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2008年06月30日(月) ■ |
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ジョージ・W・ブッシュ大統領の「迷言」コレクション |
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『どこまで本気!?世界の暴言・失言コレクション』(暴言失言協議委員会/編・リイド社)より。
(アメリカ合衆国第43代大統領・ジョージ・W・ブッシュ氏のさまざまな「暴言・失言」エピソード)
【「ブラジルにも黒人がいるの?」 ジョージ・W・ブッシュ(2001年)
ブラジル大統領が訪米した際、ついつい口走ってしまったこのひと言。ブラジルは『人種のるつぼ』と言われるほどなのに、まったくブッシュさまったら、お茶目ですねえ。慌てた同席者たちに「大統領、ブラジルは、おそらくアメリカよりも多くの黒人がいると思われます」とフォローしてもらい、なんとか事なきを得たという、一国のトップとしてはあまりに情けないエピソードなのです。 ブッシュさまはひとりで単行本が出せてしまうほどの妄言帝王であることはみなさんご存知でしょう。イギリスの子供にホワイトハウスの感想について聞かれると「白いよ」とやたら低い視点からお答えになられ、ロシアのプーチン大統領について聞かれたら「隠れ家に一緒にいてほしいタイプ」と謎のご返答。極めつけは「外国政策ってなんかイラつくなぁ」という、大統領として問題ありまくりな、ひと言もございました。選挙期間中に飛び出した「人間と魚は平和的に共存できる」発言に至っては、なにがおっしゃりたかったのか、おそらく本人以外、誰にも意味がわからないのではないかと……。 このブッシュさま、実はアメリカ人でありながら「英語」があまり得意ではなく、きちんと言葉を伝えられないんじゃないかと言われています。「are」と「is」を間違えた「Is our children learning?」なんて、日本の中学生にも笑われそうな発言があるくらいですからね……。
また、あの9・11事件の直後だったというのに「すべてひっくるめてローラ(夫人)と私にとっては素晴らしい一年だったよ」なんてアメリカ全土をぶちキレさせることを言ってみたり、「サダム・フセインが武装解除しないのであれば、米国が武装解除する!」と「米軍解体宣言」までしてみたり……。 問題は、このお方が世界の命運を握っているということ。ああ、怖い!】
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もうすぐ8年の任期が終わるジョージ・W・ブッシュ大統領、こうして「暴言・失言録」を読んでみると、これでよく8年間も「世界最高の権力者」を務めてこられたものだなあ、と呆れるを通り越し、感心してしまうくらいです。アメリカ国民も、なんとかガマンしてきたのか、それとも、こういう発言をけっこう面白がっていたのか…… ここに採り上げられている発言の中には、プーチン大統領に対する「隠れ家に一緒にいてほしいタイプ」とか、イギリスの子供への「白いよ」みたいな、「暴言・失言」というよりは、ちょっとシュールなセンスを感じるものも含まれているんですけどね。
それにしても、アメリカという国は、こういう「暴言・失言」に対して、けっこう寛容なのでしょうか? 冒頭のブラジルについての発言など、その場で周囲がフォローしたくらいで事態が収拾されるとは考えにくいですし、「素晴らしい一年だった」発言なんて、日本であれば「不適格!」「辞めろ!」という声が鳴り止むことはないはずです。 アメリカの大統領は国民の直接投票が反映されるので、「自分たちで選んだ大統領だから、しょうがないか……」と諦めているのかもしれませんが。
しかし、ジョージ・W・ブッシュ大統領をみていると、「今の時代では、世界最高の権力者」なんて、誰がなってもあんまり変わりないのではないか?」「結局、政治を動かしているのは、周囲のブレーンたちなのではないか?」と考えずにはいられません。むしろ、野心家の有能すぎる人が大統領になるほうが怖いような気もしてきます。 まあ、次の大統領にとっては、「ジョージ・W・ブッシュ大統領の後釜」というのは、けっこう幸運なのではないでしょうか、たぶん。
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2008年06月27日(金) ■ |
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「ペレストロイカ」と「日本食」 |
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『旅行者の朝食』(米原万里著・文春文庫)より。
(「未知の食べ物」という項の一部です)
【そういえば、ロシアからやって来た要人に通訳として同行した際、知らず知らずのうちに観察していたことがある。そして彼らの食べ方と生き方や性格のあいだに一定の規則性があることに気付いたのだ。 和食には、多くのロシア人にとって生まれてこのかた初めて口にするものが多い。とくに日常的に魚介類をほとんど食さない内陸部からやって来た人々にとって、刺身や鮨や烏賊などは、かなり勇気の要る挑戦である。食べ物は、自分の体内にと取り込むものであるから、初めて目にする食べ物を摂取するかどうかは、その人の無意識の素が出る。その人の好奇心と警戒心のあいだのバランス感覚のようなものが露呈してしまうのだ。未知のものに対してどれだけ心が開かれているかというリトマス試験紙のような役割を果たしてくれるとも言える。
果たして、ペレストロイカが開始した頃、ソ連邦共産党政治局でゴルバチョフの右腕と目され、改革推進派には保守派の頭目と非難されていたリガチョフ政治局員は、刺身や鮨はおろか、フランス料理にはしばしば登場する牡蠣も烏貝(からすがい)もダメで、魚介類は火を通したものさえ一切受け付けなかった。もちろん天ぷらもお断り。では、しゃぶしゃぶやすき焼きならばとホスト側が誘ったものの、和食は駄目の一点張りで、滞日中は無難なフランス料理で押し通した。 ペレストロイカを推し進めつつ左右のバランス取りに心血注いだゴルバチョフ元大統領も、刺身、鮨には拒絶反応を示した。ちょっとだけ味見することもしない。でも、天ぷらや火を通した魚介類、それにしゃぶしゃぶ、すき焼きは大歓迎だった。 改革の最左翼を通り越して、ついにソ連邦崩壊のブルドーザー役を果たしたエリツィンはというと、出される食べ物、何から何まで興味を持って口にし、美味しそうに平らげてくれた。もちろん、刺身も鮨もみそ汁も納豆も雀の焼き鳥も、面白がって次々と変わった食べ物を出してみるホスト側があきれ返るほどに、どんなものでも顔色一つ変えずに食べてくれる。 たまたま、三人の場合は、未知の食べ物に対する許容度と政治的革新度が、面白いほど正比例してしまったが、もちろん、世の中には、保守的な食生活をおくる革命家もいるだろうし、ゲテモノ食いの保守政治家もいるだろう。しかし、それでも、その人が本質的に保守的か革新的かを占うには、未知の食べ物への対し方を見る方が血液型よりはるかに当てになる気がする。】
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この話はあまりにも「正比例しすぎている」ような印象もありますが、僕も「未知の食べ物に対する許容度」というのは、その人の「好奇心と警戒心のバランス」をある程度反映していうのではないかと思います。
