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2008年03月30日(日) ■ |
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「世界一の砲丸職人」と北京五輪の「悲劇」 |
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『日本の職人技〜松井のバット、藍ちゃんのゴルフクラブをつくる男たち』(永峰英太郎著・アスキー新書)より。
(アトランタ(1996)、シドニー(2000)、アテネ(2004)の3大会連続でオリンピックの砲丸投げ競技でメダルを独占した「世界一の砲丸職人」(有)辻谷工業の辻谷政久さんが、1988年に、はじめて自作の砲丸がソウルオリンピックで採用されたときのことを振り返って)
【「(ソウルオリンピックで)私の作った砲丸を使う選手は一人もいなかった。納品したのに、使ってもらえないのは”敗北”です。言葉にできない悔しさがありました」 しかし、ここでさじを投げる辻谷さんではなかった。自分の砲丸の欠点はどこにあるのか――。それを探り始めた。ある日のこと。工場の近くの土手で試し投げをしているとき、辻谷さんは、ある疑問を抱いた。 「同じ重さの砲丸なんですが、飛ぶ距離が違うんです。それで調べてみると、飛ぶ砲丸は、平面に置くとコロコロ転がらない。一方、飛ばない砲丸は、転がる。『あっ!重心か』とひらめいたんです」 試しに、今までオリンピックで使用された実績のある砲丸を取り寄せ、それらを半分に割ってみた。すると――。 「海外の製品はすべてNC旋盤で作っているんです。そのままの状態では、国際規格の重さに合わすことができずに、砲丸に穴を開けて鉛を入れたりと、重さの帳尻を合わせていました。その結果、重心もズレまくっていた。重心を中心に持ってこれれば、選手に受け入れてもらえると確信しました」 重心を真ん中に持ってくることは至難の技。前述したように、一つの素材でも、上部は密度が濃く、底部は薄くなる。 「つまりは、密度が濃いところを削り、重心を真ん中に持ってくるんですか」と、筆者が聞くと、「簡単に言えば、そうなりますが、肝心なのは勘です。光沢や、旋盤を削っているときの音、指先に伝わる圧力などを感じ取りながら、作業を進めていきます」と辻谷さんは”感覚の大切さ”を説いた。 バルセロナオリンピックに照準を絞っていた辻谷さんは、重心はもちろんだが、もう一つ、あるアイデアを砲丸に盛り込んだ。 それまで砲丸と言えば、表面上はツルツルだったが、手紋を入れたのだ。友人50人近くから指紋を集め、手にフィットするように”筋”と入れた。 「持ちやすくて、投げやすいかなと。筑波大学の学生さんにも試投してもらったら、全員が『投げやすい!』って感想を述べてくれて。JOCの許可も得られて、その砲丸をバルセロナオリンピックに納品したんです」 すると、面白いことが起こった。32個納品したうち、約半分が、本番前に紛失したのだ。選手が自国での練習用にと、無断で持ち帰ったのだった。 「なくなったと聞いて、喜んだのは私だけでした」と辻谷さん。この大会では、日本製の砲丸で獲得したメダルは銀1個。それでも、辻谷さんは大きな手ごたえを感じた。 果たして――。その後のアトランタ(1996)、シドニー(2000)の2大会では、金、銀、銅メダルを独占。辻谷さんの砲丸は、一躍”大人気モデル”となった。 オリンピックという場は、選手だけではなく、あらゆる企業にとって戦場だ。メダルを独占するメーカーは、目を付けられる運命にある。 辻谷さんの考案した「砲丸に筋をつける」というアイデアは禁止という憂き目にあう。しかし、辻谷さんは前向きだった。 「ならば、重心をもっと真ん中にしようと考えましたね。シドニーでは、まだ10分の2程度は重心がズレていました。手触りがツルツルならば、重心でカバーするしかないですから」 アテネオリンピック。日本のカメラマンに砲丸選手のトップ4人が「今回は、日本製はないのか?」と聞いてきたという。筋がついた砲丸がなかったからだ。 「ルール改正の話をしたら、彼らは納得して、ツルツルの私の砲丸を手にしたそうです」
その結果、アテネでも、金、銀、銅を独占。4位に終わったマルチネス選手(スペイン)は、インド製を使用。競技後に「日本製を使っていれば……」と嘆いたという逸話も残っている。
(中略)
じつは、2001年春に、辻谷さんは海外メーカーから週給2万ドルで、技術的なライセンスの譲渡を条件に、技術指導に来てほしいというオファーをもらっている。 「断りました。鋳物屋さんなどの協力なくして、ここまでの砲丸を作ることはできませんでしたし、日本発の技術は大切に守らないといけませんから」 1週間に200万円のオファーがあったことを、当時、家族には知らせなかったという。 「女房には、あとで、すごく怒られましたね」 そう話すと、長年の作業で黒ずんだ、まさしく職人の手を頭にやりながら、辻谷さんは大きく笑った。】
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辻谷政久さんは1933年生まれ。70歳をこえた今でも、「世界一の砲丸」を作り続けておられます。辻谷さんの砲丸が最初にオリンピックで採用されたのが1988年だそうですから、その時点でもう50代半ば。普通だったら、それまでの技術の「貯金」で食いつないでいこうと考えてもおかしくないところなのですが、本当に「挑戦」が好きな人みたいです。
僕はこの本を読むまで知らなかったのですが、
【砲丸投げには「マイボール」の使用は禁止されている。 例えば、オリンピックでは、JOCの審査をクリアした世界5〜6社の公式球が、会場に並び、選手はそのなかから自分に合った球を選んで使う。】
ということなのだそうです。不正防止とか、競技の公平性を期するため、ということなのでしょうが、それならいっそ1つだけに決めてしまえばいいような気もするんですけどね。 まあ、各メーカー間の競争もあり、そうできない事情はあるのでしょう。 いくら気に入ったからといって、「黙って持って帰ってしまった」という「オリンピック選手」たちのモラルもいかがなものか、とは思うのですが、そのくらい魅力的な砲丸だったのだろうなあ。
辻谷さんの砲丸の凄さというのは、ここに採りあげられているエピソードだけでも十分に伝わってきます。 「シドニーでは、まだ10分の2程度は重心がズレていました」 って、機械では調整できないような「ズレ」を修正してしまう職人の「勘」の世界、僕には全く実感がわかないんですけどね。
「週給2万ドル」を辻谷さんが断ったのは、「日本発の技術」へのこだわりと同時に、「こういうのは『技術指導』したってみんなができるようなものじゃない」という気持ちもあったのではないかな、と僕は思います。
ところで、この「日本の職人力」の象徴のような辻谷さんの砲丸、今年の北京オリンピックには納入されないのだそうです。その理由は、辻谷さんが、サッカーのアジアカップ中国大会での「日本バッシング」や「日本大使館への投石」などの蛮行を見て、「この国にはオリンピックを開催する資格がない」と感じたからなのだとか。
たぶん、選手たちとしては、「世界一の砲丸」をオリンピックで使えないのはとても悲しいことだと思いますし、「砲丸そのものの価値」を考えれば、オリンピックという桧舞台を「ボイコット」するというのは、かなりの英断のはず。 この話を聞いて、僕は「中国政府のことはさておき、選手たちにとっては『もっとも大事な大会」であるオリンピックで、何もそんな形で抗議しなくても……」と感じたのですが、逆に、辻谷さんがスポーツに携わるものとして「中国に抗議」するには、この方法しかないのも事実。
ただ、この「ボイコット」が、スポーツの世界にとって、やるせない話だなあ、ということだけは間違いないですよね。もちろん、いちばん辛いのは、「オリンピックで自分の砲丸がメダルを獲るのを見られない」選択をした辻谷さんなのでしょうけど……
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2008年03月28日(金) ■ |
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「ファンタグレープ」と「ファンタオレンジ」、実際どっちの人気が高いんですか? |
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『オトナファミ』2008・April(エンターブレイン)の特集記事「祝50周年・僕らの大好きファンタ」より。
【ファンタ誕生物語
ファンタはアメリカの企業、ザ・コカ・コーラ・カンパニーの炭酸飲料。でも実は、生まれは第二次大戦下のドイツだということをご存知だろうか? 当時、ドイツでもコカ・コーラの人気は高かったものの、戦争の激化により原液の輸入がストップしてしまった。そこでドイツの人たちは諦めず「手に入る材料でコカ・コーラの代替品を作ろう!」と考えた。度重なる試行錯誤の末、ついに1941年に元祖ファンタが完成。そして1960年にコカ・コーラ社が商標を買い取り、世界中に広まっていった。 日本で販売が始まった1958年当時、フレーバーはグレープとオレンジ、クラブソーダの3種類だったが、2008年までに50以上のフレーバーを発売。その数の多さは世界トップ3を誇る。】
【教えて!ファンタの人
ファンタを飲んでいて誰もが一度は感じたことのある素朴な疑問、ぶつけてみました。
問1:「ファンタ」ってどういう意味なんですか?
答:「空想」を意味する”Fantasy”と、「大変素晴らしい」という意味の形容詞”Fantastic”に由来しています。シュワ〜ッと弾ける楽しくてポップな世界観を商品名で表現しているんです。
問2:定番フレーバーのグレープとオレンジ、実際どっちの人気が高いんですか?
