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2008年05月30日(金) ■ |
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あるカメラコレクターが、「探し求めた1本のストラップを入手した方法」 |
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『老化で遊ぼう』(東海林さだお、赤瀬川原平著・新潮文庫)より。
(「第4話・コレクターになりたい」の一部です。赤瀬川さんがカメラを集めているという話から)
【東海林さだお:最初はあれも欲しい、これも欲しいだけど、ある程度増えたときに別の情熱になってくるんじゃないですか。
赤瀬川原平:そう、そのうち、増やしたいというより、そろえたいとなってくるの。
東海林:そろえたいって?
赤瀬川:たとえばライカは最初にM3を出して、後からM2とか1、それkらM4、M5を出したんです。M1はファインダーを省いて、ただシャッター押すだけのあまり用のないものなの。でも、ライカを買いはじめると、Mの1には違いないんで、意味もないのに集める人もいるんですよ。
東海林:この系統だからって。
赤瀬川:全部そろってないと落ち着かない。
東海林:面白いな。
赤瀬川:たとえばナントカ文学全集四十巻のうち、二十九巻目だけないと、すごく気になるでしょう?
東海林:僕は気にならない。
赤瀬川:いや、文学はともかく、欠けるのは気になるという、そういう人たちの気持ちはわかる。
東海林:集めるエネルギーはすごいよね。
赤瀬川:うん。戦前にできたシステムカメラで、コダックエクストラというのがあってね。アクセサリー類がトランクびっしりになるくらい多いんです。あるカメラコレクターが1個1個買い集めていったけど、ストラップ、肩紐だけなくて。でも、マニアの間では、アメリカの某州のナントカさんがそれを持ってるってわかってるんだって。
東海林:それもすごいね。
赤瀬川:で、そのコレクターの人は、アメリカのナントカさんが死んだとき、まず弔電を打った(笑)。で、感触をよくしておいて、ダッとアメリカまで駆けつけて、ストラップを手に入れたと。そういうすごい世界がある。
東海林:まず弔電を打つっていうのが素晴らしいね(笑)。人の心を捉えるコツですね。
赤瀬川:最上級まで上りつめた人はそうなっちゃうんですよ。絶滅種を追い求めるみたいな。そういう話を聞くと、嬉しくなっちゃう。
東海林:たかがストラップ1本のために(笑)。
赤瀬川:僕も、この間、文通していた知り合いのカメラマニアが亡くなっちゃったんですけど、奥さんがカメラに全然興味ないの。だから、あのコレクションどうなったか心配でね。といって、僕はお葬式に行くほど親しい間柄じゃなかったから……。
東海林:親しければ弔電打って、駆けつけた?
赤瀬川:いや、さすがに……(笑)。】
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続きものの漫画ならともかく、「ナントカ文学全集」の場合には、各巻に内容の繋がりはないはずなので、別に二十九巻だけなくても平気……じゃないですね僕も。 その巻だけなんらかの理由でプレミアがついてものすごく高価だったりしなければ、やっぱり二十九巻を頑張って探してしまいそうです。 それで、手に入れただけで満足して、1ページも読まないまま本棚に置きっぱなし、と。
それにしても、ここで紹介されている「コダックエクストラ」のコレクターの話はすごいです。いや、カメラそのものならともかく、「たかがストラップ1本のために、ここまでやるのか」という感じです。まあ、「あとストラップだけ揃えば、コンプリートできる!」という状況だと、とにかく「なんとかしたい」のでしょうけど。
しかし、その1本のストラップが世界のどこにあって、誰が持っているかもわかっていて、そのうえ、その人の訃報まですぐに耳に入ってくるというコレクターの世界って怖ろしいものですね。しかも、「まずは弔電を打つ」という地道な根回しをしてから、「ストラップ1本」を譲ってもらいに行くなんて、芸が細かいというか……すごい執念というか…… たぶん、残された家族にとっては、「なんでこの人は、遠くから来て、わざわざこんなストラップを欲しがるのだろう?」と、ものすごく疑問だったに違いありません。全く面識がない人だったら、「実は価値があるものでは?」と身構えられてしまったでしょう。
この話、「戦略」としてはすばらしいとしか言いようがないのですが、そのコレクターの「人間性」に関しては、ちょっと考えさせられるところではありますね。 もっとも、そう感じるのは僕にとってはこのストラップは「たかが肩紐」でしかないからであって、コレクターたちにとっては、「そのくらいのことをやる価値がある」ものなのでしょうけど。
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2008年05月28日(水) ■ |
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携帯電話ビジネスにおける、「着うた」という一大転換期 |
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『ケータイ小説活字革命論』(伊東寿朗著・角川SSC新書)より。
(「魔法の図書館」プロデューサーとして、『恋空』などをプロデュースした伊東さんが語る「黎明期のケータイビジネス」の一部です)
【エンドユーザーから課金するすべを持ちにくかったPCインターネットと違い、インターネットに接続できるようになった当初から、ケータイの通話料金徴収システムに乗じて、キャリア(NTTドコモ、au、ソフトバンクといった通信業者)がコンテンツ課金の料金徴収を代行する仕組みを持っていたケータイでは、公式サイトのビジネスモデルがいつしか確立していた。 キャリアの審査をクリアすれば、コンテンツに対してエンドユーザーからダイレクトに利用料をとることができる。また、サービスを提供するサイトへのアクセスも、ケータイからインターネットに接続するのに最も接続しやすい、キャリアが用意したメニュー画面から、細分化されたジャンルのディレクトリーを辿るだけという、簡易さがあった(もちろん、PCと同様、アドレスを直接打ち込んでアクセスすることもできたが)。 公式サイトの各種ジャンルの中で特に、好みのメロディの着信音をダウンロードして自分のケータイに設定できる着信メロディ(着メロ)のサービスは、公式サイトのマーケットを一気に広げる起爆剤になった。着メロは、いわゆる音楽配信に当たるわけだが、楽曲の音源そのもの(原盤)を使用するわけではなく、原曲をアレンジした音源を新たに作って配信するため、比較的率の低い権利料を、日本音楽著作権協会(JASRAC)などの著作権管理団体に収めるだけで配信が可能となり(音楽業界は、こうした権利料をシステマティックに権利者に配分する仕組みが整備されている)、配信サービスを行う側としては、選曲とアレンジの質で勝負すればよかった。 サービスを提供するコンテンツプロバイダーとしては、おいしい商売だったはずだ。比較的資本の小さい会社でも参入しやすいというメリットもあった。実際、この時期に着メロの事業だけで、規模を飛躍的に大きくするモバイル関連の会社が続々現れ、それに乗じて株式上場するところも少なくなかった。