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2009年09月24日(木) ■ |
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高橋名人の「ゲームは1日1時間」誕生秘話 |
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『公式16連射ブック 高橋名人のゲームは1日1時間』(高橋名人著・エンターブレイン)より。
【1985年の全国キャラバンファミコン大会のとき、最初は子供たちしか集まっていなかったのですが、会場が大きくなるにつれ、徐々に親子連れが増えてきました。キャラバンを開催してから5会場目の7月26日、福岡のダイエー香椎店でいつものようにイベントを開始したときのことでした。いつもと違った、何か異様な雰囲気があたりに漂っていたのです。それまでは予選大会参加者の250名が、目の前に並んでいるという状況が続いていたのですが、この香椎店では、そのまわりを親御さんがずらりと取り囲んでいました。 みなさんご存じのように日本のテレビゲームは、1978年に発売された『スペースインベーダー』から始まったといっても過言ではありません。この『インベーダー』は喫茶店やゲームセンターに続々と入荷され、テーブルの上に100円玉を積み上げて遊んでいたのです。当然、そこにはカツアゲなどの犯罪が横行しました。そこで全国のPTAはゲームセンターへの子供の入場を禁止したのです。ゲームに対して”不良”というようなレッテルを貼られた状態になってしまったわけです。大人たちはゲームセンターで遊ぶことができますが、子供たちは親に止められて遊ぶことができない、そんな時代だったのです。イベント会場には、家庭用ゲーム機ではあるけどテレビゲーム機であることは間違いないファミコンが設置され、それに子供たちが向かっているのです。子供たちが熱中しそうな環境が目の前に広がっているのです。それを目の当たりにしている親御さんの顔を見ていると、脅迫されるというか、何かを話さなければいけないと思ったのです。 まだ予選が始まるまえのワンポイント講座のときに、思わず言った言葉は次のようなものでした。 「いいかい、ゲームが上手くなるためには、ゲームばかりしていちゃダメだよ。1時間くらい集中してやるのがいいんだ。失敗してもやり続けていると、その失敗したダメージが残っちゃうからね。だから、野球やサッカーをして、帰ってから集中してゲームを練習すると上手くなるんだよ」 この言葉を聞いた親御さんがうなずいているのがよく見えました。その後、イベントが終わりホテルへ戻ると、電話が入ってきました。それは宣伝の責任者からで「お前、みんなの前でテレビゲームで遊んじゃダメだみたいなことを言ったんだって?」と、その日の内容を確認するような電話でした 。尋ねてみると、どうやらそのイベントに業界の人がいて「ゲームの会社の人間がゲームばかり遊ぶな、みたいなことを言っている」と、会社に連絡が入ったようなのです。そこで翌日、ハドソンで緊急役員会が開催されたようです。課題は、もちろん「高橋がヘンなことを言っているらしい」と……(笑)。でも、その結果としては、「ゲーム業界を健全にするためには、そのようなことをメーカーとしても言っておくべきだろう」ということになり、私も胸を張って言えるようになったのです。もっとわかりやすく標語にした方がいいということで作ったのが、5つの標語です。
・ゲームは1日1時間 ・外で遊ぼう元気よく ・僕らの仕事はもちろん勉強 ・成績上がればゲームも楽しい ・僕らは未来の社会人
当時の子供たちには迷惑な話かもしれませんが、これがあったことでテレビゲームが子供の遊びとして、世間に認知されていったと思っています。】
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ああ、そういえばたしかに、この「5つの標語」ってあったなあ、と僕も思い出しました。当時から、「ゲームは1日1時間」ばかりクローズアップされていて、僕の記憶に残っているのもこれだけだったのですけど。 高橋名人が「ゲームは1日1時間」と言っている、というのを最初に聞いたときには、「じゃあ、1日1時間でクリアできるような(簡単な)ゲームを作れよ!」と内心呆れていたんだよなあ。
