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2010年05月30日(日) ■ |
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「古本市」は、大人たちの戦場だった! |
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『本の雑誌』2010年6月号(本の雑誌社)の「特集=古本お宝鑑定団!」より。中嶋大介さんのエッセイ「古本○○(まるまる)話」の一部です
【東京のコアな古本ファンは、関西の人たちよりも熱心だと思う。なぜそう思うかというと、3〜4年前、はじめて高円寺にある西部古書会館の古本市に行った時に見た光景が忘れられないからだ。ここの古書会館は、靴を脱ぎスリッパを履いて会場にはいらなければならない。その靴を脱ぎスリッパを履くというわずか十数秒が惜しい。その数十秒のスキに他の誰かに自分がほしい本を抜かれてしまうんじゃないかということで、開場する数分前から靴を脱ぎスーパーのレジ袋を巻いてスタンバイしている人がいたのだ。その気持ちもわからないでもないけど、やっぱり「そこまでしなくても…」と思う。 五反田の南部古書会館で開催される古本市も同様にお客さんが熱かった。開場は9時半で、その時間までは会場にお客さんが入らないように白いビニールテープが張られている。手にとることはできないが、どんな本が並んでいるのかみることはできる。強者たちは、双眼鏡を持参して開場前からどんな本があるのか細部までチェックしているのだ。開場前から戦いははじまっているということを思いしらされた。 あと、これは全国どこでも変わらないと思うが、デパートの古本市の場合、いかに古本市の会場にたどり着くかということで、戦略が必要になってくる。エレベータの陣取り合戦もおもしろい。当たり前のことだけど、最初に乗ってしまうと出るのは最後になってしまう。いかにして最初のエレベータの最後に乗り込むかがポイントになる。また、体力に自信がある者は、エスカレーターを走って上がるという作戦もあり、がんばればこっちの方が早いと思うが、コアな古本好きはおじさんが多いので、この作戦をとる人は少ない。 こういう光景をはじめてみた時は、おどろいたが、今ではふつうのことのように思えてしまう自分がこわい。ぼくもそのうち、足にレジ袋巻いてスタンバイしているかもしれない。】
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ブックオフやAmazonなどのネット書店の影響で、昔ながらの「古本屋」は苦戦しているという話を聞いていました。 でも、「コアな古本好き」というのは、滅びていないどころか、こんなに元気な人たちもまだまだ存在するんですね。 Amazonで買えないような本を探す機会すらほとんどない僕にとっては、こうして「古本市」に集まって、熱いバトルを繰り広げる人たちがまだまだ大勢いるというのは驚きでした。 「古本コレクション」というのは、すっかり落ち着いた大人の趣味というイメージがあったのですが、この話を読んでいると、僕が子供のころ、「ガンプラ(ガンダムのプラモデル)を買うためにデパートの前でやっていたこととそんなに変わらないみたいです。 「貴重な古本」というのは、まさに「目の前の一冊」しかないのですから、買い逃してしまったら、もう二度と手に入らないかもしれない。ゲーム機のように、待てばいずれは同じものが買えるという世界じゃないものなあ。 まあ、僕もこれを読んでいると「いい大人がそこまでしなくても……」とは思いますけどね、やっぱり。
それにしても、エレベーターというのは、こういう観点でみると、すごく不公平な乗り物のような気がします。ドアが開いたときに前にいる人ほど奥に入らなければなりませんから、必然的に、出るときには順番が遅くなってしまう。でも、だからといって、みんなが「最初のエレベーターの最後に乗る」わけにはいかないでしょうし、一つ間違ったら、次のエレベーターになってしまう。 この、大人たちの「エレベーターの陣取り合戦」を、一度物陰から覗いてみたいものです。 結局のところ、いくつになっても、どんなジャンルでも、「マニアの執念」というのは変わらないのかもしれませんね。
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2010年05月22日(土) ■ |
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日本の出版業界が陥っている「本のニセ金化」という無間地獄 |
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『電子書籍の衝撃』(佐々木俊尚著・ディスカヴァー新書)より。
