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2010年08月28日(土)
『ゴルゴ13』が無口になっていった理由

『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代』(さいとう・たかを著・新潮社)より。

【ゴルゴにしろ、無用ノ介にしろ完璧とは程遠く、スーパーマンになりたいという願望、あるいはスーパーマンになりそこなった人物なのだ。ゴルゴも無用ノ介も世間に背を向けたその生き様を納得しているわけではない。自分の弱さに慄き、もがきながら自分自身と折り合いをつけて生きている。私にもお袋の嫌った絵を生業としているという後ろめたさがあり、そのやるせなさを糧に劇画道をまっしぐらに歩み続けている。ゴルゴにも無用ノ介にも、そんな私のDNAがしっかり受け継がれているのである。
 そういった意味では、どの作品の主人公も私にとっては、わが子同然の存在。女性は謎だらけとは言うものの、女性と同じように生みの苦しみと喜びを経験してきた。彼らが人間の子どもと違うのは、多くの読者に見守られて成長したということ。もちろん、世間様に受け入れられるよう道筋はつけてやらなければならない。これもまた人様と同じで、盲目的な愛し方をするとうまく育たない。時には突き放さないと主人公を冷静に描き切れなくなり、思いも寄らぬ方向へと物語がころがっていってしまうのだ。
 そのことを嫌というほどに思い知らされたのが無用ノ介だった。賞金稼ぎを生業としているということは、紛れも無くアウトローである。しかし、根っからの悪人になりきれず、同じ非道を歩む巨悪と対峙する羽目に遭い、ついお人好しを演じてしまい、時には他人のために涙するおセンチな一面を覗かせたりする。無論、人の道を外れた賞金稼ぎに違いはない。それは百も承知なのだが、そんな人間味あふれる無用ノ介にほだされて、つい、こんなことは言わせたくない、させたくないと書き手までが心揺さぶられ、おセンチになってしまう。終いには、なんとか賞金稼ぎというやくざな稼業から足を洗わせる方法はないものかなどと、それこそ無用な悩みに振り回されることがしばしばあった。
 そんな自分がもどかしく、無用ノ介をおセンチ劇画と呼び自戒していたのだが、連載終盤はがんじがらめで息苦しさに喘ぎ続けていた。言わずもがな、無用ノ介が賞金稼ぎをやめた時点で劇画の幕は下りてしまう。つまり、私の無用ノ介溺愛が行き詰まりを招いてしまったのだ。
 この苦い経験から、ゴルゴ13とはできるだけ距離を置いて書くように気をつけた。それっでも連載スタート当時は、今よりも口数はかなり多かった。自分の感情を何げない時にポツリと呟いたり、他人に対して意見めいたことを言ったりしたこともある。しかし、距離を置くことでどんどん台詞を減らしていった。ゴルゴの職業柄、無用ノ介と同種の悩みを抱えてもおかしくなかった。それでも彼はそれを口にしないし、思わせぶりな行動も起こさない。いたって冷静にプロの狙撃手としての体面を保っている。
 その結果、ゴルゴはあのような口数の少ないキャラクターに育ち、仕事に不必要なことはほとんどしゃべらなくなり「……」と表現されることが多くなった。この独り言ともつぶやきともつかぬゴルゴ13の「……」は、読者それぞれで解釈していただいて一向に構わない。
 ファンレターの中にも、ゴルゴ13の誰にも聞こえないはずの「……」のつぶやきをその人なりに解釈してくれたものが少なくない。なかには作者の私が思いつかないような見事な台詞をゴルゴに言わせてくれる人もいて、それはそれなりに面白く、楽しみにしている。
 期せずしてゴルゴの「……」は、読者参加的な試みになっている。その試みが、ひいては読者の主人公に対する愛着にもつながるのではないだろうか。もし、そうだとしたらこれ以上に劇画作家冥利に尽きることはない。時分の子どもが社会に出て様々な人と出会い、成長していくように、作品もまた読者に触れることで、作者という親の想像を超えるほどに発展するものだ。】