僕は外食の際には、基本的に「いつも同じようなもの」をオーダーしてしまうのですが、「新メニュー」とか、「ちょっと聞いたことがないようなメニュー」を見つけると、注文せずにはいられない人っていますよね。 僕からすれば、「そんな得体の知れないものを頼んで、もし不味かったらどうするの?」という感じなのですが、「新メニュー好き」は、僕に対して「いつもスタンダードなものばかり食べていて、よく飽きないね」と思っているわけです。 たしかに、そう言われてみれば、「新メニューや新しい店にどんどん挑戦する人」というのは、物事に対して積極的で、好奇心旺盛、開放的な人が多いような気がします。「飽きっぽい」という面もありそうですけど、僕はそういう人が、ちょっと羨ましくもあるんですよね。でも、今日は何か違うものを頼もう、と思いながら店に入っても、やっぱり「いつものメニュー」を頼んでしまうんだよなあ。 それはそれで、ひとつの「用心深さ」のあらわれであり、生き延びるためには悪い面ばかりじゃないのかもしれませんが。 それにしても、日本人の感覚からすれば、外交の席で相手国の食べ物を勧められた場合、「これはちょっと食べたくないな……」というものでも、暗殺されそうな国でないかぎり、とりあえず少しは口に入れるのではないかと思ってしまうのですが、実際はそうでもないんですね。 この米原さんの文章を読んでみると、日本に来てもフランス料理ばかり食べていたリガチョフ氏は、「食べ物に対して頑なで保守的」であったけれども、「無礼」だということにはなっていませんし。
統計的調査が行われたり、明確な科学的な根拠があったりするものではないのですが、誰かのことをよく知ろうとするのなら、「一緒に食事をしてみる」のは良策だと思います。食べ物の好みがあまりにも違う人と一緒に生活していくのは、かなり辛いことみたいですしね。
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2008年06月23日(月) ■ |
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「安上がりですぐ撮れる」はずのシーンを「歴史に残る名場面」にした映画監督 |
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『三毛猫ホームズの談話室』(赤川次郎著・光文社文庫)より。
(作家・赤川次郎さんと映画・音楽・歌舞伎・演劇など各界の親交の深い各界の著名人との対談集の一部です。映画監督・大林宣彦さんの回より)
【赤川次郎:どんなに映画のCGが良くできるようになったとしても、できないものがある。黒澤(明)監督の『生きる』にハッピーバースディのシーンありますね。自分にやるべきこと、やることがわかったというとき、ハッピーバースディの歌が流れる。あのシーンの衝撃というか、すばらしさは、やっぱりどんなCGだって追いつかない感動です。
大林宣彦:しかもあれは、企画シナリオでは、「男がひとり、孤独に酒を飲んでいる」としか書かれていなかったそうです。それで、プロデューサーたちは、「これは安上がりですぐ撮れる」と思った(笑)。そうしたら監督が、「大勢のハッピーな人たちの中にいなきゃ、この孤独は表現できないから、この映画で一番贅沢なシーンにしよう」と言って、大キャバレーを作って、エキストラをたくさん入れて、それであのシーンができたんです。ところが、CGで描くと、一人で酒を飲んでるのも、百人の中で酒飲んでいるのも、手間暇は変わらない。そこがCGの限界だと思うんです。
赤川:あれだけのエキストラを、監督の思うように動かすのは、すごい大変なことじゃないですか。
大林:そうですよ。やっぱりどこか観客も現実の世界に住んでいるから、大変だっただろうなということも感動になるわけです。
赤川:これはさぞかし手間がかかっただろうなっていうのも、ですね。タイミングが一瞬でもずれたら、あの感動はない。主人公が階段をパパパッと下りてきて、入れ違いに誕生日のお祝いをしてもらう人が上がっていって、ハッピーバースディのコーラスが聞こえてくる。あのタイミングがいい。いったい何回やり直しただろうと思いますね。
大林:監督の「OK!」の声まで伝わってくる。「良かったね。このカット撮れて」みたいな。そういうことを含めて、想像力ということです。】
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CGの話に関しては、デメリットだけではなく「CGだからこそ実現できたスペクタクル」というのもあるでしょうし、「大変だったろうなという感動」というのは、観客にとっては「邪念」なんじゃないかという気もします。 しかしながら、この話の中に出てくる、黒澤明監督のこだわりのすごさには、ただ脱帽するばかりです。やっぱり「世界のクロサワ」とまで呼ばれる人だなあ。 この『生きる』という映画、かなり古い作品(1952年公開)であり、いま観ても「面白くない」と感じる人も多いのではないかと思います。正直、僕も「これは傑作だ!」というよりは、「これが『傑作』というものなのか……」と、教科書を読むような気持ちで観た記憶がありますし。 でも、この「ハッピーバースディ」のシーンというのは、ものすごく印象に残っているんですよね。 【企画シナリオでは、「男がひとり、孤独に酒を飲んでいる」としか書かれていなかった】のに、黒澤監督は、それだけのシナリオからイマジネーションを膨らませて、あれだけのシーンを作り上げたのです。「すぐ撮れる」と思っていたプロデューサーたちは、さぞかし仰天したことでしょう。 まさか、シナリオのそんな一行が、あんなお金のかかるシーンになるなんて!
『生きる』の「ハッピーバースディ」のシーンには、「大勢のハッピーな人たちの中にいなきゃ、この孤独は表現できないから」という黒澤監督の狙い通りのインパクトがあるのです。しかしながら、大部分の監督は、企画シナリオから「そんなこと想像もできない」でしょうし、残りのほとんどの監督も「想像はできても思った通りのシーンを撮ることはできない」はず。
映画監督って、黒澤明って、本当に凄いんだなあ。偉そうに「カット!」とか言ってるのが監督の仕事じゃないのか…… それを実現できるだけのお金を引き出せたというところも含めて、黒澤監督は、まさに「巨匠」と呼ばれるにふさわしい人だったのですね。
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2008年06月21日(土) ■ |
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「キティ事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」 |
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『不機嫌な職場』(高橋克徳+河合太介+永田稔+渡部幹著・講談社現代新書)
【1964年、ニューヨークで起こったキティ事件という有名な事件がある。仕事帰りの若い女性キティ・ジェノビーズが自分のアパートの駐車場でナイフで切りつけられ、大声で助けを呼んだが、誰も警察に通報せず、殺されてしまったという事件である。 実際には、女性の「助けて」という叫び声に気付いた人は38人もいたのだという。しかし、誰一人、自分が通報しなければならないと思って行動を起こした人はいなかった。 当時のマスコミは、都会人の冷淡さと書きたてた。しかし、この事件がきっかけで、社会心理学における援助行動の研究が進み、人間であれば誰にでも起こりやすい心理であることが検証された。 「きっと、誰かが助けてくれるだろう」 そんな気持ちが、一人ひとりの胸をよぎってしまい、結局誰も助けに行かなかった。これを「援助行動の傍観者効果」と呼ぶ。つまり、人は助けて欲しいと言われたときに、周囲に自分以外の人がいれば、つい傍観者になってしまうことが起きやすいということである。 援助行動の傍観者効果は、いろいろな場面で働いているのではないだろうか。一人で仕事を抱え込み、残業ばかりしていて、顔色の悪い若手社員がいる。でもそこで、きっと上司が声を掛けているだろう、あるいは先輩たちがケアしているに違いない、そう思って自分からは声を掛けなかった。あるいは、みんなが声を掛け合っていない状況の中で、自分だけが声を掛けようとすることができない。ためらってしまう。 こうした状況が放置され、あるとき、その人が急に会社に来られなくなったと連絡が入る。精神的に追い込まれてしまったのだという。