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2010年04月27日(火) ■ |
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「『ものごとをきっちりと決めたがる』のが理系の傾向だと言われているのは間違いで、それはまったく逆である」 |
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『臨機応答・変問自在2』(森博嗣著・集英社新書)より。
【理系と文系を比べることは、あまり意味があることとは思えないし、その区別も曖昧である。人はもっと複雑だからだ。ただ、「ものごとをきっちりと決めたがる」のが理系の傾向だと言われているのは間違いで、それはまったく逆である。理系のスタンスは、物理法則や数学はきっちりと割り切れるものだが、人間や社会といったものはつかみどころがなく、一般的に論じられない、というものだ。一方、文系の学問の中には、まさにそれらを一般的に論じようとするものが数多く存在する。つまり、人の心理や社会の動きに法則性を見出したりすることは、文系の特徴であって、それは理系から眺めると、「どうしてあんなに、ものごとを杓子定規に決めつけられるのだろう?」と不思議に感じられるのである。】
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僕は文系科目のほうが得意だったにもかかわらず、何の因果か理系に分類される仕事をやる羽目になってしまったのですが、周囲の「理系の人々」の「理屈っぽさ」というか、何に対しても「ソースを出せ!」という態度にはけっこう辟易させられます。研究や仕事ではともかく、世間話くらいは「なんとなくそんな気がする」でも良いんじゃないか、と感じることもけっこうありますし。 もっとも、多くの「理系寄り」くらいの人々は、そのへんはうまく使い分けて日々を過ごしています。どんな相手に対しても徹底的に「どこの論文に書いてあった?」なんて言うわけにもいかないのが現実というもの。
この森さんの言葉は、僕がいままで抱いていた「文系・理系」のイメージを大きく変えるものでした。 そう言われてみれば、本物の「理系」っていうのは、「きちんと割り切れるものは徹底的に理解しようとする一方で、人間の心や社会に対しては「そんなのよくわかんないよ。わからなくても仕方がない」と突き放しているように見えます。 もちろん、そこまでの理系はごく一部で、大部分は、「心理や社会についても、適当な理屈をつけて説明しようとする「似非理系」なのですが。
あらためてそう言われてみると、「数学や科学を理解し、説明しようとすること」より、「人の心理や社会の動きが理解できると思っていて、それを言葉で説明しようとすること」のほうが、はるかに「無謀」であり、「理屈っぽい」ような気がしてきます。 恋愛をホルモンの分泌で説明しようとするのが理系ならは、「気になるあの人を絶対に振り向かせるしぐさ」を普遍的なものとして得意げに語るのが「文系」。 どちらが「(判断が困難である場合でも)ものごとをきっちりと決めたがる」かと言われると、たしかに文系のほうが「無謀で傲慢」なのかもしれませんね。 でもなあ、僕は個人的には、人間の心理や社会の動きも、ものすごく詳細なデータを入れれば「予言」できるプログラムをつくることは可能なのではないか、などとも思うんですよ。 そういう発想そのものが、やっぱり「文系」なのかなあ。
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2010年04月19日(月) ■ |
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「当時の私は、極端な考えだとは思いながらも、『引越し屋とは分かり合えない』と割り切ってバイトを辞めた」 |
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『今ウェブは退化中ですが、何か?』(中川淳一郎著・講談社)より。
【人間はそう簡単に分かり合えるものではない。どう頑張っても、分かり合えない相手は存在するのだ。人生は短い。絶対に分かり合えない人と分かり合う努力をするより、分かり合えそうな可能性のある人を選んで、その人を大切にしていくことが重要なのだ。
(中略)
