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2007年08月31日(金)
友人にカネを借りるときの「最高の理由」

『異人伝〜中島らものやり口』(中島らも著・講談社文庫)より。

(巻末に収録されている、中島らもさんと伊集院静さんの「特別対談『アル中 vs ギャンブラー』」の一部です)

【中島らも:(はずれ車券の束を見て)これで幾ら?

伊集院静:これで何百万ぐらいあるのかな。

中島:へぇー。

伊集院:これだけはずれると気持ちいいもんですよ(笑)。「小説現代」ぐらいになると3日間徹夜してね、原稿料が8万円くるんです。そうするとね、これぐらい(はずれ車券が5、6枚)。これぐらいのために文学とはと言われたらたまらんでしょ。でも、このぐらいで終わるんですよ。気持ちいいもんでしょ。
 好きなのはね、中村鴈治郎の孫に浩太郎、智太郎というのがいるんだけど、おじいちゃんがいつも大晦日になるとダンボールからはずれ馬券を出して一人で焚き火してるんだって(笑)。よくあれだけ買ったもんだっていうぐらい、ブツブツ言いながら焚き火しているんだって。その煙を見てるとね、正月がくるんだなっていうね。私はそういう鴈治郎って好きだね。これ(はずれ車券の山)を記念にどうぞ(笑)。
 バクチのためにカネを借りに行くのは大変だよ。

中島:カネ借りに行くときっていうのは、バクチですって言うわけですか。

伊集院:一番いいのはね、女との手切れ金だとかね。

中島:あんまり変わりないじゃないですか(笑)。

伊集院:いやいや。

中島:「大作を書こうと思うので、ヨーロッパへ一年間取材に行きたいのでどうしてもカネが……」というんじゃなくて、女との手切れ金。

伊集院:わかりやすいのがいいんだよ。例えば自分が家を建てるとかいったら、貸すほうだっていやでしょ。いやらしいやつだなってね。ところが女の手切れ金というと、ははあ、やっぱり、そうだろうっていう、貸すほうにも快感を与える理由がいいのよ(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、「女との手切れ金」っていう理由では、銀行は貸してくれないでしょうけど、伊集院さんのこの話、なんだかちょっと面白いですよね。

 金額の多寡にもよるとは思うのですが、友人とお金の貸し借りをせざるをえなくなったとき、確かに、あんまりちゃんとした理由だと、かえって感じ悪かったりしますよね。
 「参考書買うから、お金貸して」って言われたら、「俺から借りた金で買った参考書で成績アップかよ……」と、なんとなく「利用された」ような気分になったりもするのです。
 それに比べて、「どうしても腹減っちゃってさぁ〜」とか、「お願い、もう1ゲームだけやりたいんだよ!」っていうような、自分にちょっとした優越感を抱かせてくれるような「しょうもない理由の借金」っていうのは、自分の懐に多少余裕があれば、「ま、返ってこなくてもいいか」という感じで、気軽に貸せてしまいがち。どうみても、こういうときのほうが返ってくる確率は少なそうなんですけどねえ。

 少額のやりとりは、「交際費のうち」だと割り切ることもできるのでしょうが、「ちょっとまとまったお金を友達に借りるときの理由」としては、確かにこの「女との手切れ金」というのは最強かもしれないなあ、という気がするのです。
 「家を買う」「旅行に出かける」などという理由では、相手も「自分の金でやれよ」という気分になるでしょうし、「身内の病気で治療費が……」などという理由では、嘘がバレたときに人間性が疑われます。
 しかしながら、友人に「女との手切れ金」と言われると「ほんと、お前もしょうがないヤツだなあ!」って、呆れながらも貸してしまう男は、けっこういそうな気がするんですよね。あとで「その後、あの女とはどうなった?」なんて追及する人もあまりいないでしょうし(内心興味津々でもね)。
 人間って本当に不思議なもので、「絶対に返ってきそうもない理由」のときでも、いやむしろそういうときのほうが、けっこう気前良く大金を貸してしまったりすることがあるのです。「合理性」よりも、「優越感をくすぐられる」ほうが、人をやさしくするものなのかもしれません。



2007年08月30日(木)
プラハのソヴィエト学校での「国語」の授業

『米原万里の「愛の法則」』(米原万里著・集英社新書)より。

(作家・エッセイストであり、ロシア語通訳としても知られる故・米原万里さんの講演録集の一部です。米原さんのプラハのソヴィエト学校での体験から)

【日本の国語の教科書は名作をリライトしたり、あるいはダイジェストにしたりして載せますが、私が通っていたソヴィエト学校では、国語の授業と宿題で実作品を大量に読ませるのです。かなり19世紀の古典偏重でしたけれども。それから学校の図書館に本を返すときに、司書の先生が生徒に読んだ本の要約を、毎回毎回言わせるのです。感想は聞かれません。つまり、その本を読んだことがない人に、どんな内容かわかるように伝えるということを、毎回やらされるのです。国語の時間もそうです。
 小学校3年までいたから覚えていますが、日本では「はい、なになに君。そこ読んでください」。大体一段落読むと、「はい。よくできましたね。じゃ、なになにさん。次の段落を読んでください」。「はい、よくできました」というふうに進めます。
 けれども、ソヴィエト学校の国語の時間は、一段落を声を出して読みますね。そして読み終わったら「はい、今読んだ内容を自分の言葉で要約しなさい」と言われるのです。声に出してきれいに読む、純粋に音だけ、文字を追って読むことは、ある意味では内容を把握していなくてもできるんです。ところが、読み終わった後にすぐに内容をかいつまんで言わなくてはならないとなると、ものすごく攻撃的で立体的な読書になっていくわけです。これを徹底的にやらされました。国語の時間は段落ごとの要約ですけれども、図書館に本を返すときには、本一冊分の梗概、要旨を、毎回客観的に、読んでいない人にもわかるように話す訓練をさせられました。こうなると、読み終わったら、あのかなり怖いおばさんにこの内容を話さなくてはいけないなぁ、と思いながら読むわけですから、入ってくるものが羅列的にではなくて、立体的になるのですね。
 作文の授業では、まずテーマが決まります。仮に「自分の母親について」とテーマが決まると、そのテーマに関連するような、つまり、人物描写のある文学作品の抜粋をまず読まされるのです。たとえば、トルストイの『戦争と平和』に出てくる女主人公のナスターシャ・ロストーヴァ、この人を描いた場面。それからツルゲーネフの『初恋』のアーシャという女主人公、この人についての描き方。こういう抜粋を全部先生が読ませます。そのうえで、それの梗概を書かされるのです。要旨ですね。次に、要旨をさらに詰めて構造を書かされるのです。構造というのは、まず第三者によるその人物に関する噂。次に実際に直接会ったときの第一印象。次に顔とか目とか口などの、ある意味では立ち振る舞いなどの描写。それから癖とか声の調子とか、あるいはいくつかの状況や事件に対するその人の反応の仕方。そして、以上から推察されるその人の性格、ほかの人々との関係について。それから語り手である主人公との関係、交流。ある事件が起きて、その主人公が成長していく姿とか。そういうふうに物語の骨格を把握させて、書かせるんです。そのうえで、母親についての作文だったら、それをどういう梗概・構造で書いていくかをまず考えさせてから、作文を書かせるのです。

 文を読んだり聴いたりして感受していくプロセスは、このように分析的なのですね。理解するというプロセスは分析的です。ところが、話したり書いたりして表現するときは、バラバラになっているさまざまな要素を統合していかなくてはなりません。バラバラのままでは、表現できません。つまり、まったく逆なのです。通訳には、分析的に物を聞き取って正確に把握する能力と、それをもう一度統合してまとめて表現する能力、この両方が必要なんです。ですから、このような国語教育は後に同時通訳になるにあたって、大変役に立ちました。】


※こちらの参考リンクも、ぜひ併せてお読みください。
参考リンク:「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘(活字中毒R。2006年4月22日)


〜〜〜〜〜〜〜

 米原さんは、小学校3年生のときに、お父さんの仕事の関係で、一家そろってチェコスロヴァキアのプラハに移住されています。米原さんの御両親は、プラハで「ここにいる3年から5年の間チェコ語を勉強しても、日本に帰ってからもチェコ語を学び続けるのは難しいだろう」と考えました。
 そこで、日本人にとっては比較的メジャーであって日本に帰っても勉強を続けられ、社会的なニーズも高いであろうロシア語のソヴィエト学校」に米原さんを入学させたのです。
 実際は、全く言葉の通じない「学校」という逃げ場のない世界での米原さんの生活というのは、慣れるまで本当に大変だったそうなのですが、ここでの体験は、後の「作家・通訳としての米原万里」にとって、ものすごく貴重なものだったということです。

 ここで米原さんが紹介されている「ロシア語のソヴィエト学校での国語教育」というのは、日本で「国語教育」を受けてきた僕にとっては、かなり違和感があるものです。
 僕が受けてきた、20年前くらいの日本の「国語」の授業では、「音読」と「感想」に割かれている比重が大きかったのですが、プラハのロシア語のソヴィエト学校の「国語」では、「内容を要約すること」と「文章の構造を理解すること」を重視しています。
 そんなに本が豊富な時代でなかったからこそできたのかもしれませんが、もし現代日本の小中学校の図書館に「借りた本を返すときには、絶対にその要約を司書の先生に説明しなければならない」なんてルールができたら、おそらく、本を借りる子供の数は激減するのではないでしょうか。
 まあ、こういうのはどちらが「正しい」と言えるようなものではなくて、日本の「情操教育に偏りがちな国語教育」というのも、感性豊かな子供を育てるためには有意義なのかもしれないんですけどね。音読しながらずっと「この部分の要旨は……」なんて考えていなければならない「国語」って、なんだかすごく殺伐としていそうですし。

 ただ、参考リンクで清水義範さんが

【清水:だから、「心が書けるようになろうね」という側へ引っ張っていってもいい子もいるよ。でも、全員そっちへ持っていこうと思ったら大間違いだということに気づいたんですよ。】

と仰っておられるように、「感想」を書く力にばかりとらわれがちな日本の「国語教育」というのは、必ずしも「世界標準」ではないということは知っておいて損はないような気がします。「感想力」イコール「国語力」とは限らないのです。
国語の成績があまり良くなくても、すばらしいプレゼンの資料やビジネス文書を作る人はたくさんいますし、優秀な国語の成績を引っさげてマスコミに就職したにもかかわらず、意味不明な文章を書き散らしている人も少なくないように思われますし。

 しかし、こういう話を読むと、トルストイやドストエフスキーのような「重厚な大長編小説を書き上げる文豪」がロシアに多いのには、それなりの「理由」がありそうですよね。実際に彼らがこんな「国語の授業」を受けていたのかどうかは、僕にはわからないのですけど。



2007年08月28日(火)
「僕が人の話を聞く時に、絶対にやらないようにしていることが一つあります」

『経験を盗め〜文化を楽しむ編』(糸井重里著・中公文庫)より。

(「おしゃべり革命を起こそう」というテーマの糸井重里さんと御厨貴さん(オーラル・ヒストリー(口述記録)の研究者・東京大学教授)、阿川佐和子さんの鼎談の一部です)

【御厨貴:僕が10年来経験を重ねてみてわかったのは、聞く時には「自然体」が一番いいということです。こっちが「聞くぞ」と意気込んでると、向こうもなんとなく「答えないぞ!」みたいに構えますから。

阿川佐和子:力を抜く?

御厨:最初から自分は何でも知っているという姿勢で臨むのではなく、知らない、よくわからない、だから聞きたいというスタンスですね。

阿川:ニコニコなさる?

