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2007年09月30日(日)
「頭のいい人」と接することの価値

『らも〜中島らもとの三十五年』(中島美代子著・集英社)より。

【私は、頭のいい人が大好きだ。頭のいい人というと誤解を招くかもしれないが、一所懸命勉強して知識を得たいと望む人、努力する人。そういう人をガリ勉と揶揄するのは間違いで、努力する人はやっぱりえらい。だって、人は知らないことは知りたいと思うから。知ることはとても素晴らしいことで、世界がうんと広がる。
 らもが亡くなったあと、私と暮らすようになった母は、最近、よく言う。
「あんた、学校に行っているときは賢いと思わなかったけれど、今、こうやってしゃべっていたらものすごい賢いねぇ」
「らもとしゃべってたから、私のIQが上がったんだよ」
 私は、にっこり笑ってそう教えてあげる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 故・中島らもさんの夫人・美代子さんは、著書のなかで、こんなふうに「頭がいい人と付き合うことの魅力」を語っておられます。

 僕は基本的に「頭がいい人」というのがどうも苦手なのです。彼らは自分の知識を相手を見ずにひけらかし、他人の「知識のなさ」をバカにし、僕のコンプレックスを刺激する存在だという気がしてなりません。つい、「すごいなあ、と思いつつも避けてしまう」というような付き合い方をしてしまいがち。
 でも、この美代子夫人の言葉を読んでみて、自分にいびつなプライドやこだわりがなければ、「頭がいい人」と付き合うというのは、それだけですごく自分を高めてくれることなのかもしれないな、と思えてきました。そういう意味では、「偏差値の高い有名大学へ行くこと」などにも、そういう「すごい人」と接する機会が増えるという点で、少なからぬ価値があるのでしょう。いや、偏差値=頭の良さ、ではないのかもしれないし、らもさんの場合は「頭がいい」だけではなく、(さまざまな問題はあったにせよ)「面白い人」だったというのも大きいような気はしますが。
 
 逆に、「ただ一緒にいるだけで、周りの人も賢くなってしまうような人」というのが、本当の「頭のいい人」なのかもしれませんね。だからこそ、「本当に頭のいい人」は、周りに人が集まってくるのだろうな、と思います。



2007年09月28日(金)
グルメ記事で「本当は不味い店」を見分ける方法

『知らない人はバカを見る! これが商売のウラ法則』(ライフ・エキスパート編・河出書房新社)より。

(「グルメ記事のウラ法則〜『本当は不味い店』の解読法」という項の一部です。「本当に美味しい店」を書くのにはあまり困らない、という話に続けて)

【いっぽう、東京・下北沢の居酒屋とか中央線沿線のラーメン店とかの特集を組むときは、おのずと店の数が必要になる。その場合、グルメ・ライターは、いちいち味を確かめて店を選定してはいられない。
 そういうグルメ特集でライターたちを悩ませるのは、明らかに不味い店に当たってしまったときだ。はっきり不味いと書けば営業妨害になりかねないし、ウソを書けば雑誌の信用を損なうことになる。その板ばさみになったグルメ・ライターたちが駆使する表現には、暗号めいたウラ法則がある。
「味の格闘技」(量がやたらに多いだけで、ちっとも美味くない)
「冒険にあふれた味」(アイデア料理が大ハズレだったときに便利な表現)
「野趣に満ちた料理」(まったく洗練されていない、という意味)
「個性的な味」(ビケイとはほど遠い女性をほめるときのもっとも無難な表現は、個性的。その表現を料理に応用したもの)
「毎日食べてもあきない味」(あきるような特徴がないということ)
「男性向けの味」(女性ライターは、しばしばこの表現で逃げる)
「ハマればやみつきになる味」(ハマる人はなかなかいないだろうという意味が、暗にこめられている)
 美味い店をほめるときよりも、ライターさんたちの腕は、ずっと冴えているといえるかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 こういう本に無記名で書いているライターさんたちは、きっと、タウン情報誌などで「グルメレポート」の記事なども書いているのだろうなあ、と思われます。これはまさに、「体験談」なのでしょう。

 まあ、実際は、雑誌の「グルメ特集」のなかには、その店の「宣伝」をそのまま紹介していて、記事にする際には味をみてはいないのでは、と思うようなものもけっして少なくないんですよね。
 この法則がすべてのものにあてはまるかどうかは疑問だし、「とにかく新しくできた店を紹介する」ことを重視していて、そこまで「記事の信憑性」にはこだわっていない雑誌も多そうです。
 むしろ、本当に取材をして、こういう「暗号」を散りばめておいてくれている雑誌は、「良心的」なのかもしれません。

 「美味しいものに対しては言葉を失ってしまう」なんてよく言われますが、ここに取り上げられている「明らかに不味い店について書くときの多彩な表現」には、むしろ感動すらおぼえてしまうのです。ライターさんたちは、苦労しているというよりは、けっこう面白がって書いているのではないかと。
 こういうのって、「『不味かったじゃないか!』って読者からクレームをつけられても逃げられるような表現のテンプレート」が何種類かあって、それをランダムで使いまわしているのではないかと思っていたのですが、こうしてみると、けっこうその店の「不味い理由」にまでほのめかしているんですね。こういう「暗号」を知っていたとしても、その店を自分で「追試験」してみる気になるかどうかは別として……

 それにしても、「個性的」っていうのは、本当に便利な言葉です。
 これだけ「言う側」と「言われる側」の認識が乖離してしまう言葉って、なかなか他には無いかもしれませんね。
 



2007年09月26日(水)
「文学に限らず表現というものは、最終的にはこういう瞬間のために存在すべきなのである」

『平凡なんてありえない』(原田宗典著・角川文庫)より。

(「永遠の表現」というエッセイの一部です)

【ちょっと前の話になるが、東京の荒川でトラックによる轢き逃げの事件があった。被害者は自転車に乗った母子で、即死だった。事件の数ヵ月後、新聞社が残された父親を訪ねて取材した記事が、朝刊の片隅に載った。取材記者の幾分冷徹な質問に答えて、父親はこんな内容のことを語っていた。
「真夜中にふと目が覚めて、急につらくなって眠れなくなることがあります。そういうときは、山本周五郎の『長い坂』を読んだりして気を紛らわせています」
 この記事を読んだ瞬間、ぼくは思わず立ち上がりそうなほど興奮して、
「山本周五郎えらあいッ!」
 と叫んだ。そうなのである。文学に限らず表現というものは、最終的にはこういう瞬間のために存在すべきなのである。打ちのめされ、落ち込んで、涙も涸れてしまっているような人に何らかの勇気を与えたり、休息を与えたりすること。視覚や聴覚を超えて、心とやらが存在するのならばその部分に、直接訴えかけてくるもの。優れた表現には、そういう奇跡のような力がある。】

〜〜〜〜〜〜〜

 原田さんは『長い坂』と書かれていますが、この作品は、山本周五郎さんの「三大長編」のひとつに数えられる名作で、

【徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目覚める。学問と武芸に励むことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず、工事の完成をめざす。 】 

 というのが、そのあらすじなのだそうです(僕は未読)。
 被害者の夫であり、父親であった男性が「気を紛らわせるために読んでいた本」がこの作品だったというのは、なんだかちょっと不思議な印象を僕は受けたのです。
 「屈辱的な事件を経験した」という点で、この男性は自分の姿を主人公の小三郎に投影していたのかもしれませんが、そういう作品は最近の小説にもたくさんありそうですし、歴史小説ではなくても、もっと「投影しやすい」ものも少なくないはずです。
 あるいは、「気を紛らす」という意味では、もっと自分が置かれた状況と全然関係ないような「笑える小説」とかを読むのではないだろうか、とも感じます。

 でも、僕はこれを読みながら、「内容と置かれた状況との関連」云々ではなく、「人がどん底の状態にあるときに、とりあえず気を紛らわせて、時計の針を進めてくれる」というのは、間違いなく「表現の大きな役割」であり、「たしかに文学に限らず表現というものは、こういう瞬間のために存在すべき」なのではないかと思ったのです。

 大事な人を失ったとき、失恋したとき、あるいは、もっと身近な例としては、夜なかなか寝付けないときや何もやる気力がおきないとき……
 そんなとき、僕を優しく包んでくれて、「充電期間」を与えてくれたのは、さまざまな「表現」たちでした。「感動の超大作」こそ表現の醍醐味だともてはやす人は多いけれども、本当に落ち込んでしまって「うけとめる力」も涸れてしまっているときには、「くだらないギャグマンガ」や「淡々としたエッセイ」が、僕を救ってくれたこともたくさんあったのです。
 表現された「内容そのもの」に救われるのではなくて、「何かに没頭することによって、時間をやり過ごすこと」のほうが、結果的には多かったのではないかという気もするんですよね。「本当に辛いとき」の最大の特効薬は、「時間の経過」なのですから。

