たとえば、公園で見知らぬ人に道を聞かれて、教える子ども、逃げる子ども、どちらが正しいのかと聞かれても、すぐには答えられなくなっている。学校では、知らない人には親切にしてあげなさいと教えられるのに、家庭では、知らない人に声をかけられたら気をつけなさいと教えられる。子どもでなくてもどうしていいのかわからない。ひろさちや『「狂い」のすすめ』(2007年)にもあったと思うのだが、駆けっこ競走で転んだ子どもを気づかう子どもと、ひたすらゴールを目指す子ども、いったいどちらが正しいのか。転んだ子どもは気の毒だけど自己責任だからといって、自分の子どもにはひたすらゴールを目指すように教える親のほうが、いまや多いにちがいない。まだ駆けっこ競走だからいいけれど、もし入試の朝に一緒に学校に向かっていた友人の具合が悪くなったりしたら、いったいどうしたらいいのか。時間は迫るけれど、友人を見捨てることもできない。こういう場合、あなたは子どもたちにどのようなアドバイスができるだろうか。】

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 この冒頭の「こうした社会」は、「少しの可能性のリスクにも過敏になっている、潔癖な社会」というような内容です。
 ここで植島先生が書かれていることは、僕も子どもの頃、疑問に感じていたし、自分が大人になってみると、「こういう矛盾したことを、子どもにどんなふうに伝えたら良いのだろう?」と悩んでしまいます。
 少なくとも僕が子どもの頃から現在までの40年近くのあいだ、日本の大人たちは、この矛盾を明確に解決することはできていないし、社会がどんどん「潔癖に」なっていくにつれて、「学校では、知らない人には親切にしてあげなさいと教えられるのに、家庭では、知らない人に声をかけられたら気をつけなさいと教えられる」機会は増えていっているのです。

 教科書には「人を見れば泥棒と思え」とは書けないし、人間の理想としては「困っている人は助けてあげる」べきなのだけれども、そういう「無防備な親切心」が危険な場合もあることを僕たちは知っています。
 「変質者にいたずらされる危険性」と「道がわからなくて困っている人を助けようという心を育てるメリット」のどちらをとるべきか?
 子どもの場合は「相手を見て、ケースバイケースで判断するように」というわけにはいかないでしょうし……

 僕が子どもの頃は、「知らない人についていってはいけないけれど、困っている人には親切にするんだよ」というのが「一般的な大人のスタンス」だった記憶があります。
 でも、いまの世の中には、「さらわれたり、いたずらされたりする可能性があるから、とにかく、知らない人には近づかないように」と教える大人が多いはず。

 僕はどうかなあ……これを読みながら考えてみたのですが、やはり、子どもが「ひとり歩き」できる年齢になれば、「知らない人には近づかないように」「ひとりにならないように」と伝えるのではないかと思います。
 そうしないと、万が一のときには、自分がどんに後悔しても、取り返しがつかないだろうから。

 その一方で、そういうリスクを避けるために、子どもの「思いやりを育てる機会」を失ってしまうのではないか、という懸念もあるのです。

【もし入試の朝に一緒に学校に向かっていた友人の具合が悪くなったりしたら、いったいどうしたらいいのか。時間は迫るけれど、友人を見捨てることもできない。こういう場合、あなたは子どもたちにどのようなアドバイスができるだろうか。】

 僕は、そういうときには、自分の子どもが、友人のために試験を犠牲にするような人間になってほしい、と思っているのです。
 しかしながら、山で遭難して、「友人がつかまっているザイルを切らなければ、自分も一緒に落ちて死んでしまう」というときには、やっぱり、そのザイルを切って、生き延びてほしい。

 ほんと、大人になっても、いや、大人になればなるほど、世の中、白黒つけられないことばかりですね。



2011年02月03日(木)
「それでは、博士が考える、一番環境に優しいものって何です?」

『森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!』(森博嗣著・講談社文庫)より。

(森博嗣さんが、『日経パソコン』という雑誌に2005年から2008年まで連載されていた「会話形式の科学問答」をまとめた文庫の「環境に優しい」という項から)