御厨:いえいえ、それはあまりやると向こうが嫌がるからしない。現場に行って、先に来ちゃったから、部屋でボケッと座っているような感じです。

糸井重里:あっ、その「ボケッと座ってる」という言い方、すでに好感持っちゃうな。

阿川:以前、城山三郎さんにインタビューした時、城山さん、まさに先に座って、ボケッとしていらしたの。「申し訳ございません。お待たせして」と言うと、「いやいや、前の仕事が早く終わってね」とニコニコ。その後ですよ、聞き手なのに、私が2時間しゃべりまくってしまったのは。最初のたたずまいから始まって、何聞いても「おたくは?」なんて具合だから、「聞いてください!」とばかりに私がガーッとしゃべる。終始、「どうして?」「それから?」「いいねぇ、おかしいねぇ」くらいしかおっしゃらないんだけど、これこそが究極の聞き上手だと思いました。

糸井:「ボケッと座っている」ことの中には、多くのことが入っているんですね。

阿川:つまり、「あなたを受け入れるよ」という態勢ですよね。

御厨:自然体という表現でいいのか、あまり「図らなく」なってから、僕は前ほど疲れなくなりました。

阿川:自然体も大事なんだけど相槌も大事じゃないですか。知り合いの男性編集者は、「あー、そうスかぁ」というのが癖らしくて、「ごめん。原稿が遅れそう」と言うと、「あー、そうスかぁ」。申し訳ないから「この間、ケガしちゃって」と説明しても、「あー、そうスかぁ」……何だか寂しくなってきちゃって、「それは癖?」と私が聞いたら、「何がですか?」と言うんで、「『あー、そうスかぁ』っていつも言うじゃない」「あー、そうスかぁ」と答えるの(笑)。逆に相槌のうまい人は、相手を話しやすくさせますね。

御厨:相槌でも、「なるほどね」というのは賛否両論あります。相手が精いっぱい話している時に「なるほど」と相槌が入ると、「あ、そうですか。じゃあ次は?」と急かされているような気になる。非常に苦労した話をしている相手に、「なるほど」と簡単に言ってしまうと、「おまえにわかんねえだろうが」と思われたりね。

(中略)

阿川:自分がしゃべる側に立った時、「この人は誠意を持って、本当に私の話を面白がって聞いてくれる人なのか」というのは、ちょっとしゃべればわかりますね。自分に対して、愛情を持ってくれていることを感じるというか。

御厨:その思いやりにも通じますが、僕が話を聞く時に、絶対にやらないようにしていることが一つあります。それは相手の話をまとめないこと。相手は一所懸命にしゃべろうとしているけど、言いたい内容にふさわしい言葉がなかなか出てこなくて、ああでもないこうでもないと話が行きつ戻りつしている。それを、利口な人はまとめようとするんですね。
「要するに、あなたの言いたいことはこれでしょう」と。

糸井:ヤですねえ。

御厨:これをやられると、話し手はがっかりする。「まあ、君がそう言ってるんだから、そうだろ」と納得のいかないまま、話を終わらせることもある。とにかく僕は、相手が言い終わるまでずーっと聞くようにしています。

糸井:相手のペースに自分を委ねる――それができれば、誰でもが聞き上手になれると僕も思いますね。

阿川:私の基本は、できる限りその人に関心を示して、「聞きたい」という誠意を尽くすこと。それから、話してくださったことが面白ければ、自分が次に何を質問しようかと考えるより先に、まず「面白い!」と反応する。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「話し上手」になれそうもない僕としては、「それならばせめて聞き上手に」なんて考えることがよくあるのですが、実際は人の話を聞いているうちにすぐイライラしてきてしまうんですよね。「聞き上手」になるには、ただ座って、人の話を聞いていればいいってものじゃないのです。

 この鼎談では、「『他人の話を聞くことを生業のひとつにしている3人」が、「本当の聞き上手」について語っておられるのですが、「聞き上手」を目指す僕にとっては、非常に役立つ内容が盛りだくさんです。

 人の話を聞くときって、やっぱり「真剣に聞かなくては!」って相手をじっと見つめてみたり、自分が事前に勉強してきたことを相手にほのめかしてみたりしたくなりますよね。少なくとも、世間でよく言われている「コミュニケーション教本」には、そうするべきだと書いてあります。
 しかしながら、実際に相手を真剣に見つめていられる時間なんて、よっぽど興味がある異性でもないかぎり、どんなに相手が凄い人であっても10分や15分くらいのものでしょうし、見つめられるほうも、あまりに張り詰めた空気に満ちている状況では、ちょっとしゃべりにくいですよね。最初にあまりに緊張していると、疲れて気が抜けてしまったときとの落差が目立ってしまい、「もう飽きてるな」というのが一目瞭然になってしまいますし。

 まあ、ここで紹介されている「部屋でボケッと座っているような感じ」なんていうのは、誰にでもできそうにみえて、実際はよほどの「達人」でないかぎり難しいのではないかと思います。人の話を聞くのって、けっこう疲れますし、大部分の人は、ボケッと座って聞いているつもりでも、時間が経ってくると、自分も何か言いたくなってくるか、話を切り上げたくなってくるものなのです。
 さきほどは、【「聞き上手」になるには、ただ座って、人の話を聞いていればいいってものじゃないのです。】って書きましたが、本当にそれができれば、まさに「達人の域」なのだよなあ。

 ここに書いてあることは、簡単そうに聞こえるけれど本当はなかなかできないことばかりで、実行するのはなかなか難しいと思われるのですが、その中で、御厨さんが仰っている【僕が話を聞く時に、絶対にやらないようにしていることが一つあります。それは相手の話をまとめないこと。】というのは、覚えておいて損はなさそうです。

 いや、僕も外来で患者さんの話を聞いているときに、忙しいとついつい「ああ、それはこういうことですね」ってまとめてしまいがちなので、これを読んで反省しました。
 僕が話す側だった場合も、自分が一所懸命何かを言おうとしていて、でもそれがうまくまとまらなくて、という状況で、相手に「要するに、あなたの言いたいことはこれでしょう」というのをやられると、すごく興醒めしてしまうのです。
 その理由のひとつは、「自分が紡ごうとしていた言葉を奪われてしまう寂しさ」。そしてもうひとつは、「僕の話はまとまりが悪くて聞きづらい」と相手に思われてしまったんだな、という自己嫌悪。
 そんなふうに「まとめたがる人」って、自分で頭が良いと思っていそうな感じなので、「いや、僕が言いたかったのはそんなことじゃないんです!」って反論しづらいじゃないですか、相手にも明確な悪意がないだけになおさら。

 本当は、「なかなかまとまらないなかで、なんとか結論に近づいていくこと」というのは、その「まとまらなさ」も大事な結論の一部なわけです。
 「他人の話をまとめたがる人」って、自分では「俺って頭いいなあ。みんな感心してるだろうなあ」なんて思い込んでいそうなのですが、実際は、「あの人と話していると、なんとなく気分が悪くなるんだよね……」と敬遠されていることも少なくなさそう。

 僕は昔、先輩にこんな話を聞いたことがあります。
「話が長い患者さんに対しては、途中でまとめたり、話を切り上げようとするよりも、かえってこちらから身を乗り出していって、相手の話が途切れるまで好きに喋らせてあげたほうが、結果的には早く話が終わるよ」

 やってみたら本当にその通りなんですよね、確かに。
 それでも、たくさんの患者さんを次々に診ていかなければならない現場では、やっぱりイライラしてガマンしきれなくなってしまいます。

 「聞き上手」への道は遠い……



2007年08月26日(日)
中国のデパートから、プラモデルが消えたわけ

『日本プラモデル興亡史』(井田博著・文春文庫)より。

(小倉の「井筒屋模型部」の店主として、また、雑誌『モデルアート』の創刊者としてプラモデルの歴史を見続けてきた著者が、昭和30年代の終わり、プラモデルがようやく認知され、大ヒット商品も出てきた頃のことを振り返って)

【ところがプラモデルが売れ始めると問題点も出てきました。そのひとつは「箱絵や見本のようにできない」というものでした。私の店ではこれぞと思うキットは必ず完成品を作ってショーケースに展示していました。これがあるとないとでは、売れ行きが全然違います。デパートですから親子連れのお客さんがやって来て、子供にせがまれるまま、ショーウインドーを指さしながら「これちょうだい」と買っていくのです。
 私も随分と作りましたが、古くからの店員。岩河敏さんは作るのが早く、また滅法うまかったものですから、新製品ができるや否や、ショーウインドーに完成品が並ぶ、といった具合で、それが私の店の名物でもありました。休みともなると九州各地からお客さんが「どれ、井筒屋に新しいのが入っているかな」とウインドーを覗きにきていたようです。岩河さんには後に『モデルアート』に載せる完成品も作ってもらうようになりました。
 ただ、中には「箱絵に書いてあるようにできない」とか「おたくのウインドーに飾ってあるようにできると思ったから買ったのに」と商品を返しにくる親御さんもいました。そんな時には、プラモデルは説明書を見ながら自分で組み立てるのも楽しみのうちなのですとか、色を自分で塗るのが楽しいのですよとか、説明するのですが、その応対には苦労させられました。今はプラモデルを子供に買い与える親の方も、プラモデルがどんなものか知っていますから、そんな無茶なことは言いませんが、プラモデルが出始めた頃はそんな様子だったのです。
 そんなことを懐かしく思いだしていたら、先日上海のプラモデル屋に行ったという人から、中国でも最近までデパートでプラモデルを置いていたが、箱絵の通りできない、と苦情を言う客が多く、デパートはプラモデルの扱いをやめたところがほとんどだ、と聞かされました。
 中国は1980年代からプラモデルが入り始め、今では国産メーカーもできているのですが、かつての日本のようなことが起きているのだな、と妙に感心した次第です。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も子供のころ、デパートの玩具売り場のショーウインドーに並べられた、プラモデルの「完成品」を見て、「これを自分の手で作ろう!」と思ったことが何度もありました。
 でも、不器用な僕が、プラモデルをイメージ通りに「完成」させられたことって、ほとんどなかったんですよね。
 単に「パーツを枠から外し、接着剤をつけて、組み合わせるだけ」のはずなのに、僕が作ったプラモデルは接着剤がはみ出してしまっていたり、パーツどうしが少しズレて接着されていたりと「失敗作」ばかりだったのです。
 「綺麗に色を塗る」なんて、もう、夢のまた夢。
 それでも、「今度こそは丁寧に、箱絵のように作ってやる!」と決心しては、また、粗悪品を作り出す、ということを繰り返していたものです。
 今から考えてみると、プラモデル作りほど、子供のころの僕に「自分の不器用さ」を思い知らせてくれたものはなかったのかもしれません。
 僕のような経験をした人間が子供にプラモデルを買い与える時代ですから、「箱絵に書いてあるようにできない」なんてクレームをつけてくる親というのは、さすがにもうあまりいないのでしょう。
 自分の子供が作ったプラモデルを見て、その出来の悪さに責任を感じてしまうことはありえそうなのですけど。

 ここで紹介されている「中国のプラモデル事情」に関しては、これだけを読むと「うーん、中国らしいエピソードだ……」というようなことをつい考えてしまうのですが、実際は、1960年代の日本でも、「同じようなこと」が起こっていたようです。僕はこれを読んで、もしかしたら、今の中国というのは、一昔前の日本と似たところが多いのかもしれないな、と感じました。 もちろん、社会体制の違いは大きいのですが、少なくともプラモデルに対する一昔前の日本人の姿勢は、そんなにスマートなものではなかったのですから、中国という国も、これからまだまだ変わっていく過程にあるということなのでしょう。「日本のような国になること」が幸福なのかどうかはさておき。
 まあ、同じようなクレームでも「デパートで扱うのをやめるほど」という「程度の差」には、やはり、国民性の違いもありそうな気もしますが。



