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活字中毒R。
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2009年12月30日(水)
「活字中毒R。」 2009年総集編

本年も、「活字中毒R。」におつきあいいただき、ありがとうございました。
2009年の最終更新ということで、今年僕の記憶に残っていたり、反応が多かったものを10個振り返ってみたいと思います。
(番号は便宜的につけたもので、「順位」ではないです)

(1)『ジャンプ放送局』が終了した「本当の理由」 (1/4)

 そういえば、横山智佐さん今年結婚されましたね。お相手は世代的に『ジャンプ放送局』を読んでいたのではないかと思うのですが、まさか自分が「チサタロー」と結婚するとは予想してなかっただろうなあ。


(2)村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」 (3/11)

 村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞と新作『1Q84』は大きな話題になりました。僕が「正論原理主義」を怖いと思うのは、結局のところ、ネットでこれを振りかざしている人の大部分は、「自分自身のことは棚上げにしている」ことなのです。


(3)絵本『ぐりとぐら』ができるまで。 (3/16)

 うちの息子も読んでます『ぐりとぐら』。


(4)『タクティクスオウガ』の「カオス」から抜けられない女 (4/13)

 すごく身につまされる話。よく「人生やりなおせるなら……」という話になるけれど、僕は何度やりなおしても、ビアンカを選びそうな気がします。


(5)「ジャポニカ学習帳」の表紙へのこだわり (5/2)

 「ジャポニカ」がいまも現役だということに驚きましたが、あの表紙も、こんな話を読むと一層魅力的に感じます。


(6)「ネットをやっている人間はバカになる」 (5/25)

 こういう話に反発するのは簡単なんですが。実際「バカになりやすい」面は否定できないんじゃないかと思います。自戒をこめて。


(7)声優・大塚明夫さんの驚くべき「声の演技」 (6/17)

 いや、「プロの仕事」って、本当にすごいです。しかしこれ、何も知らずに遊んだ人たちには伝わったのだろうか。


(8)タモリに「アイツは、『いい人』じゃなくて、『いい人だと思われたい人』なんだよ」と言われた男 (8/2)

 「いい人」とは何者なのか?と考えさせられた話でした。個人的には、今年いちばん心に残っているエントリです。


(9)よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」 (8/8)

 さまざまな論議を生んだエピソードだったのですが。いまから考えてみると、「よしもとさんがやったこと」よりも、「よしもとさんがこうしてそういう話を公然としたこと」のほうが反発を呼んだのかもしれませんね。


(10)「『素直に承諾したものが損をする』というシステムは絶対に違う」 (12/4)

 僕も「絶対に違う」と思いたい。みんなが「ゴネ得」を追い求めるような世の中はあまりに悲しいから。でも、そこで「正しさ」を貫くことの難しさもわかるんだよなあ……


 「今年の最後にもう一度御紹介しておきたい話」10日分。
 これを書きながら今年のエントリを読み直していたのですが、これだけしか書いてなかったのか……と自分でも驚きました。
 更新は年々減っていく一方にもかかわらず、本年もたくさんの方にお越しいただき、本当にありがとうございました。
 やはり、読んでくださる人がいる、というのが、最大にして唯一のモチベーションです。
 紹介してくださった、ニュースサイト、ブログ各位にも、厚く御礼申し上げます。
 来年は大きなことは考えず、なんとか週1回更新はキープできればいいなあ、と考えております。
 どうか引き続きお付き合いくださいませ。


今年最後の宣伝。
『Twitter』で僕もつぶやいています。
http://twitter.com/fujipon2



 それでは皆様、よいお年を!



2009年12月27日(日)
三谷幸喜さんが語る「向田邦子さんのシナリオの凄さ」

『三谷幸喜のありふれた生活8 復活の日』(三谷幸喜著・朝日新聞出版)より。

(「特別な大先輩、向田さん」という項より)