 「時間つぶし」「気分転換」というのは、一般的には褒め言葉ではありませんが、それこそが、「表現の大きな役割」なのではないかと僕はこれを読みながら感じました。「勇気」とか「感動」なんていうのは、副産物でしかないんですよね、きっと。



2007年09月25日(火)
日本に現存している「世界最古の企業」

『ダ・カーポ』614号(マガジンハウス)の特集記事「とてつもない日本・世界一の技術!」より。

(対談「日本人はなぜ、技術者を尊重するのか?」の一部。出席者は赤池学さん(科学技術ジャーナリスト・著書に『自然に学ぶものづくり』)、野村進さん(ノンフィクションライター・著書に『コリアン世界の旅』)、橋本克彦さん(ノンフィクションライター・著書に『農が壊れる―われらの心もまた』)のお三方です。)

【司会者:日本人は「職人」や「匠」といった言葉が大好きで、技術者に対して特別の感情をもっています。日本人は、わが国の技術文化に誇りをもっていますね。なぜ、このような技術文化をもつようになったのか、考えてみたいと思います。

野村進:日本人にとって、モノ作りを大事にすること、技術を継承することを尊いと考える価値観は当たり前のように思われます。ですが、日本以外のアジアに行ってみると、必ずしもそうではないんですね。モノ作りを尊いと考えるのはむしろまれなことで、自分の手を汚して何かを作ることを、それほど尊重しない場合が多いのです。
 おもしろい例で言いますと、饅頭作って何百年という老舗が日本にはありますね。そのことを日本人は誇りに考えます。ところが、お隣の韓国では饅頭100年作ってもほとんど尊敬されないでしょう。饅頭で繁盛したら、次により高いステータスに向かう傾向があるんです。饅頭作って何百年が評価される国って、世界的に見てもまれなんじゃないかと思います。
 僕が『千年、働いてきました』(角川oneテーマ21)で書いたことは、日本には驚くほど老舗企業が多いということ。大阪には、飛鳥時代から寺社仏閣を建ててきた金剛組という創業1400年以上の”世界最古の企業”があります。他にも創業1300年の北陸の旅館、創業1200年以上の京都の和菓子屋などの老舗もある。日本には、創業100年以上の企業が10万以上あると推定されています。でも、日本以外のアジアでは、100年以上続いている店舗や企業はめったにない。韓国には一軒もありません。それだけ日本は、技術を継承しようとすることに価値を置いているのです。

司会者:野村さんは『千年、働いてきました』の中で、「職人のアジア」に対して、華僑などの「商人のアジア」があると書かれていました。日本はアジアの中でも稀有な「職人のアジア」の国であるということですね。

野村:「職人のアジア、商人のアジア」と二分法にしてしまいましたが、もしかしたら緒戦半島は「文人のアジア」かもしれませんね。儒教を説く儒者が、いちばん尊敬される国ですから。それは「商人のアジア」とも違います。
 それに比べると日本は、戦国武将が自分でもっこを担いで城を造ったりする国で、やはりだいぶ気風が違う。中国の皇帝が城造りに汗を流したり、朝鮮の両班(ヤンバン・特権支配階級)がモノ作りに励むなんてこと、ありえませんからね。

(中略)

野村:僕は日本の技術者の取材をしていて、多神教というか、日本型のアニミズム(万物に神が宿っているという考え方、信仰)をつくづく感じましたね。技術者は金属を擬人化するわけですよ。「金箔は人の心を読む」とか、「金属の方から自分の特質を訴えかけてくる」とかね。

橋本克彦:昔の人はモノとお話できたんでしょ(笑)。

野村:考えてみれば針供養なんかも日本ならではの風習かもしれませんね。さんざん使った針を供養するというその根っこには、日本型のアニミズムがあるように思います。

橋本:鉄とお話するというのも、鉄の精霊とお話しているのかもしれない。それに、仏像を彫る人は、木の中に埋もれているものをかき分けて仏像を出すんだって言うわけですね。大木を見て仏像を感じられるかどうかというのは、相当アニミズムっぽいよね。

(中略)

野村:徳川の体制が重要なポイントではないかと思うんです。徳川も形式的には儒教を取り入れて縛りをかけていたんですが、末端の技術に関しては非常に自由だったんですね。それが意外にたくましく今日まで生き延びている。
 江戸時代、静岡は各地の大工さんや漆職人、指物師なんかを集めるわけです。その伝統が今も生きていて、赤池さんのご本によると模型会社の70%が静岡にある。また静岡に村上開明堂という自動車のバックミラーを日本全体の約6割作っている会社があるんですが、ここはもともと鏡台を作っていたんですね実は鏡台も静岡の地場産業で、日本全体の約6割を静岡で作っていて、これも江戸時代からの技術の蓄積によるものです。鏡台がバックミラーやサイドミラーになるのですから、技術の継承や発展というのは奥が深くておもしろいですね。

司会者:日本の技術の奥深さは、先端技術と伝統技術が融合している点にあるように思いますね。携帯電話の中に金箔の技術が生かされていたり……。

赤池学:伝統工芸の世界も、立ち上がりの頃は絶対にハイテクだったんですよ。今だって超ハイテクの伝統工芸の漆器だってあるわけでしょ。伝統と呼ばれるモノの中に先端があるし、絶えずフロントランナーであろうとするモノ作りには必ず突出した技術があるわけで、先端同士というのは自由に無理なくつながっていく。最先端のモノは科学的合理的に設計されているわけですから。

野村:ある老舗の製造業の社長から聞いたんですが、中国がダメなのは技術がタテにもヨコにもつながらないからだと言うのです。技術を独り占めしてしまって、それを売り物にして渡り歩くわけです。日本の場合、技術がタテにつながる伝統があるし、ヨコにつながる文化があるんですね。技術はつながっていかないところでは発達しないんだよと言ってましたが、説得力がありましたね。】

参考リンク:社寺建築の『金剛組』

〜〜〜〜〜〜〜

 この『ダ・カーポ』の記事そのものが、「最近あんまり元気のない日本への応援」という論調でしたので、まあ、この対談の話を読んで、素直に「日本の技術って最高!」「中国はやっぱりダメ!」なんて反応するのもいかがなものか、とは思うんですけどね。
 『とてつもない日本』という新書を書いた麻生さんも福田さんに負けちゃいましたし。
 この対談のなかでは、「徳川時代の功績」が語られていますが、その時代に実際に生きていた人たちにとっては、「自分の『家業』を継ぐしかなかった時代」だっというのもひとつの「歴史的事実」だったはず。それは、技術の継承という意味ではメリットが大きかったのかもしれませんが、もし自分がそんな時代に生きていたら、やっぱりちょっと「本当は違う仕事をやりたかったなあ」と切実に感じていたのではないかと思います。
 いや、「職業選択の自由」が保障されている現代の日本に生きていても、そんなふうに感じることはありますしね。

 まあ、あまりに「ニッポンバンザイ!」みたいな記事なので、ひねくれた僕としては、こんなふうに懐疑的な見解を述べてしまいたくもなるのですが、日本という国の技術や文化に、それなりの「重み」があるというのは、まぎれもない事実です。
 数日前までカナダに行っていたのですが、カナダというのは、1867年に建国された国で、歴史はまだ140年ほど。各地で、「カナダの歴史的遺物」や「重要文化財」などを観たのですが、それらは軒並み「百数十年の歴史を持っている」ものでした。
 日本人であり、それこそ「数百年単位の文化財」をたくさん見てきた僕としては、正直、「そんなにもてはやすほど古くないよね、これ……」などと、少しだけガッカリしてしまったこともあったんですよね。もちろん、カナダにもすばらしい文化と自然があって、非常に楽しい旅ではあったのですけど。
 現地で案内してくれたガイドさんによると、「カナダ人には、日本という国の『歴史』に対して、とても興味と敬意を持っている人が多いんですよ」とのことでした。そりゃあ、「最古のホテル」が百数十年前に開業、なんて国の人が、「創業1300年の北陸の旅館」なんて話を聞けば、それだけで圧倒されてしまうのでしょう。

 もちろん、「歴史と伝統がある」というのは、僕を含む現代の日本人の功績によるものではないので、それだけで他国をバカにしてはならないことではあるのですが、やはりそこには技術やノウハウの積み重ねがあることは間違いありません。そして、この対談のなかで赤池学さんが書かれているように、「生き残ってきた技術」というのは、実際は、「技術を守る」だけではなく、「新しいものに挑戦し、それを自分のものにしていく」という歴史の積み重ねなのです。
「村上開明堂」が、今までの「伝統」にこだわるあまり、「車のバックミラー造りなんてウチの仕事じゃない!」という姿勢の企業だったら、どんなにすぐれた技術を持っていても、すでに歴史の波にのみこまれてしまっているはず。逆に、そうやって「伝統」にこだわるあまり、失われてしまったすばらしい技術というのも、日本にはたくさんあるのだと思います。
 企業として生き残りながら「伝統を守る」っていうのは、ただひたすら同じことだけをやり続けていればいいってわけじゃないのです。

 それにしても、「饅頭作って何百年が評価される国って、世界的に見てもまれ」というのは、あらためて言われてみればその通りなのです。客観的にみれば、「饅頭で成功したら、他のものに挑戦する」というほうが、はるかに面白そうですしね。
 そういう意味では、日本の老舗企業というのは、他国からみると、ものすごく「気持ち悪い」存在なのかもしれませんね。



2007年09月24日(月)
「私のどこが好き?」と恋人や夫にたずねたとき、どう答えられるのが嬉しいですか?

