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2007年07月31日(火)
「プロレスの神様」と呼ばれた男

『日刊スポーツ』の記事より。

【「プロレスの神様」とうたわれたカール・ゴッチさんが28日(日本時間29日)、米国フロリダ州タンパの自宅で死去した。死因は肺炎とみられている(付記:実際は胸部大動脈瘤破裂だったそうです)。82歳だった。ゴッチさんは61年4月、日本プロレスのワールド・リーグ戦で初来日。自ら編み出したジャーマン・スープレックス(原爆固め)を日本に広め、アントニオ猪木、藤波辰爾らを輩出するなど、日本プロレス界の「育ての親」だった。生前も無我ワールドの名誉顧問を務め、日本プロレス界の発展に尽力していた。

 厳しい指導で知られ、新日本では藤波、佐山、前田ら、そうそうたるメンバーを育てた。ウエートトレは用いず、75年には自宅に住み込んでいた藤波を動物園に連れて行き、手本としてゴリラの筋肉を見せたこともあった。52年ヘルシンキ五輪のレスリングで銀メダルを獲得した技術はもちろん、レスリング技を応用したジャーマン・スープレックスを編み出すアイデアもあり、日本で「ストロングスタイル」を確立した。】


『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)より。

【猪木がまだ力道山の付き人を務めていた1961年5月、カール・ゴッチは第3回ワールドリーグ戦に参加するために初めて日本のリングに上がった。
 この時にゴッチが披露したジャーマン・スープレックス・ホールドの衝撃を、猪木は以下のように書いている。
<<初来日のゴッチは恐ろしく強かった。力も強くスピードもあり、関節技のテクニックは世界一だったのではないか。私は時間を見つけてはゴッチの試合を覗き見、深く感銘を受けた。特にジャーマン・スープレックス・ホールドという、相手の腰を抱えたまま投げてブリッジでフォールするという技を初めて見て、鳥肌が立った。それからは、力道山の付き人の仕事の合間に、外人側の控室に走って行き、ゴッチの指導を受けた。日本プロレスのやり方とはまるで違って、身体の各部を鍛え、しかも筋肉の柔軟性を失わないように計算されている合理的なトレーニング法だ。私はゴッチに心酔し、自分もゴッチのように強くなりたい、と願った>>
 カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドは投げ技と固め技がひとつに融合したプロレスで最も美しい技だ。猪木がゴッチに魅せられたのも当然だった。
 観客もまたジャーマンの美しさに驚嘆し、ゴッチに熱狂的な声援を送った。だが、力道山はゴッチを二度と呼ばなかった。力道山が生涯勝つことができなかったレスラーはメキシコのエンリケ・トーレスとゴッチの2人しかいない。力道山はゴッチの人気に嫉妬し、誇り高きゴッチは力道山に負けることを拒んだに違いない。
 ゴッチが5年ぶりに再来日を果たしたのは力道山の死後、66年7月のことだ。ゴッチは相変わらずの神業を披露しつつ、試合の合間に日本プロレスの若手を自主的に指導した。
 階段や路面を使い、小鹿雷三(グレート小鹿)や杉山恒治(サンダー杉山)などの若手レスラーに基礎トレーニングを行う見事なコーチぶりに感心した芳の里はゴッチに本格的なコーチを依頼し、快諾したゴッチは68年4月から住まいを東京に移した。ゴッチは日本で最初のプロレスのコーチになったのだ。

(中略)

 猪木がゴッチから学んだものを大きく分ければ、次の3点になるだろう。

1.相手を制圧するためのレスリングのテクニック。
2.試合を終わらせるための関節技と裏技。
3.観客を魅了するための美しい必殺技。

 倒す、投げる、抑えつける。レスリングにパワーは不可欠だ。だがそのパワーはバーベルを持ち上げるような単純なものではない。バーベルは動かないが人は動き、そのたびにバランスが変わり、必要な力のベクトルも瞬間的に変わる。相手の動きに即座に対応し、倒し、投げ、有利なポジションを保持し続ける能力。それこそがレスリングに求められる能力なのだ。アントニオ猪木は日本のトップレスラーとして初めて、グラウンド・レスリングのエキスパートになった。

(中略)

 相手を制圧できれば、次は試合を終わらせなければならない。そのために必要となるのが関節技および裏技である。
 裏技とは、相手の目に指を入れる、噛みつく、指を折る、ヒジを落とす、肛門に指を入れるという類のものだ。勝つためならば何をしてもいい。関節技が極められなければ、頭や顔を殴ってでも極めてしまえ。相手がうつぶせになって守っていたら、膝を相手の太腿に落としてからひっくり返せ。フェイスロックにいくふりをして顎を殴れ。観客から見えない位置から肛門に指を突き立てろ。相手がひるんだ隙に腕や足を取れ。このようにゴッチは猪木に教えた。
 猪木がゴッチから受け継いだ代表的な必殺技といえば、前述のジャーマン・スープレックス・ホールドと、アントニオ猪木の象徴ともいえる卍固めが挙げられる。

(中略)

 猪木は、師匠のカール・ゴッチが決して「神様」ではなく、アメリカでは受け入れられない時代遅れのプロレスラーであることを充分に理解していた。
 それでも、ゴッチのレスリングに対する真摯な姿勢には共感できたし、テクニックの細部とパワーアップおよび柔軟性向上のためのプログラム、コンディショニング維持のためのエキササイズは是が非でも学んでおきたかった。
 猪木はゴッチの強さを身につけた上で、華やかなアメリカン・スタイルのプロレスラーになることを目指したのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「プロレスの神様」カール・ゴッチ。【80歳を過ぎてもゴッチさんは毎日、腕立て伏せ200回をこなし、ワインを一晩に2、3本も空けてしまうほど元気】だったそうです。【亡くなられる数日前から容体が急変。自宅近くの病院に一時入院し、最後は愛犬を残した独り暮らしの自宅で亡くなった】ということなのですが、たぶん、「カール・ゴッチ逝去」のニュースというのは、ゴッチさんが住んでいたアメリカでは、日本ほど大きく取り上げられることは無かったのではないでしょうか。

 僕が小学生〜中学生だったころ、今から20〜30年くらい前は「プロレス」は野球と並ぶ「人気スポーツ」で、僕たちはみんな「プロレスごっこ」をして遊んでは怒られていたものでした。
 当時の人気レスラーといえばタイガーマスク、そしてもちろんアントニオ猪木だったのですが、当時の「プロレス少年」たちはみんな、「鉄人」ルーテーズ、と「神様」カール・ゴッチの名前を記憶しているはずです。

 実は、僕もカール・ゴッチの実際の試合は、その一部を昔の映像で観たことがあるくらいなんですよね。カール・ゴッチは「新日本プロレス」の旗揚げ戦でアントニオ猪木と対戦しているのですが、その試合が行われたのは1972年で、ゴッチ48歳のときでした。要するに、僕くらいの世代は、ちょうど「カール・ゴッチの現役生活が終わったあとにプロレスを観はじめた」というわけです。

 しかしながら、実際の試合をほとんど観たことがないにもかかわらず、「神様」ゴッチの名前は、僕たちの間でも有名でした。当時、梶原一騎原作の『プロレス・スーパースター列伝』などのマンガやプロレス雑誌でのカール・ゴッチは、まさに「神様」だったのです。
 僕たちにとってのスーパーヒーローだった猪木よりも圧倒的に強いレスラーであり、若手を厳しく鍛え上げる「ゴッチ道場」の鬼コーチでもあるカール・ゴッチは、実際に彼が闘っている姿を観たことがないだけに、なおさら、心の中で「神格化」されていったのです。それこそ、マンガの中だけに存在する架空のスーパーヒーローのように。もし、ゴッチのプロレスを毎週のように観ていたら、ここまで「神様」として心に残ることはなかったかもしれません。
 
 ここで紹介した『1976年のアントニオ猪木』という本で紹介されているカール・ゴッチの話は、僕にとっては、「神様」の実像が伝わってくる、非常に興味深いものでした。
 技だけではなく、トレーニング方法にまで革命をもたらしたカール・ゴッチなのですが、その一方で、「勝負」に関しては、限りなく非情な一面もあったようです。正攻法のレスリングや美しい技を追究する一方で、「肛門に指を入れる」いうようなダーティなテクニックも、「神様」は惜しげもなくアントニオ猪木に伝授したのです。強いにもかかわらず「華がない」ためにアメリカでは実力ほど評価されることがなかったゴッチにとっては、日本のプロレスというのは、「自分を認めてくれる国」であり、アントニオ猪木は「最高の作品」だったのかもしれません。

 そういえば、僕たちはさんざんいろんなプロレス技の練習をしたけれど、ジャーマン・スープレックス・ホールドだけは、誰もマネしようとはしなかったなあ……



2007年07月29日(日)
「鳥葬」という最高の葬礼

※今回はややグロテスクな記述が含まれていますので御注意ください。


『経験を盗め〜文化を楽しむ編』(糸井重里著・中公文庫)より。

(「こんなお墓に入りたい!」というテーマの糸井重里さんと長江曜子さん(墓地研究家・家業の墓石店の社長もされているそうです)、佐々木幹郎さん(作家)との鼎談の一部です)

【糸井重里:ところで、佐々木さんはお墓参りが趣味とうかがいましたが。

佐々木幹郎:墓地へ行くのは好きですね。はじめての町に行ったとき、僕が町の全体像をとらえるために必ず行く場所が2ヵ所あって、そのひとつが墓地なんです。

糸井:もうひとつは何ですか。

佐々木:刑務所です。つまり都市というのは身元不明の人間が集まってくるわけですよ。すると、必ずアウトローが出てきて何かをやらかす。彼らを集める場所が刑務所なんですね。

糸井:ああ、社会ですね。

佐々木:そして墓地は、その身元不明の人間が最終的に入る場所です。この2つをおさえると、その年の輪郭が見えてくる感触があります。ところが、この理屈が通らない地域があって、チベット仏教とが住むチベット、ネパールとインドのヒンドゥー教徒の住む地域には、刑務所はあるけど墓地はない。

糸井:人々が移動しているからですか。

佐々木:いや、無墓文化なんです。ヒンドゥー教徒は火葬してガンジス川に流すでしょう。墓はないんです。ネパールなんて「墓」を指す言葉自体もない。

長江:そうらしいですね。

糸井:概念がないんだ。チベット仏教徒はどうしているんですか。

佐々木:チベット仏教徒にとっての最高の葬礼法は、死体をハゲワシに食べさせる鳥葬です。鳥葬は人間がこの世でなしうる最後の施しを鳥に与えるわけで、チベット仏教徒なら誰もが望んでいる尊い行為なんです。その次が火葬。ああいう高山地帯では、遺体を焼くだけの木を集めるのにお金がかかる。だからランクが高いわけですが、火葬の場合でも、骨はそのまま放っておいて、風に飛ばされるままにします。次が水葬で、ヤルンツァンポ川という大河へ、遺体を魚が食べやすい大きさまで千切って、流してやる。で、いちばん下が土葬です。これは疫病にかかった人か犯罪人、もしくは生まれて間もなく死んだ子どもの場合ですね。だけど、その埋葬法というのが、ちょっと地面を掘って、石を積み上げただけのものなんです。だから夜になると、チベットオオカミが食べに来る。