【「阿修羅のごとく」という連続ドラマは、僕からすれば、神様が書いたシナリオである。どの登場人物も、言っていることと思っていることが違う。僕の理想。なぜなら彼らは普段、そうやって生きているから。言葉と思いとは必ずしも一致しないのである。自分もそんな台詞を書きたいといつも思っているのだが、なかなかうまくいかない。
「阿修羅のごとく」で向田さんは、辛辣なまでに人間の二面性をあぶり出す。一見平穏に見える家族たちが、裏ではかなりどろどろの駆け引きを展開する。
 何が凄いかって、僕レベルの脚本家は、それぞれのキャラクターの個性を表す時に、どうしても台詞に頼ってしまう。その人がどんな喋り方をするかで、個性を出そうとする。よく喋る人、無口な人、まわりくどい言い回しを好む人、等々。実際は、そこまで単純ではないのだけれど、まあ、そんな感じ。だからどうしても台詞が多くなる。
 向田さんは違う。台詞量はむしろ少ない。その代わり、行動でキャラを表現する。
 例えば「阿修羅のごとく」の冒頭。いしだあゆみさん演じる三女滝子は、あまり他者と交わらない内向的な女性。彼女のキャラが強烈に伝わるシーンがある。
 八千草薫さん扮する姉巻子のところに滝子から電話が掛かって来る。巻子はちょっと抜けたところがあって、途中でそばにいた家族と話し込んで、妹のことを忘れてしまう。だいぶ経ってから夫に言われて思い出し、再び受話器を手に取る。そこで画面が切り替わり、滝子が映し出される。彼女は公衆電話に小銭を入れながらひたすら待っていた。
 ここが凄い。電話を忘れてしまう姉のキャラもいいけど、じっと待っている妹(それもかなり長時間)の怖さ。しかも待っている間、淡々と十円玉を入れ続けていた風なのだ。この瞬間だけで、彼女の、なんだかジトッとした個性が浮き上がって来る。簡単なように思えるかもしれないけど、今の僕には到底思いつけない設定だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も向田邦子さんのエッセイは、高校の図書館で見つけて以来、ほとんどすべて読みました。
 しかしながら、向田さんの脚本や、その脚本をもとにつくられたドラマは、ほとんど観たことがないんですよね。当時は「ドラマの再放送」というのが今ほど多くはなかったですし(何度も繰り返されているものもありましたが)、そもそも、10代後半から20歳代くらいの僕は「ホームドラマ」というものにあまり興味を持てませんでした。
 大学1年生のときに『東京ラブストーリー』が放送された「トレンディドラマ直撃世代」ですし。

 この三谷さんのエッセイを読んで、「もし僕が、何の予備知識もないまま、この『阿修羅のごとく』の冒頭のシーンを観たとしたら、その凄さを感じることができただろうか?」と思いました。
 たぶん、リアルタイムで観ても、そんな「特別な印象」は受けなかったんじゃないかなあ。残念ながら。
 でも、この場面の凄さというのは、観ている人がとくに引っかかりを感じないまま、「滝子」がどんな人物なのかを理解させてしまうところにあるのです。
 最近のドラマでも、作品の冒頭では、『阿修羅のごとく』でいえば、滝子自身に「なんで私って、こんなに優柔不断なんだろう……」と悩ませたり、巻子に「滝子はハッキリしない子だから……」みたいな説明的な台詞を言わせたりしているものが、けっこう多いのではないかなあ。
 そしてこの「公衆電話に十円玉を入れ続けている女」というのは、具体的な事例としては、誰にでも想像できて、そのうえ、すごく説得力がある「キャラクター説明」ですよね。今の携帯電話全盛時代では、伝わらないかもしれませんけど。

 それにしても、こういう場面に「凄さ」を感じることができるのは、やぱり、同じ脚本家としての三谷幸喜さんの凄さでもあるのでしょうね。
 「普通の人」の描写に説得力を持たせるのは、「スーパーマンが主役のドラマ」よりもはるかに難しい面があります。
 視聴者は、天才外科医の気持ちはわからなくても、ホームドラマの登場人物の心情は想像しやすいはず。
 そう考えてみると、たしかに「簡単そうに見えるけど、実際にこれを書ける人は、ほとんどいない」のではないかと思います。
 向田邦子さんは、やっぱり凄い。




2009年12月22日(火)
バンダイナムコ・石川祝男社長の「ゲームメーカーの社長の仕事」

『ゲーム業界の歩き方』(石島照代著・ダイヤモンド社)より。

(「バンダイナムコホールディングス・石川祝男社長が教えてくれた『会社の創り方』」というコラムから)