答:グレープですね。全国のファーストフードやファミレスに卸しているということもありますが、出荷量で比べてみても、グレープはオレンジの倍ぐらいあります。】
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この特集記事の最初のページにも「FANTAとファンタはThe Coca-Cola Companyの登録商標です」と書かれているのですが、「ファンタ」というブランドは「コカ・コーラ」と密接に結びついていているのです(自動販売機でもいつも一緒に並んでいますしね)。 でも、この記事を読んでみると、「ファンタ」が生まれたきっかけは、「第二次世界大戦で、アメリカとドイツが交戦状態となったこと」だったんですね……その「アメリカの敵国が開発したコカ・コーラの代替品」が、今となってはアメリカを象徴する企業の主要ブランドのひとつとして世界中で売られているというのは、なんだかとても皮肉な話のような気がします。
ファンタにはとにかくたくさんのフレーバーがあったような記憶があるのですが、実際にどんなものがあったか思い出そうとしてみると、オレンジ、グレープ、レモン、アップル、メロン、そうそう、フルーツパンチなんていうのもあったなあ……という感じで、意外と覚えてないんですよね。 そもそも、ファンタって新しいフレーバー出るとコンビニのドリンクコーナーにズラッと並ぶけれど、どうも「イロモノ」っぽいのが多くって、あっという間に消えていく、というイメージですし。
考えてみれば、僕が子供の頃からずっと売られている「ファンタ」って、定番中の定番、ファンタオレンジとファンタグレープだけなのです。50以上のフレーバーが発売されているにもかかわらず、「定番」になるのはかなり難しいようです。
僕も「ファンタ」のなかでは「ファンタグレープ」がいちばん好きなのですが、1番人気であることには納得できても、「オレンジ」の2倍もの出荷量があるとは知りませんでした。 日本人は「ファンタグレープ」が大好きだけれど、僕はあれが本当に「オレンジ」「グレープ」の味なのか?と問われると正直納得しがたいところもあるのです。まあ、あれはオレンジとかブドウというより「ファンタオレンジ」「ファンタグレープ」の味なのだ、としか言いようがないのかもしれません。
ちなみに、「世界基準」では、「オレンジ」が1番人気で、以下は順不同で「グレープ」「レモン」「ストロベリー」「パイナップル」が並んでいるそうですよ。日本では不振だった「ストロベリー」もタイなどではポピュラーで、味の好みには、「地域性」「国民性」の違いが大きいということなのでしょうね。
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2008年03月26日(水) ■ |
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エジソンが電球の発明で「1万回の失敗」を繰り返したときの言葉 |
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『非属の才能』(山田玲司著・光文社新書)より。
【あの発明王エジソンもまた、学校を追い出された少年だ。 1+1さえわからなかったエジソンは、どうしても教師と馬が合わず、わずか3ヶ月で放校処分となってしまう。 そんなエジソンに対して、もともと小学校の教師で教育熱心だった母、ナンシーは、ホームスクール形式で勉学を教えた。 彼女が特に気をつけたのは、エジソンの旺盛な好奇心を潰さないこと。ナンシーはエジソンのためだけに、地下室にさまざまな化学薬品をそろえ、エジソンは自分の好奇心のおもむくままに物事を調べ、実験にチャレンジすることができた。 のちに電球の発明で1万回もの失敗を繰り返したとき、エジソンはこう言っている。 「失敗したのではない、1万回うまくゆかない方法を見つけたのだ」】
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これを読んで、新潮文庫の「Yonda?」や「日テレ営業中」などを生んだコピーライター谷山雅計さんが、その発想法を書かれた著書『広告コピーってこう書くんだ!読本』のなかで、「良いコピーをつくるために大事なのは、とにかくさまざまな角度からたくさんのサンプルを生み出し、そのなかから良いものを選ぶ眼を身につけていくことだ」と書かれていたのを読んだことがあります。 僕は、「優れたコピーライターなら、しばらく頭をひねっていれば、突然『これだ!』というような「正解」のコピーが頭に浮かんでくるものだと思い込んでいたので、この話は非常に意外だったのです。
歴史にのこる新しい発明や発見をした人の話を読んでみると、どんなに「天才」と称されている人でも、いきなり「正解」にたどり着くことはほとんど無いようです。 エジソンには、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という有名な言葉があります。「頭のよさ」とか「才能」だけあれば、エジソン以上の人は同時代の発明家にもいたのかもしれませんが、エジソンを「発明王」にしたのは、この「1万回もの失敗」(でも、誰が1万回なんて数えたんでしょうね。モノ好きな人もいたものです)にも諦めない執念と、それを「1万回うまくいかない方法を見つけた」と言い放ってしまうポジティブ思考だったような気がします。 僕たちは、「たった1つの成功」と「それ以外の無数の失敗」というふうに「成功した方法」と「失敗した方法」を全くの別物として考えがちなのですが、エジソンにとっては、「成功した方法」というのは、「無数にある試すべき方法のうちのひとつ」でしかなかったのです。 なかなかうまくいかなくても、くじけずにさまざまな方法を試していったことが、結果的に「成功」につなかったのでしょう。 こういう人は、やっぱり「強い」ですよね。
まあ、実際には「1万回失敗し続けて結局電球を発明できなかった人」とかもいて、その人は「往生際の悪い人」だと後ろ指さされていたりもしたんでしょうけど。 最終的には「結果を出した人の勝ち」というのもまた、一面の真実。
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2008年03月24日(月) ■ |
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部下の「致命的なケアレスミス」を救った「理想の上司」 |
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『ハンバーガーの教訓―消費者の欲求を考える意味』 (原田泳幸著・角川oneテーマ21)より。
(現日本マクドナルドCEOの著者の「エンジニア時代の大失敗」と、それに対する当時の上司の対応)
【「失敗が人を育てる」といった言葉は、誰でも何度かは耳にしていることだろう。そういう言葉を聞いたことがあるために、失敗してもくじけずにいられる人も少なくないはずだ。 それでは、人の失敗に関してはどのように対処しているだろうか。 たとえば、自分の部下が失敗したときにどうしているかを考えてほしい。建て前としてではなく、失敗が持つプラスの意味を理解しているのであれば、一度や二度の部下の失敗などは許容できるに違いない。 私にしても、若い頃には何度となく失敗をしてきた。エンジニア時代などは失敗の連続だったともいえ、カラーバーコードを読み取るシステムの開発をしたときに失敗はそのなかでもとくに強く印象に残っている。 このとき、スタッフは私を入れて3人だけで、技術開発のために与えられた期間は半年だった。最初のうちは焦りもなく作業を進めていたが、残り二か月ほどまで期限が迫ってきた頃からは社内の実験室に泊り込む日々が続いた。そして、その新技術を紹介するプレゼンがあるためにどうしても完成させなければならなかった期限当日の明け方4時頃になってようやくシステムが動いたのである。まさに滑り込み状態だったので、スタッフ3人が手を取り合って喜んだのはいうまでもない。 だが、最終チェックのためにもう一度、電源を入れたときにブチッと嫌な音がしたかと思うと、そこから煙が出てきてしまい、組み立てていた機器が完全にクラッシュしてしまったのだ。 ほんのわずか前までは小躍りしていた3人が口を開くこともできなくなって、ただ呆然と立ち尽くしてしまうしかなくなった。どうしてそうなったかといえば、本来は5ボルトの直流をつないで動かさなければならないところを商用の100ボルトにつないでしまったという単なる接続ミスで、普通では考えられないほどのケアレスミスだったのである。 2、30分くらいはそのままいたが、いつまでもそうしてもいられないので、課長の自宅に連絡して事態を報告すると、課長はすぐに実験室に飛んできた。 そのときにはどれほど怒られるかと身を縮めるような思いだったが、課長は「本当に一度は動いたの?」と再確認したあと、「それならまた同じものが作れるから大丈夫だ。ご苦労さん、しばらくゆっくりと休みなさい」と、やさしく言ってくれたのだ。そして、壊れたプロトタイプを持って会場に行った課長は、そのプロトタイプでプレゼンを行い、このプロジェクトを通してきたのである。
この経験によって、私はケアレスミスの怖さを学び、骨身にしみこませると同時に、この課長のふるまいに感動し、多くを考えさせられたものだった。 自分が課長の立場だったとすれば、私たちに対してひと言も怒らずにいられたかはわからない。 だがこの課長は、部下のミスを責めるのではなく最善の対策を考えたうえで、自分の責任においてミスを帳消しにするような結果を出してくれたのである。】
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この話を読みながら、「僕は自分がこの課長だったら、部下の些細なミスで機器が完全にクラッシュしてしまった現場で、いったいどういう行動をとっただろう?」と考えずにはいられませんでした。
それまでの部下の働きぶりを見ていれば、さすがに罵倒はしなかったかもしれませんが、イヤミの一つくらいは言ったでしょうし、「今からなんとかならないのか?」とあがいてみたり、プレゼンを諦めたりしたのではないかと思います。 少なくとも、その場で部下たちに「ご苦労さん、しばらくゆっくり休みなさい」とは言えなかったでしょう。
この課長の対応は、確かに「カッコいい!」のですが、これは、ひとつ間違えればまさに「自分の首も危ない」という選択なんですよね。 原田さんたちが造った機械の現物は壊れてしまっているし、自分で動作確認をしたわけでもない。部下が嘘をつくとは思わなくても、「本当に完成していたのかどうか?」「もう一度同じように造ったとしても、ちゃんと動くかどうか?」と不安になるのがむしろ自然なはずです。実際に同じものを造ってみたら、別の問題点が発生する可能性も十分あります。
