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2010年01月31日(日) ■ |
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それが、ウルトラマンの「スペシウム光線」なのだ。 |
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『ウルトラマンになった男』(古谷敏著・小学館)より。
(「ウルトラマンの中の人」だった、俳優・古谷敏さんが撮影当時のことを振り返って書かれた本の一部です)
【もう一つのポーズの話をしよう。ウルトラマンの最も有名なポーズとなり、日本中の子どもたちがまねをしたあのポーズも、初めてやった時は特に意識したわけではなかった。だから最初に演じたときも飯島監督に何気なくこう聞いた。 「この型は今回だけですか?」 でも、僕の予想に反して監督はこう答えた。 「いや、ウルトラマンが敵と戦って相手を倒す、最大の武器にしたい、そして毎回使いたい」 このスペシウム光線のポーズを決めるのも、とても大変だった。ウルトラマンに入ってすぐのことで、僕は苦しくてしょうがなかった。必殺の光線をどんなポーズで撃つのか? 撮影の合間に監督の指示でいろいろなポーズを試してみた。 一度型ができると、そのたびに高野カメラマン、中野稔さん、そして飯島監督が話し合う。僕は仮面をつけたまま待っている。この時が苦しいのだ。三人のやりとりを見ていると、監督が膝をついたり、頭を曲げたり、身ぶり、手ぶりで話し合っているが、仮面をつけているので声が聞こえない。話がすむとまた同じようなポーズを指示される。それを見ながら、また三人で話し合う。これが何度も繰り返される。我慢できなくなって仮面をとってもらう。ぬいぐるみは一人では脱げない。汗がすごい。流れ出る感じで目に入ってくる。何か対策を考えないといけないな、などと思いながら待っている。
飯島監督が言った。 「古谷くん、水平の手は防御、垂直の手は攻撃だよ」 高野さんが言う。 「ビンちゃん、腰を少し落として構えるといいよ。立てた手が顔にかぶらないようにね。カラータイマーも隠さないようにしてね」 中野さんが、 「古谷ちゃん、水平の手、垂直の手、組んだら絶対に動かさないでね。垂直の手から光線を出すから」 中野さんは、光学合成の技師で、円谷プロに古くからいる人だ。 「中野さん、何秒くらい動かさなければいいんですか?」 「それは監督しだいだね」 わかりましたと答え、またぬいぐるみをつける。今言われたことを考えながら、ポーズをつけた。
三人からやっとオーケーが出たころには、僕はヘトヘトに疲れていた。 僕にこの仕事ができるのかな? またそんなことを思った。でもインスタント写真を見ると、なかなかいいポーズだった。ウルトラマンの必殺技にするからね、と監督に言われた。 このポーズをしっかり会得したい。その日から毎日練習するようになった。一日の撮影が終わって、どんなに疲れていても家に帰って三面鏡に向かって一日三百回、毎日練習するようにした。三面鏡は演技の勉強のために、東宝で初めてもらったギャラで渋谷の家具店で買ったものだ。このポーズはシンプルで簡単なように見えるけど、なかなか納得がいく型を作れないのだ。曲がっていたり、指先まで力が入っていなかったり、垂直の手が斜めになっていたり、結構、むずかしい。 でも、何回も練習した。歩きながら振り向きざまに撃ったり、倒れながら撃ってみたり、大きく構えたり、早く構えたり、遅くやったり、前後の動きを頭に入れながら練習を重ねる。ワンクール過ぎたころから、納得のいくアクションができるようになった。
公園でも、居酒屋でも。 子供でも、大人でも。 誰でも、どこでも、すぐにできる、やさしいシンプルなポーズ。 それがウルトラマンの「スペシウム光線」なのだ。】
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この本を読んで、「初代ウルトラマン」を演じていた男の喜びと苦悩をあらためて知りました。僕はリアルタイムで「ウルトラマン」を観ていた世代ではないのですが、再放送で観るウルトラマンは、当たり前のことですが、いつも同じ表情で、淡々と怪獣と戦い続けていたんですよね。 僕は「ウルトラマンの中の人」は、着ぐるみ専業の「スーツアクター」だと思い込んでいたのですが、実際に演じていたのは、東宝の若手俳優だった古谷敏さんで、ウルトラマンになるまでは、何度か怪獣役として着ぐるみに入ったことがあるくらいだったそうです(ちなみに、古谷さんは、『ウルトラセブン』では、アマギ隊員役で出演されています)。