この高橋名人の話を読んでいると、「ゲームは1日1時間」というのは、あらかじめハドソンが会社ぐるみでアピールしようとしたものではなかったみたいです。 子供たちの「ゲーム熱」に親たちが危機感を抱いているのを感じた名人が、その親たちからのプレッシャーに気圧されて、「思わず言った」ものなのだとか。 ゲームメーカーとしては、「ゲームの宣伝のための『名人』が、ゲームばっかりやるな、とアピールするとはどういうことなんだ!」と言いたくなるのはよくわかります。本当に1日1時間しか遊んでくれなかったら、ゲーム産業は困るでしょうし。 しかしながら、そこで、「ゲーム業界の健全化」のために、メーカーもそのアピールに協力していくことになったのは、結果的に大きなプラスだったような気がします。 この本のなかでも、多くの人が「高橋名人の大きな功績」のひとつとして、当時の「ゲーム界の象徴」として、(たとえそれが建前であったとしても)「ゲームばかりやらずに、外で遊ぼう、勉強もしよう!」とアピールしていたことを挙げています。 もし、高橋名人のこういう活動がなかったら、テレビゲームへの風当たりは、もっともっと強くなっていたかもしれません。 現在は、子供のころからテレビゲームで遊んでいた世代が親になっていますから、「テレビゲームも遊びのひとつでしかない」というか、「テレビゲームのない世界なんて、考えられない」くらいだと思うんですよ。
でも、こういう「テレビゲームという新しい遊びの盛り上がりと同時に、風当たりも強かった時期」はたしかにありましたし、そんななかで、子供たちに注目され、親たちからは白眼視されながら、ゲーム業界の良心をアピールし続けた高橋名人の功績は、いまから考えると、かなり大きかったのではないかと。
僕も今となっては、「ゲームは1日1時間……くらい遊ぶ余裕があったら良いんだけどねえ……」って感じなんですけどね。
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2009年09月19日(土) ■ |
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カーネル・サンダースの「最後の挑戦」 |
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『名言の正体―大人のやり直し偉人伝』 (山口智司著・学研新書)より。
(ケンタッキー・フライド・チキンの創設者である、カーネル・サンダースの生涯)
【白髪に白ヒゲ、さらに白いスーツを身に着けて、優しい笑みを浮かべるカーネルおじさんの人生は、その温和な雰囲気とは裏腹に、実に波乱万丈なものだった。 農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマン……などなど、カーネルは正義感が強く、融通のきかない性格だったため、上司と対立しては退職、転職を繰り返した。 しかし、会社員生活はどうしても長続きせず、29歳でガソリンスタンドを開業。その附属施設としてカフェを開業し、飲食店を手がけることになるのだが、カーネルは店を3度も倒産させている。 1回目の倒産は1929年。世界大恐慌のあおりを受けて、40歳を目前にいったんガソリンスタンドを手放すことになる。 2回目は不慮の火事で、早朝に駆けつけると店は全焼していた。カーネルが50歳に近いときの悲劇だった。 3回目はハイウェイ建設である。1950年代のアメリカでは、国を挙げて道路の近代化が進められたが、それによって一般道にあったカーネルのレストランは客が激減。味のよさが評判を呼び大繁盛していたレストランが、一転して経営難に陥った。 65歳にして店を手放すことになったカーネルは、財産も店も何もかも失った。そのうえ、年金の支給額が想定していたものよりも少ないことが判明する。お先真っ暗とは、まさにこのようなことを言うのだろう。 妻と2人で途方に暮れたカーネルだったが、ここで細々と人生を過ごす選択肢をとれば、世界的な成功などなく終わっただろう。カーネルは、最後にいちばん自分が自信を持つところで勝負しよう、と決断した。 それはレストランのメニューの一つだったフライド・チキンである。その作り方をレストランに教え、そのチキンが売れるたびに、一部をロイヤリティとしてもらうというビジネスをカーネルは思いついた。つまり、今でいうフランチャイズ契約である。 もちろん初めは、どこのレストランにもまったく相手にされず、門前払いの日が続いた。いきなり老人が訪ねてきて、「レシピを教えるのでロイヤリティをくれ」と言っても、聞いてもらえないのは当たり前だろう。 カーネルは車中泊を繰り返し、お金が尽きると、見本のフライド・チキンを食べてしのぐ生活を送った。そうしてカーネルが老体に鞭打って、飛び込み営業をかけたレストランは1000軒以上にも上ったという。営業を繰り返すうちに、客が少なく暇な時間帯なら話を聞いてもらいやすいこと、従業員の賄いとしてならフライド・チキンをその場ですぐに試食してもらえることなどを学習した。 こうした努力が身を結び、カーネルの挑戦から40年が経った1996年には、ケンタッキー・フライド・チキンは世界80ヵ国に1万店舗を構えるまでの世界的企業へと成長を遂げる。カーネルは80歳を越えても世界を飛び回って各店舗をチェックし、ルールが守られていない店では、カウンターをステッキで叩きながら指導した。 ルールを忠実に守る日本人のまじめさを、カーネルはこよなく愛したという。60歳のときのカーネルをモデルにた等身大の人形を店頭に置いたのも、日本人によるアイデアだった。80歳のカーネルは、日本に来たとき、自分の人形に話しかけた。 「おまえは、年をとらなくていいな。いつまでも60歳のままで、ケンタッキー・フライド・チキンの店に来るお客を迎えることができる」 カーネルは、90歳でこの世を去り、いつも着ていた白いスーツ姿で棺に納められた。】