【歴史にイフが許されるのであれば、本の流通が雑誌流通とは別のかたちで、独自に存在していればよかったのかもしれません。 実際、アメリカやヨーロッパでは本と雑誌の流通はきちんと区別されています、 アメリカでは本の出版社と書店の間では、電話などでの直接注文が行えるしくみが完備されています。また取次のような流通会社も存在していますが、出版社と書店が互いに在庫を確認し、すぐに注文できるような体制になっています。 これはヨーロッパも同様です。本は雑誌とは別の流通システムになっていて、出版社直営か代行業の卸売会社が全体の70%の流通を司っています。取次は存在していますが、補助的な流通プラットフォームでしかありません。 さらに重要なのは、アメリカやヨーロッパでは、本は書店の買い切り制になっていることです。 だから欧米では、無駄にたくさんの本が書店に送り込まれるようなことはありません。書店が必要する本だけが注文され、出版社から書店に送られているのです。 ところが日本では、「どうせ委託だから売れなければ返本すればいいから」とバカみたいにたくさんの本が毎日毎日、出版社から取次を経由して書店に集中豪雨のように流し込まれています。そして書店の側は、アルバイトを雇ってせっせと毎日毎日、バカみたいにたくさんの本を取次に返本しています。 資源の無駄遣い以外の何ものでもありません。
しかし、資源の単なる無駄遣いだけであれば、まだよいのです。この委託制による大量配本は、別の重要な問題を出版業界に引き起こしています。 出版業界に詳しいライターの永江朗さんが「本のニセ金化」と呼んでいる重大事態です。 どのような意味でしょうか。 書店と取次、出版社の間でのお金のやりとりは、さまざまな条件があって非常に複雑なのですが、ここではすごく単純化して説明してみましょう。
たとえば新書で考えてみましょう。定価700円ぐらいの新書の場合、出版社から取次に卸す金額(業界用語では「正味」といいます)は500円ぐらいになります。この本を1万部刷って、出版社が取次に卸したとします。 この際、重要なのは、売れた分だけ取次からお金をもらうのではなく、取次に委託した分すべての金額をいったん取次から受け取れるということです。 だからこの新書を取次に卸すと出版社はいったん取次から500万円のお金を支払ってもらえます。 でも仮に、1万分のうち書店で5000部しか売れず、残り5000部は返本されたとしましょう。そうすると出版社は、この5000部の代金250万円を、取次に返さないといけないことになります。 そこで出版社はあわてて別の本を1万部刷って、これをまた取次に卸値500円で委託します。そうするといったん500万円の収入になるので、返本分250万円を差し引いても、250万円が相殺されて入ってくることになります。 これこそが、本のニセ金化です。出版社は返本分の返金を相殺するためだけに、本を紙幣がわりにして刷りまくるという悪循環に陥っていくのです。 本章の冒頭で、本の出版点数は80年代と比べると3倍近くにまで増えているという数字を紹介しました。「本が売れなくなっている」と言われているのにもかかわらず、これだけ点数が増えてしまった背景には、実はこのニセ金化現象があったのです。 「本が売れない」「返本が増える」「取次に返金しなければならない」「だったら本をとにかく出し続けて、返金で赤字にならないようにしよう」「ますます刷る」「ますます売れない」「いよいよ赤字が心配」「だったらもっと刷ろう」……。 こういうバカげた自転車操業的な負のスパイラルが延々と繰り返されて、無間地獄に落ちていっているのがいまの日本の出版業界なのです。】
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近年ずっと「本が売れない」と言われているにもかかわらず、「出版点数が増えている」ことには、こんな理由があったんですね。この話を読むと、こんな「赤字国債の積み重ね」みたいな自転車操業で、よく今まで出版社や書店は生きのびてきたものだなあ、と感心してしまうくらいです。まあ、こういう体質は、出版業界に限ったことではないのかもしれませんが。
ただ、本が書店の買い切り制になってしまい、「無駄にたくさんの本が書店に送り込まれるようなことはなく、書店が必要する本だけが注文され、出版社から書店に送られるようになる」と、「売れる本」「売れそうな本」ばかりが書店に積み上げられるようになるようにも思われます。 書店側としては、「委託性」だからこそ、「万人向けではないけれど、こういう本を好きな人もいるはず」ということで、棚に並べられる場合もありそうですよね。日本の一般的な書店が、ベストセラー中心ながらも、それなりにバリエーションのある品ぞろえができるのは、この制度のおかげなのでしょう。 海外の書店は、同じようなペーパーバックが並んでいて本の種類が少なかったり、特定のジャンルの専門書だけを追求していたりするところが多くて、僕のような「雑食系」にとっては、あんまり楽しくないんですよね。