2007年08月24日(金)
『セカンドライフ』が面白くない理由

『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』(ひろゆき(西村博之)著・扶桑社新書)より。

【2007年に入り、多くのマスメディアを沸かせているインターネット上の3D仮想現実空間『セカンドライフ』。つまらないだろうと思い、最初は触ってもみなかったのですが、それで否定するのも問題があります。そこで、実際に動かしてみたところ、やはり、つまらないという結果に落ち着きました。
 その理由の根幹にあるのが、基本的にお金がないと面白くないというシステムです。物を売買し、自分を着飾ったり、家を作り上げたりするゲームなので、何するにせよお金を払えとしか言われない。お金を支払わないでできることはチャットくらいという、商行為がゲームのすべてなのです。ゲーム内で楽しむためにお金を支払えと言われて、支払う人がどのくらいいるのでしょうか? お金を支払ってまでセカンドライフの中で楽しまなくても、現実に楽しいことは、たくさんあります。
 セカンドライフ内に知り合いが大量にいて、チャットをすれば面白いかもしれない、とも考えましたが、セカンドライフでは一つの空間(ISIM)にユーザーが約50人しか入れないという制限がある。これだけマスメディアがセカンドライフを報じているにもかかわらず、なぜか、この事実にあまり触れません。
 以前、セカンドライフ内で、U2がライブを行ったのですが、やはり50人ずつの入れ替え制。新車の広告を出したとしても、頑張っても約50人しか見られない状態なのです。
 セカンドライフに広告価値があると、多くの企業が参入をもくろんでいるようですが、1回あたり約50人しか見られないようなものに、企業がいくらの広告費をかけるのでしょうか? 計算すれば広告費が出るはずもない現実があるのです。
 日本人ユーザーを考えてみても、企業が広告費を出せるはずがないことは見えています。セカンドライフの登録ユーザー数は、2007年4月中旬の時点で、全世界で650万人ほどですが、日本人の登録者数が約1万人。そのうち、セカンドライフを使っている日本人ユーザーは、ほとんど全員入っているであろうSNSの登録者数が2000〜3000人ぐらいであることから、多くても3000人程度だということが見えてくる。これは、小規模なチャットスペースとそんなにユーザー数も変わらない。
 企業がマーケティングと言いながら、セカンドライフ内で3Dのモーフィングされた製品などを見せていますが、そのことでユーザーが心惹かれ、本当に商品を買う気持ちになるかも微妙です。車がCGで見られ、パソコンの中で運転できたとしても、買う人は少ないでしょう。今、セカンドライフに企業が広告を出しているのは、それだけでプレスリリースが打て、マスメディアに取り上げてもらえる可能性もあるというレベルの話です。
 このほかに企業がセカンドライフに進出しようとする背景には、製品を3DのCGで見せることができ、誰にでも理解しやすい、ということもあるようです。確かにミクシィでコミュニティを作りマーケティングを行うよりも、”自動販売機に車が!”という驚きとともに製品を見せることのほうが、インターネットを理解していないお年寄りの偉い人などへの説明は、簡単なのかもしれません。
 そういったことを狙ってか、コンサルタント会社には、大企業からのセカンドライフに関する引き合いが多いという話も耳にします。しかし、セカンドライフ内で広告を出すためには、建物などを作るためのモデリングツールのデザイナーが必要。そのデザイナーが日本には少なく、コンサルタント会社は仕事が受けられないというジレンマもあるのだとか。『デジタルハリウッド』がデザイナーの養成講座を行っていますが、まだ完全日本語化される前で会員数も少ないにもかかわらず、大々的にこのような講座が行われている。セカンドライフバブルなのです。】

参考リンク:業界人が告白〜Second Life「企業が続々参入」の舞台裏〜 ITmedia News

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 参考リンクのほうも、ぜひ御参照ください。

 最近話題の『セカンドライフ』、僕も少しだけやってみたことがあるのですが、正直「何が面白いのか、よくわからない」という感じでした。そのときには、「まあ、オンラインゲームとかも苦手だったしな」とか、「もう少し賑わってきたら楽しくなるのかもな」とも思ったんですけどね。「一つの空間に50人しか同時にいられない」というのはかなり興ざめな仕様なのですが、それは今後の技術的な進歩があれば、克服できない問題点ではないでしょうし。

 しかしながら、このひろゆき氏の言葉を読んでみると、『セカンドライフ』の(少なくとも日本での)将来性には、大きな疑問を感じてしまうのも事実です。要するに、今の『セカンドライフ』というのは、「モノを売りたい人だけが大勢集まっているフリーマーケット」みたいなものなんですよね。いくら店が立ち並んでいても、「お客」がいなければマーケットは成り立たないはずなのに。
 「セカンドライフで一攫千金!」なんていうのが話題になっているようなのですが、結局のところ、それは稀有な成功例が大きく取り上げられているだけで、「実体の無いものにお金を使わされるだけの存在」であるにもかかわらず、『セカンドライフ』の一般消費者であることに耐えられるユーザーというのは、そんなに多くはないはずです。
 現実でもそんなに生活に余裕があるわけでもないのに、というのが多くのユーザーの本音なのではないでしょうか。

 参考リンクによると、【総登録アバター数は、8月21日時点で約900万に上るが、米Linden Labの発表(Excelファイル)によるとアクティブアバターは49万(7月時点、当時の登録ユーザーは773万、アクティブ率約6%)で、うち日本人は2万7000に過ぎない。】のだとか。
 最近メディアで大きく取り上げられていることもあり、ひろゆき氏が書かれている4月中旬の時点よりも、かなりユーザーが増えてきてはいるようですが、まだまだ「現時点での広告としての効果」はたかがしれたもの、と言わざるをえないでしょう。

 しかしながら、
【「経済紙でも話題の新しい手法」というだけでコンセンサスを得やすく、広告予算を通しやすい。新しいことにチャレンジすれば先進的な企業というイメージもアピールできるし、メディアに報道されればパブリシティ効果も期待できる。】
【Second Lifeに1つのSIMを作成する際の予算は1000万円前後といい、「Flashばりばりの本格的なプロモーションサイト10ページ分程度」。どうせ効果が分からないなら、プロモーションサイトという旧来の手段より、新しいことにチャレンジしたいというのが宣伝担当者の人情だ。】

というような話を読んでみると(いずれも「参考リンク」の記述より)、大企業にとっては、『セカンドライフ』に1つSIMを作るくらいのお金は、「ダメモトの実験的な広告費」くらいの額でしかないようです。「こんなにも大企業が参入!」って言うけれど、それは裏を返せば、「現時点では余裕がある大企業の『道楽』レベルの評価でしかない」とも考えられるのです。

 以前こちらで紹介したのですが、【『CanCam』にカラー1ページの広告を出すと、広告料は240万円。見開きだと500万円近く。『モノ・マガジン』(月刊誌)がカラー1ページ140万円で、『週刊ファミ通』は、カラー1ページが110万円】だそうですから、一度作ってしまえばランニングコストはそんなにかからないであろう『セカンドライフ』への1000万円の「投資」は、けっして「割高」ではないのです。その場で商品が売れなかったとしても、「○○は『セカンドライフ』にすでに進出!」なんてメディアで何度か取り上げられれば、十分に元は取れるでしょうし、「将来の新しい広告への先行投資」としても、無駄にはならないはずです。

 まあ、正直なところ、盛り上がっているのは広告代理店と企業とメディアだけで、ユーザーは置き去りにされているというのが、いまの『セカンドライフ』の現状のような気はするんですけどね。

 そもそも、お金がないと楽しめない、「あまりに現実に近すぎる『第2の人生』」に、本当に存在意義があるのでしょうか?



2007年08月22日(水)
「人がひと息で読めるのは200字」という時代

『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著・講談社現代新書)より。

【2006年も後半のことだったと思う。
「生き方論」などで定評のある雑誌から、原稿の依頼があった。「ストレス解消の秘訣」といったテーマで1200字という短い分量だったので引き受けることにし、締め切り日に原稿をメールした。構成は、「ストレスとは何か」という定義に続けて「ストレスが生まれる理由」を簡単に説明し、それに続けて「解消のために気をつけること」を3つほど書く、というごく常識的なもののつもりだった。
 ところが、すぐに編集者から「書き直し」を依頼する返信が来た。
「いただいた原稿に問題がある、というわけではありませんが、こういった構成だと全体を最初から順に読まなければならず、途中で読者が飽きてしまう可能性があります。前半の定義や解説はすべて省き、解消法の部分だけを箇条書きにして、ちょっとした説明とともに書いてください。なお、解消法は3つではなくて、6つくらいお願いします」
 私は、自分が原稿の分量を間違ったのではないか、とあわてて依頼書を見直した。「解消法を6つと解説」ということは、1200字ではなくてその10倍だったのではないか、と思ったのだ。
 ところが依頼書には、明らかに1200字と書かれている。ということは、ひとつの項目の解説は200字程度。200字といえば、当然のことながら400字の原稿用紙の半分であり、短い文を2つか3つ、書いただけで終わってしまう。
「それでいいのだろうか」と思いながら、もう雑誌の発売日も近づいていたので、私は言われるがままに、その原稿を「さあ、ストレスを解消する6つの方法について、教えましょう。まずその一……」と説明はほとんどなしに具体的な解消法から始めた。しかも、「その一 すんだことはクヨクヨ考えない」という項目だけでも一行消費されてしまうので、説明部分には、「クヨクヨ考え込むのは、実は人間にとっての最大のストレスです。イヤなことがあっても、温かいお風呂に入って布団にもぐりこみ、楽しかった思い出などを振り返って眠るようにしましょう」程度のことしか書けない。なぜ、クヨクヨ考えるのがストレスになるのか、なぜ風呂に入るのがその解消に役立つのか、については、いっさい触れられない。
「これでいいのだろうか。これじゃ原稿というより標語みたいではないか。さすがに読者は”こんなの信用できない”と思うのではないか」と思いながら、書き直した原稿をメール送信した。すると、今度は編集者からすぐに「こちらの意図を汲み取り、この特集にぴったりの原稿を書いていただき、ありがとうございました」というメールが送られてきたのだ。「一項目200字で本当にいいのだろうか」と思いながらも、編集者が言った「それ以上長い、起承転結があるような原稿は読者に読まれない」という言葉が気になった。
 そのあと、女性雑誌の編集に長くかかわっている知人にこの話をしたら、「そんなの、あたりまえじゃないの」と一笑に付された。
「私も15年間、この仕事をしているけれど、昔はライターさんにひとつのテーマについてだいたい800字を目安に原稿を依頼していたんだけどね。その頃は、人がひと息で読めるのは800字、と言われていたから。
 それが今は、”ひと息は200字”が常識になっているの。それ以上長くなると、読者から『読みにくい』『何を言っているのか、わからない』とクレームが来てたいへん。
 でもたしかに200字だとほとんど何も書けないから、『この春はベージュのリップグロスが大ブレイク! ハリウッドセレブの誰々もヨーロッパ王族の誰々も、みんなこの色に夢中!』みたいに情報を並べるだけで、おしまいになっちゃう」
 私は、さらに笑われるのを覚悟できいてみた。
「でも、そもそもなぜベージュが流行るのか、みたいな説明もしないで、ただ”ベージュが人気”と書くだけじゃ、かえって信用してもらえないんじゃないの?」
 すると、その知人は言い切った。
「そんな背景とか理由なんて、どうでもいいの。もし書いたとしても、誰も理解しようとしないし。むずかしいことなんて、誰も考えたくないし、興味もないの。問題なのは、この春に何色の口紅を買えばいいのか、ただそれだけのことなのよ」
 薄々、気づいてはいたものの、文字の世界で何かが変わっている、ということを私は強く感じ、ちょっとした衝撃を受けた。】

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 ちょうど5年前、この『活字中毒R。』で、荒川洋冶さんが書かれたこんな文章を紹介したことがありました。


以下は、「日記をつける」(荒川洋治著・岩波アクティブ新書)より。

【作品の長さについては、ぼくは以前から次のような考えをもっている。四〇〇字詰原稿用紙で「何枚」というとき、次のようなことをこころがけるのだ。
1枚→どう書いても、何も書けない。(週刊誌の一口書評など)
2枚→何も書けないつもりで書くといいものが書ける。(新聞の書評など)
3枚→一話しか入らないのですっきり。起承転結で書く。二枚半あたりで疲れが出るので休憩をとる。(短いエッセイなど)
4枚→一話ではもたないので、終わり近くにもうひとつ話を添える。(エッセイなど)
5枚→読む気になった読者は、全文読む枚数。見開きで組まれることが多く、作品の内容が一望できるので、内容がなかったりしたら、はずかしい。原稿に内容があるときはぴったりだが、内容がないときは書かないほうがよい。「書くべきか、書かないべきか」が五枚。
6枚→読者をひっぱるには、いくつかの転調と、何度かの休息が必要(同前)。
7枚→短編小説のような長さである。ひとつの世界をつくるので、いくつかの視点が必要。(総合誌のエッセイ、論文など)

この7枚以上になると、書くほうもつらいが読者もつらい。読者は読んだ後に「読まなければよかった」と思うことも多い。2、3枚のものなら、かける迷惑は知れているが、7枚ともなると「責任」が発生する、いわば社会的なものになるのである。7枚をこえて、たとえば10枚以上にもなると、読者は「飛ばし読み」をするから、意外に書くのは楽である。読者を意識しないほうが、むしろいいくらいだ。】

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 香山さんや荒川さんは、書き手の立場で「文書の長さ」についての意見を述べられているのですが、この2つを読み比べてみると、この5年間だけでも、読み手が「読みきれる文章の長さ」というのは、どんどん短くなってきているのではないか、という気がしてきます。
 いや、あらためてそう言われてみると、僕自身だって、ネットをはじめた直後に比べたら、確実に「長文を最後まで読む気力」は確実に落ちてしまっています。どんなに内容に興味がある文章でも、「長い」あるいは「長そう」というだけで、読む意欲が失せてしまうんですよね。これも年を重ねて忍耐力が落ちたのかな、とも思っていたのですけど、どうもそう感じているのは、僕ひとりではないみたい。

 そもそも、ここで取り上げられている口紅などに関しては「この色の口紅が流行る理由」というのが本当にあるのかどうかさえ疑問なのですが、そういう「流行」以外の部分でも「理由なんかどうでもいいから、さっさと結論だけ教えて」という人が増えてきているのかもしれません。考えてみれば、細木和子先生や江原啓之さんは「発言の根拠」をほとんど語られていないんですよね。
 それは「考える」ものではなくて「感じる」ものなのだと彼らは言うのかもしれませんが、そんなプロセスも根拠もあやふやなものを信じて、「自分はどうすればいいのか」という結論だけを鵜呑みにしている人は、けっして少なくないようです。これって、すごく怖いことのような気がしませんか?