そのときになって後悔する。なぜ、あそこで自分から声を掛けなかったのだろうか。なぜ自分は、見て見ぬ振りをしてしまったのだろうか、と。 実は、人を助ける、援助するという行動でさえ、人は日頃から意識していなければなかなかできないのだ。では、どうすればよいのか。 まずは、緊急事態を察知できるように、お互いに気を配り合う意識を持つこと。まじめな人ほど、自分でどうにかしなければと思い、抱え込んでしまう。自分から助けてくれと言えない。だからこそ、お互いの状況に普段から気を配り合う、何かあったら言ってねという言葉を掛け合う。そうした関係づくりをすることが必要である。 そして何か緊急事態が起きたときに、傍観者にならない。少なくとも他の人に、気づいたことを伝える。あるいは困ったことは、みんなで知恵を出して解決しようという意識を共有する。一人の問題にしないで、みんなの問題として感じること。こうした感情を持つことの大事さを共有することが必要である。 それでも、実際に人を助けるという行動に踏み出すには勇気がいる。 もしかして、ここで声を掛けたら、余計なお世話だと言われてしまうかもしれない。自分が助けようとしたことで、かえって問題がこじれてしまうかもしれない。それでも、踏み出していくためには、実はそういった行為が尊い、あるいはみんながそれを認めてくれる、本人もきっと感謝してくれるであろうという安心感が持てることが必要である。 人を助ける、人に自分から協力するという行為を、みんなが尊い、素晴らしいと思う風土、雰囲気を意図的につくり、共有していかなければ、多くの人は最後の一歩を踏み出す勇気が持てないのではないだろうか。】
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僕は、この「キティ事件」の話を読んで、「自分がその38人のうちの1人だったら、どうだっただろう?」と考えずにはいられませんでした。 当時のメディアでは、「都会人の冷淡さ」を示す事例として書きたてられたそうなのですが、「38人に被害者の声が聞こえるような状況」が、それぞれの人にとっては「それなら自分が助けなくても……巻き込まれるのも心配だし……」という気持ちになる要因だったのかもしれません。 この38人の人々も、もしその悲鳴を聞いたのがもっと人の気配が少ない場所だったら、「自分がなんとかしなければ」と考えた可能性もあるはずです。そして、この事件のあと、「悲鳴を聞いたのに助けなかった人々」は、おそらく、ものすごく悩み、後悔したのではないかと思うんですよね。「なんであのとき、助けに行かなかったのだろう……」って。彼らだって、「偶然その場に居合わせた人々」にすぎないのに。
先日の秋葉原の事件で、多くの人が現場に立ちすくみ、被害者の救護をしないばかりか写真まで撮っていた、という話を聞いて、僕は「世も末だなあ……」「現代人は冷たいなあ……」などと考えていたのですが、この「キティ事件」は1964年の話ですから、半世紀前から、人間というのは「そういうもの」だったのです。 「被害者を助けようとして犯人に襲われた」方もおられましたし、「被害者のなかにB型肝炎ウイルスに罹患されていた方がいたので、救護にあたられた人は、感染チェックのために申し出てください」というアナウンスもされました。 「人助け」は、当事者にとっては、けっしてメリットばかりではないのです。それが積極的に行われるようになるためには、ここに書かれているように「人を助ける、人に自分から協力するという行為を、みんなが尊い、素晴らしいと思う風土、雰囲気をつくる」ということが非常に大事なのではないでしょうか。 「人助けをするヤツなんて、バカだ」というような共通認識が広がっている社会では、そんな、もともとデメリットのほうが多い行為を進んでやる人は絶滅してしまうでしょう。
なんとなく、すぐにでもできそうなことなのですが、「人を助ける、援助する」というのは、とても勇気が要る行動ですし、よっぽど日頃からトレーニングしておかないと、いざというときにいきなり実行できるものではないんですよね。 だって、「電車でお年寄りに席を譲る」という「小さな親切」ですら、日常のなかでいざやろうとすると、なかなか「どうぞ」という言葉が出ない。慣れている人は、ごく自然にやっていることなのに。 そして、日常生活において電車で席すら譲れない人間が、緊迫した事件現場で、急に「人を助ける」ことは至難のわざのはず。
むしろ、あの状況下で、被害者を助けようとした人が、かなりの数存在していたということのほうが、「驚くべきこと」なのかもしれません。「人間として当たり前」なんて傍観者たちは言うけれど、ああいうのって、「日頃から意識していなければなかなかできない」はずだから。
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2008年06月19日(木) ■ |
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「”この顔はウソじゃん”っていうのが、イヤなんです」 |
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『BRUTUS (ブルータス)』2008年 7/1号(マガジンハウス)の「緊急特集・井上雄彦」より。
(2008年の春にアメリカで行われた「スラムダンク奨学金」の最終選考に同行した井上雄彦さんに密着取材したものの一部です。『バガボンド』を筆で描きはじめた頃の話。「」内は井上さんの発言です)
【練習期間はなし。いきなり本番で試した。主線はすべて面相筆でペン入れならぬ「筆入れ」をする。初回はまったくイメージ通りに描けず、ファンからは作画のレベルが下がったと評された。しかし井上自身は筆でうまく線を引けるようになれば、狙った効果が出せるという確信を得たという。ハードはソフトを規定する。例えばポータブルプレイヤーの出現が音楽の聴き方を変え、やがて楽曲の形式にさえ影響を及ぼしたように、道具の変化は井上の作品に本質的な変化を引き起こす引き金となった。
「やっぱりペンは”コントロール下のもの”なんです。ここしかないという、絶対的に正しい位置に線を引くためのもの。でも筆はもっとルーズで許されるというか、いろいろな意味で幅を許容してくれる。そうするとストーリーもユルいものになるような気がします。もともと僕は”ストーリーなんかなくたっていいじゃないか”というところがありますし(笑)、物語展開の妙みたいなものよりも、”今”を切り取るような物語、プロセスの連続でもいいんじゃないかという意識がより強くなってきています」
筆に持ち替えた当初は、描き込みもさほど稠密(ちゅうみつ)ではなかった。というより、まだ稠密には描けなかった、というべきだろう。そのため不慣れな道具を使いながらも、ペンによる作画より短時間で仕上げることができた。ところが筆という道具が自分のものになってくると、今度はペン以上に描き込みが増え、作業量は増加の一途を辿る。『SLAM DUNK』連載時には決して破ったことのない締め切りを一度ならずも破り、休載やむなし、という憂き目にも遭った。
「これがまたダメなところで、4枚だけ落ちた(間に合わなかった)とか、まるまる落としたとか、何度もやってます。すごい敗北感ですよ。ダウンしたみたいな惨めな気持ちと、ああこれで倒れたまま立たなくていいんだっていう安堵も少し混じって……。ネームの難易度は圧倒的に『バガボンド』のほうが高いです。『SLAM DUNK』は試合など、やることがわりと決まっているので、その中でどう展開するかを考えればいい。でも『バガボンド』はそもそもどうするか、みたいな問いもあったりしますから。武蔵が動けなくなってしまうような局面は何度もありました。原作付きなんだから、その通りやればいいという判断もあるでしょうけど、そこが割り切れない。それと体力の低下も大きいです。『SLAM DUNK』の頃は若かったけど、体力に自信がなくなると、粘るための精神力も微妙に目減りするので(笑)。
そうまでして描きたいものは、何なのか。