【ゲーム業界に限らず、日本でM&A(企業買収や合併)が増加することは間違いない。そんなときに理想とされる社長像とは、どんなものか。2006年にバンダイとナムコが合併してできた、バンダイナムコゲームス初代社長の石川祝男さんの歩みから考えてみたい。
 筆者が石川さんと初めてお会いしたのは、旧ナムコの記者懇談会の席だった。創業者でバンダイナムコホールディングス相談役の中村雅哉さんが「ウチの期待のふたりを紹介するよ」といって直々にご紹介くださったのが、当時のナムコ副社長だった石川さんと東純さん(現バンダイナムコホールディングス取締役)だった。
 巷で流行っている「草食系男子」という言葉を借りれば、石川さんは「草食系社長」といっていいのかもしれない。家族の様子を遠くから見守るお父さんのような「草食系カリスマ」と、個々に踏み込みすぎない「草食系リーダーシップ」を持つ社長さんだ。
 といって、クールを装っているかというとそうでもない。石川さんはアーケード用ゲーム「ワニワニパニック」の生みの親としても知られているが、発売後心配でゲームセンターへ様子を見に行ったという。そのとき、「100円を入れて遊んでくださるお客さんの姿を見て、思わず泣いてしまった」そうだ。

(中略)

「ワニワニパニック」デビューまでの道のりは平坦ではなかった。「当時ヒットしていたモグラたたきが縦だったので横から出てくるのはどうか、と考えたんです。思いついて2時間後には企画書を作っていました。でも、部長の評価は”ボツ”。あきらめきれず、その日のうちに段ボールとスリッパで”試作品”を作った。BGMを歌いながら、ワニに見立てたスリッパを動かし、部長に棒で叩かせたんです。部長が面白がってねえ」。その後、「ワニワニパニック」は旧ナムコを代表するアーケードゲームのひとつに成長した。

 アーケード業界一筋だった石川さんが社長に就任したバンダイナムコゲームスは、常にバンダイとナムコの合併の象徴として注目され続けてきた。合併会社の常として、両社出身者による派閥争いは避けられないものだが、石川さんの下では争い自体が無意味だった。
「派閥があっても構わない。みんなが私が掲げた『世界ナンバーワンのエクセレントゲームカンパニーになる』という目標を共有してくれれば、あとは勝手にやってくれていい」
 この言葉は、出身会社に対する社員の愛情に敬意を表したものだった。会社のM&Aは、個々の社員の責任ではないし仕方がない。だから、無理に仲よくしなくてもいい。ただ、仕事で結果は出してもらう。それが、社長就任時に掲げた方針だった。
 そう話す一方で、石川さんは社内融和に力を尽くしていた。自分の姿を頻繁に見せることで、社員が新会社に親しみや愛着を持てるよう心を砕いたのだ。社員が「ああ、また社長がいるよ〜」と笑うほど、社内を歩き回っていた。
 この件に関しては、逸話がある。社長ご自慢の社員食堂で筆者がご馳走になったときのこと。石川さんはカレーライスのおまけについてきたお菓子を開けず、手に持ったまま食堂内をぶらついていた。すると、ある女子社員が「こんにちは!」と挨拶し、ふとその手に目を留めた。
「あ、社長がお菓子を持ってる〜」
 石川さんが「よかったら、あげるよ?」とお菓子を差し出すと、女子社員はびっくりしながら笑顔で受け取った。のちに、石川さんはこの件について「実は秘書にあげようと思ってたんだけど、ま、たまにはいいよね」と恥ずかしそうに話してくれた。
 また、同社の開発職関係者の話によると、ソフトのマスターアップ(締め切り)直前で殺気立っている開発チームの部屋にも、石川さんは頻繁に顔を見せたという。「普通は誰も行きたがらないよ。そりゃあ殺気立ってるなんてもんじゃないからね。でも、石川さんは来る(笑)。開発のほうも『社長ならしょうがないな』と苦笑いしてあきらめる」
 
(中略)