『ウルトラQ』のケムール人を演じたときのスラッとした佇まいを買われて、「ウルトラマン」を依頼された古谷さんでしたが、俳優としては、「自分の顔が画面に出ない主役」を演じることには、ものすごく抵抗があったのだとか。 「スーツアクター」は、暑いし、火や水のシーンは危ないし、視界が狭くて自分の動きもよくわからないという、かなり過酷な仕事。 この文章を読んでいると、そんな環境のなかでの、古谷さんの「プロ意識」の高さに敬服するばかりです。
たぶん、日本で生まれ育った中年以降の男子で、「あのポーズ」を一度も真似したことがない人は、いないのではないでしょうか。 あのポーズが、「その場の演出で」作られたというのは驚きですが、それ以上に、古谷さんが、そのポーズ「スペシウム光線」をカッコよくきめるために「一日300回鏡の前で練習していた」というのはすごいですよね。 「両手を十字に組み合わせる」というだけのポーズなのに、
【シンプルで簡単なように見えるけど、なかなか納得がいく型を作れないのだ。曲がっていたり、指先まで力が入っていなかったり、垂直の手が斜めになっていたり、結構、むずかしい。】
もし、古谷さんが、「どうせ顔が見えない仕事なんだから」と、いいかげんな演技をしていたら、「ウルトラマン」が、これほど多くの人に愛されることはなかったはず。
これを読んで、僕は「ああ、子どもの頃どんなに真似しても、『本物のウルトラマン』のスペシウム光線とは何か違うように感じたのは、それだけのこだわりがあったからなんだな」と納得することができました。 やっぱり、ウルトラマンはすごかった!
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2010年01月24日(日) ■ |
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「一生ディナーをともにすることのない人に何を言われても気にする必要はない」 |
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『本田流 しりあがり的 額に汗する幸福論』(本田直之×しりあがり寿著・かんき出版)より。
【成長したければ、人の話を素直に聞くこと。とくに身近な人の苦言は、自分を磨く砥石だと思って、耳を傾けてください。 けれども、親しくない人が、単なる思いつきで言ったようなことまで真に受けて、右往左往したりするのはどうでしょうか。
「一生ディナーをともにすることのない人に何を言われても気にする必要はない」
森理世さんがミスユニバースになった後、週刊誌でいろいろ書かれて悩んでいたとき、彼女を育てたイネス・リグロンはこういったそうです。なるほど、至極名言。】
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初代「ブログの女王」と呼ばれた眞鍋かをりさんが、以前、こんなことを言っておられました。 「ネットの掲示板での自分への悪口は、『見たら負け』なんですよ」
芸能人や有名人への「マスコミからのバッシング」は、「芸能界」と「マスコミ」ができて以来、ずっと続いている「慣習」なのです。 でも、たしかに「一生ディナーをともにすることのない人」の誹謗中傷にいちいち反応していては、身がもちませんよね。 それに、芸能人や有名人は、バッシングされることがあっても、メディアからの恩恵を受ける面も確実にあるので、ある種の「有名税」として、ガマンせざるをえないところもあるでしょう。
しかしながら、現在の「ネット社会」では、メディアからの恩恵をたいして受けられるわけでもないのに、「一般人」から一斉に叩かれるというマイナス面ばかりを引き受けなければならない人が出てくるようになりました。もちろん、ネットのおかげで、これまでは注目されなかったような人や活動にも光があたるようになったのも事実なのですが。
「一生ディナーをともにすることのない人に何を言われても気にする必要はない」 確かに、至言だと思います。逆に、言う側は、「一生じかに接することのない人」だと考えれば、面と向かっては絶対に言えないような酷いことを行ったり書いたりできますしね。
やはり、大事なのは「スルー力」だということなのでしょう。 でも、有名人でもないのに「全くディナーをともにする可能性がなさそうな人から、こんなに悪口を言われるようになった世界」というのは、かなり怖いよなあ。
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2010年01月17日(日) ■ |
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「歴史に学んだ人たち」が、スターリンを選んだ。 |
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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著・朝日出版社)より。