「”この顔はウソじゃん”っていうのが、イヤなんです。ある場面でその人物がどういう気持ちなのかは、表情で表すしかない。やっぱり、ジャストの顔を描きたいんです。微妙な表情でも、いろんな思いが混ざっているような表情でも、きっと描けるはずだと思っているから」
終幕に向かって疾走する物語は、小さな我執を超えた武芸者たちが行き着く果てを描こうとしている。エゴを捨てた顔。空の表情へ。
「そこに意味を読み取ってくれればいいんですけどね……。意味が読めない人にとっては、ただ顔があるだけで、このマンガには何も描いてないじゃないか、ってことにもなりうる。いや、すでになっているんです。人によっては、そういう感想も聞きますし」】
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『バガボンド』が筆で描かれるようになったときにはちょっと驚いたのですが、まさかあれが「ぶっつけ本番」だったとは驚きました。超売れっ子漫画家である井上さんには「練習のための時間」が無かったのかもしれませんが、いきなり絵を描く道具がペンから筆に変わったのには、読んでいる側としても、かなりの違和感がありましたし。
そして、この「ペンと筆の比較」も含めて、井上さんが今、マンガというものをどういうふうに考え、どんな作品を描こうとしているのかというのも、僕には非常に興味深いものでした。 たしかに、『バガボンド』は、絵の迫力もあり、「なんとなく凄いマンガだ」というイメージがある一方で、「何も描かれていない」というか、「ちょっとわかりにくい」あるいは、「読者への歩み寄りに欠ける」マンガであるような印象もあるんですよね。僕は好きなんですけど。
僕がいちばん驚いたのは、【「やっぱり、ジャストの顔を描きたいんです。微妙な表情でも、いろんな思いが混ざっているような表情でも、きっと描けるはずだと思っているから」】という井上さんの言葉でした。 絵画や写真であれば、たぶん、「ジャストの顔」をアーティストは求めると思うんですよ。 でも、マンガの世界、それも定期連載される商業マンガの世界で、「ひとつの表情」にそこまでこだわっているなんて……そういう姿勢で連載を続けている井上さんは、本当に凄いとしか言いようがありません。「きっと描けるはずだと思っている」としても、それをずっと続けていくというのは、また別の次元の話でしょう。 井上さんは、マンガの力、そして「絵」の力を、強く信じている人なのだなあ、と感心するばかりです。
この話を読んでいると、正直、井上さんは、もう既成の「マンガ」の範疇で表現していくことに限界を感じているのかな、という気もしてきますね。井上さんの「行き着く果て」がどこなのかは、僕には見当もつきませんが……
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2008年06月16日(月) ■ |
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「降水確率50%の予報が的中!」とは、どういう状況なのだろうか? |
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『GetNavi(ゲットナビ)』2008年7月号(学習研究社)のコラム「クイズ王・道蔦岳史の大人のための明日使える『クイズ』講座」より。
【体脂肪率や消費税なども含めて、●%という数字は日常的によく目にするものだが、梅雨入りも間近なこの季節、今月の問題に即答できる人は、果たして何%いるだろうか。実は気象予報士を目指している人に出題しても正解できなかった難問なのだが、25文字以内での解答をお願いしたい。
《問題》「降水確率50%」という天気予報が当たる……とは、どういうこと?
気象庁の天気予報では6時間刻みで降水確率を発表しているが、これは1mm以上の雨が降る確率を表しているものである。この確率には降水量は関係ないので、ほんの少しの雨でも土砂降りでも、雨は雨である。また雨の降っている時間も関係がないので、6時間降り続いても、数分の雨でも、雨には違いない。では、降水確率50%の予報が的中! とは、どういう状況なのだろうか。 実はこの降水確率50%という予報は、そもそも決して外れることのない予報なのである。考えてみれば雨が降る確率50%、降らない確率50%なのだから外れる訳がない。決して外れない「確率予報」が外れるケースは、確率0%で雨が降るか、確率100%で雨が降らない場合しかないのである。では外れようのないものが「当たる」とはどういうことか。25文字以内での模範解答はこれだ。
《正解》「統計をとれば、この予報のときには50%雨が降っていた」
つまり統計的な正確さでしか、的中かどうかを判断できない予報だということなのである。 降水確率が発表されるようになったのは1980年のことで、すでに長い時間を経ているため、予報の精度は上がってきているはずだ。しかし確率50%という予報が出された場合、どう判断するかは結局、気に入ったお天気お姉さんの顔を見ながら自分で考えるしかない、ということである。】
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Wikipediaの「降水確率」の項には、 【降水確率は、予報区内で一定の時間内に1mm以上の雨または雪(融けたときの降水量に換算する)が降る確率であり、0%から100%まで10%きざみの値で発表される。予報区内であれば場所については特定せず、どこでも同じ確率である。降水量については予測していない。 降水確率の計算は、過去の降水の情報をもとに数値予報を行い、統計処理により確率を算出する。この際、1%の位は四捨五入するため、降水確率0%といっても実際には0から5%未満の値である(以前は三重県など一部の地域で5%未満という数値が存在したこともあったが、現在は10%単位となっている)。】 と書かれています。
「降水確率」が気象庁から発表されるようになったのは1980年からだったそうで、確かに最初の頃には「降水確率●%」というのが具体的な数字で発表されるのはけっこう斬新でした。 それまでの天気予報は「晴れ」「曇り」「雨」の組み合わせだけでしたから(「雪」とか「あられ」「雷」なんていうのもありましたが)。 僕は「降水確率50%」だと、「どちらかというと雨が降りそう」な気がしますし、「30%」くらいでも傘を持っていったほうがいいかな、と思います。率直なところ、「50%なんて曖昧な数字じゃなくて、降るのか降らないのかハッキリしてくれ!」と言いたくもなるのです。 おそらくみんな同じように感じているのだろうと思うのですが、それでも、「降水確率」の発表がはじまって30年近く、おそらく「統計的な精度」は上がっているのでしょうけど、「50%」っていう降水確率は発表され続けています。
この道蔦さんの話を読んでみると、「降水確率」というのは、それが「0%」か「100%」でない限り、少なくともその場では「決して外れない」あるいは「外れているのかどうか評価しようがない」ようです。さらに、「1%の位は四捨五入している」ということであれば、「0%」も「本当は1〜4%だった」のかもしれませんし、「100%」も「95〜99%だった」のかもしれません。「4%」であれば、「このような天気が100回あれば、4回は雨が降る」ということですから、「高い確率ではないけれど、統計的にいえば、そんなに珍しいことでもない」のですよね。
まあ、そんなことまで考えはじめると、ずっと傘が手放せなくなってしまうので、最終的には「自分で判断するしかない」のですけどね。 結局のところ、これだけいろんな科学や統計学が進歩しても、「天気」というのは、まだまだ完全に予測がつくものではないのだ、ということだけは、まぎれもない事実のようです。
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2008年06月13日(金) ■ |
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『全日本仮装大賞』の驚くべき舞台裏 |