その状態でプレゼンをするというのは、よほど部下を信頼していなければできない決断だったでしょうし、壊れたプロトタイプ」を使ってのプレゼンというのは、かなり大変だったはずです。 もちろん、このプロジェクトに有力な競合者がいなかった(のだろうと思われます、たぶん)、という「運」の要素もあったのですよね。そりゃあ、いくら部下思いの課長であっても、競合他社が実際に動く機械を持ってきてちゃんとプレゼンをしてくれば、みんなそっちを選ぶだろうし。
この「答え」だけ読めば、「部下思いの素晴らしい上司の話」なのですが、土壇場になってこういう決断ができたのは、やはり、日頃の信頼関係と、この課長の「思い切りの良さと切り替えの早さ」そして「合理性」のたまものだったのでしょう。部下の信頼を得られたという意味でも、まさに「最良の選択」だったわけです。
この決断、あくまでも「能力的にも人間的にも信頼できる部下に恵まれている場合」限定ではあるので、「普通の部下を持つ普通の上司」にとっては、素直にプレゼンで「ここまでしか完成していません」って状況を話してしまったほうが賢明な気はしますが、少なくとも、「取り返しのつかない場面だからこそ、相手のこれまでの努力を評価し、労ってあげるべき」だということは覚えておいて損はないと思います。
僕も「怒ってもどうしようもない場面」で、けっこう自分を抑えられなくなってしまいがちなのですが、どうせ結果が同じなら、わざわざ相手に恨まれたり嫌われたりする必要はないんですよね。
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2008年03月21日(金) ■ |
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矢沢永吉さんと三谷幸喜さんの『情熱大陸』 |
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『いらつく二人』(三谷幸喜、清水ミチコ著・幻冬舎)より。
(三谷さんと清水さんのラジオ番組『DoCoMo MAKING SENSE(J-WAVE)』の2005年12月〜2006年5月放送分を書籍化したものの一部です)
【清水ミチコ:この間「情熱大陸」に、矢沢永吉さんが出てたんですけど、私2回も見ちゃった。やっぱりすごいですね、一言一言が、「矢沢節」っていうのかな? で、あの方明るいし、自分を言葉で表現するのが大好きな方じゃないですか。普通アーティストって歌で表現するから、「俺はそんな喋んない」とか「喋りは得意じゃなくてね」っていう人が多いのに、矢沢さんはすごい語るのよね。「音楽、最高」とかさ。
三谷幸喜:矢沢さんは一言一言が何か重みを感じます。
清水:そうなのよね。それでね、「俺、しょっちゅう行く店があるんですよ。そこ行きましょうよ」って連れ出すんですけど、行ったお店がちゃんぽん屋さん。で「いつもの」って言うと、店員さんがキョトンとして「えっと……皿うどんですか?」「ああ、それ」って言って(笑)。
三谷:それを含めて、何かね人間的な大きさを感じる。
清水:そうなの、人としての大らかさを感じて、素敵だったな〜。
三谷:ぜひ見たいな。それじゃあ、僕が出た「情熱大陸」のビデオ、代わりに差し上げますから。でも、ああいう密着取材って経験したことあります?
清水:ないですね。嫌いですし。
三谷:僕、2回だけあるんですけどもう、耐えられないですね、疲れるっていうか……。
清水:あ、やっぱり?
三谷:もうズーッとですから。特に、NHKで昔、密着されたのがしんどかったですね。
清水:ああ、見ましたよ。しんどうそうだったね〜。なんだっけ、私が好きな芝居……え〜っと「バッド・ニュース☆グッド・タイミング」の時だよね?
三谷:そうですね。で、あまりにもズーッと撮られてるから、いくら温和な僕でも一瞬、「もう勘弁していただけませんか!?」みたいな感じになる時があるんですよ。
清水:(笑)慇懃。
三谷:そしたら、そこをフィーチャーされちゃうんですよね。
清水:あ、そうだったかも。
三谷:車の中で一瞬、気持ちが激昂した瞬間を、ちゃ〜んと編集で残してましたからね。僕が怒ると向こうは「やった!」と思うらしくて。
清水:芝居を前に精神的にピリピリする脚本家、みたいな感じに見える。
三谷:でもピリピリしてるのは回っているカメラに対してなんですけどね。】
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『情熱大陸』、僕もけっこうよく観ています。いろんな「すごい人」の「実像」が観られる数少ない番組ですし、すでによく知られた人だけではなくて、まだまだ無名の「面白い人」が取り上げられることも多いですよね。 この番組で採り上げられると、なんとなく「旬の人」って感じもしますし。
この矢沢永吉さんの回、僕もぜひ一度観てみたいものだと思いました。あの「YAZAWA」の行きつけが「ちゃんぽん屋さん」というのもさることながら、そこで「いつもの」と注文して店の人に困惑されてしまったときの矢沢さんの姿は、やはり「一見の価値あり」でしょうから。
僕たちは、あの番組を「ずっと密着取材することによって、その人の『本性』を撮っている」と考えがちです。 いつも温和な人が厳しい表情を見せるところとか、周囲の人に厳しい言葉を浴びせる場面などは、『情熱大陸』の見せ場のひとつ。それを観た僕たちは「あの人の隠された一面を見た!」と感じます。
しかしながら、実際に取材された三谷幸喜さんの話によると、「自分の本性が出るというより、密着取材によるストレスで激昂してしまった瞬間がフィーチャーされてしまう」みたいなんですよね。 いや、これはもちろん三谷さんの体験談なので、他の人もそうであるとは言い切れないとは思うのですが、確かに、「あまりにズーッと撮られている」という状況は、取材される側にとっては、かなりの負担になるでしょうし、イライラもしてくるはずです。 逆に、カメラが回っているからこそ、いつもとは違う「カッコいい自分」や「厳しい表情」をつくってしまう人もいるでしょうし。 どんなに「密着取材」をしていても、編集されて放送されるシーンというのは、「視聴者にインパクトがあるところ」になるはずですから、それは、あくまでも「密着取材というストレスがかかった状態での表情の一部」でしかないわけで。
『情熱大陸』は非常に興味深い番組ではあるのですが、本当の「取材風景」は、いつも友近さんがネタにしているような「自意識過剰な出演者と演出しまくりの取材者」なのかもしれませんね。
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2008年03月20日(木) ■ |
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21世紀版の『広辞苑』に秘められた魅力 |
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『ダ・ヴィンチ』2008年3月号(メディアファクトリー)の記事「ヒットの秘密EX」の『広辞苑 第六版』(岩波書店)より。
【1955年発行の第一版からの累計発行部数を東海道線・山陽線の線路に並べていくと、なんと東京から広島まで到達してしまう――『広辞苑』が単なる辞典を超えて、いかに日本人に愛されているかがわかるだろう。 そんな「永遠の定番」が1998年の第五版から約10年ぶりに改訂され、『広辞苑 第六版』となって(2008年)1月11日に発売された。第五版の約23万項目すべてをブラッシュアップし、新たに1万語を加えた約24万項目を収録。しかし、それだけではない。『広辞苑』はその実直なルックスの奥で、着実に進化を遂げていたのだ。発売前に30万部超の予約が入り、その後も順調な人気の、21世紀バージョンの『広辞苑』に秘められた魅力とは……? 編集部の上野真志さんに聞いた。
<『広辞苑』のギモン> Q:『広辞苑』を書いているのは誰? A:各分野の第一人者的な方々に執筆・校閲をご担当いただいています。第六版では全部で160名以上。例えば、飲食分野は辻調理師専門学校、郵便分野は逓信総合博物館の学芸員の方にお願いしました。ちなみに第一版のときは、新村先生(新村出、京都大学名誉教授・『広辞苑』第一版の編者)のつながりで同じ京都大学の湯川秀樹先生が参加してくださっています。
Q:薄い紙なのに裏写りしないのはなぜ? A:特別開発の専用の用紙を使用しています。裏写りを低減させるため、紙の中に光を乱反射させる炭酸カルシウムや二酸化チタンのような鉱物を混ぜるんですが、その配合を工夫しました。それと、技術的に製本機は8センチ以上の厚さに対応できません。しかしこれも紙の改良により、第五版から64ページ増えたのに、逆にほんの少し薄くなっています。毎回、その改訂時の技術の粋を集めて作っているんです。
Q:新語はどうやって選んでるの? A:まず、新聞・雑誌・テレビなどのメディアや同種の辞典、さらに読者からのご意見を通じて、新しく追加する言葉の候補をひたすら収集します。第六版で収集したのは約10万語(!)。これを、執筆に当たられる先生方とのご相談や、編集者の投票によって絞り込んでいき、最終的に約1万語を決定しました。目立った特徴はカタカナ語が増えたこと。たとえば、大リーグが人気になった影響で『クローザー』『セットアッパー』といった言葉が加わりました。新しい言葉だけでなく、昭和40年代までの時代相を表す言葉や地方語なども加わっています。なお、今回最後に新項目として追加されたのは、去年(2007年)8月30日に指定された『尾瀬国立公園』です。】
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1955年に第一版が発行されてから53年の歴史を誇る『広辞苑』。 第一版から第五版までの累計発行部数は、なんと1100万部にものぼるのだそうです。 今年(2008年)1月に発行された第六版には、通常定価8400円の「普通版」と、字が大きくなっていて、2冊に分冊された定価12600円の「机上版」、そして、「書籍版と同じ24万語を完全収録した」という定価1万500円の「DVD-ROM版」があります。 僕も高校くらいまでは実家に置かれていた『広辞苑』で、わからない言葉を調べていたものですが、最近ではすっかり縁が無くなってしまい、『広辞苑』と聞いても、「ああ、伊坂幸太郎さんの『アヒルと鴨のコインロッカー』で盗まれる本か」なんていう感じです。 分からない言葉は、まずネットで検索してみるというのが習慣になってしまっていますし。
これを読んでいて、以前、「ある専門用語の辞書の項目の解説の下書き」のアルバイトをしたことを思い出しました。いや、あまり大きな声では言えないのですが、「解説」を書くのに僕たちがどうしていたのかというと、「他の辞書で同じ言葉を引いて、ちょっと言い換えて写していた」のですよね。もちろん、それはあくまでも「下書き」の話で、執筆・校閲担当の人が、ちゃんと直してくれていたと思うのですが、「辞書を作る」っていうのはものすごく大変なのだと実感したのと同時に、全くの白紙の状態から「最初の辞書」を作った人というのは、本当に偉いものだなあ、と考えさせられたものです。
