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2007年06月30日(土)
藤原紀香・陣内智則の「格差婚」戦略

『ダ・カーポ』609号(マガジンハウス)のコラム「トヨザキ社長、今日もおかんむりですか?」(文・豊崎由美)より。

(藤原紀香さんと陣内智則さんの結婚披露宴について)

【いつからこんなに高い女になったんでしょうか、藤原紀香は。K−1好きのB級女優だとばかり思っていたのに。ボンドガールを夢みるだけあってプロポーションはいいけど、派手な顔立ちに比して、スターの華には著しく欠けるタイプっつーんですか。テレビ局に5億円の披露宴をしてもらうほどの玉じゃなかったと思うんだけどなあ、ほんの1年くらい前までは。
 これって、つまり亭主となった陣内智則に格を”底上げ”してもらったってことなんでしょうね。わたし自身はご両人の芸能界におけるステイタスにそんな開きはないと思うんですが、陣内自ら「格差婚」とか言って卑下しまくっているうちに、それまでは芸能界ランク289位くらいのビミョーな地位にいた紀香が、特にドラマや映画の話題作に主演したわけでもないのに、するするっと30位くらいにまで上がってしまった。そんな感をうける今日この頃なんですの。
 本来、藤原紀香・陣内智則の芸能界で人気比は、多分3:2くらいで紀香が若干強いくらいだと思うんですね。ちなみに紀香と伊東美咲だと1:7。ま、そんな程度の女優なわけです。ところが、ご両人並びにマスコミが世間に流布させている比はといえば10:1、そのくらい格差のあるカップルの結婚だという話にしちゃってる。
 で、招待客の一番の大物が島田紳助で、席のほとんどは吉本興業のお笑いタレントで占められており(しかし、明石家さんまやダウンタウンのようなビッグな芸人は見当たらない)、郷ひろみが「お嫁サンバ」を歌い、陣内が新妻のためにピアノで弾き語りをし、引き出物に紀香のエッセイ集が混じっているといった、かなり趣味の悪い、うっすら場末感すら漂う披露宴が執り行われ、それがテレビで放映されるや関東地区24.7%、関西地区40%なんて高視聴率を取っちゃった。1年前の紀香なら考えられないような現象でございましょう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 いやほんと、知り合いの披露宴でさえ、「せっかくの休みの日にめんどくさいなあ……」なんて愚痴っている人も少なくないというのに、芸能人の結婚式は観てみたい、という人は相変わらず多いみたいです。テレビで観るだけなら、御祝儀も要らないしね。

 おめでたいことですから、そんなのおかんむりになられなくても、とトヨザキ社長には申し上げたいところではありますが、これを読みながら、確かに、藤原紀香さんと陣内智則さんって、世間で言われているほどの「格差婚」なのだろうか? と僕はあらためて疑問に感じてしまったのです。

 確かに紀香さんのほうが「一般的な知名度が高い」ことは間違いないでしょうが、陣内さんも『エンタの神様』への出演などで近年はかなり売れてきていますし、そもそも、紀香さんはこの結婚が話題になるまでは「知名度は高いけれど視聴率が取れない女優」だとさんざん言われてきたんですよね。けっこういろんなドラマに出演してはいるけれど、いずれも「代表作」と言われるような結果は出せていないし、考えてみれば、紀香さんが出ている番組で最も記憶に残っているのって、「K−1中継」だったりするわけです。

 実際にあの結婚式を盛り上げていたゲストの多くは陣内さん側の吉本興業の芸人たちでしたし、この二人、世間で言われているような「格差婚」じゃないと僕は思います。むしろ、「陣内と結婚してあげた藤原紀香」「紀香に結婚してもらった陣内智則」というキャラ設定で、2人はそれぞれイメージアップしているわけですから、これって「格差婚」を利用したプロモーションに、世間がみんな乗せられているだけのような気がします。
 しかし、芸能人って本当にしたたかだというか自意識過剰というか。
 新婦のエッセイ集が引き出物に混じっていたら、みんなかなり引くと思うんですけど。

 そもそも、「格差婚」なんて言葉がネタになるのは、実際はそんなに「格差」が無いとみんなわかっている場合だけなんですよね。宮崎あおいさんと高岡蒼甫さんにそんな言葉を投げつけたら、全くシャレになりませんから。



2007年06月28日(木)
「『テトリス』というゲームに、人はどうして熱中できるのか分かりますか?」

『パラレル』(長嶋有著・文春文庫)より。

(作中に出てくる「有名ゲームデザイナー」の独白)

【あのころバイトを雇う面接の時に僕が必ずしていた質問を不意に思い出し、女にしてみる。
「テトリスというゲームに、人はどうして熱中できるのか分かりますか」というのだ。
「単純なルールだから」「ラインが消えるのが生理的に快感だから」「スリルがある」大体、そんな答えが返ってくる。どう答えても結局採用したが、僕は満足しなかった。
「シンプルでスリルがあるからでしょう」女もいった。
 テトリスは1ライン消すと100点が、4ライン消すと1600点が加算される。4ラインで400点ではない、そのことが面白さの源なのだと何故、誰も喝破しないのだろう。面白さはプログラムや映像が作ってくれるのではない、人間が恣意的に作り出すものだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「テトリスというゲームに、人はどうして熱中できるのか分かりますか?」
 そう聞かれたら、僕はたぶん言葉に詰ってしまいます。上から落ちてくるブロックをうまく組み合わせて隙間なくラインを作ってブロックを消していく、ただ、それだけのゲーム。にもかかわらず、「テトリス」はパソコンで、アーケードで、ゲームボーイで、そしてニンテンドーDSでも時代を超えて大ヒットしているのです。
 しばらく悩んだ末に出てくる僕の「解答」も、やはり、「シンプルなゲームシステムと『テトリス』の快感」とかになってしまうのではないかなあ。