糸井:オオカミ葬になっちゃうわけだ。

佐々木:実際、土葬の場所に行ったら、オオカミがほじくりだした骨がいっぱい出ていました。でも、鳥葬もすさまじいんですよ。西チベットの、カイラスという聖山にいちばん近い鳥葬場がもっともステイタスが高いんですが、鳥葬場は広い岩の平面にあって、岩肌に血がこびりついていて、近くにさびたナイフが転がっていた。実は、鳥葬にあたっては、ハゲワシが食べやすいよう、遺体を切り刻んで砕いておくんです。

長江:丸のままじゃ、食べられないし、魂が早く天に戻れるように、と。

佐々木:ハゲワシはその準備が整うまで待っていて、人間たちが引き上げたら、一斉にザーッと群がるんです。僕が行ったときには、鳥が食べない髪の毛は残っていたけど、血も乾いていたから、「ああ、こんなふうにやられるのかな」と思って、その場所に寝ころんだわけ。その瞬間、岩山のまわりにいたハゲワシがバタバタバタッって……。

糸井:すごいな。

佐々木:僕はもう、走り回りましたよ、「まだ生きてるぞ!」って。

長江:証明しないとあぶない。

佐々木:さらにおもしろかったのは、鳥葬の場所の近くには、死んだ人が着ていた服などを集めておく場所があるんですけど、チベットの巡礼者は、そこへ行って、自分で着られる服を取っていくんですよ。

糸井:それじゃあ、巡礼じゃないじゃないですか。

佐々木:いや、結局、チベット仏教徒は、自分の生きた証が地上に何も残らないことを望んでいるわけです。そうしないと、輪廻転生できませんから。だから残った衣服を取ることも決して悪いことではないんです。死者が最後の功徳として、ハゲワシには自分の肉を捧げ、人間には服を残す。鳥葬天葬ともいいまして、ハゲワシは天に近いところまで自分の魂を持っていってくれる鳥なんです。

糸井:話を聞いただけで気が遠くなりますね。僕、お墓というテーマをずっと話したかったんですよ。というのも、ある対談を読んでいたら、「あなた、お墓に入る人?」っていうような会話があったんですね。そのとき、墓に入るか入らないかという人生の選択はすごいぞ! とびっくりしたんですよ。

(中略)

長江:アメリカ人は骨よりも遺体にこだわりますね。アメリカでは実はニューヨークでも75%近くは土葬で、火葬率は25%ちょっとしかないんです。復活の日に肉体が甦るという思想があるためでしょうが、ベトナム戦争や湾岸戦争のときでも必ず遺体を運んでましたよね。

佐々木:上海も、今は法律で火葬と決められているんですが、1965年くらいまでは土葬だったそうです。ところがね、その前年、来年からは火葬だと決まった瞬間、老人の自殺者が激増したんですって。数字を見て、びっくりしました。

糸井:火葬はイヤじゃ、と。

長江:中国の人は土葬を好みますからね。タイに行ったとき、普通、タイでは仏教徒は火葬にするんですが、中国の人は火葬を嫌がるので墳墓をつくる、とガイドの人が言っていました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この鼎談、初出は『婦人公論』の2000年7月号だそうですが、おそらく、チベットでもアメリカでも中国でも、そして日本でも、当時から「葬礼法」については大きな意識の変化はみられていないと思われます。

 チベット仏教徒の「鳥葬」というならわしについては、僕も耳にしたことはあったのですが、「世界にはいろんな葬礼があるんだなあ」というくらいの感慨しかなかったのです。
 でも、この佐々木さんの生々しい現地での話を読んで、その光景を想像してしまうと、正直「これは(僕にとっては)残酷だ……」と感じてしまいました。いや、ただ遺体を鳥葬の場所に横たえておくだけではなくて「ハゲワシが食べやすいよう、遺体を切り刻んで砕いておく」なんて、大部分の日本人にとっては、「そんな罰当たりな……」という行為ですよね。そこまでハゲワシにサービスしなくても良さそうなものです。

「葬礼の方法」には、本当に文化によって大きな差があり、チベット仏教徒にとっては「いちばん下」の土葬がアメリカ人や中国人の大部分にとっては、「もっとも望まれている葬礼法」になるわけです。
 チベット仏教徒たちにとっては、「土葬なんて、この世に未練を残しすぎだし、輪廻転生できなくなるのに……」という感じなのでしょうけど、それを他の伝統や文化を持つ人が受け入れるのは、なかなか難しいことのように感じます。
 まあ、こういうのは、どちらが正しい、というものではないでしょうし。
 時代背景や環境、地域によっては、衛生面での必要性などから、「遺体を集めて火葬するしかない」「遺体が見つからない」なんてこともあるのですから、「選べる」ことそのものが、すごく幸福なことなのかもしれませんけど。

「火葬になりたくないから土葬してもらえるうちに自殺してしまう」というのも、そこまでイヤなのか……と、考えさせられる話ではあります。
 僕自身も、宗教的な理由というよりは、「自分が火葬されている途中で、万が一でも息を吹き返したら……」などというようなことを想像してしまうので、正直「火葬を望んでいる」わけではないんですが。しかし、土葬で一度息を吹き返した後に窒息死というのも……
 現実的には、今の日本で「死亡確認」をされた人が「甦る」確率なんて、「ゼロに限りなく近い」はずなのですが。
 
 それにしても、「死ねば何もわかんなくなるんだから」って日頃は言っていても、そういうのって「気になりはじめるとキリがない」のですよね本当に。



2007年07月27日(金)
「アイスコーヒー」と日本人

『家電批評monoqlo VOL.1』(晋遊舎)の記事「アイスコーヒー・本気レビュー」のなかの「アイスコーヒー豆知識」より。

【現在、世界中の国で飲まれているアイスコーヒーだが、その歴史は意外と知られていない。しかも、最初にコーヒーを冷やして飲む「アイスコーヒー」という飲み物を考えついたのは、大正時代の日本人だといわれている。これは、お茶などを始めとして温かい飲み物を冷やして飲むという、日本独自の文化によるものなのである。
 世界各国では食品衛生上、飲み物を温めずに(火を通さない)飲むことが危険だと見なされていたり、欧米の一部の国では、水以外の飲み物を冷やして飲むことは非常に贅沢だという考えがあった。これに対して、日本では昔から井戸水のように地下から汲んできた水を直接飲めるほど安全できれいな水が確保できたことや、飲み物を冷やして飲む文化が一般的に広まっていた。このことが、日本でのアイスコーヒー誕生の大きな理由と言えるだろう。
 こうした状況の中、世界各国でアイスコーヒーが広まったのは、ここ10年くらいの間である。その背景には、缶やインスタントなど日本のコーヒー文化が世界に浸透したことが挙げられる。また、これと同時期に、スターバックスやイタリアのカフェなどでアイスコーヒーをメニュー化するようになった。しかし、これも現地に旅行などで行った日本人が、アイスコーヒーを注文したことが始まりと言われている。このように、世界中に広まるアイスコーヒーを語る上で、日本の存在は欠かせないのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は「夏は当然アイスコーヒー!」で、「冬でも冷たいコーヒーが飲みたいことが多い」くらいなのですけど、アイスコーヒーの発祥が日本だったとは知りませんでした。確かに、そう言われてみれば、僕が言ったことがある海外では「アイスコーヒー」ってあんまり見なかったような気がします。「コーヒーは温かい飲み物」で、「冷たいものを飲みたいときには水かコーラのような清涼飲料水」というように、かなり「棲み分け」がされているのかもしれません。先日行ったイタリアでも「カプチーノかエスプレッソか?」とは食事のたびに聞かれましたが、「ホットかアイスか?」とは、一度も訊ねられませんでしたし。
 
 コーヒーという飲み物の長い歴史を考えれば、「これを冷やして飲んでみよう」と考えた人は「大正時代の日本人」の前にたくさんいそうなものなのですけど、このコラムを読んでみると、世界基準で言えば、「冷たい飲み物」というのは、それだけでかなり贅沢なのだ、ということがよくわかります。多くの国では、安全な「アイスコーヒー」をつくるために一度沸かしたコーヒーを冷やさなければならないわけで、そういう意味では「非常にコストパフォーマンスが悪い飲み物」になのです。

 それが「伝統」というものなのでしょうけど、暑いなかホットコーヒーを飲んでいるイタリア人を見ていると、僕などは「モノ好きな……」とか、つい考えてしまうのです。
 あちらの基準からすれば、「コーヒーを冷たくして飲む」というのは、僕たちにとっての「コーラを温めて飲む」ことと同じようなものかもしれませんけど。

 「スターバックス」などの海外のコーヒーショップが日本中にどんどん支店を増やしていて、これが「本場」の味か……なんて感心している日本人がたくさんいる一方で、世界各国の人々は「缶コーヒーやインスタントコーヒー、アイスコーヒーなどの日本発のコーヒー文化」に大きく影響を受けているというのは、なんだかちょっと不思議な気もしますね。



2007年07月25日(水)
「僕が管理人をやめれば『2ちゃんねる』はなくなりますよ」

『週刊SPA!2007/7/17号』(扶桑社)の「トーキングエクスプロージョン〜エッジな人々」第491回、”2ちゃんねる”管理人の「ひろゆき」こと西村博之さんと”カリスマプログラマー”小飼弾さんの対談記事です。取材・文は杉原光徳さん。

【小飼弾:ひろゆきさんは、2ちゃんねるに続き「ニコニコ動画」まで当ててすごい! ニコニコ動画の発想は、YouTubeなんて目じゃない。

ひろゆき:ニコニコ動画は、似たようなものを考えている人や、プロトタイプを作っている人たちと話しているときに「昔、僕が思いついたものと似ている」と意気投合して、できあがったんです。だから、僕は企画を出したくらいですよ。

小飼:いや、発想も思いつきも、立派な技術。それに、訴状を無視するのも技術のうちかなという(笑)。しかし、2ちゃんねるの訴訟費用をカンパするという話にはならないの?

ひろゆき:ウィニー裁判の費用のように、最初の1回はできたと思うんですよ。でも、2ちゃんねるの場合は1回で終わるものじゃないので。

小飼:筋違いかもしれないけど、ひろゆきさんの代わりに被告人としての資格を争うという人はいないの?