そもそも、「これは出版すべき本なのか?」というのを、誰が決められるのでしょうか? 「こんなのを刷るなんて、資源の無駄!」と言いたくなるような本は僕にだって少なからずありますが、その本だって、他の誰かにとっては「心に残る一冊」になるかもしれない。
それでも、いまの世の中には、「とにかくたくさん出して、書い手が価値を判断すればいいじゃないか」というほどの余裕がないのも事実でしょうし、こんな「本のニセ金化」を続けていけば、いつか出版業界が破綻するのは目に見えています。実際に、末端の小型〜中型書店は、バタバタと潰れていっていますし。 どこかで歯止めをかけなければいけないのだろうけど、こういう「負のスパイラル」に陥ってしまうと、「立ち止まれば潰れるしかないから、行けるところまでこのまま行く」しかない。 こんな状況で、いつまでもつのか……「本」は無くならないと信じたいのですが、近い将来に、劇的な変化が起こる可能性は十分ありそうです。
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2010年05月18日(火) ■ |
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「サクマ式ドロップス」のハッカ味の魅力 |
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『アイデアを盗む技術』(山名宏和著・幻冬舎新書)より。
【ところで最近、子どものころからよく知っているある商品に、実は巧みな偶然性があることに気づいて驚きました。 映画『火垂るの墓』で、再び脚光を浴びた「サクマ式ドロップス」です。 これのどこが「偶然性」なのでしょうか。 缶入りの「サクマ式ドロップス」には、イチゴ、レモン、オレンジ、パイン、メロン、ハッカ、ブドウ、チョコの8種類の味のドロップが入っています。この時点で、すでに「対比」の楽しみがあります。 では、「サクマ式ドロップス」のどこに「偶然性」があるのか。それは、缶を振ってドロップが出てくるまで、何味を食べることになるのかわからないという点です。イチゴ味が食べたいと思っていたのにメロン味が出てしまった。2回続けてオレンジ味が出てしまった。ドロップが缶から出てくる瞬間は、子どもながらにドキドキしたものです。 そしてもう一つ、「サクマ式ドロップス」が優秀だったと思うのは、ハズレがあったことです。僕が子どものときは、ハッカ味が不人気でした。だからハッカ味が出てくるとかなりガッカリしたものです。この一つだけハズレがあるということが、「偶然性」をより魅力的なものにしていました。 もちろん、「サクマ式ドロップス」を作ったメーカーは、そんなドキドキ感などねらってこの商品を作ったわけではないでしょうし、まさかハッカ味がハズレあつかいされていたとは思っていなかったでしょう。でも、偶然とはいえ、あらためて振り返ってみると、「サクマ式ドロップス」には偶然性をうまく使うためのヒントが詰まっています。だから僕も、そんな「サクマ式ドロップス」の魅力を、テレビの企画にも応用できないかと、最近、そんなふうに考えています。】
参考リンク:佐久間製菓株式会社
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著者の山名さんは、1967年生まれの放送作家。『ザ!鉄腕!DASH!!』『行列のできる法律相談所』などの番組を担当されているそうです。
この「サクマ式ドロップス」、山名さんより少しだけ年下の僕も、子どもの頃はよく食べていた記憶があります。少なくとも、ここ20年くらいは食べた記憶がなかったのですが、佐久間製菓のサイトをみると、いまでも現役でがんばっているようで、ちょっと嬉しくなってしまいました。
たまにコンビニのお菓子売り場を覗いてみると、最近の飴というのは、中身がわかる透明な袋に、1個ずつ包装されているというのが主流のようで、「サクマ式ドロップス」のような「缶入りで中身が見えないタイプ」のものは珍しいようです。 そりゃあ、食べる側とすれば、そのほうが「食べたいものが食べられるし、衛生的」ではありますよね。 でも、これを読みながら、僕も子どものこと「サクマ式ドロップス」を食べながら、「うわっ、またハッカだ……」と嘆きながらも、そのロシアンルーレットをけっこう楽しんでいたんですよね。 「サクマ式ドロップス」のハッカは、甘くないので子どもには人気がなく、最後はいつもハッカばかりが残ってしまっていました。 なんでこんなのわざわざ入れるんだろう?ハッカなんて、入れなくてもいいのに……おそらく、当時の多くの子どもは、そう思っていたはずです。 もちろん、大人のニーズはあったのでしょうが、大人も別に、ハッカばかりを好んで食べていたわけではなかったし。