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 「自分の作品の登場人物は、子どもみたいなものだ」という話はよく耳にするのですが、キャラクターへの思い入れが強くなりすぎるのも、いろいろと大変な面もあるようです。
 あまりにキャラクターが可愛くなりすぎて、スポーツマンガの主人公が圧倒的な力で相手を寄せ付けないなんて話や、恋愛マンガでくっついたふたりが、ずっと相思相愛で波風が立たないなんて話を描いてしまっては、読者のほうがあきれてしまうでしょうし。

 それでも、スポーツマンガや恋愛マンガであれば、最終的には作者が生んだキャラクターを幸せにすることが可能なのでしょうが、『ゴルゴ13』の場合、たしかに、『ゴルゴが正義の味方になってしまう』と作品そのものが終わってしまう。作者の気持ちを代弁する存在として、「あれもこれも喋らせたい」という衝動を抑えるためには、徹底的に無口なキャラクターにするしかないのかもしれません。

 『ブラック・ジャック』も、途中からは「いい人」描写が増えていきましたが、「手術料は3000万円!」という決めゼリフがないと、「らしくない」のも事実。手塚先生も、いまさらどんどん悪人方向にはもっていけないけれど、だからといって、普通の「いい人」になってしまってはマンガにならない、という迷いがあったように思われます。

 僕は『ゴルゴ13』の最初のほうの巻はあまり読んだことがないのですが(基本的に1話完結なので、途中の巻だけ読んでも違和感がないのは『ゴルゴ』の魅力のひとつだと思います)、ゴルゴが昔はもうちょっと饒舌だったというのは意外でした。
 作者のさいとう・たかをさんが、ゴルゴを「なんとかまっとうな人間にしてやれないものか」と悩めば悩むほど、「……」が増えていくというのは、漫画家の「生みの苦しみ」をよくあらわしているように思われます。
 読んでいる側としては、それでもなんとなく、「今度はちょっとプライベートなことが明かされたりするんじゃないか?」とか期待していたりもするものなのですけど。

 ちなみに、この本の巻末で、さいとう・たかをさんのことを、「戦友」である藤子・不二夫A先生は、こんなふうに仰っておられます。

【さいとう氏とは、どういうわけかウマがあった。僕とさいとう氏、石森氏(故・石ノ森章太郎)でずいぶんいろいろ飲み歩きました。銀座なんかで飲んでも、僕の場合は飲んじゃうと締め切りがあろうが何があろうが朝までってことになっちゃうんだけども、その点、さいとう氏はいさぎいいというか、ここまでという感じでぱっといなくなる。お酒で乱れたなんて姿を見たことは一度たりともない。何十年と一緒に飲んでますけど、それは今でも変わらないね。時分をきちんと律しているところは、とにかくかっこいいんですよ。まさに、ゴルゴ13そのまんまという感じがします。】

 お酒が嫌いじゃない人であれば、このさいとう先生の「いさぎよさ」が、いかに凄いことかお分かりいただけると思います。
 「一滴も飲めない」人ならともかく、酒好き、飲み好きなのに、飲んでもこれだけしっかり自分を律することができる人は、そうそういません。
 そう考えると、やっぱり、ゴルゴにはさいとう先生の遺伝子が組み込まれているのでしょうね。



