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2008年04月29日(火)
小学生時代、学級委員の女の子が『機動戦士ガンダム』から学んだこと

『月刊アスキー』2008年5月号(アスキー)の「第1特集・ガンダムという巨大ビジネス」より。

(「ガンダムを知る2人のインタビュー」という記事での土田晃之さんの話の一部です)

【最初にガンダムを観たのは小学校低学年。子供の頃はやっばり単純に、ロボットアニメとしてかっこよかったんですよ。それが、小学校高学年になると「ああこういう話だったんだ」とわかった部分ができて、さらに中学生、高校生になればまた解釈が変わって。そして大人になってから観ると、さらに「今までのは全然ちがう、こうだったんだ!」と思ったりする。観る年代によってまったく違う話になるんで、それが面白かったです。
 それから単純明快じゃないところがよくて。それまでのアニメは、「いいもん」と「悪もん」の区別がついたけど、ガンダムは登場人物が「戦いたくねえ」とか言ってるし、仲間ともめるし、だいぶ違う。それでも最初の頃はガンダムが「いいもん」だと思っていました。
 でも小学校4年生の頃、放課後に友達のトモキとガンダムの話をしていたら、学級委員のセキネさんという女の子が入ってきて。そのとき「お前女だからガンダム観てないだろ、どっちがいい奴かわかるのかよ」と言ったら、お兄ちゃんがいるから観てる、と。そして「戦争にいいも悪いもない!」と言われましてね。それが、ものすごい名言で。俺もトモキもショックで、「確かに!」と納得するしかなくて。あのときのセキネさんのセリフ、まだ心に残ってますよ。そういう”深さ”があるアニメって、当時は他になかったんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 土田さんは1972年生まれだそうですから、僕とほぼ同世代です。
 土田さんも僕も、『機動戦士ガンダム』はすごい!という評価が世間で確立される前に、リアルタイムでガンダムに触れた世代ということになりますが、当時の『ガンダム』は、クラスの男子の一部が「これは面白い!」と話題にしているくらいのものでした。
「ちょっと難しいアニメで、なんとなくとっつきにくい」というのが、当時の僕の印象だったのです。
 それまでのサンライズの作品が、『ザンボット3』『ダイターン3』といった、比較的わかりやすい勧善懲悪モノのロボットアニメだった、ということもありましたし(でも、『ザンボット3』の最終回には号泣させられました。あれはある意味「衝撃的」だった……)。

 その後、『ガンダム』は再放送や映画化、そして忘れてはならない「ガンプラ」(プラモデル)で大ブームとなり、現在でも「日本のアニメの金字塔」として高い評価を受け続けています。
 『ガンダム』というのは、シャア・アズナブルをはじめとする「敵役」が非常に魅力的な作品で、当時「ガンダムごっこ」をやるときにも、一番人気は「赤い彗星」役だったんですよね。アムロは主人公にもかかわらず、日頃のネガティブな言動が災いしてか、小学生男子には全然人気がありませんでした。

 『ガンダム』というのは、たしかに「自分の年齢によって評価が変わる作品」なのです。子供時代には「大人の都合で戦わされる」アムロやフラウ・ボウやカイに共感していたけれど、今あらためて観ると、ブライト艦長(今の僕よりずっとずっと若いのですが)とかランバ・ラルとかギレン・ザビの立場もよくわかるし、ジオンの主張にも理があるように感じられます。
 いや真面目な話、ブライト艦長は大変だったと思うよ、本当に。

 それにしても、この学級委員のセキネさんの言葉、小学校4年生のときに聞かされたら、僕も一生忘れられなかったでしょう。
 当時の女の子は、ロボットアニメとかゲームにはほとんど興味がないというのが相場でしたから、『ガンダム』を観ていたことも驚きですし、「とにかく戦争はよくない!」という教育を受けていた時代に、学級委員をやっていたような女の子の口からこんな感想を聞いたら、たしかに「衝撃的」なはず。

 「戦争にいいも悪いもない!」
 『ガンダム』って、僕たちの世代にとっては、最も影響力があった「戦争について考えさせるテキスト」だったのかもしれませんね。



2008年04月25日(金)
『自殺してもいいですか』という「問い」へのプロのカウンセラーの答え方

『人の心はどこまでわかるか』(河合隼雄著・講談社+α新書)より。

(臨床心理学者・河合隼雄さんが、さまざまな現場ではたらく心理療法家たちの質問に答えたものをまとめた本の一部です。学習院大学助教授の川嵜克哲さんの質問に対して)

【川嵜さんはまた、「問う」こと、「問われる」こと、「答える」ことの重大さを指摘されています。
「いま、こうやって河合先生に『問う』ているわけですが、『問う』ということは恐ろしいことだと思います。『問う』ということは『問われる』ということでもあるわけですし、禅問答なんかをみてますと、なんか『殺しあい』というか(実際、『問う』ことと『殺す』ということは深い関係があるように思いますが)、命をかけてやっているなあという印象がします。カウンセリングにおいてのクライエントの『問い』も同様のことだと感じています。実際、クライエントがカウンセラーに、『治るんでしょうか』とか、『なにが原因なんでしょうか』、『自殺してもいいですか』などと『問う』てくることがありますが、このようなクライエントの『問い』に関してなにかコメントをいただけますでしょうか」
 禅では、「答えは問処にあり」と言われます。つまり、答えは問うところにあるというわけです。川嵜さんにしても、いかにも質問しているようで、答えは自らもっておられます。問いの中に答えを内包しながら問うているわけです。アマチュアだったらこのような質問はしません。
「問う」こと「問われる」ことのこわさを感じていない人に、このような質問を発せるはずがないからです。
 そういう意味では、クライエントの問いに対して、カウンセラーはものすごく考えなければならない。普通の意味での質問と答えとはまったく違った重みをもっています。ときには、そこに命がかかることもあります。
「治るんでしょうか」とか、「なにが原因なんでしょうか」というのは、クライエントが必ず聴いてくる問いですが、それに対しても、非常に多くの答え方があります。たとえば、クライエントが「なにが原因なんでしょうか」と聞いてきたら、たとえば因果関係がわりとはっきりしている外科の医師などは、その原因を明確に答えようとしますが、私たちの場合は、「うーん、なにが原因なんでしょうかね」と、同じ言葉を返すことが多い。前述した「アンサリング・バイ・アスキング」です。そうすると、クライエントが自分で考えようとします。
 ただ、そのときに、「あなたはどう思いますか」というふうに返すと、相手を突き放したことになります。クライエントは、「そんなことは自分で勝手に考えろ」と言われたように受けとります。そこを、「うーん、なにが原因なんでしょうかね」と答えれば、相手は、「ああ、この人も考えてくれているんだな」と感じます。「私も考えるし、一緒に考えましょう」という雰囲気をつくることが重要なのです。
 もちろん、そればかりやっているわけではなく、「なにが原因なんでしょうか」と言われたときには、「私は原因には関心を持っていません」という答え方もできます。そうすると、相手は、おっ、これはちょっと変わった人だな」と思い、そこに共感の場が生まれてくることもあります。
 このように、そのときその場でいろいろな答え方があります。クライエントから問われたときに、答えはたくさんあるのに一つとか二つしか思い浮かばないとしたら、それはアマチュアです。相手はすぐに見抜いてしまうでしょう。】