ただ、あのハッカ味というのは、たしかに「サクマ式ドロップス」の大きなアクセントにはなっていました。「何が出てくるかわからない、缶入りドロップ」だからこそ、あのハッカには「意味」があったのかもしれません。
この山名さんの話を読みながら、「当時の佐久間製菓にとっては、どこまでが『技術的な限界』で、どこからが『マーケティングによる作戦』だったのだろうか?」と僕は考えてしまいました。 当時から、「ハッカは入れないでくれ」という声は届いていたはずなのに、ハッカが無くなることはなかったし、技術的には袋入りにして1個ずつ包装することも可能になったはずなのに、いまでも「サクマ式ドロップス」は、昔と同じスタイル、缶入りで売られています。
最近は、時代の流れに逆らえなくなったのか、袋入り、個別包装の「サクマ式ドロップス」も売られているそうなのですが、僕の世代にとっては、やっぱり「サクマ式ドロップス」が「袋入り」だと、ちょっと寂しい気がします。 しかし、飴玉が1個1個包装されるっていうのは、考えてみれば、本当に豊かな時代でもあり、もったいない時代でもありますよね。たしかに「便利」ではあるのだけれども。
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2010年05月09日(日) ■ |
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「へんじがない ただのしかばねのようだ」に詰め込まれた「珠玉のメッセージ」 |
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『ゲームデザイン脳 ―桝田省治の発想とワザ―』(桝田省治著・技術評論社)より。
【「へんじがない ただのしかばねのようだ」 かのドラクエで、迷宮の奥などに横たわった白骨死体をチェックした場合に表示される汎用メッセージである。僕は、数あるゲームの中でこれよりよくできた文を読んだことがない。珠玉だと思う。 書いたのは、同作のゲームデザイナー兼シナリオライターである堀井雄二氏。残念ながら僕ではない。 本節は、このメッセージにいかにたくさんの情報が集積されているか、その解説だ。これを読めば、僕が冒頭のメッセージを”珠玉”と評した理由がわかってもらえるはずだ。ま、わかったところで、そう簡単にマネできないけどね。
(1)基本情報 まず、このメッセージの基本情報は、「あなたは目の前の白骨死体と思しきものを確かにチェックしましたが、有用な情報も目ぼしいアイテムも見つけられませんでした」ということだ。 ここには、ふたつの重要な情報がある。
・あなたが発した目の前をチェックするというコマンドは確かに受け取ったという返答。 ・その結果、有用な情報も目ぼしいアイテムも発見できなかったという報告。
たとえば、就職試験の合否を連絡しないことで不合格の通知代わりとする企業がある。この場合、合否通知を待つほうは、「もしかしたら郵便の配達に何か不備があったのではないか」など、万にひとつの可能性を考えてしばらく未練たっぷりにモヤモヤする。それが人の常だ。一方で不合格者にも丁寧な通知を送る企業もある。どちらが印象が良いかは言うまでもないだろう。 同様に、上記の二項目は、プレイヤーの信頼を得ようと思うならば、必ず返さなければならない最低限の情報だ。
(2)キャラ立て プレイヤーが操作するキャラクター(主人公)にもさまざまなタイプがあるが、ドラクエの場合、徹底的にしゃべらないのが特徴だ。これは「キャラを立てる」で書いたとおり、プレイヤーが操作する主人公とプレイヤーの感情的な剥離を防ぐため、主人公になるべく色をつけないという方針に則った演出だ。 だが、実は地味な汎用メッセージを使い、最低限のキャラ立てを行っている。 前半部分に注目しよう。「へんじがない」ということは、主人公は「もしもし」とか「おい!!」とか、どんな言い方がされたかはプレイヤーの想像に委ねられているが、とにかく声をかけたことがわかる。 そこからたとえば、剣の先で突ついたり、足で蹴ったりするような乱暴者ではない。いきなり直に手で触れるような軽率な人間ではない。白骨死体にまで声をかけるほどバカ丁寧、あるいはユーモアがあるなど、主人公のさまざまな人物像がプレイヤー各人の頭に浮かぶ。 ただし、声をかけた理由には言及されていないのだから、結局、主人公の人物像はひとつには限定されない。だが、この場合はそれでいいのだ。大事なことは、プレイヤーにひとつの答を押しつけることではない。プレイヤー各人が自分の主人公に対して独自の解釈ができる材料を与えることだ。
(3)世界観 次に後半の「ただのしかばねのようだ」に注目しよう。この文から読み取れるのは、たとえばこんな情報だ。
・この世界には、ただの屍ではなくゾンビのようなアクティブな屍もいますから、注意してください。 ・この世界では、迷宮に転がった屍はさほど珍しくありません。行き倒れたり、モンスターに襲われて死ぬ人が跡を絶ちません。無茶な冒険は危険です。