2010年08月18日(水)
AV界の帝王・村西とおる監督の「新人女優をビデオ出演させる口説きのテクニック」

『心を開かせる技術』(本橋信宏著・幻冬舎新書)より。

【応酬話法というコミュニケーション技術があります。
 主に営業の世界で、新人に教育される、営業用トークのことで、営業マンならたいてい、マニュアル本を渡されて、先輩社員からしごかれるものです。
 客からの質問や反応に応答するための基本的なセールス・トークで、最も大切な話法です。
 セールスするとき、客が「いま、欲しいものではない」と答えれば、営業マンが「いまのうちから備えておいたほうが差がつきます」と対応する。あるいは「ちょっと高いからいりません」と断られた場合、「使い方次第で、どんどん割安になります」と答える。
 このように、どんな客の断り方でも、対応して商品を売るトークを応酬話法といいます。
 基本は、この商品を持つことによって、あなたはメリットを享受できる、ということをどんな方向からでも説明できることです。
 そしてこの話法をさらに磨き上げ、究極の応酬話法に仕上げ、成り上がっていった人物がいます。
 AV界の帝王と呼ばれた、村西とおるです。
 彼は福島県の工業高校を卒業後、池袋の「どん底」という飲み屋で働き、後に百科事典や英会話教材のセールスマンになります。持って生まれた話術が花開き、月に4セット売れれば上出来の世界で、月に40セット売り上げる、という驚異的セールスを達成します。
 彼が秀でていたのは、単なるセールストークの応酬話法を、生きていく上での決定的な話法として完成させた点でした。
 「だいたいお客が断る理由というのは、たくさんあるようにみえて、実際は5つか6つ、いや、もっと絞り込めば3つ程度なんですよ。
 ちょっと高い。いまは必要じゃない。興味がない。商品セールスの場合、だいたいこの3つなんです。だったら、この3つに対しての答え方を準備しておけばいい。あとはその応用なんです」
 彼は後に、村西とおるというAV監督になるのですが、当初は素人の悲しさゆえ、まったく売れない時期がつづきます。
 横浜国立大生黒木香との共演作「SMぽいの好き」が世間を騒がせ、AV界の帝王といった異名を持つようになるのですが、村西監督が異彩を放ったのは、新人女優を相次ぎビデオ出演させる口説きのテクニックでした。
 他の監督ではなかなか首を縦に振らなかったOLや女子大生が、村西監督の面接にかかると、あっけなく出演を承諾してしまう。
 いったい彼の口説きとはどんなものだったのでしょうか。
 多くのビデオ関係者が悔しがった村西とおるの説得術というのが、彼が完成させた応酬話法だったのです。
 前章で述べたように、AVに出ようとする子たちは、ほとんどが親に内緒で出ようとします。彼女たちにとって、最も頭を悩ませる問題が、親に知られる恐れ、いわゆる“親バレ”です。
 村西監督は、面接のときに応酬話法でどう切り出すのでしょう。
 いきなり両親の話を持ってくるのです。
「素晴らしい! とてもチャーミングな笑顔、そしてそのナイスなバディ。素晴らしいですよ。こんなファンタスティックなスタイルは、不肖村西とおる、いまだかつて見たことがありません。素晴らしすぎる! そのバディ、張りそってます、張りそってますよ。うーん、ナイスですね。でもね、いいですか。あなたのその素晴らしい肉体は、決してあなたが努力して築き上げたものではないんですよ。あなたの素晴らしい肉体は、ご両親からいただいたもの、ご両親があなたを産み育てたからなんです。あなたはまずお父さんお母さんに感謝してください。わかりましたね。あなたの努力はその後なんです。これからなんですね」
 この会話にはすでに応酬話法のすべての要素がふくまれています。
 まず、いきなり最大の問題点である親バレについて避けることなく、みずから冒頭に持ってきています。親の問題を避けることなく、あえて話題のテーマに掲げるところに、村西監督流応酬話法の凄みがあります。
 お父さんお母さんの存在によってあなたが生まれた、という事実を認識させることで、女の子が抱いている親バレの恐怖をいきなり払拭してしまいます。】

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 名インタビュアーとして知られる本橋信宏さんが、村西とおる監督から得た「村西とおる流・口説きのテクニック」。
 この項で、本橋さんは、村西監督の「応酬話法のポイント」として、

(1)最大の問題点を後回しにすることなく、冒頭に持っていく。
(2)問題点を逆にメリットに変えてしまう。
(3)自己の存在を刺激する。
(4)相手を徹底して賞め称える。
(5)ユーモアを忘れない。
(6)運命的な縁を感じさせる。

という6つを挙げておられます。
なるほど!と思いつつも、これを徹底的に実行するのはかなり難しいことですし、それができたからこそ、村西とおる監督は「帝王」になれたのでしょう。