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【農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマン……などなど】という部分を読んで、ずいぶんイメージとは違う、あわただしい人生を送っていた人なんだな……と僕は思ったのですが、これはまだ、カーネル・サンダースが「29歳までの話」みたいです。 その後も3度の倒産を経たカーネル・サンダースが、「ケンタッキー・フライド・チキン」の元となる事業をはじめたのは、なんと65歳のとき。この事業欲には頭が下がるというか、信じられないというか…… 65歳といえば、普通なら、リタイアを意識せざるをえない年齢のはず。しかしながら、カーネルは諦めなかった。いや、諦めないどころか、「飛び込み営業」で「ケンタッキー・フライド・チキン」のフランチャイズを増やそうとしていったのです。 「飛び込み営業」って、肉体的にも精神的にも、かなり辛い仕事のはず(僕はやったことないので、想像しかできませんが)。冷たくあしらわれることがほとんどでしょうし、当時、まったく無名だったカーネルおじさんに「商品そのものじゃなくて、レシピを買ってくれ」なんて言われても、「何それ?」という反応のほうが自然でしょう。 そんななかで、失敗にもめげずに「話を聞いてもらうコツ」から積み上げていったカーネル・サンダースの執念は凄い。 まあ、こうしてカーネルおじさんの前半生を知ってみると、むしろ、年を重ねて「枯れた」分だけ周りの人にとっては付き合いやすい人になったのかもしれないな、とは思うのですけど。
65歳でスタートして、「ケンタッキー・フライド・チキン」を世界中に広めたカーネル・サンダース。この話を読むと、「僕ももう年だから、新しいことをやるのは難しいな」なんて考えてしまうのが恥ずかしく感じます。 80歳を過ぎてまで世界中を飛び回り、ひとつひとつの店をチェックしていくような人生も、僕にはちょっときつそうではありますが。
ところで、あの「カーネル人形」を考案したのって、日本人だったんですね。天国のカーネル・サンダースは、自分の人形が日本で酔っ払いにいたずら書きされたり、川に投げ込まれたりするとは、思ってもみなかっただろうなあ。
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2009年09月15日(火) ■ |
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ホリエモンとひろゆきの「彼女が部屋の鍵をなくしたら……」 |
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『ホリエモン×ひろゆき 語りつくした本音の12時間 「なんかヘンだよね・・・」』(堀江貴文・西村博之共著:集英社)より。
(「格差社会」「政治」「メディア」「教育」など、世の中の「いま」に対する、「ホリエモン」こと堀江貴文・元ライブドア社長と「ひろゆき」こと西村博之・元2ちゃんねる管理人の対談本の一部です。二人の「失敗への対処法」について。
【西村博之:堀江さんって、怒ると会議を出て行ったりする、という話も聞いたりしましたけど、僕、何回かライブドアに行ったけど、怒っているところを見たことないんですよ。怒ると、やっぱ怖いんですか?
堀江貴文:うーん、怖いっていうか、ウザい、が正しいかな。怒鳴り散らしながら、論理的にネチネチ言うタイプだし。しかも、しつこく詰める感じ。で、相手が「参りました」と言っても許さないの(笑)。相手が悪いことをするから怒るわけじゃない。だから、相手に、どうやって自分が悪いことを起こしたのかの理由を全部言わせて、再発防止策まで言わせるんだよね。
西村:まぁ、ごもっともな。
堀江:改心させるわけさ。「これじゃダメだ。おまえが忘れないようにするためにどうしたらいいんだ?」って。例えば、彼女が部屋の鍵をなくしたときも……。
西村:え? 彼女が部屋の鍵なくしたりしても詰めるんですか!?