 ある取材の折、石川さんが本社の入り口で建物を振り返ってつぶやいた。「ここに立つと会社が全部見える。これだけの社員の人生を預かっていると思うと、いつも身震いがするんだよ」。石川さんはサラリーマン出身の社長でありながら、まるで創業者のようにバンダイナムコゲームスを愛した。
 一方で、経営者としての石川さんが市場に注ぐまなざしは、冷静だった。自社開発陣の成長と市場バランスを常に考えていた。
「作ったゲームソフトが売れるに越したことはない。ただ、何でもミリオンセラーになることはありえない。だから、畑は2つ持たなければならない。ひとつは、ミリオンもしくはハーフミリオンが狙えるソフト畑。もうひとつは10万本クラススタートの『明日のミリオンセラーソフト』畑。ミリオンセラー系ソフトは常に必要だけど、後者の畑がなければ良質なヒットサイクルは生まれない。そして、両方の畑を大切にすることが、開発者を大切にすることにつながるんだよ」
 時には、開発者と直接やり合うこともあったらしいが、それは石川さんの開発者としての経験がそうさせたのかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、この方が石川祝男さんです。

 石川社長、僕はこのコラムを読む前に、テレビに出演されているのを何度がみかけたことがあるのです。
 CSの名物番組『ゲームセンターCX』に、バンダイナムコがこの番組のゲームを発売していることもあり、何度か出演し、有野課長と絡んだりされていたんですよね。
 リンク先の写真の石川社長は、真面目そうでやや強面ですが、僕がテレビで観たときの石川社長は、本当にずっとニコニコされていて、すごく柔和な感じの人でした。バンダイナムコという大会社の社長には、ちょっと見えないくらい親しみやすそうな人、という印象。有野さんにもけっこうイジられていましたし。

 正直、任天堂の岩田社長や宮本さんのような「カリスマ」と比べると、どこにでもいそうなおじさんにしか見えなかった石川社長。開発者としての実績も、もちろん立派なものではあるけれども、「世界的にすごく有名」とまではいきません。
 『ワニワニパニック』も、「もぐらたたき」という既成のゲームの「タテのものをヨコにしただけ」ではありますよね。
 しかしながら、そのゲームを「製品化」するために、「段ボールとスリッパで作った試作品で、BGMは自分で歌いながら部長に棒で叩かせた」とか、「『ワニワニパニック』にお客さんが100円を入れて遊んでくれているのを見て泣いてしまった」というエピソードには、石川社長の「人間くささ」と「ゲーム作りへの情熱」がこもっています。

 石川社長自身は「天才的なひらめきを持つ開発者」ではないのかもしれませんが、だからこそ、周りの人たちの気持ちが理解できるし、自分が中心になって引っ張るよりも、裏方としてみんなが働きやすい環境をつくろうとされているように思われます。
 実際は、ナムコとバンダイという大企業同士の合併直後にトップとしてやっていくというのは、ここで紹介されているような、ほのぼのとした話ばかりではなかったのでしょうけど。

 そして、大事なことは、石川社長は、けっして甘くて優しいだけの経営者ではない、ということです。
 「畑を2つ持つ」という発想には、長年ゲーム業界の第一線でやってきた石川社長の「ヒットするゲームを生み出し続けるためのノウハウ」が反映されていますし、その一方で、『明日のミリオンセラーソフト畑』ですら、10万本クラスの結果を求めるというのは、けっして低いハードルではありません。いまは、一部の大ヒットゲームを除くと、「売れないゲームは徹底的に売れない時代」でもありますから。

、このコラムを読んで、僕は「この人の下で働いてみたいなあ」と思いました。
 世間でもてはやされる「その人自身が強い輝きを放つカリスマ経営者」は確かに魅力的で、それに比べると、石川社長は、「泥臭い、いかにも日本的なトップ」なのでしょう。
 でも、こんな時代だからこそ、石川社長のような人の下で働きたい、と感じる人は、けっして少なくないはず。
 