決して分かり合えない人間がいると悟ったもう一つの契機は、1993年3月、日本に帰国して、大学に合格した直後のことだった。「大学に入学したら何かとお金が必要だ」と考えた私は、自宅からすぐ近くにある引越し屋でバイトを始めた。私はその引越し屋で、RとKという2人の社員との組み合わせで仕事をすることが多かったが、RとKが語る話の内容は「焼肉」「風俗」「借金」「競馬」「パチンコ」「会社へのグチ」がほとんどだった。 引越し屋で初めて彼らに会った瞬間、私はKから「お前、何でウチで働くんだ?」と聞かれた。「4月から大学に入るので、その前に働いてお金を用意しようと思っています」と答えたところ、「ケッ、エリートさんかよ」という答えが返ってきた。そして、 「あのよぅ、ウチはエリートさんなんていらねぇんだよ、バーカ」 と続けざまに言われた。私はなぜか「すみません」と謝った。トラックの中でRとKと一緒にいる時間は辛かった。話しかけられるのは、「缶コーヒー買って来い」「お前、さっきの家でチップいくらもらった?」「さっさと外に出ろ」「次のバイト代、お前を世話してやってるオレに半分よこせ」だけである。 他の時間は、RとKが「焼肉」「風俗」「借金」「競馬」「パチンコ」「会社へのグチ」について語っているだけで、私は会話に参加できなかった。ある時、冷蔵庫を運んでいて、あまりの重さに私が「ヒーッ!」と声を上げたところ、Kは、 「ケッ、これだからエリートさんは使えねぇんだよ」 と舌打ちした。 企業の引越しのように大規模な作業をする際は、応援の人間が現場で待っている。中国人の留学生が多かったのだが、RとKはその現場に向かう時、「なんか今日はニイハオだらけらしいぜ」「うぜえな、ニイハオかよ」などと言っていた。「ニイハオ」とは、言うまでもなく中国語の「こんにちは」だが、彼らにとっては「中国人アルバイト」の意味であり、明らかに差別意識を込めて使っていた。彼らは現場に行っても、 「おい、ニイハオ、てめえさっさと働け。日本語分かってんのかよ、バカヤロウ」 などと平気で口にする。そして私には、 「おい、エリートさんよぅ、お前、これまでお勉強ばっかしてきたんだから、中国語くらい分かるだろ。ニイハオのバカどもに、グータラするなと伝えとけ」 と言った。この時は一瞬だけ、ついに自分もRとKから認められたかと思って嬉しくなったが、もちろんそれは錯覚だった。実は当時の私は、現場で会う中国人留学生たちと話が合った。彼らは大学生だったので、私は大学生活で必要なことをいろいろと教えてもらい、RとKとの会話よりもはるかに実りが多く、共感する部分も多かった。 しばらくその引越し屋でバイトを続けたものの、RとKから飛んでくるのは万事、「てめえ、さっさとやれ!」だの「エリートさんは使えねえ」といったセリフばかりだった。当時の私は、極端な考えだとは思いながらも、「引越し屋とは分かり合えない」と割り切ってバイトを辞めた。もちろん、今の私は、引っ越し業をしている人にいい人が多くいることも知っているし、RとK以外で仲良くなれた社員もいた。 しかし、この経験がきっかけで、前からうすうす感じていた「人類皆兄弟というのはウソだ」という思いが確信に変わった。そして、人生の限られた時間、全員と分かり合う努力をするよりも、自分に合った人を求めることに時間をかける方が重要だと考えるようになった。
それから始めたバイトは、私の通っていた一橋大学の学生が代々継承していた植木屋での助手業務である。家族経営の植木屋で、学生たちが数人一緒に、朝から夕方まで、職人が刈った芝や伐採した枝をビニールシートに移し、トラックの荷台に載せていく。このバイトは卒業するまでの3年半、気持ち良く続けることができた。 もともとその植木屋は、伝統的に一橋の学生を雇い続けており、バイトの学生が卒業する時には「誰か後輩を紹介してよ」と頼んで、その流れを脈々と続けていた。したがって、「こいつはウチに合う」と判断された人間だけが紹介・採用されるため、「分かり合える人同士」の世界になり、心地良く仕事ができる。】
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なんというか、この「引っ越し屋でのバイトの話」を読んでいるだけで、僕はすごくいたたまれない気分になってきます。「だからエリートは……」って、僕も何度か言われて辛かったことがあるし、その一方で、もっと偏差値の高い大学を出た人たちから、「できそこない」だと罵られたこともあるので。
社会でも、ネット上でも、少なくとも建前としては、「どんな相手とでも、話せばわかる」あるいは「伝わらないのは、自分の側にも責任があるのだ」と言う人が多いんですよね。 そりゃまあ、「どんな人とでも、きっと分かり合える」というほうが、「どうやったって分かり合えない人もいるんだから、うまく棲み分けろ」というよりカッコいいし。
でも、僕だって、このRやKみたいな人と自分が「分かり合う」のは難しいと思います。こちらがどんなに先入観抜きで付き合っていこうとしても、向こうが「だからエリートさんは」みたいな態度であれば、「どうしてこちらばかりが真摯に良い関係をつくるための努力をしなければならないのか?」としか考えられない。「分かり合う」ためだけに「風俗」や「借金」の話題に付き合おうにも知識も興味もない。 世の中には、こういうときでも、「うまくあしらえる」タイプの人もいるんですけどね、たしかに。