『今、何してる?』(角田光代著・朝日文庫)より。

(「錯覚 Illusion」というタイトルのエッセイの一部です)

【私のどこが好き? と恋人なり夫なりにたずねたとき、どう答えられるのがうれしいか、というテーマで友達と話したことがある。どう、というのはつまり、内面をほめられたほうがうれしいか、それとも外見か、ということである。
 驚いたことに、外見をほめられたほうがうれしいにきまっている、と大半の女友達が答えた。顔が好み、脚が好き、目がぐっとくる、肩のラインがたまらない、だから好きだ、と続けてほしいらしい。なかには、尻のかたちがいいと今の恋人が言ってくれて、そのことに心底感動した、という人までいて、これはもう、驚きを通りこして不可解である。
 私は絶対的に内面派である。ココロがきれいだの性質がやさしいだのと言われたいのである。しかし私は内面をほめられたことがただの一度もない。手がいい、頭のかたちがいい、あげくのはては、うしろ姿がいいとほめられる。うしろ姿がいいと言われて喜ぶ女がこの世のなかにいるのだろうか。
 かくして私は外見派の女たちに反論する。顔は老けていく、脚なんかいつ太くなるかわからない、太ればでかい目も小さくなるし尻はどんどん垂れる、外見なんかすぐ変化してしまう、そんなものを好きの理由にされて何がうれしいのか。しかし外見派には外見派の信念があるらしい。内面なんかそれ以上に無意味だ、と言うのである。
 私はね。息巻いて友人まり子さんが言う。かつて恋人に、あなたのガラスのようなココロが好きだ、と言われたのよ。ねえ、私、そんな繊細な女だと思う? ――思わない。けっして悪い意味ではなくて、鋼級のたくましさを持つ女であると私は思っている。しかしだからこそ、ガラスのようなココロと言われてうっとりしたいのではないか。
 結局、外見派と内面派の接点は見いだせず、私のどこが好きかとつねに問われているはずの、男側にその話をしてみた。ねえ、本来なら内面をほめるべきだし、内面をほめられて喜ぶべきでしょう? と。しかし男友達1は、女たちとは少々違う見解を述べた。
 なあ、喧嘩するとするだろ? なんだこの馬鹿女、とか言ってぎゃあぎゃあ喧嘩しているときに、「でもこの女はココロがうんときれいだから」なんて、鬼婆みたいに怒っている彼女に対して思うか? 馬鹿女とか言いながら、「ああやっぱ、この目、おれ好きなんだよなあ」だの、「こいつこんなだけど脚だけはきれいだよなあ」だの思えば許せるものだし、最悪の事態をまぬがれることができるんじゃないかなあ。
 しかしさらに私は疑問を抱く。もし外見が変わってしまえば、喧嘩のあとで私たちは許されないのだろうか。昔は脚のきれいな女だったけど、もう見る影もない、喧嘩の最中にそんなことを思われて、憎しみ倍増なんてことになりかねないのではないか。

〜〜〜〜〜〜〜

「私のどこが好き?」という問いに対して、「外見をほめるべきではない」と僕はずっと考えて生きてきたので、この角田さんのエッセイを読んで、かなり驚きました。女性も「内面をほめられたほうが喜ぶ」ものだとばかり思っていたのに!

「人を見かけで判断するなんて最低!」「外見じゃなくて、中身をちゃんと見ておかないと」というのが「一般常識」で、そういうときに「顔がかわいいから」「スタイルがいいから」などと答えるのは、なんだか軽薄そうだし、言われたほうの女性は、「じゃあ、私が年を取って容色が衰えてきたら、好きじゃなくなるのね!」なんて気分になりそうですし。男性の場合は、男同士で「男は見かけじゃない!」なんてお互いに慰めあったりすることも多いですから。

 しかし、これを読みながらもう一度考え直してみると、「外見」より「内面」のほうが人間の真実なのだ、という「常識」そのものが疑問にも感じられてくるのです。
 僕は自分の外見にも内面にも自信はないのですが、自分なりの評価からすれば、「外見のほうが、より救いようのない状況」だと感じています。ところが、「内面」ってやつは、ほめられてもなんだかどうもしっくりこないところがあるんですよね。
「やさしい」「おおらか」「純粋」なんていうように「性格に対するほめ言葉」というのはたくさんあるのですが、こういうのって、実は、「やさしい」は「優柔不断」と、「おおらか」は「いいかげん、大雑把」と、「純粋」は「世間知らず」と表裏一体だったりするわけです。僕だって他人に対して、普段は「真面目でしっかりしている」だと感心しながらも、同じ人物に対して、ときには「杓子定規で融通がきかないヤツだなあ……」なんて批判的な感情を抱いたりします。誰かが僕のことを「やさしい」とほめてくれたとしても、それはあくまでも「好意的にみて」の評価でしかありません。僕はそんなふうに言われるたびに、「でも、この人はいつか僕のことを、『優柔不断な男』だと思うときが来るんじゃないかな……」と不安になるのです。

「内面」なんていうのは、「外見」よりもはるかに、それを評価する人の主観によって左右されやすいものではあるのですよね、実際には。付き合い始めた頃の彼女の「天真爛漫さ」は、気持ちが離れてしまえば「単なるワガママ」になってしまうことだって少なくありません。もちろん、相性が合っていて、ずっとお互いの美点だけしか見えない幸運なカップルだってこの世には存在するのでしょうが、長く一緒にいればいるほど、「長所と短所は紙一重なのだ」と感じることは多くなるはずです。「優しくて他人の頼みを断れない人」っていうのは、「善人」であることは間違いないのだけれど、度が過ぎていれば、「押し売りにもいちいち真面目に対応してしまう人」を自分の人生のパートナーとするには考えものではあるんですよね。
 そういう意味では、「内面」より、「外見」のほうが、少なくともその瞬間においては、「確かなもの」なのかもしれません。

 ちなみに、この引用部のあと、角田さんはこんなふうに書かれています。


【研究論文を書くがごとく、こうして必死にこのテーマを追いかけていくと、しかしひとつ気づかざるを得ないことがある。私のどこが好きかという質問の答えは、すべてうそっばちである、ということ。尻のかたちがすばらしいといって、それだけで好きという気持ちが喚起されるはずはない。その尻のうえに彼女のからだがあり顔があり、その内面に矛盾をふくんだ中身があって、その全体から理解できない何かを感じとって「好き」が構成されていく。自分を主語にして考えてみれば、一目瞭然だ。
 そう気づいても、それでも私は自分のどこが好きかと相手に問わずにいられない。
 好きだという気持ちは肯定だ。その肯定の理由を私はつねに知りたい。肯定が確固たるものであることの、証拠がほしくてたまらない。】


「私のどこが好き?」という問いについては、結局のところ「模範解答」は存在しないのでしょう。でも、そんなことは承知の上で、その「うそっぱち」を訊かずにはいられないのが恋愛感情というものなのかもしれません。

 こちらから同じことを聞き返しても、「うーん、なんとなく……」とか「よくわかんない、とりあえず全部!」とか、クイズダービーかよ!と言いたくなるような答えしか返してくれないことばかりなんですけどね。



2007年09月15日(土)
「ベビースターラーメン」開発秘話

※夏休みのため、しばらく更新はお休みです。
 よろしければこちらのブログも御覧ください。


『オトナファミ』2007・OCTOBER(エンターブレイン)の特集記事「ベビースター・クロニクル」より。

(再来年には誕生50周年を迎えるという「ベビースターラーメン」の開発秘話。インタビューに答えているのは、ベビースターラーメンを発売している「おやつカンパニー」の営業本部特別販売部・特販1課課長の中村元洋さんです)

【――”ベビースターラーメン”誕生のきっかけを教えてください。

中村元洋:実は、戦前の松田産業(※おやつカンパニーの前身)は竹細工の製造や、竹を燃料源として供給する竹林業を営んでいたんですよ。ところが戦後間もなく先代社長が「これからは食の時代だ」と、インスタントラーメンの開発に取り組みまして。国内メーカーの中でもいち早く自動生産ラインを立ち上げたんです。

――ずいぶん大胆な方向転換ですね。

中村:ええ。でも当時は技術が未熟で、製品として出荷できないクズ麺がたくさん出たんです。戦後の食糧難の時代ですから、クズ麺とはいえ棄てるのはもったいない。何かに利用できないかと考えあぐねた前社長が、ラーメンスープに漬け、油で揚げたクズ麺を従業員のおやつにしたり、近所の人に振舞ったりしたんです。これが「お金を出しても買いたい!」と思いのほか好評で、「味をつけたクズ麺をお菓子として発売したらイケるんじゃないか」と。それで'59年にお菓子のラーメン専用の生産ラインを完成させ、量産化がスタートしたんです。

――廃棄するしかなかったはずのクズ麺が、、まさか会社の主力商品になるとは!