ひろゆき:どうでしょう? 僕と被告人の資格を争って、僕に資格がないとなると、どこにお鉢を持っていけばいいいのか、わからなくなるんですよ。

小飼:2ちゃんねるの勝負は、ひろゆきさん自身に何かあったときですね。まあ、僕が潰させませんけど。

ひろゆき:僕が管理人をやめれば2ちゃんねるはなくなりますよ。でも、2ちゃんねるを手放すには、いろいろと作業をしなきゃいけない。よくよく考えると継続していくより、手放すことのほうが大変なんです。

小飼:なるほど。でも、2ちゃんねるを潰させようとしない為政者は、結構多いと思う。僕は、人間の中に何かが鬱積して問題を起こすような不満を、2ちゃんねるがあることで抜くことができているのではないか、と考えているんです。

ひろゆき:それ、よく言われますよ。匿名で書かせておいて、後から裏でコントロールしているとか。

小飼:でも、2ちゃんねるに書き込んでいるなら、まだいいけど、本当に怖いのは「俺はここにいる」という欲を出さない人たちだよね。

ひろゆき:自分の身の回りのことに興味が持てず、どうでもいいと考えている人ですよね。爆弾を持っていたら爆発させてもさせなくても、どちらでもいい人。昔は、そういう人でも社会に入れていたけど、今は行き場がなくなっていますよね。2ちゃんねるで犯行予告をした人とか、居場所のなくなった人が、とりあえず人をいっぱい殺してみるというのは実際にありますし。昔は、居場所のない人同士が新興宗教とかをつくったりしていたんだけど、最近はそれすら許されなくなったので凶行に走る。

小飼:そういった人たちにとって、2ちゃんねるは、いい行き場になっている。でも、そういう人をコントロールしようとしてはダメですね。

ひろゆき:僕は教育次第で、北朝鮮みたいにコントロールできるかと。でも、徐々にワクチンの抗体ができて、なにも効かない黄色ブドウ球菌みたいな存在は出る。コンピュータの世界でいえば、C10K(クライアント数が増えるとサーバーがパンクする問題)みたいなことが起きちゃうんですよ。どんな仕組みでも。

小飼:そうやってどんどん複雑になって、問題が問題を呼ぶ。

ひろゆき:”問題が問題を呼ぶ”というのは、グーグルが困っているのが電気代だという話に置き換わりますね。昔は、CPUのコストが高かったのが、最近は電気代が高いから電気のためにダムの近くに工場を造る。こうやって問題が違うところに移っていく。

小飼:それは、問題解決の宿命。結局、完全な問題解決はないのでは?

ひろゆき:太った人が痩せればモテると思ってダイエットしたら、今度はファッションセンスが悪い、お金がない、といろんな問題が見えてくる。だからといって、お金を稼げる職業に就くと洋服を買いにいく時間がない。実はモテるためには痩せるだけじゃダメだったとかね(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに「ニコニコ動画」って、誰かが考えつきそうなアイディアだけど、それを実現して多くのユーザーが(有料会員も含めて)利用するようなサービスにしていくというのは、そんなに簡単なことではないと思います。
 まあ、発想そのものは「目じゃない」としても、YouTubeがなければ、「ニコニコ動画」が世に出ることはなかったのではないかな、という気もするのですが。

 僕は2ちゃんねるの管理人である「ひろゆき」という人を「お祭り好きの快楽主義者」というようなイメージで今まで見ていたのですけど、この記事で実際に「ひろゆき」氏の発言を読んで感じたのは、彼の「責任感と自負心の強さ」なんですよね。

 「2ちゃんねる」の管理人であり続けることというのは、実際、ものすごく大変なことなのではないかと思います。「2ちゃんねる」を運営することも、書き込み内容について訴えられることも、かなり「めんどうなこと」であるのは間違いないはずです。裁判だって「罰金は払いません」なんて「開き直っている」ことの是非は別として、ああやって訴えられ、世間の話題になるのは、けっして楽しいことばかりではないでしょう。それでも「ひろゆき」氏は、「2ちゃんねる」の顔として、一部の熱狂的な信者と世間一般からの不審の目を浴び続けています。「2ちゃんねる」で、そんなに儲かっているわけでもないのに(というか、サーバーが維持できなくて「2ちゃんねる」が無くなる、なんて話もあったくらいです)。

 常人なら、こんなにたくさんのトラブルにさらされていれば、身も心もボロボロになってしまうでしょうし、「もう管理人なんて辞めた!」と言っていてもおかしくないでしょう。現に、そうやって終わっていった人気サイト・ブログというのもたくさんありますから。

 それでも、「ひろゆき」氏は、こうして現在も矢面に立ち続けています。彼の能力ならば、もっとラクな方法で優雅な生活ができるくらい稼ぐことは、そんなに難しくないはずなのに。「すごい」というより、いったい何が「ひろゆき」氏をこんな茨の道に進ませているのだろうか?と、僕はちょっと怖くなってきています。
 政治家と同じように「ここで『2ちゃんねる』を手放したら、自分の『権力』を失って、味方もいなくなり、一気に今までの敵から引きずりおろされてしまう……」というような危機感もあるのでしょうか?

 「2ちゃんねる」は「ガス抜き」なのか、それとも「大勢の人のストレスを増幅させる装置」なのかというのは、難しい問題ですよね。たぶん、その両面があるのでしょうが、総和として「有益」なのか「有害」なのかというのは、なんとも言えないような気がします。
 もっとも、為政者たちは、困った顔をしてみせながらも、「民衆の本音を知るためのツール」として、潰すよりも残して「利用」するほうを選ぶのではないかな、と僕も思いますけど。
 「2ちゃんねる」が無くなっても、「2ちゃんねる的なもの」が消えることはないでしょうしね。

 それにしても、【太った人が痩せればモテると思ってダイエットしたら、今度はファッションセンスが悪い、お金がない、といろんな問題が見えてくる。だからといって、お金を稼げる職業に就くと洋服を買いにいく時間がない。実はモテるためには痩せるだけじゃダメだったとかね】というのは耳の痛い話ではあります。結局、問題が解決に向かわないのは「太っているから」ってことにしておいたほうがラクだから、っていうのもあるのかもしれません。「痩せたらモテるはず」っていうのは、「どんなに頑張ってもモテない」よりは、なんとなく「希望」があるのでしょうし。

 「2ちゃんねる」が存続しているかぎり、日本のネット上での災厄は「2ちゃんねるのせい」にできるのだろうし。



2007年07月23日(月)
「艇王」植木通彦に引退を決意させた「ファンの言葉」

『スポーツニッポン』の記事より。

(「艇王」とファンに畏敬された競艇選手・植木通彦さんが「引退」について語ったインタビューより)

【――引退を決めた時期と理由は?

 植木 心の中で20年間が大きかった。(桐生で)ケガをしたときに20年やろうと。この数字が頑張る支えになっていた。12年前にカミさん(節子夫人)と結婚したときも“(選手生活21年で迎える)40歳までは走るよ”と言っていた。

 ――家族は引退をどう受け止めている?

 子供は3人いるが、1番下の子(二男)は“ディズニーランドにでも行くの?”という感じだった。

 ――もし3月の総理杯(平和島)を優勝していたら?

 優勝しても辞めていたと思うし、F休み明けで平和島を走れたのがうれしかった。6日間走れたことに悔いはない。

 ――引退の相談は?

 恩師(田中靖人さん=小倉商野球部の当時の監督)には相談して「(辞めたら)一般社会は厳しいぞ」と言われたが、賛成も反対もされなかった。

 ――グランドスラムに届かなかった(MB記念を除く7冠制覇)ことは?

 選手としては達成したかったが、人生で1個くらいはできないことがあってもいいかな…と。人生は長いので、これから足りない分を補えればいいかなと思っている。

 ――印象に残るレースは?

 特にない。お客さんが記憶に残ればいい。

 ――20年走って競艇で学んだことは?

 普通の男が街を歩いていて、サインしてくださいと言われるようになったのは競艇のおかげ。

 ――ファンからかけられた言葉で印象に残っているのは?

 最近、若松(4月の周年記念2日目)で落水した。普通はヤジが飛ぶところだが「植木、大丈夫か?」と言われた。そのときに「もう乗れんかな?」と思った。お客さんの優しい言葉に甘んじたらいけないのかな…と。

 ――引退後のプランは?

 しばらくは外でいろんな方と出会って競艇以外の知識を身につけたいし、競艇界に役立つことがあればやってみたい。評論家?しゃべるのはうまくないから(笑い)。ただ、いろんな可能性があると思う。

 ――20年間は長かった?

 よくもったな、という感じ。波瀾(はらん)万丈だったと思う。SGは1つ目は運。2つ目からはお客さんと家族の支えで獲らせてもらったと思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「競艇選手」というのは、一般の人にとっては、ちょっと馴染みが薄い存在なのではないでしょうか?
 同じ公営ギャンブルの名選手でも、武豊を知っている日本人は多くても、植木通彦という名前を知っている人はそんなにいないのではないかと思います。いや、僕も競艇にはあまり詳しくないので、正直「名前くらいは聞いたことがある」くらいなのですけど。

 植木選手は、マンガのタイトルとしても知られる競艇のコーナリングのテクニック「モンキー・ターン」の名手として一世を風靡し、公営競技で初の年間獲得賞金2億円を達成するなどの多くの記録を残しているのですが、その「艇王」が、このたび、競技生活20年を機に引退することが発表されました。
 競艇が、お金が賭けられているギャンブルという一面もあるため、植木選手の「引退レース」は、大々的に周囲の選手や観客に発表されることもなく、植木選手がそのレースに勝利したあとに「これが最後のレースだった」ことが発表されました。競馬などでは騎手の「引退レース」で盛り上がることも多いので、ファンサービスとしてはどうなのだろう?とも感じるのですが、この去り際も「艇王」の美学によるものだったのかもしれません。

 僕がこのインタビューを読んで最も印象に残ったのは、植木選手が「ファンからかけられた言葉で印象に残っているのは?」という問いに対して、【最近、若松(4月の周年記念2日目)で落水した。普通はヤジが飛ぶところだが「植木、大丈夫か?」と言われた。そのときに「もう乗れんかな?」と思った】と答えたところでした。

 お金がかかっている競艇場では、選手たちはかなり激しいヤジにさらされることが多いのですが、「艇王」植木選手にとっては、「ファンに優しい言葉をかけられるようになってしまったこと」というのは、勝負師としての自分の限界の象徴のように感じられたのでしょう。
 汚いヤジを浴びて嬉しく感じる人はいないとは思いますが、「ヤジも浴びせられなくなる」というのは、それはそれでせつないことなのかもしれません。誰からも期待されていなければ、ヤジられることもないはずです。
 もちろん、これまでも植木選手が失敗をしたときに、優しい言葉をかけるファンが皆無だったわけではないのでしょうけど、その落水のとき「ファンの優しい言葉」が耳に残ってしまったというのは、やはり、植木選手自身にも「そろそろ限界かな」という意識があったような気もします。

 「ファンの優しい言葉」に「自分の限界」を悟ってしまった植木選手。
 このファンには悪気は全然無かったと思うのですが(むしろ、イヤミっぽく言われていたら、植木選手の心には残らなかったでしょう)、勝負の世界というのは、本当に厳しいものなのだな、とあらためて考えずにはいられませんでした。