中川さんは一流大学の学生であり、他の居場所を探すことができて良かったけれど、たぶん、他に仕事もなくて辞められず、こういう人たちの「イジメ」の対象になり続けている人もけっこう多いのではないかなあ。
もちろん、引っ越し屋さんがこんな人ばかりじゃないというのは僕もわかっています。 僕がいままで会った引っ越し屋さんたちは、みんなうちの大変な荷物(本が多いので、申し訳ないくらい荷物が多くてかさばって、しかも重い!)を気持ちよく運んでくれていました。 ですから、僕自身には、引っ越し業への「偏見」は無いのですが、こういう話を聞いてしまうと、どんな業界でも、「お客からは見えない場所」には、いろんなドロドロとしたものが積もっているのかな、と想像してしまいます。
テレビドラマやマンガの世界では、「分かり合えなかった2人が、共に困難に立ち向かうことによって、『仲間』になる」というのは「よくあること」です。 しかしながら、人間っていうのは、本当にずるくて、しょうがない存在で、中川さん自身も、RとKの「中国人差別」に乗じて、自分がRとKの仲間として認められたい、などと考えてしまいます。 これは本当に当時の中川さんの率直な気持ちだったと思うのです。 「分かり合えない人たちを強引に仲間にできる」唯一の方法は、「共通の外敵をつくること」なのかもしれません。 極論すれば、「日本が外国と戦争する」とき、「日本人」はみんな「同胞意識」を持つようになるし、宇宙人が攻めてくれば、いままでいがみ合ってきた「地球人」は、一致団結するはず。
「人類皆兄弟というのはウソだ」 悲しいけど、これは「真実」のような気がします。 この引っ越し屋でのバイトのような状況で、「RやKだって本当はいい人なのかもしれないんだから、こちらが真摯に接すれば心が通じるはず。差別するなよ」という言葉をかけられたら、僕は「それならお前が同じ目に遭ってみろよ!仮に根っこは善人でも、そんなとこまで掘ってやる義理はこっちにはない!」と怒ると思います。 それでも、「どうやっても分かり合えない人だっているのだから、自分にとって重要ではない相手に、そんな努力なんてするのは無駄だ」と言い切ってしまうのも、やっぱり悲しいんですよね。
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2010年04月11日(日) ■ |
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「学校の外にでて遊ぶことで自由が手に入るなら、こんな簡単なことはない」 |
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『毎月新聞』(佐藤雅彦著・中公文庫)より。
(「つめこみ教育に僕も一票」という文章の一部です。2001年の4月に発表されたもの)
【先日、数学者の藤原正彦さんがNHKの番組で、「いまこそつめこみ教育を」というテーマの論説をしていた。僕はそれを溜飲の下がる思いで見た。 そもそも最近、学習指導要領の改訂など、教育に関する論議が多いが、その度に「ゆとり」とか「個性」とか「自由」という単語が頻繁にでてくる。それらの言葉を見る度に、僕は高校時代のふたりの先生のことを思い出す。 ひとりは英語の先生で、大学を卒業したての若い先生だった。日頃から、「自由」とか「個性」という言葉を連発していたその先生は、ある日、授業が始まるやいなやこう切り出した。「みんな、教科書をここにおいて、外に出よう、外といっても運動場じゃない、学校の脇にある公園だ!」授業をやらずに生徒達を校外に連れ出すことは先生にとっては思い切った行動なのだろう。確か受験勉強たけなわの高3の初夏の頃だったと思う。 公園に着くとその先生は全員を集めて話し始めた。「さあ、みんなは自由だ、こんな天気のいい日になにも教室で勉強しなくたっていいと思わないか。この時間はみんなが好きなことをやればいい、自分でやりたいことを決めればいい、そして授業が終わる5分前に集合しよう、あまり遠くへは行くなよ」 僕たちは、仕方なくブランコに乗ってみたり、金網のゴミ箱に遠くから空き缶を投げ入れる競争をしたりして時間をつぶした。集合時間が来て、先生はもう一度、演説を最後に行った。「みんな、受験勉強のようなものにとらわれず、もっと自由になった方がいいんだぞ」 それを聞いた僕らは、こんな自由ならいらないと思った。教科書を捨て、ブランコに乗ることのどこが自由なんだ、と腹立たしく感じてしまった。そして、自由な教育をしている自分に酔っているようにみえた先生にとても傲慢さを感じてしまった。 