(東京大学文学部教授の加藤さんが、日清戦争から太平洋戦争について、男子高校生たちに向けて行った5日間の講義をまとめた本の一部です)
【歴史は一回きりしか起こらないから、歴史から学ぶことはできない、歴史は教訓にならないということに対してもカー先生(E.H.カー:イギリスの歴史家。著書『歴史とは何か』が有名)は反論していますので、これも見ておきましょう。歴史の出来事は一つひとつの特殊な事件の積み重ねだから、お互いになんの教訓も影響も与えないとの見方、だから歴史は科学じゃないと言い張る頭のカタいヤツにはこう反論するのです。歴史は教訓を与える。もしくは歴史上の登場人物の個性や、ある特殊な事件は、その次に起こる事件になにかしら影響を与えていると。 一つの事件の経過が、次のある個別の事件に影響を与える。当事者が、ある過去の記憶に縛られて行動する。みなさんもちょっと考えてみてください。歴史上のある一つの事件が、他の事件に強く影響力を及ぼしたというケースにはなにがあるか。 カーが挙げているケースは、こういう例です。ロシア革命は1917年に起こりますが、それを起こした人の多くはユダヤ系のロシア人で、後にボリシェビキ(多数派を意味するロシア語です)といわれるグループでした。この人たちは、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。 そのことを歴史に学んで知っていたボリシェビキは、ロシア革命を進めていくにあたってどうしたか。これは、レーニンの後継者として誰を選ぶかという問題のときにとられた選択です。ナポレオンのような軍事的なカリスマを選んでしまうと、フランス革命の終末がそうであったように、革命が変質してしまう。ならばということで、レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。 スターリンは、第一次世界大戦やその後の反革命勢力と戦う過程での軍事的なリーダーシップを全く持たなかった人でした。トロツキーは、内戦を戦った闘将でしたし、第一次世界大戦の戦列からロシアを除くために、敵国ドイツとの単独講和にも踏み切った英雄でした。このときトロツキーは、こんなにロシアが損をしてどうする、国がなくなるぞという国内からの圧迫を受けながらも、革命を成就させるためにドイツと手を打たなければと、エストニアやラトビアなどをロシア帝国から全部吐きだすのです。一つの帝国が一つの戦争で吐きだした地域の広さでは過去最大でした。その結果、ロシアは戦争をやめることができ、だからこそロシア革命は成功したのです。トロツキーにはこのような政治的才能もあった。 トロツキーは、第二のナポレオンになる可能性がある。よって、グルジアから出てきた田舎者のスターリンを選んだほうが安全だと。 ロシア革命を担った人たちが、フランス革命の帰結、ナポレオンの登場ということを知ったうえでスターリンを選んだというのは、かなり大きな連鎖であり、教訓を活かそうとした結果の選択です。一つの事件は全く関係のないように見える他の事件に影響を与え、教訓をもたらすものなのです。しかも、ここが大切なところですが、これが人類のためになる教訓、あるいは正しい選択であるとは限らない。スターリンは1930年代後半から、赤軍の関係者や農業の指導者など、集団化に反対する人々を粛清したことで悪名高い人ですね、犠牲者は数百万人ともいわれる。】
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こういう話を読むと、「歴史」というのは、未来の人が「どうしてそんな選択をしたんだろう?」と思うようなことにも、当時の人にはそれなりの「理由」があったのだな、ということを考えさせられます。 カー先生の話によれば、もしナポレオンとその時代がなければ、ロシア革命の指導者たちは、「英雄的な人物」であったトロツキーを選んだ可能性が高かったでしょうし、スターリン時代の大粛清も起こらなかったはずです。 もちろん、第二次世界大戦も、それが起こったどうかも含めて、全く違ったものになっていたでしょう。 いまの時代の人間にとっては、ロシア革命〜スターリン時代というのは、1世紀〜半世紀前の出来事ですし、ナポレオンとなると、2世紀も昔の「歴史的事実」ですから、スターリンが選ばれた背景にある「ナポレオンの影響」を想像するのは難しいですよね。 最近の例でいえば、小泉さんのあとに福田康夫さんが総理になったのは、「小泉さんの靖国参拝などの東アジアへの強硬路線は、ちょっとやりすぎだったんじゃないかな……」というような「反動」も一因なのでしょうが、あと100年先の人があの時代を振り返ってみると、「なんであんな『私はあなたとは違うんです』なんて投げだしちゃうような人を選んだのかサッパリわからない、当時の日本人はバカだったんじゃないか?」とか思われてしまうかもしれません。 歴史というのは、目に見える「事件」だけではなくて、その時代にリアルタイムで生きている人々の「イメージ」みたいなもので動いている面もあるのです。 それは、どんなに過去の資料を調べても、後世の人間には理解しがたいものではあるのでしょう。