 この話を読むと、誰かを「説得する」ときに、僕がいままでとってきた態度や話し方は、あまり効果的ではなかったということがよくわかります。
 仮に、僕がAV出演を口説く機会があったとすれば、まず、「親は親、あなたはあなただから、親のことは関係ないですよ」とか言ってしまいそう。
 でも、もし自分が口説かれるほうの立場だったら、そんなふうに言う人を信頼できるかというと、「他人事だと思って、適当なことばっかり!」って不信感を抱くと思います。
 有名になるため、お金を稼ぐため、あるいは自己表現のためにAVに出るのだから、成功すればするほど、”親バレ”は避けられないはずだし。
 まあ、村西監督だって、「内心出演しようかなと思っている女性を勇気づけ、一歩前に踏み出させている」だけで、本当に親に対して責任を取っているわけではないでしょうけどね。

 実際に、僕がこんなふうに女性を「口説く」機会は無いとは思うのですが、この「村西とおる流・口説きのテクニック」は、うまく使える人にとっては、すごく便利なはず。
 そして、他人を「説得する」場面においても、「相手が不安に思っていることを誤魔化したり、話題にするのを避けるよりも、あえて、『そこに斬り込み、相手をこちらのペースに引き込んでしまう』ことも、不可能ではない」のです。
 いや、もちろん「誰にでもできる」ってわけじゃないし、村西監督だって、狙った相手を全部ビデオに出演させることはできなかったとは思います。
 それでも、「こういう説得法もあるのだ」というのを頭に入れておいても損はないはず。

 そう言いながらも、僕は内心、こんな「そのバディ、張りそってます、張りそってますよ。うーん、ナイスですね」なんて口説き文句で、脱いでしまう女性が大勢いたというのが、信じられない気持ちもあるんですけどね……
 だからこそ、「誰もマネできない」のかもしれませんが。



2010年08月11日(水)
日本のメディアにおける一番の長寿番組「ラジオ体操」の歴史

『まだある。こども歳時記 夏休み編』(初見健一著・大空出版)より。

(「ラジオ体操」の歴史について)

【「ラジオ体操」がはじめて放送されたのは、1928年のこと。放送局は東京中央放送局。言うまでもなく現在のNHKだ。多くの人が、「ラジオ体操」を考案し、主催しているのもNHKだと思っているようだが、実は違う。
 考案したのは、逓信省簡易保険局(現在の株式会社かんぽ生命)の課長さんたち。1920年代初頭、アメリカのメトロポリタン生命保険会社が「健康体操」なるものを開発し、ニューヨーク、ワシントンなどでラジオ中継していた。日本の「ラジオ体操」は、これを参考にしたものだという。つまり、逓信省簡易保険局が開発・提唱し、NHKが番組として全国に普及させたわけだ。
 なぜ逓信省が体操を?と思うかもしれないが、保険業務は被保険者が健康でなければ安定しない。特に肺結核や伝染病で亡くなる人が多かった時代には、生命保険会社が国民の健康支援を担うことも多かったのだそうだ。
 日本の「ラジオ体操」は、まず各地の小中学校に普及した。学校で体験した子どもたちによって家庭に持ち込まれ、大人たちにも浸透していく。そして1930年、東京・神田の万世橋署児童係巡査が、「長期休暇中の子どもたちに規則正しい生活を身につけさせたい」と、夏休み期間中の「ラジオ体操会」の実施を思いつく。この活動が神田地区全体に広まり、NHKが大きく取りあげて全国に広めた。その後は各地に「同好会」が生まれ、「ラジオ体操」は夏休みの早朝につきものの行事として定着した。
 が、戦時中は「国民心身鍛錬運動」の様相を呈し、敗戦後にはGHQから警戒されることになる。アメリカ兵たちの目には、リーダーの号令によって群衆がいっせいに同じ動きをする様子はかなり異様に映ったようだ。「民主的でない」と禁止令が出て、放送は中止。ここで「ラジオ体操」の歴史は一度途切れてしまう。
 そして1950年、新たな体操の考案が検討されはじめる。このころになるとGHQの態度も軟化していたようで、翌51年、内容を一新した「新ラジオ体操」が再スタートを切る。これがわれわれ世代にもおなじみの「ラジオ体操第一」だ。
 53年7月には「夏期巡回ラジオ体操会」が開始され、夏休み期間に全国四十数か所で実施。この様子がラジオで実況中継された。以降、戦後に生まれた新たな「ラジオ体操」も全国規模で親しまれるようになる。大阪万博が開かれた70年には、万博会場内「お祭り広場」で「1000万人ラジオ体操祭」が開催されるなどして、日本人なら知らない人はいない、どころか、体験していない人はいないほどの「国民的体操」と呼べるまでになった。
 初回の放送から約80年。現在、「ラジオ体操」は日本のメディアにおける一番の長寿番組だ。】