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 僕はカウンセラーではないのですが、初対面の人と話をする機会が多い職業についているので、この本、非常に興味深い内容でした。自分のことを「聞き上手」だと思い込むことの危険性も含めて。

 この「答えは問処にあり」という言葉と、「なにが原因なんでしょうか」という「問い」に対する答えかたについての河合さんの解説は、プロのカウンセラーではない僕にとっても、すごく参考になりました。
 誰かに「悩み事相談」をされたとき、僕もこの「あなたはどう思いますか」っていうのを、けっこうよくやってしまっていたんですよね。
 そういう答えかたが、「相手の考えを引き出すための真摯な姿勢」だと思い込んでいたのです。
 あらためて考えてみると、「あなたはどう思いますか」って、かなり「上から目線」な態度ですよね。相談した側としては、「わかんないから聞いてるんじゃないか!」と言いたくなるはず。

 それに比べると、なんとなく「無責任」な第一印象の「うーん、なにが原因なんでしょうかね」のほうは、相談した側にとっても、「自分の相談内容は、この人も悩んでしまうくらいなのだから、自分が悩むのもしょうがない」とか「この人も一緒になって考えてくれているんだから、自分ももう一度考えてみるか」というような、相談者(クライエント)の安心感と自発性を引き出す効果があるのです。まあ、ちょっとした恋愛相談くらいだったら、「何よ、男だったら、もっとハッキリキッパリしなさいよ!」なんて怒られる場合もあるかもしれませんが、その悩みが真剣かつ深刻なものであればあるほど、この「同じ言葉を返す」ことは効果的であるように思われます。

 悩み相談というのは、クライエント自身が「答え」をすでに持っている場合が多いように感じられるのですが、いきなり「じゃあ君はどう思っているの?」って聞くのは、逆効果の場合もあるのかもしれません。思っていても口に出しにくいことだって、あるだろうし。

 もちろん、ここで河合さんが書かれているようなプロのカウンセラーが関わる事例というのは、僕たちが日頃経験する「悩み相談」などとは深刻さが異なる場合が多いのでしょうが、こういうちょっとした「言葉を返すテクニック」は、日常会話でも役立つのではないでしょうか。

 現実には、最後に河合さんが書かれているように「ケースバイケース」で、どんな状況でも「うーん、何が原因なんでしょうかね」としか言わない人よりは、黙りこくって一緒に泣いてくれる人のほうが、はるかに「救い」になることもありそうなんですけどね。



2008年04月22日(火)
「マンガ文庫」の歴史と現状

『ダ・ヴィンチ』2008年5月号(メディアファクトリー)の特集記事「☆☆☆三ツ星ワンコイン文庫」の中のコラム「マンガ文庫今昔物語」(文・中野晴行)より。

【A6版のマンガ文庫が登場したのは1976年。第1号は「小学館文庫」で、白土三平の『忍者武芸帳』や手塚治虫の『シュマリ』などが刊行された。折りしも、オイルショックなどによる紙不足で雑誌の減ページを余儀なくされ広告収入が激減した出版社が単行本に活路を求めていた時期。しかも、文庫ブームの真っ只中で、文庫というスタイルそのものに話題性があった。
 まもなく、講談社漫画文庫、秋田漫画文庫、集英社漫画文庫、ソノラマ漫画文庫などが創刊されて、第1次マンガ文庫ブームが起きた。

(中略)

 しかし、しだいにコンテンツが不足して、結局は名作路線から転換。自社の雑誌に連載した人気漫画の廉価版単行本という内容に変わっていき、5年のほどで大半が休刊した。
 しかし、少女マンガと少年マンガ、青年マンガが同じフォーマットで並んだことによって、萩尾望都たちによる少女マンガの新しい意欲が男性読者にも伝わるなど、マンガ文庫が残した功績は大きい。

 1992年、文藝春秋はハードカバー単行本でベストセラーになった手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を文春文庫ビジュアル版として文庫化。全5巻で150万部を売ったことから再びマンガ文庫が注目されるようになった。
 角川文庫は『火の鳥』と、潮出版社は『ブッダ』を、秋田書店は『ブラック・ジャック』を文庫化。まもなく手塚以外の作家も文庫化して、第2次マンガ文庫ブームに火がついた。小学館文庫、講談社漫画文庫もリニューアルされ再登場した。
 当初、マンガ文庫は一版文庫と同じ棚に置かれたため、それまであまりマンガに縁のなかった読者や、マンガを卒業した読者が文庫でマンガを読み始め、これが市場を活性化させた。一方で、点数の多いマンガ文庫が棚を侵食したことが問題になり、やがてマンガ文庫の棚は一版文庫とは別にマンガコーナーに移されることとなった。これによって文庫化の大きなメリットが失われる結果となった。
 しかも、文庫に収める作品はまもなく枯渇して、第1次ブーム同様、単行本から短期間で文庫化されるものが増え、2000年頃からは売り上げも落ち込むようになった。
 話題性では単行本に及ばず、価格や手軽さという点ではコンビニ向けの単行本に負ける状態で、マンガ文庫の魅力を読者にどうアピールするか、各出版社とも頭を悩ませているところだ。】

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 僕は「第1次マンガ文庫ブーム」の時代は「生まれてはいたものの、ほとんど記憶にない」のですが、僕がよく知っている「第2次マンガ文庫ブーム」以前に、そんな時代があったということをこのコラムで知りました。
 それにしても、「第1次」でも、先鞭をつけた作品のなかに手塚治虫先生のマンガが含まれていたということには、「マンガの神様」の凄さをあらためて思い知らされたような気がします。

 「第2次マンガ文庫ブーム」のとき、僕は大学生で、まさにこのブームの「直撃世代」だったんですよね。当時『アドルフに告ぐ』は、「もう過去の人」だと言われていた巨匠・手塚治虫が復活した「大人向けの漫画」として評判となっていたのですが、単行本はやはりちょっと割高で手が出ず、この「文庫化」を機にまとめて読んだのを覚えています。
 あと、『火の鳥』にはものすごくハマって、卒業試験の合間に「1科目終わったら1冊読む」ことに決めていたのですが、その内容のあまりの深さに、試験前日だというのに物思いにふけってしまって勉強できなくなってしまったこともあったっけ。
 『ブラック・ジャック』は秋田書店から出ていた単行本をずいぶん昔に読んだのですが、結局、文庫も全部買ってしまったし。
 当時の「マンガ文庫」には、「比較的手軽に安価で名作をまとめて読める」というイメージがありましたし、「マンガを文庫で読む」というスタイルそのものにも、ちょっとした目新しさもあったんですよね。表紙も「万人向け」のデザインのものが多くて、単行本ではちょっと手を出しづらかった「少女マンガ」も比較的手にとりやすかったですし。