 このゲームデザイナーの「答え」は、僕にとってはすごくインパクトがあったのです。「4ライン一度に消したら1600点というルールにしたこと」というのは、ゲーム慣れしている人間にとっては、「そのくらいのボーナスは当たり前」だと感じることなのではないでしょうか?
 でも、実はこのルールが無ければ、『テトリス』は、ゲームとしてはかなり無味乾燥なものになってしまうんですよね。
 単純に『テトリス』というゲームを長く続けようと思うならば、地道に1ラインずつ消していくのが一番安全かつ確実な「攻略法」なはずです。もし、4ライン一度に消したときのボーナスや効果音が無ければ、みんなそうやってブロックを積み重ねていくことでしょう。
 ところが、『テトリス』の作者は、そこに「一度に4ライン消すことによる報酬」を付加することにより、『テトリス』に「ゲーム性」を加えたのです。
 待ちに待った直線のブロックが降ってきて、4ラインが一度に消える快感のために、多くのプレイヤーは、わざわざリスクを冒して「赤ブロック待ち」でブロックを積み上げます。それはゲームオーバーの危険性を高める行為ではあるのですが、だからこそ、それを達成した時の充実感もあるんですよね。
 どんなにゲーム機の性能が進化しても、そのゲームの「ルール」を作るのは人間です。どんなに素晴らしいグラフィックで飾ってみても「ルール」がつまらないゲームには魅力がありません。
 誰でも簡単に作れそうで、シンプル極まりないように見える『テトリス』も、その面白さは「偶然の産物」ではないのです。



2007年06月27日(水)
「史上最高の人気プロレスラー」ゴージャス・ジョージの伝説

『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)より。

【第2次世界大戦以前、プロレスはリアルファイトのふりをしていた。プロレスは偽装されたスポーツだったのだ。多額の賭けが行われたために、ビッグマッチには必ずマフィアが絡んだ。レスラーたちはマフィアの指示通りに勝ち、あるいは負け、賄賂を受けとった新聞記者たちはプロレスの全貌を知りつつもスポーツとして記事を書いた。
 だが第2次世界大戦が終わり、まったく新しいメディアであるテレビジョンの時代がスタートすると周囲の環境は一変した。
 テレビを支えるのは企業スポンサーである。企業スポンサーは犯罪組織とギャンブルの匂いを何よりも嫌う。視聴率さえ取れれば、リアルファイトであろうとなかろうと構わない。
 長く沈黙していたプロレスはテレビ向けの健全なエンターテインメントに生まれ変わることによって新時代に完璧に対応した。
 その代表がゴージャス・ジョージである。
 1915年にネブラスカ州セワードに生まれたジョージ・レイモンド・ワグナーは10代の時にプロレスラーを志した。身長175cm、体重97.5kgと体格に恵まれなかったワグナーは、ホンブルグ帽(フェルト製の中折れ帽)をかぶって杖を持ち、スパッツをはいたドイツ兵のヒール(悪役)としてキャリアをスタートさせた。だが10年間必死に努力したものの、全く芽の出なかったワグナーは、遂に前人未到の道を行くことを決意した。
 1948年にロサンジェルスにやってきたワグナーは、リングネームをゴージャス・ジョージと改め、これまでとは全く違うレスラーとして生まれ変わった。
 このリングネームは1920年代に活躍したフランス人ボクサー、ジョルジュ・シャンパルティエに由来している。シャンパルティエはその美貌から”華麗なるジョルジュ(Gorgeos George)”というニックネームをつけられた。ワグナーはシャンパルティエのニックネームをそのまま頂戴し、フランス・ブルボン王朝の貴族のパロディを徹底的に演じた。
 燕尾服と縞のズボンを身につけた礼装の執事が入場口からリングへと続く真っ赤な絨毯を敷き終えると、エルガーの行進曲『威風堂々』のレコードが鳴り響く。入場テーマ曲を使うレスラーなど前代未聞だった。
 もうひとりの執事を従えたジョージが絨毯の上をゆっくりと進む。もともと茶色だった髪はプラチナブロンドに脱色された上に優雅なウェーブがかかり、金色のピンで留められている。
 入場途中、ジョージは観客のひとりにターゲットを定める。多くの場合、それは太りすぎか何の魅力もない女性だ。通路の脇に座る女性の横で立ち止まったジョージは、その女性を上から下まで見回すと、明らかに嫌悪の表情を見せて言う。「おお、これはひどい!」
 彼女の夫もしくは恋人は怒り心頭に発してジョージに殴りかかろうとする。執事は必死に止める。ジョージがリングに上がるまでに、すでに観客席は罵声の嵐だ。
 自らを”蘭のように美しい男(The Human Orchid)”と呼ぶゴージャス・ジョージが蘭の花を持ってリングに上がる。身に纏う豪華絢爛な薄紫のガウンにはレースやフリルがたっぷりとつけられている。
 ゴージャス・ジョージは清潔を愛する。ふたりの執事は絨毯の埃をホウキで払った後、前の試合で戦ったレスラーたちの体臭を消すべく、そこら中に”シャネルNo.10”をふりまく。もちろんそんな名前の香水など実在しないのだが。
 レフェリーが試合前のボディ・チェックを行おうとすると、ゴージャス・ジョージは「その汚い手をどけたまえ!」と命令し、執事はレフェリーの手にまでシャネルをふりかけることになる。
 リングアナウンサーが「華麗なる容姿を持ち、大いなるセンセーションを巻き起こす東西両海岸の人気者、ゴージャス・ジョージ!」とコールする時も、ゴージャス・ジョージは傲然と動かない。対戦相手もレフェリーも眼中になく、観客からの非難の口笛も野次もジョージにはまったく聞こえないようだ。
 だが、試合開始のゴングが鳴り、自慢のプラチナブロンドに相手が触った途端、激怒したジョージは一転して大悪役に変身し、あらゆる機会を見つけては卑怯な反則行為を繰り返す。
 わざとらしい入場パフォーマンスを呆気にとられたまま見ていた観客たちは、レスリングをしようとしないジョージに大ブーイングを浴びせかけるものの、ジョージは委細構わず最初から最後まで反則の嵐。ついには反則負けを食らい、なお傲然と引き揚げていく――。
 バカバカしい入場パフォーマンスへの好奇心、軟弱なコスチュームへの嘲笑、女性を侮辱する無礼への非難、そして反則への激怒。その落差はたちまち暴動に近いほどの興奮を巻き起こした。
 時にゴージャス・ジョージのふくらはぎには火のついた葉巻が押しつけられ、1着2000ドルもすると本人が豪語する薄紫色のガウンは、しばしば群集によって引き裂かれた。
「私を憎めば憎むほど、観客が私以外のレスラーを愛するチャンスが生まれる」と後にゴージャス・ジョージは語ったが、ゴージャス・ジョージを愛する者も憎む者も、同じく入場料を支払って試合会場に群をなした。
 1949年2月、ゴージャス・ジョージの人気は東海岸にまで達した。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにメインイヴェンターとして登場したのだ。この有名なアリーナでプロレスの興行が行われるのは12年ぶりのことだった。
 さらに重要なことは、ゴージャス・ジョージの評判を聞きつけた何千万人もの人々が、新しいメディアであるテレビの前に集まったという事実だ。プロレスはテレビの最初の大ヒット番組となり、その主役こそがゴージャス・ジョージだった。
 1940年代後半から1950年代いっぱいにかけて、ゴージャス・ジョージは大統領よりも有名な存在だった。