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『人に好かれる笑いの技術』(鶴間政行著・アスキー新書)より。
(『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』『笑っていいとも!』『オレたちひょうきん族』『SMAP×SMAP』『王様のブランチ』『はなまるカフェ』『コサキンでワァオ!』など、多くの人気テレビ、ラジオ番組に参加されている放送作家・鶴間政行さんの著書の一部です)
【『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』で、番組の方針として行っていることなのですが、地方予選の時に落ちてしまった人(チーム)全員に、スタッフが時間を割いて次回も予選に来ていただくようにアドバイスをするようにしています。番組に最初から携わっている元日本テレビの神戸文彦さんが、その習慣を作りました。 それは、司会の萩本(欽一)さんのスピリットの一つでもあります。「今回、なぜ落ちてしまったのか」「いい線をいっていたが、アイデアがもう一つ足りなかった」「ここを改良するといいかもしれない」「チームワークは良かったけど、参加人数が多過ぎたかもしれない」「参加人数が多かったら、その3倍の人数がいるかのように見せる努力をした方がいい」……といったことを、お話します。 私はスタッフは、参加者の皆さんに予選に来ていただいたという気持ちを忘れません。正直、『仮装大賞』は、一般の方が出場するには、かなりハードルの高い番組なのです。アフターケアによって、出場者との絆ができて、出場者の意欲につながりどんどんと良い作品を生み出すきっかけになればと思っています。 ちなみにアフターケアのおかげか再挑戦してくれえる方も多く、なかには見事、予選を突破し、本選でも合格する方もいて、その時は我が事のように嬉しいものです。 よく放送中に合格のファンファーレを聞いて、メイクで黒くした顔から涙を流し、互いに喜び合う女の子のグループがありますが、あの涙は何回も予選にチャレンジして、練習に練習を重ねた結果、勝ち取った合格の涙のメダルなのです。 私は裏方として見ていて、そんなシーンに思わず涙を滲ませたこともあります。】
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2008年5月3日の放送で、80回目を迎えた『仮装大賞』。僕自身は最初の何回かはまだ子供だったこともあり、大喜びしながら観ていたのですが、最近はすっかり観なくなってしまいました。 子供心に、「お情けで合格させてもらって涙を流す参加者」を「何がそんなに嬉しいんだろう……」と冷ややかな目で観ていた僕としては、この鶴間さんの文章を読んで、ようやく「合点がいった」ような気分になりました。
Wikipediaの記述によると、『仮装大賞』は、【第80回まで、欽ちゃんの仮装大賞には応募総数延べ482373組の中から3532組の作品が登場している】そうです。平均すると各回6000組が予選に参加し、本選に出場できるのは、その1%にも満たないのです。これは、僕が考えていたよりもはるかに「狭き門」です。 昔の『仮装大賞』には、「なんでこんなのが予選を通ったんだ?」と言いたくなるような作品もあったのですが、回数を重ねるにつれて常連出場者にはどんどん「予選通過のためのノウハウ」が蓄積されているでしょうから、鶴間さんが書かれているように、「一般の方が出場するには、かなりハードルの高い番組」になってきているのでしょうね。 「一部のクイズマニア」しか勝てなくなった「視聴者参加クイズ番組」みたいなものかもしれません。
それにしても、ここに書かれている「すべての参加者にアフターケアをしている」という話に、僕は驚いてしまいました。全国で6000組、中には、「箸にも棒にもかからない」レベルのものもたくさんあるはずです。にもかかわらず、ここまでのことをやっているとは…… 傍からみれば、かなりマンネリ化してしまった番組のようにも思われるのですが、こういう「地道なアフターケア」こそが、この番組の根強い人気を支えているのでしょうね。ここまでのことをされれば、落ちた人たちも再挑戦する気にはならなくても、番組に対して悪い感情は抱かないでしょうし。
あの番組の「お情け合格」って、観ているとちょっと苛立たしいときもあるのですが、視聴者にとっては「たかが合格」でも、参加者にとっては、「栄光のゴール」なのか……
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2008年06月11日(水) ■ |
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アメーバブログの「タレントブログ囲い込み戦略」 |
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『週刊SPA!』2008/6/10日号』(扶桑社)の記事「[タレントブログ]儲けの仕組み」より。
(「」内は、「アメーバブログ」を運営しているサイバーエージェントの広報・IR(企業経営者による投資家向けの広報活動)担当者の発言だそうです)
【いち早くPV(ページビュー)を上げるために、注目度の高いタレントを集める。そのために専門のグループを組織し、囲い込みに行く。それがアメーバブログの戦略なのだ。そのため同社では、他のブログポータルとは違い、タレントブログに対し、特別なケアをしている。
「公式タレントブログは、一般ユーザーのブログに比べて、大量のアクセスやコメントの書き込みに耐えられるように専用のシステムを使っています。また、24時間体制で人員を配置し、すべてのコメントを人力でチェックする仕組みも導入しています。荒らし目的のコメントが書き込まれた場合、基本的には15分以内に対処。芸能プロダクションのみなさんに、タレントさんのプロモーションツールとして、安心して使っていただけるようにしています」
タレントや芸能プロダクションにしてみれば、ありがたい話だが、それ以外に何か優遇していたりはしないのか? 例えば、テレビで視聴率が取れるタレントはギャラも高い。それと同じようにPVを稼げるタレントブログには、ギャラが発生していてもおかしくない。
「弊社では、出演料のようなものは基本的にはお支払いしていません。弊社はPVアップ、芸能プロダクションは高いプロモーション効果ということで、お話を進めさせていただいております」
あるブログポータルから誘われた経験を持つ某芸能プロのY氏も「お金の話は出なかったですね。ブログを始めるときも、いつやめてもかまわないくらいの軽いノリでした」と言う。 アメーバブログは基本的にはノーギャラらしいが、前述の小林氏(『WEBありばば』で、ITとアイドル事情を取材されている小林真一さん)によれば、「『しょこたん☆ぶろぐ』がエキサイトに移籍した際は、実際に2000万円の移籍金が発生したようです。ブログの移籍でお金が動いたのはこれが最初で、今のところ他の事例はないでしょう」と、大金が動いた事例もあるらしい。ブログビジネスはPV命。そのための有効な手段として、タレントブログが果たす役割は大きいようだ。】
参考リンク:「アメブロってコメント欄を勝手に削除してないか?」(電撃ネットワーク ギュウゾウ ブログ『ギュウゾウ新聞』(2008/5/29))