もうひとりは数学の先生で、とても厳しくて数学のことしか話さないつめこみ型の先生だった。授業が始まるやいなやいつも教室に早足でやってきて、黒板に書かれている宿題の解答を端から見てはどんどん添削するのだが、普段は「この解き方はだめです。根本的にわかっていませんね」といったように手厳しいのだが、1学期に2〜3度こんな言葉が出ることがあった。 「いやーこれは綺麗な解き方ですね、誰ですかこれを解いたのは」 数学を単なる数のややこしい計算としか考えていなかった僕は「こんな科目できなくてもいいや、でもまあ、受験に必要だから」と自分の成績の悪さを棚に上げて、数学を軽視していた。 しかし、授業中、先生の発した「これは綺麗ですねー」という心からの言葉は、義務としての数学から僕を自由にしてくれた。数学ってそうだったんだ。 その後、僕はそれまでの数学嫌いから数学科に進むかどうかを迷う位の数学好きになってしまった。 僕は、あのとき英語の教科書を捨てるのではなく、逆に英語を話せることの大切さ、楽しさを授業の中でその先生が教えてくれたとしたら、真に受験勉強から自由になったと思う。学校の外にでて遊ぶことで自由が手に入るなら、こんな簡単なことはない。】
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いまから10年くらい前に書かれた文章。 佐藤雅彦さんは1954年生まれですから、この二人の先生に出会ったのは、1970年代のはじめくらいになりますね。
これが書かれたのは「ゆとり教育」が叫ばれていた時期なのですが、この二人の先生の話は、いまの時代に読んでも、考えさせられるところがたくさんありました。 僕は教師ではありませんが、自分の子供に接するようになって、「自由な教育」って何だろう?と悩んでいます。「自由」って言うけど、何の下準備も覚悟も出来ていない人間が「自由にしろ」と言われても、それこそ、「公園でブランコに乗って時間をつぶすしかない」のは当たり前のことなんですよね。「ギチギチの管理」には問題があるのでしょうが、「自由」ほど、慣れていない人間にとって取り扱いに困るものはないかもしれません。 まあ、こういう「公園での自由時間」なんていうのは、「本物の自由」とは別物なんでしょうけど。
この佐藤さんの文章を読むと、この英語の先生を、「バカだなあ、この人。何勘違いしているんだろう……」と嘲笑したくなります。 でも、「『自由』とか『個性』とかをしきりに押しつけながら、実際にやっていることは、単なる『責任の放棄』と『自己満足』でしかない」という事例は、学校の中だけじゃなくて、社会の中にもたくさんあるし、僕も自分の子供に対して、そんなふうに接していることが多いような気がするんですよ。
ただ、後者の英語の先生が「理想の教師」かと言われたら、「うーん、前者よりはマシかもしれないけど、数学の素養が全くない生徒にとっては、かなり苦痛な授業じゃないのかなあ……」とも思うのですよ。 もちろん、自分が教えている教科に愛着を持っていて、その美しさを語ることができるのはすばらしいことですが、ここまで突き放してしまっては、ついていけない生徒も多いのではないでしょうか。
結局のところ、教師と生徒の関係も「相性」だとしか言いようはないのかなあ。 僕自身は、とりあえず、子供の前で仕事の愚痴とか辛いことを話すのはやめたいと思います。継いでもらいたいなんて更々思いませんが、「自分の仕事にプライドを持っていない親の姿」は、見ていて気持ちの良いものじゃないだろうから。
「自分が持っているものの楽しさや美しさ」を伝えることってものすごく難しい。でも、だれかがそれをやらないと、人間の文化っていうのは、先細りしていくばかりになってしまうのでしょう。
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2010年04月06日(火) ■ |
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伝説のギャンブラーの「賭けに必ず勝つための二つの条件」 |
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『偶然のチカラ』(植島啓司著・集英社新書)より。
【人間はだれしも自分が選んだことにとらわれて自由な判断ができなくなる。
だれか他人が選んだことなら別に影響はないが、一度でも自分の判断が加わると、だれもがそれに多少の責任を感じるようになる。ちょっとしたはずみで決めたことでも、いったん決められてしまうとたちまち効力を発揮するようになる。だから、たとえば大きなギャンブルでは、まず自分より相手に判断させるように持っていくのがコツだということになる。すさまじい心理戦では、そこが勝敗の分かれ目になる。こちらが相手の選択に黙ってついていくと、次第に相手は自分の決断にとらわれて身動きがとれなくなっていく。もちろんこれはあまり力量差がない場合に限られる。