 筆者の石島さんによると、石川社長にとっての「社長職」とは、「お客さまを笑顔にする社員を笑顔にすること」なのだそうです。



2009年12月10日(木)
松本人志いわく、「笑いの源泉は怒りだ」。

『笑う脳』(茂木健一郎著・アスキー新書)より。

【お笑い芸人さんも、大成している人は、どうも攻撃性が高いひとが多いのではないだろうか。彼らはその攻撃性を笑いで、たくみに解毒しているのだ。攻撃性が高ければ高いほど、強烈な解毒剤が必要になってくるのは、理にかなっている。
 その意味で、怒りと笑いは表裏一体といえる。
 以前、松本人志さんと話をしたときも、彼は「笑いの源泉は怒りだ」と語っていた。とにかく腹が立って、腹が立って、仕方ないと。90パーセントくらいは、怒りで成り立っているというのだ。
「僕はね、スゴイというか不思議なのは、世の中に怒っているんですよね。怒っていることを発してひとを笑わせてるっていうのは何なんやろって、自分でも不思議なんですよね」
 そう語る松本さんが、お兄さんから聞いて思い出したという自分の幼いときのエピソードを教えてくれた。
「雨が三日間くらい降り続いたときにね、空に向かって、ずっと怒鳴ってたんらしいんですよ」
 松本さんはダウンタウンではボケを演じている。ところが、本当はボケているように見えて、ツッコミを入れているのは松本さんの方なのではないだろうか。それも相方の浜田雅功さんにではなく、世の中に対するツッコミだ。松本さんが世の中を怒り、ツッコミを入れる。すると観客がどっと笑い出す。
 こんな状況に松本さん自身は「腹立つときもあるんですよ。本当に怒ってるのに、みんなは笑っているって」と苦笑いをする。
 たしかに松本さんは怒っているのかもしれない。冗談ではなく、言っていることが真を突いている場合もある。ところが、真を突いていれば突いているだけ、聞いているこちら側は「おもしろい」と笑ってしまう。
 そんな松本さんを見ていると、ふとギリシャ神話に出てくるミダス王を連想してしまう。ミダス王はディオニューソスに頼み、自分が触れるものすべてを黄金にする力を授かった。そして祝祭を催し、召使いに贅沢な食事を準備させる。ところがミダス王が手を伸ばすとたちまち食べ物は硬くなり、飲み物も黄金の氷へと変わってしまう。全部黄金になってしまい、結局、王は飢餓に苦しめられたという伝説だ。
 すべての怒りを言葉にすることで黄金の笑いに変えてしまう、松本さんはミダス王のようだ。しかし、そこに孤高の哀愁もつきまとう。松本さんの怒りのほどは誰にも知られることなく、まわりはただただ笑いの渦に包まれる。怒りが高まれば高まるほど、笑いは最高潮に達してしまう。
 僕は常々感じているのは、本物のひとほど、孤独であるということだ。その点で、松本さんは孤独である。脳の仕組からいっても、それをやらないと生きていけないようなことほど、本物に近づく。そしてその「やらないと生きていけない」ことは他人と共有することができないのだ。
 松本さんの場合もそうだ。彼は職業としてお笑いをやっているのではなく、生きている、そのすべてのエネルギーを笑いに注ぎ込んでいる。
 松本さんは語る。自分が育ってきた環境が「笑いにしていかないと、生き残っていけなかった地域やったんすよ。おもしろくなければダメ。ある種、サッカーで言うたらブラジルみたいなところで育ちましたから」と。
 いまでは、松本さんが育った地域も大阪も、「上品に」なってきてしまっているという。だからこれから先、大阪のお笑いは不安だと。
「空を見上げて怒鳴っていたではないですけど、下から上を目指してアピールするものが笑いになっている気がするんですよね」】

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 松本人志いわく、「笑いの源泉は怒りだ」。
 そう言われてみれば、テレビのなかの松本さんは、たしかにいつもちょっと苛立っていて、何かに怒っているように見えます。でも、芸人だし、どこまでが松本さんの「本当の姿」なのかは、正直、僕にはよくわかりません。
 芸能人の中には、裏表がはっきりしている人も多いし、「悪役ほど実際はいいひと」とか言われていますしね。

 しかしながら、ここで紹介されている、「松本さんの幼いときのエピソード」を読むと、松本さんが生まれつき抱えている「怒り」の激しさというか、「怒らずにはいられない人なのだ」ということがわかります。
 だって、ひとりの子どもが、「雨が降り続いていることを、空に対してずっと怒鳴っている」というのは、誰かのウケを狙ってやっていることだとは思えない。
 実際にそんな子どもを目の当たりにしたら、いったいどう感じるだろうか、笑うだろうか?というようなことを考えてしまいます。