2007年07月21日(土)
日本人が失ってしまった「貧乏の知恵」

『月刊CIRCUS・2007年8月号』のインタビュー記事「荒俣宏〜博覧強記の巨人が語る、現代『意地っ張り男』のススメ」より。

【今の20代、30代の男たちって、「将来に対する漠たる不安」に悩んでるの? 我々の世代から見ると、今の日本人は何でもあって、何でもできて、うらやましい限りと思うけどねえ(笑)
 まあ、「漠たる不安」というのはいつの時代にもあることですよ。でも貧乏な人じゃなく、ぜいたくな人に縁がある。「ぜいたく病」ですね。かつて作家の芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自殺しましたが、それくらい高級です。「漠たる不安」、つまり究極のメランコリーと中性脂肪と、このふたつは心と体のぜいたく病です。
 もともと日本人というのは、なるべくそういう「漠たる不安」がないよう、「負けたふりして勝つ」とか、「裏と表」、「本音と建前」。あるいは「陰陽」、「ハレとケ」といった二重構造をうまく使って生きてきた大変賢い国民なんです。例えば経済で言うなら、つい最近までそうだったように、海外の物は国内に入れないようにするシステムを作っておきながら、日本から海外には物を売るとか、護送船団方式とか、二重構造を巧みに使い分けていました。
 その根底には「貧乏の知恵」があります。ビートたけしさんも言っていましたが、貧乏は輪廻みたいに連鎖するから、どこかで断ち切らなければならない。だから、両親は貧しい中でも必死に働いて子供に投資する。そのおかげで次世代に大学卒が増えて、ようやく輪廻を断ち切った。それが我々団塊の世代です。
 ところが、我々の世代は貧乏の連鎖を断ち切った喜びのために、そのノウハウを次の世代に伝えてこなかった。断ち切った後の幸せだけを見せつけたものだから、恐らく今の20代、30代はそうした大人たちの姿を見て、勝手なことやってるなぁと思ったはずです。本来なら「貧乏」というハンディに代わるあたらしい「重圧」が誕生したことを示さなければならなかったのに、男は「ちょいワルおやじ」だとか言って中年には似合わない軽いところしか見せないし、女性は女性で、本当は子供をまともに育てるには一生の半分くらいの時間とエネルギーを注ぐ方法も考えなけりゃいけないのに、「私もまだ女よ」とか言ってブランド物のバッグを持ったり浮気に励んだりする方向にエネルギッシュですよね。でも、それと同時に「お母さんのド根性」のようなものを次の世代に伝えなきゃならなかったんだけど、それをしてこなかったが我々の世代です。つまり、サブカルチャーなんていう「陰」だけ、あるいは逆に会社勤めという「陽」だけの世界で食べていけるようになり、社会が一重構造になってしまったんですね。
「オタク」なんていうのも、昔と今ではライフスタイルが違っていました。
 ぼくもそうですが、昔のオタクは、普段の日は夕方5時までしっかり働いて、その後の時間で趣味に没頭するという二重構造だったのに、我々の世代が、地道にコツコツ働く人を「つまらない」と排除して、面白いおじさんだけの世界にし、ハードワークのお母さんの役は誰もやらずに、カッコイイお姉さんの役だけをやってきてしまったがために、日本人がずっと持ち続けてきた粘り強いノウハウをなくしてしまった。
 人生の半分をあきらめる。でも、その代わりに、残った半分は死守する気概ですよ。相撲で言うなら、15戦全勝を狙うのでなく、8勝7敗をあらかじめ覚悟して、8勝7敗で生き抜く方法ですね。

(中略)

 小学校の給食費未払いが問題になってますけど、昔だって払えない人なんてゴロゴロいましたよ。でも、服を売ってでも歯を食いしばって払うことが、長い目で見ると有利だと知っていたんです。また、そうしないと地域の一員と見なされなかった。それで、「ちょっと味噌が切れちゃって…」なんて言って、隣近所に借りに行く人が結構いましたけど、それは「つき合いのコスト」のようなものでしたね。返してくれそうになくても、貸していたわけです。損したんじゃないんですよ。保険や年金に加入するのと同じです。助けてやれば助けてもらえるんですから、年金よりも確かな保障でしょ。
「つき合いのコスト」という意味では、談合システムというのも、日本の暮らしのノウハウと言えるでしょう。でも、談合がいまや社会悪と言われ、隣づき合いが怖い時代になった。つくづく今の人は不運ですよね。これを壊した張本人は我々団塊だけれども。】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 今月で還暦を迎えられる、日本を代表する「知識人」である荒俣さん。まあ、この方の場合は、「知識オタク」と言うべきなのかもしれませんが。

 「今の30代の男たち」のひとりである僕としては、この荒俣さんの話に対して、頷ける部分がある一方で、「生きづらくなったこと」のすべての原因が「団塊の世代」に帰するというのは、ちょっと自分たちを買いかぶりすぎているのではないかな、という気もしたのです。

 ただ、僕がまだ子供で、「団塊の世代」の人たちも若かった30年前くらいに比べれば、確かに「自分の将来のために、あるいは次の世代のためにあえて損な役回りを引き受ける生き方」というのは流行らなくなってきているのかもしれないな、とは感じています。そして、「そんなこと言っても、自分の人生は一度きりなんだから、自分の人生を犠牲にしての『子育て』とか『介護』なんていうのは割に合わないよなあ……」と、僕自身も考えがちなんですよね。そしてそれはもう、後戻りできない「歴史の流れ」みたいなものではないかとすら思えてきます。それはもう、そういう生き方が「正しい」とか「間違っている」とかじゃなくて。

 いくら「昔はよかった」と言われても、今さら「隣近所に味噌を借りにいくような生活」に、この先日本人が回帰していくとも思えませんし、「談合システムが暮らしのノウハウ」だと言われても、賛成はしかねるのですけどね。今は「談合が必要悪」という時代ではないでしょうし。
 「服を売り払っても給食費を払うような生き方のほうが、長い目で見れば有利」だというのは、たぶん、現代でも同じなのではないかと思いますが、そんなふうに考えられない人たちが増え続ければ、結局のところ「払う人がバカ」だということになっていくのでしょうか。

 この荒俣さんの話のなかで、「現代はオタクに優しい時代」であるというのは、確かにそうなんだろうなあ、と感じます。昔は「オタク」として趣味に生きるためには「まずは一社会人として最低限の責任を果たすこと」を要求されていたのに、今はちゃんと働いていなくても、オタクとして生きていることが、それなりに認められる時代になってきました。それだけ日本は豊かになっている、ということなのでしょうが、それはある意味、過去の日本人たちの「貯金」を食いつぶしているだけのような気もするのです。

 「今は苦しいけれども、将来に希望を抱いていた時代」と「今はそれなりに豊かで好きなことができるけれど、将来には希望が持てない時代」とでは、いったいどちらが「幸せ」なのでしょうか?



2007年07月19日(木)
プロ作家が文学新人賞に投稿した場合の「入選率」

『この文庫がすごい! 2007年版』(宝島社)より。作家・山本甲士さんへのインタビューの一部です(取材・文は友清哲さん)。

【インタビュアー:デビューのきっかけは本格ミステリーが主体の横溝正史賞ですから(優秀作受賞)、たしかに多彩な作風です。

山本甲士:そうですね、「巻き込まれ型3部作」では普通の庶民を描きましたが、デビュー後しばらくは探偵が登場するようなミステリーを書いていました。よく人に自慢するんです。横溝正史賞では鈴木光司さんや打海文三さんなど、大賞を逃した人からもスゴイ作家が出てるんだぞ、と(笑)。

インタビュアー:その一方、別名義の『君だけの物語』(山本ひろし名義)は、素人が小説家を目指す過程がかなり細かく描かれたハウツー色の強い小説ですが、これは自伝的な作品だと考えてよいのでしょうか?

山本:もともとは、本当にハウツー本を書きたくて考えたものなんです。でも編集者に話を通す際、ハウツー物と説明したら実現しづらいだろうと考え、息子のために小説を書く父親の人情話という、小説のふりをして進めた企画なんです(笑)。私、デビュー後も「山本ひろし」名義で児童小説などいろんな新人賞に応募して、賞金稼ぎをやっていましたから。年によっては「山本甲士」としての稼ぎよりも賞金総額のほうが多いこともありました。

インタビュアー:それはすごい! その経験がハウツー本という発想に……。

山本:そうなんですよ。デビュー当時はまだそれほど仕事もなかったですからね。アルバイト的な意味合いもありましたが、とにかく実力をつけておかねばと考え、入選率5割を目指して投稿を続けていたんです。

インタビュアー:うーん、これまでありそうで聞かなかったお話。プロの方の入選率がいかほどになるのか興味津々なのですが。

山本:トータルで30くらいは入選したと思いますが、最後のほうは5割に達していたと思いますね。賞金も様々で、上は現金100万円から、下はちょっとしたエッセイで図書券3000円分とか。普段、仕事としてやっていないジャンルでガス抜きしたいという気持ちもありました。これである程度自信がついて、ノベライズでも何でも、機会を逃さずトライできる下地ができたのかもしれません。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこの山本甲士さんのこと、正直知らなかったのですけど、この「プロデビュー後も実力をつけるために投稿を続けていた」という話は、非常に興味深かったです。
 文学新人賞を受賞してデビューしたまでは良かったものの、著作が売れずに本を出してもらえなくなった「プロ作家」たちが、再デビュー、あるいは作家としてあらためて評価されることを目指してエンターテインメント系の賞に応募するというのは、けっこうよく耳にする話なのですが、ここまで赤裸々に「新人賞荒らし」をやっていたと語っているプロ作家は、けっこう珍しいのではないでしょうか。

 しかしながら、山本さんのような中堅クラスの作家でも、新人賞に実際に応募してみると「目標が入選率5割」くらいなんですね。つまり、「プロの作品でも、半分以上は落選してしまうのが当たり前」の世界。
 もちろん、同じプロの中にもレベルの差は厳然として存在するのでしょうが、文学新人賞なんていうのは、けっこう「選考する側との相性」みたいなのも大きいのかもしれません。同じ作品でも、応募する賞や選考委員によって、評価が違ってくるのでしょうし。

 それにしても、「賞金稼ぎ」の収入のほうが「山本甲士」としての収入より多かった、なんていう話を読むと、「プロ作家」っていうのは、ごく一部の「超売れっ子」以外の人にとては、本当に儲からない仕事なのだなあ、ということをあらためて思い知らされます。

 ちなみに、この本にインタビュー記事が載っていた、今をときめく森見登美彦さんも現時点では兼業作家です。
 「小説を書くだけの生活は精神的にも財政的にも苦しい」というのが、「現在の仕事を辞めない理由」なのだそうですよ。
 



2007年07月17日(火)
バブル期の男たちの「恥ずかしすぎる世界」

『TVBros。 2007年14号』(東京ニュース通信社)の特集記事「バブルな瞳に恋してる!!〜ブロスが生まれた時、世の中は〜」より、映画『バブルへGO!!』の馬場康夫監督(ホイチョイ・プロダクションズ)インタビューの一部です。

【インタビュアー:『バブルへGO!!』の舞台となる1990年はバブル末期。当時は、阿部寛さん演じる「下川路」のようなキザなやつらがいっぱいいたんでしょうか?