(中略)

 最高にバカバカしく、楽しめるプロレス。それがゴージャス・ジョージだった。
 アメリカの新聞はゴージャス・ジョージの出現によってプロレスを完全なショーとみなし、プロレス記事はスポーツ欄から永遠に消えた。
「私がやっているのはショーです」とゴージャス・ジョージが宣言したわけではない。だが、コミカルでおかまチックなゴージャス・ジョージのプロレスがスポーツではなく、エンターテインメントであることは誰の目にも明らかだった。

 ゴージャス・ジョージの全盛期であった1950年代に力道山はアメリカ西海岸で修行時代を送っている。
 全米最大の人気レスラーであるゴージャス・ジョージのことを、力道山はもちろん知っていたに違いない。なにしろ毎日のようにコーンフレークやテレビ受像機のCMに出ているのだから。
 だが力道山がゴージャス・ジョージを日本に招聘することはなかった。
 アメリカ人のあくどい反則攻撃に耐えに耐え、必殺の空手チョップで逆転劇を演じるという力道山のストーリーは、プロレス=リアルファイトという前提の上に成り立っている。敗戦から間もない日本人には、ゴージャス・ジョージがケレン味たっぷりに見せる純然たるエンターテインメントを受け入れる心の余裕などない。そのことを熟知していた力道山は、ゴージャス・ジョージの存在を隠し通した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 著者の柳澤さんによると、テレビ黎明期のまだVTR放送がなかった時代には、「野球中継に比べて必要なテレビカメラの台数が少なく、ボクシングのように1ラウンドKOで早く終わってしまうという危険性もなく、善悪がはっきりしていて白黒テレビでもわかりやすい」という「プロレス中継」は、テレビ局にとって非常に優れたコンテンツだったそうです。終戦後の日本で力道山の試合が盛んに中継されていたのにも、テレビ局側の事情もあったみたいです。

 それにしても、ここで紹介されている「史上最高の人気プロレスラー」ビューティフル・ジョージのパフォーマンスの数々は、この文章を読んでいるだけでも、「実際に観てみたいなあ」と興味をそそられるものではありますよね。たぶん、まだまだ娯楽の少なかった時代のアメリカの人々にとって、ゴージャス・ジョージというのは、「バカバカしく、憎たらしいと思いつつも、なんだか目が離せないような存在」だったのではないでしょうか。
 昔「プロレス大好き少年」であった僕は、タイガー・ジェット・シンやアブドーラ・ザ・ブッチャーの酷い反則攻撃に心から憤り、彼ら「ヒール(悪役レスラー)」が大嫌いだったのですが、今から考えてみると、シンやブッチャーのような「悪役」がいればこそ、善玉レスラーというのは輝くものなのです。本当の「主役」は、「反則ばっかりしてまともにプロレスをやっていないように見える」悪役レスラーのほうで、彼らは、ただ強くてカッコいいだけの「善玉レスラー」よりも、はるかに「試合を創造する存在」だったのですよね。ゴージャス・ジョージの「変身」には、体格にも恵まれず、うだつの上がらないレスラー人生を送っていた男の「一発逆転のための賭け」という面もあったようで、体の大きさやルックスの良さでスターとなることを約束されているレスラーたちよりも、僕にとっては共感できる存在でもありますし。

 視聴者というのは、「応援している」選手を観たい場合だけではなく、「コイツが大嫌い」とか「負けるところを観たい」という理由でテレビのチャンネルを合わせてしまうことも少なくないわけです。亀田がダウンする姿を観るために試合中継にチャンネルを合わせ(そこで亀田がダウンしても疑惑の判定で勝ったりしてしまうのは、「煽り」としてはすごい演出なのかも)、「アンチ巨人」が「巨人が負けるところを見るために」巨人戦を観戦するというのは、けっして珍しいことではありません。

 戦後の日本のプロレス界とその周辺のメディアには、この「純エンターテインメント」の超人気レスラー、ビューティフル・ジョージは「ほとんど黙殺」されてきたようです。プロレス少年である僕は、けっこういろんなプロレス雑誌やプロレス関連本を読みましたが、ビューティフル・ジョージの名前は記憶に残っていません。当時からみても「昔のレスラー」だったからなのかもしれませんが、ビューティフル・ジョージと同世代の「史上最強のレスラー」ルー・テーズの名前は、それこそ飽きるほど聞かされてきたというのに。
 後の日本では、日本人同士でお互いの肉体を削りあうような真剣勝負(風の)『四天王プロレス』のようなものも出てきましたが、そんなふうに「アメリカン・プロレス」と日本のプロレスが違った進化を遂げてきたのには、日本のプロレス黎明期での力道山やメディアの意思が大きかったような気がします。まあ、僕もどちらかというと「真剣勝負っぽいプロレス」のほうが、ビューティフル・ジョージより好きなんですけどね。



2007年06月25日(月)
「どうしてできないの?」

『上京十年』(益田ミリ著・幻冬舎文庫)より。

(「譲れないこと」というエッセイから)