 世の中には、「しょっちゅう何かに対して怒っている人」というのはけっして少なくありません。でも、それを「芸」に昇華し、お金を稼ぐ手段にすることに成功した松本さんは、やっぱりすごいとは思うんですよ。
 「怒り」が松本人志の笑いの「源泉」であるのだとしても、松本さんはちゃんとそれを加工して、多くの人が笑えるようにしているのだから。
 しょっちゅう怒っているオッサンは競馬場やパチンコ屋にはたくさんいるけれど、彼らは誰かを不快にすることはできても、笑わせることはできません(「嘲笑される」ことはあるとしても)。

 ただ、「自分が本当に世の中に対して怒っているのに、周囲はそれを聞いて大笑いするばかり」という状況は、ほんとうに幸せなのかな、という気もします。もちろん、芸人としては、笑ってもらわないことにはどうしようもないのでしょうけど。
 観客にウケることは、「自分を理解してもらうこと」とはまた別の話で、自分が愉しみながら、他人を笑わせるというのは、ものすごく難しいことのように思われます。
 そういう意味では、茂木先生が書かれているように、芸人というのは、売れれば売れるほど、そして、笑わせれば笑わせるほど、「孤独」になっていかざるをえないのかもしれませんね。



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2009年12月04日(金)
「『素直に承諾したものが損をする』というシステムは絶対に違う」


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『のはなしに』(伊集院光著・宝島社)より。

(伊集院さん愛用のノートパソコンが故障してしまったときの話です)

【すぐに購入した家電量販店にパソコンを持っていくと快く「すぐにメーカーに頼んで無料修理をいたしますので、3週間お預かりいたします」という。3週間は少々痛いが、無料で直るのならいたしかたがない。と、パソコンを預けて帰宅。ここまでは良かったのだが…。
 3週間後、家まで宅配便で送ってくれるといっていたパソコンが届かない。問い合わせてみると、なんだかんだあった後に「メーカーに直接聞いてほしい」ということになった。
 その通り問い合わせてみると、メーカーの担当者が「すみません、あと3週間かかります」としれっというではありませんか。10年後の約束が3週間延びるのならばしれっといわれても仕方ないが、これでは倍の時間がかかるということではないか。びっくりして「ちょっと待ってください。これは仕事で使っているパソコンなので、そんなにかかるのならば最初にそういってもらわないと…一体どういうことなんでしょう?」といい返すと「少々お待ちください」と電話を保留する担当。
「三週間後に出来ます」っていって、三週間後に電話をかけたら「後三週間」ってどういうことだ? 修理作業20日目にして新たに3週間かかることが判明したってことか? そうじゃなければどこかで期日延長の連絡があってしかるべきじゃないのか?
 考えていると3分後「明日出来ます」ときてまたびっくり。先ほどの僕の声に多少不満のトーンはあったかもしれないが、誓って怒鳴ったり声を荒げたりしていない。いやいや、そんな問題じゃない。こんないいかげんな対応があるだろうか?
 僕が最初に「わかりました」といっていたら、どうなっていたんだ? 間違いなくまた3週間待たされたはずだ。これが「ごね得」というやつか? いや「ごね得」なんかじゃない「ごねない損」を回避しただけで、得なんてしちゃいない。不愉快な思いをした分まだ少しばかりの損だ。
 本当は「ちょっと待ってくださいその対応はおかしいでしょう、3週間といったり明日といったり…」と詰め寄るべきなのだろうが、そうなるとクレーマー扱いされるという恐怖があったし、何より僕は「早くパソコンが手元に届くならいいや」という気持ちでそれ以上話をせずに電話を切ってしまった。
 あとで「『クレーマーだから順番を早めてサッサと渡しちゃおう』ということだったのかも…」と思ったらなんか自己嫌悪と怒りの入り混じったひどく屈辱的な気持ちになった。
 僕はこういうことが嫌いだ。うまくいえないが、こういう応対が世の中をどんどん悪くしていると思う。「素直に承諾したものが損をする」というシステムは絶対に違う。こんな経験のせいで僕は次にこういうことがあっても一度訊き返すことだろう。正しいことをいってくれていても素直に「ではよろしくお願いします」ということはできないだろう。メーカーは期日がかかることが正当な理由なら毅然とした態度で譲らないべきだし、ミスがあるなら謝るべきだ。ひいてはみんなごね得を狙うようになる。絶対にメーカーもしっぺ返しを食う。
 結局翌日の夜、パソコンは手元に届いたが、僕は少しダメになった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この伊集院光さんの『のはなしに』は、非常に面白く、また考えさせられるところも多いエッセイ集なのですが、この話は、僕にとっては、共感できるものであり、その一方で、耳に痛いものでもありました。