と、ゲームの舞台がどんなルールで支配されている世界なのかを示唆している。また、いずれも警告を含んでいるが「注意しろ」とも「危険だ」とも一言も書いてない配慮にも留意してほしい。
(4)行動のヒント 「(1)基本情報」で就職の合否の連絡を例に引き、ここで伝えているのは不合格通知のようなものだと書いた。ところで、不合格通知が届いた人は、「合格通知をもらった人もどこかにいるんだろうなぁ」と考える。これも人の常だ。 実はこれも同じだ。つまり「あなたは目の前の白骨死体と思しきものを確かにチェックしましたが、”今回は”有用な情報も目ぼしいアイテムも見つけられませんでした。ですが、この世界のどこかには、有用な情報やアイテムが見つけられる白骨死体もあります」と伝えている。 さらには、「だから、あなたのやったことは正しいのです。これに懲りずに白骨死体を見かけたら、今後も積極的にチェックしましょう」と励まし、ヒントまで出している。
「へんじがない ただのしかばねのようだ」 この一行に実に本書3ページ分の情報が集積されていることがわかっただろうか? こんな芸当ができるのは、僕の知るかぎり堀井さんかさくま(あきら)さんくらいのものだ。手元にいくつかゲームソフトがあるなら、プレイヤーが無意味なコマンドを選択した際、どんな風に処理されているか調べてみるといい。たぶん、愛想がないメッセージを表示するか、あるいはクイズの答を間違えたような不快なブーブーという音が出るだけだ。 この一行がいかに丁寧な職人技か納得してもらえるはずだ。】
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『天外魔境2』の監督・シナリオ、『リンダキューブ』『俺の屍を越えてゆけ』のゲームデザインなどを手がけたゲームデザイナー、桝田省治さんの本の一節です。 僕は『天外魔境2』を進学校時代の短い夏休み中遊んでクリアした記憶もありますし、『俺の屍を越えてゆけ』も大好きだったので、あの独特の「桝田作品」は、こんなふうに作られているのか、と感心させられるところが多かったです。 僕の同世代、いま40歳前後って、ちょうどテレビゲームの黎明期にあたり、中学・高校の同級生の「面白いヤツ」の多くが、「ゲームデザイナーになりたい!」って言っていました。 まあ、彼らの多くが、就職活動の時期になると、大手マスコミや大企業を目指すようになったにせよ、そういう「面白いヤツ」が集まっていった業界ですから、「トップゲームデザイナーの発想術」には、とても刺激的なものが多いような気がします。
この「へんじがない ただのしかばねのようだ」についての考察を読んでいて感じるのは、『ドラクエ』の生みの親である堀井雄二さんの「言葉へのこだわり」の凄さなのですが、それと同時に、その価値をちゃんと理解できる桝田さんも凄いな、ということです。 僕もこのメッセージを何度も見ているのですが、「すごい」と感じたことはなかったなあ。 「ただのしかばね」って、「しかばね」があるだけでも大問題だろ!と心の中でツッコミを入れた記憶はありますけど。
『ドラクエ』の初期は、ファミコンのカセットの容量が少なかったこともあり、いかに限られた言葉で、プレイヤーに「伝える」かに、堀井さんは苦労されていたそうです。 そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、こういう「研ぎ澄まされたメッセージ」が生みだされていったのでしょう。
「プレイヤーが無意味なコマンドを選択した際、どんな風に処理されているか?」 実は「こだわり」とか「気配り」というのは、こういうところに象徴されるもので、もしあの「しかばね」を調べても、何のリアクションも返ってこなければ、プレイヤーはあれを「背景の一部」だと認識して、もう二度と「しかばね」を調べようとはしないかもしれません。 「無意味なコマンド」でも、それへの対応によって、ちゃんと「意味」を与えることはできるのです。
こういう話を読むと、やっぱりプロって凄いなあ、と思わずにはいられません。 「感動のストーリー」よりも、むしろ、こういう「普通に遊んでいると、ただ通り過ぎてしまうだけのところ」にこそ、プロの技が隠されていて、他のゲームと「差別化」されている。
この「無意味なコマンドに対するリアクション」の話、実は、ゲームの中だけじゃなくて、実生活のコミュニケーションにも「応用」できそうですよね。 子供に接するときなど、こういう「無意味なコマンドに対する大人の小さなリアクションの積み重ね」が、長い目でみると、大きな差になっていくような気がします。 たぶん、うちの息子が「ただのしかばね」に話しかけるような機会は、あまり無いとは思うのですけど。
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2010年05月04日(火) ■ |