 しかしながら、このコラムにもあるように、僕もいつのまにか「マンガ文庫」を買わなくなってしまいました。
 「マンガを文庫化する」というのは、「肝心の絵が見づらくなる」という大きなデメリットはあるものの、「昔単行本で読んだものが、まとめて文庫で読める」というだけでも大きな魅力があったはずです。
 ブームに乗ってあまりに多くの作品が「文庫化」されることにより、コンテンツは不足し、「話題性では単行本に及ばず、価格や手軽さという点ではコンビニ向けの単行本に負ける」という状況では、現状の「マンガ文庫」は、非常に厳しい状態にあることは間違いなさそうですが……

 1976年、1992年という今までの「マンガ文庫ブーム」の歴史を考えてみると、そろそろ「第3次マンガブーム」が来てもいいんじゃないかな、とも思うのですけど、時代はむしろ「読み捨ててもいいコンビニ売りの単行本」と「豪華愛蔵本」に両極化しているんだよなあ……



2008年04月18日(金)
弘兼憲史さんが、永田町の政治家たちへの取材時に守っていた「約束事」

『聞き上手になるには』(弘兼憲史著・フォー・ユー)より。

(「時間厳守で相手の信頼を勝ち取る」という項より)

【世の中には「待ち合わせに必ずや遅れてくる」という人間がいる。そういう人は、嫌われずとも、「あいつのことだから、どうせまた遅れてくる」というイメージが定着し、あてにされなくなる。
 ぼくもアシスタントには常々、「締め切り厳守」と言っている。「約束事を守る」という姿勢は、その人の信頼度に少なからず影響すると思うからだ。永田町の政治家たちに取材していた頃、このことを改めて感じた。

 取材を始めたばかりの頃、相手が相手だけに、ぼく個人がアポイントメントを取るのは難しいだろうと、政治記者を介して取材していた。ところが、記者に同行していくと、どうも胡散臭い顔をされる。なぜか。
 政治記者というのは、少しでも多くのことを聞き出したいせいか、「30分」とか「1時間」といった当初の約束時間が来ても、粘ろうとする性質があるようなのだ。誘拐犯からの電話を逆探知する際、電話を切られないよう、時間稼ぎをしようとするのに似ていなくもない。
 政治家のほうも、記者のそうした姿勢を経験的に知っているから、同行するぼくに対しても警戒心を抱いていたふしがある。そして政治記者自身は、そういうことにどうも無頓着、あるいは、あえて気づかないふうを装っているようだった。
 ところがぼくの場合は、
「約束の時間が来たら、話の途中であっても取材を切り上げる」
という姿勢を貫いていた。なぜなら、ぼく自身が取材を受ける場合、約束の時間になっても延々インタビューを受けるというのは嫌なものだからだ。その後の予定が気になって、話に集中できなくなるということもある。
 そういう「時間厳守」の態度が評価されたらしく、徐々に、ぼく個人に対して「取材OK」が出るようになった。だから、後半の取材はぼく一人で行くことが多くなった。
 やはり、相手に気持ちよく話をしてもらうには、「約束事を守る」ということが大事なんだなと思った。そしてそういう積み重ねが、相手の信頼を得ていき、ときには「他言無用」「ここだけの話」といった、あまり人に知られたくないこと、非公開情報などを引き出すことにもつながっていくのだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ヘタなことを言ったら、どう書かれるかわからない、自分の政治家生命にもかかわってくる」という政治記者相手と、「話した内容がマンガのストーリーの一部として使われる可能性はあるけれど、あくまでも『参考資料』にすぎないし、自分の名前が出ることもない」というマンガ家相手とでは、政治家だって話すときの気楽さが違うのではないかとは思うのです。
 それでも、「約束事を守る」というのが、人間関係において、けっこう重要なことであるというのは間違いないですよね。

 ここで弘兼さんが例に挙げられている「政治記者の取材姿勢」の話なのですが、確かに「その場限りの取材」であれば、少しでも粘って多くの話を聞きたい、本音を引き出したい、というのはよくわかるのです。
 でも、ある程度の期間にわたって良好な関係を築き、より大きな情報を得ようと考えるのであれば、たしかに「時間厳守を貫く」ほうがプラスなのではないかな、という気がします。
 取材される側からすれば、「アイツの取材を受けると、その後の予定に響いてしまう可能性があるな」というような相手の取材は、やはり、あまり気乗りしないものでしょうし、「30分なら時間をとれるんだけど……」という場合も、弘兼さんのような「ちゃんと時間を計算できる人」の取材のほうを積極的に引き受けたくなりますよね。
 こういうのって、弘兼さんも「取材を受ける側の人」だからわかるのでしょう。
 
 世の中には、「もっと自分のことを喋りたくてしょうがない人」も少なくなくて、時間通りに切り上げようとすると不快に感じたりもする人もいるのかもしれませんし、話が盛り上がっているときに「じゃあ、時間なので」って帰ってしまうのは勿体無い場合もありそうなのですが、それでも、そういう「姿勢」を明らかにしておくというのは、他人に信頼されるためのひとつのテクニックなのではないかな、と思います。

 実際は、「約束の時間をオーバーしても、相手が退屈していても、長々と話を引き伸ばすことが親しみの表現なのだ」なんて考えている人、けっこう多いのです。
 だからこそ、この戦略が有効なのでしょうけど。



2008年04月16日(水)
「たまちゃんのお父さん」からの「最後のプレゼント」

『ももこの21世紀日記 N’04』 (さくらももこ著・幻冬舎文庫)より。

(2004年、さくらさんが親友・たまちゃんと15年ぶりに会ったときのエピソードです)

【たまちゃんが、アメリカに帰る前に、また東京に来てくれた。それで、大変なものを私にくれた。それは何かというと、たまちゃんのお父さんのライカのカメラをくれたのである。たまちゃんのお父さんは、数年前に亡くなったのだが、その遺品の中から、たまちゃんと御家族の皆さんが「やっぱり、ももちゃんにはライカのカメラだよね」と選んでくれたのだ。たまちゃんの家族にとっても、いっぱい思い出のある大切なカメラなのに、私がもらってしまっていいのだろうか……と思ったのだが、たまちゃんは「うちのお父さん、ももちゃんが描いてくれた事をすごく喜んでいたから、ライカのカメラをももちゃんにもらってもらえる事もすごく喜んでいると思うよ」と言ってくれた。胸がじーーんとした。たまちゃんのお父さんのライカのカメラ、ずっと大事に飾っておくよ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もこの話をよんで、胸がじーんとしてしまいました。もちろん僕はさくらさんにも「たまちゃんのお父さん」にも直接の面識はないのですけど、たまちゃん一家の「感謝の気持ち」が、この贈り物に込められているのがものすごく伝わってきたので。