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 いまや大人になり、一児の父親にまでなってしまった僕は、毎年この時期になると、「ああ、夏休みがある小学生はうらやましいなあ……」なんて思うのです。
 でも、これを読んでいて、思いだしてしまいました。
「ああ、小学生にも『ラジオ体操』という、めんどくさい毎朝の足枷があったなあ……」と。

 世の中には、「ラジオ体操をものすごく真面目にやる小中学生」というのもいるのかもしれませんが、少なくとも、僕の周囲はみんな「あんなかったるいこと、やってられねーよ」という態度をとっていました。
 校庭で体育教師が「もっとまじめにやれ!」と怒鳴っているのを横目に、手や足を極力小さく動かして、ギリギリ怒られないレベルの「省エネ体操」。
 どうしてこんな、誰も喜んでいないものが長年続いているんだ?とかねがね疑問だったのですが、現在でも続いているんですね、ラジオ体操。
 まあ、自分が大人になってみると、「子どもに規則正しい生活をさせたい」という気持ちは、わからないわけでもないけれど……

 これを読んでいると、ラジオ体操のルーツはアメリカで、それを日本が採りいれた、ということのようなのですが、むしろ、日本でのほうが広く普及してしまったようです。
 「アメリカ兵たちの目には、リーダーの号令によって群衆がいっせいに同じ動きをする様子はかなり異様に映った」というのは、ちょっと皮肉な話。 当時のアメリカ人にとっては、現在の日本人が北朝鮮のマスゲームを観たときと同じような印象を受けたのかもしれませんね。
 もし小学校時代の僕がこの話を聞いていたら、「軟化せずに、ラジオ体操を撲滅しておいてくれよ、GHQ……」と嘆いたのではないかと思いますが。

 それにしても、これだけ長い間続いているというのは、やっぱりどこかに「ラジオ体操大好き!」という人がいるってことですよね。それも、一人や二人じゃなく。僕はそんな人に会ったことないのですけど。



2010年08月02日(月)
日清『ラ王』の栄光と挫折

『カップヌードルをぶっつぶせ!』(安藤宏基著・中央公論新社)より。

(安藤宏基・日清食品ホールディングスCEOによる、『ラ王』開発秘話)