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僕はこの記事を読む前に、参考リンクのギュウゾウさんのエントリを読んでいたのです。それで、この記事を読んで、ギュウゾウさん自身は知らなかったみたいだけど、アメブロは事務所と「そういう契約」をしていたのだということがわかりました(ただし、橋本志穂さんのブログには【あなたには、アメブロの担当者が監視をしてない。監視つけますか?イヤなコメントはコチラで削除させて貰いますよ」と。。。「え?!」ちょっと悩んだ。悩んで、お断りしました。】との記述があり、芸能人ブログはすべて「監視」が義務化されているというわけでもないようです)。サイバーエージェント側も、『SPA!』の取材にこんなコメントをしているくらいですから「芸能人ブログに対して特別な措置をしている」ことを隠してはいませんしね。 これを読んでみると、アメブロが「芸能人ブログ」を優遇することによって、PVアップやブログサービスの知名度向上を目指しているのがよくわかります。 専用のシステムを使い、【「24時間体制で人員を配置し、すべてのコメントを人力でチェックする仕組みも導入しています。荒らし目的のコメントが書き込まれた場合、基本的には15分以内に対処」】なんていうのを読むと、「芸能人ばっかり贔屓しやがって」なんて言いたくもなりますよね。コメントが「管理」されることに関しては、必ずしも歓迎している芸能人だけではないとしても。 まあ、実際問題として、芸能人ブログは「炎上」しやすいのは確かですし、最近は事務所も「炎上」のリスクを恐れて「ブログ禁止」をタレントに通達していることが多いそうなので、このくらいは、タレントにブログを書いてもらうための、最低限の投資なのかもしれません。「24時間体制」って言われるとなんだかものものしいですが、実際はアルバイトの学生が手作業で削除しているだけ、というのが実情のようにも思われますし、他のメディアに「出演」してもらうことを考えれば、ブログを書いてもらう側にとっては、「芸能人ブログ」というのはかなり「コストパフォーマンスが高い」のでしょう。
それにしても、『しょこたん☆ぶろぐ』の移籍金2000万円という話には僕も驚きました(事実であったら、とすればですが)。もちろん、そのお金の全部が中川翔子さん本人の懐に入ったわけではないでしょう。移籍の際の中川さんの歯切れの悪さを思い出すと、この話にはそれなりに信憑性があるように感じられますし、別に、お金をもらって移籍することが悪いってわけでもないんですけどね。 ただ、「ブログで人気が出た」のではない「いまが旬の芸能人」にとっては、ブログというのは、諸刃の剣というか、「リスクの割にはメリットが少ない媒体」ではありそうです。ブログが炎上してCM1本無くなれば、損害は2000万円どころじゃないでしょうから。 さりとて、ブログで名を上げようとしている売り出し中の芸能人ブログは、他の芸能人の悪口や局アナの愚痴を書いただけで「炎上」してしまいますし、それをチェックしてくれる人もいないわけですから、結局のところ、芸能人にとって「ブログをうまく利用する」というのは、すごく難しいことのように思われます。
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2008年06月08日(日) ■ |
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三谷幸喜さんが「僕は映画監督として結構いけるんじゃないか」と思った理由 |
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『BRUTUS』2008/6/15号(マガジンハウス)の特集記事「ザ・三谷幸喜アワー」より。
(特集のなかの三谷幸喜さんと糸井重里さんの対談記事の一部です)
【三谷幸喜:映画の世界は職人さんであふれていますが、実は一番の職人は俳優じゃないかと思うんです。例えば、佐藤浩市という役者はすごい職人。どこから撮られるか、どのへんまで映っているのかということを常に意識して、芝居をされる。
糸井重里:あの役を、ちょっとだけわざとらしいアホなアクション俳優にするのは簡単だと思うんだけど、佐藤さんはあいつを見ていて泣けるというところを残している。そんなにできる人はいないですよね。それに、あの髪の毛の分量がちょうどいい。もし、あれが藤岡弘の分量になると多いんですよ。
三谷:トゥー・マッチな感じ。一般人としてはちょっと多い。でも、あれより髪が薄かったら、ちょっと哀しすぎる。
糸井:同じく、深津絵里さんのグラマーじゃないぶりも素晴らしかった。もう少し肉があると必死のずるさが出ない。そして、西田敏行さん演じるボスが深津絵里さん演じるマリを本当に好きなんだということが、ちょっと肉が増えると、「あっ、肉ごとだな」と……。
三谷:生々しくなりますよね。あれより細かったら、またちょっと。
糸井:それが同情になったり。
三谷:そう考えると、監督をするということはどういうことか、おぼろげなから見えてきた気がして。それは、アングルを決めるとか芝居をつけるということだけではなく、もっと本質的なもの。極端に言えば佐藤浩市の髪の量とか座り方とか、監督が全部決めなきゃいけない。そういうところにこそ監督の真価が問われるんじゃないか。
糸井:サイズとか色とか天気とか仕様書には書きづらいけれども、頭の中では分かってるスペックみたいなものがセンスなんでしょうね。
三谷:ただ、そこに注目する人はまずいない。髪の量がよかったみたいなことを言うのは糸井さんくらいです。でも、本当に大事なのは、そういうことなんだなという気がしています。
糸井:今はマーケティングの時代ですから、話し合ったら分かるということは、頭のいい人はみんなさんざんやるんですが、それはやっぱりおもしろくなくて、「いや、できちゃったんだよ」という感じ、それを信じ込むというか、佐藤浩市の髪の分量というのは、佐藤浩市という運命を信じるしかない。感動という言葉もなんですけれども、「いいな!」と思うのはそこでしたね。
三谷:でも、髪の分量でキャスティングしたわけじゃない(笑)。
糸井:もちろん(笑)。
三谷:それはもう運命ですよね。
糸井:運命です。運命ごとキャスティングしている。深津さんのグラマーじゃないぶりというのも、それで選んだというわけじゃないですからね。西田敏行をどう描きたいかというところに西田さんの知性のあり方に対する敬意があって、その敬意を払う西田さんが選ぶ本当に好きな女というのは、ふらふらと下半身でいっちゃったものでは困る。監督はそこまで書いてはいないけど、当然知っているはずで、お客さんに「うれしい」と思わせるのはそこなんですよね。
三谷:僕は、自分が映画監督として才能があるとずっと思ってなくて、むしろないと思っていたぐらいで。映画は大好きでずっと観ていたんですけど、やっぱり脚本家として観てしまうので、「この伏線の張り方はおもしろいな」「このホンはよく出来てるな」という見方はするけど、「この演出はすごいな」「このカット割りはいいな」と思って観たことが無かったので、自分で映画を撮る時も、決して映像寄りではない。「なんて自分はアングルの見つけ方がへたなんだろう」とか、現場を引っ張っていくという意味でも、「監督としてなんて自分は不適格なんだろう」ということばっかり。ただ、結果的にその映画が豊かになっていくことにつながっていく細かいことを決めていく段階で、無意識のうちに何かを選ぶ、AとBのうちのAを選んだとか、この色を選んだとか、この帽子を選んだとか、そういう一見瑣末に思えることに関しての選択が間違えていなかったとしたら、ひょっとしたら僕は映画監督として結構いけるんじゃないかと、今回、ほんのちょっと自信が持てたわけです。もちろん、それ以外のずっと僕がだめだと思ってたことはいまだにだめなんですけども……。】
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最新作『ザ・マジックアワー』も絶好調の三谷幸喜さん。映画好きなら誰しも、「自分で映画監督をやってみたい」と思うもののようですが、この話を読んでみると、実際の監督の仕事というのは威張って周囲に指示を出していればいい、というものではなくて、いろんな細かいところを決めるのもまた、監督の仕事なんですね。もちろん、その監督の主義や映画の予算などによって、「細かいところにはタッチしない」あるいは、「自分で決められる範囲が限られている」場合もあるのでしょうけど。