 あたりまえの話ではあるのですが、『ちびまる子ちゃん』の中ではずっと変わらず、優しくたまちゃんとまる子を見守ってくれている「たまちゃんのお父さん」も、現実では確実に年を取っていってしまっていたのです。
 もうこの世に存在しない人が、漫画やテレビの中で、ずっと昔と同じ姿で生き続けているというのは、考えてみればすごく不思議な話ですよね。
 『ちびまる子ちゃん』に出てくる、たまちゃんをはじめとする「登場人物」たちは、どんな気持ちであの「国民的人気マンガ」を読んでいたのか、もしかしたら、「人の話で金稼ぎやがって!」なんて怒ったりしている人もいるのではないか、なんてひねくれたことも僕は想像してしまうのです。
 一時期、『ちびまる子ちゃん』のキャラクターのモデルになった人たちの「実物」がいろいろなメディアでとりあげられていましたが、まる子の親友だった「たまちゃん」はほとんど表に出ることがなく、もしかしたら、何か気まずい関係になるようなことがあったのかな……などと勝手に思い込んだりもしていたのですよね。

 このとき、さくらももこさんと「たまちゃん」は15年ぶりの再会だったそうですから、あの「ちびまる子ちゃんで描かれている時代」以降は、さくらさんと「たまちゃんのお父さん」は、そんなに頻繁に交流していたわけではないと思われます。
 それでも、たまちゃんとその家族は、お父さんがあんなに大切にしていたライカのカメラ(ライカM3、という機種だそうです)を「遺品」としてさくらさんに贈ることに決めたのです。

 たぶん、「たまちゃんのお父さん」は、もし娘が後の「さくらももこ」の友達でなければ、「ごく普通の優しいカメラ好きのお父さん」として、穏やかな一生を過ごしたはずです。もちろん、それはそれで素晴らしい人生だと僕も思います。
 ちょっとした偶然で「たまちゃんのお父さん」の姿は、多くの人々に知られ、今も愛され続けているのです。僕も「ああいうお父さんっていいよなあ」と同性ながら感じますし、あのお父さんなら、自分がああやってマンガのモデルにされているのを、かなり照れながらも喜ばれていたんじゃないかという気がします。
 そういえば、『ちびまる子ちゃん』で描かれている時代の「たまちゃんのお父さん」よりも、今の僕のほうが年上なんだよなあ。

 本当に、人生って不思議なものですね。
 「たまちゃんのお父さん」のライカのカメラを見ていたときの子供時代のまる子は、そのカメラがこうして「形見」として自分の手元にやってくるなんて、想像もしていなかっただろうから。



2008年04月15日(火)
すなわち、私はモンゴルという土地に完敗を喫したのだ。

『ザ・万歩計』(万城目学著・産業編集センター)より。

(文中の「タイガ」とは、針葉樹林帯のことで、モンゴル語で「森」を意味する言葉(万城目さんが行った「タイガ」は、モンゴルの首都ウランバートルから車で3日、馬で2日かかったそうです)です。そして、「ツァータン」とは、タイガに住んでいる「トナカイを飼う民」という意味だそうです)

【人間にとって、もっとも豊かな生活――それは自給自足の生活、などと知った口を叩き、モンゴルへ飛んだ私。
 晴耕雨読。緑に囲まれ、心健やかに、風雅で優雅なエコ生活を送ろうと夢見て、モンゴルを目指した私。
 愚かであった。あまりに愚かであった。
 実際にモンゴルの地に渡り、私がしたことは、観光でもなく、旅行でもない。労働だった。
 淡々と一日中働いた。何のため? 食べるためである。
 朝、起きる。朝食を食べなければならない。気温はマイナス近いテントの中で火をおこす。お湯を沸かして、調理する。食材はウランバートルの市場でしこたま買って、馬に積んできた。肉類は、タイガでは手に入らない小麦粉や砂糖と交換に、ツァータンから分けてもらう。ツァータンはその肉を狩猟によって手に入れる。雪が降ると、ツァータンは背中に銃を背負い、トナカイに乗って狩りに出かけた。動物の足跡が雪に残るからだ。雪の向こうにゆらゆら揺れながら消えていく、白いトナカイに乗ったツァータンたち。ほとんど、この世の眺めではなかった。
 朝食を終えると、次は昼食の準備だ。川で水を汲み、燃料となる薪を割る。切り倒され、乾かされている太い丸太を、ノコギリで40センチほどに切り出し、斧でぱこんぱこんと割っていく。
 されども、こちらはどこまでも無能な日本人である。なかなかノコギリを上手に扱えず、斧を真下に振り下ろせない。そのうち、最初はニコニコしながら見ていた、中学生くらいのツァータンの少女たちに、
「ああ、チンタラ鬱陶しい。見てられんわ!」
 と怒った顔でノコギリを奪われ、
「こうやるの、わかる?」
 と手本を示される体たらくである。
 昼飯を終えると、また薪割りだ。水を汲みがてら、子供たちにこの木の傷はクマの爪痕だ、などと教えてもらっているうち、すぐに夕食の準備の時間が訪れる。
 もちろん電気は通っていないので、空に太陽が出ている間が人間の活動時間だ。日照時間のうち、3時間はメシを食べ、3時間は調理し、2時間は薪を割って、水を汲む。ほとんどの時間をメシのために使っている計算になる。ときどき外出して、ユリ根を掘りに行ったり、ジャムを作ろうとベリー類を集めに向かったりするので、さらにメシ関連時間は増加する。
 それにしても、肉体労働のあとのメシはどうしてあんなにウマいのか。材料は限られているのに、信じられないくらいウマい。食べ終わるとすぐに腹が減る。腹が減るから、次の食事の準備のためにまた薪を割る。ついでに子供と遊ぶ。
 モンゴル語が話せない私は、昼間ツァータンのテントで塩味のミルクティーを飲みながら、大人たちと四方山話にふける、ということもできないので、もっぱら7、8人はいる子供たちの相手をさせられた。
 いつになっても終わらぬ鬼ごっこ、リスを犬が捕まえてくると全員で皮剥ぎショー、夜はロウソクを灯してお絵かき教室、モンゴル語レッスン。自分一人でゆっくり思索に耽る時間など、どこにもない。
 タイガにやってきて数日が経った昼下がり、私はハタと気がついた。
 自給自足とは何もしないでよい生活ではない。
 常に身体を動かし、始終何かをし続けなければならない生活なのである。しかも、私たちは食材を買ってきているため、実際は何ら自給自足ではない。これで遊牧の仕事が入ったら、遊ぶ時間すらなくなるだろう。
 少しだけ古い時代の生活に戻り、私はようやく理解した。
 非力な者も、病気がちな者も、動物を扱うのが苦手な者も、農作業が苦手な者も、個体間に現れる偏差を最低限に抑え、誰でもとりあえずはそこそこの生活水準を保ち、そこそこの余暇を得ることができるよう、我々のご祖先はせっせと現在の社会を構築してきたのだ。そのご先祖様の成果を否定し、自分探しだ何だとうつつを抜かす私は、何というたわけ者か。
 そもそも私たちは、今いる社会のなかでしか生きられない。およそ10日間のタイガでの生活を通じ、私が思い知らされたのは、モンゴル人との絶望的な生活力の差だった。人間としての生存力の違い、と言ってもいい。モンゴル人になりたい、などという、日本で抱いていたふやけた願望は、木っ端微塵に砕け散った。そんな考えを持っていたこと自体が恥ずかしかった。
 お世話になったツァータンの家族とお別れして、タイガを旅立つ朝、正直に言って、別れの悲しさより、これから自分の場所に帰ることへのうれしさのほうが強かった。空も山も森も、タイガという土地の美しさにはとてつもないものがあったが、やはり日本に帰れるという安堵感が勝った。
 すなわち、私はモンゴルという土地に完敗を喫したのだ。】