堀江:いや、正直ニ申請してくれれば詰めないんだけど、隠すヤツがいるわけよ。1〜2週間とか隠して、俺じゃない人に「どこで鍵なくしたんだろう?」みたいなことを言うわけ。最終的に2〜3週間が経って、どうしようもなくなってから、俺に「鍵なくしたんだけど」って言うのさ。それが、六本木ヒルズのICカードキーだったりすると、拾った人が六本木ヒルズのセキュリティーエリアを越えられるわけ。そうなると、もう俺だけの問題じゃないじゃない。
西村:まぁ、超大物芸能人にもエレベーターで会えちゃいますからね(笑)。
堀江:そう。それはヤバイなと。だから、「おまえがそれを正直に言わないのはダメだ」と。それに口答えしたらキレるわけよ。「再発防止策はどうするんだ! おまえにICカードキーは再発行できない」って。
西村:彼女にでもですか?
堀江:うん。「絶対無理」って言う。
西村:相手に1回でも怖いキャラだと思われると、正直にミスを話してくれなくなるじゃないですか。そうすると、相手はどんどん隠そうとしちゃうんで、「それぐらい、いいよ」って言ってあげれば、正直に話すようになると思うんですけど。
堀江:ちゃんと再発防止策を言ったら、その後は詰めないよ。単純にミスを隠すことで、人に迷惑をかけるのは良くないよ、って怒っているだけ。それは社員でも同じで、たまに不祥事を隠したりするヤツがいるんだよ。俺は不祥事を隠さず素直に話して、再発防止策を立てていれば怒らないのよ。
西村:もし、僕の彼女が鍵をなくしたら、「しょうがないから取り替えようか。だから交換代出して」と言うだけかなぁ。
堀江:でも、鍵をなくすヤツって同じことを繰り返すじゃない。俺は自分がそうなって嫌だったから再発防止策を立てるようになった。それで、最終的に財布を持たないっていう結論に達したわけ。】
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僕はこれを読みながら、「ホリエモンの下で働くのは、ものすごく大変だろうなあ」と思わずにはいられませんでした。もちろん鍵なんて大事なものを失くすほうも悪いのですが、明らかに自分に非がある場合、「論理的に追い詰められる」ほうが、「怒られる」よりも、はるかに辛いことって少なくないですよね。ましてや、自分の恋人にそんな態度をとられたら、ねえ……
僕の「彼女が鍵をなくしたとき」の対応は、ひろゆきさんに近いのではないかと思います(僕の場合は、大概「自分が鍵を失くす側」なのですが……)。ただ、僕はヒルズ族じゃないので泥棒に入られてもたかがしれているし、他の住人に対するセキュリティ上の責任もありません。そして、そういう態度は「100%優しさでできている」のではなくて、「相手にゴチャゴチャ言って、嫌われたくない」という、自己防衛の意味も多分に含まれています。
「じゃあ、本当に相手のことを思っているなら、今後の再発防止のことも含めて、どっちの対応が良いと思う?」と問われたら、ホリエモンの姿勢のほうが正しいのかもしれないな、とも感じるんですよね。ひろゆきさんのような対応を続けていると、風通しがよくなって、何か問題があれば、すぐ報告してくれるようになりそうですが、「馴れ合い」に陥ってしまう危険性もあります。「どうせあの人は怒らないから」って、相手に舐められて勝手なことをされるかもしれません。 『北風と太陽』という有名な寓話がありますが、現実においては、「太陽」では解決しない問題も少なくありません。
ただ、ホリエモンのような上司だと、やっぱり「隠そうとする人」が多くなるでしょうし、結果的にそれが問題を大きくしてしまう可能性も高くなります。
この二人(とくにホリエモン)の場合は、ちょっと極端な例のような気がしますが、僕の周りにも、こういう「ミスに対して、理詰めで追い詰めてくる上司」っているんですよね。こちらとしては、最初から理屈では間違っているとわかっているにもかかわらず、逃げ場がない状況で「正論」に追い詰められていくのは、ものすごくキツイのです。 いや、もっと穏やかに「これからどんなことに気をつけたらいいと思う?」って訊ねて、すぐに解放してくれれば良いのだけれど、こういう人は、途中から、「逃げられない相手をいたぶるのが快感になってくる」ようなタイプが多いしねえ。 そういう上司は、「それが部下のためになっている」と思い込み、「憎まれ役になってやっている」と思い込んでいたりするので、タチが悪い。
まあ、仕事の場合はさておき、少なくとも恋人が鍵を失くしてしまった場合には、あんまり論理的に追い詰めないほうがいいんじゃないかな、と思います。 「でも、鍵をなくすヤツって同じことを繰り返す」のも確かなんですよね……
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2009年09月08日(火) ■ |