 僕も”ひと息は200字”には驚いたのですが、この編集者たちの言葉からすれば、この”200字”というのは、もはや「出版界の常識」になってしまっているみたいです。世の中の人々は、僕の「劣化」以上のスピードで、「長文が読めなくなっている」のかもしれません。そういえば、最近の文学賞受賞作も、ひとつの段落が短くて、どんどん場面が変わっていくものが多いような印象がありますし。
 なんだかこれって、「読者のレベルが下がった」ってバカにされているような気もします。その一方で、売れているのは「読者のレベルに合わせたもの」だというのも事実なのでしょう。

 しかし、みんな本当にこの文章をここまで「読み切れて」いるのかな?

 ……って、今ここを読んでいる人に言っても意味ないのですけどね。



2007年08月19日(日)
「三島由紀夫さんほど、『老い』を怖れ憎んだ人を知りません」

『文藝春秋』2007年9月号(文藝春秋)の「特別対談・老いること、死ぬこと」と題した、石原慎太郎さんと瀬戸内寂聴さんの対談の一部です。

【石原慎太郎:「老い」と言えば、三島由紀夫さんほど、「老い」を怖れ憎んだ人を知りません。

瀬戸内寂聴:三島さんは老いることが怖かったんですね。あんなに怖がる人というのは、どういうことかしら?

石原:それは歪(いびつ)な肉体を持ったからですよ。ボディービルでいかにも人工的な、実際はまったく役に立たない肉体を作り上げて、虚飾の肉体に魅せられてしまったからです。あれは周りもよくない。写真家の細江英公があの聖セバスチャンの殉教のポーズで有名な『薔薇刑』なんていうつまらん写真集をだしたりして、みんなでチヤホヤした。それで三島さんは、自分が完璧に近い肉体を持ったと錯覚してしまう。その肉体を「老い」によって失うことを恐れたんですよ。

瀬戸内:『薔薇刑』は三島さん自身の案で細江さんの責任じゃないんですよ。でも、晩年はもう異常なほど、老作家を憎んでましたよね。

石原:デビューして間もない頃は、年をとったら名前の綴りを「魅死魔幽鬼翁」にするんだって言っていたんですがね。そのくらいの気持ちでホモセクシャルであることを隠さず、老いることをも恐れずにいたら、官能に耽溺できるすばらしい小説を書いたと思います。しかしあの人はそれが出来ず、老いるかわりに衰弱してしまいました。だから、きちんと老いるということは、作家にとっても重要なことなんだな。

瀬戸内:私が冗談で「三島さんのこと天才だと思っていたけど、天才は夭逝するはずだから、もう四十過ぎてしまって天才じゃなくなったのね」と言ったことがあるんですよ。そしたら「ほんとうにそうだ、自分は三十代で死にと思っていたのに残念だ」って真面目な顔して言われました。

石原:老いとの折り合いをうまくつけることが出来なかったんでしょうな。

瀬戸内:石原さんがデビューした時は、ほんとにカッコよかったから、三島さんはうらやましかったでしょうね。

石原:三島さんは、ボディービルをやりだしてから、すごく自信を持っていました。僕が、ヨットレースをやっているときに、上半身裸になっているところを写真に撮られて、それがどこかの雑誌のグラビアに出たことがあります。そしたら三島さんからすぐに電話がかかってきて、「石原君、見たよ。もう君、終わりだね、腹がたるんできて。気の毒だなあ、その若さで」としつこいの。いや僕は、いまでもサッカーのクラブチーム・リーグに出ていて、けっこう走れますよと言ったんですが、そういう肉体の機能論に関しては全く実感のない人でした。肉体の形が崩れていくことだけが怖かったんでしょう。

瀬戸内:三島さんにとって、肉体をビルドアップすることは、自分をアピールする演技のようなものだったのでしょう。そういうところがあの人にはありました。食事をしていても、コースを全部食べたうえに「ビフテキ二枚!」なんて追加する(笑)。それをみんなが呆れて見るのを期待していたんじゃないかしら。

石原:文学者の小堀桂一郎さんがエッセイで、この人はほんとにいろいろ無理していて、あまり長生きしないんじゃないかと思った、と書いていますね。】

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 「『老い』をもっとも怖れ憎んだ人」として名前を上げられた三島由紀夫さんなのですが、三島さんに対する石原さんと寂聴さんとの見かたの違いが浮き彫りにされていて、なかなか興味深いやりとりでした。

 「気の毒だね、腹がたるんできて」と貶されたことを根に持ち続けているのか、三島さんの「肉体改造」に対して終始批判的な石原さんと、その石原さんの舌鋒をさりげなく受け流しつつ、三島さんの思い出を愛情をこめて語る寂聴さん。

 なんだか、このやりとりって、「男の視点」と「女の視点」の違いというのを感じてしまうのです。ボディービルで肉体美を鍛え上げた三島さんに対して「あんな体、機能的には無意味」であり、「『老い』で肉体を失うのを怖れるあまり『衰弱』してしまったのだ」と断定する石原さん。そしてその一方で、三島さんの「男の強がり」を見透かしたかのように、「そういう人間的に危なっかしいところもまた、三島由紀夫の『かわいいところ』なんですよ」とばかりに語っている寂聴さん。
 ほんと、男からすれば、「女って、どうしてあんなどうしようもない男が好きなんだ?」と言いたくなることって少なくないのですが、女性は、その「どうしようもないところが好き」だったりするんですよね。

 客観的にみれば、三島由紀夫さんの人生、とくにその終盤は、「狂っている」ようにすら思えるのですが、もし三島由紀夫という作家の作品外での行動にあんなにインパクトがなければ、三島さんはこれほど「記憶に残る作家」にはなれなかったような気がするのです。そういう「作品外でのインパクト」は、石原慎太郎さんにしても同様で、石原さんが三島さんに厳しいのは「自分と似ているところがあるから」なのかもしれません。あるいは、「長生きしてしまっていること」で、石原さんは三島さんにある種の「劣等感」を感じているのかも。

 まあ、僕は三島由紀夫さんは、あまり長生きしなくてよかったのかもしれないな、とこれを読んでいて思いました。
 「魅死魔幽鬼翁」なんて暴走族の落書きみたいなペンネームでの作品が歴史に遺っていたら、やっぱりちょっと恥ずかしそうですしね。



2007年08月18日(土)
『ヤッターマン』の「本当の主役」

『「世界征服」は可能か?』((岡田斗司夫著・ちくまプリマー新書)より。

【悪の組織の目的は、必ずと言ってよいほど『世界征服』でした。目的というより、スローガンというカンジですね。
 子供の頃は、そんな『悪の帝国』が大好きでした。
 もちろん、悪をかっこよくやっつけるヒーローにあこがれるよう、番組は作られています。でも、テレビで毎週毎週見ていると、最初はかっこよかったヒーローも、どうしてもワンパターンに見えてくるじゃないですか。
 敵が出てきたら出動して、やっつける。彼らがするのはそれだけです。
 一方、悪の組織はたいへんです。いろいろ工夫しなければいけません。
 たとえば『仮面ライダー』という特撮番組。
 敵の組織・ショッカーは『世界征服を企む悪の秘密結社」です。番組の冒頭ナレーションでもそう言い切っています。ショッカーは毎週、いろんな改造人間を送り出してきます。デザインも違えば、得意技も違います。
 秘密組織ショッカーは毎回、改造人間をつくり、悪の計画を立案し、警察や仮面ライダーに隠れてこっそり悪事をすすめます。で、その悪事が上手く運び、犠牲者が出ると、ライダーが登場して改造人間をやっつけてしまう。
 当時、熱中していた子供たちの関心は、次の週どんな怪人たちが出てきて、どうやってライダーを苦しめるのかが話題の中心になってきます。
 もちろん仮面ライダーは正義の味方で、毎回勝利するからみんな好きなんですけど、あくまで「お話を進める」のはショッカーの計画と改造人間なんですね。
 アニメの世界でも同じです。
 以前、『BSアニメ夜話』というトーク番組のやめに『ヤッターマン』を百話以上続けて観るという得がたい経験をしました。正直、一気に見るのはかなりしんどかったです。
 しかし、発見もありました。全部で百話以上もある『ヤッターマン』は、完全に話が悪役主導になっていることを確認できました。
 今回、悪の三人組ドロンジョ一味はこんな悪いことを考えた。こんな詐欺で金を稼ごうとしている。そこにガンちゃんとアイちゃんという正義の二人が現れて「何か悪いことをしているぞ、あっ、そこに裏口が!」とか言って追いかけていく。
 悪事の現場を見つけると、「もう許せないぞ、よ〜し、ヤッターマン出動だ!」と戦闘→三人組の敗北となって番組は終わり。しかし翌週でもまた別の所で三人組の悪事を発見して、追いかけて……というパターンが続いていきます。
 完全に悪役が主導です。悪役が毎回、計画を立ててお話をすすめるのに対して、正義の味方はリアクションするだけ。お笑いでいうところのボケとツッコミですね。悪役のほうがボケ、正義のほうが「ええ加減にせえ!」とか「おいおい!」とか「どついたろか!」みたいな感じで戦っているだけなんですね。
 子供の頃、そういうパターンばかり観ていると、だんだんそれに飽きてきちゃいます。
「悪の帝国、何やってんだよ。なんでいつもいつも勝てねえんだよ」
 とか、子供心に考えます。
「ショッカーは、全怪人を一斉に送り出して、日本、アメリカ、中国、アフリカ、ヨーロッパ、南米、オーストラリアと、各大陸であばれさせりゃイイじゃん。ライダーは一人なんだから、絶対成功するよ」
 分離合体怪獣みたいな設定だと「なんで最後にやっつけられるために合体するんだよ」「最初から、一番強くなっとけよ」とか。
 そういうイライラが募ってくると「そんなことをしてるからダメなんじゃん。ちょっとオレにやらせろ!」という気分が高まってきます。
 その気分こそが「将来の夢は正解征服!」の原動力になるのです。】

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 僕も『ヤッターマン』が大好きで、土曜日の夕方は欠かさずに観ていたものです。『ヤッターマン』のあと『まんが日本昔ばなし』『クイズダービー』『全員集合』というのが、まさに「お決まりの土曜の夜の過ごしかた」だったんですよね。

 今でも「また観てみたいなあ」と思うこともあるのですが、岡田さんのように「百話一挙に観る」のはかなりキツイだろうなあ、という気はします。ここに書かれているように、『ヤッターマン』(というか、『イッパツマン』の後半を除く「タイムボカン・シリーズ」全体)というのは、かなりパターン化されたストーリーなので、やっぱり続けて観ていると飽きてしまいそう。まあ、水戸黄門の人気を考えると「人間は、一週間に1回くらいなら、そういうワンパターンの話を観るのもそんなに苦痛じゃない」のかもしれませんが。