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 『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』とヒット作連発で、いまもっとも注目されている若手作家のひとり、万城目学さんが大学4回生のときに体験した「モンゴルでの体験」。

 テレビのドキュメンタリーなどで、「モンゴルの大自然のなか生きる人々」の姿を目にすると、蛇が怖くて山歩きをするのも苦手な僕でさえ、「ああいうところで、ゆったりと暮らしてみたいものだなあ」なんて夢想してしまいます。
 ところが、それを「実現」してみた、この万城目さんの体験談を読んでみると、「自給自足の生活では、『晴耕雨読』なんてノンキなことは言ってられない」みたいなんですよね。
 ここに描かれている「ツァータンの日常生活」というのは、まさに「メシを食べて生きていくための労働の繰り返し」。
 考えようによっては、現代の日本人だって、「メシを食べるため(のお金を稼ぐため)」に毎日働いているわけですが、「余暇」とか「休日」は、電気のおかげで夜も活動できることも含めて、現代の日本人のほうが、はるかにたくさんありそうです。

 このツァータンの生活には、「現代人」たちが失ってしまったある種の「生き抜くことだけに集中していればいい、という充実感」がありそうな気がしますけど、少なくとも現在の「文化的な生活」に慣れきってしまった僕には、とうてい耐えられないと思います。
 「こんな、生存し続けるためだけに生きているような生活に、何の意味があるの?」とか、考えてしまいそう。
 しかしながら、彼らからすれば、「生きるのに必要な行為」以外に、そんなに価値があるのか?という感じなのかもしれません。

 「現代社会」に対して、「どうしてこんな世の中にしたんだよ……」と先人たちに文句のひとつも言いたい気分になることってありますよね。
 でも、この話を読んでみると、現代の「文明社会」は、確かに、「子孫たちが『生存するための労働』に費やす時間を減らして、自由な時間をつくってやりたい」というご先祖たちの努力の賜物であるように感じられるのです。



2008年04月12日(土)
『赤ちゃんポスト』に捨てられた「障害を持つ子ども」

『週刊SPA!2008/4/15号』(扶桑社)の『勝谷誠彦のニュースバカ一代』Vol.280「『赤ちゃんポスト』の巻」より。

【私はそれをこのコラムでは『子捨て箱』と名づけた。昨年5月から熊本市で運用が始まった『こうのとりのゆりかご』なる赤ちゃんポストである。あれからほぼ1年。無責任なメディアはその後の経過について知らぬ顔をしているが、三月末までに捨てられた子どもは16名だという。「熊本には捨て子の山が出来るだろう」とあちこちで書いた私の危惧はほぼ当たったと言っていいだろう。しかし、そうした「数」以上に深刻な事態が3月に捨てられた子どもの中で起きていたのである。
 3月31日に配信された共同通信は、3月中にポストには3人の子どもが預けられたと紹介した中で<うちひとりは障害があるとみられる>と報じた。読んだ私は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を感じた。これはもっともあってはならない差別ではないか。かつてナチスは第三帝国で優生思想と称して障害者を抹殺した。それらへの深い反省から人類は出産前診断で判明する障害や病気を持つ胎児の中絶にも極めて慎重になってきた。ましてや出産後に障害がわかったからといって子どもを遺棄するということは、生命の尊厳に対する根本的な挑戦である。あるいは親は「障害のせいではなく経済的理由」などを言うかもしれない。しかしそれは本人だけが知ることであり永遠に他人にはわからぬことだ。少なくとも『子捨て箱』の存在が親の行為のハードルを下げたことは間違いないと私は思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 設置・運用されたときには大きな論議を呼んだ『こうのとりのゆりかご』なのですが、たったの1年で、その話題はすでに「風化」しつつあるようにも感じます。僕もこの勝谷さんのコラムを目にしたときに、「ああ、そういえばそんなのが話題になってたな」と思い出したくらいですし。
 約1年間で16人の子どもが預けられたという事実には、正直、「僕が予想していたより少ないな」なんて考えたりもしたのです。

 ここで勝谷さんが語られている「障害がある子どもが捨てられたこと」に関しては、僕もいたたまれない気持ちになりました。そんなことが「許される」ようになったら、それこそ「優生思想」の復活ではないか、と。
 そして、『こうのとりのゆりかご』が、そういう行為を「助長」してしまう可能性が高いのも事実でしょう。誰も見ていない、「捨てた」後はいろいろ詮索されることもない、となれば、確かに「ハードルは下がる」でしょう。

 その一方で、「じゃあ、健康な子どもを『経済的な理由で捨てる』ことは許されるのに、障害がある子どもを捨てることは許されないのか?」とも思いますよねやっぱり。
 障害を持つ子どもは、それゆえに、「よりいっそうしっかり守られて生きていくべき」だと僕も思います。しかしながら、人類全体として「そうあるべき」であったとしても、当事者として、自分が障害を持つ子どもの親となった場合、「この子は障害があるんだから、親のお前たちが、ちゃんと責任持って育てるんだぞ!」というプレッシャーをかけられ続けるのは、すごくキツイことだと思うんですよ。

 そりゃあ、自分が当事者でなければ、いくらでも理想を語ることはできるでしょう。現在は、「当事者」になる確率が低いので、みんな「自分にはそんな『特別なこと』は起こらない」と信じ、傍観者として理想を語り、その親たちの困惑と奮闘を「微笑ましく見守る」っています。
 でも、障害を持つ子どもが産まれる可能性が、もし30%くらいだったら、「出産前診断を認めよう」って人が多数派になるんじゃないかという気が僕にはするのです。

 「出生前診断による産み分け」を認めることは、生命としての尊厳に関わる問題だということは、みんな理解しているつもりでも、「自分の子どもが障害を持って生まれてくるかもしれないことへの覚悟」っていうのは、そう簡単にできるものではありません。「覚悟」しているつもりでも、それが現実になれば受け入れるのは大変なことでしょう。

 親にとって、自分の子どもはとにかくかわいいものだ、何があっても愛せるものだ、と思いたいけれども、実際に「経済的負担」「多くの『自分の時間』を割かなければならないことへの不満」というのもあるはずです。