しかしまあ、『広辞苑』などの辞書の解説を読んでいると、「これを書いた人も苦しんだみたいだな」というのが伝わってくる項目も、けっして少なくないんですけどね。「愛」とかを簡潔明瞭に言葉で説明しろって言われても困りますよね本当に。
これを読んでみると、「歴史的大ベストセラー」であるの同時に、「古臭い過去の遺物」のように感じている人も多いであろう『広辞苑』が、こんなに発行元の岩波書店では大切にされていることと、多くの専門家の知識と最先端の技術を集めて作られているということに驚かされてしまいます。 辞書なんて、一度ひな型を作ってしまえば、あとはほんの少し「改訂」するだけで繰り返し売れる「『実況パワフルプロ野球』の新データ版(いや、あれだって地道に改良されてはいるんですが)みたいな「美味しい商売」だと僕は思っていたのですが、「改訂し続けることこそが『広辞苑』の価値」だったのです。
ちなみに、この記事によると、 【上野さんたち編集部の方々は第六版の発売と同時に、早くも第七版の準備に取りかかっている】のだそうです。 日本語があるかぎり、『広辞苑』の改訂に終わりはない、ということなのでしょうね、きっと。
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2008年03月17日(月) ■ |
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私がアメリカの高校生だったころ、美術教師にもらった「忘れられない助言」 |
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『モテたい理由』(赤坂真理著・講談社現代新書)より。
(「終章・戦争とアメリカと私」の一部です)
【今でもアメリカが大好きなことは変わっているとは思えない。 いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がカッコイイと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思いつめているのはアメリカの価値であり、言語であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。 そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということが多くあるわけがない。自国文化よりあっちの文化のほうがよい、と親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。「日本人たるもの、いい発音の英語くらい話せなくては恥ずかしい」というかのようだ。 「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは内田樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティヴの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし口語至上である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」と、ネイティヴスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかしその植民地主義を、日本人は自ら好んでどんどん取り入れている。 言葉だけできたって、単にふつうのこととしてネイティヴスピーカー社会の下層に入れるだけだ。 なまじネイティヴみたいなのはかえってよくないこともある。私がアメリカの高校生だったころ、忘れられない助言をアメリカ人の美術教師にもらった。 「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね」 なまじ発音がネイティヴ並みというのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。 この価値が、今の私にはよくわかる。いまだに、これより有効な異文化アドヴァイスを私は知らない。当時はわからなかった。ご多分にもれず私もアメリカ人になりたかったのだ。二十年も経ってわかる最良のアドヴァイスというのもある。こういうのを人が生きる希望というのではないだろうか。】
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「15から16になる年」にアメリカへの留学を経験し、3年くらいの予定だったのに馴染めず1年で「挫折」してしまったという赤坂さんの言葉です。
僕は英語が苦手なのですが、仕事上「もっと英語を勉強しておけばよかったなあ」と嘆くことは多いのです。ちゃんと勉強していれば、新しい知識を効率よく取り入れられるのに、とか、論文を書くときに、「英語の論文での表現のしかた」から学ばなくてもいいのに、とか。
もちろん、この文章のなかで、赤坂さんは「英語なんてできなくてもいいのだ」と主張されているのではないはずです(そういうふうに誤解する人もいそうなのですが)。
【あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね】 というアメリカ人の美術教師からの「アドヴァイス」は、たしかに、とても素晴らしいものだと思います。そして、そのアドヴァイスが、「英語をネイティヴのように話せることが正義だ」と考えていた若い頃の赤坂さんには、ものすごく違和感があったのも、よくわかるんですよね。 僕たちだって、「日本語を流暢に話す外国人らしい外国人(主に西洋人)」に対しては「すごい!」「日本語お上手ですね」と手放しに褒めるのですが、アジア系の人が喋る「自然に近い日本語」に対しては、けっこうあら捜しをしてしまいがちです。助詞の使い方がおかしいとか、発音がヘンだとか。 「ワタシ中国人アルネ」みたいな喋り方をしている中国の人なんて、実際にはいないはずなのに。 そして、相手が流暢に言葉を使いこなす人であればあるほど、微妙なニュアンスの違いや失礼な言い回しに対する「許容範囲」は狭くなりがちなんですよね。 日本語がほとんど喋れない外国の人に対して「敬語も使いこなせないなんて……」と憤る人はほとんどいないのに、相手が「日本人の若者」であれば、「最近の若者は……」と感じる人も多いはずですし。
中途半端に「使いこなせてしまう」ことによって「ミスコミュニケーション」が起こってしまう可能性はけっして少なくありません。外交の席で「お互いに自国の言葉で喋って、通訳を介する」というのは、こういう危険性が認識されているからです。
「英語ができる」というだけで、僕たちはひとつの「価値」だと考えがちだけれども、アメリカ社会の側からみれば、たしかに「言葉だけできたって、単にふつうのこととしてネイティヴスピーカー社会の下層に入れるだけ」なんですよね。身も蓋もない言い方だけど、実際そうなんだと思います。 たぶん、この美術の先生が赤坂さんに言いたかったことは、「英語がうまくなるのは損だ」という話ではなくて、「アメリカ人の真似をして、日本とアメリカの真ん中で宙ぶらりんになるのではなくて、『日本人としての個性』をしっかり磨きなさい」ということだったと僕は思うのです。 そのほうが、「ネイティヴっぽい」発音ができるようになるより、よっぽど「言葉を活かす」ことにつながるから、と。
ただ、こういうのって、あくまでも「それなりに英語ができる人の話」ではあるんですけどね。なんのかんの言っても、今の日本で堂々と英語を避けて通るというのは、英語を勉強するよりもっと「難しい」ことのような気もしますし。
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2008年03月15日(土) ■ |
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清水義範さんの「おわびの文書を書くコツ」 |
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『大人のための文章教室』(清水義範著・講談社現代新書)より。
(「謝罪文は誠実に長く書く」という項から)
【おわびの文章を書くのは気が重いものである。謝罪文だとか、始末書だとか、申し開きの書などを書く役がまわってくるのは、サラリーマンにとってちょっとした災難だと言っていいぐらいのものだ。 その上、謝罪文というのはなかなか難物なのだ。定型通りのそつのない謝罪文でいいかというと、それではどうもまずいのだ。 「今回、結果的に××様には多大なご迷惑をおかけすることになってしまいましたことを、心よりお詫び申し上げます。今後このようなことの二度とないように心がけてまいりますので、何卒お許し下さい。」 というような型通りの謝罪文なら、出さないほうがいいくらいである。かえってそれを読んでいると、怒りがぶり返してくるってことになりかねない。あやまらなければならないほどの非常事態に対して、型通りの儀礼ですまそうというのか、という不釣りあいが感じられるのだ。 これは私の個人的な意見だが、本当は謝罪文など書かないで、あやまりに行くべきだと思う。直接会って、事情を説明し、頭を下げてあやまるのだ。おわびの文章ですまそうというのが、そもそも心からあやまっているのではない証拠である。 しかしまあ、直接会いに行くことは不可能で、不十分ではあるが謝罪文を出すしかない場合もあるだろう。相手が多数であるとか、遠くに住んでいる、というような場合だ。謝罪文を出すしかないので、それを書く。 そのように謝罪文とはそもそも難しい事情含みなのである。だからそう簡単なものではない。 そこで、謝罪文を書くコツだが、それは、すべての事情を長々と書く、である。文書の長さで、深くおわびしたい気持である、ということを伝えるのだ。A4判の紙一枚の謝罪文なんてとんでもない。少なくとも三枚にはならなきゃいけない。
・この度、このような事態となってしまい、大変ご迷惑をおかけしました。 ・このようなことになってしまったのは、当方のこういうミスによるものです。 ・なぜそれが防げなかったかというと、たまたまこういう事情があったからです。 ・また、気のゆるみから、社内にこのような気運があったことも原因でした。 ・その結果、あのようなご迷惑をおかけしたことを心より反省しております。 ・以後、二度とこのようなことがないように、体制も整え、心構えしていく所存です。 ・何卒ご寛容の心をもって、今後ともよろしくおつきあい下さいますよう、衷心よりお願い申しあげます。 ・まことに申し訳ありませんでした。
というようなことを、全部さらけ出して長く書くのである。用語にはあまりこだわらなくていい。衷心より、がいいのか、なんて思うことはなくて、心から、とか、ひらに、などでもいいから、とにかく誠実に書くのだ。 事情を詳しく書くというのは、くどくどと言い訳を並べることになるのでは、と思う人がいるかもしれない。謝罪のはずなのに、弁明ばかり並べるのは失礼ではないかと。 確かに、言い訳を並べるのである。しかしその上で重要なのは、言い訳で押し切ろうとはしないことである。 つまり、次のような構造になっていなければならない。