【助手「地球にとって良いことというのは、何なんですか?」

博士「うん、ようするに、人類が長く住めるような環境であることだ」

助手「え、そうなんですか? それじゃあ、地球じゃなくて、本当は人類に優しいのですね?」

博士「人類が死滅したって、地球はべつにどうってことないだろう。かえってせいせいしているかも」

助手「科学者とは思えない発言ですけど」

博士「僕はエンジニアだ」

助手「電気自動車とか、それから、キッチンを全部電化したりするのが、環境に優しいことですか?」

博士「わからん」

助手「また、専門外ですか?」

博士「電気自動車やオール電化は、その近辺では、たしかに空気が汚れない。だが、電気は発電所でつくられている。そこでは、石炭や天然ガスが余分に燃えることになる」

助手「一箇所で燃やした方が効率が良いとかってことは?」

博士「しかし、送電のロスはある。それに、発電が余分になっても、電気は溜めることができない」

助手「ソーラーパワーはどうです?」

博士「太陽光発電のシステムを作るためにエネルギィが消費される。地球環境的に、元が取れるかどうかは、わからない」

助手「じゃあ、えっと、あ、リサイクルは、環境に優しいでしょう?」

博士「リサイクルできるからって、大手を振って新しいものが出てくるが、リサイクルにも、エネルギィがかかるものが多い。だから、地球環境に本当に優しいかどうかは、よくわからない。とにかく、広く、そして長い目で見ないとね」

助手「それでは、博士が考える、一番環境に優しいものって何です? 核融合とかなしですよ。今あるものの中で、です」

博士「うーん、難しいな、まあ、最近のものでは、インターネットがそうじゃないかな」

助手「え? ネットがですか? これのせいで電気をばんばん消費していませんか?」

博士「人間が移動しなくてもよくなっただろう? 少なくともその基礎を築いた。将来エネルギィ消費を減らす可能性がある。しかし、それよりもっと大切なことは、人間の数を減らすことかな。それが一番地球に優しいし、人類にも優しいだろうね」】

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 いまの日本で生活していると、「エコ」という言葉を目にしない日は、まず無いと言っていいでしょう。
 マイ箸からエコカーまで、「環境に優しい」イコール「正しい」。
 しかしながら、いろんな本を読んでいると、「エコカーが環境に優しいとは言うけれど、その車を造るために使用されるエネルギーを考えると、『車に乗らないこと』と比べれば、けっして環境には優しくないのでは?」とか、「リサイクルのために使われるコストも含めれば、むしろ『使い捨て』のほうが、エネルギー消費が少ない場合もある」なんて話もあるようです。
 結局のところ、「環境に優しい」が流行るのは、人類のためというよりは、そういう商品のイメージが、消費者へのアピールになり、実際に売れるから、という面があることも否定できません。

 ここで書かれている、「人類滅亡(あるいは人口減少)」というような、人類の一員としては、理解はできるけれども受け入れがたい選択肢を除けば、「一番環境に優しいのは、インターネットだ」という主張は、最初に読んだとき、かなり驚いてしまいました。
 でも、言われてみれば、確かにそうなのかもしれないなあ、と頷かずにはいられない視点です。

 インターネットのおかげで、人や情報が移動するためのエネルギーの消費は、かなり減ったのは間違いありません。
 ネット時代の前は、必要な論文を探すために図書館に車で行って、郵便で取り寄せたものを手に入れるために、また車で出かけていたものです。
 もっと昔の時代の人は、一冊の本を読むために、長い旅をしなければならない場合もあったでしょう。
 そういうふうに考えていくと、インターネットというのは「エネルギーと時間を際限なく食いつぶしている」ように思われるけれども、実際は、かなりの省エネルギーになっているはずです。

 その一方で、「いろんなものがネットで手に入るようになった」ために、これまでは手が届かないと諦めていたものに対する欲求が抑えきれなくなっで、欲望の総和が増した面はありそうですし、「自分では直接手の出しようがない世界の出来事」を「知ることだけはできる」というストレスを抱えざるをえなくなったのも事実ではあるのですけど。