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しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。 |
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『<狐>が選んだ入門書』(山村修著・ちくま新書)より。
【一個の作品として光る本を読むことの幸福。そのことを考えるとき、私がいつも思い出す一篇の詩があります。フランスの作家ヴァレリー・ラルボーの書いた『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)に引かれた「慰め」という散文詩です。作者はローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人、文法学者です。 詩の主人公「私」はある日、打ちひしがれた気持ちで地下鉄に乗りこみました。かれがどうして打ちひしがれているのか、それは分かりません。かれは、私たち人間の生活にどんなよろこびがひそんでいるか、しきりに考えます。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに価するよろこびが、生活のなかにあろうとは思えませんでした。酒もだめです。食べものもだめです。友情もだめです。愛もだめです。 駅に到着しました。エレヴェーターで、地上にのぼっていかなくてはなりません。このエレヴェーターに乗って、ほんとうに地上の世界にもどる価値があるのだろうか。かれは自問します。つづく一節を、岩崎力訳から引いてみます。
<だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった>
この一節は私の身にしみました。私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。 しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いをすることができます。むずかしい局面に立たされたとき、なにもその局面に直接的に関係する本をさがして読むこともありません。なんでもいい、いま自分がいちばん読みたい本を読むのがいいのです。】
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僕もありきたりの勤め人生活をおくっていますので、この文章は、ひとりの「本好き」として、心に染みるものがありました。 趣味が「読書」という人生は、ときどき、なんだかすごく哀しくなるのです。 スポーツみたいに人前でカッコいいところを見せられるわけでもないし、音楽のように他人を魅了したり、絵画のように形になって残るものでもない。 僕は「伝記」や「名言集」「歴史」を読むのが好きなのですが、正直、「いくら偉い人の素晴らしい言葉にたくさん触れても、僕の人生はそんなに豊かになってないよなあ……」なんてことを、よく考えていました。 「読書」は、悩む「課題」を増やすだけで、人を幸せにしてくれないのではないか……
そういえば、10代の頃は、「本を読む高齢者」に対して、「あんな年齢になって、いまさら本を読んで勉強したって、ムダなんじゃないの?」と思っていたっけ。
でも、いまはなんとなく、「それでも、本があるからマシなのかな」と感じるようになりました。 実際のところは、いくら本を読んでも、人生が目に見えて変化するということはないはずです。小説家や書評家のような職業の人は別として。 しかしながら、「本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたる」生活者である僕にとっては、どんなにつらいときも、「家に帰ったら、あるいは、時間ができたら、あの本を読もう」と思うだけで、少なくとも、「それを読むまで生きておこうかな」という気分にはなれます。本が直接目の前にある問題を解決してくれなくても、時間が経てば、だいたいの問題はどうでもよくなってしまうものですし。
そして、読書というのは、どこででも、短い時間でもできて、お金もそんなにかからない「趣味」なんですよね。この点で「読書」に対抗できるのは、「音楽鑑賞」くらいのものでしょう。 だからこそ、この両者は、「没個性な趣味」として揶揄されがちなのですけど。
しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。 僕はけっこう、幸せ者なんじゃないかな、ちょっとだけ、そう思います。
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2009年09月03日(木) ■ |