森巣博『無境界の人』に次のようなエピソードがある。 今世紀初頭に英国で活躍した賭けの銅元にチャーリー・ディックスという男がいた。彼は確率が正確に50%であるならば、二つの条件をつけて、どんなに金額の大きい賭けでも引き受けたといわれている。彼がつけた二つの条件とは次のようなものである。
(1)賭け金が大きいこと。その金を失うと死ぬほどの打撃をこうむるほどの金額であることが望ましい。
(2)たとえば、コインを投げた場合、表なら表、裏なら裏と賭けを申し出た当人が最初にコールすること。
それだけだというのである。森巣氏は「これはわたしの経験則とも完全に合致する『必勝法』である。懼れを持って打つ博奕は勝てない。なぜだかは知らない。とにかくそうなのである」と書いている。ギャンブルでは先にコールしたほうが負けなのだ。何かを選択するということはそれだけ大きな負荷のかかる行為なのである。
つまり、不幸は選択ミスから起こる。では、選択しなければいいのでは? そう、そのとおり。選択するから不幸が生じる。妻をとるか愛人をとるか、進学するか就職するか、家を買うか賃貸マンションに住むか? 海外旅行に行くか貯金するか、いまの会社にとどまるべきか転職するべきか? 果ては、「いつものティッシュを買うべきか、安売りになっている別のメーカーのティッシュを買うべきか」まで、われわれは人生のさまざまな場面で選択せざるをえない状況におかれている。
うまく生きる秘訣はなるべく選択しないですますことである。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」ということである。そういう状況に自分をおくように心がけなければならない。ただし、なるべく選択しないことが大切だとわかっていても、一夫多妻というわけにもいかないし、お金をつかったら貯金はできない。それでも、あなたはできるだけ選択せずに生きる道を探さなければならない。それを貫くのはかなり困難だが、それでもけっして不可能なことではない。】
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僕は基本的に「自分で選択することが苦手な人間」なので、この文章には驚かされたのと同時に、少しホッとしたんですよね。 「うまく生きる秘訣はなるべく選択しないですますことである」なんて言われると、いままで、「今日の夕ご飯、どこに食べに行く?」なんて「決断」を求められたときに、「うーん、どこでもいいんだけど…」なんて悩んでばかりで決められない自分を責めていた僕はダメ人間じゃなかったんだ、と考えてみたりもするわけです。 もっとも、こういうときに「どこに行く?」って訊ねてくる女性というのは、「自分が選択することの不利」をよく理解しているからこそ、こちらに「選択」を委ねているのかもしれませんが。
この話のなかのチャーリー・ディックスの「必勝法」、「なるほど」と感心してしまいますよね。 いや、本当に「確率が正確に50%」という賭けというのはそんなに多くはないので(しかも、コンピューターが存在しない時代の話ですから)、そういう賭けが成立する状況はそんなに多くはないのでしょうが、実際に自分がその賭けに参加する側の立場になれば、「負けたら死んでしまうしかないくらいの金額の賭け」というのは、平常心ではできないと思います。 「勝負する」と息巻いていても、途中で、「自分の負けでいいから、賭け金の半分を支払うことで勘弁してくれ……」と降りることを選択するかもしれません。というか、そうしてしまいそうな気がします……
そういえば、『カイジ』でも、カイジの相手のギャンブラーたちは、だいたい、先にカイジに「選択」させますよね。僕はいままで、あれはゲストへの「サービス」だと思っていたのですが、実際は、「相手に先に選択をさせる」というのが、すでに「有利な状況」となりうるわけです。福本伸行先生は、このチャーリー・ディックスのエピソードをどこかで読んだのでしょうか。
もちろん、どんな場合でもそうだとは限らないのでしょうが、「自分で選択をする側」が有利なのだというイメージにとらわれすぎるのは危険なようです。 大事なことは、なるべく選択をしなければならないような状況を避けること、そして、どうしてもその必要があるときには、「自分で選択しないですむようにもっていく」こと。 実際、「私と仕事のどっちを選ぶの?」なんて「選択」は、させられる時点で、すでに負けてるようなものですよね。
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