(1)このような事情により、あんなことになってしまったのです。 (2)しかし、おこってしまった事態については全面的におわびをするばかりです。どうかお許し下さい。
(1)を長々と書くのだけれど、(2)が主眼の文章だというのを外してはいけない。 要するに、謝罪文の目的は、相手に許してもらうことなのだ。一応あやまっといたぞ、が目的ではない。 許してもらうために、(1)の弁明を誠実に長々と書くのであり、しかしあくまで心をこめて(2)の謝罪をしなければいけない。 会社のためにおわびの文書を書かなきゃいけないなんて、サラリーマンも因果な稼業だなあ、と思うかもしれない。だが、これはあやまるしかない、という事態はサラリーマンじゃなくたってあるのだ。私だって、これは詫び状を出すしかないな、と思う時がある。 そうなると、長い長い手紙を書く覚悟をして、じっくりと構成を考えるのである。】
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何年か前、某ベーカリーレストランからの「お詫びの葉書」を貰ったことがあります。 そのレストランは、食事の際にスタッフが「いろんな種類の焼きたてのパン」を持って各テーブルをまわってくれる、というのがセールスポイントなのですが、その日はものすごくお客さんが多く、また、オープンして間もない時期だったということもあってか、とにかく酷い状況だったんですよね。 料理が出てくるまでに1時間くらいかかったし、待てど暮らせど「焼きたて」どころか、冷えたパンの1個すら出てきません。とにかくすべてがうまく回転していなくて、厨房からは、怒鳴り声まで聞こえてきたのです。 それでもなんとか最後まで食事を終えて、僕と妻(当時はまだ結婚していなかった)は、その店の「アンケート用紙」を手に取り、その日のその店のサービスにいかに失望したかを書いて出てきました。 普段は、多少気にいらないことがあっても「いちいち文句言うほうがめんどくさい」と黙って出てしまうのですが、その店には何度か行っていて、けっこう良い店だとも思っていたので、その日感じた「失望」を書かずにはいられなかったのです。
1週間くらい後、アパートの郵便受けに、その店からの葉書が来ていました。内容はまさに「平身低頭のお詫び文書」。 そこには手書きで「あなたの大事な時間に不快な思いをさせてしまったこと」に対して、切々と謝罪の気持ちが書かれていたんですよね。 まあ、実際には、彼らの「努力」は、全く僕たちの心には響かなかったのですけど……
その「謝罪文」が、まさにこんな感じの文章だったなあ、と僕はこれを読みながら思い出したのです。 面識がないけれども謝らなければならない相手の場合、それまでの交情に訴えることもできないし、「形式的」にならざるをえないのは仕方ないですよね。 まあ、日頃のつき合いがある相手でも、「友達なんだから許してよ」というような馴れ馴れしい謝罪は、かえって逆効果になったりしがちではあるのですが。
ここで清水さんが書かれている「謝罪文のフォーマット」は、とても現実的かつ有用なものです。 僕たちは、他人からの謝罪文を読むとき、「そんなに長々と書かなくても」と考えがちなのですが、こういうのって、「こんなに長い手紙書くの大変だっただろうな……」と思わせるだけでも、それなりに効果があるのかもしれません。例のレストランから送られてきた「謝罪の葉書」に対しても、「あそこの店員さんやバイトの人たちは、あんなに働かされたり怒られたりした上に、こんな葉書まで書かされたなんてかわいそう……」と、ちょっと「同情」してしまいましたしね。その一方で、「どうせ偉い人に強制されて、嫌々書いているんだろうな」と白けた気持ちにもなったのですけど。 たぶん、「謝罪文」でいちばん大事なのは、「弁明はするべきだけれども、『だから自分は間違っていない』と開き直ってはいけない」ということなのでしょう。内心はどうあれ、こういうふうに「全面的に謝られる」場合、よっぽどのクレーマーでなければ、「尾を振る犬は打てぬ」というのが人情のはず。
とりあえず、この「謝罪文の書きかた」は、覚えておいて損はなさそうです。役立てる機会が無いほうが良いには決まっているのですが。
ところで、僕がその某ベーカリーレストランからの謝罪の葉書でかえって不快になった理由っていうのは、「一字一句がすべて同じ内容の葉書が、妻のところにも送られてきたこと」でした。 「実際はそういうもの」だというのはよくわかるんだけど、同席していた人たちに全く同じ内容の謝罪文では、「お手本通りの謝罪葉書をうんざりしながら書かされているバイトの人や若い店員のうんざりした表情」が、あまりにリアルすぎるのです。
こういうのって、わざわざアンケートに答えているんだから、内容を読んで多少なりとも「謝罪」の文章をアレンジしてあれば、受けた印象も違うんだろうけどねえ……
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2008年03月13日(木) ■ |
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堀井雄二さんが『ドラゴンクエスト』の戦闘に臨場感を出すために「工夫」したこと |
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『非属の才能』(山田玲司著・光文社新書)より。
【つい先日お会いした堀井雄二氏は、家庭用ゲーム機の性能がわずか8ビット(いまのゲーム機がスポーツカーだとすると、三輪車程度)だった時代に「ドラゴンクエスト」を生み出し、ゲームの世界に革命をもたらした人物だ。 堀井氏は、当時のゲーム作りはビジュアルでごまかせないぶん、なによりもアイデアが重要だと言っていた。 たとえば、残りの体力を示す数字(ヒットポイント)が敵から攻撃を受けるたびに振動し、ゼロに近づくにつれて赤みを増していくシステムは、どうすれば限られた容量のなかで戦闘に臨場感を出せるか、考えに考えて生まれたものだという。 つまり、情報が少なければ少ないほど、制約が多ければ多いほど想像力は豊かになると言っていい。】
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正直、この山田さんの文章の「結論」の部分、「つまり、情報が〜」の内容に関しては、必ずしもそうはいえないんじゃないか、とも感じたのですが、この堀井さんの話は、当時、リアルタイムで『ドラゴンクエスト』をやっていた僕にとってはすごく興味深い話でした。
現在、『ドラゴンクエスト』に慣れてしまったプレイヤーからすれば、『ドラクエ的な演出』である、「ダメージを受けたときの画面の揺れ」とか、「ヒットポイントの数字がゼロに近づくにつれて赤くなっていく」というようなシステムは、「ごく当たり前のこと」ですよね。 しかしながら、確かに、『ドラゴンクエスト』以前のゲーム、例えば名作『Wizardry』や『Ultima』シリーズなどでは、こんな「演出」は存在していなかったのです。 逆に、現在主流の「高性能ゲーム機」であるプレイステーション3やWiiでゲームをつくるとすれば、「ダメージを受けているプレイヤーの姿」を、目に見えるようにリアルに画面上に描くことだって可能でしょうし、「BGMを変える」というような手もありそうです。 ただ、そんなふうに「見た目の細かいリアルさを追求すること」が、「ゲームを面白くすること」に繋がるかというと、必ずしもそうではないのです。 もちろん、堀井さんだって、ファミコンのカートリッジにもっと容量があれば、もっと「リアリティのある(ビジュアルやサウンドをふんだんに使った)ピンチの演出」を試みたかもしれません。 でも、結局のところ、制約が大きかったからこそ、「いかにシンプルかつ効果的に『危機』をプレイヤーに伝えるか」という試行錯誤がなされ、最新のシリーズまで続く、「戦闘時の演出」が完成したのです。 現在も『ドラゴンクエスト』の戦闘シーンの基本があまり変わらないというのは、「制約があったからこそ磨きぬかれたもの」だったからなのでしょう。 そもそも、『ドラゴンクエスト』の戦闘シーンも、その前の時代に開発された『Wizardry』の「制約が多かったがために洗練されつくしたシステム」を大いに参考にしたものですしね。
『ドラゴンクエスト』の開発は本当に「容量との戦い」だったらしくて、堀井さんは、メッセージ関連の容量を削るため、「ROMの中にすべてのカタカナを搭載するのではなく、モンスター名や地名に使われる最低限のものしか用意しなかった」そうです。 あの『ドラクエ』の村人たちの味のある会話の数々も、そんな制限のなかから生まれたものなのです。
それにしても、こうしてあらためて言われてみると、『ドラゴンクエスト』の戦闘シーンの「演出」というのは、簡単に思いつきそうにみえて、ものすごい「工夫」の賜物なのだということがよくわかります。 そういうのをゲームで遊んでいる途中のプレイヤーには全然意識させないところが、堀井雄二さん、あるいは『ドラゴンクエスト』の凄さでもあるのですけど。
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2008年03月11日(火) ■ |
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「かわいそうな猿と幸せになった人間」の話 |
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『むかしのはなし』(三浦しをん著・幻冬舎文庫)より。
(「むかしばなし」をモチーフとした連作小説集なのですが、そのモチーフのひとつとして紹介されている『猿婿入り』という話)
【ある百姓が日照りで苦しんでいると、猿が雨を降らせた。その礼として、三人いる娘のうちの末娘が、猿のところへ嫁入りした。 ある日、里帰りすることになった娘は、父へのみやげにと猿に餅をつかせた。娘は、餅の入った臼を猿に背負わせた。里帰りの途中、川沿いに美しい桜が咲いていた。娘は猿に、「きれいなので父にも見せてあげたい」と言った。「じゃあ俺が取ってこよう」。猿は娘のために、臼を背負ったまま桜の木に登った。細い枝が臼の重みで折れ、猿は川に落ちた。流されながら猿は、「自分の命は惜しくはないが、あとできみが泣くかと思うと哀しい」と歌を詠んだ。娘は、流されていく猿をじっと見ていた。それから一人で実家に戻り、幸せに暮らした。】
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この話を読んで、僕は正直、どういう感想を持てばいいのか、よくわからなかったんですよね。 「むかしばなし」には、「正直者や心優しい人間が最後には得をする」というような「人生訓」的なものや、『かぐや姫』のような「異世界ファンタジーもの」などがありますが、この『猿婿入り』というのは、僕にとっては、「ただひたすら後味が悪い話」にしか思えなくて。 なぜこんな「むかしばなし」が語り継がれてきたのだろう?と、ものすごく疑問に感じました。昔の人は、この話を読んで「やった!ザマミロ猿!」とか快哉を叫んでいたのでしょうか?