【今年に入って習いはじめたピアノを少し前にやめた。別にピアノが嫌になったわけではないのである。
 レッスンの日にうまく弾けない曲があった。先生の説明はよくわかるのだが、頭で理解したからといって指がすぐに動き出すというものではない。焦れば焦るほど緊張して、もっとできなくなっていくわたし。どうしよう……。モタモタしていると、先生がこう言った。
「違う、違う、ほら、もう一回、どうしてできないの?」
 わたしはこの瞬間、ピアノ教室をやめようと思ったのである。
 どうしてできないの?
 学校で、習い事で、塾で。子供の頃、よく大人からそんな言葉をかけられたものだ。言う側は別に怒っているのではなくポロッと出るのだろうが、言われたほうはできない自分を責めてしまう。幸い、うちの親は口にしなかったけれど、わたしは、ずーっとこのセリフがおっかなかった。どうしてできないの? と大人たちに言われて、子供に一体どんな答えがあるというんだろう。わたしは久しぶりにその言葉を聞いて、なんて無意味なのだとあらためて思った。
 ピアノの先生は優しかったし好きだったけれど、わたしはもう大人になったので、誰からも「どうしてできなの?」って言われたくないって思う。できないのもまた、わたしなのだ。
 ひとつ後悔しているのは、先生に自分の気持ちを伝えずにやめてしまったこと。焦らないで教えてくださいって言ってみればよかった気もする。子供の頃は大人にそんなことを言えるわけがなかったが、今のわたしは子供じゃないのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 どうしてできないの?
 僕も子供の頃、こんなふうに他人に責められるのはとても苦痛でしたし、もちろん今でも嫌です。
 どうしてできないのか自分でわかるくらいなら、言われなくてもできてるに決まってるだろ!と、何度心の中で叫んだことか。どうしてもできないから、どうしてできないのかわからないから、こっちも困り果てているのだというのに。
 そもそも、どうしてできないのかを考え、できるようにするのが「教える側の仕事」のはずなんですよね。

 でも、僕も職場で若手を教える立場になったとき、つい、この言葉が口をついて出そうになったことが何度もありました。いや、記憶にないだけで、何度か実際に口にしてしまったかも。
 この「どうしてできないの?」「どうしてできないんだ!」って言うときって、教える側にとっては相手に「質問」しているのではなくて、相手を「詰問」しているのです。自分がうまく教えられない苛立ちのあまり、つい、「どうしてできないの?」と相手を責めてしまうんですよね。「できないのは僕のせいじゃない!」と。

 もちろん、教える側が「どうしてできないの?」って言ってしまいたくなる気持ちも今の僕にはよくわかります。相手に明らかにやる気がなさそうなときは「どうしてやろうとしないの?」って言いたくもなりますし、教える側にとっても「どうしてなのかよくわからない場合」だってあるんですよね。
 僕の職場でも、「どうしてできないの?」って何の疑問も持たずに言い放ってしまうような人の下についた若手には、辞めてしまったり休職せざるをえなかった人が多かったような記憶があります。「反論したりかわしたりできない子供や後輩」にとっては、自分を指導する人に「どうしてできないの?」って追い詰められるのって、本当に辛いことなのです。その人が真面目で「他人のせいにできないタイプの人」であればなおさら。
 そして、大人や上司にとっては、そういう人をひたすら追い詰めていくのには、サディスティックな快感があるように思われます。責めているうちに、どんどん投げつけられる言葉がエスカレートしていったりして。
 どちらが「子供」なのかわかりゃしませんが、責められる側にとっては、逃げ出したくてもどうしようもないのです。

 この先生は、益田さんが大人だからこそ、そんなに深く考えずに「どうしてできないの?」って言ってしまったのかもしれません。でも、先生はなぜ益田さんが突然辞めてしまったのか、理解できないのではないかなあ。
 そして、益田さんも大人なのだから、そのくらいのイヤミは聞き流すべきだったのかもしれません。僕もこれを読んで「その言葉を『久しぶりに聞いた』という益田さんはのどかに暮らしておられるんだなあ」と皮肉半分で思いましたしね。

 それでも、「どうしてできないの?」って言ってしまう人は、やっぱり「先生失格」だと僕も考えています。

 「どうしてできないの?」って言われて傷ついたことがある人はたくさんいるはずなのに、どうして、みんな自分が「大人」になるとそんな「痛みの記憶」を失ってしまうのでしょうか……
 



2007年06月23日(土)
日本とアメリカの「映画監督と助監督の違い」

『hon-nin・vol.03』(太田出版)より。

(「はじめての頂上対談〜北野武×松尾スズキ」の一部です)

【松尾スズキ:そもそも最初に映画を撮ることになったとき、プレッシャーは感じましたか?

北野武:俺が(映画第一作目の)『その男、凶暴につき』を撮ったときはもう、生意気なさかりだからね。漫才で上がってきて、ラジオやったりなんかして、だから(深作欣二監督のピンチヒッターとして)急遽監督することになったときも「まあ、なんかできるだろう」と思われてたみたいで。ただ、周りのスタッフは「この人は何も知らねえ、我々がどうにかしないとダメだ」と思っていただろうから、ずいぶんよくやってくれたよね。あと、やっぱり、評論家も含めて映画が好きな人たちって、結局は自分自身が監督をやりたいんだよね。だから急に違う世界から来て、作品撮られて評価でも受けようもんならイライラするんじゃない? だから悪口が始まるんだ。俺、水野(晴郎)さんの作品を初めて見たときは安心したなあ。

松尾:(笑い)。

北野:本当に映画を愛してるんだこの人って思うよね。愛は盲目(笑)。あんなに何も見えていない人はいない。

松尾:でも、たけしさんが先に映画業界に切り込んでいってくれたおかげで、後続の僕らはだいぶ楽になりました。特に偏見もなく「分かってるから、一緒に作りましょう、監督」って感じに現場はなっています。

北野:必死になって監督を目指している助監督がよくいるんだけど、現場で何を習ってるかっていうと封建的な上下関係の中での立ち振る舞いだけだったし。いろんな現場をたらい回しにされて、原石をどんどん削られているような気がするの。で、「監督やんなさい」ってなった頃には、こんなちっちゃなダイヤになってる感じがあって。もっと原石のときにいきなり撮らせたほうがいいんじゃないかなと思うけどね。自分の映画にも助監督がいて、その人たちがいるから今回の映画も撮れているわけで、あんまり「いつまでもこんなことやってちゃいけないよ」とも言えないんだけど。でも、アメリカなんか行くと、助監督は助監督というひとつの仕事であって、助監督から監督になるコースはないから。日本みたいに、監督になるためのステップとして助監督をやるという考え自体がない。

松尾:日本だと、助監督にはいずれ監督になりたい人たちが集まってくるものですけど、「監督にはなれないだろうな」って人、けっこういますもんね。

北野:うん。これがかわいそうなんだよね。まあ野球チーム作っても何してもそうなんだけど、もう、どう見てもダメなのがいるんだよな。でも「下手だからやめな」とも言えないんだ。また、そういうやつにかぎって一生懸命やるわけ。そいで、本人は自分が下手なことに気づいていない。まあ、漫才とかお笑いの世界ってのもみんなそうなんだけど。】