しかし、やがて、ケータイのスペック向上で着信音にオリジナルの音源を使うことが可能になり、着メロの先を行くサービスとして新たに”着うた”が登場すると、様相は一変する。 着うたを配信するためには、原盤を持つ権利者の許諾が必要になり、権利者側が断然有利になった。着メロの時代に、自らが原盤権を持つ楽曲で自由に商売され、いわば自分の褌で相撲を取られていた感のあるレコード会社などの権利者が巻き返しを図り、それまでおいしいとこ取りをしていたと言えなくもないコンテンツプロバイダーは、楽曲使用の権利の許諾を得るために、権利料の高騰を甘んじて受けるようになってきた。音源がまったく同じでは、アレンジの質や工夫で勝負ができるわけもなく、資金や政治力の勝負になっていく。さらには、テレビCMなどマスメディアを使った宣伝で他との差別化を図り、マスに対して広く訴求するところも続出し、体力勝負の段階に入ってきた。 こうした着メロから着うたへのビジネススキームの変遷の一方で、公式サイトの市場そのものも飽和状態になりつつあった。着信系のサービスでは、デコメ(デコレーションメール)のサイトなど、新しいジャンルのサイトも登場したが、全体の参入数が多く、キャリアの厳しい審査を通っても、なかなか簡単には商売になりにくい時期に差しかかっていた。】
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僕はもともと着信音にあまりこだわりがありませんし、マナーモードにしていることがほとんどです。 「着メロ」の流行り始めの時期には、「携帯電話でこんなにキレイな音が出るようになったんだ!」と感心していろんな曲を鳴らしてみた記憶があるのですが、「着うた」が話題になったときには、「どうしてわざわざ自分が好きな歌を公共の場所で大音響でアピールしなきゃいけないんだ?自分の家や携帯オーディオで聴けばいいはずの『普通の音楽』をなんで着信時に鳴らす必要があるの?こんなの流行らないだろ……」と感じたものです。
僕のそういう「予測」は見事に外れ、いまや「着うた」は、着信音のなかで大きな割合を占めているように思われます。「普通の電子音」か「着うた」か、という印象で、「着メロ」は、あっという間に携帯電話が主流になった時代のポケベルのような存在になってしまいました。
この伊東さんが書かれた文章を読むと、携帯電話の着信音の「単なる電子音」から「着メロ」、そして「着うた」への進化の陰で、「携帯電話ビジネス」も劇的に変化していった、ということがよくわかります。 「着メロ」によって、「携帯電話の公式サイトのマーケット」が大きく広がったというのは、僕も実感していましたし。 それまで、「携帯電話のコンテンツにお金を払う」ことに抵抗を感じていた多くの人たちの意識を変えたのは「着メロサイト」だったんですよね。
そして、「着メロ」というのは、確かに「職人」の世界でした。 当時の携帯電話の機能で、いかに原曲に近いものを作るか、いかに面白い素材を着メロにするか、というのがユーザーの選択基準で、当時は、個人やごく少人数で作られたサイトが「大成功」を収めたという事例もたくさんあったようです。携帯電話ユーザーの数とあの頃のコンテンツの質や量を考えれば、新規参入者にとっては、まさに「宝の山」だったのでしょう。
僕のイメージでは、「着うた」は、「携帯電話の機能的な進歩の象徴」だったわけですが、携帯電話ビジネスの世界にとっては、「原盤に近い、あるいはそのままの曲が流せる」というのは、まさに「革命」だったようです。 「着メロ」と「着うた」の「権利料」にこんなに違いがあるというのを僕はこれを読んではじめて知ったのですけど、それまでは、「原曲を改変して使用するため、安い権利料だけで比較的自由に使用できた」ものが、「着うた」では、「原盤の権利者の力が圧倒的に強くなった」のです。 「原盤がそのまま流せる」のであれば、技術的なハードルも低くなるでしょうし、レコード会社などの権利者が、「自社で配信する」という選択をしていくのは当然のことでしょう。 そうなれば、「着メロ」を作ってきた個人や会社の多くが淘汰されるのは必然です。
この話、深読みすれば、「着うた」が流行ったのはユーザー側の好みだけではなくて、メーカー側の「都合」もあったのではないかという気もします。携帯電話にFMラジオが聴けるチューナーが搭載されなくなってきたのも「ユーザーに音楽をダウンロードさせるため」という噂もあるようですし。 個人的には、CDで聴けばいいはずの「着うた」のために、せっかく発展してきた「着メロ文化」が衰退してしまったのは、ちょっと寂しく感じます。そもそも街を歩いていて、いきなり誰かの好みの歌の断片を聴かされるのって、けっこう不愉快じゃない?
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2008年05月25日(日) ■ |
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『徹子の部屋』が、「一切編集をしない」3つの理由 |
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『聞き上手は一日にしてならず』(永江朗著・新潮文庫)より。
(ライター・永江朗さんが、各界の「プロの聞き手」10人に「聞き方の秘訣」についてインタビューした本から。黒柳徹子さんの回の一部です)
【永江朗:『徹子の部屋』は世界でも珍しい長寿番組になりましたね。ひとりで司会するトーク番組としては世界最長だとか。長く続くからには、それだけ画面にはあらわれない苦労も多いと思います。収録の前には、どの程度、スタッフとミーティングをするんですか。
黒柳徹子:月曜、火曜で6本録っています。本当は5本でいいわけですけど、少しずつ余裕を見て。6本録れば、1ヶ月で4本のストックができます。何があるかわかりませんからね。ユニセフの仕事で海外に出かけるため、夏休みとして収録を2週お休みします。芝居の舞台稽古があって休むこともあります。毎週、金曜日に打ち合わせをするのですが、いまディレクターが14人ぐらいいまして、ゲストの方と、打ち合わせをしてきます。そして金曜日に私にいろいろ伝えてくれるわけです。この打ち合わせが長いんですね。6人分ですから、ゲストおひとりに1時間以上。ディレクターは6人かわります。通してやっても6時間ですが、そんなに根を詰めてはできないので、少し休憩したりお茶を飲んだり雑談したりします。3時から始まって、終わるのは夜の11時ぐらい。それからお弁当を食べながらお話しして、12時ぐらいまでかかります。
永江:ええっ! 9時間も打ち合わせですか。それはすごい。
黒柳:すごいでしょう(笑)。金曜日に終わらないときは、月曜日に収録後に残りを打ち合わせることもあるんですよ。だいたいおひとりについて、私の手書きのメモ用紙が12枚になるんですね。6人分ですから72枚になります。
永江:打ち合わせも重労働ですね。
黒柳:この日がいちばん大変ですね。ゲストにお会いするときは、とても楽です。だって、ご本人なんだから。
永江:あはは。たしかにそうです。しかし、そんなに打ち合わせが必要ですか。
黒柳:これは番組が始まるときの私の希望で、一切編集をしないことにしたんです。生放送と同じようにやる。そのためには、下調べが充分でないと話を飛ばせないんですよね。
永江:話を飛ばす、といいますと?