中村:前社長もそこまでは考えていなかったでしょうね。物不足という時代背景と、当社の企業理念でもある”もったいない精神”がよい方向に作用した結果だと思います。

――これまでに200種類以上のベビースターが発売されたと伺っていますが、新味ひとつの開発から商品化までには、どのくらいの時間がかかっているのでしょうか?

中村:今では生産ラインも確立されていますから、どんな味でも最低3ヵ月くらいで対応できると思いますよ。”フランスパン工房”のように一から開発するものは商品化まで約10年かかっているものもありますけどね。

――中にはヒットに恵まれなかった味なども?

中村:ラーメン丸のお”チョコバナナ味”や”コーヒー味”はダメでしたね。テスト販売まで行ったんですが、まったく売れませんでした。やはりお客様にとって「ベビースター=ラーメン」のイメージが強いようで。甘い味はどの地域でも受け入れられない傾向にあります。ただし、新横浜ラーメン博物館で販売している”チョコラーメン”は唯一の例外です。ココア味の麺をチョコレートで固めたものなんですが、甘い味にもかかわらずご好評をいただいています。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕にとっては、どんぶりを持った男の子が描かれているオレンジのパッケージが印象に残っている「ベビースターラーメン」なのですが、この記事を読んで、まだまだバリバリの現役なのだということを知って嬉しくなってしまいました。最近はすっかり食べなくなってしまいましたが、現在の白っぽいパッケージ、そういえばコンビニなどで見かけたことがあるような気がします。ちなみに、あのオレンジのパッケージから、今のパッケージに「リニューアル」されたのは1988年なのだとか。

 1959年に発売された”ベビーラーメン”が、1973年に改名されて”ベビースターラーメン”になったそうなのですが、今でこそ当たり前のようにみんなが呼んでいる”ベビースター”っていう名前の「スター」って、不自然といえば不自然ではありますよね。なんでわざわざ「スター」をつけたのでしょうか?
 「ベビーラーメン」のほうが、商品の本質には近いはずなのに、なんとなく、あの「スター」がなければ、ここまでの大ヒット商品にはならなかったのではないか、とも感じるのです。

 僕が最初に”ベビースターラーメン”を食べたときに感じたのは、確かに「カップラーメンの切れっ端みたいだなあ」ということだったので、中村さんへのインタビューを読むと、"ベビースター”の前身は、まさに「クズ麺」だったというのは感慨深いです。それにしても、50年近く昔の食糧難の時代から、現在の飽食の時代まで愛されてきた”ベビースターラーメン”というのは、本当に息の長い商品です。シンプルだから、かえって飽きられないのかもしれませんし、あの細い麺をポリポリと噛み砕く快感は、確かに、他のお菓子にはないものではありますよね。麺類というのは、軟らかくてスープに浸かっているものだ、という先入観を持っていた僕たちにとって、「固い麺をかじる」というのは、ちょっと勿体ないような感じもしましたし、違和感もあったのです。

 そういえば、当時は「生でも食べられるし、そのままお湯をかけるとカップラーメンになる」なんていう似たような商品もありましたよね。
 お湯かければラーメンになって、一食分浮くのになあ……そのまま食べても、おやつにしかならないし……などと悩みながら、あっという間に食べてしまうものなんですよね、”ベビースターラーメン”って。



2007年09月12日(水)
「東京から福岡までの距離」と「福岡から東京までの距離」

『逃亡くそたわけ』(絲山秋子著・講談社文庫)より。

(精神科の病院から「逃亡」し、九州を車で南下していた「あたし」と同行者の「なごやん」の宮崎市でのやりとり)

【「久々にネクタイをした連中を見たな」
 そう言ってなごやんは少しだけ表情を曇らせた。
「出張も多いんだろうね。空港近いし」
「飛行機やったら東京もすぐやけんね」
 なごやんは浮かぬ顔でフォークとナイフを揃えて皿の上に置いて、言いにくそうに言った。
「東京から福岡までの距離ってさあ、福岡から東京までの距離の倍以上あるんだぜ。わかる?」
「どういうこと? 一緒やろ」
「遠く感じるってこと」
「そうね」
「俺さ、前につきあっていた彼女に『九州なんかにまわされてかわいそう』って言われたんだ。田舎だからなんだって。ちょっとショックだったよ」
「福岡やったら都会やのに。田舎ちうたら……」
 その先は言わずもがなだった。あたし達は多分、同時に昨日通った悪路を思い浮かべていた。
「福岡って思わないんだよ。全部九州なの。東京から見たら外国。嫌になるけど、俺もそう思ってたからわかる」
 でも、その言葉はもう、自分が半分福岡人だと言っているのと同じことなのだった。
「その彼女、間違っとう」
「うん、でも間違いでもなんでも、仕方ないよな」】

〜〜〜〜〜〜〜

「東京から福岡までの距離ってさあ、福岡から東京までの距離の倍以上あるんだぜ。わかる?」
 九州の地方都市に長年住んでいる僕には、この話、痛いほどよくわかります。たまに東京で働いている人と話すと、確かに、東京で生活している人たちにとっては「九州なんて、福岡も熊本も鹿児島もみんな一緒」なんですよね。九州人は、みんな武田鉄矢かキレンジャーだと思ってる。
 九州に住んでいれば、これらの県というのは、全然雰囲気が違うところだし、今は武田鉄矢もキレンジャーもいないんですけどね(というか、たぶん昔もいなかったのですが)。
 いや、「九州」どころか、「東京以外」のすべてが、彼らにとっては「外国」なのかもしれません。僕からすれば「東京に住んでいる」というだけで、どうしてそんなに優越感を持てるの?という気分になるのですが、「やっぱり日本の中心だし、いろんな人やモノが集まってくる」と言われれば、それを否定もできないんですよね。少なくとも10年前は、「モノ」の面では、それなりに格差があったのは事実です。
 「東京じゃないと手に入りにくい本」がほとんど無くなったのは、Amazonの偉大な文化的功績なのではないかと思いますし。

 話していても、「自分たちは都会で競争にさらされながら頑張ってるんだぜ!」と語る「東京者」には、微妙に気後れしてしまうのです。仕事の内容そのものは、東京だろうが福岡だろうが、われわれの業界では、そんなに差はないはずなのに。

 九州人から言わせれば、「博多」はものすごい都会なのですが、それも、東京の人からみれば「一地方都市」でしかないことが多いんですよね。「九州はのどかでいいよねえ」って、全然のどかじゃないぞ、博多は。
 
 ただし、「博多の人」たちもまた、他の「九州の田舎」(佐賀とか大分とか)の人たちをあからさまにバカにしていたりするんですよね。僕の知人は、博多の街を車で走っていて、「田舎者は博多を走るな!」とインネンをつけられたことがあったそうですし、博多の人の「地元愛」の強さには、僕も辟易してしまうことが多いのです。
 「そう言うけど、世界レベルでの日本の『都会』って、東京だけだろ?」って、ときどき、言いたくなってしまうんですよね。
 もちろん、実際に口には出しませんけど。
 



2007年09月11日(火)
日本人にとって、「大阪万博」とは何だったのか?