 それにしても、これを読んでいてあらためて考えてみると、『ヤッターマン』の真の主役というのは、やはり、ドロンジョ・ボヤッキー・トンズラーの「3悪」(+ドクロベー様)だったのだなあ、と思われます。
 『ヤッターマン』の場合、正義の味方、ヤッターマンは、「正義」であるがゆえに、できることが制限されがちですし、子供向けの番組ですから「後顧の憂いを絶つために、何もやっていない状態の『3悪』に先制攻撃!」というわけにはいきません。

 ということで、制作側が「じゃあ、次の話を」ということで最初に考え始めるのは、おそらく「次は『3悪』に何をやらせようか?」だと思われます。結局のところ、各回の差別化は、「彼らがどんな悪事をはたらくか」にかかっているわけです。物語の『主導権』を握っているのは、まぎれもなく悪役のほうなのです。だから、人気があるアニメや特撮には、必ず魅力的な悪役が存在しています。

 『ヤッターマン』の場合は、「3悪」の活動内容だけではなく、「ビックリドッキリメカ」のバリエーションや「おしおきだべぇ〜」の名ゼリフ(?)でおなじみのドクロベー様のおしおきの内容など、かなり「各話を差別化するためのポイント」が多かったのも、長続きした秘訣だったのでしょう。

 まあ、こういうのは特撮やアニメの世界だけに限ったことではなくて、ニュースを観ていると、人間の「悪行」っていうのは、「善行」に比べてはるかにバリエーションが豊かだなあ、と感じずにはいられません。
 「よくこんなひどいことを思いつくなあ……」って呆れることはあっても、「よくこんな善いことを考えたなあ!」って感心することって、ほとんどないですからね……



2007年08月16日(木)
西原理恵子さんと『100万回生きたねこ』

『ダ・ヴィンチ』2007年9月号(メディアファクトリー)の特集記事「悲しみを知った夜は『100万回生きたねこ』を読み返す」より。

(西原理恵子さんへのインタビュー「『100万回生きたねこ』は、”負のスパイラル”を絶つ話でもあるんです」の一部です)

【西原さんが『100万回生きたねこ』と出会ったのは「小6か中1のときだと思う」。場所は、地元の図書館だった。
「まわりには、目が合っただけで殴りかかってくるような、いじわるな子供ばっかりで。だからいつも学校の図書館や市民図書館にいましたね。現実にはいやなことばっかりなんだから、本にだっていやなことばっかりあってほしかったのに、絵本にはいい子供ばっかり出てくる。『十五少年漂流記』とか『ロビンソン・クルーソー』を読んでも”全然漂流してない! うちのほうがよっぽど漂流してるよ!”って(笑)。
 でも『100万回生きたねこ』は、すとん、と落ちた。ぜんぶ”だいきらい”で”しぬのなんか へいきだったのです”っていうのを見て、ほんとそうよね!って、すごく共感して、ひきこまれました。
 けれど当時、終わりのほうで”とらねこに家族ができて幸せになる”という部分だけは、理解できなかったのだという。
「これは何?って。自分の環境と照らし合わせて、家族を持つのは不幸になることだと思っていた。その分働いてお金を稼がなくてはいけないわけだから、子供は足手まといで疎んじられる存在なはずだ、と。うちはお金がなくて、親がいやなケンカばっかりしていたんですよ」
 ようやくラストに納得したのは、
「やっぱり子供を産んでから。子供は、負担になるものじゃないんだってことがわかったんです」
 とらねこが何度も死んでは生まれ変わる「輪廻」の部分については、出産後よく考えるようになったのだという。
「息子や娘を見て、この子はどこから来たのかな? どこへ行くのかな?と。佐野さんがこの絵本を書いたとき、もうお子さんがいたでしょう。子供を産んだ人は、輪廻転生のことを考えるようになるのかなぁと思った」
 今年の春、西原さんはパートナーであり、子供たちの父親であるジャーナリストの鴨志田穣さんを腎臓がんで亡くした。葬儀のとき、西原さんの友人の医師・高須克弥さんが、こう言ってくれたのだという。
「息子たちを指差して『人間は遺伝子の船。あんなに新しい乗り物を用意してもらった鴨志田さんは、本当に幸せだった。新しい船に乗り換えたのだから古い船のことはもう忘れていいんだよ』って。実際、息子はささいなクセが、どんどん父親に似てきている」

 そして、鴨志田さんの生き方は、『100万回〜』のラストとも重なる気がするのだという。
「とらねこが”負のスパイラル”を絶って死んでいった、とも読めるんですよね」
 アルコール依存症だった鴨志田さん。一度は離婚して家を出たが、施設に入り、克服。亡くなるまでの半年間はもう一度、西原さんと子供たちと共に暮らすことができた。
「家に戻ってきたときは、『子供に渡すことなく自分の代で、アルコール依存症のスパイラルを絶つことができた』ってすごく喜んでいましたね。ちゃんと人として死ねることがうれしいって。鴨志田の親はアルコール依存症だったから。負のスパイラルについては、ふたりでよく話し合っていた。生い立ちが貧しいっていう自覚がお互いにあって。また貧困家庭を作ってしまうんじゃないか、と私もずっと心配だった。だから、とにかく仕事をしてお金を稼ごう、とずっと思っていた」】

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 佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』は、今年で世に出てから30周年を迎えたのだそうです。『ダ・ヴィンチ』のこの号では、『100万回生きたねこ』を愛読しているたくさんの人々からのメッセージが寄せられているのですが、なかでもこの西原理恵子さんのインタビューは、とても印象的なものでした。この西原さんの話では、『100万回生きたねこ』という作品への想いというよりも、この絵本で描かれている「家族」とか「輪廻」についての西原さんの現在の気持ちが語られているのです。

 僕は西原さんの『毎日かあさん』などの「家族モノ」の著作から、西原さんは昔から面倒見がよくて子供好きな人だったのではないか、というイメージを持っていたのですけど、このインタビューのなかで、西原さんは「家族を持つのは不幸になることだと思っていた」と告白されています。そして、子供のころ貧しかったがために、売れっ子になってからでさえ、自分、そして自分の家族が「『負のスパイラル』に陥るのではないか?」と苦しんでいたということも。
 
 子供を持たない僕は、社会の中で生きていて、心のなかで、「そんなに『子供』とか『家族』って立派なものなの?」と考えることが多いのです。傍からみれば、「子供のため」「家族のため」という錦の御旗を掲げて自分のワガママを正当化しているだけのように見える人って、けっこういますしね。
 しかしながら、実際問題として、ごく普通の才能しかないひとりの人間として、自分が後世に残せる可能性があるものは「遺伝子」くらいしかないのかな、と感じることもあるのです。
 世間には、あの村上春樹さんに対して、「でも、村上さんには『子供』がいない」なんて憐れむ人だっているくらいですし。
 村上春樹の小説という『子供』は、凡百の人間の子供よりもはるかに立派な「遺伝子の船」なのではないかと思うのですけど、そういう僕の考えは、世の中の「共通認識」とは程遠いようです。

 僕はこの鴨志田さんの【「子供に渡すことなく自分の代で、アルコール依存症のスパイラルを絶つことができた」】という言葉に対して、「でも、子供たちは、将来アルコール依存症になってしまうかも……」などと、揚げ足をとってみたくなるのですが、そんなことはたぶん、鴨志田さん本人も百も承知なはず。アルコール依存っていうのは、そんなに簡単な病気じゃないので。たぶん、この鴨志田さんの言葉は「確信」というよりは、「祈り」みたいなものだったのでしょうね。
 それでも、「負のスパイラルを絶つ」という自分の「役割」を果たした鴨志田さんは、やっぱり、幸せに死ぬことができたのかもしれないな、とも感じるのです。

 僕にも、そんな心境になれる日が、いつか来るのでしょうか?
 100万回生きても、わからないような気もするんだよなあ……



2007年08月14日(火)
スピルバーグ監督が「いままででいちばん不安になった映画」

『週刊ファミ通』(エンターブレイン)2007/8/17号の映画『トランスフォーマー』の紹介記事より。

(製作総指揮・スティーブン・スピルバーグさんへのインタビューの一部です)

【インタビュアー:マイケル・ベイを(『トランスフォーマー』の)監督に選んだのはなぜですか?

スティーブン・スピルバーグ:彼は僕とはまったくタイプの異なる監督で、この情報化社会の申し子。マイケルがワンフレームに盛り込む情報はハンパじゃないよ。この映画はそういうタッチのほうが合っていると思って彼に白羽の矢を立てたんだ。僕は昔気質の監督で、いわゆる新聞記者。マイケルはネットのブロガーみたいな感じだ。

インタビュアー:今度はあなたのことを教えてください。いまでも第一線で映画を作れるそのエネルギーの源はどこからくるの?

スピルバーグ:それは失敗に対する恐怖心だよ。いつか失敗するんじゃないかとビクビクしていて、それが力に変換されている。新作にとりかかるときはいまでもそう。これまでのキャリアのなかでやったことがあるシーンだとそれほどでもないんだけど、初めてだったりすると、すごく心配になってしまうんだ。でも、不思議なもので、不安なときのほうがいい映画ができるみたいでね。

インタビュアー:じゃあ、いままででいちばん不安になった映画は?

スピルバーグ:それは『シンドラーのリスト』だね。あれこそ僕の人生のなかでもっともナーバスになった映画だよ。

インタビュアー:でも、それで初めてのオスカー監督賞を取りましたね。

スピルバーグ:うん。で、ノミネートされ、オスカーを取れなかったらどうしようと、またナーバスになった(笑)。】

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 1946年生まれのスピルバーグ監督も、もう60歳。『E.T.』が1982年ですから、長い間ヒットメーカーとして映画界を支えているのですね。僕も一時期は、「またスピルバーグかよ!」と感じることが多かったのですが、あらためて考えてみると、これだけの作品と収益をもたらした映画監督というのは、まさに「空前絶後」だと思います。
 それと同時に、僕が子供のころは「粗製濫造ばかりしている若造」なんて批判されていた人が、いまや立派な「権威」になっていて、監督を選ぶ立場になっているというのは非常に感慨深いものもあるのです。

 このインタビューで、スピルバーグ監督が映画作りのエネルギーの源を「失敗への恐怖心」だと語っていたのは、僕にとって非常に意外な気がしました。一般的な感覚で言えば、そういう「恐怖心」というのは、ネガティブな感情であり、あまり好ましいイメージではないはずです。でも、スピルバーグ監督は「不安なときのほうがいい映画ができる」と語っています。巨大なお金が動く映画界で生きていくには、そのくらいの「繊細さ」と「大胆さ」を併せ持っていないとダメなのかもしれません。ほんと、よくそんなプレッシャーのなか、こんなに長い間第一線で活躍していられるよなあ、と感心するばかりです。

 ここでスピルバーグ監督が「いちばん不安になった映画」として、『シンドラーのリスト』と挙げていたのは、僕にとっては頷ける話ではありました。興行的には、「スピルバーグ作品のなかでもっとも成功した映画のひとつ」とは言いがたいのですが、ロシア系ユダヤ移民の3代目であるスピルバーグ監督にとって、ナチスのホロコーストを題材にした映画を作るというのは、やはり、ナーバスにならずにはいられないことだったのでしょう。
 そして、監督自身も、それを自分が作るのであれば、「歴史的な名作」にしなければ、という想いがあったようです。当時は、「『シンドラーのリスト』は、スピルバーグ監督が、『オスカー狙い』で作った映画」なんていう話もささやかれていた記憶がありますし。

 まあ、「オスカーを取れるんじゃないかと期待した」のではなくて、【「オスカーを取れなかったらどうしようと、またナーバスになった」】なんていう話からすると、御本人はものすごく自信があったのだろうなあ、とは思うのですけどね。



2007年08月13日(月)
もったいなくて、なかなか火がつけられない「国産の線香花火」

『経験を盗め〜文化を楽しむ編』(糸井重里著・中公文庫)より。

(「古くて新しい花火」というテーマの糸井重里さんと冴木一馬さん(花火専門の写真家)、宮川めぐみさん(花火師)の鼎談の一部です)

【糸井重里:ちなみに1発上げるお値段は?