黒柳:いちいち細かくお話を聞いていたのでは時間が足りません。下調べでわかっていれば、例えば経歴の部分を視聴者の方には私の口から説明して、話を飛ばせますから。
永江:ディレクターはどんなふうに、どんなことを調べてきますか。
黒柳:大宅文庫などでその方のバックグラウンドを知る資料を集めます。本も雑誌も新聞も、その方に関わるあらゆるものです。それからご本人と会ってお話を伺います。もちろん私も資料を読むことがあります。作家のときは大変です。資料やディレクターがご本人から聞いたこと以外に、私もその方の作品を読んでいかなければなりませんから。全作品は無理でも、処女作、賞をとった代表的な作品、それから最近のもの。この3冊ぐらいは読んでおかないと。このごろは芸能人でも本を書いていらっしゃる方が多いので、そういう本は読んでおきます。
永江:なぜ編集しないことにしたんですか。
黒柳:編集して面白いところだけ集めてしまうと、その方がどういう方かわからないでしょう。だって同じ言葉でも、「うーん」と考えこんで返事したことかもしれないし、即答だったかもしれない。編集で「うーん」を切っちゃったら、その方がどういう方か伝わらないでしょう? ラジオなら何十秒も音がなかったら事故ですが、テレビは「うーん」と考えていらっしゃる間、顔をうつせます。だから編集をしないためにも、打ち合わせは重要です。何回も出ていただいている方でも、必ず毎回打ち合わせをするんですよ。うんと仲のいい方でも。しないのは永六輔さんと小沢昭一さんぐらい(笑)。それと、もうひとつ、毎日編集したら、絶対に雑になりますよね。
永江:そうなんですか。
黒柳:それはそうでしょう。あんな長いものを編集したら。40分の番組を作るのに、60分録って20分カットするのは並大抵のことではありません。そんなことを毎日やっていたら絶対に雑になっちゃう。一週間に1回の番組なら面白いところだけを集めてもいいんだけど。3つめの理由は、編集すると、ゲストが「あそこをカットしてくれ」と言ったり、プロデューサーが「あそこを残したい」と言ったり、私も「ここを残して欲しい」とか、意見が合わなくなるから。それは大変ですから、とにかくナマと同じで勝負。編集はしないということを原則にしています。そうそう、編集をしないから、と、本心を話して下さるゲストも多いです。テレビ局の意志、番組の意志で、なんとでもなりますよね、編集すると。話した事、すべてそのまま出るなら、と、すべて話して下さるかたが多いのも、ナマと同じだからです。】
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『徹子の部屋』という番組は、放送時間が平日のお昼ということもあって、僕にとっては、よっぽど気になる人がゲストのときに録画して観る(といっても、そういうことは年に一度あるかどうかです)、あるいは、祝日のお昼に流れているのを観るともなく眺めている、というくらいの存在です。 率直に言うと、「なんだかこう、教科書的な対談番組で、ゴールデンタイムのトークバラエティなどと比べると刺激が少ないよなあ」という印象もあります。 しかしながら、この黒柳さんの話を読んでみると、あの『徹子の部屋』は、非常に丁寧に作りこまれている番組なのだな、ということがよくわかるのです。 黒柳さんがその日のゲストとお喋りをするだけ、のシンプルな形式の番組ではあるのですが、この番組だけで14人ものディレクターがいるなんて。 そして、ゲスト一人あたりにディレクターが一人つき、かなり綿密な打ち合わせを行ったのちに「編集しないことを前提とした」収録が行われます。
僕は『徹子の部屋』を観ているとき、いつもちょっとした「冗長さ」を感じてしまうのですが、たぶんそれは、この番組が「編集をしていないから」なのだろうな、ということが、この話を読んでいてわかりました。 日頃、「面白いところだけを編集して、『笑うところ』ではテロップ入り」という親切なバラエティ番組に慣れてしまっているのでしょうね。
黒柳さんが、【編集して面白いところだけ集めてしまうと、その方がどういう方かわからないでしょう。だって同じ言葉でも、「うーん」と考えこんで返事したことかもしれないし、即答だったかもしれない。編集で「うーん」を切っちゃったら、その方がどういう方か伝わらないでしょう?】と仰っておられるのは、まさに日常のコミュニケーションでの「相手がどんな人かを知るための視点」なのです。 「答え」そのものだけではなく、「答えが出てくるまでの間や答えかた」というのは、誰かと会話しているときには非常に気になるものですよね。 しかしながら、「間」の部分は、通常のバラエティ番組では「つまらないから」カットされてしまうことが多いのでしょう。 そういう意味では、編集して「面白い発言」ばかりを集めても、「面白い番組」はつくれても、「発言者がどんな人か」というのはわからずじまいなのかもしれません。 もっとも、僕も含めて、視聴者というのは「ゲストの人間性を知りたい」というよりは、「ゲストに面白いことを言って愉しませてほしい」と考えている場合が多いので、結果的に番組側も「視聴者のニーズに沿って」いるような気もしますが。
『徹子の部屋』が、「編集をしない番組」であることはけっこう知られているのですけど、この黒柳さんの話のなかでいちばん意外だったのは、「編集をしないからこそ、本心を話してくれるゲストも多い」という部分でした。 「編集できないような番組では、怖くて『本心』なんて喋れないのでは?」と思っていたのですが、マスコミやメディアというものをよく知っている人たちにとっては、「編集で自分の『問題発言』をカットできること」のメリットよりも、「編集によって、自分の『本心』が歪めて伝えられてしまうこと」のほうが「怖い」ことなんですね。
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2008年05月21日(水) ■ |
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「僕、人に『えっ?』って言われるとね、傷つくんですよ」 |
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『空耳アワワ』(阿川佐和子著・中公文庫)より。
【小さなパーティでの出来事である。雑踏のなかから若い女性が現れて、こちらへ近づいてきた。そのとき私は、どちらかというと若いとは言い難い(つまりぜんぜん若くない)男女のグループに加わってお喋りに興じていた。 「あのー」 若い女性が声を発した。視線が合う。 「ん?」と思い、「私にご用?」という意味で、人差し指を自分の鼻先に突きつけた。 「……はい。実は……」 そこから先が聞こえなかった。彼女はテーブルを隔てた向こう側に立っている。会場には生バンドが入り、大音響で演奏中である。 「……なんです。で、私……」 思わず私は、「えっ?」と聞き返した。するとその女性は顔を真っ赤にし、おどおどし始めた。 「いえ、お邪魔してすみません。実は私、アガワさんのファンで」 なんだ、そういうことだったの。怯えることないのに。こんな若い女性にも私のファンがいたとは有り難い。私はありったけの愛想を振りまいて、 「あら、どうも。それはそれは。お勤めですか? まあ、そう」などとひとしきり彼女とお喋りをして、別れた。 彼女が会釈をしながらその場を離れたとたん、私の横にいた年配紳士がT呟いた。 「かわいそうじゃないの」 何のことか。私が彼女にかわいそうなことをしただろうか。 「なにが?」 訊ねると、 「アナタが『えっ?』って言ったとたん、彼女、ビビっちゃったんだよ。こっちは怖そうなオッサンオバサンばかりで、そこへ乗り込んでくるだけで相当の勇気が要ったと思うよ。そこで『えっ?』って聞き返された日にゃ、そりゃビビるよ」 なるほどそうだったかもしれない。 かつて俳優の西村雅彦さんにインタビューをしたとき、注意されたのである。西村さんの声が小さかったので、私がつい、「えっ?」と聞き返した。たちまち西村さんが顔を微妙にゆがめておっしゃった。 「僕、人に『えっ?』って言われるとね、傷つくんですよ」 ここから先はそのときの再録である。
西村:昔ね、聞こえないと「えっ?」って言う友達がいて、何でこの人は「えっ?」って聞けるんだろうと思って。
阿川:スミマセン。
西村:いや、非難してるんじゃなくて。それで、いつか僕も「えっ?」って人に聞き返せるようになってやろうと決意したんですよ。
阿川:子供の頃に?