 「じゃあ、この『ゆりかご』が無かったら、16名の子どもたちはどうなっていたと思う?」と問われたら、どう答えればいいのでしょうか。
 僕はやっぱり、この『ゆりかご』が今の世の中に存在することの「意義」を否定できないのです。
 「そんな酷いことをする親が悪い!」
 確かにそうです。世間の多くの親たちは、どんな「不肖の子ども」でも、親としての責任を果たすために頑張っているのです。自分が大人になってはじめてわかったけれど、誰かの親であり続けるっていうのは、本当にすごいことですよね。

 「障害を持った子どもが生まれてくる」のは、親のせいではないし、ましてやその子ども自身が悪いわけでもない、そして、どんなにその負担が大きなものであっても、「親が責任を持って育てなければならない」。

 結局、世の中というのは、一部の「不運な人々」に責任を押し付け、大部分の人はそれを「運命」だと見て見ぬふりをすることによって成り立っているのだろうか、そんなことを考えずにはいられません。

 『赤ちゃんポスト』の存廃を論じるのではなく、もっと、社会全体が「自分が親だったかもしれない子どもたち」をサポートしてあげることを論じてもらいたい、僕はそう思っています。



2008年04月09日(水)
「あ、カンペに清水新ネタを披露って書いてあるけど、やりたいわけないよな。つらいよな」と言ってくれた人気司会者

『いらつく二人』(三谷幸喜、清水ミチコ著・幻冬舎)より。

(三谷さんと清水さんのラジオ番組『DoCoMo MAKING SENSE(J-WAVE)』の2005年12月〜2006年5月放送分を書籍化したものの一部です)

【三谷幸喜:ま、それより清水さん、悩みがあるらしいですね。

清水ミチコ:悩みじゃないですけど、バラエティ番組に出演する時って、必ずといっていいくらいに、「清水、新ネタでモノマネを披露しながら登場」なんて台本にあったりするんですよ。それがすごく、やりにくいんです。

三谷:視聴者としてはね、そういうの見たいってありますからね、そりゃ頼みますよね。

清水:でも、私としてはちょっと断りたいんですけど、断り方がわからない。

三谷:どういうことなんですか。

清水:やっぱり新ネタっていう感じでふられると、期待も上がるじゃないですか。しかも、新ネタって言われてもそうそうないんです。

三谷:毎日新ネタ作ってるわけじゃないですからね。

清水:まあそれもあるし、周りの人に、笑う用意をさせてる空気を作らせるのがいやなんです。

三谷:ああ、わかるわかる。

清水:この間もほら、古畑任三郎さんのお嬢さんと会ったって話の時、三谷さんに田村さんのモノマネやってって言ったらできなかったじゃない。やっぱりなんか、モノマネってひょいと自分で思いついた時にポンと入れると楽しいんだけど、そうじゃなくて、さあ、おなじみのをやれ! と言われるのはつらいよね。

三谷:確かに、あの時はむかっときたもんな。いまさら田村正和さんのモノマネしろっていうのひどいじゃないですか。やっても絶対面白くないもん。

清水:そうなの、無理にやらされる感じだと面白くないんだよね。だけど、その空気を説明するのが、すごく長くなりそうで説明も面倒くさくなって、今までやってきちゃったの。おまけにカットされることもあったりして。

三谷:ああ、ショックですね。ある意味オーディションに落ちたみたいなもんですもんね。

清水:長年モヤモヤしてたんですけど、先日ある番組に出たら司会者が、「あ、カンペに清水新ネタを披露って書いてあるけど、やりたいわけないよな。つらいよな」って言ってくれてすごく感激したんです。さぁここでクイズです。それはいったい誰でしょう。

三谷:はい。

清水:お笑いの方ってのは、人の気持ちを察するのが早いなあと思ったんです。

三谷:紳助さんでしょ?

清水:あ、なんでわかった?

三谷:もうわかりますよ。だって、言いそうじゃないですか。

清水:人の心理がわかる人って感じ?

三谷:AB型ですからね、紳助さん。

清水:え、そんな判断? 私は十数年やってきてそんなこと言われたのは初めてだから、あまりにもびっくりして、パクパクしましたね。

三谷:お尻がパクパクしたんですか?

清水:心臓ですよ。紳助さんのおかげでその時は救われましたけど、これからもあると思うとちょっとうんざり。

三谷:この仕事を始めたからにはもう宿命じゃないですか。そりゃやらなきゃ。

清水:ついさっきその気持ちわかるって言ったじゃん。大勢のお客さんがいる前で「ねえ古畑さん」って言われて、断るのはすっごく難しいんだから。

三谷:僕にそういうふうに言うのは、清水さんぐらいですもんね。古畑のマネしろなんて、普通ないから。】

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 「やっぱりなんか、モノマネってひょいと自分で思いついた時にポンと入れると楽しいんだけど、そうじゃなくて、さあ、おなじみのをやれ! と言われるのはつらいよね」という清水さんの気持ち、芸人ではない僕にもなんとなくわかるような気がします。
 身近なところでも、普段「面白いと周囲から言われている人」が、「こいつ面白いから」「じゃあ、なんか面白いこと言って!」というような流れでみんなの前で喋らされると、ほとんどの場合「面白くない」ですしね。
 「芸人」としては、「この仕事を始めたからにはもう宿命じゃないですか。そりゃやらなきゃ」と言われてもしょうがない面はあるのでしょうけど。
 逆に、そういう場でもうまく期待に応えられるからこそ「プロ」なんだ、とも言えますし。

 「視聴者を笑わせられる自信がある新ネタ」なんて、そうそうできるものじゃないでしょうし、テレビの場合、「新ネタ」として使えるのは「1回限り」ですから、「そんなに簡単に新ネタなんて言われても……」というのもよくわかるのですが。

 僕はこの「あ、カンペに清水新ネタを披露って書いてあるけど、やりたいわけないよな。つらいよな」と言ってくれた司会者が島田紳助さんだというのを「正解」できなかったのですが、答えを聞いてみると、なるほどなあ、と感じました。「いかにも紳助さんっぽい言い回し」でもありますしね。
 紳助さんは、番組中では出演者にかなり厳しい(ときには失礼な)ツッコミをしているような印象があるのですが、その陰で、こんな「気配り」も見せているのです。

 台本に対して、それをやる芸人が自分で反発するのなら話はわかりますが、そうすると当然角が立ちます。場合によっては、「あいつは使いにくい」という評判が広まってしまうかもしれません。清水さんだって、「断れるものなら断っていた」けれども、結局それまでずっと「新ネタ」を不本意ながら披露してきたわけです。
 番組の司会者としては、台本どおりにやって、面白くなかったらカットする、というのが最もラクな方法でしょう。スタッフの面子も保たれるし、自分が憎まれることもない。
 そこで「出演者の気持ちを汲んであげる」からこそ、番組の中では、あんなにキツイ言葉を浴びせても信頼関係が揺るがないのでしょう。

 まあ、こういうことが言えるのも、「人気司会者・島田紳助」だからこそで、駆け出しの芸人が同じことをやったら、干されるだけなのかもしれませんし、これはこれでちょっとカッコよすぎるなあ、という気もするんですけどね。