『どにち放浪記』(群ようこ著・幻冬舎文庫)より。

(群さんが1998年に『本の窓』(小学館)に寄稿された、「懐かしい人も初めての人も笑えます――『まぼろし万国博覧会』を読む――」という書評の一部です)

【『まぼろし万国博覧会』を読んで、私ははじめて、「万国博覧会」とは何かがわかった。「万博」のデータと、それをめぐる思い出がある人々のアンケートで構成されている労作だが、とても面白かった。多くの国の参加を要請したために、日本は牛肉の輸入を交換条件に出されたり、学校の建設や水道工事を求められたりした。また専門家を派遣したあげくに、展示が決まったのが「熱帯魚」と「熱帯植物だけ」だったり、人手がなく、館の設営の際には、ホステス役の女性がペンキを塗り、政府代表が床磨きをした国もあったという。
 開催国の日本は参加国との腹のさぐり合いもあったようだが、日本国民のなかでも騒動が起きた。いちばんの被害を受けたのが、京阪神地区の人々だった。年賀状には宿泊、切符を頼むという葉書がたくさんきて、いっそのこと転勤にならないかものかと悩んでいた人もいた。いざ開催となると、人々は裏技を使い、待たずに入館しようとする。
「親子でチャイナ服を着て列に割り込み、ワザと日本人じゃないフリをしてなるべく並ばずに見た」
 などという手の込んだ策略をめぐらす人や、迷子のふりなんていうのは序の口だったようだ。人気のアメリカ館ではこんな人もいた。
「おじいちゃんは月旅行そのものを信じてなくて、スタジオ撮影だと言い張ってました」
 こういうコメントがまたいいではないか。
 日本人は「万博」によって、外国を知った。それは食べ物であったり、トイレで出くわした大柄な外国人のおばさんだった。日本の万博が他の万博と一番違った点は、マイナーな国々の人気が高かったことだ。
「アフリカの国々のパビリオンのように、ほとんど並ばずに入れるところもありました。『こういうところにも入ってあげなくちゃ』と妙に義憤に駆られ……」
 というコメントも載っていて、ほのぼのする。また日本人は外国だけでなく日本をも知った。「万博」に行くためにはじめて新幹線に乗り、関西弁に接し、なかには父の愛人と会ったという人までいたのである。】

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 1970年に開催された「大阪万博」というのは、まだ自分が生まれていない時代の話でもあり、なんだかすごく昔の話のような印象があります。
 そして、僕にとっては「なんでみんな、万博万博って、懐かしそうに話すのかなあ、僕が実際に行ったつくば万博は、炎天下に並んでばかりで、あんまり面白くなかったのに……」というふうにしか思えなかったんですよね。いや、「太陽の塔」は確かにインパクトがあるけど、所詮「一発芸」みたいなもので、そんなに大騒ぎするような「芸術」にも見えなかったし。

 しかしながら、この書評を読んでみると、実際の「大阪万博」を知らない僕でさえ、あの「万博」は、何か特別なものだったのかもしれないな、という気がしてきたのです。
 ここで挙げられている運営側、そして来場者のさまざまなエピソードには、正直、「これ、ネタじゃないの?」と疑ってしまうものもあるのですが(「チャイナ服を着て日本人じゃないフリをして割り込み」なんて、そこまでやるか!って感じですよね)、地元で「万博」が開催されてしまったばかりに、周囲からいろんな手配を頼まれて困惑した京阪神の人々の姿には、同情してしまうのと同時に、「その時代の日本人は、まだまだそんなふうに親戚や友人に遠慮なく頼みごとができていたんだなあ」なんて、ちょっと驚いてしまうのです。アフリカの国々のパビリオンに「義憤に駆られて」入っていく日本人なんて、「人情噺」みたいだし。今の日本で同じような万博が開催されたら、おそらくみんな「つまらないパビリオンは、徹底的に無視」するのではないでしょうか。
 そして、海外旅行にどころか、関東から関西に出かけることすらそんなに頻繁ではなかった当時の日本人にとっては、「大阪万博」というのは、まさに「貴重な異文化交流の場」だったのですね。

 こうしてみると、やはり「大阪万博」というのは、後の神戸やつくば、愛知の博覧会とはかなり違う、「特別な万博」だったのかもしれません。日本がまだ混沌としながらも、新しく生まれ変わろうというエネルギーにあふれていた、そんな時代の象徴。それが「大阪万博」。
 行った人の大部分にとっては、「暑かった」「並んでばかりで疲れた」というのが「実感」だったとしても、それは、まちがいなく「歴史的なイベント」だったのでしょう。



2007年09月10日(月)
筒井康隆さんが「サントリー・モルツ」のCMで苦労したこと

『笑犬樓の逆襲』(筒井康隆著・新潮文庫)より。

(筒井さんが、サントリー・モルツのCMに出演されていたときの話。初出は1999年3月です)

【もうお気づきの方も多いと思うが、今、サントリー・モルツのCFに出ている。いやはや、メジャーのCFに出るのがこんなに大変だとは思わなかった。今まで出たCFは「通販生活」だの「天下一品ラーメン」だの、比較的マイナーな商品のCFであって、撮影も一日で済んでいた。マックのCFに出たこともあったが、これは一回きりの放映で、やはり一日で撮り終えた。今回は1年契約だそうであり、何度か新しいバージョンを撮ったりもするようだ。現在の15秒バージョンと30秒バージョンは言わば声と写真とわがキャラクターによるアニメーションのみの出演であったが、ラジオの収録も含め、えらい苦労であった。

(中略)

 苦労は撮影や収録にまつわるものだけではなかった。1年契約ということは、その間、他の同業各社とは無関係でいなければならぬということであり、公的な場ではサントリーの酒以外は飲めないのであり、たとえドラマの中であろうと他社の商品を飲んではならず、他社の商品の名が同じ画面に出てもいけないという厳しさである。具合の悪いことに、おれは現在テレビ東京の「別れたら好きな人」という連続ドラマに出演していて、これが川島酒店という酒屋の親父の役。品川の戸越銀座という商店街に毎週のようにロケに出かけているが、撮影にお借りしている酒店の店先へはサントリー製品しか置けず看板も取り替えなければならないので、いつも並べ替えが大変なのだ。しかも最初のうちは、おれのサントリーCF出演については箝口令がしかれていたから、わがマネージャーの苦労たるや大変なものであった。なぜ店先をサントリー製品だけにしなければならないのかという説明ができないのだ。さすがに演出スタッフだけには内密に打ち明けていたらしいが、他のスタッフたちは怪訝な顔をしていて、今になってやっとあの時のわがマネージャーのあたふたぶりがわかって納得し、大笑いしている。
 この間、やはりテレビ東京の番組で日曜の「食わずに死ねるか」というドキュメンタリーにも出演した。食べ物の番組だからやはり酒がからんでくる。原宿の「ラ・スカラ」というイタリア料理店に行った時は、メニューの立看板にカールスバーグという商品名が入っていて、この部分は撮り直しとなったが、あとで聞いたところではカールスバーグはサントリーが扱っているとのことで、実は画面に出てもかまわないのだった。
 次に行ったのは阿佐ヶ谷の「鳥正」という焼鳥屋。繁華街の裏通りにあるので、そこに行くまでのわがうしろ姿にはどうしても酒類の広告や看板、時にはネオンまでが入ってしまうので、ここでもジャーマネが大奮闘。さらに店内には他社のビールや酒のポスターがいやというほど壁に貼られていて、ジャーマネはまたしてもそれらを裏返すのに大汗を掻くということとなる。ご亭主と話そうとしても、和服のご亭主は、いつもこの姿だからというので「賀茂鶴」の前垂れを取ろうとしてくれない。ここではカメラマンが大変な苦労をすることになった。】

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 「芸能人の誰某のCM出演料は、1本あたり○千万円!」
 なんていう話を耳にするたびに、ああやって「企業の顔」になるだけでそんなに凄い額のお金をもらえるなんて、と羨ましく感じるばかりなのですが、実際にCMに出演するとなると、けっこういろいろな苦労があるみたいです。
 「公の場では同業他社の製品を使ってはならない」なんていうのは、よく知られている話ではあります。車や高級アクセサリーのようなものであればさほどの問題はないでしょうが(でも、いざというときに知り合いの車でも運転できないというのは、困ることもあるかもしれませんね)、食料品や日用品の場合などは、テレビの画面の外でもかなりの注意を要するはずです。