西村:十代の頃かな。で、一時期、ことあるごとに、聞こえてるのに「えっ?」て聞き返した(笑)。「えっ?」ってセリフがあると、ことさら強調して言ったりもしてましたね。今でも言ってるし。小さい頃に受けた傷はいまだに癒えず、今仕返しをしているとこなんですけど(笑)。
あのとき西村さんにそう言われ、たしかにそうだと反省したものだ。「えっ?」には相手を叱咤する響きがある。言っている本人にその意図がなくても、言われた側は怒られたような気分になり、もしや自分の発言が、とてつもなく的はずれではないか、失礼なことを言ったのだろうかと不安になる。力関係で言えば、「えっ?」の側が断然、偉そうで、居丈高だ。】
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僕も「えっ?」って聞き返されるのって、本当に苦手です。 少なくとも肯定のニュアンスの反応ではありませんしね。 僕は昔から喋っているときの自分の声の小ささとか滑舌の悪さにちょっとしたコンプレックスがあるので、なおさらそういうふうに感じてしまうのかもしれませんが、「えっ?」と聞き返されると、「もっとしっかりはっきりしゃべれよ!」とか「お前の話はわかりにくいんだよ!」とか非難されているような気がしてしょうがないのです。
それに、僕のイメージでは、「自分が尊重している相手に対しては、どんなに聞き取りにくくても、『えっ?』とは聞き返さないはずだ」というのもありますし。 そういうことは実際にはありえないのですが、例えば、天皇陛下と直接お話をさせていただく機会に、陛下に「えっ?」って聞き返す人はいないはずです。それはちょっと極端なシチュエーションだとしても、学生が先生に対して「えっ?」って聞き返すことはありえないはずです。
まあ、友達同士なら、「コイツは『えっ?』って聞き返すのが口癖なんだな」とわかっているでしょうし、相手が高齢者で耳が遠い場合には、「聞こえづらくて、この人自身も苛立っているのだろうな」ということで、そんなに気にはならないのでしょうけど(実は、働き始めたころは、外来でお年寄りに「えっ?」って聞き返されるたびに、内心ちょっと傷ついていたんですが)。
この後の文章で阿川さんも書かれているのですが、「えっ?」を使う人の大部分は、「単純に聞こえなかったから、最もシンプルな言葉で聞き返しているだけ」で、それで傷ついたり、不快になったりする人がいるなんて「想像もつかない」のです。自分に悪意がないだけに、相手がなぜ傷つくのかもよくわからないんですよね。
しかし、「えっ?」が使えないとなると、「本当に聞こえなかったというシチュエーション」で、どういう反応を示せばいいのか、ちょっと悩ましいところではありますね。 僕はそういう場合、聞き返すのも悪いということで、「なんとなく聞き流してしまう」ことが多いのですが、本当は、そのほうが「失礼」なのかもしれません。
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2008年05月19日(月) ■ |
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無意識に「リアルな世界にもリセットボタンがある」と思ってしまうことの怖さ |
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『街場の現代思想』(内田樹著・文春文庫)より。
(「離婚について」という章の一部です)
【うちのゼミの学生の話。新しいゲームが出たので、3日くらい家にこもってゲームに耽っていた彼女はゲームをクリアしたあと、寝不足のままぼんやりと久しぶりに学校に出てきて、友だちと話しているときに、その子に向かって「言ってはいけないこと」を言ってしまった。そのとき、とっさに右手が「リセットボタン」のありかを探っていたそうである。 味わいの深い話である。 この逸話の興味は、ゲームのやりすぎでリアルな世界にもリセットボタンがあると思ってしまった幻覚にではなく、「リセットボタンがある」と無意識に思っていたせいで、友だちに向かって不用意な発言をすることを自制できなかったということの方にある。つまり彼女はリセットできることを前提にしたとき、無意識に「言ってはならないこと」を選択的に口にしたのである。 あまり知られていないことだが、「やり直しが利く」という条件の下では、私たちは、それと知らぬうちに、「訂正することを前提にした選択」、すなわち「誤った選択」をする傾向にある。 自動車の免許を取ったばかりの新米ドライバーは決して中古車を買ってはいけないとよく言われる。「運転が未熟なので、ぶつけて傷つけるかもしれないから、中古に乗る」という発想をしている限り、ドライバーは無意識に自動車を「ぶつけよう」と思うようになる。考えてみれば当然だ。「ぶつけても平気」という理由で、わざわざ購入した中古車である。ぶつけなければ買った意味がない。】
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この文章を読んで、僕が免許を取ったとき、親が「絶対に新車に乗るように」と言っていたのを思い出しました。僕は当時「どうせぶつけるし、中古でいいんじゃない?」なんて答えた記憶があるんですよね。あのときは、「中古車って、どこかに隠れたトラブルを抱えている可能性があるから、新車に乗ったほうがいい」という理由なのだと思っていたのですが。 それに、「新車だから、絶対にぶつけちゃいけない」というのって、かえってプレッシャーになるのではないか、とアガリ症の僕は考えてしまいます。 でも、こうして内田先生が書かれているのを読むと、「ぶつけよう」と無意識に思うようになることのほうが、緊張することよりもはるかに危険だということのようです。
京都新聞による小学生へのアンケートで、「死んだ人は生き返ると思いますか?」という問いに対して、約1割の生徒が「生き返る」と答えた、というニュースが伝えられていました(詳細はこちらを御参照ください)。 問題は、「死んだ人は生き返ると思っていること」そのものではなくて、「どうせ生き返るのだったら、殺してもいい」、あるいは「それなら、傷つけてみよう」と無意識に行動してしまうことにある、ということなのでしょう。 『ドラゴンクエスト5』の「ビアンカとフローラ、どちらと結婚するか?」という選択(僕なら迷った挙句に夜逃げしてしまいそうですが)のように、「どちらが正しいとはいえない選択」もあるのですが、ゲームでは、ついつい、「間違っているであろう選択肢」を選んでみたくなる衝動ってありますよね。例えば、『ドラゴンクエスト1』のラスボスの「私の手下になれば、世界の半分をお前にやろう」というような「問い」って、明らかに「罠」なのですが、あれを「選んでみた」ことがある人は、かなり多いはずです。 「どうせ、リセットしてやり直せばいいや」と思うと、無謀な選択にも、抵抗感はすごく少なくなるどころか、むしろ、その「無謀な、不正解であろう選択肢」を選んでみたくなるのです。
「ゲームはゲーム、現実は現実」でしょうし、「だからゲームをやっていると自制心が失われる」なんて言うつもりはないのですが(ゲーム内で「やってはいけない行為」をやってみるというのは、ある種のストレス解消にもなるでしょうから)、こういう例を聞くと、「現実にリセットボタンがある」と無意識に思っている人というのは、僕も含めて、けっこういるのではないかと不安になってきます。
ネットというのも、「何かクレームがつけられたら、書き直せばいいや」って、考えがちな場所ではあるんですよね。見た人は、「書き直す前の過激な内容」しか記憶に残らないのに。
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2008年05月17日(土) ■ |
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井上雄彦さんに『バガボンド』を描かせた編集者 |
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『漫画ノート』(いしかわじゅん著・バジリコ)より。
【先日、番組(NHKBS2の『BSマンガ夜話』)で取り上げたある作品の出版許可を貰おうと、キネ旬の編集者が、その漫画の担当編集者に連絡をしたところ、断られてしまったらしい。出演者が番組中にその漫画について話したことに対して、いちいち反論を載せさせてくれるのなら出版を許可する、と彼はいったという。ぼくが直接話したわけではないので、ニュアンスまではわからないのだが、それが本当なら、編集者の作者に対する過保護、管理のいきすぎもここまできたかと思わせるエピソードだ。
(中略)
それから、もうひとつ、『モーニング』で連載中の、井上雄彦、『バガボンド』だ。 『少年ジャンプ』であのバスケット漫画『SLAM DUNK』の超大ヒットを飛ばした彼の実質第二作が、他誌他社の、それも青年誌の、おまけに<宮本武蔵>だったことに驚いた人は多いだろう。ぼくも、驚いた。 青年誌なのはともかく、いったい、なぜ武蔵、なぜ時代劇。理由が、わからなかった。 『SLAM DUNK』が終わったあと、各誌の編集者が彼のもとを訪ね、うちで連載をやってくれと依頼した。あれだけの大ヒットを飛ばし、あれだけの魅力的な絵を描く旬の漫画家を、ほっておく編集者はいない。 その中から井上がモーニングを選んだのには、理由がある。どこの編集者も、なんでも好きなものを描いてくれて構わないと連載を依頼するだけだったのに対し、ひとりモーニングの編集者だけが、具体的な企画を持っていったからだという。ぜひ、うちで吉川英治の宮本武蔵をやってほしい、と依頼したからだという。 本人から聞いたわけではないので、真偽のほどはわからないのだが、それが本当なら、まだ漫画界も捨てたもんじゃないな、と思わせるエピソードだ。 自分の枠内に収めようとする編集者と、自分の企画を膨らませて貰おうと思う編集者。どちらに意味があるかは、明らかだと思う。】