2008年04月08日(火)
『ヘキサゴン2』を裏で支える「伝説のクイズ王」

『GetNavi(ゲットナビ)』2008年5月号(学習研究社)のコラム「クイズ王・道蔦岳史の大人のための明日使える『クイズ』講座」より。

(TVのクイズ番組優勝14回の「クイズ王」であり、現在はクイズ作家としても活躍されている道蔦さんのコラムの一部です)

【今年の番組改編は、かつてないほどクイズ番組が花盛りである。連日連夜のクイズ番組は切り口は様々であっても、問題や出演者の重複は避けようもない。これだけあるなら、私も出してくれ……と思うこともあるのだが(笑)、実は私も、裏方としての出番は長く続いている。それはクイズの
”正誤判定”なのだ。
「東京フレンドパーク2」や「ヘキサゴン2」など、昔ながらのピンポン・ブーの作業を必要とする番組で、私も出演者の気持ちで本番に臨んでいる。俗にビープロと呼ばれるこの作業は番組進行に大きく関わるので、十分な準備と集中力の維持が大切。「フレンドパーク」のクイズは、15秒間で4つお答え下さい、という一問多答式なので、瞬時の判定は実に大変で、出番は短くても私にとって最も緊張する収録となっている。一方「ヘキサゴン2」は一問一答形式なのだが、想定していた答え以外にも、それは不正解にできないな……という回答が出ることもあり、これを瞬時に判定するのも重要な仕事なのだ。
 ほかにも、厳しい判定が求められる場面、甘めに救うべきなのかという状況判断も重要。バラエティである以上、厳正な判定ばかりが求められているのではなく、いわゆるスタジオの”空気を読む”必要があるのだ。ちなみにヘキサゴンの常連である上地雄輔、木下優樹菜、小島よしおのイニシャルが全員KYなのは、微笑ましい事実である。】

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 「クイズ王」道蔦さん、今はこんなお仕事をされていたんですね。
 道蔦さんは現在46歳、クイズ作家としてのキャリアも20年になるそうです。
 僕が道蔦さんの名前を聞いて最初に思い出したのは、『アメリカ横断ウルトラクイズ』で後楽園球場での予選を勝ち抜き、「クイズ王」「優勝候補」とさんざん福留アナウンサーに持ち上げられておきながら、最初のほうのステージであっさり脱落してしまったときのことなんですよね。
 御本人にとっては非常に不本意だと思うのですが、「負けたときのほうが記憶に残る」というのは、ある意味すごいことなのかもしれません。

 それにしても、道蔦さんにとって、現在の「クイズ番組ブーム」というのは、はたしてどのように見えているのでしょうか?
 「勉強してクイズ番組で優勝すること」を追求してきた「クイズ王」にとって、現在の「おバカ回答者全盛」のクイズ番組というのは、あまり心地良いものではなさそうですよね。「仕事が増えてありがたい」という現実的な「ありがたさ」はあったとしても。

 僕はこれを読むまで、クイズの「正誤判定」に専門のスタッフがいるというのを知りませんでした。答えを書いた紙をADが持っていて、当たっていれば正解の音を鳴らすようにしているのだと思っていたのですが、実際は、番組を円滑にすすめていくためには、この「正誤判定」というのは、すごく大事な役割のようです。
 クイズ番組では、ときどき、回答のあとに微妙な間が空いたり、司会者がスタッフに「どうでしょう?」と確認したりする場面が放送されますが、逆に、そういう場面を除いては、(編集されているシーンはあるとしても)即座に正誤判定がなされている、ということなんですよね。

 「一問多答形式」の場合、例えば「”さ”ではじまるタレントの場合を挙げよ」なんていう問題が出た場合、「さとうこういち」「さとうたまお」「さのしろう」と出てくれば、躊躇なく”ピンポン”なのでしょう。
 でも、困った回答者が、苦し紛れに「さとうひろし」というような、「あんまり有名じゃないけど、そういう名前の『タレント』が絶対にいないと言い切るのもちょっと難しい」という答えを口にした場合、すごく辛いのではないかと思うんですよね。そういう事態を避けるために「日本タレント名鑑に載っている」なんていう条件をつけている場合も多いのですが、実際のところ、収録中にタレント名鑑をいちいちめくっていては、編集でごまかそうとしても緊張感が欠けた放送になってしまうのは確実でしょう。
 「『○肉○食』の四字熟語」で、「焼肉定食」を正解にするかどうか?そういうのも「判定」しなければならないとしたら、本当に大変ですよね。まさに「番組の雰囲気しだい」だものなあ。

 あの「おバカ回答」で人気の「ヘキサゴン2」を裏で支えているのは、伝説の「クイズ王」。
 「クイズ番組」好きの僕としては、そろそろ、「本気のクイズ」が懐かしくなってきたんですけどねえ……



2008年04月05日(土)
もしイチローに「コーヒーか、それとも紅茶がいいですか」と聞かれたら気をつけろ!

『Number 700th Anniversary Special Issue』(文藝春秋)の特集記事「ナンバーに刻まれた700の名言」より。

(イチロー選手についての石田雄太さんのコラムから)

【あれは1995年のオフのことだった。テレビの取材で宮古島を訪れ、22歳になったばかりのイチローに話を訊く機会を得たことがある。インタビューの最後に、イチローに「今シーズンを一言で表すとしたらどんな言葉がふさわしいか」と訊ねて、色紙とマジックを手渡した。
 当時のイチローは考え込んだ。その頃、イチローの言葉に対するこだわりを知らなかったこともあって、正直、何でもいいからサラッと書けばいいのに、と思ったものだ。それでもイチローは「いやぁ、困った」「どうしよう」と悩み、立ったり座ったりしながら考えに考え抜いた末、一つの言葉を色紙にしたためた。
「継去現己」――けいきょげんき、とイチローは照れくさそうに言った。もちろん、そんな四字熟語は存在しない。
「去年の自分を継続していたら、本当の自分が現れた、という意味ですね」
 イチロー名言集を眺めていたら、22歳のイチローと重なる言葉を、32歳になるイチローが発していたことに驚いた。
「もっと先にはもっと違う自分が現れるんじゃないかという期待が常にあります」
 イチローは、決して上っ面な想いを言葉にしない。心の奥深いところから発した言葉には常に理由があり、毅然としたロジックがある。だから、時を経てもぶれることがない。
 もしイチローに「コーヒーか、それとも紅茶がいいですか」と聞かれたら、十分に気をつけなければならない。迂闊に「紅茶でいいです」なんて言おうものなら、「紅茶”で”いいのか、紅茶”が”いいのか、どっちですか」と切り返される。
 正確な日本語を喋ることがかくも難しいことだったのかと、イチローには幾度となく思い知らされている。】

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 僕はこのコラムを読んで、イチロー選手の「こだわり」は、野球だけでなく、「言葉」に対してもすごいのだなあ、と驚いてしまいました。
 そして、イチローは、さまざまな記録を打ち立てて偉大なプレイヤーだと周囲に認められる前から、同じ姿勢をずっと貫いているのだということにも。
 実績を積んで評価されるようになってから「立派な言葉」を口にするような人は多いのですが、イチローの場合は、「22歳になったばかりの若手時代」も、やっぱり「イチロー」だったのです。おそらく、最初の頃は「生意気だ」なんて批判されることも多かったのではないかなあ。