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「『デスノート』ごっこ」で警察に逮捕されたアメリカの少年 |
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『アメリカから<自由>が消える』(堤未果著・扶桑社新書)より。
【大人たちだけでなく子供たちにも「テロの疑い」が向けられる。 2004年12月11日、ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるホルム小学校では、10歳の女生徒がかばんに入れていた8インチ(約20cm)のハサミを見つけた。校長が警察に通報、すぐに地元の警察が現れ、女児はすみやかに手錠をかけられて連行された。 「娘は新しく買ったCDのパッケージを開けるためにハサミを持っていたんです」 新聞のインタビューで、生徒の母親は怒りをこめてこう語った。 「それだけで逮捕されたことは、彼女に大きな傷を残しました。 あれ以来娘はすっかりおとなしくなって、何をするにもびくびくするようになってしまった。前はとても活発で、ものおじせずものを言う子だったのにですよ。 子供たちに恐怖をうえつけることが安全保障につながるという考え方は、何かが大きく間違っているとしか思えません。 2007年7月18日、カンザス州出身の8歳の少年は、コロラドの空港のチェックイン・カウンターで搭乗を拒否されている。 理由を聞くと「テロリストですから、お乗せできません」との回答。詳細を調べてもらうと、少年と同姓同名の男性が、テロ容疑者リストに警戒レベル3で記載されていたという。 世界中で評価の高い日本アニメは、アメリカの子供たちにも大人気だ。 2008年4月3日、アラバマ州にあるウェストエンド小学校で6年生の男子生徒ふたりが逮捕された原因は、死神のノートに名前を書かれた人が死ぬという内容の、日本のアニメ『デスノート』だった。 彼らがアニメを真似てノートにほかの生徒や教師の名前を書き、「デスノートごっこ」をしていたのを見た教師が校長に連絡したのだ。学校側から通報を受けて少年たちを逮捕した警察は教師たちを厳しく注意したという。 「『テロとの戦い』の最中ですから、こうした危険な行動は見逃せません。先生だけでなく親御さんにも、子供たちが見ているマンガや友達との会話、遊びの内容などを、しっかり監視していてもらわないと」 いくつかの州では警察が子供たちに「友達があやしげな行動をとった時に、近くの大人に知らせる方法」をビデオを使って教える時間を設けている。 「デスノートごっこ」をした少年たちには、裁判手続きが取られたのち、学校側から無期停学処分が言い渡された。】
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この『アメリカから<自由>が消える』という新書には、「まあいろいろ問題点はあるけれど、とりあえず『自由』ではある国」だというアメリカへのイメージが崩れ落ちるほどのインパクトがありました。とくにあの「9・11」以降のアメリカの「監視社会」への変化には凄まじいものがあり、「テロとの戦い」という名目に、ここで堤さんが紹介されているようなことが行われているのです。 「テロ容疑者と名前が同じ」というだけで、8歳の子供に対してすら「油断」しないというのはあんまりですが、「学校に20cmのハサミを持ってくる」とか「『デスノート』ごっこ」なんていうのは、たしかに「好ましいこと」ではないでしょう。 それでも、その程度のことで警察に「逮捕」されてしまうなどというのは、日本で生活している僕には、悪い冗談のようにしか思えません。彼らが使っていた「デスノート」が本物だというのならともかく……
「『デスノート』ごっこ」というのは、あまり「好ましい遊び」ではないでしょうし、そこに同級生や先生の名前を書くというのは、「死ね」と言っているようなものかもしれません。 とはいえ、先生が厳しく注意するのは仕方ないとしても、「逮捕」とか「無期停学」になるほどの問題というよりは、単なる「子供の悪戯」だと思うのだけど。 そして、彼らのそんな「ミスや悪戯」そのものよりも、「その程度のことで逮捕されてしまったことによる心の傷」のほうが、はるかに彼らの未来には大きな影響を及ぼすはずです。
これを読んでいると、こんな「テロとの戦い」を肯定すべきなのだろうか?と考えずにはいられませんし、そもそもこういうのが「テロとの戦い」なのか疑問になります。 もしかしたら、アメリカという国には、国民を支配するための、本物の『デスノート』があって、そのノートの表紙には「テロ容疑者リスト」と書いてあるのかもしれません。
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