馬場康夫:バブル期の男たちは、女の子とやるために歯の浮くような台詞を山のように発していました。僕らなんてね、ポルシェに積んだ天体望遠鏡を銀座のど真ん中で組み立てて、彼女に月を見せるんです。「きれいね」と言うと、「君の身近には、こんなにきれいなものがたくさんあるんだよ」と本気で言っていましたからね。スキー場で「えいっ」と雪を投げ合って、女の子が「痛ーい」と叫んで、よく見ると、雪玉がぱかっと割れて中から指輪が…とかね。恥ずかしすぎる世界。でも当時はみんなが本気でそういうことをやっていたんです。

インタビュアー:でも、当時のお金の使い方は見ていて気持ちがいいですよね。1万円札を見せながらのタクシー争奪戦とか。

馬場:お店でワインを頼むときも「一番高いの!」って言ったり、みんなめちゃくちゃ元気でハイテンションで、浮かれて暮らすのもいいじゃないかと思っていた。バブルっていうのはね、戦後からずっと貧しい時代を経て、一気に金持ちになって、あれやこれや手を出して、みんなでお金の使い方を学んだ時期なんですよ。

インタビュアー:”金持ち1年生”ってことですか?

馬場:ディズニーランドやスキー場に若者が集まって、フレンチレストランでワインを覚えたり、当時は22歳ぐらいの若者でもデザイナーズ・ブランドのいいスーツを着て、クリスマスには高級ホテルでエッチする。お金がない人も、みんながみんな、そうしていたところに面白みがあるんです。
 でも、あの時代があったからこそ、日本のレストランや遊び場のデザインレベルは格段に上がりました。それまではマクドナルドでさえお洒落スポットで、昔は銀座の三越にもあったぐらいだしね。みんなが上品とか洗練とかを、一生懸命目指して試して勉強したおかげで、知的レベルも上がって、今のレベルの高いデザインとかカルチャーが生まれたんだと思いますね。

インタビュアー:当時、映画の主人公みたいに「不景気になんかなるわけない!」という実感はありました?

馬場:バブルの頃に「今ってバブルっぽいよね」っていう感覚はないんですよ。「豊かだなぁ」という実感も、実はそんなになかった。当時はお金があるのにカップラーメンをすすっちゃうような生き方は「だっせー」と思っていたけれど、5年もたつと、西麻布にBMWで乗り付けてお姉ちゃんと、レストランでシャトー・ラトゥールを頼むのが「だっせー」となる。あと15年もしたら、今の5歳ぐらいの世代が間違いなく、「昔はみんな電車でケータイ眺めていたよね」って笑うと思うよ。時代ってそういうものですよね、養老猛さんが『バカの壁』で書いていたように、世の中は変わっても自分は変わらないと思っていたら大間違いで、世の中は変わらないけれど自分が変わっていくんだよね。】

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 『TVBros。』の創刊20周年号の特別企画として、20年前の「バブル時代」を振り返っている記事中のインタビューなのですが、こうしてあらためて当時の「浮かれっぷり」を読んでみると、なんだかおとぎ話のようにしか思えません。
 もっとも、1986年の12月から1991年の2月までの4年3か月の「バブル時代」は僕にとっては高校から大学時代にあたっており、田舎の大学生だった僕にとっては、「バブル」なんてトレンディドラマの中だけの話だったのですけどね。
 ただ、大学の同級生が、当時つきあっていた彼女と「はじめてのクリスマスの夜」を迎えるために、ちょっと信じられないようなお金を遣って高級シティホテルを予約していたことは記憶にありますから、田舎にも断片的には「バブルの影響」はあったのでしょう。

 しかし、バブル崩壊直後は、みんな「バブルに浮かれていた日本人は愚かだった……」なんて大反省していたように見えたのですが、最近は「あの時代は楽しかった」と語る人が増えてきたみたいです。正直「バブル崩壊直後に社会人になってしまった」僕などは、「バブルに踊らされた人々」をバカにしながらも、なんだか「ちょっと上の世代の人たちは愉しむだけ愉しんで、そのツケを払わされるのは僕たちなのかよ……」と、ちょっと悲しくなったりもしたものです。「みんなでお金の使い方を学んだ」って言うけれど、学んだときにはもう使えるお金がなくなっていたんだものなあ。

 もちろん、ここに書かれているように「バブルの功績」というのも実際にはたくさんあるのだろうと思います。「バブル時代」は、確かに「日本のレストランや遊び場のレベルを上げた」という面もあるのでしょうし。

 たぶん、いま20歳くらいの人がこのインタビューを読んだら、「それ、どこの勘違いした人の話?」とか思うのだろうなあ……
 あの時代は、「普通」だったんですよ、これが。



2007年07月16日(月)
『トランスフォーマー』開発における「日米玩具摩擦」

「オトナファミ」2007・SUMMER(エンターブレイン)の特集記事「トランスフォーマー・ヒストリー〜コンボイが謎」の「トランスフォーマー開発者インタビュー」より。

(タカラトミーのボーイズ・キャラクターチーム係長である幸日佐志さんへのインタビューの一部。幸さんは10年近くトランスフォーマーの開発に携わってこられたそうです)

【インタビュアー:長い歴史を持つトランスフォーマーですが、その誕生の経緯を聞かせてください。

幸日佐志(以下、幸):まずトランスフォーマーの前に、”ダイアクロン”と”ミクロマン”というロボット玩具が最初にありまして、これを海外で売り出そうという計画になったんです。そこでアメリカの玩具メーカーであるハスブロ社さんと提携したところ「ダイアクロンとミクロマンをひとつにまとめて、新しいロボットとして売り出そう」と提案されまして……。そこからトランスフォーマーが誕生しました。

インタビュアー:それが、アメリカで人気に火がついて、日本に逆輸入されることになった、と。

幸:そうですね。アメリカ全土でアニメ放送がスタートして、子供たちが手に取るようになったんです。映画版に際して、スピルバーグ監督も語っていましたけど、当時は変形するオモチャが珍しかったんですよ。あちらでは男の子向けのオモチャはアクションフィギュアがメインですから。日本でも変形ロボットを扱ったアニメは登場していたんですが、実在するクルマや戦闘機がロボットに変形するというコンセプトは、トランスフォーマーが先駆けでした。

インタビュアー:アメリカとの共同開発で苦労した点は?

幸:やはりロボットへの考え方そのものが違う、これは大きいです。かつてあったことなんですが、ハスブロ社さんから送られてきたデザインスケッチにスーパーマンのような絵とトラックの絵が描かれていて、「変形の過程はそっちで考えてくれ」なんてメッセージが書かれていたことがありました(笑)。このズレは20年間、トランスフォーマー開発の歴史においてずーっと繰りかえされていることなんです。また開発初期の頃は通信設備が未発達でしたから、情報のやり取りで行き違いとかもあったそうです。ファックスに書かれていたものよりひと回り大きいサイズでデザインしたりとか、車の前後を逆にデザインしちゃったりとか……(笑)。

インタビュアー:変形のほかにもさまざまなギミックが魅力です。開発はやはり苦労されますか?

幸:実は、トランスフォーマーのギミックには最新技術といったものはあんまりないんですよ。それよりも、予算との折り合いをつけながら開発することに知恵を絞ります。例えば、キャラクターの目が光っているように見せたいとしますよね。電球やLEDを入れれば簡単なんですが、それだとコストもかかて、玩具の値段も高くなってしまいます。そこで、目と後頭部にクリアパーツを入れるわけです。すると後ろから明かりが取り入れられて、目が光っているように見える、と。既存の技術で、購買層にあったもの、ユーザーが求めるものを作ることのほうが大切なんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 スピルバーグ制作総指揮でハリウッド映画化され、今年の8月には日本でも公開される『トランスフォーマー』、この映画、日本で開発されたにもかかわらず、日本国内でよりもアメリカで大人気となった子供向け玩具がモチーフとなっています。

 僕も子供の頃、「超合金」を集めたり、「ミクロマン」のテレビCMを観ていましたし、1985年にこの「トランスフォーマー」が日本に「逆輸入」されてきたときには「アメリカで大ヒット!」とかなり大きく宣伝されていたのも覚えています。
 実際は、日本では期待されたほどヒットしなかったわけですが、このインタビュー記事を読んでいると、それまで「アクションフィギュア」中心だったアメリカの玩具文化に比べて、日本では「確かに変形するのはすごいけど、そんなに目新しいものじゃないな」と思われていたのかもしれません。当時はすでに、「5機合体するコンバトラーVの超合金」が日本では売られていましたし、「ゴールドライタン」なんていう「ライターから変形するロボット」もありましたから。キャラクターのデザインも、いかにも「アメリカ人好み」って感じでしたし。

 日本人である僕としては、【ハスブロ社さんから送られてきたデザインスケッチにスーパーマンのような絵とトラックの絵が描かれていて、「変形の過程はそっちで考えてくれ」なんてメッセージが書かれていたことがありました】なんて話を聞くと、「文化の違い」というよりは、その「丸投げ」っぷりに「なんていいかげんな会社なんだ!」と呆れかえってしまうのですが、タカラの技術者たちは、そんな中でかなりの苦労と工夫を重ねて、「トランスフォーマー」を開発してきたのです。そして、言われてみれば当たり前のことなのですが、子供向けの玩具として大事なのは「最新技術を駆使して、スゴイものを創ること」よりも、「既存の技術をうまく利用して、子供たちが買えるくらいの価格のものにすること」なんですよね。もちろん、だからといって単に安っぽくしか見えないものだと、子供たちだって喜びません。
 僕が子供の頃、「ここに電球入れればいいのに、手抜きだなあ」と感じていたところが、開発者にとっては「コストを下げるために工夫したところ」だったのだなあ。



2007年07月14日(土)
10代の女の子たちが「ケータイ小説」にハマる理由

『ダ・ヴィンチ』2007年月号(メディアファクトリー)の記事「ケータイ小説ってどうなの?」より。

(「若者がケータイ小説にハマる理由」という「ケータイ小説」読者の10代の女の子たちの対談記事。参加者は、木村裕美さん(18歳)、柳沢桃子さん(18歳)、松本優美さん(17歳)、中島祐乃さん(17歳))

【司会者:『セカチュー』もやっぱりヒロインが死んじゃうでしょう? あれはどうなの?

中島:私はそれなりに感動したけど……ただ、『セカチュー』って、なんていうか「昔」の話なんだよね。ところどころわからない描写があったし……今っぽくないなあって。

柳沢:うん、やっぱり「現実的」じゃないんだと思う。リアルかどうかって大事だよね?

一同:うん。

柳沢:出会い系とかレイプとか、ちょっとグロい現実の話が、もしかしたら近くであるのかもって思うところにリアリティがあるんだと思う。

司会者:えっ? でも出会い系やレイプを題材にしたケータイ以外の小説だっていっぱいあるよ。

柳沢:だって、そんな本があること自体、私ら知らないもん(笑)。

松本:Yoshiの『Deep Love』は中学校のときに読んだよ。今流行ってるケータイ小説とはちょっと違うけど、あれは横書きだったからスラスラ読めた。横書きのケータイ小説なら一つの話を一晩で読んじゃうこともあるし。

中島:やっぱさ、横書きかどうかって重要だよね。小学校の頃、あまり興味のない小説を無理矢理読まされることがあったけど、普通の小説って全部縦書きでしょ。それでイヤになったところがある。

一同:あ〜、それわかる!