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この項には「編集者の仕事」というタイトルがつけられているのですが、編集者に限らず、「一緒に仕事をするパートナーとして、どんな人を選ぶか」ということを考えさせられる話です。 ここで紹介されている2つのエピソードは、いずれも「本人から直接聞いた話ではない」そうなので、「事実」ではない可能性もありますが、こうして書かれていることと、いしかわさんのこれまでの言動を考えると、「かなりの確率で事実だとみなせる話」だと思われます。
僕も井上雄彦さんの第二作が『モーニング』に連載され、しかも、その内容が吉川英治の『宮本武蔵』をベースにしたものだということには、けっこう驚いた記憶があります。よく『週刊少年ジャンプ』が手放したな、というのと、なぜこの時代に、あの井上雄彦が『宮本武蔵』なんだ?というのと。
結果的には、この「試み」は大成功し、『バガボンド』で井上雄彦さんは「一発屋」では終わらない実力と表現の幅広さを見せつけ、マンガ家としての評価を不動のものとしたのですが、「実質第二作」をどういう作品にするか、ということには、井上さんもかなり悩んだのではないでしょうか。 『SLAM DUNK』の成功があまりに大きかったためになおさら。
外野からみると、「そんなの『丸投げ』してくるような編集者より、ちゃんと『協力』してくれる編集者(あるいは雑誌)と組んだほうがいいに決まっている」ようにも思えるのですが、成功して、周りがイエスマンばかりになってしまうと、「自分の描きたいものを描かせてくれ」と考えるのが一般的なのでしょう。編集者たちだって、「好きにしていい、と言わないと描いてくれないのでは……」と思っていた人がほとんどなのでしょうし、もし仮に、あの時期の井上さんを起用して、こちらからリクエストした作品で失敗したら、その編集者にとっても大きな「失点」になるはずです。
もちろん、こういうのは作家それぞれに「向き・不向き」があり、「やりたいようにやったほうがうまくいく作家」というのも存在するのかもしれません。 しかしながら、井上雄彦さんの場合は、「好きにさせてくれる編集者」よりも「自分の新しい引き出しを見つけてくれる編集者と仕事をすること」を選んだのは、結果的に「正解」だったわけです。 たぶん、「自由に描いていい」という条件に魅かれて描きはじめ、結果的に自分を見失ってしまったマンガ家もたくさんいたのでしょう。
それにしても、「なぜ武蔵、なぜ時代劇」。あのとき、僕たちと同じ疑問を持ったであろう井上さんを、この編集者はどんなふうに「説得」したのか? その「答え」をいつか訊いてみたいものです。
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2008年05月15日(木) ■ |
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日本のカレーを変えた「バーモントカレー」開発秘話 |
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『カレーライスの謎』(水野仁輔著・角川SSC新書)より。
【1960年代の初めまでは、「大人はカレーライス、子供はハヤシライス」と言われ、カレーとハヤシがセットで売り出されるような状況にあった。 カレーと言えば今では子供が好きな食べ物の代表格だが、当時カレーを食べることは、スパイシーな風味がわかる大人の特権だったのだ。この構造を根底からガラッと変え、日本のカレー史上に最大のマーケットを切り開く商品が現れる。それが、ハウスの「バーモントカレー」だ。 1960年に「印度カレー」で固形カレーの仲間入りを果たしていたハウスは、次なる新商品の開発に頭をひねっていた。開発のヒントをつかものと、浦上郁夫2代目社長(当時副社長。1985年日航ジャンボ機墜落事故で死去)が中心となって徹底的な消費者調査を実施する。 そこで新しい発見があった。実は家庭の食事メニューは、女性たちの好みで決められていたのである。しかも、その女性たちは家庭で食べるカレーを辛いと思っている、ということがわかった。亭主関白という言葉の通り、当時、家庭での実権は父親が握っていたが、食べ物に関しては違ったのだ。時代は高度成長期にさしかかり、家庭で団欒という幸せの構造が崩れ始めていた。男性は外へ出て仕事に励むようになり、家庭に残されるのは母親と子供。子供を中心とした毎日の食事を考える母親が、決定権を持つのは自然な流れだった。 そして、「女性(子供)に向けた甘口のカレー」という、それまで全くなかった斬新なコンセプトを元に開発がスタートする。甘味だけでなく、子供の健康へ配慮した商品を考えた結果、アメリカ・バーモント州に伝わるリンゴ酢とハチミツを使った健康法にヒントを得て味の方向性が定まった。
東京オリンピックを翌年に控えた1963年、「バーモントカレー」は発売された。 価格は当時の競合商品よりも10円高い、60円。流通の反応は冷たかった。価格にではない。味に対して、「リンゴとハチミツ入りの甘いカレーなんて売れるわけがない!」と猛反発を受けたのだ。ここで折れていたら、今のハウスはなかったかもしれない。 おそらく、ハウスにとって、この反発はある程度想定内だったのではないだろうか。「バーモントカレー」の研究が正式に決定し、開発に着手した後でさえ、社内でも「カレーは辛いものだ、甘くしちゃいけない!」と反対の声が続いていたくらいだから。 「バーモントカレー」は当時のハウスにとって、味だけでなく、あらゆる点でエポックメイキングな商品だった。 たとえばパッケージでは、食品で初めてグラビア印刷を採用。箱の表面中央を商品名が書かれた斜めの帯で分断し、両脇にリンゴやカレーなどのいわゆrシズルカットを入れ込むという斬新なデザイン。 中身の容器トレーは匂いを遮断できるポリカーボネイトを使った。後に「包材革命」といわれ、現在のスタンダードとなっている容器だ。 テレビCMは発売の1ヵ月前から投下するという新しい試みを行った。 営業体制もユニークだった。昭和30年代後半からはスーパーマーケットの成長期だったこともあり、スーパーなどの小売店向けには「フィールドマン」、問屋などの卸売店向けには「セールスマン」と二本柱を整えた。 まさに社運をかけた商品とその販売体制だった。そんな数々の施策が実を結び始め、発売から3年ほどすると人気に火がつき、やがて爆発的なヒット商品へと成長する。 「子供はハヤシ」という常識は覆った。女性も子供も家庭でカレーを食べるという全く新しいカレーの消費形態はこうして生まれたのだ。 その後の「バーモントカレー」の売れ行きは驚異的で、最盛期には日本の家庭の2軒に1軒は「バーモントカレー」を食べていると言えるほどのシェアを誇っていた。 「バーモントのヒットは決して偶然ではなかった」とハウス食品広報部の森田氏は強調する。綿密な消費者調査と情報収集の結果に見つけたインサイトをヒントにしているからだ。 この商品の発売以降、ハウスは”マーケティングカンパニー”と呼ばれるようになり、現在に至る。】
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うちのカレーライスも、ずっと「バーモントカレー」だったんですよね。 1970年代後半から1980年代にかけて、「子供時代」を過ごしていた僕にとっては、「バーモントカレー」は、「台所に置かれているのが当たり前のもの」で、それが発売されてから人気商品になるまでの経緯なんて、想像したこともありませんでした。 子供心に、「なぜ『バーモント』なんだろう?」とか、「リンゴとハチミツ」って、カレーにそんな甘いもが入っているなんて、ちょっと気持ち悪いな……」などとさまざまな疑問を抱きつつも、「僕が大好きだったカレー」は、ずっと、「バーモントカレー」。 いやまあ、とりあえずカレーであれば給食のカレーでもジャワカレーでもボンカレーでも嫌いではなかったのですが、ずっと家で食べていた「バーモントカレー」の匂いは、僕にとっては「別格」なのです。
この「バーモントカレーが新商品だった頃」の話を読んで僕がいちばん驚いたのは、「バーモントカレーが、女性・子供向けの甘口のカレーとして開発されたものだった」ということでした。 いま思い出してみると、「バーモントカレー」は、「辛すぎる」カレーではなかったのですが、当時の僕にとっては、けっして「甘い」カレーでもなかったんですよね。「バーモントカレー」の「中辛」が僕にとってのスタンダード。 そういう「甘口のカレー」が大好物だったにかかわらず、1983年に「カレーの王子さま」が発売されたときには、そのCMを見ながら、「そんなお子様向けの甘ったるそうなカレーなんて食えるか!」なんて思っていたなんて、いまから考えると失笑してしまう話ではあります。
これを読みながら、当時父親があまり家のカレーを好まなかったのは、もしかしたら、「甘かったから」なのかもしれないな、という気がしたのです。でも、そういう不満を子供の前で表に出すことはありませんでしたから、子供たちが喜ぶならと、なんとかガマンしていたのかもしれませんね。
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2008年05月12日(月) ■ |
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「色んな撮影をやってきましたが、パンチラほど難しいものはないです」 |
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『スズキが覗いた芸能界』(松尾スズキ著・新潮文庫)より。
(松尾スズキさんと磯山晶(いそやま・あき)さんとの対談の一部です。磯山さんは、松尾さんの盟友・宮藤官九郎さん脚本の『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』などの作品を手がけておられるTBSのプロデューサーです)
【松尾スズキ:そう言えばさ、『恋の門』のときに酒井若菜のパンチラを撮らなくてはいけなくてね。事前に実験しとけばよかったのにやってなかったから、現場では思っていたようにうまくいかないの。
磯山晶:(即座に)それは衣装が硬かったんです。
松尾:そう、衣装が硬かったの。あれ? 言ったっけ、この話?