ところで、この話、僕も興味があったので少し調べてみたのですが、実際は、「トロツキー=ナポレオンという危惧」だけではなくて、(というか、それよりも)争いに疲弊した革命の指導者たちが、トロツキーの「革命を世界中に広める」という思想よりも、「とにかくいまのロシアを中心とする地盤を固めていくことを優先する」というスターリンを支持したことと、スターリンの権力掌握のための謀略の才能によるところが大きいのではないかと思われます。 トロツキーも「完全無欠の人格者」というわけではなく、「トロツキーを選んでいれば、スターリンよりは良かった」とも言い切れない面があります。それこそ、「世界革命のための世界戦争」が起こっていたかもしれないし。
しかしながら、スターリンが行った「歴史的事実」について考えると、「歴史に学ぶことは大事だとは言うけれど、学んだからといって、常に正しい選択ができるというわけではない」としか言いようがないですよね。少は、「正解」を選べる可能性がアップするくらいのもので。 結局のところ、何が「正解」かというのは、「もしもボックス」がないとわからないのですが。
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2010年01月09日(土) ■ |
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児玉清「素人参加の最近の『アタック25』は、人生そのものなんです」 |
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『阿川佐和子の会えばドキドキ〜この人に会いたい7』(文春文庫)より。
(阿川佐和子さんと児玉清さんの対談の一部です。2007年6月14日号の『週刊文春』掲載)
【阿川佐和子:『アタック25』の司会は33年目だそうですが、これはものすごい長寿番組ですよねえ。
児玉清:目立たないから続けられた感じですよ。それとありがたいのは、あの番組の奥の深さなんです。一度として同じことがない。出る人は毎回違うし。
阿川:解答者のみなさんは素人の方で。
児玉:最近は特に。昔はクイズマニアばかりで少々厭味、鼻高々で「俺はこれだけ知ってんだ」みたいなね。だって「ガ行で始まる県は岐阜県の他に何?」と聞いてすぐに「群馬県」って答えられる人が偉いと思う?
阿川:一応、驚嘆はしますよ。「おお、すごいな」って。
児玉:たしかに。でも素人参加の最近のアタックは人生そのものなんです。終わった後、誰もが必ず言うのは、「あのとき押していれば勝ってた」「答え知ってたのに押せなかった」って。この連続。
阿川:だって絶対的にリードして誰も追随する人間がいないのに、あっという間にコロコロって(パネルが)2枚になっちゃったり。
児玉:するとね、何を要求しているかっていうと、勇気なんですよ。
阿川:零コンマ何秒かの判断。
児玉:そう、例えば「遠視を矯正するメガネに用いられるのは凹レンズと凸レンズのどっち?」という問題で、頭の中では「凸レンズ」と思っているのに、ボタン押した途端に「凹レンズ!」って言っちゃうのね。
阿川:アッハッハッハッハ。
児玉:そこらへんの人間の機微はたまらないですね。快調に走ってた人が、「勝ち」を意識した瞬間から押せなくなったり。
阿川:ゴルフと同じだ。
児玉:そう。逆に、何も押せずにいた人がアタックチャンスのときに何となしに押して、どんどん正解してパッと勝っちゃう。でも僕はあの番組を一度としてちゃんとできたことがないんです。何度やっても悔いが残っちゃう。
阿川:司会者として?
児玉:ええ、アタックの理想の形とは何なのか? 考えても答えにたどり着かないんですよ。例えば、「さあ、赤が答えるのか、青が答えるのか」って赤と青が競ってるときに、それまで何も押さなかった白がプシュッと押して正解して終わっちゃう。そのとき僕はどんな言葉でまとめればいいのか。
阿川:理想高ーい、児玉さん!
児玉:理想だけは高いの、努力しないんだけどね(笑)。
阿川:いえいえ、努力もなさってます。じゃあ飽きないんですか?
児玉:そう、何度やっても飽きないんですよ。今そこを言おうと思ったの! 25マスでありながら千変万化なんだよね。ただ、あの番組には欠点があったんです。十字ができたときに、答える人が損だと。
阿川:わかんないんです、私。角を取れば強いってことぐらいしか。
児玉:十字ができた後に答えると、次の人に角を取られる可能性が出てくるんです。すると、角を取るまで答えない人がいるんですよ。一時、いくら問題出しても全員答えないときがあって。中には、わざと間違って立ったり。
阿川:えーっ!