冴木一馬:尺玉1発で5、6万円ほどです。打ち上げ料、1人の花火師さんの人件費込みで。今は結婚式でも花火を上げてくれるところがありますね。

糸井:世界の中でも日本の花火がいちばんきれいだという話をよく聞きます。

宮川めぐみ:日本の花火は本当にきれいです。

糸井:大きな違いはどこなんでしょう。

冴木:日本の花火は、さっき出た玉皮という丸い器に火薬を詰めるので、きれいな球状に開きますが、外国の花火は円筒形のパイプみたいなものに火薬を詰めるので、丸くは開かない。

宮川:それから色ですね。日本の花火は星かけ作業の時に、違う色の火薬を次々とかけていきます。だから打ち上げて星が広がった時に、緑色から赤色に変わったりするんですけど、外国の花火は色が変化しなくて、1色ずつです。

冴木:海外では製造はほとんど機械で、火薬をポーンとプレスしてドーンと作る。手作業で1個ずつ作るのは日本くらい。

糸井:宮川さんが好きな花火は?

宮川:やっぱりまん丸くてきれいな色のものですね。

冴木:僕もそうですね。菊や牡丹が球状に開くのを「割物」と言いますが、日本独特のものですから。ただ、日本のどこの花火大会でも海外ものは必ず混ざっています。筒状のもそうですし、丸いものでも人件費の関係で中国の工場で作らせたり。

糸井:花火といえば、家庭でやる線香花火は、昔のほうが火の塊がなかなか落ちなかった気がする。今は中国製でしょ。

冴木:あとベトナム、タイですね。線香花火は'99年に一度、日本製がなくなって、それがマニアの強い要望があって復活し、今、国内では3社が作っています。中国製だと10本の1束が100円とかですが、日本製は1本が300円くらい。

糸井:えーっ、1本が300円!

冴木:桐の箱入りの5000円のセットが、インターネットでだけ販売されています。一斉に注文が来て、製造が追いつかないそうですよ。

糸井:ほしがる気持ちもわかりますねぇ。

冴木:以前、業界ではナンバーワンと言われていた有名な女性が作った「三河牡丹」という線香花火がありました。たくさん花が咲くし、火花の飛び方、花のきれいさが、他のものとはまったく違う。その方が亡くなってからはマニアの間で1本1万円前後で取引されています。僕も5本持っていますけど、「1本1万円だしなぁ」と思うともったいなくて、なかなか火がつけられない(笑)。】

参考リンク:
純国産線香花火セット桐箱入(花火の専門店トヨタ)

線香花火のルーツ〜国産線香花火の消滅と復活(『マカロニアンモナイト』2005年8月号)


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 この対談は、『婦人公論』の2003年7月22日号に掲載されたものですので、現在の「国産花火の動向」とは、若干異なる可能性もあるのですが、あらためて「日本人の花火好き」と「日本の花火文化の奥深さ」を思い知らされるような話です。
 実際は、日本国内の花火大会でも、コストの問題もあり、海外産の花火がかなり使われているようです。「尺玉1発で5、6万円」ということは、それなりの規模の「花火大会」というのは、ものすごくお金がかかるのでしょうし、「国産」と「海外産」の「違い」にこだわる観客もそんなに多くはないのでしょうから。

 それにしても、ここで取り上げられている「国産花火の話」には驚かされました。今は国産花火も一部の「ブランド品」を除けば「1本300円」ということはなさそうなのですが、コンビニやおもちゃ屋などで売られている「一袋1000円の花火セット」に慣れている僕にとっては、「桐箱入り、5000円の線香花火セット」というのは、「なんて高い花火なんだ……」と驚かされるシロモノです。まあ、冷静になって考えてみれば、ちょっと飲みに行ったり遊びに行ったりするのにかかるコストと比較して、そんなに「理不尽に高い」っていうわけでもないんですけどね。むしろ「夏の思い出作り」のためには、安上がりなくらいかもしれません。
 とはいえ、実際に5000円出して桐箱入りの線香花火を買うというのは、やはりよっぽど好きな人じゃないと敷居が高そうではあるのですが。

 ここで紹介されている「1本1万円の線香花火」なんて、それこそ「伝説の芸術を鑑賞するための費用」としては、けっして「高すぎる」ものではないはずです。僕もこれを読んでいたら、一度は観てみたくなりました。
 花火っていうのは一度火をつけるとそれでおしまいだし、だからといって、火をつけなければ意味がない、それが最大の問題なのですけどね。



2007年08月12日(日)
「早寝早起き」を笑うな。

『月刊CIRCUS・2007年9月号』(KKベストセラーズ)の対談記事「賢者の贈り物〜NANNO PRESENTS・第7回 哀川翔×南野陽子」より。

(哀川翔さんと南野陽子さんの対談の一部です)

【哀川翔:俺さ、芝居は大して面白くない俳優だけど、職業の醍醐味を味わっている方だと思っている。

南野陽子:?

哀川:芝居ってさ、本番がどうなるか分からないケースが多いから面白いよね。撮影中にトラブルってよく起こるでしょう? その瞬間がすごく楽しい。その瞬間を楽しんで乗り越えられる、それをできる人が一流の俳優という気がするんだよね。俺はまだまだできない部分が多いから一流じゃないんだ(笑)。

南野:…。

哀川:それはね、何度もトラブルを経験しないとできない。そしてそれは俳優だけの話じゃない。俳優以外の仕事でも同じだと思うよ。

南野:ねぇ、哀川さんがそういう考え方をしたのはいつの頃から?

哀川:田舎(鹿児島)で学生時代を過ごして、社長になろうと思って東京に進出したくらいの時かな。その頃から考えは何も変わっていない。「継続は力なり」という言葉が俺は昔から大好きなんだ。あとは「早寝早起き」(笑)。これを実行するのは本当に大変でね。大人になるほど難しい。でも、続けてみれば分かると思うけど、すごく深いんだよ。大切さで言えば、「継続は力なり」よりさらに上のレベルに位置する気がするんだ。】

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 この哀川さんの話のなかで、僕がいちばん考えさせられたのは、哀川さんが「早寝早起き」の奥深さを語っているところでした。対談中には、その哀川さんの発言のあとに、(笑)がつけられていますけど、笑い話じゃなくて、「早寝早起き」って、本当に「大人になるほど実行するのが大変」だけど、うまく生きるためののコツとして、ものすごく大事なことなんじゃないかなあ、と「遅寝遅起き」の僕は思うのです。
 10代、20代前半くらいまでは、「早寝早起き」なんてバカバカしい!と感じていましたし、そんな規則正しい生活なんて、なんだか頭悪そう、とか考えていたんですけどね。

 一部のクリエイターなどの世界では違うのかもしれませんが、僕が社会人になって出会った「仕事ができる人」の多くは、「朝は早めに職場に来て仕事を始める人」なのです。
 「病院」という職場では、「早起き」をして早めに出勤することによって、朝の患者さんの顔を見て指示を出したり、その日の仕事の内容をあらかじめ確認したりしてから検査や外来といった日常業務を始めることができるのです。そうすることによって、もし日常業務中にトラブルが起こってもその日の朝の状況を把握している分だけ余裕を持って対応できますし、患者さんも「今日は一度診察してもらったから」と安心してくれます。スタッフも時間ギリギリに来て慌ててバタバタと指示を出されるよりは、ずっとやりやすいはず。

 まあ、あまり極端に朝が早かったりするのはかえって迷惑かもしれませんが、働いている時間が同じでも、「7時に来て朝のうちに仕事をして19時に帰る人」のほうが、周囲からすれば、「9時ギリギリに来て21時に帰る人」よりも、はるかに「安心感がある」のですよね。同じ仕事の中身なら、早く仕事を済ませてくれたほうが他のスタッフも早く帰れるでしょうし。
 実際は、後者の「遅く来て遅くまで残っている人」のほうが、前者に「今日もさっさと帰りやがって!」なんて憤っていたりしがちなのですけどね。
 
 しかしながら、僕は典型的な「後者」なのです。
 朝は仕事に行くのが辛くてついついダラダラしてしまうし、夜は「せっかくの自分の時間なのに、早く寝てしまうなんてもったいない」と遊んでいるうちに、どんどん夜は更けていくばかり。「明日のために早く寝なければ……」と思いつつ、「どうせ明日もキツイから、明日になるのイヤだなあ……」なんて、なかなか切り替えられません。
 「早く仕事をはじめて、早く終えてしまう」ほうが良いなんてことは、頭ではわかっているつもりだし、早く起きるためには、早く寝たほうがいいなんて、それこそ、小学生でもわかることなのに。

 組織の中で仕事をする人ならば、少なくとも「早起き」をするというだけで、自分の価値を1ランクくらいは上げられるはずなのですけど、頭ではわかっていてもなかなか習慣化できない「処世術」なんだよなあ。

 「早寝早起き」って、本当に奥が深いです。確かに、簡単なことのはずなのに、「大人になるほど難しい」。



2007年08月10日(金)
「ケツ割るんやない。生きていくんや」

『おちおち死んでられまへん〜斬られ役ハリウッドへ行く』(福本清三・小田豊二共著・集英社文庫)より。

(小田豊二さんの「文庫版あとがき」の一部です)

【福本さんは、昭和33年、中学を卒業すると、兵庫県の香住から京都に働きに出てきた。そして、何をするところかわからないまま、東映撮影所を紹介され、大部屋俳優になった。いや、大部屋俳優という仕事にありついたという方が正確かもしれない。だから、俳優になるつもりなど、米粒ほども思っていなかったのである。
 以後、派手なパフォーマンスを一切拒み、50年にわたって、ただただ与えられた仕事を懸命にこなしてきた。「斬られ役」がその日、その日の「仕事」だったのである。
 つまり、福本さんが若い頃から一番大切にしてきたのは、決して俳優として有名になることではなく、「生きていくこと」だったのだ。
 どんな仕事でも、田舎から出てきた少年が自活できるまでになるには、時間がかかる。それは「金の卵」と呼ばれて、集団就職で都会に出てきた少年たちの誰もが味わった苦労であった。
 やがて、子供が生まれ、生きていくのが大変で、俳優を辞め、ほかの安定した職業につこうと思ったこともあった。その時、共働きで家計を賄っていた奥さんの雅子さんが、こう言った。
「あんた、何言うとんの。私が苦労を苦労と思わんでこれたのは、あんたが俳優さんだからやないの。そんなに勝手に弱音を吐くんやったら、私の青春返して!」
 このひと言がなかったら、いまの自分はいなかった、と福本さんは述懐する。まさに、夫婦で必死にここまで生きてきた。
 だからこそ、福本さんは仕事を失う「定年後」が心配だったのである。
 だが、それは福本さんの杞憂であった。
 人は、そう簡単に一生懸命生きてきた人を見捨てやしない。なぜなら、福本さんの心のなかに、「自分のためでなく、人のために、会社のためにまだまだ役立ちたい」という強い希望があることを、東映も、昔の仲間たちも知っているからだ。
 そして何より、福本さんは人に負けない「技術」があった。
 その「技術」を人のために役立てることで、これからの人生を生きていってほしいとはじまったのが、東映太秦映画村での「福本清三ショー」だった。
 斬るのも、斬られるのも「東映剣会」のメンバーや大部屋の俳優たち。彼らもまた、生きていくために、必死で働いているのが、私にはよくわかった。
 ある時、ひとりの後輩が「東映剣会」を脱会しなければならなくなった。なぜなら、彼はこのままでは生活が立ち行かないからである。
 その送別会で、彼は涙を流して、仲間に謝った。
「すみません、皆さんががんばっていらっしゃるのに、ひとりだけケツ割って…」
 ケツを割るというのは、楽な方に逃げるという意味である。結婚したのかもしれない、子供でもできてしまったのか……。大部屋俳優は自分ひとりならがんばれるが、家族を養うとなれば、将来の見通しは立たない。福本さんにもそんな時があったことは、先に書いた。
 いままさに、辞めていこうとするその若い大部屋俳優に福本さんはこう言った。
「ケツ割るんやない。生きていくんや。新しい仕事で立派に生きていくことは決して恥ずかしいことやない」と。】