磯山:ええ、パンチラがうまく撮れなかったという話はお聞きしました。パンチラほど難しいものはないですよ、今までの経験則から言うとね。実際にはよくあるんですけど、作ろうとしても中々できないんですよね。
松尾:(しみじみ)自然なパンチラはできないんだよねえ。何十回と風を送ったり、釣り糸でひっぱったりしたんだけど、うまくいかない。衣装が硬いのは分かってたんだけど。もともと、酒井若菜自体は映んないのよ。パンツのアップになるから。あまりにNGが続くから酒井さんが完全にキレちゃって。無理もないよね、芝居の問題じゃないんだから。そのときは諦めて、最終日にパンチラを撮ることにしたわけ。「若菜ちゃんじゃなくていいから」ということにして、パンチラ女優を午後6時に呼んで。前のシーンが押しちゃったから、夜中の3時まで拘束することになっちゃったんだけど。
磯山:パンチラ女優って(笑)。私はその話を聞いてたから、気をつけることにしました。たまたま『特急田中3号』の第1話で、栗山千明ちゃんのパンツが見えると鉄道柄のプリントが見えるというのを作家が書いてきて――。
松尾:しょうもな(笑)。
磯山:「松尾さんがパンチラ撮るのが大変だと言ってたな」って思い出して、衣装合わせのときに、ちょっとでも硬い素材のスカートを持ってくるたびに、駄目出しを繰り返しました。細かいプリーツが入っていて薄い生地じゃないとパンチラしないんですよね。
松尾:せっかくだから、読者の人にも覚えておいてもらいたい。
磯山:適切な衣装を選んだところで、とても大変だったんです。歩道橋の上でパンチラすることになってたんですけど、栗山千明ちゃん、一日中……。「本当にごめんなさい」っていうくらい……。色んな撮影をやってきましたが、パンチラほど難しいものはないです。】
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観る側にとっては、「ちょっとした視聴者サービス」という感覚で、一瞬「おっ」と画面に釘付けになり、次の瞬間にはすぐに忘れてしまう、この「パンチラ」なのですが、現場では、こんなにこだわって撮影されているのですね。 磯山さんの「実際にはよくあるんですけど」という言葉には、「ウソだ、僕は生で『目撃』したことって、人生で2回くらいしかないぞ!」と反論したいところなのですが、このお二人の話によると「細かいプリーツが入っていて薄い生地じゃないとパンチラしない」そうです。まあ、そう簡単にパンチラするような服ばかりだったら(着ている女性は)困るのでしょうけど。
「どうでもいいようなシーン」に見えるけれど、制作側にとって、「パンチラ」には、けっこうこだわりがあるのだなあ、と驚いてしまいました。「とりあえずパンツ見せとけばいいだろ」というものではなくて、より「自然なパンチラ」を目指して、一日中撮影するなんてこともあるみたいです。顔も映らないのにパンチラのためだけにNGを出されまくったら、そりゃあ、酒井若菜さんじゃなくてもキレそうですが、「パンチラ女優」なんていう人もいるんですね……
「手だけのタレント」みたいに専業化しているのかどうかは不明ですけど、確かに、「このパンチラは酒井若菜じゃない!」ってわかる人がそんなにいるわけないですし。逆に、けっこう本人がやっている場合が多いということのほうに、驚くべきなのかもしれません。
それにしても、自然の力っていうのは偉大なんだなあ……
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2008年05月08日(木) ■ |
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歴史上もっとも「ツイていない」画家 |
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『三谷幸喜のありふれた生活6 役者気取り』(三谷幸喜著・朝日新聞社)より。
【今、執筆中のもう1本の芝居は、1888年のパリが舞台である。ゴッホ、ゴーギャン、スーラといった後期印象派の有名画家たちがまだ無名だった頃の話。彼らがお金を出し合って一つのアトリエを借りていたらという設定で、個性の強すぎる彼らの、うまく行くはずのない共同生活を描く。実際にゴッホとゴーギャンは短い間だったけど「同棲」していたわけだし、スーラもこの二人とは交流があったので、皆でアトリエを持つというのも、まったくあり得ない話ではないと思う。 物語にはもう1人、シュフネッケルという人物が登場する。彼も実在の人。ゴーギャンが株式仲買人だった頃からの友人だ。一応画家仲間なのだが、描いた作品は、現在ではほとんど評価されておらず、むしろその名前は、自慢にならないあることで、美術史に残っている。すなわち「ゴーギャンに妻を寝取られた男」。 シュフネッケルは親友のゴーギャンを家に居候させてやり、そして彼に妻を奪われてしまう。ゴーギャンが書いたシュフネッケルの奥さんの肖像画が残っていて、そこには隅っこの方に、背中を丸めた情けなーい旦那さんの姿が。どういう思いでゴーギャンはこの絵を描いたのか。哀れシュフネッケル。しかも小説家のサマセット・モームが、このゴーギャンと奥さんとの不倫のエピソードを基にして『月と六ペンス』を発表、それが世界的大ベストセラーになってしまうのだから、まったく彼もツイていない。 ちなみにシュフネッケルは、ゴッホの絵を一時預かっていたことがあって、その間になんと「この黒猫はいらないなあ」と、自分の判断で消してしまったという、とんでもないエピソードもある(諸説あるようだが)。すなわち「ゴッホの絵に勝手に筆を入れた男」。なんだかこの人、とことん僕好みのキャラクターなのだ。】
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このエピソードを読むと、世の中には、こんなに不運な画家もいたのか……と、シュフネッケルさんに同情するばかりです。いや、実際にはゴッホも「生前は1枚しか絵が売れなかった」不遇な画家だったわけで、生きている間はそんなに格差を感じることはなかったのかもしれませんけど。
ゴッホの絵を「修正」しているくらいなので、シュフネッケルさんは、自分のほうが画家としては上だと考えていた可能性もありますが(ちなみに、シュフネッケルさんには、ゴッホやセザンヌの作品に後から筆を入れたり、贋作をつくったのではないかという「疑惑」もあるそうです)、もし、画家としての後世の評価や友人と妻との不倫が世界的大ベストセラーとなってしまったことをシュフネッケルさんが知ったら、成仏できないだろうなあ、というようなことを考えずにはいられません。 もし、ゴーギャンとの交流がなかったら、シュフネッケルという人は「単なる売れない画家」として忘れ去られ、後世の人に知られることもなかったと思われますが、こんな形で歴史に残るというのは、さすがにちょっとかわいそうですよね。
ちなみに、三谷さんがこのエッセイで紹介されている「シュフネッケルの奥さんの肖像画」というのは、この作品”The Schuffenecker Family. 1889”(オルセー美術館所蔵)です。 うーん、哀れシュフネッケル…… 画家と友達になるのは、やめておいたほうがいいかも……
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2008年05月06日(火) ■ |
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「ビッグサンダー・マウンテンの列に並んだのに、身長が足りなくて乗れなかった子どもと両親」へのディズニー・ワールドの対応 |
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『ディズニーが教える お客様を感動させる最高の方法』(ディズニー・インスティチュート著・月沢李歌子訳・日本経済新聞社)より。