 ここでの筒井さんの場合は「サントリー・モルツ」というビールのCMだったのですが、御本人が公の場では、サントリーのお酒しか口にしてはならない、というのは当然のこととしても(だって、サントリーのCMに出ている人が「本当はこっちが好きだから」って、キリンラガーをみんなの前で飲んでたら、やっぱり商品のイメージは損なわれるでしょうから)、「他社の商品の名が同じ画面に出てもいけない」というのは、かなり厳しい制約であるように思われます。ちょうどそんなときに「酒屋の店主役」なんていうのは、本当に間が悪いとしか言いようがありません。考えようによっては、ドラマの中でもサントリー製品をアピールできるいい機会、なのかもしれませんが。
 しかし、「月9」のような人気CMタレントが大勢出演するようなドラマでは、こういう「映してはいけないもの」をチェックするだけでも、スタッフの気苦労は並大抵のものではないはずです。別々のメーカーの車のCMに出ているタレント同士だと、絶対に二人で同じ車には乗れないでしょうし。
 「CMだけで稼いでいるタレント」というのは、実は、「CMにたくさん出ることによって、他の仕事での制約が多くなりすぎてしまっている人」の場合もありそうです。
 6社も7社も大きな企業のCMに出ていたら、それこそ、街も歩けないのではないかなあ。

 まあ、こういうのって、僕も含む「普通の人間」には、まず経験することはありえない「苦労話」ではあるんですけどね。



2007年09月09日(日)
「スピーチの名手」丸谷才一さんのスピーチ術

『装丁物語』(和田誠著・白水Uブックス)より。

(スピーチの名手として知られる、丸谷才一さんの話)

【丸谷さんは各種パーティにおける挨拶が上手だということはよく知られています。そして丸谷さんの挨拶の特徴は原稿を読むことですね。初めてだと奇異に感じるかもしれないけれど、アドリブでやってたどたどしくなったり、長ったらしくなったりするのはいけない。そのためにスピーチを準備する。それを暗記して会に臨むのは役者じゃないんだからむずかしい。というわけで原稿を読むという独特のスタイルができた。ご存知名文家だから、原稿は完璧で、時間も主催者が望む通りになるというわけです。しかも原稿が手元に残る。これを本にまとめたのが『挨拶はむづかしい』(85年、朝日新聞社)でした。ここではぼくは丸谷さんが原稿片手にマイクの前に立っている絵を描きました。正に逐語訳ですけど、この場合はそれが合ってるかなと思ったんですね。
 余談ですが、丸谷さんは原稿がないとスピーチができないかというとそんなことはない。突然のご指名ということもありますから。ぼくは井上ひさしさんの芝居の初日のパーティに、丸谷さんが突然指名されたのに遭遇したことがあります。原稿がなくても見事なスピーチでした。ただし本には残らないのでもったいない。】

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 僕も今までの人生において、スピーチをしなければならなかった機会があるのですけど、あれは本当に難しいし、緊張するものですよね。聞いている側になると、いつも「お腹すいたから、早く終わらないかなあ」なんてことしか考えていないものなんですけど。
 僕のイメージでは、「スピーチが上手い人」というのは、客席を優雅に見渡しながら、雰囲気にあった話をユーモアたっぷりにできる人なのです。
 
 スピーチのときって、「あらかじめ用意してきた原稿を読む」というのは、いかにも不慣れで、話す内容を覚えていないような感じがして、あまり良い印象を与えないのではないかと、つい考えてしまいます。「原稿を読むだけなんて、心がこもっていない」と感じる人だっていそうですし。

 でも、この「スピーチの名手」丸谷才一さんのエピソードを読んで、僕はちょっと考えが変わったような気がします。
 喋りのプロの人がスピーチの際に原稿を読むというのは、さすがにちょっとどうかと思うのですが、それ以外の普通の人の場合、「原稿を準備しないでソラで喋ること」にばかりこだわりすぎて、話がまとまらずに冗長になったり、言い足りなくなったりするよりは、あらかじめ準備しておいた原稿を読んだほうがいい場合もあるのではないか、と。
 
 もちろん、「原稿を読む」ためには原稿を準備しておかなくてはなりませんし、丸谷さんの場合は、あらかじめ時間を調整しておいたり、内容も推敲されているのでしょう。丸谷さんの場合、「名文家」であり、用意されている原稿がすばらしいからこそ、このスタイルが認められているという面もありそうですけど。
 それに、スピーチも原稿にしておくと「商売道具」になりますしね。

 ただ、僕のように緊張してしまって、人前でうまく喋れないタイプの場合は、「原稿を読まずに喋る」ということを重視するあまり、グダグダのスピーチをしてしまうよりは、「原稿をきちんと読む」というのもひとつのやり方ではないかな、と思うのです。少なくとも、そのほうが時間調整くらいはちゃんとできそうですし。

 実際には、身内や知り合いが多い結婚式のスピーチなどの場合は、場慣れした人の流暢な「上手い」スピーチよりも、花嫁のお父さんが声を詰まらせながらたどたどしく話す言葉のほうが心に響いてくることも多いのですけど、そういうのは、狙ってできるようなものではないですからねえ。



2007年09月07日(金)
講談社の「アニメ化するマンガの『判断基準』」

『日経エンタテインメント!2007.9月号』(日経BP社)の特集記事「いま読みたい『原作本』100冊」より。

(「2大出版社の映像化への取り組みは?」と題した、小学館と講談社の自社作品の「映像化」に対するスタンスについての記事の一部です)

【日本映画界にとって、小学館はなくてはならない存在だ。毎年確実に大ヒットする『ドラえもん』『ポケモン』などのアニメに加え、2000年以降は、版権を持つ多くのマンガや小説の実写映画化にも積極的に乗り出している。こうした同社の映像化事業を一手に引き受けるのが、マルチメディア局である。担当役員の常務取締役、亀井修氏は、こう話す。
 「映画は、億単位のお金をかけたプロモーションだと考えています。ですから、本を売ることが第一の目的。勢いがついたのは、2002年の『ピンポン』がスマッシュヒットしてからです。その後、『世界の中心で、愛をさけぶ』と『いま、会いにゆきます』が、映画化を発表してから大きく売り上げを伸ばしました。そのときに『これか!』と思いましたね。本は仕掛けていけば売れるんだって」

(中略。以下は「講談社」の話になります)

 講談社の映像化で目立つのは、ドラマやテレビアニメだ。今クールでは『探偵学園Q』『ホタルノヒカリ』『山おんな壁おんな』『ライフ』と、4つのマンガ作品がドラマになっており、年間で14作品がドラマ化されるという。アニメも年間20作品が放映される。この映像化を担当するのが、取締役ライツ事業局長の入江祥雄氏だ。
 「4年前は、テレビアニメが年に2本だけでした。積極的に働きかけるようになってから、今のように増えたんです。映像化の目的は、やはり出版物への波及効果。昨年の『のだめカンタービレ』は、ドラマ化とアニメ化で3倍以上に増刷しました。売り上げでは60億円強の増加です。アニメでは『働きマン』の伸び率が『のだめ』以上ですし、今クールのドラマでも『ホタルノヒカリ』がとても伸びています。女性向け作品がよく売れる傾向がありますね」
 映像化はしっかりと年間スケジュールを組んで、計画的に進めているという。ドラマ向きの作品とアニメ向きの作品を分けることに始まり、放映されたとき自社の作品が各局で同じ時間帯にぶつからないような調整までするという。
 「映像化の判断基準は、1つには既刊本の巻数です。アニメの場合、定価410円の単行本で7冊以上が目安。巻数が多い作品ほど映像化による部数増が見込めます。ドラマはキャスティングの問題もあり必ずしも計画通りにはいきませんが、『ホタルノヒカリ』は1年以上前から積極的に仕掛けて、うまく実現した例です。一方、『探偵学園Q』はテレビ局から思いがけずオファーを受けたものです。すでに連載は終了し、過去に他局でアニメ化されています。こういうケースもあります」】

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 おおまかに言うと、「映画化」に積極的な小学館と、「ドラマ・テレビアニメ化」に重点を置いている講談社、という感じです。
 まあ、いずれにしても、最近の出版物の「映像化」に関しては、以前は「映像化の話が来るのを待つだけ」だった出版社側が、自分たちから映像化を仕掛けているというのは事実なようです。

 よく考えてみればちょっと不思議な話ではあるのですが、「映画化」というのは、書籍にとって、かなり効果的なプロモーションみたいなんですよね。『博士の愛した数式』や『そのときは彼によろしく』は、「映画化」されることによって、かなり本が売れたのではないかと思われます。その作品の「映画」そのものが大ヒットするわけではなくても、「映画化された小説」として書店に並ぶだけで、お客さんへのアピール度は違うようです。
 「映画化されるってことは、面白い作品にちがいない」っていうような先入観をなんとなく持ってしまう人って、たぶん、僕だけではないと思います。この記事のなかでも、小学館の亀井さんは、【『世界の中心で、愛をさけぶ』と『いま、会いにゆきます』が、映画化を発表してから大きく売り上げを伸ばしました】と仰っておられますが、「映画が公開されてから」ではなくて、「映画化を発表した時点で」大きく売り上げは伸びるのです。
 「映画は、億単位のお金をかけたプロモーション」というのは、まさに出版社の本音で、もしかしたら、「『映画化!』って宣伝だけして、映画は作らないのが一番儲かるんだけどなあ」なんて考えていたりするのではないか、という気もするんですよね。