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 「日本一の斬られ役」として、時代劇ファンの間では知られた存在である福本清三さん。たぶん、多くの人にとって、「あっ、この人、名前はわからないけど、どこかで見たことある!」という感じなのではないでしょうか。
 映画『ラスト・サムライ』でトム・クルーズを警護していた「無口なサムライ」を記憶している人も少なくないはずです。

 先日は、『探偵!ナイトスクープ』で時代劇ファンの子供に「斬られて」いましたし、いまや「知る人ぞ知る存在」となった福本さんなのですが、その「俳優」としてのキャリアの大部分は、「その他大勢のうちのひとり」だったのです。
 そんななかで、食べていくために「いかにインパクトのある斬られ方をするか?」を追求していた結果誕生したのが、いまの「日本一の斬られ役」福本清三なんですよね。そもそも、いまや有名人の福本さんなのですが、そのもう還暦を過ぎた福本さんのキャリアのほとんどは、「誰にも顧みられることのないその他大勢のうちのひとり」でしかなかったのですから、ここまで「斬られ役」を続けてこられたことそのものが「偉業」なのかもしれません。大スターならともかく、ギャラも安ければ誰も注目してくれない仕事なのに。
 まあ、ここに書かれているような「家族の理解」というのは、非常に大きかったのでしょうけど。

 そんな福本さんの言葉だからこそ、この「ケツ割るんやない。生きていくんや。新しい仕事で立派に生きていくことは決して恥ずかしいことやない」という言葉には、すごく「伝わってくるもの」があるように僕には感じられます。人は「夢を追うこと」を賞賛し、「夢をあきらめるなんて、情けない……」と蔑みがちなものなのですが、他人に過剰な苦労や負担をかけてまで「夢を追う」人生が、必ずしも「正しい」わけではないんですよね。むしろ、そういう人生のほうが「ケツを割っている」のかもしれません。

 「生きていくため」「食べていくため」に大部屋俳優となり、「斬られる技術」を磨き、予想外の人生を送ることになった「日本一の斬られ役」のこの言葉、多くの「夢をあきらめざるをえなかった人たち」にとって、すごく勇気を与えるものではないでしょうか。

 つまらない人生のように思えても、「生きていく」っていうのは、それだけでけっこうすごいことなのですよ、きっと。



2007年08月09日(木)
ある小さな男の子の「殉教」という「美談」

『極め道』(三浦しをん著・光文社文庫)より。

(三浦さんのエッセイ集の「なんぞ我を見棄て給うや?」という項の一部です)
 
【私はカトリックの学校に行っていたので、いいかげん宗教にはうんざりというのが個人的な感想だ。あれはかなり奇天烈な世界で、ちょっと頭が狂いそうだった。なにしろ高校の修学旅行が『長崎殉教者を偲ぶ旅』なのだ! 世の中の高校生たちがハワイとは言わぬまでも北海道ぐらいは行く御時世に、なんでそんな辛気臭い旅をせねばならぬ。もちろん自由行動なんてないよ。私服も着ないよ。修道女と同じだから。移動のバスの中でも、聖歌の練習を率先してやろうなんて言い出すやつがいてさ。私はいますぐバスが横転してしまえばいいのにと思った。かなり本気で。
 長崎中の教会をまわったのではなかろうか。そして行く先々で聖歌を奉納(?)する。本当に神がいるのなら、こんな破廉恥なことを考えつく輩を生かしておくわけがない。多感なお年頃の少女は、もうおなじみになった憎悪の炎をたぎらせつつ、神の不在を嘆いたのでした。
 もちろん「修学」旅行ですから、事前の予習もみっちりなされます。長崎二十六聖人(豊臣政権の弾圧で殉教した)のこととか。なんかすごい小さい男の子とかも殉教したらしい。役人たちは「お菓子をやるから基督(キリスト)教は捨てろ」と彼をかき口説いたのだけど、「天国には白くておいしいお菓子がたくさんあるから、私は転びません」みたいなことを言って、あどけない幼児は殺されていったのでした。いと哀れなり。それはたしかに哀れだと思いますけど、でもまだ十歳になるかならぬかの子供だよ?「お菓子をあげるっていわれても、知らないおじさんについていっちゃだめよ」というレベルと、何か違うのか? と意地の悪い私は思うのでした。それに天国においしいものがあるから殉教するってのは、信仰心から出た行いとは言いがたいものがある。貧しい農民が、自分を慰めるために子供にも言い聞かせていた必死の夢物語だろう、それは。その子はたぶん、信仰心よりも食欲から天国を選んだと思う。たださっきも言ったけど、その状況で何かを選んだ、ということが、強いて言えばその子の唯一の救いなのだ。
 それなのにこの「美談」についての感想を求められるのは酷というもの。「誘拐犯は本当にお菓子をエサに子供をさらうんだろうなあ、と思いました」と言ったらやっぱり怒られた。「あなたは命をかけて何かを守り、成し遂げることの尊さを何と考えるのですか」と。救われないのは私だっつうの。トホホ。】

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 こんな「高校の修学旅行が『長崎殉教者を偲ぶ旅』だなんて、いったいいつの話なんだ?」と僕は思ったのですが、これ、そんなに昔の話じゃないみたいなのです。今も同じことが行われているかはわからないのですが。
 まあ、僕の高校の「修学旅行」も、「東京・京都の有名大学めぐり」でしたので、不毛さでは似たようなものではあるんですけどね。
 ちなみに三浦しをんさんは、1976年(昭和51年)生まれで、横浜雙葉中学高等学校から、早稲田大学第一文学部に進まれています。ですから、この「修学旅行」は、横浜雙葉高校で、十数年前に実際に行われていたのです。 それにしても、この学歴だけ並べてみれば「お嬢様!」って感じなんですけど、お嬢様っていうのもいろいろと大変みたいです。

 それにしても、この「殉教した少年のエピソード」というのは、僕にとっても「宗教」についていろいろと考えさせられるものでした。
【役人たちは「お菓子をやるから基督(キリスト)教は捨てろ」と彼をかき口説いたのだけど、「天国には白くておいしいお菓子がたくさんあるから、私は転びません」みたいなことを言って、あどけない幼児は殺されていったのでした】
 この話、「権力に負けずに幼い子供が信仰を貫いて殉教した」という「美談」として語り継がれているのでしょうが、三浦さんが書かれているように、「信仰」を持たない僕にとっては、ものすごく違和感がある話なのです。
 「じゃあ、想像上の『天国』よりもすごいお菓子を目の前に並べられたら、この幼児はあっさり『転んでしまった』のではないか?」と。
 実際には、「頭の中のイメージ以上の現物」というのはなかなか無いものなのかもしれませんが、この幼児は「神への信仰心」ではなくて、「物質的な欲望」から、「殉教」を選んだとも考えられます。そりゃあ、現代人の感覚からすれば、「実際にあるかどうかわからない天国の御馳走よりも、いま目の前にある焼肉」なのでしょうが、当時の子供にとっては、「役人がくれるというお菓子」というのは「お菓子でいっぱいの天国」と同じくらいのリアリティしかなかったのかもしれないし。そもそも「死ぬ」と言うことに関して、この幼児がどのくらいの「実感」があったかもわかりません。
 要するに、この「殉教」の場合、「純粋な信仰心」というよりは、「損得勘定」のほうが上回っていたわけです。現代人からすれば、そんな教育をした親に対して、「なんでそんなふうに幼い子供まで『洗脳』するんだ!」と憤りたくもなりますが、子供に「信仰心」を植え付けるためには、そういう「ご利益」か「信じないと地獄行き」みたいな「恐怖」のいずれかを利用するしかないのも現実だったのでしょう。
 この幼児に対して、役人が、もっとストレートに「信仰を捨てなかったら殺すぞ」と言っていたら、この幼児はどう答えていたのだろう?

 しかし、その一方で、この子供が「不幸」だったのか?と問われると、【その状況で何かを選んだ、ということが、強いて言えばその子の唯一の救いなのだ】というのは、確かにそうかもしれないなあ、という気もするのです。このエピソードの場合、本当に「悪い」のは、「子供の希望を利用した宗教」ではなくて、「信仰を理由に弾圧し、改宗を迫り、『殉教』を生む当時の社会情勢や権力者」なんですよね。そんななかで、「信仰を捨てないという選択をした」というのは、確かにすごいことなのではないかなあ、と僕は感じます。逆に、そんな世の中で「お菓子が欲しいから棄教します!」っていう幼児の「余生」が、そんなに幸福に満ち溢れたものになったとも思えないし。 
 「損得で物事を選べる人生」っていうのはものすごく幸福なのかもしれないけど、「損得しか選択基準がない人生」っていうのは、ものすごく不幸なような気がします。

 僕には、この幼児の「殉教」のエピソードそのものよりも、これを「美談」として利用することが「宗教」の罪深さなのではないかな、と感じられてなりません。



2007年08月08日(水)
「キットカット」を蘇らせたマーケティングの極意

『売れないのは誰のせい? 最新マーケティング入門』(山本直人著・新潮新書)より。

【テレビCMの効果があやふやだと思っても、どうすれば消費者に情報を届けられるのか。それは売り手にとって切実な問題である。しかし、いきなり2兆円の価値を問われても、少々迂遠なことに感じられたかも知れない。
 それでは、新しい売る知恵はどのように生まれてくるのだろうか。テレビCMを核としたビジネスにこだわる人もいるが、危機感を持った人はもう動き始めている。そうした事例を一つ紹介しよう。
 キットカットというチョコレートがある。かなりのロングセラーであり、シェアを持っている商品だ。だが、ある時期から停滞期に入っていた。もっとも大切な顧客である10代の若者にとって「有名だけれど、特に好きというわけではない」という位置づけのものになっていたのである。
 これはロングセラーの定番商品の陥りやすいパターンでもある。簡単に言えば、マンネリになっていたということである。それはテレビCMにおいても同様だった。
 このことに危機感を持った広告クリエイターたちは、どのように考えて行動したか。その経緯について書かれた本(関橋英作『チーム・キットカットのきっと勝つマーケティング――テレビCMに頼らないクリエイティブ・マーケティングとは?』ダイヤモンド社 2007年)が最近刊行された。詳細は同書にこと細かに記されているが、発想はシンプルである。
 メインターゲットとなる高校生と、どのような関係作りをすることがブランドにとってもっとも有効か? この問いを徹底的に考えて、テレビCMのみに頼らないアイデアを考えたのである。
 高校生が一番ストレスを感じる時はいつか? その時に、ブランドといい関係を結べることが重要と考えて「受験」に注目する。そして福岡の大宰府辺りでキットカットが「受験のお守り」になっているという話を耳にした。
「必ず勝つ」を福岡弁では「きっと勝つとお」という。他愛のない駄洒落ではあるけれど、ここからキットカットを「受験のお守り」として位置づけ、段々と高校生との絆を深めていくというストーリーである。
 その過程には、テレビCMのみに頼らないマーケティングの知恵が凝縮されている。まずは受験シーズンのホテルで、チェックインした受験生に桜の葉書とキットカットを渡す。もっとも心細い時に誕生した、人とブランドの絆。ジワジワと反響が広がっていく過程は、小さな源流が段々と集まり、川の流れを生んでいくような趣がある。インターネット上のショートムービーや、卒業式でのサプライズ・ライブ(飛び入りのバンド演奏)など、定式に頼らないアイデアが続々と誕生していく。
 マーケティングは「客の立場に立って知恵を使い続けること」と第1章で定義づけたが、そういう観点で考えればキットカットの施策は、まさにマーケティングそのものと言える。】

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 「キットカット」というチョコレート、僕が子供の頃、今から数十年前にすごく流行ったあとに「定番商品」になってはいたのですが、確かに、次々の新商品が発売されるお菓子業界のなかでは、「有名だけれど、特に好きというわけではない」という感じになっていたのではないかと思います。
 僕が日頃お菓子をほとんど口にしない、ということを差し引いても「まだこれあったんだ、懐かしい!」という理由以外で「キットカット」を好んで口にするような機会はほとんどありませんでした。