これはもしかして、みうらさんが作った話じゃないのか、などとも考えてネットで検索してみたりもしたのですけど、これは確かに「日本のむかしばなし」のひとつであり、しかも、いくつかあるこの話のバリエーションのなかには、「娘は意図的に猿を川に落として葬り去った」と露骨に書かれているものも多かったのです。
いや、雨を降らせたから娘を嫁に、なんていう発想そのものが間違っているのだから、こんな猿は水死して当然だろ、と考える人もいるのかもしれませんが、少なくともこの物語で描かれている事実からすると、猿は「嫁や舅思いの良い婿」ですよね。「猿なんかと」結婚させられたのは可哀想だとしても、この猿だって、雨を降らせてあげた挙句にこんな理不尽な死にかたをさせられるほどの悪党じゃなさそうです。 にもかかわらず、エンディングは、さらりと「一人で実家に戻り、幸せに暮らした」ですからねえ…… この猿よりもロクでもない人間の男、たくさんいそうなのに。
『本当は恐ろしいグリム童話』なんて本もありましたが、この話を読んでみると、日本の「むかしばなし」もけっこう残酷なものですし(そういえば、『浦島太郎』で、「玉手箱」ねんていう呪われたアイテムがお土産として渡されたのも理不尽な話ではありますよね)、人間っていうのは身勝手なものだなあ、というようなことを考えずにはいられません。 でも、この「理不尽なむかしばなし」が現在まで伝えられているのも、やはり、それなりに聞いた人の心を動かすところがあったからなのでしょうね。さまざまなサイトでの分析を読んだところ「知恵の力で苦難を乗りこえる人間のすごさを描いている」なんて書かれているのですが、この例はどちらかというと、「すごい」というより「酷い」ような……
ただ、この物語が「猿より人間のほうが怖い」というのを伝えていることだけは間違いなさそうです。
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2008年03月09日(日) ■ |
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「昔は私も、”本を読む”ということを難しく考えていたことがあった」 |
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『そして私は一人になった』(山本文緒著・角川文庫)
【私はだいたい月に7〜8冊の本を読む、本の世界と関係ない人や、特に本好きでない人から見たら多いかもしれないけれど、私が属している世界の中では、年間100冊というのはそう多い方ではない。 でもそれは、ずっと昔からのことではなくて、大人になってからのことだ。今は小説を書くことも読むことも大好きだけれど、十代の頃は読書なんかちっとも好きじゃなかった。 いや、今思うと本が嫌いだったわけじゃなく、若い頃は何を読んだらいいのか全然分からなかったのだ。以前知人が「たまには何か本を読もうと思っても、たくさんある本の中でどれを選んだらいいか分からない」と言っていた。まさにそれである。 分からないから、例えば本屋の店先に積んであるベストセラーを読む。でも、つまらない。雑誌に紹介されていた本を読んでもみる。でも、つまらない。友人が面白かったと勧めてくれた本を読む。でも、つまらない。そうなると、本っていうのはつまらないものだという結論が出てしまうことになる。 そこで諦めずに、何でもいいから自分が面白そうだと思う本にチャレンジしていくうちに、”自分にとって面白い本”というのが絶対見つかるのだ。私はそうやって、いい歳の大人になってからやっと、自分が面白いと思える本に出会うことができた。一冊見つかれば、後はもう簡単である。同じ作者の本を探したり、その作者が勧める本を読んだり、作者が違っても同じジャンルの本を読んだりすると、また好きな作家が見つかる。小説に限らず、ノンフィクションも学術書も同じことである。 昔は私も、”本を読む”ということを難しく考えていたことがあった。読書は立派なこと、偉いこと、勉強なんだと構えていたからいけなかった。 今は私にとって、本を読むのは音楽を聴いたり映画を見たりするのと同じである。文学的価値があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいことなのだ。売れていようと売れていまいと、まわりのひとが皆つまらないと言っても、自分さえ面白ければそれでいい。自分さえ夢中になれればそれでいいと思っている。 冊数だってそんなに重要なことじゃない。時々こんなに私は本を読んでいると自慢する人もいるけれど、冊数をのばすだけなら誰でもやろうと思えばできることだ。その中で何冊心に響く本があったか、一冊でも人生を変えるような本に出会ったのか、その方がよっぽど重要なことだと思う。 私も何度か読んだ本に人生を変えてもらったし、私自身も本を書いて生計を立てている。読んでは書いて、書いては読んで、そうやって一日が終わり、一週間が終わり、月日が過ぎていく。 しあわせだなあ、と心から思う。 いつまでも、このしあわせが続きますようにと、ベッドの中で眠くなって本を閉じるときにそう思う。】
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直木賞作家・山本文緒さんにとっての「本を読むということ」。 本を書くことを生業としている山本さんも、十代の頃は、「読書なんかちっとも好きじゃなかった」のですね。まあ、作家というのは、桜庭一樹さんのような「読書好きが高じて作家になった」ようなタイプと、東野圭吾さんも「ほとんど本は読んだことがなかったけれど、当時のベストセラーになった江戸川乱歩賞受賞作『アルキメデスは手を汚さない』(小峰元著)を読んで自分も書いてみようと思った」ようなタイプと両極端に分かれるみたいなのですけど。
これを読んで、僕も中学生くらいまでは「何を読んだらいいのか全然わからなかった」ことを思い出しました。 いや、正確には、当時の僕は『怪盗ルパンシリーズ』と歴史小説にしか興味がなくて、「こんなに偏った読書をしていていいのか?」「もっと『名作』や『勉強になる本』を読むべきではないのか?」と悩むことが多かったんですよね。 勉強にならないような本には、「読む価値」が無いのでは?と。 マンガに比べて、「活字だけの本」を読んでいるとそれだけで「読書家」「勉強家」というイメージを持たれがちなのですが、当の本人としては、自分の「読書傾向」に満足していたわけではありませんでした。 僕自身は、高校時代、筒井康隆さんの作品に「こんな公序良俗に反する本を面白がって読んでいいのだろうか?」と思いながらもあまりの面白さにハマってしまったことで、ある種の「自分の好みに対する覚悟」ができましたし、「本は読みたいものを読みたいだけ読めばいいのだ」ということを理解できたような気がします。 たぶん、「すべての本を面白いと思う人」と「すべての本をつまらないと思う人」というのは、どちらも同じくらい稀な存在なのです。 もちろん、ストライクゾーンが広い人もいれば、ものすごく狭い人もいるのでしょうけど、最初に「自分にとって面白い本」を見つけることができるかどうか、そして、それをいつ見つけるのかによって、その人の「読書人生」は大きく左右されるのです。 とくに子どもたちには、「勉強になる本を読むこと」や「つまらない本でも最後まで読むこと」を強要するよりも、とにかく「自分で面白いと思える本に出会えるまでいろんな本を少しずつでも読ませてみる」ほうが、「本好き」になってくれそうな気がします。
まあ、実際は「本好きになる素質がある子どもは、勝手に自分で試行錯誤して『面白い本』を見つけ出してしまうもの」なのかもしれませんけどね。
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2008年03月07日(金) ■ |
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「志村けん、CM撮影ボイコット事件」の真相 |
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『変なおじさん【完全版】』(志村けん著・新潮文庫)より。
(「なんでもタレント任せで放送作家といえるのか」という項の一部です)
【バラエティ番組を見ていると、クレジットに放送作家の名前が6人も7人もダーッと出てくるけど、あんな多くの人がいて何をやってるんだろう。企画会議に顔を出して、ただ使わないアイデアを出すだけという作家の名前も入っているんだろうなあ、きっと。 僕の番組は、作家といっても座付きのような男がいて、僕のアイデアに肉付けをして台本にしていくという形だ。『加トケン』のときは作家がいっぱいいたけど、どうもだめだった。僕が説明したことを、ココがおもしろいとちゃんと理解して書いてくれればいいけど、「違うよ、言ってることがわかってるの?」となっちゃうのが多いから。 読むとすぐにわかる。ずいぶん悩んで何回も考えた上で書いたのか、思いついたままサラッと書いただけなのか。言い回しが変だったり、日常会話でこんな言い方しないというのがけっこうある。作家には「1回自分で声を出して読んでみろよ」って言うんだけど。 作家は朝長浩之っていうんだけど、彼とのつきあいも長くなった。
(中略)