【子どもは何歳になってもディズニー・ワールドが大好きだ。しかし、パークの施設すべてが小さな子どものニーズに合わせてデザインされているわけではない。アトラクションのなかには、小さな子どもには刺激が強すぎるものもあるし、つまらないものもある。小さな子どもを連れたゲストは、大人のゲストや年長の子どもとは違った不安やニーズを抱えている。こうした不安に気づくことが、子どもの視点からサービス・プロセスを構築することにつながる。 たとえば、家族といっしょにビッグサンダー・マウンテンの列に並んだのに、身長が足りなくてライドに乗れなかった子は、どんなにがっかりするだろうか。そして、両親はどうするだろうか。子どもだけを残してふたりで乗るのか、それとも最初にひとりが乗り、次にもうひとりが乗るために、もう一度、列に並び直すのだろうか。この問題に対応するためのプロセスがある。まず、両親のうちのひとりが子どもといっしょに残り、もうひとりはライドに乗って、ライドが戻ってきたら待っていた親がすぐにライドに乗れる、というものだ。では、ライドに乗れなかった子どもはどうするのか。子どもは、身長がライドに乗れる高さになったときに、待ち時間なしで乗れることを約束した証明書をキャストからもらうのである。 エプコットのワールド・ショーケースでは、子どもが退屈しないように、キッドコットが用意されている。キッドコットは、年少の子どものためにそれぞれのパビリオンにつくられた乗り物や遊びである。さらに、それぞれの国のパビリオンを訪れて発見したことを書き込むことができる小冊子が、子ども全員に渡される。 また、買い物に飽きてしまう子どものために、ダウンタウン・ディズニーのマーケットプレイスでは、ショップからショップへと移動しながら集めることができるステッカーとステッカーブックを渡して退屈をまぎらせるようにしている。 このように、平均的な顧客像にあてはまらないゲストのためのサービス・アテンションは、特殊なニーズをもつゲストや、その同伴者の経験を強化するのに役立つのだ。】
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この「家族いっしょにビッグサンダー・マウンテンの列に並んだのに、子どもの身長が安全基準を満たさなかったために乗れない場合の対応」は、アメリカ・フロリダ州のディズニー・ワールドでのものなので、日本の東京ディズニーランドや他国でも同じ対応なのかどうかはわかりません。たぶん、同じ対応をしてくれるのだろうな、とは思うのですが。
しかし、あらためて考えてみると、こういう対応って、答えを教えられると、「そんなふうにすればいいのか」というくらいのものですが、実際にその「解答」を見つけ出し、マニュアル化するというのは、けっして簡単なことではないでしょう。 実際にディズニーランドに行ったことがある方はご存知だと思いますが、ディズニーランドのアトラクションは、入り口のところに「身長制限(これより身長が低いお子様はこのアトラクションには乗れません)」というのが、かなり大きく示されています。おそらく、大部分の小さな子どもを連れた家族は、それを見て「乗れないから並ばない」と自分たちで判断しているはずです。 つまり、この例に挙げられている「家族といっしょにビッグサンダー・マウンテンの列に並んだのに、身長が足りなくてライドに乗れなかった子」というのは、スタッフにとっては、「想定外のゲスト」なのです。「入り口にあんなに大きく書いてあったじゃないですか。危ないから乗せられませんよ。ご両親がどうされるかは、自分たちで判断してください」というふうに対応されても、文句を言われる筋合いはないはずです。「じゃあ、子どもは預かりますから、ご両親は乗ってきてください」くらいでも、かなり「良心的」に思われます。 ところが、ディズニーのすごいところは、「両親が待たずに乗れるようにする」のと同時に、「子どもをひとりにして淋しい思いをさせないこと」、そして、「今回乗れなかった子どもにも、『乗れるくらい大きくなったら待たずに乗れる証明書』をあげる」という、「子どもの目線から見たサービス」を徹底しているところなんですよね。子どもからすれば、「自分を置き去りにして、両親がアトラクションに乗っている光景」というのは、けっして良い記憶にはならないでしょうから。
それにしても、「注意書きを無視して乗ろうとしている招かれざる客」なのに、ここまでサービスしてしまうなんて。 ちょっと「過保護」なんじゃないかとも思うのですが、ここまでやってみせるのが「夢の国の流儀」だということなのでしょうね。
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2008年05月04日(日) ■ |
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「このひとは、『とりえ』がないというけど、べつに『とりえ』なんかなくていいんです」 |
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『それでもわたしは、恋がしたい 幸福になりたい お金も欲しい』(村上龍著・幻冬舎)より。
(村上龍さんが、20代〜30代の女性からのさまざまな質問に答えたものを集めた本の一部です)
【親が唯一の財産である実家を売り払ってしまい不安な毎日です
Q:何のとりえもないけど、親の資産でどうにかなるだろうと思っていました。何年かたてば、世田谷の土地はすごいお金になったはずなのに……。(31歳・フリーター)
(以下、村上さんの「答え」です)
すごいお金になるというのは、どういうことなんでしょうか。これからインフレになるのでバブルのときのように土地の値段が上がる、みたいなことをイメージしているのかな。それで、両親は確実に土地を相続させると約束していたんでしょうか。よくわからないけど、なんでそう自分の都合のいいように解釈できるんだろう。とりあえずいまは自分の家でもないのに。 自分にはこれがあるから将来もなんとかなりそうだ、という人生の支えが何もなくて、それが暗黙のうちに両親の家になってしまったのだとしたら、それはすごく危険です。世田谷だろうが銀座だろうが、実家が生きる支えになってしまっているというのは、こういう厳しいご時世だから理解できないこともないけど、リスクが大きいと思います。そういった不確実な希望からは早く脱却しないと。そのことに気がつく機会になるなら、両親が早めに家を売って、案外よかったかもしれません。 このひとは、とりえがないというけど、べつにとりえなんかなくていいんです。 たとえば、「私は何のとりえもない医者です」というような人のことを考えてみてほしいんですが、要するに医師免許をとりえとは言わないんですよね。でも食いっぱぐれはないわけです。「何のとりえもないけど中国語とフランス語ができます」ということだったら人生は有利になるということです。 逆に、よく聞く言葉ですが、「マジメなだけがとりえです」「明るいのだけがとりえです」というのはどうでしょう。こういうことを職務経歴書に書いても、面接でしゃべってもあまり効果は期待できないでしょう。 必要なのはとりえではなく生きるための技術、スキル、知識だというミもフタもない社会になりつつあります。家に固執するくらいだから、不動産に興味があるのでしょうか。死んだ子の年を数えるように、自分のものでなくなった家の資産価値なんかをぼーっと考えてないで、不動産や建築関係の資格でもとってみたらどうでしょうか。】
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村上龍さんらしいというか、まさに「ミもフタもない答え」ですよね。でも、これはたぶん「正論」なのでしょう。 この人の実家のことは僕には関係ないのでどうでもいいのですが、ここで村上さんがされている「とりえ」の話には、本当に考えさせられました。 僕はよく自分のことを「何のとりえもない人間」だと思って落ち込んでしまうのですが、村上さんは、この答えのなかで、「必要なのは『とりえ』ではない」と断言されています。