 そして、僕がこの記事でいちばん驚いたのは、講談社の「映像化戦略」でした。「4年前はテレビアニメが年に2本だけ」だったにもかかわらず、いまや、アニメだけでも年間20作品。「ドラマ向きとアニメ向けの作品を出版社側で分類したり、作品が放送される時間帯まで調整」しているのだとか。さらに、「利益が大きくなるように、既刊本の巻数は映像化の判断基準にしている」などという話を聞くと、もう、「良質な小説や漫画を映像化する」というよりは、「映像化しやすいような小説や漫画を出版していく」時代になっているのだなあ、と考えてしまうのです。逆に、どんなに良い作品でも、巻数が少ないと、「儲からない」という理由で映像化されにくかったりもするのでしょう。

 まあ、『のだめカンタービレ』の「ドラマ化とアニメ化で60億円も売り上げアップ!」という実績からすれば、それもやむをえないかな、という気もするんですけどね。この出版不況の折でもありますし。
 考えようによっては、「お金のためだからこそ、あの『のだめ』だって映像化できた」のかもしれないんだよなあ……


 



2007年09月05日(水)
現存する「日本でもっとも古い週刊誌」とは?

『麗しき男性誌』(斎藤美奈子著・文春文庫)より。

(『週刊東洋経済』を紹介した項の一部です)

【ビジネスと関係のない世界にいる私などはとんと無縁だが、世の中には経済誌っちゅうものがあるのである。「日経ビジネス」「週刊ダイヤモンド」「週刊エコノミスト」「週刊東洋経済」のたぐいである。サイズはいずれも「アエラ」と同じで一般週刊誌よりやや大きい。週刊で発行されている点も同じ。ただしページ数は「アエラ」よりも若干多めで、お値段も600円前後と、週刊誌にしてはお高めである。

(中略)

 とはいえ経済誌はスゴイ。なにより驚くべきは、歴史と伝統の重みである。
 比較的新しい「日経ビジネス」でさえ、1969年の創刊である。高度経済成長時代の末期というか最盛期。翌年の大阪万博を間近に控え、日本中が好景気に浮かれまくっていたころである。
 しかし、経済誌の世界では、戦後生まれの雑誌など若造中の若造なのだ。
「週刊エコノミスト」が創刊されたのは大正十二(1923)年、「週刊ダイヤモンド」が創刊されたのは大正二(1913)年である。第一次世界大戦による空前の大戦景気を前に、やはり日本に活気があった時代である。経済誌は経済成長の機運に乗って世に出てくるものなのだろうか。
 それで終わりかと思ったら、さらなる長老格の雑誌があった。「週刊東洋経済」にいたっては19世紀のお生まれ。創刊されたのは明治二十八(1895)年である。明治二十八年っていやあ、日清戦争が終わって、下関条約が調印された年ですぜ。
 もっとも、この時代に経済誌が登場してきたものむべなるかなというべきだろう。明治二十年代は日本資本主義の成立期、最初の企業勃興期、もっとわかりやすくいえば産業革命の時代だった。日清戦争後の鉄道敷設ブーム、繊維産業の興隆。造船業や海運業の振興策に政府は乗りだし、明治三十年には金本位制が確立する。日本経済の足場はこのころ固まった。経済誌は近代史とともにあり。そういえばあの石橋湛山がしばらく編集長を務めていたのも「週刊東洋経済」だったっけ。現存するもっとも古い週刊誌がこれだというのもうなずける。】

参考リンク:週刊東洋経済

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 ちなみに、『文藝春秋』(週刊誌ではありませんけど)が創刊されたのが大正十一(1922)年。経済誌というのは、本当に息の長い雑誌が多いのだなあ、と驚いてしまいます。僕も物心ついてから30年くらいの間に、たくさんの雑誌の創刊・廃刊を見てきたのですが、ずっと続いていた「週刊誌」って、『週刊少年ジャンプ』『マガジン』『サンデー』『チャンピオン』のような漫画雑誌と『週刊現代』『文春』『朝日』のような「総合誌」くらいのような印象があります。ゲーム雑誌とかマイコン(パソコン)雑誌なんて、本当に栄枯盛衰が激しいですから。

 「経済誌」というのは、「時代の最先端」を追っている専門的な雑誌というイメージがあるので、コンピューター雑誌みたいに入れ替わりが激しいのだろうと思いきや、実際には「老舗」がかなり残っているジャンルみたいです。
 今週号(2007年9月8日号)の『週刊東洋経済』の特集記事は「老後不安大国」だそうで、こういう「経済誌」というのは、「経済そのもの」というよりは、「ビジネスマンの生活情報誌」みたいものなのかもしれません。そういえば、「プレジデント」なんて、一時期は「ビジネス雑誌」というよりは、「歴史マニアの雑誌」みたいでしたしね。
 しかし、「老後の不安」を特集している雑誌が、実はこんなに「高齢」だったなんて、読者はみんな知っているのだろうか……

 100年以上前の「経済誌」というのは、いったいどんな感じだったのでしょうね。その時代から「経済」という言葉や概念があったということに、僕はちょっと驚いてしまうのです。
 春画とか、かわら版はその前の時代からあったのですから、人間が「知りたいこと」は、まず「色」「世間の出来事や他人の噂話」、その次に来るのが「金儲けの方法」ということなのかもしれません。

 正直、いったい誰がこういう雑誌を読み続け、支えているのか直僕にはイメージがわかないんですけどね。「週刊東洋経済」を多くの人が愛読している業界、なんていうのがあるのかなあ。
 世の中には、「実際に読んでいる人を見たことないけど、ずっと本屋に並んでいる雑誌」って、けっこうあるような気がするんですよね。



2007年09月03日(月)
「Wikipedia」に関する嘘と真実

『TVBros。 2007年18号』(東京ニュース通信社)の特集記事「あなたをダメにするWikipedia〜嗚呼、世はWikipedia中毒〜」より。

(「都内有名私立大教授が語るWikipediaの猛威」というインタビュー記事)

【――実際、Wikipediaをレポートなどに使っている学生って多いんですか?

教授:多いですよ。みんなレポートで同じような箇所で同じような間違いしているから。中には、丸写しはおろか、フォントや書式を変えずにそのまま貼り付けてくる不届きなやつもいます。ほんと、それだけは勘弁してほしいですけど(笑)。大学1年生など特に多いです。アメリカの大学では試験にWikipediaを使うことを禁止にしているところもあるんですよ。

――教授や学者の方も使っているんでしょうか?

教授:学生の利用も多いけど、私達も結構使っていますね。私も1日に1回は見ています。日本語版のWikipediaは偏りがあって情報量も少ないので、主に英語版のWikipediaを見ています。
 学生もさることながら、学会などのアカデミックな場でもWikipediaはすごい問題になっているんです。学会などで内容をそのまま引用なんかしたらアウトですね。Wikipediaの内容はレベルが低くて、ソースとして認められていません。

――では、どのようにして利用したらいいんでしょうか?

教授:Wikipediaは確かに便利です。けれど、その参考文献を実際に見てみるという作業をして、正確度をきちんと把握してほしいですね。特に、アカデミックな場では独創性や多様性が重要になってきます。しかし、Wikipediaばっかりに頼っていたら、アプローチが同じになってしまうので、独創性や多様性がなくなってしまう。そういう意味でも実際に様々な参考文献を見て、独創性や多様性を身に付けてほしいですね。】


(Wikipediaの「正確度」についてのコラム)

【'05年12月号の英学術誌『Nature』は、Wikipediaと、権威ある百科辞典『ブリタニカ百科辞典』の比較を行い、情報の正確度を検証。Wikipediaとブリタニカ双方の記述を、どちらのものかは分からないように専門家に見せて、チェックしてもらうという方法で行われた。
 その結果、重要な概念に関する誤りはそれぞれ4件ずつ、表記の間違いや脱落、誤解を招く文章などは、Wikipediaで162件、ブリタニカで123件発見された。1項目あたりの件数に閑散すると、Wikipediaで3.86件、ブリタニカで2.92件の間違いがあるということに。『Nature』はこの結果から”どちらも正確度は同水準だ”と結論づけている。
 この結果にWikipedia側は喜びを表しているが、一方のブリタニカ側は検証の方法などについて『Nature』を非難し、訂正を求めている。その後も、Wikipedia側が見つけたブリタニカの間違いが話題になったりと、Wikipedia vs ブリタニカの百科辞典戦争はまだまだ続きそうである。】