柳沢:縦書きで書かれていると文字が詰まりすぎてるように見えちゃうんです。横書き独特の空間? セリフだけで読ませちゃうような部分が堅苦しくなくていいかな。

木村:私も『Deep Love』は読んだんですけど、あれは『セカチュー』と違って「今、起こっていること」って感じがしたし、自分が知らないことをいっぱい知って勉強になったから好き。

中島:私らにいわせると普通の小説家の人って、「今、起こっていること」が描けてないような気がするんだよね。『Deep Love』の場合は、友だちから拡がっていった感じだったし、最初からものすごく身近に感じられた。

松本:最後に彼氏が死んじゃうし、自分はエイズになるでしょ。自分を犠牲にしてまで彼を愛したのに、切なすぎる〜って思った。

柳沢:現実の恐い世界を覗き見た感じがしたよね。のめり込んだ分、映画やドラマはビミョーだったけどさ(笑)。

司会者:みんな、ケータイ小説はどこで見つけてくるの?

木村:サイトの人気ランキングを参考にしたり……。

中島:友だちに教えてもらったり。

松本:今読んでるものを、お互いに報告しあったりしてる。

木村:でもさあ……最近、ケータイ小説にもちょっと飽きてきたような気がするなあ?

柳沢:うん、ちょっとね。似たような話がホントに多いんだ。誰かが死んじゃう系の小説が多すぎるよねえ(笑)。今は、もうちょっとリアルな話のほうがいいかなと思う。リアルっていうのは、私は知らないんだけど、となりのお姉さんはよく知ってる、みたいな? ホストやキャバクラが出てくるような作品には現実感があると思うし、興味もある。】

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 「ケータイ小説」の熱心な読者たちからすれば、【『Deep Love』は、今流行っているケータイ小説とはちょっと違う】のですね。僕もあまりに流行っているので書店やコンビニでパラパラと「ケータイ小説」をめくってみたことはあるのですが、正直なところ、みんな『Deep Love』と一緒だとしか思えませんでした。自分に興味がないものの「違い」ってよくわからないものですし。

 それにしても、この対談を読んでいると、今の10代後半の女の子たちにとっての「リアル」っていうのはこんな感じなのか……と驚くばかりです。そりゃあ、『セカチュー』が、「懐古主義的な小説」であることは間違いないし、僕としては、あんな古くさい青春+難病小説である『セカチュー』がなんであんなに売れたのかよくわからないのですけど、相手が「ケータイ小説」だと、つい『セカチュー』の肩を持ってしまいたくなるのも事実。
 『セカチュー』の世界よりも、「出会い系やレイプやホストやキャバクラ」のほうが、「リアル」に感じられるという今の10代の女の子たちの「現実」は、正直ちょっと怖いです。

 あと、「横書き」「縦書き」っていうのはけっこう大きな要素なのだなあ、とあらためて感じました。しかし、今の10代女子は、「縦書き」っていうだけでこんなに拒絶反応を示すんですね……若い世代へのパソコンとかケータイの影響というのは、僕のイメージをはるかに超えているみたいです。僕などは、「ケータイ小説」の「横書き、隙間だらけ」のページを見ただけで、「紙がもったいない!」「割高!」なんていう貧乏性な感想しか抱けないのですが。

 そして、もうひとつわかったのは、いまや売れ行きに関しては「普通の小説」をしのぐ勢いの「ケータイ小説」も、実はもうすでに10代の女の子たちには「飽きられはじめている」ということでした。これだけ似たような話が粗製濫造され、消費されていけば当たり前のことではあるのですが、「ケータイ小説」は、もうすでに「曲がり角」にきているのかもしれませんね。



2007年07月13日(金)
『ジャパネットたかた』高田明社長の「視聴者に訴える、注目されるMCのコツ」

『ダ・カーポ』610号(マガジンハウス)の特集記事「通販業界バカ売れの秘密」の「『ジャパネットたかた』高田明社長インタビュー」より。

【インタビュアー:視聴者に訴える、注目されるMCのコツとは。

高田:やはり分かりやすいことが大切です。その商品の魅力がたくさんあったとしてもそれらを全部言うのではなく、大切な一つを選んできちんと伝える。そのほかの特徴もせいぜい5項目以内にしぼって話します。また、専門用語を避けて、かんたんな言葉を使って話します。これは、英語から学んだんですよ。
 私は学生時代にほとんど勉強をしなかったけれど、英語だけは好きでした。卒業後も、最初は機械メーカーでヨーロッパを回りながら英語で商談をしていました。でね、あるとき気づいたんですよ。本当に大切な英単語は1000くらいしかないと。ごくわずかな基本的な単語だけで話したほうが、相手に大切なことが伝わりやすいんです。英語はね、上達すればするほどかんたんな単語だけでしゃべるようになります。この原理原則は、私たちがふだん使う日本語でも同じ。テレビショッピングのMCでも同じです。

インタビュアー:高田さんは商品のどんなところに魅力を感じ、MCのときに重要視するのでしょう。

高田:私はお客さまの立場で商品をチェックして、話すポイントを決めます。けっしてカタログの通りには伝えません。カタログで強調されている商品の魅力は、ほとんどの場合、メーカー側の都合です。メーカーはね、商品の性能をお客さまだけでなく競合他社にもアピールしています。でも、お客さまにとって、競合他社は関係ありません。
 例えば1200万画素の非常に性能に優れたデジタルカメラがあります。高感度高画質という意味では素晴らしい。だから、カタログにはそれが強調されています。では、使いやすさはどうか? そこに私は注目します。お客さまの立場になると、どんなに高画質でも、手ブレしやすかったり、再生に手間や時間がかかったら、いいカメラとはいえないんですよ。多くの人にとっては、900万画素であっても、使いやすくて安いカメラのほうがありがたいわけです。
 私どもが行っているショッピングは、店舗販売とは違い、お客さまにたくさんの商品から選んでもらうことができません。その分、私たちは責任を持って商品を選定しなくちゃダメです。よく検討して自信を持って選定した商品を売るからこそMCにも力が入るわけです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ジャパネットたかた」の高田明社長は、1948年生まれで現在58歳。大学卒業後の1974年にお父さんが経営されていた「カメラのたかた」に入社し、'86年に独立し「たかた」を創業。'90年にラジオショッピング、'94年にテレビショッピングを開始。「たかた」は、'99年に「ジャパネットたかた」と社名を変更し、現在は売り上げ1000億円を超える企業に成長しています。

 僕は通販をあまり利用しないのですが、この高田社長の話を読んで「ジャパネットたかた」の人気の理由が少しわかったような気がしました。売れ残りの商品をメディアへの露出とか、高田社長のテレビ番組でのパフォーマンスで売りさばいているのだろうというイメージがあったのですけど、そういう「目に見える部分」だけが「『ジャパネットたかた』の成功の理由」ではなかったみたいです。
 凝った言い回しではなく、分かりやすい言葉で、その商品の最も魅力的なところをアピールすること。そして、「カタログ上のスペックの高さ」に頼らないこと。さらに、「どの商品を売るか」をあらかじめよく検討しておくこと。
 今の世の中、『ジャパネットたかた』を選ばなくても、ネットショッピングでさまざまな商品が手に入りますし、ちょっと電器店まで足を運べば、自分の目でそれぞれの商品を比較することができます。
 しかしながら、多くの「お客さん」は、「どれを買ったらいいか自分ではよくわからない人たち」なのかもしれません。
 パソコンやデジカメなんていうのはその際たるもので、僕のようにカタログ上のスペックにこだわりがちな人間からすれば「どうしてコストパフォーマンスの高い特定のパソコンだけが『一人勝ち』しないのだろう?」と疑問だったのですが、パソコンを買う多くの人たちにとっては、「CPUの性能」とか「ディスプレイの解像度」なんていうのは、あくまでも「たくさんある選択基準のひとつでしかない」のです。パソコン雑誌なんて買ったこともなく、「数字であらわされた性能」より、「デザイン」とか「キーボードの手触り」のほうを重視する人だって、少なからずいるんですよね。でも、電器店のスタッフの多くは、専門知識が豊富なだけに、つい、「スペック」で語りたくなってしまうのでしょう。そのほうが「詳しそうに見えるはず」だと思い込んで。

「多くの人にとっては、900万画素であっても、使いやすくて安いカメラのほうがありがたいわけです。」
 確かにその通りで、画素数が多いデジカメでも、それをフルに利用する機会っていうのはそんなに無いんですよね。メモリーカード1枚で何枚分かしか保存できなくなったり、データとしてやりとりするには重くなりすぎたりしますし。

 まあ、こうして高田社長がさまざまなメディアで「お客さまの立場になって」とアピールすることそのものが、『ジャパネットたかた』の最高の宣伝であるというのも間違いないのでしょうけど。

 



2007年07月12日(木)
「こだわり」という言葉の使用上の注意

『太ったんでないのッ!?』(檀ふみ・阿川佐和子共著・新潮文庫)より。

(巻末の檀さんと阿川さんの「文庫版特別対談」の一部です)

【檀ふみ:食べ物の話といえば、サワコちゃんはお米に関してうるさいわよね。電子ジャーを持っていなくて、文化鍋で炊いてるわけですから。おいしいご飯にこだわってらっしゃるのよね。

阿川:こだわってません。「こだわり」という言葉は、否定的な執着の意味ですから気をつけて使いなさいと、江國滋さんが。うちの父にも注意されます。

檀:「拘泥する」って字をあてるものね、うじうじした感じになるわよね。

阿川:だから「こだわりの○○」とか、そういうのは本当はいけないの。でもそれに代わる肯定的な言葉ってあまりないのよね……。

檀:とにかく、あなたのお米の研ぎ方はマニアックですよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 作家・江國香織さんのお父さんである江國滋さんなのですが、以前ここで紹介したエピソード(「日記」を書くときに、してはいけない2つのこと。)にもあるように、とにかく、言葉に対してのこだわり(って書いたら、また怒られそう)が強い方だったようです。作家・阿川弘之さんも娘の佐和子さんに同じことを注意されるそうですから、ベテランの作家たちにとっては当たり前の感覚なのかもしれませんけど。

 現在30代の僕の感覚からすると、「こだわり」っていう言葉は、必ずしもネガティブなイメージばかりではないのです。もちろん、本来の「いつまでもつまんないことにこだわってるんだよ……」という使い方をすることもあるのですが、最近ではむしろ、「物事に対する真摯な姿勢とか、突き詰めて磨きぬいていく」というようなプラスの意味で使われることが多いような気がします。言葉の本来の意味から考えれば、「こだわりの逸品」なんていうのは、それこそ持ち主の怨念がこもっていそうな品物になってしまうのですが。