 この話のなかで、いちばん僕の印象に残ったのは、コラムの最後のイチローに「コーヒーか、それとも紅茶がいいですか」と聞かれたら、という話でした。こういうのって、「日常会話」ですから、僕もとくに考えることもなく「紅茶”で”いいです」って答えているんですよね。日本語としては、この場合「紅茶”で”」のほうが、「紅茶”が”」よりも遠慮しているようなニュアンスを感じますし。

 ところが、イチローは、そういう「消極的な選択を示す言葉遣い」を日常会話においても許そうとしないのです。野球に対して「完璧」を求めるのと同じように。

 いや、こういう言い回しにこだわる人って、けっしてイチロー選手だけじゃないですよ。僕の周りにも、「言葉尻をとらえて文句ばっかり言っている、煩わしい人」がいます。彼らは「言葉遊び」をしているだけ。
 でも、これがイチローのエピソードだと考えると、「日常会話でもこんなに妥協しないのだから、本業である野球に対するこだわりというのはものすごいのだろうな……」とゾクゾクしてしまいます。

 僕もせめて、普段から「コーヒー”が”いいです」というくらいには言葉にこだわりたいものです。

 もしイチローに「コーヒーか、それとも紅茶がいいですか」と聞かれたら気をつけろ!
 まあ、イチローに飲み物を聞かれる機会なんて、たぶん一生ないでしょうけどね。



2008年04月04日(金)
「危険なドキュメンタリー作家」田原総一朗伝説!

『本業』(浅草キッド 水道橋博士著・文春文庫)より。

(浅草キッドの水道橋博士が雑誌に連載していた「タレント本」の書評をまとめたものの一部です。「第22回・田原総一朗・田原節子著『私たちの愛』の書評から)

【さて、元々、テレビ東京の社員ディレクターでTVドキュメンタリー作家であった田原氏が、今から40年以上前、一体どんな作品を撮っていたのか。
 この本に「犯罪スレスレでドキュメンタリーを撮っていた」と1章、書かれているものの幾つかを要約して紹介しよう。
「ピアニストの山下洋輔のドキュメントを撮影することとなるが、単なる演奏シーンでは面白くない。『弾きながら死ねればいいな』と山下が言ったので、山下を連れて当時全共闘運動で一番過激だった早稲田でゲバルトをしかければ紛争となり、うまくいけば、山下はピアノを弾きながら死ねるかもしれない、『それはおもしろい』とぼくはのった……」
 と計画を実行に移すことになる。もちろん、山下洋輔は今も健在なのだから、この「ピアノ弾き死んだ」は未遂に終わったわけだ。
「高橋英二という役者がガンで半年の命しかないと告白。右腕を切り落とさなければならないと言う。『カメラの前で死ぬまで精一杯演技をしてみせる』と闘争宣言した高橋の行動を追うことになり、まず癌センターで右腕除去手術を撮影。さらに、本人が望むまま散弾銃を持って国会議事堂に向けて発砲するシーンも撮影する。そんな行動に、週刊誌が飛びつき、本やテレビドラマが作られ、彼は癌患者のままスターになっていくが、その後、半年以上を生き延び死去。死の前日もカメラを廻し、高橋を棺おけに入れ、霊柩車で運ばれるまで映像で追った……」
 国会議事堂へ散弾銃のくだりなど、当時の時代性もあったのであろうが、今でも、ぜひ見てみたい作品である。
「全共闘くずれの連中が裸で結婚式をすることとなり、余興として花嫁が列席者の男たちとセックスをすることとなる。現場ではスタッフも全員、裸で撮影することとなった。しかし、当日、花嫁がスタッフとセックスをしたいと言い出し断ったら取材拒否になるとうことだったので、ぼくが手を挙げ、花嫁とやっているぼくを撮影させた……」
 つまり、田原総一朗とは、日本で最初の本番男優なのである!
 これらの作品の常識の逸脱ぶり、そして文字通り本人の脱ぎっぷりも凄まじい。
 こんな狂気に駆られ塀の上を走り抜けるような作品群を発表していれば、当然、当局の目にも止まる。実際、2度の逮捕暦もあり、所轄署の要注意人物であったのだ。
 そして、後にフリーになっていたある日、埼玉県警の刑事が田原氏の自宅を訪ねてくる。
「『実は明日、定年なんです。長い間、いろいろ面倒をおかけしました』どの刑事さんは、ぼくを17年間もずっと尾行していたのだ。ぼくもうちに上がってもらって、二人でしんみりと話をした」
 と、さらりと書いているが、実にいい話だ!
 以前、田原氏と俺たちが雑誌で対談した際も、この頃の話をしたが、俺は思わず、その突撃取材ぶりに、
「まるで、『ゆきゆきて、神軍』ですね〜」
 と感心した。すると田原氏は顔色を変え、
「何を言ってんだ! 原一男は俺の作品の助監督だったんだよ!」と言うではないか。
 つまり原一男監督の、あの作風は、実は田原総一朗仕込みだったのだ。】

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 この本によると、あの「突撃取材」で有名なマイケル・ムーア監督は「最も影響を受けた映画人」のひとりとして原一男監督の名前を挙げていそうで、「マイケル・ムーアは田原総一朗の孫弟子にあたる」と水道橋博士は書かれています。
 僕にとっての田原総一朗さんは「『朝まで生テレビ』で偉そうに仕切っている人」だったので、この話には驚いてしまいました。もちろん、『朝生』の「激論」には演出的な要素が多分に含まれているとはいえ(そしてそれはまさに、田原さんの「得意技」であるとはいえ)、あれだけの曲者たちが田原さんに「仕切られている」理由には、こんな過去の実績があったんですね。
 まさに、良くも悪くも「一目置かざるをえない人」という感じです。

 しかし、ここで田原さんが撮っていた「ドキュメンタリー」って、それぞれのエピソードを読んでみると、けっして「現実をそのまま撮っている」わけではないですよね。こんなに撮る側、撮られる側によって「演出」されていては、むしろ「フィクション」なのではないかという気もします。
 それにしても、当時の、というか田原さんの「ドキュメンタリー」って、まさに「突撃取材」というか、今の感覚としては、「やりすぎ」「悪ノリ」の部類に入るものも多そうです。同じものが現在放送されたら、すぐ「炎上」しそうだよなあ。

【うまくいけば、山下はピアノを弾きながら死ねるかもしれない】なんて、それ、「うまくいけば」って言っちゃっていいの?
 
 当時のテレビ東京は、本当にこんな危険なドキュメンタリーを放送していたのでしょうか。
 もし映像が残っているのなら、ぜひ僕も一度観てみたいものです。
 今の「大家族スペシャル」の生温かさと比べると、なんて殺伐とした、そして活気にあふれる時代だったんだ、と驚かされるばかりです。