〜〜〜〜〜〜〜

 水野晴郎さんの『シベリア超特急』シリーズを観ていると「映画への愛情」と「映画を撮る才能」というのは、必ずしも一致するものではないのだなあ、という気がしてきます。まあ、あれはあれで一種の「キワモノ」として、好事家たちにはけっこうウケているみたいなんですけど。水野さんも嬉々として続編撮ったりしていますし、まさに「恋は盲目」ということなんでしょうね。しかし、映画評論家・水野晴郎が他人が撮った映画としてあれを観たら、いったいどう評価するんだろう……

 それはさておき、ここで北野監督が書かれている「日本の映画界で監督になるためのシステム」というのは、確かにあまり「合理的に才能を拾い上げるための方法」ではないのかもしれません。「助監督」という役割には、「創造性」よりも「調整力」のほうが必要なようですし、スポーツ界での「名選手、必ずしも名監督ならず」というのと同じように、名助監督は、必ずしも「映画監督としての才能」を持っているとは限らないんですよね。逆もまた然りで、監督としての才能があっても、助監督として有能だとは限りません。優秀なクリエイターの中には、なかなか周囲と妥協できないタイプの人も多いでしょうし。
 でも、今の日本では「無能な助監督」には、「監督」としてのチャンスが与えられることはほとんどありません。プロ野球選手になるためにサッカーの技術を評価されるようなシステムになっているわけです。

 北野監督によると、アメリカでは、「監督」と「助監督」というのは、「それぞれ違う仕事」として認識されているそうです。アメリカには日本では、「優秀な助監督から監督に」なるというコースがなくて、「監督コース」の人は「ダメな監督から優秀な監督に」なることを目指し、「助監督コース」の人は、「超大作の助監督を目指す」という「分業化」がなされているんですね。いや、アメリカの助監督だって、「自分も監督やってみたいなあ……」って思うことはあるかもしれませんけど。

 もちろん、監督には「協調性」も必要でしょうし、いろんな人の役割がわかるという意味では「助監督経由の監督」というシステムが必ずしも悪い面ばかりではなさそうなんですが、こういうシステムって、「極端な面がある天才」を発掘するには不向きな気はしますよね。



2007年06月22日(金)
本田宗一郎さんが語った「自動車が50年前に比べて本当に進化したところ」

『本田宗一郎の見方・考え方』(梶原一明監修・PHP研究所)より。

(本田宗一郎をよく知るジャーナリストである梶原一明さんへのインタビュー「不世出の経営者・本田宗一郎の世界」の一部です)

【自動車っていうのは人間が生活していくうえでのツールとしては非常に便利なものだけれども、これほど進化していないものもないんじゃないか。というのは、登場したときからタイヤが4つにハンドルがついていて、エンジンが載っていて、それで動くだけでしょう。
 どこが進化したんですか? 本田さん、と訊いたことがあるんです。
 すると、「昔はドライバーを何と言ったか? 運転士と言った。今、運転士という言葉があるか? ないだろう。それは、女でも子どもでも簡単に運転できるようなものになったから、運転『士』じゃなくて運転『手』になったんだ。『士』がつくのは、機関士とか操縦士のように、難しいものを運転する人だ」。こう言うんですね。「自家用自動車の運転士が事故」なんて報道する新聞があったらお目にかかりたい、とね。
 その通りですよね。それが科学の進歩なんだと。
 形式が4つのタイヤにハンドルということで変わらなくても、30年前、50年前の自動車に比べれば「士」が「手」になるくらい変わったんだ。
 こんな具合で、本田宗一郎は非常におもしろいことを言うんですよ。これはもう、一種の文明論でしょう。文明論としての技術ですよ。
 自動車というものができて、どんなメリットがあったんでしょう? と訊くと、「それは家だろうな」と言うんです。
 というのは、日本は国土が狭いし、車抜きでは家が建てられなかった、というわけです。モータリゼーションがなければ宅地の造成なんかできなかった。ニュータウンになんか住んでいられない。
 私(梶原)の住んでいるこの建売だって、もう二十何年も経つんだけど、駐車場がないのはうちだけでしたからね。うちは駐車場をつぶして増築しちゃったんですよ(笑)。でも、みんな自動車を持っていましたからね。山を崩して住宅地にしたようなところは無数にありますけれども、全部、自動車を前提としているというわけです。
 だから、日本の自動車産業が急速に発展していなければ、住環境は猛烈に悪くなっていたかもしれません。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「世界のHONDA」を築いた男、本田宗一郎。
 僕がリアルタイムで知っている本田宗一郎さんというのは、F1のパーティでセナに笑いかけていた好々爺なのですが、この話を読んでいると、本田宗一郎さんというのは、「車やバイクをこの上なく愛した人」であったのと同時に、自分たちの会社がつくっていた、この「文明の利器」の「役割」みたいなものを客観的に考えていた人でもあったようです。

 言われてみれば、自動車の「4つのタイヤにハンドル」というスタイルは、オート三輪とか大型トレーラー、一時期のティレルの6輪のF1マシンのような一部の「例外」を除けば、この50年くらい全然変化がみられていませんよね。それがいちばんの「完成型」であるということなのかもしれませんが、傍からみれば、「進化がない」ようにも思えます。もちろん、目立たないところでの「進歩」は続いていて、僕も車を買い替えるたびに、同じ価格帯の車でも振動が少なくなったり、冬の日にもすぐにフロントガラスに張っている氷が解けてしまうようになったことに驚いてはいるのですけど。

 そんなふうに「マイナーチェンジ」しかしていないように見える「車の進化」なのですが、本田宗一郎さんは、「見かけはほとんど変わらなくても、ごく一部の専門家しか操れなかった『車』という道具は、こんなに多くの人のものになったじゃないか、それこそが『進歩』なのだ」と語っておられます。より高度な技術を使って「最高の性能のもの」を造っていくことだけが「進歩」ではなくて、「同じ性能のものを使いやすくして、より多くの人の役に立つようにする」というのも、確かに「進歩」なんですよね。高いところを目指すだけではなくて、裾野を広げるというのも「技術」の力なのだよなあ。そういう意味では、パソコンというのも革命的に新しいことができるようになったわけではないけれど、「進歩」しているんですよね。