 サポートセンターで働いている人が書いた文章を読むと、「パソコンの素人たちが投げかけてくる無理難題の数々」に対応するのは、ものすごく大変なんだろうなあ、と考えずにはいられません。
 でも、たしかにこのメーカーの「対応」はあまりに酷い。
 何の連絡もなく、期日になって、いきなり「あと3週間」(…って、伊集院さんのパソコンは、すっかり「忘れられていた」ということなのでしょうか…)などと言われれば、怒らないほうがおかしいとは思いますが、それ以上に「何だそれ?」と感じたのは、ちょっと「それはおかしい」と言っただけで、「じゃあ明日出来ます」という豹変っぷりです。
 じゃあ、それってもともと1日でできる仕事なんじゃないの?という気がするし、もし、「本来の順番を飛ばして、あなたのパソコンを優先的に修理します」というのなら、それは「修理するメーカーも忙しいんだろうしなあ」と何も言わずに待ってくれている人は、どんどん後回しにされていく一方だということになります。

 たしかに、「そんな世の中はたまらない」のだけれど、そういう伊集院さんですら、結局は「自分のパソコンが早く帰ってくるのだったら、ここで事を荒げても面倒なだけだな」と考えてしまったのもまた事実。
 もし僕が同じ目にあったとしても、おそらく、同じように「煮え切らない思いではあるけれど、これ以上あれこれ言っても、嫌われるばっかりで何のメリットもないよな」ということで、「優先修理」を受け入れておしまいにしてしまったでしょう。

 実は、病院でも、こういうケースはあるんですよね。
 「あの患者さん、順番はまだですけど、待たせるとすぐ腹を立てて文句ばかり言うし、他の患者さんにも迷惑だから、先に診察してしまいましょう」という看護師さんに、医者になりたての僕は「それはおかしい」と何度も反論したものです。そして、何度も「面倒なこと」が起こりました。
 「医者も忙しいのだから」と、黙って長い時間待ってくれている患者さんはどんどん後回しにされて、自分の都合の良いようにならないと騒ぎ立てる人が優先されるのは、どう考えてもおかしいのに。

 ……でも、最近の僕は、正直、そういう場に置かれたときに「余計なトラブルを起こすとかえって時間もかかるし、そうなるとめんどくさいから、先に診てしまう」ことが多いです。ほんと、僕も少しどころではなく、「ダメになった」と思う。
 社会の末端のレベルでは、そういう「妥協」をしないと、不毛なやりとりで精神的にどんどん消耗していって、外来は大騒ぎする「モンスター患者」で雰囲気が悪くなり、全体の予定も遅れ……ということが起こるし、それを「自分から正していく」ほどの気概も余裕もないのです。

 僕にできることは、待たせてしまった「黙って待ってくれていた患者さん」に、「お待たせしてすみませんでした」と謝ることくらい。そういう患者さんは、だいたい嫌味のひとつも言わずに「先生も大変ですね」とねぎらってくれる人すら少なくないのですが、内心は「いい人でいようとすると、余計に待たされる」ということに不満を感じている人もいるんじゃないかなあ。

 僕は思うのです。
 今はまだ、「ごねるのは、みっともない」という雰囲気が社会に残っているのですが、このままどんどん「ごね得」な世の中になってしまったら、「ごねる人」はもっと増えていくだろうし、みんなの「ごね」は、どんどんエスカレートしていく一方のはず。
 そうなったら、サービスをする側にだって、いつかは必ず「限界」が来ます。すべてのパソコンが1日で修理できるわけがないし、外来の患者さんを十人いちどに朝一番に診察するのも不可能なのだから。

 しかしながら、現時点で、この「ごね得社会」がどうすればマシになるのか、僕には良い解決法が思い浮かばないんですよね。
 
 僕にできるのは、「優しく待ってくれている人」が、どこかでその分幸せになってくれていることを祈るくらい、なんだよなあ……