児玉:僕は「この番組はこれで終わったか」と思ったの。で、スタッフがいろいろ考えたんだけど、そういう時はものすごくやさしい問題を出すんです。
阿川:「日本で一番高い山は何ですか?」なんて(笑)。
児玉:そうそう、そんな問題を続けたり(笑)。解答者との攻防戦があったの。
阿川:面白ーい。
児玉:ところが、策を練った人間っていうのはね、策に溺れるんです。待ちに待って「さあ答えよう」とボタン押したからといっても、4人いるから権利が取れるかどうかはわからない。誤算が出てきてガタガタになる。
阿川:タイミングを待ったのに。
児玉:しかも十字のところで答えなかった人たちが勝てたかというと勝てない。むしろ、そのとき果敢に打って出た人のほうが勝っちゃうケースが出てくる。番組を眺めてた人たちも、そういう推移を見て「策を弄さないほうがいい」と気づいてくれた。
阿川:『アタック25』だけでドラマができそうですね。
児玉:そうなんです。解答者の最初から終わりまでの心の高まりや動き、迷いをやっただけで大変な人生ですよ。
阿川:ほぉー。
児玉:最近は博多華丸さんという方が僕のモノマネをしてくださって、予選応募者も少し増えましてね。
阿川:モノマネを最初にお聞きになったときは、どう思われましたか?
児玉:びっくりしましたよ。一年半くらい前かな、たまたま観てた番組で華丸さんが「アタック25の司会児玉清です」ってやっていて「何これ!?」って大笑いしてたの。
阿川:ご本人には会われたんですよね。
児玉:ええ、アタックには一度だけ出てもらいました。「あなたのおかげで」なんて言われて、僕自身も信じられない思いですけど。いい人にやってもらってると思ってますよ。】
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『アタック25』は、1975年にスタートした、今では珍しい「視聴者参加型」のクイズ番組です。僕は毎週日曜日に待ってましたとチャンネルを合わせたり、タイマー録画をしておくくらいのファンではないのですが、たまに『アタック25』が放送されているのを観ると、「ああ、まだやってたんだ、よかったなあ」と安心します。何が「よかった」のか、自分でもよくわからないのですけど。
児玉清さんは、この番組の第1回の放送から現在(2010年1月現在)まで、34年にわたって司会をされており、これは「日本のテレビにおけるクイズ番組史上の最長の司会記録」なのだそうです。 児玉さんをあまりドラマなどで見かけなくなった時期には、「児玉さんって、『アタック25』で食べているんだろうな……」などと失礼なことを僕も考えていたのですが、博多華丸さんのモノマネで注目される前から、「『アタック25』といえば、児玉清」というイメージは強かったんですよね。番組のマンネリ化を防ぐための「司会者交代」が34年間一度も行われなかったというのは、なんだか不思議な気もします。
さすがに、これだけずっと司会をやっていれば、「やっつけ仕事」になるのかと思いきや、児玉さん自身には、まだまだこの番組に対する情熱がすごくあるということに僕は驚きました。 『アタック25』って、ちょっと前にプレステのゲームになっていて、そのゲームには児玉清さんの声が入っているのですけど、この番組って、ある程度パターン化されたやりとりがあって、ゲームでの限られた児玉さんのボイスでも、けっこうそれらしくなってしまうんですよ。 もっとも、そういう「偉大なるマンネリズム」こそが、この番組の味になっているのも事実だし、児玉さんもそれは重々承知なのでしょう。
オセロゲームをモチーフにしたと思われる『アタック25』のルールには、こんな「欠点」と「解答者との攻防」があったというのもはじめて知りました。オセロゲームなら、交互に石を置いていくことが決まっていますから、「十字になったときに先に石を置くのは不利」だとは思うのですが、『アタック25』の場合は、クイズに答えられないとマスを取れません。角が取れるときに自分が答えられる保証はないのに、「待機策」をとる人たちは、よっぽどクイズに自信があるんでしょうね。 もっとも、クイズマスターと呼ばれる人たちは、「ガ行で始まる県は岐阜県の他に何?」と聞いてすぐに「群馬県」って答えられる」なんてレベルではなく、「ガ行で始まる県はギ…」というところで解答ボタンを押して「群馬県」と平然と答えるらしいので、『アタック25』は、あくまでも「素人」を優先して出場させているのではないかと思われます。