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 大学のレポートで「Wikipedia」の丸写しなんてけしからん!
 ……と言いたいところなのですが、僕も学生時代、先輩や同級生のレポートを「参考」にさせてもらったことが何度もあるので、あまり偉そうなことは言えそうにありません。まあ、僕の大学時代は、レポートがワープロ打ちだというだけで、みんなが「読みやすい!」「内容が立派に見える!」なんて評価が上がっていたくらいだったんですけどね。
 卒論などはさておき(って、僕は実際に卒論というのを書いたことがないのでよくわからないのですが)、日頃の宿題としてのレポートなどで、オリジナリティを出せるようなのは、ごく一部の「優秀な学生」だけなのではないか、とも思うのです。
 教授だって、そんなことは百も承知でしょうから、本音は、「コピー&ペーストじゃあんまりだから、せめて手書きで写して来い!」という感じなのかもしれません。

 「記述に偏りがある」とか「いいかげんな内容が多い」あるいは「政治的な意図による編集合戦」などの問題点が取り上げられることが多いWikipediaなのですが、学会の席では「Wikipediaなんてソースにはならんよ」と鼻で笑っている教授たちでさえ、陰で「参考にはしている」みたいなんですよね。もっとも、専門家レベルだと、書いてある記述を鵜呑みにするのではなくて、その項目に記載されている「参考文献」を自分で読んでみて判断材料にする、というような使い方だそうですが。
 そういう意味では、Wikipediaというのは、学問の世界において、「ソース」として信用されるというレベルではない、ということなのでしょう。
 もっとも、「ブリタニカ百科辞典」だって、学会の「参考文献」として取り上げられることは、ほとんど無いんですけどね。
 研究者たちにとっては、「Wikipediaなんて簡便なものをやすやすと認めてしまっては、専門家としての名折れ」という意識もけっこうありそうな気もします。
 この『ブリタニカ百科辞典』との比較は、掲載されたのが、有名な学術雑誌『Nature』ということもあり、僕も驚いてしまいました。まあ、実際のところは、『Wikipedia』に書いた人が『ブリタニカ』を「参考」にしたものが多いのではないか、という気もするのですけど。
 少なくとも、ネット上で植えつけられているイメージに比べると、(英語版の)Wikipediaは、「けっこう正確」みたいです。そう言われてみれば、いくら便利であってもあまりに嘘ばっかりでは、こんなに普及するはずもありませんしね。

 ちなみに、【Wikipediaの発足は2001年1月15日で、日本語版ができたのは2001年5月20日】【Wikipediaがある言語数は253】【英語・ドイツ語・ポーランド語・日本語の順番で項目数が多い(2007年8月22日現在)】【全言語における項目数約820万、日本語の項目数約40万(2007年8月22日現在)】【2006年の日本語版推定訪問者数約1850万人】。
 学会や専門家たちがどんなに「白眼視」しようと、Wikipediaが「無視できない存在」になっていることだけは、間違いないようです。



2007年09月01日(土)
大ロングセラーになった「絶対に売れそうもない歴史小説」

『本の雑誌』2007年9月号(本の雑誌社)の「編集生活60年――出版芸術社・原田裕氏インタビュー」(聞き手・構成/新保博久)より。

(「戦後の一期生」として講談社に入社以来、60年に及ぶキャリアを持つ編集者(現・出版芸術社社長)・原田裕さんへのインタビューの一部です)

【原田裕:昭和28年に出版部に移ったらすぐに、山岡荘八さんから「ぜひ頼みがあるんだ」って。山岡さんは雑誌のころ担当して、さんざんお世話になったというか、いっぱい飲ましてもらった人でね。あのころ原稿もらってくると、編集部みんなで回し読みして感想を書くわけですよ、匿名でね。そこであんまり評判が悪いと書き直しを頼むか、突っ返すしかない。それが一番多かったのが山岡さんだよ。作中人物がすぐ一席弁じたりして、弱ったなあ、先生またお説教書いてきちゃったよって(笑)。でも、あのころご馳走してくれるって大変なことだった。金があっても食べるものがないんだからさ。その山岡さんが三社連合(北海道・中日・西日本新聞)で二年ぐらい連載していて、評判がいいからもっと続けてくれと言われている。これを本にしてくれないかと。何ですかって聞いたら『徳川家康』だって、う〜んと唸っちゃいますよね。

新保博久:大ロングセラーになったじゃないですか。

原田:結果的にはね。だけどそのころ家康なんて、日本じゅう誰も好きな人はいないわけ。狸親父っていわれてて。豊臣秀吉なら売れる。忠臣蔵でも大石内蔵助だから。家康、吉良上野介なんて敵役のやつは商売にならないんですよ。でも山岡さんは、俺はこれだけ家康のことを勉強したんだって、蔵の中に本がぎっしりと。だけど先生これ全部読んだのって聞いたら、「それは秘密だ」(笑)。それでも二年分くらいの連載の切抜きを風呂敷に包んで、とにかく読んでみてくれって。今度はどう言って断ろうかと思案しながら社に持って帰って読み始めたら、おや意外に面白いなと。だいぶ読んだなあと思って窓の外を見たら、木が見えるんでびっくりした。まだ夜の9時くらいだろうにおかしいなあ、江戸時代にタイムスリップしたかと思ったら、朝になってて音羽の杜の木が見えてたんだ。それくらい夢中になったわけで、これは何とか出さなきゃいけないなと。
 しかしあのころコピーがないからね、コピーをとってみんなに読ませて、企画会議の根回しすることが出来ない。しょうがないから、いかに面白いかって熱弁をふるうしかないんだけど、シーンとしてるわけ。「何が徳川家康だ。バカか」って。でも、人の悪口ばかり言ってる原田があれだけ褒めるんだから少し聞く価値あるんじゃないかって、即座に却下はされなかった。そこでまた山岡さんところへ行って「印税全額もらおうとは思わないでくれ」と言うと、「いいよ印税なんかいらないよ。出してくれれば」って、そういうわけにもいかない。だけど宣伝しないとこれは売れない、普通なら250円くらいで売れるところを270円にする、印税も山岡さんには230円計算で我慢してもらって、浮いた40円分を宣伝費にしようじゃないかと。だから最初から『徳川家康』一本で半五段の新聞広告を出した。それで初版7千くらいが1万、1万2千と、ちびちびと売り上げていったんです。】

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 『豊臣秀長』のような「有名人の親族」や『明智光秀』のような「敵役」、『大友宗麟』のような「ローカル系」までが歴史小説の「主人公」になってしまう現在の歴史小説界からすると、『徳川家康』なんて、「ど真ん中のストレート」のようにしか思えません。
 でも、この原田さんのインタビューを読んでみると、日本の歴史小説の市場では、「『徳川家康』なんて売れるわけがない」という時代もあったということがわかります。そんな中で『家康』を書いた山岡さんは、確かに「先見の明」があったのでしょう。

 このインタビューの解説によると、【『徳川家康』が経営者のバイブルなどと言われて急激に売り上げを伸ばしたのは、出版から10年近くたった1962年ごろである。結局「各版合わせると4000万部という超ベストセラー」(『クロニック講談社の80年』1990)となった】そうで、実際は、こうして原田さんたちが頑張って宣伝しても、10年近くは「そこそこのヒット作」に過ぎなかったのです。そういえば、『徳川家康』は、僕が子供のころにNHKの大河ドラマの原作としてブームになったりもしていたんですよね。火がつくのに時間はかかったけれど、ものすごく息の長いロングセラーとなった作品なのです。

 しかし、この原田さんのインタビューを読んでいると、「お説教ばっかり書いてしまう先生」が書いた「人気がないどころか嫌われている歴史上の人物を主人公にした」「ものすごく長い」小説を出版するというのは、ものすごい「冒険」だっただろうなあ、という気がします。いくら「実際に読んでみて面白かった」としても、ここまで売れるとは、出版社にとっても、作者の山岡荘八さんにとっても「嬉しい誤算」だったに違いありません。
 いや、本が売れただけではなくて、この小説は、「徳川家康という歴史上の人物の再評価」にもつながりました。
 「ずるがしこい狸親父」から、「乱世に平和をもたらした忍耐の人」へ。
 さすがに、NHKの大河ドラマの家康には、僕も子供心に「こんな良い人が天下を獲れるわけないだろ……」とつっこんでしまいましたけど。

 講談社の文庫版で26巻にもなる、あの長い長い小説を「読破」した人がどのくらいいたかは、ちょっと疑問でもあるんですけどね。うちにも「1巻」だけが3冊くらいあるんだよなあ、そういえば……