 でも、これを読んでみると、そういえば最近になって、なんとなく「キットカット」の名前を耳にするようになったな、という気がしたんですよね。
 「キットカット」が受験のお守りになっている、なんていう話も聞いたことがありますし。
 ただ、九州人であり、博多弁をよく耳にする僕からすれば、【「必ず勝つ」を福岡弁では「きっと勝つとお」という】というのは、ちょっとムリがあるというか、地元の人はそんなふうには言わないよ……という感じではあるのですが、「イメージ」っていうのは、えてしてそういうものなのでしょう。キレンジャーみたいなしゃべり方をする熊本の人がいないというのと同じことです。

 それにしても、この「チーム・キットカットのマーケティング戦略」というのは、まさに「顧客の身になって考えた」ものだなあ、と僕はすごく感心してしまいました。
 今の中高生にとっては、「チョコレート」というお菓子には、とくに強いインパクトは無いはずです。なかなか手に入らないほど珍しいものではなく、チョコレートも買えないほどお金に困ってもいないでしょうし。

 ところが、同じ1枚の「キットカット」でも、それが渡された場所が「受験のために泊まったホテルのロビー」であれば、やっぱりそれはすごく記憶に残りやすいのではないかと思うのです。受験日の前日というのはみんな不安だろうし、夜遅くまで勉強している人も多いはず。夜遅くまで勉強していれば、疲れも溜まりますし、お腹もすいてきます。
 そんな夜に、「そういえば、あれもらったんだっけ……」と思い出して、「受験のお守り」と言われているキットカットを口にして、その甘さになんだか少しホッとする瞬間。
 こういうのって、たぶん、なかなか忘れないはずです。

 もちろん、不合格だったら、「何が『きっと勝つとお』だ!」なんて憎悪の対象にされてしまう可能性だってあるのですが、だからといって、不買運動をはじめる人もいないでしょうし。

 こんなふうにしてできた、高校生とキットカットとの「絆」というのは、おそらく、そう簡単には失われないはずです。
 企業側の「言いたいこと」をばら撒くだけじゃなくて、ちゃんと、伝えたい相手の立場になって考え、工夫するっていうのは、すごく大切なことなのです。
 予算が乏しく、テレビで大々的にCMを流せなくても、あきらめずに知恵をしぼれば、「伝えられること」っていうのは、けっこうたくさんあるのかもしれませんね。
 



2007年08月06日(月)
「原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に『よその家の事情』でもありました」

『夕凪の街 桜の国』(こうの史代著・双葉社)の「あとがき」より。

【「広島の話を描いてみない」と言われたのは、一昨年の夏、編集さんに連載の原稿を渡して、帰省したとかしないとか他愛のない話をしていた時のことでした。やった、思う存分広島弁が使える! と一瞬喜んだけれど、編集さんの「広島」が「ヒロシマ」という意味であることに気が付いて、すぐしまったと思いました。というのもわたしは学生時代、なんどか平和資料館や原爆の記録映像で倒れかけては周りに迷惑をかけておりまして、「原爆」にかんするものは避け続けてきたのです。
 でもやっぱり描いてみようと決めたのは、そういう問題と全く無縁でいた、いや無縁でいようとしていた自分を、不自然で無責任だと心のどこかでずっと感じていたからなのでしょう。わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません。被爆体験を語ってくれる親戚もありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその家の事情」でもありました。怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだという事にも、だんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。遠慮している場合ではない、原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝えてゆかねばならない筈でした。まんがを描く手が、わたしにそれを教え、勇気を与えてくれました。
 慣れない表現は多いし、不安でいっぱいでしたが、何も描かないよりはましな筈だと自分に言い聞かせつつ、ともかく描き上げることが出来ました。】

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 僕は小学校時代を広島で過ごしたのですが、当時(もう30年近く前になります)、8月6日は必ず夏休み中の「登校日」になっていて、僕たちは体育館に集められ、倒れそうになるほどの猛暑のなか、「被爆者の体験談」を聞かされたものでした。正直、当時の僕たちは、夏休みの最中に、そんな怖くて気持ち悪い話を聞かされるのを「嫌だなあ」とか思っていたんですよね。
 その後、僕が引越しをして驚いたのは、この「日本」という国全体で同じことが行われているわけではない、ということだったのです。8月6日、8月9日の「原爆の日」は、日本人みんなが黙祷を捧げる日だと僕は思い込んでいたのだけれど、長崎がすぐ近くにあるはずの九州の某県の小学校でも、「原爆について語ること」は、ほとんど行われていなかったのです。

 子供の頃は、「あんな怖い話を聞かされたり、暗い歌を歌わなくてすむようになってよかったなあ」なんて単純に考えていたのですが、今になって考えると、「原爆」という人類史上に残るはずの惨禍は、「日本のもの」どころか、「ヒロシマ」「ナガサキ」のものとして、「ローカルな悲劇」に矮小化されているように思われます。僕も、広島や長崎以外の人たちの多くが、あまりに原爆を「他人事」としてみていて、「そんな辛気臭いものに興味はない」という態度を示しているように感じますし。
 逆に、「ヒロシマ」「ナガサキ」が、「被害にあった自分たち」をアピールするあまり、自らを「特別視」してしまい、これを「日本という国そのものの問題」「世界の問題」として広く伝えるための努力を怠ってきた、という面もあるのかもしれませんが。
 そもそも、日本という国にだって、アメリカとの関係を維持するために「原爆投下はしょうがなかった」なんて言い出す偉い人もいるくらいですし。

 世界の国々のなかには「核兵器を保有したこと」を多くの国民が祝うような国だってあるのです。それは「日本人」である僕にとっては異様な光景なのですが、北朝鮮の例をみてもわかるように、「核兵器」は、とくに小国にとって、たしかに「この上なく有効な外交カード」になりうるというのも事実です。そして、すでに地球を何十回も滅亡させられるほどの核兵器を持つ国が、他の国に「お前らは核を持つんじゃない!」と「世界平和」のために言い放っているというのは、なんだかとても不思議な光景ですよね……
 「核の抑止力」なんて言うけれど、本当に「生きるか死ぬか」という戦争になったとき、「みんな道連れ」にしようという権力者が出ない保障はどこにもないはずなのに。

 しかしながら、僕はこんなことも考えてしまうのです。
「原爆投下」は、歴史的にみれば、まさに「大量虐殺」ではあるのですが、人が「殺される」という点においては、核兵器もピストルも毒殺も、そんななに変わりないのではないか?と。
 自分が死ぬという立場になってみると、下手に拷問とかされてなぶり殺されたり、傷がどんどん悪化して苦しみぬいて死んでいくよりは、いっそのこと核兵器で一瞬のうちに「無」になってしまったほうがラクなのかもしれないな、という気もするんですよね。「核兵器」というのは、人類全体にとっては「特別な意味を持つ兵器」である一方で、個々の殺される人にとっては、「たくさんの悲惨な選択肢のなかのひとつ」でしかないのです。
 「核兵器」だけを特別視することに、そんなに意味があるのだろうか?
 そんな疑問に対する答えも、いまだに出せてはいないんですよね。

 「戦争」も「原爆」も、今の時代に生きている人間にとっては、「他人事」なのかもしれません。
 でも、1945年の8月6日に「ヒロシマ」で亡くなった人たちも、「その瞬間」まで、「ごく普通の戦時下の朝」を過ごしていたのです。

 むしろ「平和であること」のほうが、よっぽど特別なことなのではないかと、僕には思えてなりません。



2007年08月02日(木)
優柔不断な人への「ひとりたび」のススメ

『ひとりたび1年生』(たかぎなおこ著・メディアファクトリー)の「あとがき」の一部です。

【こんな感じで1年間、いろんなところにひとりたびに行ってみました。さいしょのほうはひとりで乗り物に乗ったり、宿に泊まったりするだけでもドキドキしてましたが、それはおかげさまでだいぶ慣れてきました。「ひとりでさみし〜」と思われてないかというまわりの目はやっぱりまだ気になってしまうのですが、そういうのはひとりで行っても気にならない観光スポットやお店を選ぶコツというのがだんだんわかってきたし、まあ多少は「ひとりでも別にいいじゃん」と、開き直れるようにもなりました。

 そしてそれよりもわかってきたのは、自分の性格です。
 私は優柔不断で、あまり自分の意見が言えないため、何人かで旅行をしているとよく「どっちでもいいよ〜」とか「なんでもいい〜」「好きなほうに決めて〜」などなど、人まかせにしてしまうクセ、というのがありました。でも自分ひとりとなると、全部自分で決めなきゃいけない…。そういうときに自分なりに考え、その後の自分の行動をよくよく見てみると、だんだん自分の好みとか、行動パターンなんかが見えてくるのです。

 ひとりたびをはじめた頃は「これ、ひとりでできるかな」というチャレンジ精神のような気持ちが大きかったですが、だんだん自分の性格や好みがわかってくると、旅のプランを練るときにも、「自分って、意外とこういうとこ好きだよね〜」とか「こういうとこは行っても疲れちゃうだけだからやめておこう」とか「たまには思いきってこういう経験もさせてみよう」などなど、甘くも辛くも自分をもてなす「自分トラベル会社」のような気持ちになってきました。こういう風に旅プランを練るのは、けっこう楽しい作業です。】

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 たかぎさんは、この作品を描くまで「ひとりたび」をしたことがなかったそうです。この本では、京都のような「女性のひとりたびの定番スポット」が紹介されている一方で、沖縄にダイビングの免許を取りに行ったとか、長野の善光寺での「朝のおつとめ体験」のような、よくこんなことひとりでやったなあ、と感心してしまうような「ひとりたび」も描かれているのです。まあ、たかぎさんにとっては「取材」でもあり、「観察者としての自分と一緒に旅をしていた」のかもしれませんが。

 僕がこの「あとがき」を読んですごく印象に残ったのは、ここに書かれている「ひとりたびの魅力」というのは、僕が実際に「ひとりたび」をしてみて感じたこととすごく似ているな、と思ったからでした。
 いや、世の中には「ひとりで旅に出ても、現地の人と積極的に触れ合ったり、すぐに旅先で友達を作れてしまう」なんていう、「ナチュラル・ボーン・ひとりたび」な人もいるのでしょう。「ひとりたびのほうが、自由でいいじゃん!」って、リュックひとつしょって世界中を旅しちゃうような。

 でも、そんな「ひとりたび大好き!」じゃない人のほうが、むしろ、「ひとりたび」から受けるインパクトは大きいような気が僕にはするのです。

 たかぎさんと同じように「誰かと一緒に旅をしていると、何でも相手任せにしがちで、ただついていくだけになりがちな人間」である僕にとっては、「ひとりたび」っていうのは、ものすごく淋しくて、不安で、恥ずかしかったのです。観光地に行っても、わき目もふらずに観光し、誰かに声をかけられたり「あの人、ひとりで来てるの?」なんて思われたくないばっかりに、顔の筋肉をひきつらせて、ただひたすらぐるぐると歩き回るばかりでした。
 ところが、ひとりでそうやって外界にさらされてみると、孤独感にさいなまれる一方で、なんというか、いままで目にも留めなかった風景や他の人の仕草に気づいてみたり、確かに「自分が本当に何がしたいのか?」というのを再発見したりすることもできるんですよね。

 だって、ひとりで旅をしていたら、自分で行き先を決めないと、何も始まらないのだから。

 誰も知っている人がいない場所にひとりきりなら、「友達が喜びそうな場所にしなきゃ」、なんて遠慮することもなく、「自分がいちばん行きたい場所」に行くんですよね、結果的に。もちろん、「どうしてもひとりじゃ行きにくい場所」なんていうのも世の中には厳然と存在していて、「ひとりでディズニーランド」なんていうのは、いくら好きでもなかなか難しいのではないかと思うのですけど。

 「ひとりたび」っていうのは、「自分はひとりでもこんなことができるんだ!」と自信をつける機会にもなりますしね。僕は大学生のとき、普段ひとりでは外食すらほとんどしなかったのに、ひとりで地元の人しか行かないような小さな居酒屋に入れてしまった自分に、自分自身で驚いたことがあります。「ひとりたび」の舞台というのは、僕のような人見知り&引きこもりな人間にも、生き延びるためにいろんな隠れた能力を発揮させるものなのでしょう。

 しかし、僕の場合は、そうして選んだ「いちばん行きたい場所」がパチンコ屋とか競馬場だったりして、後で自己嫌悪に陥ったりすることも多々あるんですけどね。交通費以上にお金遣っちゃったりして……