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「いい記事も悪い記事もダメ。論議になる記事が売れる」 |
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『日本を貶めた10人の売国政治家』(小林よしのり編・幻冬舎新書)より。
(この新書に収録されている「座談会・売国政治家と呼ばれる恥を知れ」の一部です。参加者は、長谷川三千子、高森明勅、富岡幸一郎、勝谷誠彦、小林よしのりの各氏)
【勝谷誠彦:だから、小泉さんという人はある種のトリックスターなんですよ。物語の中のトリックスターは秩序をさんざん乱して去っていくんですが、その後には何も残らない。しかし火をつけて騒ぎまくったことで、それまで見えなかったものが見えてくる。
小林よしのり:そこに論理があったら本当に良かったんだけどね。それと、靖国参拝については、最初から8月15日に行っていれば評価できた。ただ、靖国神社の参拝者を増やした部分はたしかに評価できると思うよ。
高森明勅:靖国神社に集まる若者たちに「靖国神社との接点は何だったの?」と訊くと、小林さんの『戦争論』と、新しい世代では小泉参拝の影響が強い。外圧があり、マスコミがさんざん取り上げたので、逆にあれで「そんな問題があるのか」と興味を持った若者が多いんです。
富岡幸一郎:もう一つ評価するとすれば、対中ODAを引き締めたことも挙げられますね。中国は悲鳴を上げたくなったでしょうから。
長谷川三千子:それと、北朝鮮に乗り込んで拉致の事実を明らかにしたのも小泉さんだった。
勝谷:ただ、この人は全部やりっ放しなんですよ(笑)。それ以前に、やったときの詰めが甘い。なぜ、最初から8月15日に行かなかったのか。なぜ、平壌宣言に拉致の文言を盛り込まなかったのか。まあ、本人はA4一枚分の説明しか覚えられない人らしいから、周囲の人間がもうちょっとそこを支えれば、立派な政治家になったかもしれませんが。
長谷川:よく好感度調査で「好きなタレント」「嫌いなタレント」の両方とも上位に入る人がいますけど、小泉さんもそういうタイプなんでしょうね。
勝谷:河野(洋平)や村山(富市)は絶対に「好きな政治家」のほうには入らない。われわれだって、こうして河野や村山の何倍も小泉について喋っているわけです。悔しいけど、これが政治家の人気というものなんですよ。私が『週刊文春』の記者時代、よく花田編集長に言われたのは、「いい記事も悪い記事もダメ。論議になる記事が売れる」ということ。小泉人気もまさにそうですよね。いまだに、みんな小泉のことが気になって仕方がない。】
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今回の衆議院選挙では自民党は「歴史的大敗」を喫し、「小泉改革によって、『格差社会』がより酷くなった」ということが繰り返し語られていますが、前回の衆議院選挙では、その「小泉劇場」が圧倒的に支持されていたんですよね。 「後期高齢者医療制度」など、「小泉改革」が後世に残した「宿題」はたくさんあるのですが、北朝鮮の電撃訪問などは、小泉さんだからこそできたような気もしなくはないのです。舞台裏を知る人からすれば、「誰が首相でも同じだった」のかもしれないけれど。
僕自身も、「小泉改革」は、結局ごく一部の「勝ち組」をさらに勝たせる結果にしかならなかったと思いますが、その一方で、小泉さんというキャラクターに関しては、やっぱり嫌いになりきれないのも事実です。とりあえず、リアルタイムで体験した小泉首相の時代は「政治が面白かった」。
勝谷誠彦さんが、「悔しいけど、これが政治家の人気というものなんですよ」と仰っていますが、まさにその通りなんでしょうね。好きな人も嫌いな人も、とにかく小泉さんに関しては、何か言わずにはいられない。
『週刊文春』の花田編集長の言葉、「いい記事も悪い記事もダメ。論議になる記事が売れる」を読みながら、僕は最近いろんなところで採り上げてもらった、この「よしもとばななさんの『ある居酒屋での不快なできごと』」を思い出していました。 あれはまさに、「読んだ人がつい何か言いたくなってしまう、『議論になる記事』」だったのではないかと。 僕は正直、あれがあんなに話題になるとは予想していなかったのですが、ネットではとくに「何かを教えられる記事」とか「インパクトのある暴論」よりも、「自分もひとこと言って、参加したくなる内容」のほうが、「売れる」ということを思い知らされました。 実際は、そういうのを狙って「仕掛ける」のはかなり難しいのでしょうけど。
小泉さんの場合は、どこまで「狙ってやっていた」のかは、本人でさえよくわからないんじゃないかという気もします。 こういうのは、あまりにあからさまだと、みんな立ち止まってくれませんしね。
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