映画監督であれば、「出演する俳優」や「ロケを行う場所」などは自分で決めたいでしょうし、それが監督の仕事であるというのはよくわかるのですが、「佐藤浩市さんの髪の毛の分量はどのくらいがベストなのか?」なんてことは、かえって決めるのが難しいのではないかと思われます。もちろん、あまり細かいことにこだわらない監督もいるのでしょうけど、それでも、誰かがそういうところを決めていかないと、映画の撮影は進んでいかないはず。なにげないシーンのようでも、「決めなければならないポイント」はけっこうたくさんありそうです。登場人物の服装ひとつ決めるのだって、大変なんじゃないかなあ。 「雨が降っている」というシーンにしても、それが映画である限り、「どのくらいの雨が降っているのか?」というのを誰かが決めなければならないのです。「そんなことはどうでもいい」と言いたいようなことにこだわらなければならないのが、「映画監督」なんですね。 アドバイスしてくれる人はいるとしても、最終的にゴーサインを出すのは「監督」でしょうし。
こういう話を聞くと、「そんなの映画の内容とは関係ないし、どうでもいいんじゃない?」って考えがちなのですが、観客になってみると、「なんかこの役者さん、この役のイメージと違うんだよなあ」とか、「この主人公、こんなセリフを言うような人じゃなさそうなんだけど……」「『ものすごく感動的な夕日』のシーンのはずなんだけど、なんかありきたりの風景だよなあ」と感じることは、けっして少なくありません。
たぶん、そういう「小さな選択」が必要なときに自覚的、あるいは無意識のうちに、「多くの観客にとってちょうどいいところ」を見極められる人が「名監督」なのでしょうね。
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2008年06月05日(木) ■ |
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「採用のプロ」が語る、新卒者の面接で聞いておきたい「たったひとつの質問」 |
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『はたらきたい。』(ほぼ日刊イトイ新聞・ほぼ日ブックス)より。
(「第1章・面接試験の本当の対策」での河野晴樹さん(「リクルート」入社後、人材派遣事業の運営を推進し、現在は人材紹介会社「KIZUNAパートナーズ」の代表取締役である「採用のプロ」)と糸井重里さんとの対談の一部です)
【糸井重里:以前は、河野さんも新卒の面接をやっていたわけですよね。
河野晴樹:ええ、おもに最終面接ですね。
糸井:今、実際に働いている社会人でさえそうなんだから、働いたことのない学生さんたちにそんなこと(この会社は何をしてお客さんをよろこばせているか、ということ)を聞いても、わからないでしょう。
河野:ええ、もちろんわかっていてほしいのですが、そういう人ばかりではありませんね。ですから、本当のことを言っちゃうと、新卒の面接をやる場合、「君がさ、これまで大切にしてきたことって何?」という、ものすごく概念的な質問で十分なんですよ。
糸井:ほぉー‥‥。
河野:「本当に大切にしてきたことは何? あるの? ないの?」って。
糸井:うん、うん。
河野:「それは、言葉になってるの?」。そういうことですね、聞きたいのは。
糸井:その話を聞いているだけで、わくわくしますね。
河野:ははは(笑)。
糸井:いや、つまり、面接官がそう思ってるんだって知ったとき、「聞いてもらえた!」といううれしさと、「やばい、聞かれた!」というあせりと、どっちかの反応しか、ないですよね。
河野:はい。その場面では、すごい答えなんて期待してないんですよ。でも「やばい、聞かれた!」と悲しそうな顔をした人は採用できない。だけど、そこで、うれしそうに話をしてくれる人がいたら、あ、仲間になれそうかな、と思えるんです。
糸井:うん、うん。
河野:うれしそうに目をぐるぐるさせながら考えてくれる人も、すっと答えられる人もいるんだけど、本当のことを言ってるかどうかは、きちんと伝わりますからね。
糸井:そこは、わかるもんなんでしょね。バッターボックスに立ってる数が違うわけですから。
河野:だから、お辞儀の角度がどうだとかそういうことは、ほんっとに、心の底から、どうでもいい。そんなことで落とす会社があったら、むしろ入らなくて本当に良かったね、と。何をどれだけ大切にしてきたか、ということをこちらに伝えてくれるかどうか、なんです。
糸井:つまり、この人といっしょに仕事をやりたいと思えるかどうか。
河野:それに対する答えだって、全然大したことじゃなくていい。サークル活動なんかでも「俺、主将じゃなかったからなぁ」なんて考える必要はない。たとえば、サークルを辞めそうになった人を、引き止めた。これ、素晴らしいことじゃないですか。
糸井:ええ、素晴らしいですね。
河野:あるいは、高校生までウソつきだったけど、大学生になってからはとにかく愚直に、目立ちはしなかったけど、ウソをつかずにやってきた。できるだけ、誤魔化さないようにしてきた。これって、答えとして全然OKですよね。
糸井:はい、全然OKです。】
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僕は卒業した大学にそのまま「就職」してしまったので、就職時の「面接試験」というのは受けたことがないのですが、高校の同級生たちが「何社落ちたか覚えてない……」「まだ内定がもらえない……」などと疲れた表情で愚痴っていたのはよく覚えています。 服装とかお辞儀の角度というような「面接試験で好印象を与えるための技術」というのはしばしば耳にするのですが、「採用のプロ」である河野さんが、「そんな付け焼刃の礼儀作法は関係ない」と語っておられるのを読んで、僕はちょっと驚いてしまいました。面接って、なんのかんの言っても「そういうところ」をみるのだと思っていたから。
ここで河野さんが語られている、新卒者採用時には、「あなたが本当に大切にしてきたことは何?」、という質問だけで十分、というのを読んだ多くの人は「それでいいのか」とホッとしたのではないでしょうか。 今後の人生で面接を受ける可能性は低い僕でさえ、なんとなく安心しましたし。 でも、こういう質問をいきなり投げかけられて、すぐに答えるのって、実際にはものすごく難しいですよね。実は、僕自身これを読んでから一日ずっと「どう答えるか」を考えているのですが、率直なところ「うーん、僕にはそんなことはないかも……」という答えが頭に浮かんできてしまいます。 逆に言えば、日頃から、「自分はこれを大切にして生きていこう」という「芯」みたいなものを意識している人でないと、答えられない質問だと思うんですよ。 河野さんが例としてあげておられる「サークル活動で辞めそうだった人を引き止めた」とか「愚直にウソをつかずにやってきた」なんていうのは、いかにも「面接的な答え」のような気がするし、僕はこういうのを声高に語るのは、ちょっと恥ずかしいのですけど……
ただ、おそらく河野さんや糸井さんのような面接官は、この質問に対して、具体的な答えの内容で判断するのではなくて、「よく聞いてくれました!」と身を乗り出してくるか、「困ったな……」と身を固くしてしまうかを見ているんでしょうね。 「サークル活動で……」の人も、いかにも「面接対策で考えてきました」という雰囲気だったら、結果的にはあまり良い点数はつかないはず。
それにしても、こういう話を読むたびに、面接を受けなければいけない時代には、面接官が本当に見ているところをわかってなかったよなあ、と感じずにはいられません。お辞儀の角度が素晴らしいから、こいつと一緒に働きたいだなんて、思うわけないのにね。
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2008年06月02日(月) ■ |
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「ちょいウザのコツは、気づいたらなるべく早く、さらりと、そして具体的にお願いすることです」 |
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『つっこみ力』(パオロ・マッツァリーノ著・ちくま新書)より。