【インスタントラーメンの場合、ちょっと面白いマーケティング・アイデアで百億円を売ることはできる。しかし、五百億円を売り上げようと思ったら、いくらインスタントとはいえアイデアだけでは無理である。商品に新しい付加価値をつける技術革新がどうしても必要になる。「ラ王」の開発に当たっても、生めん独特の味わいを表現し、なおかつ長期間の保存に耐えるようにするため、技術的な壁をいくつかブレーク・スルーしないといけなかった。プロジェクトチームは当時の中央研究所長だった山崎眞宏の指揮下にめんの担当者として法西皓一郎、赤松伸行、田渕満幸らがついた。めん一筋の名うての変人たちである。
 生めんは当たり前のことだが水分が多い。菌の管理が不十分だと、雑菌が繁殖してカビが生えることもある。だから賞味期限は長いものでも1ヵ月から40日程度である。これを5か月保存に耐えられるめんにする必要があった。
 そのために、まず、めんに酸性の処理をほどこし、長時間殺菌し、完全密封包装する。酸性処理すると、菌の発生は抑えられるが、ラーメン独特の風味とコシをつくる「かん水」がアルカリ性なので、中和されてコシも粘りもないめんになってしまう。そこで、めんを形成している小麦粉タンパク「グルテン」の網状の構造を、酸性下でも弱くならないように強化する必要があった。
 めん開発のリーダーとして働いたのは、オペラ座の怪人ならぬ「めん小屋の変人」と言われた法西皓一郎だった。この人はインスタントラーメンがJAS認定されたときに規格基準を作る仕事に参画して以来、技術一筋の生き字引で、後に日本即席食品工業協会の技術委員長を務めて、業界の発展にも貢献した。
 法西は「賞味期限を5か月にするためにめんを酸性化すると、かん水のアルカリ反応が抑えられます。pH5.5で保たないといけないんですが、そうするとまったくめんのコシがなくなるんです」と嘆いていた。
 pH(ペーハー)とは、酸性、アルカリ性の濃度を示す数値で、pH値が小さいほど酸性が強い。相手は化学者の常識で判断しているのが分かった。しかし私は素人である。専門的知識がないから、何でも言える。
「だっらら酸性下でもコシを生む材料を探せばいいじゃないか」と進言した。
「そりゃ、無理ですよ」と言い張る。
「なぜ無理なんだ」
 そんな押し問答が続いた。
「なぜ」と聞いても、答えはなかった。
 そうこうするうちに、田渕満幸が君津化学から「アルギン酸」を持ち帰ってきた。アルギン酸は海藻から作る増粘多糖類の一種で、水に溶けると粘りやとろみを増す効果があり、物質を固くするのに使われる。法西が重い腰を上げた。これをめんに入れてみた。固すぎて、白玉団子のようでとても食べられない。
「三層めんの技術を使えないのか」と私が提案した。三層めん技術は、もともと日清食品が保有している特許だった。
「単層めんだから固くなります。これを三層めんの中心に入れて、周りをでん粉のようなやわらかいもので包めばできるかもしれません」
 このプロジェクトのために急遽、資材部から研究所に呼び戻された赤松伸行が意欲を示した。
 5月のゴールデンウイークが近づいてきた。
「連休返上でがんばってくれ。成功すれば特別休暇を出す」とハッパをかけた。
 プロジェクト・チームの努力があって、連休明けにはpH5.5の状態でも食感のいい生タイプのラーメンができあがった。三層になっためんの上下に「つるみ」、真ん中にアルギン酸を入れて「コシと粘り」を作るという独自な配合に成功した。これをわれわれは「スーパーネットワーク製法」と称し、十件の特許として登録した。
 技術的な壁をブレーク・スルーするには、化学者や技術者の常識を壊すような素人の発想が意外に役に立つ。極限まで技術者を追い込んで、技術者の頭がいったんリセットされた時に、新しい発想が生まれてくる。これがブレーク・スルーの臨界点だと私は思う。ラ王開発に貢献した赤松は現在、日清化成社長、田渕は横浜研究所長マイスターになっている。
 満を持して発売したラ王の価格は、250円に設定した。この高価格ではたして売れるのか不安はあったが、発売するとすぐに、コンビニでは「ラ王みそ」「ラ王しょうゆ」の2品がカップヌードルを抜いて売り上げ1位と2位を争う展開になった。私が「打倒カップヌードル」を提唱してから初めてのことだった。支持層は他のカップめんの購入層が10代の若者中心であるのに比べて比較的年代層の高い男性であることが分かった。
 このとき、大変ユニークな宣伝戦略をとった。まず、ラ王のヘビー・ユーザーが20代から30代の男性で、彼らがテレビを最も見ている時間帯が深夜であることを突き止めた。この時間帯はゴールデンタイムにくらべると番組提供料金やCMのスポット料金が安い。そこで「深夜ジャック」と称して、全国ネットされる深夜番組の大半を買ってしまったのである。番組の前後に「提供・日清ラ王」というテロップが流れた。赤井秀和氏と金山一彦氏を起用したCMは、二人がおいしそうにめんをすすった後に、「らお〜」と叫ぶ。これを見て、深夜にコンビニに走る若者が続出し、欠品騒動が起こった。
 当時のデータによると、一週間ごとに放送されたCMの総視聴率と、その週のコンビニの売り上げ個数との相関関係が、見事に連動していたのである。CMを入れると週販は一気に跳ね上がった。CMを減らすと落ちた。ところがしばらくすると、CMを増やしても減らしても、ある一定数で変動しなくなった。これは消費者のトライアルが一巡し、リピートの段階に入った証拠だった。ラ王は短期間で定番商品のポジションを獲得したのである。】