【素人参加の最近のアタックは人生そのものなんです。終わった後、誰もが必ず言うのは、「あのとき押していれば勝ってた」「答え知ってたのに押せなかった」って。この連続。】 児玉さんのこの言葉を読むと、本当に「素人参加のクイズ番組っていうのは人生そのもの」だよなあ、という気がします。 『アタック25』の参加者たちの「あのとき押していれば…」「答えを知っていたのに…」というのは、僕の人生にもあてはまるのです。ああ、後悔ばかりの人生だなあ。
プロの解答者の「おバカ解答」を笑うのも楽しいけれど、そういう番組ばっかりになってしまうと、やはり淋しいですよね。あれはある意味、視聴者のほうが「バカにされている」のかもしれません。 『アタック25』と児玉清さんには、これからもずっと頑張っていただきたいものです。
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2010年01月05日(火) ■ |
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「ロースかヒレか、どちらかひとつを選択するなら、迷わずロースを選ぶ男と結婚しなさい」 |
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あけましておめでとうございます。 2010年が、皆様にとって良い年になりますように。
『本の雑誌』2010年1月号(本の雑誌社)の東川端参丁目さんの「本ととんかつ」というエッセイの一部です。
【とんかつは、ロースに限る。 平松洋子『おんなのひとりごはん』(筑摩書房)によれば、<ヒレは淡々としていて、途中で飽きてくる>けれど、<ロースかつときたら脂が甘くてとろっととろけて、まるで熱くて甘いソースみたいにふわあっと肉にからまる。ひとくちひとくち、食べ心地も歯ごたえも脂と肉のからまり具合も微妙に違うので、おいしさに展開があるといったらよいか>。 そう、ロースは「おいしさに展開がある」のだ。何もかけずにそのままでもよし、レモンを絞ってから塩やソースをかければ、さらに楽しめる。そして、何よりも魅力的なのは、サシといわれる脂肪である。脂身を味わわないのは、焼き魚の身だけ食べて皮を残すのと同様、非常にもったいない。 ちなみに「成城のとんかつやさん」だったか、ある店主は娘に「ロースかヒレか、どちらかひとつを選択するなら、迷わずロースを選ぶ男と結婚しなさい」と常々いっていたらしい。けだし至言である。どちらを選ぶかでその男の食に関する来歴、好みやスタンスが露呈してしまうといっても過言ではない。】
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『成城のとんかつやさん』は新潮文庫に収められている宮尾登美子さんのエッセイだそうです。 この文章、読んでいるだけで、とんかつが食べたくなってきますよね。 僕もとんかつは大好きなのですが、「ロースかヒレか?」と問われたら、その日の体調や空腹度によりますが、ロースを選ぶことが6割、ヒレが4割というところでしょう。「ロースとヒレが半分ずつで、両方とも味わえるメニュー」があれば、そちらを注文するかもしれません。
このなかで、とくに僕の印象に残ったのは、 【ある店主は娘に「ロースかヒレか、どちらかひとつを選択するなら、迷わずロースを選ぶ男と結婚しなさい」と常々いっていたらしい。】 というエピソードでした。 「ロースのほうが旨いんだから、味のわかる男を選べ」というだけの意味ではないですよね、たぶん。ロースのほうが確実に安いってわけでもないし。
僕はこの話を「味覚」に限定したものではなく、「ヒレのような堅実だけれど単調な男よりも、長く付き合っていくのであれば、ロースのような、いろんな面がある男(そして、その多様性を楽しむ感性を持っている男)のほうが退屈しないで済む」と解釈しているのですが、それはちょっと「考えすぎ」なのかなあ。
僕は男なので、相手が女性の場合はどうだろう?とも思うのですが、「迷わずロースを選ぶ女性」というのは、なんとなく引いてしまうような気もするんですよね。「ロースの脂は健康に悪いから、絶対にヒレ!」という女性は、もっと苦手ですけど。
とりあえず、結婚を考える際には、ぜひ一度その相手ととんかつを食べに行ってみてはいかがでしょうか。
まあ、そういうときに限って、 「じゃあ……チキンカツ定食!」 とか言われてしまうものではありますが。
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