田代たちと飲む時も、あいつはずうっと一緒。そのうちしゃべり方まで互いに似てくる。だから朝長の書いたセリフは、スーッとしゃべれる。そのへんが才能だ。だから彼がくも膜下出血で倒れたときは困った。違う奴がいきなり台本を書くとダメなんだ。読みづらいし、言いづらいし。オレはこんな言い方しねえよ! って。 朝長は僕と仕事をしていて大変だと思う。コントの台本をつくるのは難しいから。 僕もトーク番組に出るようになってびっくりしたけど、あの手の番組の台本の多くは「拍手、大歓声、盛り上がったところでトーク」と書いてるだけだ。「よきところで、近況を聞いて」とか、要するにタレント任せ。でも、作家やディレクターの仕事はそうじゃないだろう。前もってマネージャーに取材するなりして、近況としてこんなことあります、こんな話をするとびっくりしますとか、調べたことを書くのが作家じゃないのって。 そういうところを、最近はすごく怠ってる。立派な紙を使ってあんな台本をつくらなくても、進行表の紙一枚で十分だ。 朝長だったら、一緒にさんざん「ここでこんなこと言おうか」「こんなことやろうか」と考えた上で、さらに台本にしてくる時には「こんな言い方もできます」「もしかしたら、こんなこともできます」とプラスアルファのことまで書いてくる。 なんの仕事でもそうだろうけど、相手が考えていることの一歩先まで神経を回すことができて、初めてまともな仕事といえると思うんだけど。 若手作家のがんばりを期待してやまない。】
(「CM撮影ボイコット事件の真相」という項から)
【もうずいぶん昔のことだけど、あるCM撮影の現場で頭にきて帰っちゃったことがある。 きっかけは、撮影中に監督が僕に向かっていきなり、 「おもしろおかしく歌って踊って下さい」 って言ったことだった。「どういうことですか?」って聞いたら、 「おもしろおかしく、志村さんらしい振りで踊って下さい」 だって。 「あ、そうですか、じゃあどういう歌がいいですか?」 「お任せします」 (オイオイ! オレは作詞家でも作曲家でもないぞ!) 「振り付けの人はいるんですか?」 「いや志村さんのご自由に」 (ご自由にって、お前なあ。曲もないのに踊れって、そりゃ失礼だよ!) それで、もう頭にきた。 「お前は演出家だろ! 演出家だったらこういうイメージで、こんな踊りはどうですか、とかあるだろ!なにもないんだったら、よくそれで演出家としてカネもらってるな!!」 そう怒って、僕だけ先に帰っちゃった。 セットとかもうできていて、スタッフはスタンバイしてたのにね。 でも、やっぱり仕事だから、お互いにそれぞれの領分というものがある。 彼には演出家としてのプランがあるべきで、僕はそれにそって演じたり意見を言うのが、普通の仕事の仕方でしょ。それを「おもしろおかしくパーッとやって下さい」だから。 そりゃ僕もプロだから、少しでも題材があればそれもできなくはない。 けど、その題材がなにもないんだから、話にならない。ベテランの監督だったけど、それだけお笑いを軽く見てるんだよね。 そんなこともあったから、「あいつはうるさい」なんて噂で言われるんだろう。 けど、うるさいんじゃなくて、やり方が間違ってるんだって! そうならそうと何日か前に言えば、こっちも準備してちゃんとやるよ。】
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一方の当事者からだけの説明ではあるのですが、もしここで志村さんが書かれていることが事実だったとすれば、そりゃあCM撮影をボイコットして帰りたくもなりますよね。 しかしながら、たぶんこの監督がこういう仕事のやりかたをしたのは、これが初めてというわけではないでしょうし、こういう監督というのは、たぶんこの「ベテラン監督」だけではないと思います。
以前、明石家さんまさんが、「自分の番組の放送作家で、バラエティ番組の台本に『ここでさんま登場。15分間爆笑トーク』とか台本に書いてくるヤツがいる」と嘆いていたのを聞いた記憶があるのですが、「フリートークの天才」さんまさんだから、こういう台本が許される(というか、さんまさんも別に許していたわけじゃなくて、呆れていたみたいですけど)、というわけじゃなくて、芸能界には、こういう「放送作家」や「CM監督」が本当に存在しているみたいです。 まあ、この人たちもこれで「仕事」をもらっていてお金を貰っているのだから、「芸能界では常識の範疇」なのかもしれませんし、「自由にやらせてくれ」と言うような芸人さんも多いのかもしれませんけどね。 ここで志村さんに批判されている「放送作家」や「CM監督」だって、「天下の志村けんに、自分があれこれ意見を言うと失礼にあたるのではないか?」などと悩んだ末に、という可能性もありそうですし。
それでも、やはり「プロ」である以上、相手がどんなに大物であっても、最低限自分なりのプランを準備しておく必要はありそうです。 何年か前、僕は「お客様のお好みの焼き加減でお召し上がりください」ということで、熱い鉄板に生肉が載せられたまま出てくるステーキハウスに入って驚いたことがあります。しかもその店、地元ではそれなりの「高級店」なんですよ。 自分で焼きたければ、焼肉屋に行くってば…… もちろん、プロとしての焼き加減のなかで、ある程度は相手の「好み」を反映するというサービスは望ましいと思いますが、「じゃあ肉と鉄板は準備しますから、好きに焼いてください」なんていうのは、全然「サービス」じゃありません。単なる「手抜き」です。 実際は、放送作家のほうはさておき、この「ベテランCM監督」のほうは、なんで志村さんがこんなに怒ったのか、よくわからなかったのではないでしょうか? ベテラン監督である自分がこんなに譲歩して、志村けんに「やりたいようにやっていいよと言っている」のに、と驚いたのではないかなあ。
この話を読んだ人の大部分が、「こいつらそれでもプロか?」と呆れたと思うのですが、この手の「相手に『任せている』という名目で『手抜き仕事』をしている人」って、けっこう僕の周りにも多いのですよね。いや、他人事じゃなくて、僕自身もそういうことを無意識のうちにやってしまっているような……
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2008年03月04日(火) ■ |
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「モテようとしない男は努力が足らない」 |
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『モテたい理由』(赤坂真理著・講談社現代新書)より。
(「第6章・男たちの受難」から)
【武術家の甲野善紀が古武術をはじめたのは「人の運命は決まっているのかいないのか?」という問題を追究するためだったという。 青年期にこの問題に悩んだ甲野は、いろいろな人に答えを求めに行くが「決まっているが、努力で変えられる」という答えばかりが返ってきておかしいと感じた。「努力できるのも運命のうちであり、だったら運命はやはり決まっていることになる」からだ。たしかに、そうでなければ占いや心理検査の基本性格欄に「努力家」「意志が強い」とか「怠け者の傾向がある」などという記述もあろうはずがない。 努力できる人は、持ち前の努力家気質が発揮できるのであり、それと同様に、持ち前の気の弱さも、持ち前の優柔不断も、もちろんあるのだ。生まれる前に決まっているとしか思えないことが多すぎる。しかし近現代人のあまりに多くのことは、「努力だけは誰にでもできる」ということを前提に話をし、それは「努力できないのは悪」とまで恐怖の三段抜き論法にすぐになる。 かくして、 「モテようとしない男は努力が足らない」 「オタクは努力と女から逃げている」 というそしりが生まれる。 あんまりでしょう。 決して自分が望んだわけではなくあまり異性ウケしない容姿に生まれ、異性との関係性の機微をあれこれ微に入り細を穿って研究する趣味嗜好も持たなかった。 ことの本質は、ただそういうことなのだから。 だから、女の人は僕たちをほっといてくれていいです、僕たちにただそっと好きなことをさせてください、という本田透の要求はしごくまっとうでつつましやかなものである。それなのに、女たちと恋愛資本主義が、「恋愛市場に参入しないのは努力の欠如であり悪である」とバッシングしてくるのだ。 人間誰しも、心に愛を持っている。 誰かに愛を注ぎたい。誰かから愛を受けたい。 その基本的欲求は、どこかでどのようにかして、どうしても、果たされなければならない。 でもそれ妄想じゃん、現実じゃないじゃん、と女たちが言う、と本田は訴える。 しかし女の恋愛も妄想ではないのか? と彼は返す。 女性誌を読みつくした私に、本田を否定することは決して決して、できない。 そして本田も言うとおり、「ファンタジーをファンタジーと知って没入できる態度」のほうが、「現実と虚構の区別がない」より、高度なファンタジー作法だと私は思う。】
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努力で変えられるのなら、「決まっていない」のだろうし、「決まっている」のなら、その人が努力することも含めて決まっているのではないか、と僕もこれを読みながら思いました。 ただ、その一方で、「ヒモになって女性に貢がせ、毎日パチスロばっかりやっている男」をテレビのドキュメンタリーで観ると、「まあ、この男はこういう運命のもとに生まれてきたのだから許してやれよ」とは絶対考えないのも事実なんですよね。 やっぱり、「そんな生活してないで、『努力』しろよ!」と画面に向かって毒づいてしまうわけです。