 言われてみれば本当にその通りなのですが、『HONDA』のイメージとして、「より高度な技術を使って、より速い車を作る会社」というのが僕のなかにあったので、この考え方はちょっと意外なものでした。まあ、「みんなが車に乗れるようになったこと」によって、さまざまなメリットがもたらされたのと同時に、交通事故でたくさんの人が亡くなられているのも事実ですから、全く犠牲を伴わない「進歩」というのはありえないのかもしれませんが。



2007年06月21日(木)
「ドキュメンタリーとドラマの違いって分かる?」

『Q&A』(恩田陸著・幻冬舎文庫)より。

(作中の、あるドラマ脚本家とその友人との会話の一部です)

【「言葉は怖いんだよ」
 確かに、よく取材とかするの?
「まあね。プロデューサーとか、スタッフと何人かで一緒に取材したり、資料読んだり、話聞いたりすることはある。でも、あんまり取材には頼らないなあ」
 細かいところが違うとか抗議来たりしないの。
「抗議はいろいろ来るよ。でも、しょせんはフィクションだし、ファンタジーなんだから、いちいち気にしていると切りがない。ドキュメンタリーとドラマの違いって分かる?」
 脚本があるかないかってことじゃないの。
「ドキュメンタリーだって、脚本がないわけじゃないよ。あたしが思うに、ドキュメンタリーは見えるフィクションで、ドラマは見えないフィクションだよ」
 見えるフィクションって。
「実在するフィクションとも言えるかな。交通事故があった。目撃者が証言した。目撃者は確かにその場にいたし、実際にその場で事故が起きるところを見た。彼は言う、よくある今ふうの若者の無謀運転だった。だけど、記憶は嘘をつくし、その人の知識や先入観で口にすることは違う。確かに運転手は若かったし、髪を染めていた。だけど、彼がストレスの多い仕事で白髪が目立つので髪を染めていたことや、親が倒れて急いでいたことを知っていたら、その目撃者はそうは言わなかったでしょうね。写真だってトリミングの仕方で、写っているものの見せ方は全然変わってくる。歴史的スクープと言われてきた写真が、トリミングの仕方のせいで誤った解釈をされてきたこともある。だから、事実と呼ばれているものだって、嘘をつく」
 事実も嘘をつく?
「うん、そう思う」
 じゃあ、どうやって事実を調べればいいの。
「さあね、事実はいっぱいあるってことを認識するしかないんじゃないの。人の目の数だけ事実はあるんだからさ」
 人の目の数だけ。そうかもしれないね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この部分を読んでいて、映画『大日本人』で、松本人志さん(演じる主人公)が同じようなことを言っていたのを僕は思い出してしまいました。
 「ドラマ」は嘘で、「ドキュメンタリー」は事実。そして、一般的に「ドキュメンタリー」というのは、「ドラマ」より高尚なものだ、というようなイメージが持たれがちなのですが、実際は「ドキュメンタリー」が写しているものは「誰かがトリミングした事実の一面」でしかないんですよね。

 僕は職業柄、医療訴訟に関する報道を見聞きすることが多いのですが、あの「報道」というのも「どちらの立場に立って伝えるか」によって、視聴者が受ける印象というのはかなり違うものになるのは間違いありません。「患者側からみた医療訴訟」というのは、「医者は傲慢でキチンと検査もしてくれず、説明もしてくれなかった。医者の手抜きやミスで幼い命が失われた……」というような感じで語られがちなのですが、医療者側の視点でみれば、同じ事例が「日中の勤務をこなしたあと一睡もせずに当直をしていて、大勢来院した中のひとりである『夜中に受診したほとんど症状のない患者さん』に対して詳しい検査をしなかった。説明をしても、患者さんの家族は激高するばかりで聞く耳を持ってくれなかった」というように見えることもあるのです。そして、「こんなことで『社会的責任』を追及されるなんて……」と僕らはひどく落ち込んでしまいます。

 たぶん、世の中で「事実を報道」されていることの多くで、大部分の当事者たちは、「こちらの事情も知らずに理不尽に責められている」と感じているのではないでしょうか? あの社会保険庁にしたって、「社会保険庁側の立場から今回の年金の問題を見ている人」なんて、ほとんどいませんし、いたとしても彼らの声は「抹殺」されているはずです。あの鳴り止まない苦情電話を受ける人たちだって、大変だと思いますよ。世間の人たちは、今なら社会保険庁には「何を言っても許される」と信じているでしょうから。
 あの人たちの「ドキュメンタリー」、どこかのテレビ局で作ってあげればいいのに。
 「ドキュメンタリー」と呼ばれている番組でも、あるスポーツ選手の視点と、彼のライバルの視点とでは、同じ試合でも全く正反対の印象を視聴者に与えることもありえます。そしてもちろん、製作者たちは、それを十分承知の上で、ドキュメンタリーを「演出」しているわけです。BGMひとつでも、それによって視聴者が受ける印象は、ものすごく違ってくるのです。

 でも、ここに書かれている
【じゃあ、どうやって事実を調べればいいの。
「さあね、事実はいっぱいあるってことを認識するしかないんじゃないの。人の目の数だけ事実はあるんだからさ」】
 というやりとりを読みながら、僕はこんなふうにも考えてしまうのです。
 結局のところ、世の中には「その人にとっての事実」しか存在しなくて、「絶対的な事実」を追い求めるのはムダな努力でしかないのではないか? 自分を保つためには、ある程度は「自分にとっての事実」を優先せざるをえないのではないか?

 視点が増えれば増えるほど、混乱してしまって、「生きていくのに必要な正しさ」から遠ざかってしまっているような気がするときって、ありませんか?