 でも、ここであらためて「じゃあ、肯定的な執着をあらわす言葉は?」と考えてみても、僕にはあまり適切な言葉が浮かんでこないのですよね、意外なことに。
 もしかしたら、昔の日本人は、「執着すること」自体を否定的に捉えていたのかもしれません。「こだわり」という言葉の意味が変わったのではなく、「こだわる」という行為そのものが肯定される時代になった、ということなのでしょうか。



2007年07月10日(火)
渡辺和博さんが「私のようなフリーライターの子どもは……」と相談されたときに返した言葉

『週刊アスキー・2007/7/17号」(アスキー)の「Scene2007」(文・神足裕司)より。

(神足さんが、嵐山光三郎さん、南伸坊さんと今年2月に亡くなられた渡辺和博さんを振り返って)

【ふたり(嵐山さん、南さん)は言った。
 ナベゾは天才だった。
 私は知らなかった。渡辺さんの初期の作品で、小学校の校庭で鉄棒の逆上がりをしたとき、逆さまになった風景を描いたことを。
 嵐山さんはそれを見て、すごいやつが現れたと唐十郎さんと話したと言った。
 見開き一面を使った小学校の校庭の絵は逆さまだった。
 空を飛ぶ飛行機の「ブーン」というネームが逆さま、つまり読者から見て正しく表記されてなければ、天地が逆に画稿を入れ間違えたと思われる。
 逆さまから見ていたんだ、と両者は納得されていた。
 ふたりの話と、私の話もさかさまだった。
 私がとうとう内定をもらえないで大学4年の冬を迎えたとき、就職しなければダメだと渡辺さんは言った。いつもしっかり断定する人だった。
 たとえば、と渡辺さんは電話の受話器を握る真似をした。
「作家から原稿をもらえんときは、こうやって受話器を握ったまま黙って時計の針が半回転するのを見るんで。こりゃ、会社に入らにゃ、教えてもらえんで」
 そーか、それが大人の世界かと私は小さな編プロへ就職した。】

(このコラムの欄外に書かれていた神足さんの思い出)

【昔、私のようなフリーライターの子どもは……、と渡辺さんに相談したら、「馬鹿、子どもにとっては自分の親が普通だ」と叱られた。渡辺さんが結婚したとき、会費は1250円。嵐山(光三郎)さんから教わった。】

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 1984年に出版された『金魂巻(キンコンカン)』という本で「○金」(まるきん)「○ビ」(まるび)という流行語を生み出した渡辺和博さん。神足さんにとっては「師匠」にあたる方になるそうです。
 僕がこの神足さんが書かれたものを読んでいて最も印象に残ったのは、欄外に書かれていた渡辺さんの言葉でした。
 良くも悪くも「フリーライター」という職業を「特殊なもの」だと意識していて、それが子どもに及ぼす影響について不安を感じていた神足さん。
 そんな弟子を「子どもにとっては自分の親が普通だ」と師匠は叱ったのです。確かに、言われてみればその通りなんですよね。どんなに親が世間一般からみれば「珍しい仕事」をやっていたとしても、子どもにとっては、それが「普通」というか「自分にとっての基準」になってしまうのです。だからこそ、親が自分の職業に対して過度に卑屈になったり、傲慢になったりすると、子どもにも悪影響を与えかねません。
 この渡辺さんの言葉って、いろいろと考えすぎてしまう僕のような人間には、すごく「心に響く」ものだったのです。神足さんにとっても、きっとそうだったのではないでしょうか。
 逆に「どんなに平凡な人間でも、その人の子どもにとっては特別な存在である」というのも事実なのですけど。

 そういうのって、子どもの頃はみんなわかっていたはずのことなのに、自分が大人になってみると、すっかり忘れてしまっているような気がします。ここで紹介されている「逆さまの風景」の話を読むと、渡辺さんというのは、ずっと「子どものときに自分が感じていたこと」を忘れないで生きてきた人なのでしょうね。
 



2007年07月07日(土)
「本の鬼」荒俣宏さんの驚愕のコレクション

『わらしべ偉人伝〜めざせ、マイケル・ジョーダン!〜』(ゲッツ板谷著・角川文庫)より。

(インタビューした人に友達を紹介してもらうことによって(「テレフォンショッキング」方式)、マイケル・ジョーダンにたどりつくことを目指した『週刊SPA!』の連載記事を書籍化したもの。荒俣宏さんの回の一部です)

【さて、今回の偉人は作家の荒俣宏さん。同氏は中学生の頃には既に洋書を原文のまま読み漁っていたというほどの、いわば本の虫。が、話を聞いてみたら、本の虫を楽に通り越して、まさしく「本の鬼」……。では、その一部始終を読め!

「初小説の『帝都物語』が350万部の大ヒット。そんで、印税がドカーン!と入ってきたのに高い本を何冊か買ったらソレがほとんどなくなっちゃった…ってホントなんすか!?」
「ええ、ほとんど飛んじゃいましたね」
「……それって一体どういう本で、一冊いくらぐらいするもんなんスか?」
「博物図鑑の系統で、一番高かったのは1500万円しましたね」
 本一冊で1500万円っ!? おい、その中には袋とじで100%勝てるパチンコの攻略法でも書いてあんのかよ?
「で、買ったはいいけど、触るとボロボロ崩れていくんですよ。だから、1500万円で買っても読めない、というね(笑)。その上、そういう高額な本って読んでみても大したこと書いてないの。大抵10冊に8冊はバカ本だったりするんですよ」
「……え、どういうところがバカなんスか?」
「特に18世紀以前の本なんか、デカいばっかりでいくらページをめくっても『誰々に捧ぐ』みたいなのばっかりで。30ページぐらい見ても、まだ『ナントカ伯爵に捧ぐ』とか。で、35〜36ページぐらいになるとようやく長〜〜い目次が出てきて、半分ぐらいからやっと本文が始まったりね」
「運動会の前に校長先生が3時間ぐらい喋っちゃって、生徒がバタバタ倒れていくような(笑)」
「そうそう(笑)。で、いろいろ読んでると、(あ〜これはあの本のコピーだ!)ってドンドンわかってくるんですよ。例えば『解体新書』ってあるじゃないですか。あんなのも元本は、当時いろいろ出てた本のパクリの集成で。それを日本人が初めて翻訳して、それで日本の解剖の文化ができたのか〜情けねぇな〜みたいな」
「買えば買うほど悲しくなる(笑)」
「で、悲しくならない方法をいろいろ考えて遂にたどりついたのが『難病を3つ抱えた子供の親だと思う!』と。…1ヵ月に何百万もかかるでしょ、そういう子供を持つと。その子供と親に比べたら、私は一冊くらいの本でメゲちゃいけないと。そう思うと不思議と怒りが鎮まるんですよ」
 そりゃそうだろうけど、その前にアンタが自分自身の病気治せよっ!
「しかし、それだけ本を買ってると置き場所にも困りませんか…?」
「それが意外と困らなかったんです。ウチの両親って子供3人が結婚した時のために家を買っておいてくれたんですけど、誰も結婚しなかったんで空いてるわけですよ。で、そこへ片っ端から詰めていって一杯になったら、今度は当時住んでいた出版社に置かしてもらうことになって。ま、今は神田の古本屋さんに大きい本は預かってもらってて、残りの半分は母校の慶応大学に譲りましたけど」
「でも、まだ膨大にあるわけでしょ。荒俣さんが死んだら、その蔵書は?」
「それが蔵書家にとって一番切実な問題でね。大学なり博物館なりに引き取らせてナントカ文庫にしてもらおうと思ってる人もいるけど、ダンボールに入れられて100年ぐらいそのまんまにされるのが関の山でね。じゃあ、自分の子孫に使わせようってことになるんだけど、親父が読んだ汚い本なんかに興味ないですよ」
「となると、残された選択は……?」
「売るしかないの。が、売るのも難しくて、一番嫌なのは悪い古本屋に1冊1円ね、じゃあ1万冊あるから1万円って。それで何も知らない遺族に『家3軒に詰まってたのにトータルで1万円だったの!?」とか言われたら悲しいよね。だから、死ぬ前に同好の士とか集めて、虫の息の中でオークションでもやらないと多分、一生集めてきた甲斐がないですよね」
 ちなみに、その同好の士が結託して全部を5000円ぐらいで競り落としたら、ドラキュラみたいに必ず生き返ってくるだろうな、この人……。】

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 「かなりの本好き」を自認しているつもりだったのですが、この荒俣さんの話を読んでいると、僕はまだまだ甘いということを思い知らされました。というか、荒俣さんはまさに「本の鬼」!
 僕も『帝都物語』を高校生くらいのときに10冊くらいは読んだ記憶がありますし、その作者・荒俣宏さんの博識っぷりは当時からよく知られていました。でも、このインタビューの荒俣さんの話を読んでいると、荒俣さんはもう、「自分の本への執着が客観的には異常であることを認識しつつも、もはや後戻りできず、『行けるところまで行く』ことを決心している人なのかもしれません。
 それにしても、「1500万円の読もうとすると崩れる本」を自分でお金を出して所有しようと思う人もいるのですね。荒俣さんの場合は印税もあるし、実家も資産家だからできることなのでしょうが、それにしても高いネタだなあ……この「本中毒」というのもかなりの難病のようです。
 もっとも、世界には数十億もする絵を個人所有したがる人もいるので、それに比べたら「安上がり」だと言えなくもないのですが。

 しかしながら、もともとの家の大きさはわからないのですが、「片っ端から詰めていって、家一軒が埋まるだけの本」って、一体どのくらいの量なのでしょうか?
 そもそも、本の置き場所にするためだけに家一軒犠牲にするという発想自体が、僕にはなんだか別世界の出来事のようにも思えます。一部屋くらいならともかく……しかも、それはあくまでも「通過点」だったのだし……

 こういうコレクションって、遺族にとっては、「1冊1円どころか、タダでいいから引き取って片付けてくれ……」って感じになっちゃうことも多そうなのですけどね。
 



2007年07月06日(金)
「司馬遼太郎の『龍馬がゆく』は、誤読されている!」

『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の'07/7/16号の対談記事「帝王降臨。 倉科遼VS.輝咲翔」より。

(倉科遼さんは、『女帝』や『夜王』などの作品で有名なマンガ原作者、輝咲翔さんは、ビッグコミックスピリッツ連載中の『帝王』というマンガのモデルとなった、13店のキャバクラを経営する青年実業家です)

【倉科遼「彼(輝咲翔さん)は、すごく普通の人間でしょう。偉ぶらないし、ギラギラもしてないし。そういう意味では、彼とぼくの生き方は似てますよ。ぼくもそういうタイプなんです。ぼくも『マンガ界で一発当てて、ビッグになるぞ!』とか、一度も思ったことがない(笑)。そのかわり目の前の仕事は一生懸命やってきたつもりです。みんなが遊んでいるときにも仕事をして」