僕は比較的「努力する人」「勉強ができる人」が周りにたくさんいる環境で生きてきたのですが、「努力する人」って、基本的に「努力することが好き」なんですよね。僕だってテスト前には嫌々ながら「努力」していたわけですが、それでも、「勉強を面白いと思っていて、努力を楽しめる人」にはかなわないなあ、と痛感していたものです。 実際は、僕も「テスト前には勉強できるくらいの努力の才能があった人」だとも言えるわけで、そう考えると、「結局、みんな運命なんだよ」という話になってしまいますよね。 ただし、さっきの「パチスロヒモ男」への憤りからもわかるように、一般的に人間というのは、「自分が何かをできないのは『才能がないから』だと考え、他人が何かをできないのは『努力が足りないから』だと考えがちな生き物ではあるようです。
また、同じくらいの「努力の才能」を持つ人間であっても、「環境の力」というのはけっこう大きいと思われます。同じくらいの「モテる才能」を持った男子でも、山の中の男子校で寮生活をするのと、都会の共学の高校に通っているのとでは、「興味の方向性」や「立ち振る舞いの洗練されかた」は大きく違ってくるはずです。
「モテようとしない男は努力が足らない」 「オタクは努力と女から逃げている」 こういう言説は、今でも本当にしばしば目にも耳にもします。 そして、それを力説するのは、いつも「勝ち組」である「モテる男」か「モテるようになった男」、あるいは「モテる男にちやほやされたい女」なんですよね。 よく考えてみれば、赤坂さんが書かれているように「モテる男は正しい」というのは、星の数ほどある人間の「多様な価値観のひとつ」でしかないわけで、僕のように「モテる才能に乏しい人間」が、どうして同じ土俵に好きこのんで立たなければならないのか、疑問になってきます。
もし、イチローが僕に向かって、「野球をやろうとしない男は努力が足らない」「オタクは努力と野球から逃げている」と説教してきて、「だからお前も野球をやれ、そうしないと生きている意味がない」と決めつけてきたらどうでしょうか。 「お前の得意分野で勝負しようとするなよ!」って、思わない? こんな世の中に生まれてしまった人間にとっては、「恋愛市場に参入しないで生きる」というのは、それはそれで難しいことではあるんですけどね。3僕が結婚できてよかったと思っていることのうちのひとつは、「なんで結婚しないのか?」という煩わしい質問をされなくなったことなんですよね。本来は「結婚した理由」が問われるべきなのではなのでしょうが、ある一定の年齢を過ぎると、「結婚していないこと」に理由が必要になるのです。
ただ、「恋愛」というのは、たしかに「最も多くの人に幸福感を与えられる娯楽」ではあるのかもしれません。 野球のようなスポーツや学問の世界のように、明確な「勝ち負け」がないので、「生涯でたった一人の女性に愛されただけで勝ち!」みたいな、多彩な「勝利条件」もありますし。逆に、「何人もの異性に愛されたのに満たされない」なんていうこともありがちなのですが……
極論すれば、人間って、恋愛という娯楽がなくなったら、戦争でもやるしかなくなっちゃうんじゃないかなあ、などと僕は思うのですよ。 だからといって、「恋愛の才能が無い人」や「恋愛に興味が持てない人」も「恋愛市場」に参入することが強制され、わざわざコンプレックスを植えつけられるというのは、酷い話ではあるんですけどね……
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2008年03月02日(日) ■ |
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水木しげる先生と「心霊写真」 |
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『CONTINUE Vol.38』(太田出版)の「『墓場鬼太郎』大特集」の京極夏彦さんへのインタビュー記事より。インタビュアーは、おーちようこさんです。
【京極夏彦:ちなみに水木(しげる)さんが貸本まんが家としてデビューする1年前に柳田國男が『妖怪談義』という本を出しています。でもこの本に載る妖怪は、僕らが知る妖怪とはちょっと違う。水木先生はそれを絵にし、キャラクターにした。そして鬼太郎の『週刊少年マガジン』連載にあたって、江戸時代の化け物絵なんかと併せて作品に登場させたわけです。それを大伴昌司さんなんかが、怪獣と対比させる形でどんどん世に出した。そしてようやくいまでいう妖怪が誕生した。つまり『墓場鬼太郎』の時点では、妖怪概念は確立されていないんです。だいたい、鬼太郎って妖怪じゃなくて、地球の先住民族である幽霊族なんですよね。彼らは人間に逐われて地下で暮らしていたという設定ですね。それを見間違えたものが幽霊だと、初っぱなに説明される。第1話の段階でオカルト全否定なわけですよ(笑)。さらにいうと、鬼太郎って脳波でコントロールするリモコン下駄とか体内電気とか、髪の毛針とか指鉄砲とか、体内毒素で作った毒饅頭とか、すべて物理攻撃で敵を倒すでしょう。殴る、壊す、爆発させるとか。ご祈祷とかお札を貼るとか、そういうのではない。保護色で姿を消すとか、妖気定着装置で怪気象を定着させるとか、大海獣はゼオクロノドンだし……実は鬼太郎はハードSFの申し子でもあるんです!
インタビュアー:それはすごい分析です!
京極:いや、当時はもちろんハードSFなんて概念はないわけだけど(笑)、貸本時代の『墓場鬼太郎』って、だから「怪奇まんが」なんですyと。いまでこそ別に耳新しくもない言葉ですが、当時は「怪奇小説」という言葉だってできたばっかりだったわけで。江戸川乱歩は探偵小説の父として知られますが、彼はいまでいう海外の幻想小説を紹介した人でもあるわけです。最初は「西洋怪談」なんて呼び方をしていて、まあ『四谷怪談』なんかと区別するために「怪奇小説」というジャンル名を編み出した。水木先生は大変な勉強家でもあるわけで、そうした娯楽のニューモードをどんどん作品に取り入れられたわけです。水木先生はラヴクラフトを引用したり、翻案したりしています。誰もラブクラフトなんて知らないような時代にです。鬼太郎もその影響下にある。水木先生のオソロシイところは、そうした新しいネタを、「懐かしく」料理しちゃうところなんです。柳田國男だってその「懐かしさ」の材料にすぎない。妖怪だってそうです。箱は古びて見えるけど、中身は常に最先端なわけですよ。そういう意味で、この『墓場鬼太郎』は妖怪概念黎明期の傑作まんがと位置づけることもできるし、かつ日本の怪奇まんがの先駆けとしても位置づけられる。アニメをご覧になった方は、是非原作も読んでほしいですね。
インタビュアー:すごい! 世界が一気に広がります。同時に見えないものへの是非も言及しているのかな、と。
京極:僕は、妖怪を全力で推進する立場におりますが、同時にオカルト的なことについては全力で否定したいという立場なんですね。
インタビュアー:存じております。
京極:そんなヤツがなぜ妖怪を推進しとるのかと。でも、それはまったく矛盾していないわけです。水木先生は、ともすればオカルトの人のように思われがちですし、目に見えないものの存在について熱く語られることも多いんですが、実は水木先生に心霊写真なんかをお見せすると「目に見えないものが写真なんかに写るか!」とおっしゃる(笑)。まさにその通りです。目に見えないものを信じる、感じるということと、オカルトとは全然違う。水木先生いわく、もし、目に見えないものを見ようとするならバカみたいに無理矢理見るしかないと(笑)。で、見えないから絵に描くんだと。絵に描いて見えるようにしてるんじゃないかと。それが水木先生のまんがなんです。だから、実はあれこそが唯一無二の本物(笑)。それ故に、われらは推し進められるんです。】
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そうか、『鬼太郎』は、「ハードSF」だったのか! そう言われてみると、鬼太郎の武器って、僕が知る限りでは、たしかに「物理攻撃」なんですよね。「魔法」は出てきません。 まあ、「大リーグボール」と同じで、実際にそれが可能かどうかはさておき、「それらしい理屈がつけられている」だけ、とも言えるのですけど。
僕も『鬼太郎』=オカルト、というイメージをずっと持っていたのですが、この京極さんの話を読んでみると、『鬼太郎』がこんなに長い間人気を保っている理由というのは、「懐かしい話」のように見せかけて、本当はどんどん新しい概念を取り入れているからなのかもしれません。ラヴクラウト テレビなどでお見かけする水木しげる先生は、まさに「浮世離れした、飄々とした人」というイメージなのですが、陰では海外の作品なども研究されていたようです。
【水木先生に心霊写真なんかをお見せすると「目に見えないものが写真なんかに写るか!」とおっしゃる】という話は非常に興味深かったです。「目に見えないものを信じる、感じるということと、オカルトとは全然違う」という発言は、まさに水木先生の面目躍如。 心霊写真・怪奇現象だけでなく、「スピリチュアル」なんていうのも、ある意味、「本来は目に見えないはずのものを見えるような形にしてみせている」ものなのですが、それって、「目に見える」時点で嘘になってしまうような気がします。 「見えないから絵に描くんだ」というのは、「それってどうやって描いているんだ?」と疑問ではあるのですが、水木先生にとっては、「見えないけど、存在しているし、形もある」ということなのかなあ。 それにしても、水木先生のお姿を見ていると、本物の「妖怪」って、むしろ人間のほうじゃないかな、と思えてくるんですよね。
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