2007年06月20日(水)
「それでも彼女は、母親・上野比名子という役を死ぬまで演じ切った」

「日経エンタテインメント!2007.6月号」(日経BP社)の上野樹里さんのインタビュー記事より(波多野絵里・文)。

【「楽しませたい」「与えたい」「表現したい」という強い気持ちを抱く上野。周りの人にも自分にとってもプラスとなる仕事を続けていきたいという。まだ20歳という若さの彼女が、なぜそんな強い気持ちを持っているのだろうか。その思いの源は、上野が中学生のときに亡くなった母の姿にあると言う。

上野樹里「母親は、私が中学2年生のときに亡くなったのですが、彼女は働けなかったんですよ、いろいろ大変な苦労があって。多分、そんな母親の姿を見ていたから、自分は女でも、働くことはやめられないですね。働かなきゃならないっていうのもあるけど――この仕事って、どんなことでも表現に変えて発散することができてしまうんです。しかもそれで、自分も元気になれるし、人にも共感を与えることができる。
 …お母さんには、表現する場がなかったんです。つらくても、そんな顔を子どもには見せられないし、親にも迷惑かけられない。それでも彼女は、母親・上野比名子という役を死ぬまで演じ切った。それに比べたら私なんて、本当に、いろいろな役をやらせてもらっている。すごく恵まれているんです。うまく説明できないんですけど…、この仕事をやっててよかったなと思います。ずっと続けていきたいなと思っています」】

参考リンク:日刊スポーツのインタビュー記事「日曜日のヒロイン」の上野樹里さんの回('05/6/26)

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 お母さんを「彼女」と呼ぶ上野樹里さん。このインタビュー記事を読んでいると、彼女が21歳という年齢やルックス以上に「大人の女性」なのだな、と思わずにはいられません。
 上野さんは、お母さんに対して、「表現したくても、それを実現する場がなかった」と感じていて、その一方で、「彼女は、母親・上野比名子という役を死ぬまで演じ切った」とも発言しています。

 僕は自分が大人と呼ばれる年齢になってみて初めて「ああ、僕が子供の頃の両親は、僕が当時思っていたほど『大人』じゃなかったのに、一生懸命『親』としてがんばってくれたのだな」ということがわかったのですが、子供というのは、概して「親」とか「大人」に対する期待値が高いというか「大人なんだから我慢して当たり前」みたいなことを平気で考えているものなんですよね。
 ですから、20歳そこそこで、「お母さんは母親を演じ続けてきたのだから」と語る上野さんにすごく意外な気がしたのです。役者としての彼女は、コメディでの「元気で面白い女性」の役が多いのですけど、内心ではこんなことを考えながら、プロとしてがんばってきたのだなあ、と。

 でも、こうしてみんなが「母親」や「父親」や「だれそれの子供」や「自分らしい自分」を演じながら生きていると思うと、「本当の自分」って、いったい何なのだろうなあ、と悩んでしまいますよね。人はみな役者であり、どのくらいの役を演じ分けているかどうかだけが違う、ということなのでしょうか……



2007年06月18日(月)
CMタレントとしての『ドラえもん』の契約金

『TVBros。 2007年12号』(東京ニュース通信社)の特集記事「ブロスの『広告批評』」より。

(「ギャラにまつわるエトセトラ」という、タレントのCMの契約金についてのコラムより)

【業界には”日本人タレントのCMのギャラ(契約金)の上限は1億円”という空気があるようだ。この上限に該当するのは大女優・吉永小百合クラス。しかし、その活躍が世界規模ともなると、それ以上になることもある。渡辺謙のギャラは今や1億5千万円とも! また、松井秀喜やイチローも1億円を優に超える。
 しかも、だ。タレントにはこの契約金以外に、「出演料」なる金も発生するそうなのだ。業界の相場では、CMの場合、1回の撮影につき契約金の10%、ポスターなどのスチールは5%、ラジオやナレーションは3%が契約金とは別に支払われるのだとか。

 一方で、そんな高額なギャラをもらうタレント・スポーツ勢にも負けない高額集団がいる。それはアニメキャラクター。最も高額と言われているのが、ドラえもんとサザエさんで、どちらも1億円程度。しかも、この契約金とは別に、アニメ放送の番組枠のスポンサーになることを求められることもあるというのだから、しっかりしている。
 余談だが、サザエさんは、一家総出であろうが、カツオだけだろうが、極端な話、イクラちゃんだけだろうが、誰がCMに出ても1億円らしい。1億円払って「バーブー」とだけ言わせる風狂なCMに今後期待。まあしかし、こう見るとアニメキャラは高いようにも見えるが、まずスキャンダルはないし、国民的認知度もあるし、お買い得と見る向きもあるようだ。】

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 「CMのギャラが3千万円!」なんていう話を聞くと「やっぱり芸能人って儲かるんだなあ」と驚くばかりなのですが、実際は、その「契約金」以外にも、CMやポスターを新しく撮影するたびに「別料金」が発生するようになっているそうです。本当にタレントにとってCMというのは本当に「オイシイお仕事」だよなあ。スキャンダルに対して事務所が敏感になるのも当然の話。やはり「高額のギャラのタレント」は、それなりの大企業でしか起用されていませんしね。

 しかし、このコラムを読んでいて僕が驚いたのは『ドラえもん』『サザエさん』といった、アニメキャラの「CM出演料」の高さでした。
 言われてみれば、「国民的アニメ」のキャラクターたちの知名度は、そんじょそこらの「有名タレント」の比ではありませんし、視聴者の好感度も高いはずです。少なくとも「ドラえもん」や「サザエさん」が出てきただけでチャンネルを替えたくなるくらい嫌い、という人はほとんどいないように思われます。それにしても、「1億円」という高額のギャラ、それに加えて「テレビ番組のスポンサーになること」まで求められるというのですから、そのCMタレントとしてのステータスの高さは、「日本有数」と言えるのではないでしょうか。まあ、キャラクターのイメージというのがありますから、「サザエさんが出演する消費者金融」とか「ドラえもんが登場するパチンコ屋」とかは、いくらお金を積んでも難しいのでしょうし、だからこそ、みんなこれらのキャラクターに対して「安心」できるという面もあるのですが。

 これを読んでいて思い出したのですが、『サザエさん』一家が出てくるCMって、みんな必ず「一家総出」のような気がします。今まではそれを疑問に感じたことも無かったのですが、作る側からすれば「1人でもみんなでもギャラはおんなじ」なので、どうせならみんな出したくなるのも当然ですよね。
 



2007年06月16日(土)
爆笑問題が「テレビには出られないアングラ芸人」だった頃

『hon-nin・vol.01』(太田出版)より。

(「『テレビ』と『本人』の距離」というタイトルの松尾スズキさんと太田光さんの対談の一部です)

【松尾スズキ:今って普通の新人お笑い芸人がバラエティ番組にぽんと出ても、わりといけるじゃない? あれはすごいなあと思いますね。

太田光:そうですね。オレらも最初は差別ネタばっかりだったんです。で、当時はライブでウケる芸人って、テレビに出れないやつらばっかりでしたからね。テレビで何をやってはいけないかよく分かっていなかったし、それに加えて「テレビなんかに出てやるものか」というワケの分からない反抗意識もあったし(笑)。