輝咲翔「でも、それが苦痛じゃないんですよね」

倉科「そう! 初対面のときから輝咲さんと波長が合ったのは、こういうふうに似ているところが多かったからだと思いますよ」

輝咲「たぶん感性が一緒なんでしょうね」

倉科「いままでの成功者と違うから、描写の仕方も変えなきゃいけない。いままでの成功者の伝記にありがちな≪この男は、若い頃からどこかが違っていた≫みたいな司馬(遼太郎)先生の劣化コピーのような描き方はしたくなかったんですよ。しかもね、そんなの、たいていが嘘ですから(笑)。だって自分が子供の頃を振り返ってみても、まわりに神童なんていなかったでしょう。成功すると、あとからそういうふうに描いてもらえるんです(笑)。そもそも司馬先生の『龍馬がゆく』自体、世間では誤読されてると思うんですよね」

司会者「えー、間違ってますか!?」

倉科「少年時代の坂本龍馬なんて、どう考えても、ただの金持ちのボンボンでしょう。親の持ち物をくすねて、質に入れては、友だちと遊びまわって」

司会者「勉強はしないくせに、夜這いだけはしっかりして(笑)。

倉科「親も親で、デキの悪い息子にポンと金を渡して、江戸に留学させたり、将来は地元で道場でも開かせてやるか、とか甘いことを考えたりしてる。ぼくは、あの本をそういう読み方をしちゃうんですよね」

輝咲「(ポツリと)ぼく、坂本龍馬と同じ誕生日なんですけど……」

倉科「いやいや、龍馬が後年、大事をなし遂げた、というところが輝咲さんと通じてるんです(笑)。龍馬は、とにかくまわりの人の話をきいてやって、彼らの希望をかなえるための努力を惜しまなかった。だから、龍馬の周囲には、ひとが集まってきたわけでしょう。そこが輝咲さんと一緒なんですよ」

輝咲「よかった(笑)」

倉科「だけどね、ひとに優しくするとか、信義を守るとか、実は意外に大変なことなんですよ。人間って感情の生き物だから。ぼくなんか、すぐに激昴してしまうけど(笑)、輝咲さんが声を荒げるのは見たことがない」】

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 この一連の倉科遼さんの発言を読んでいると、「売れる」っていうのは、ここまで人間に過剰な自信を与えるものなのか……と、正直唖然としてしまったりもするのですが。

 まあ、それはさておき、現在でも「日本の小説オールタイムベスト10」というような企画をやると必ず上位にランクされる司馬遼太郎の名作『龍馬がゆく』に対する倉科遼先生の感想はなかなか興味深いものでした。
【「少年時代の坂本龍馬なんて、どう考えても、ただの金持ちのボンボンでしょう。親の持ち物をくすねて、質に入れては、友だちと遊びまわって」
「親も親で、デキの悪い息子にポンと金を渡して、江戸に留学させたり、将来は地元で道場でも開かせてやるか、とか甘いことを考えたりしてる」】
 というのは、確かにまぎれもない坂本龍馬の「少年時代」のひとつの解釈ではありますし、もし生家が経済的に恵まれていなければ、龍馬は「維新回天の英雄」となることはできなかった可能性が高いでしょう。

 考えてみれば、龍馬の少年時代というのも、彼が成長して「偉人」になったからこそ「伝説化」されたわけで、全く同じような少年時代をすごしていても、大人になって劣化してしまった人というのは、けっして少なくないのではないかと思います。

 例えば、『ドラえもん』のジャイアンが、大人になって偉大な政治家にでもなれば「彼は子供の頃から仲間内で圧倒的なリーダーシップを発揮し、みんなを引っ張っていた」と語られることになるでしょうし、逆に、暴力による犯罪を引き起こせば、「彼は子供の頃から粗暴で、友だちの嫌がることを平気でやっていた」と言われるはずです。
 同じ人間の同じような行動も、それを描く人の「解釈」で、全然違ってくるものなのです。

 僕自身は、『龍馬がゆく』は良質のエンターテインメントであり、多くの人に元気を与えた名作だと思っていますし、司馬遼太郎さんだって、物語を面白くするために、ああいう「解釈」をしていたのだと考えているんですけどね。
 



2007年07月03日(火)
「記録すること」を趣味にしている人々

『週刊SPA!2007/4/17日号』(扶桑社)の特集記事「極貧でも趣味に生きる人々」より。

(「TVで放映される映画を全部観てノートに記録していく」というのが趣味の山下幸雄さん(仮名・35歳・フリーター・年収約200万円)の話)

【「放映される映画を全部観たらどうなるのかなぁって。単純にそれだけなんですけど……」
 山下さんは、'99年10月以降、地上波で放送される映画をすべて観るという目標を自らに課し、そのつど放送日やタイトル、監督などをノートにつけてきた理由をこう説明する。ちなみにこのノート、よく見ると、観た映画の評価や感想が書かれていない。
「内容がつまらなかったりすると真剣に観ないこともあるので、とりあえず観たという記録だけ書いておこうって……」
 ブログで記録を公開するわけでも、他人と語り合うわけでもない。ちなみに、タイトルの下に引かれた赤い線に意味はあるのだろうか。
「それは放映された回数です。再放送されるたびに赤線を1本足していくっていう具合で、どれくらいの確率でこの映画を放送しているのかなって……」
 ということは、同じ映画が再放送されれば何回でも観る?
「必ずってわけでもないですけど、観たらリストに記入します」
 それにしても、ここまで細かくチェックしていたら旅行にも行けないのでは?
「ああ、それは仕方がないと思ってます……」って、あの〜山下さん? すべての映画を観るというより、ノートを埋めることが目的になってません?
「そんなこと、ないですよ。観れないときはビデオに録って、ゴッチャにならないように別の”まだ観てないリスト”を作ってますし」
 部屋の片隅に、うずたかく積み上げられた”まだ観てない”テープが50本以上はある。
「最近はバイトが忙しくって、ビデオが溜まる一方なんです。正直これ、どうしようかなって……」
 もはや趣味というより、ノルマになってしまっている?】

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 いや、これはもうすでに「趣味というよりノルマ」なのでしょうし、この記事を書いた人は、「ムダで無意味なことやってるなあコイツ……」と呆れているのでしょうね。こうしてインターネットに書くことを趣味にしている僕としては、こういうのを読むと「そんな面白そうなネタを持っているのなら、ブログをやればいいのに」などと、つい考えてしまうんですけどね。

 『SPA!』のこの記事には、山下さん(仮名)の「記録ノート」の写真も掲載されていてるのですが、手書きで非常に小さな字でびっしりと埋められていて、確かにこれは「ノートを埋めることが目的」なのかもしれないな、と僕も感じました。

 しかし、世の中にはこういう「記録することにこだわる人々」って、けっして少なくないんですよね。僕の先輩には『ダービースタリオン』での愛馬すべての成績をちゃんと専用のシートを作って手書きで記録していた人がいましたし、同級生には、撮った写真のすべてをちゃんとアルバムに並べて1枚1枚にコメントをつけている人もいました。
 考えてみれば、ダビスタの愛馬の成績なんて、やっている本人以外にはほとんど価値がないものですし、そんな莫大な数の写真、実際は(撮った本人も含め)誰も見ないのに。まあ、僕みたいに「そんなことしても1円にもならないし……」なんてことをすぐに言い出すズボラな人間は、「家計簿をちゃんとつければ1000円くらいの節約になる」としても絶対にやらないんですけどね。

 ところが、実は、こういう「記録したがる人々」というのは、意外なところで研究者たちに「貢献」しているのです。僕は以前、こんな話を聞いたことがあります。
 江戸時代に江戸から京都に行ったある旅人がこういう「記録したがる人」で、彼は、道中で買ったもの、食べたものの値段や泊まった宿の料金を詳細に記録していたそうなのです。そして、その旅人の記録は、後世の歴史・文化史の研究者にとっては、まさに「貴重な資料の宝庫」として珍重されることになりました。

 公文書にには、大きな城を建てるのにかかった費用は残されていても、饅頭の値段や渡し舟の料金は記録されていませんから、「普通の人々の日常生活」を知るというのは、後世の人間にとっては、かなり難しいことなのです。そんな「当たり前のこと」をわざわざ記録しようなんて酔狂な人間というのはあんまりいませんし。「1000年前の歴史上の大きな事件」はよく知られいても、「100年前の人々の日常生活」に関してはけっこう知られていなかったりもするんですよね。

 というわけで、この「TVで放送された映画の記録」も、ちゃんとした形にして遺しておけば、後世のテレビ文化史の研究者にものすごく感謝されるかもしれません。やっている本人が生きている間に、なんらかのメリットがあるかどうかはさておき。



2007年07月02日(月)
立川談志が「高くてまずい定食屋」に遺した色紙

『コメント力』(齋藤孝著・ちくま文庫)より。

(「『コメント力』トレーニング集」という章の例題のひとつ)

【毒舌で知られる落語家の立川談志が、弟子と一緒にある定食屋に入った。そこはひじょうに高い割にはまずくて、談志は不機嫌になってしまった。しかしその店の亭主は気が利かず、談志に色紙を書いてほしいと頼みに来た。談志は何と書いたのだろうか。

「○○して食え」





答え:「『我慢』して食え」

 色紙というのは次のお客に伝える言葉だ。だから頼まれれば、店をほめる場合が多い。嘘でも「おいしかったです。○○さん」とか「ぜひ食べてみて」とか書くだろう。だが談志の「我慢して食え」はすごい。
 私ならたとえ批判しなければならないときでも、せいぜい「自分で味付けして食え」と入れるぐらいがせいいっぱいだろう。
 だが「我慢して食え」は「まずい」とか「こんなまずいものは食べたことがない」と書くよりはいい。それだと厭味になってしまい、笑えない。
「我慢して食え」は談志自身が俺だって我慢して食べたんだから、おまえも我慢して食べろよという意味がこめられていて、愛嬌がある。
 しかも、他の客に対して「食え」と命令しているところが面白い。色紙ではあまり見たことがないコメントだ。ふつうは命令されたら嫌だが、談志なら許されてしまう。そういう芸の域に達しているということだ。】

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 この定食屋が本当にそんなにまずかったのか、実際のところは僕にはわからないのですが、いずれにしても、この談志さんのエピソード、あまりの「らしさ」に思わずニヤリとさせられてしまいます。

 「人格最低、芸最高」などと自らの弟子に評されるくらい「意地悪で依怙地」な面もある談志さんなのですが、この「我慢して食え」という言葉は、本当にギリギリのところでバランスがとれているんですよね。「まずいものを旨いとは言いたくない」「他のお客に自分がこの店を気に入ったとは思われたくない」けれど、「目の前の店主を傷つけるような酷いことを書くのはしのびない」というキツイ状況で、これだけ八方丸く収まるような言葉というのは、なかなか即興で出てくるものではないでしょう。

 もっとも、普通の芸能人が「我慢して食え」なんて書いたら、店の人だって気を悪くしてこの色紙を飾らなかったような気がします。毒舌で知られる談志さんだからこそ、こんな言葉でも店主に喜ばれたのです。そういう意味では、談志さんは、自分が立川談志であるということをうまく利用している、という面もあるのですよね。

 しかし、この定食屋、本当にそんなにまずかったんでしょうか。
 まずくて高いものを食べさせられてこんなに気の利いた言葉を遺したのだとしたら、談志さんってすごくサービス精神あふれる人なのでは……