【電車の中で若い女の子が平気で化粧することを叱るコラムやエッセイを、しょっちゅう目にしますよね。私はむしろ化粧をする女より、ああいうコラムを書く人に、無性に腹が立つんです。ああいうのを書く人って、人間同士の関わりを拒否している、人間不信の社会システム論信者だからです。 個人的には、電車での化粧は気にならないんですが、音漏れヘッドフォンは気に障るので、あんまりうるさいときには、「すいませんけど、ボリューム下げてもらえます?」と頼みます。 公共の図書館でしょちゅう調べものをするんですが、そこでおしゃべりしたり、やかましい音たててる人ってけっこういるんですよね。よくあるのが、ルーズリーフのペラ1枚だけを机において、凄い筆圧で叩きつけるようにノート取る人。コンコンコンコン、ってかなりの騒音なんですが、あれ、本人はまったくうるさいという意識がないんですね。だから、静かに書いてくれませんかと頼むと、ちょっとビックリした顔します。 そんな、ちょいウザおやじの私ですが、ちょいウザおやじの頼みに、たいていは応じてくれますね。ちょいウザのコツは、気づいたらなるべく早く、さらりと、そして具体的にお願いすることです。 そのうち相手がやめてくれるだろう、とガマンにガマンを重ねて、耐えきれなくなってから注意すると、どうしても、抑えていた怒りの感情が表に出てしまいます。昔の東映任侠映画みたいなもんです。高倉健さん演じるヤクザは、理不尽な仕打ちを受けてもガマンを重ねるのですが、ついにぶち切れて殴り込みをかけて血しぶきが飛ぶというね。ご近所や図書館で、血しぶき飛ばしちゃあ、いけません。 ガマンしてずっと何もいわないでいると、相手は自分の行為が容認された、べつに周囲に迷惑はかけてないと判断してしまいます。そうなってから注意すると、え、いまさらなんで? とヘソを曲げてしまうのです。だから、ちょいウザはなるべく早く、さらりとがコツで、相手が応じない場合は深追いしないことです。ちょいウザに命を張るほどの価値はありません。 でも、口に出して相手に伝えなきゃ、問題は永久に解決しません。身振りやしぐさで9割伝わるだなんて本がありますけど、それが本当だったあ、とっくの昔に日本語は消滅していて、いまごろ日本人は全員パントマイムで意思疎通を図っているはずです。 弁護士と検察官と裁判官がみんなでパントマイムやっている裁判って、傍聴したいですよねぇ。いや、笑いごとじゃありません。裁判員制度が始まって、裁判員に選ばれたら大変ですよ。まずは、中村有志さんにパントマイム習いに行くところから始めなきゃならないんですから。 あと、注意をするとき具体的にってのは、「うるさい」「やかましい」ではなく、ボリュームを下げてくれみたいに、してほしいことを具体的に頼んだほうが、相手も受け入れやすいってことです。私は団地の1階に住んでまして、芝生で遊ぶガキがいてうるさいときは、注意します。そのときも、ここで遊ぶな、あっちに広場があるから、そこへ行け、と具体的に誘導します。 そんなわけで、若者のマナーを叱るコラムを目にするたびに、それほど不快に感じるなら、なんでこの人、その場で本人にいわないのかな、って不思議でならないんですね。電車の中で化粧するような女の子は、新聞やオッサン向け週刊誌のコラムなんか絶対読まないんですから、買いてもムダでしょ? そういう問題は、不快に感じた人が、相手に直接話しかけて、オレはいま凄く不快なんだ、だからやめてくれ、と自分の気持ちを伝えることでしか解決できないんです。個人の行動、個人と個人の対話で解決すべきことなんです。それを社会問題みたいなデカい話、マクロな話にすり替えること自体、ごまかしだし、コラムで世間に訴えることで若者の行動を改善できるのだ、なんて考えてるとしたら、妄想プロフェッショナルです。】
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結局のところ「電車内で化粧をする若い女の子」も「ヘッドフォンからの音漏れ」も、「気にはなるし、なんとなく苛立たしくはあるけれども、自分でその人に直接注意しようと思うほど切実な問題ではない」ということなのでしょうね。 ここで著者が書かれていることは至極もっともなのですが、気弱な僕は、「もしそんな注意をして、逆ギレされて相手に襲われたり、周囲の人に『こいつウザいな』とか思われたらどうしよう」というようなことを、ついつい考えてしまいます。そういうリスクと、電車の中で30分くらいの「ちょっとした不快」をガマンするのとでは、後者のほうを選んでしまうのです。
多くの人は、僕と同じようなことを現場では考えて自制するのだけれど、一人になってから、「どうして相手のほうが悪いはずなのに、自分がガマンしなければならないんだ!」という怒りが湧き上がってくるのを抑えられず、「新聞に投書したり、コラムに書く」というような行動に出るのではないかと。 実際、「その場で注意する」のと「あきらめてガマンする」の二者択一というのは、どちらにしても被害者側にとってはあまりメリットがない選択肢ではあるのです。
ただ、「自分にとって居心地の良い環境」が自然につくられるのが当然だ、不快な環境というのが異常なのだ、という考えは、「甘い」のではないかとも思うんですよね。 むしろ、「居心地を良くするためには、ある程度のリスクを冒すのは仕方がない」のかもしれません。たしかに、「じゃあ、新聞に投書したら、誰かがなんとかしてくれるのか?」というと、そんなことはまずあり得ないわけですから。 もちろん、電車内での携帯電話の通話禁止のように、多くの人の不快感の積み重ねが、制度の設定につながる場合だってあります。しかしながら、「電車内での化粧への不快感」や「音漏れが気になる音量」なんていうのは、かなり個人差も大きいと思われますので、これらを「マナー」として呼びかけることはできても、「禁止」するのはなかなか難しいはずです。携帯電話の場合も、「ペースメーカーなどに影響を与える可能性があるので」というのが、「使用禁止の理由」でしたし。
アメリカの地下鉄で、「この駅からこの駅への路線は、日本人が一人で乗ると危ないから」なんていう話を現地の人に聞くと、「車内での化粧や携帯電話が『問題』になる日本というのは、なんて平和な国なんだろう」という気もするんですけどね。
この文章のなかで僕がいちばん参考になると感じたのは、「ちょいウザのコツは、気づいたらなるべく早く、さらりと、そして具体的にお願いすること」というところでした。 これって、見ず知らずの人にいきなり注意する場合に限らず、身内や友人・知人に対しても「ちょっと気になるときの注意のしかた」として、知っておいて損はないことだと思います。 たしかに、「そのうち収まるだろう」とガマンしているうちに、こちらの苛立ちはどんどん増していき、爆発して注意したときには詰問調になってしまうことって多いですし、そうなると相手も「いままで何も言わなかったのになんで急にそんなに怒り出すんだ!」と逆ギレしやすくなりますよね。 ガマンする側の立場になれば、多くの人は「限界までガマン」してしまうにもかかわらず、自分が注意される側の際には、「そんなに嫌なら、さっさと言えばいいのに」なんて、かえって不快になってしまうのはよくあることです。 音漏れなんてまさにそんな感じで、スイッチを入れてすぐに「すみません、ちょっとボリューム下げてもらえます」と言われれば、「あっ、すみません」と素直に応じてくれるケースでも、「お前、うるさいんだよ!周りは迷惑してるんだっ!」とガマンを重ねて激嵩に至った人に注意されれば「なんだその言い方は、そっちが勝手にガマンしてただけじゃねえか!」と「売り言葉に買い言葉」になってしまいます。
こういうちょっとした注意って、親しい人が相手だと、かえって難しい面もありますが、「なるべく早く、さらりと、具体的に」というのは、知っていて損はないと思います。 「放っておけば、そのうち収まる」って信じたいのはやまやまなんだけど、放っておいたせいでこじれてしまうケースって、けっこう多いですしね。
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