「いまの世の中を生き抜いていくのに必要なのは、性格や人間性における『とりえ』ではなくて、もっと形のある資格や技術だ、というのが、村上さんの「答え」なのです。 いや、もちろん「マジメである」とか「明るい」なんていうのは、人間としての大きな美質であり、人付き合いの上ではとても有用なものだと僕も思います。 でも、そういう『とりえ』っていうのは、逆に「マジメだから仕事で結果を出せなくてもいいや」とか「明るいから失敗しても許してね」みたいな「言い訳」に使われがちなのも事実なんですよね。
「マジメ」なのだったら、コツコツと勉強して何か武器になる資格を取ればいいし、「明るい」のであれば、営業で結果を出せばいいのですが、実際にそれができる人というのは、ごく少数なのです。 (偉そうに言っているけど、僕も「多数派」です)
この村上さんの答えは、「自分は何の『とりえ』もないからモテない」というのは単にサボりたい人間の言い訳で、いまの世の中では、性格的な『とりえ』なんかよりも、資格やスキルのほうが、よっぽど「生き抜くために必要なもの」(あるいは、「モテるための武器」)になるのだ、ということなのでしょう。 『とりえ』なんていう曖昧なものにコンプレックスを抱くヒマがあったら、もっと自分の周りの現実を変えるために、具体的に働きかけるべきなのです。 人間みんな、なんらかの『とりえ』は持っているわけで、だからこそ、「そんなものは武器にならない」ということなのかもしれません。
考えようによっては、『とりえ』は先天的資質、あるいは幼少時からの積み重ねの要素が大きいだけれど、『スキル』や『資格』は、大人になってからでも得ることが可能ですしね。
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2008年05月01日(木) ■ |
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『キリング・フィールド』の不可解な中国人(らしい)観光客 |
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『メコン・黄金水道をゆく』(椎名誠著・集英社文庫)より。
(「プノンペンの憂鬱」という項の一部です)
【午後のプノンペンは猛烈な暑さだった。はじめてカンボジアの都市の貌に触れることになる。ここは長く忌まわしい戦乱と壮絶な虐殺の苦悩をまだいたるところでひきずっている街である。 シェリムアップで私が出会った人たちにも親兄弟、あるいや妻や子供などがクメールルージュ(ポルポト)に虐殺された、という人が多かった。当人からじかにそういう話を聞くのは辛かったが避けてとおることはできない話だ。 そういう先入観があるからなのかプノンペンの街は強烈な熱気と熱風の中でなんだか汚くいじけて萎縮しているように見えた。 ひっそりとしたホテルに到着。昼食のあとにトゥールスレン刑務所跡に行った。1975年から79年まで3年8ヵ月におよぶポルポト政権下で延べ2万人がここに収容され、結局この刑務所から生きて出られたのは7人だけであった。 虐殺や拷問現場の部屋が続き、家畜小屋のような牢獄がまだ残っている。この刑務所からキリングフィールドと呼ばれた郊外の地に連れていかれて虐殺された人々約7千人の顔写真が壁に貼られている部屋がある。 奥のほうの部屋には夥(おびただ)しい数の人間の頭蓋骨が収められた棚があり、何が目的なのかアメリカ人の女性がそれらをひとつひとつ手にとってくまなく観察している。 そのあとキリングフィールドと呼ばれた虐殺の地に行った。忠霊塔にこの地に生き埋めにされた8985人の頭蓋骨が収められている。それがガラスを通してそっくり見える。 付近には沢山の穴の掘り跡があって土の中に服の切れ端などがまだ見える。虐殺され埋められた死体はまだ全部掘り起こされていないという。この時代カンボジアでは百万人以上が虐殺されているのだ。中国人らしい観光客が忠霊塔をバックに記念写真を撮っている。そのうち何人かの女がVサインだ。まったくこの中国の人々の精神感覚は不可解である。ポーランドのクラコウにあるアウシュビッツやベトナムのホーチミンにある戦争証拠博物館に行ったときも帰りは重い気持ちだったが、ここでもまったく同じ気分になった。】
参考リンク: クメール・ルージュ(Wikipedia)
キリング・フィールド(Wikipedia)
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参考リンクやその他の資料では、ポルポト政権下で殺された人の数は、100万人をこえるのではないかと言われているようです。当時のカンボジアの人口は約700万人だそうですから、なんと凄惨な「虐殺の時代」であったことか……
ちなみにこの「キリング・フィールド」というのはこの椎名さんが訪れた場所だけではなく、同じく「キリング・フィールド」と呼ばれる「虐殺の地」が、カンボジア国内には、他に何か所もあったそうです。
椎名さんは、「キリング・フィールド」で驚くべき光景を目にされています。 このような「人間の過ちを振り返るための場所」が、後世の人々が襟を正すための場所として整備され、観光地となっているケースはそんなに珍しいものではありません。アウシュビッツや広島の原爆ドーム・原爆資料館、沖縄の史跡などは、日本人にもよく知られています。 そして、僕たちの一般的な感覚としては、「アウシュビッツでVサインをしながら記念撮影をする」というのは、「人間としてやるべきではないこと」「犠牲者に対して失礼なこと」ではないかと思うのです。
ところが、「生き埋めにされた8985人の頭蓋骨が収められている」という忠霊塔の前で、Vサインをして記念撮影をする中国人(らしい)女たちを、椎名さんは目撃しています。 いや、この人たちが絶対に中国人であるという証拠はどこにもないのですが、僕はこの話を読んで、正直怖くなりました。 世界には、こういう虐殺の犠牲者の慰霊の塔の前でVサインをして写真にうつること、そして、そういう写真を撮ることに「違和感」がない人たちが存在するのです。まさか「平和を願ってピースサインをしているのだ」というわけではないでしょうし。
たぶん、彼女たちだけがその国のなかで飛びぬけてモラルに欠けるというわけではなくて、「そういう場では『配慮』すべきだという情操教育が行われていない国もが世界には存在している」ということなのでしょう。
そもそも、本当に中国人であったとするならば、ポルポトをもっとも熱心に支援していた国のひとつが中国であったということを、彼女たちは知っていたのでしょうか?
今の日本で生きている僕たちとは違った「価値観」を植えつけられて生きている人たちが、この世界にはたくさん存在します。彼らと「話し合い、理解しあう」ことは、本当に可能なのか、僕は自信が持てません。
いや、僕だってオーストラリアで、「せっかく来たんだから」って、原住民たちの聖地である(もちろん、彼らは興味本位で聖地に登ったりはしません)エアーズロックに「登山」しましたし、「ピラミッドだって昔の人の墓じゃないか!」という意見もあるでしょう。 そのあたりの「どこまでが許されるのか」っていうのは、非常に難しいところではあると思うのです。 ただ、いくら「観光客」だからといっても、何をしてもいい、というわけではないんですよね。
それにしても、この「キリング・フィールドの忠霊塔の前でVサインをしていた人たち」は、いったい何を考えていたのだろう……僕にはやっぱりわからないよ……
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