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 先週、「日清が、今年8月いっぱいで、『ラ王』生産終了」というニュースが流れてきました。先週発売された『週刊アスキー』の裏表紙には、「ラ王、終わる。」というモノクロの大きな広告が掲載されています。その広告には、「18年間、ご愛食ありがとうございました」という文章が添えられているのですが、僕はそれを見ながら、「そうか、『ラ王』が発売されてから、もう18年も経つのか……」と、時間が流れる速さと自分の年齢を考えずにはいられなくなったのです。

 『ラ王』が発売されたのは、1992年。僕は大学生でした。カップ麺のお世話になることも多い食生活を送ってきたのですが、『ラ王』が発売された当時の盛り上がりは、けっこう記憶に残っています。
 たしかに、あの時期は赤井秀和さんと金山一彦さんのCMを頻繁に見ましたし、近くのコンビニでも、軒並み「売り切れ」だったんだよなあ。
 『ラ王』はちょっと値段が高かったけれど、「みんな同じような麺」だったカップ麺のなかでの「生めん」の衝撃は、非常に大きなものでした。

 僕は当時、『ラ王』に対して、「そんなに生めんにこだわるのなら、店でラーメン食べればいいんじゃない?」「コンビニで売っている、使い捨ての鍋入りのラーメン食べればいいんじゃない?」などと思ったのですが、『ラ王』の場合は、インスタントラーメンであるために、「生めん」でも、賞味期限が5か月くらいは必要だったんですね。味ではなく、「長持ちさせるための技術」が、『ラ王』開発の最大の難所だったようです。

 いつのまにか、僕は『ラ王』から離れてしまっていました。
 まあ、年齢的にも、カップ麺をあまり食べなくなったのはたしかなのですが、『ラ王』も、コンビニのカップラーメンのコーナーで、「あっ、まだちゃんといるいる」という感じで「生存確認」をして、カップヌードルや流行りの「ご当地カップ麺」を買っていたのです。
 『ラ王』はなんとなく作るのに手間がかかる、というイメージがありますし。
 たぶん、作ってみれば、たいした手間じゃないんでしょうけど。

 そう考えると、「ふたを開けてお湯を注ぐだけ」という『カップヌードル』は、本当にすごいよなあ、とあらためて感心させられます。『カップヌードル』以上に簡略化するには、「レンジでチンするだけ」くらいしか思いつきませんし、電子レンジって、意外と欲しいときに目の前には無いんだよなあ。

 この本のなかで、安藤さんは【正直に申し上げるが、直近2008年度、日清食品の生タイプめん売上高は100億円を切っている。500億円を売り上げたピーク時から13年を経て、ここまで市場がシュリンク(縮小)してしまった。】と書かれていますから、今回の「『ラ王』生産終了」は、やむをえない決断だったのかもしれません。生タイプじゃないカップラーメンも、かなりめんの質が高くなってきましたし、そもそも、消費者は必ずしも「生めんに近づくことが、カップラーメンにとっての進化」だとは感じていないようにも思われます。
 「店で食べるラーメンはラーメンであり、家で食べるカップラーメンは、カップラーメン」なんですよね、きっと。『カップヌードル』が生めんになっても、違和感があるだろうし。

 それにしても、僕にとっては、20代前半にお世話になった『ラ王』の引退は、寂しいニュースではあります。
 単なる「生産中止」にこんなに大々的な広告を出しまくるというのはおかしな気もするので、もしかしたら、『ラ王』のあとに新しい展開があるのかもしれませんけど。