松尾:それは今の芸人志望の人たちと真逆ですね。

太田:明らかに違います。僕らが最初に出たのは(コント赤信号が主宰する)La,mamaってライブなんですけど、当時トリをつとめていたのがウッチャンナンチャンで、彼らやピンクの電話、ダチョウ倶楽部はテレビで成立するネタをやってましたけど、オレらはテレビでは流せないネタばっかり。オレらが最初にやったのは中国残留孤児もののコント。あとは全身カポジ肉腫だらけの原子力発電評論家とか、佐川一政くんがレストランを出しましたとか、どうしようもない。

松尾:ひどいですねえ(笑)。

太田:それでもオレらはまだ「テレビ用のネタも作らなきゃ」って気持ちがありましたけど、他のやつらはもう……気が狂ったやつらの巣窟でしたね。で、またみんなバカだから、そんなネタやってるくせにテレビのオーディションを受けに行くんですよ。障害者のモノマネやって「けっこうです」って言われたり(笑)。あとはトマトジュースを飲んで「今飲んだジュースを手首から出します」って言ってその場で手首を切ったり。

松尾:もう芸人でも何でもない(笑)。

太田:そもそも笑えないしね。あとはナイフを持ってきて振り回しながら客席に乱入するだけとか(笑)。で、オレらも一時期そっちの路線にいってたわけです。「そっちの方が偉い」「女コドモにウケる軟弱なネタよりも、ハードなネタのほうが上」みたいなノリがあって。

松尾:でも、田中さんの資質はそっち方向じゃないですよね?

太田:そう(笑)。で、そんなネタばっかりやってると、それを求めるファンしか来なくなるわけです。そのうちファンの方が危ないライブになっちゃって、自然と「これではダメだ」と思うようになりました。

松尾:そういう危ないネタをやりたくなる季節があるのかな? 今はあんまりないよね。

太田:新人のライブを見ても、面白いかつまんないかは別として、今はそのまんまテレビで流せるネタが多いしね。

松尾:思い出したけど、俺らもその頃、下北沢の駅前劇場とかで、ひどいギャグをやっていましたね。「黒人力発電」ってネタがあって、街で踊っている黒人をさらって原子力発電所に閉じ込めて、ヒップホップをかければやつらクルクル回るから電力が取れるんじゃないかとか。でも、あんまり回り過ぎると核融合を起こしちゃうから、そういうときは『アンクル・トムの小屋』を読んだら回転が収まるんじゃないかとか……。

太田:ひどい(笑)。でも、そういうネタって実際面白いんですよね。ただ、それを続けていくとエスカレートするしかなくなってきて、最終的にはチンコ出すとか放送禁止用語を言うとか、そういう単純なことになってきちゃうから、これじゃ全然面白くないなって。】

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 この太田さんが語られている「当時」というのは、今から20年くらい前らしいのですが、「お笑い芸人」という存在、そして、芸人たちをめぐる環境は、この20年間で大きく変わってしまったみたいです。もしかしたら、今でも「テレビでは絶対に放送されないネタ」をひっそりとやっている知られざる芸人たちがいるのかもしれませんが。

 今の主流である「モテるために」「有名になりたいから」お笑い芸人を目指すという人たちと比べると、当時の芸人たちが「お笑いを目指した理由」というのは、もっとドロドロしていて、表現への衝動みたいなものに満ちていたように思われます。というか、【トマトジュースを飲んで「今飲んだジュースを手首から出します」って言ってその場で手首を切ったり】とか【ナイフを持ってきて振り回しながら客席に乱入するだけ】とかいう「ネタ」のどこが「お笑い」なのか、もう全く意味不明です。知らずにそんなの見せられたら、僕だったら引きまくりそう。それを見て喜ぶ人ばかりが集まったライブ会場って、確かにすごく怖いだろうなあ。

 とにかく「他人と違うことをやろう」とか「観客を驚かせよう」ということが目的になってしまって、どんどん表現が先鋭化してしまっていたのでしょう。まさに「もう芸人でもなんでもない」。ただ、それは現代的な感覚であって、当時の芸人からすれば「客に媚びるようなヤツは芸人じゃない」という感じだったのかもしれませんけど。

 それにしても、爆笑問題がそういうアングラなネタをやっていたというのは、ちょっと意外ではあります。太田さんはさておき、田中さんは、さぞかしステージの上で居心地が悪かったのではないでしょうか。



2007年06月14日(木)
「書店員のすすめる本」が注目される理由

『ダ・カーポ』607号(マガジンハウス)の特集記事「本屋さんがすすめるおもしろい本」の「書店員のすすめる本、なぜ注目される?」という記事より。

【いまや芥川賞、直木賞をしのぐ権威になりつつある「本屋大賞」。黒子的存在だった書店員が、”カリスマ書店員”として、表に出てくるようになってきたが、こうした書店員ブームはどこから出てきたのか? 永江朗さん(書店員経験のあるフリーライター)は、こう話す。
「一番大きいのは、新聞の書評が効かなくなったこと。広告もさほど効果が期待できなくなったと言われるなかで、口コミが一番強いと言われていますが、口コミに一番近いのが身近な存在である書店員さんのおすすめということなんだろうと思います。隣のお姉さん的な権威と言うか、評論家とか大学教授などの肩書きがある人が勧めるよりも読者には響いてくるんでしょう」
 80年代から90年代にかけて、書店の環境が急激に変化したことも背景にあると、永江さんは指摘する。
「昔は閉店後に書店員同士でよく飲みに行って本の話をしたり読書会をしたりしたものですが、書店の営業時間が延びて二交代制、三交代制になったため、書店員同士で飲みに行く機会もなくなってしまった。本屋大賞が生まれた背景の一つには、そういうことがあったと思います。本屋大賞を作れば、会ったこともない書店員とも、一つのイベントで盛り上がることができる。書店員の孤立感みたいなものを出版社側がたくみにすくって、書店員をスターに仕立てた。いわば、作られたブームという面はあると思いますね。

 出版点数が激増し、出版界全体の見通しがきかなくなったことも大きい。
「いま平均すると、一日で320点新刊が出てるんです。年間で約8万点。90年当時で年間4万点ぐらいですから、その倍になってしまっているんです。ところが、それだけたくさんの本が出ていると言われても、読者はピンと来ないですよね。一方、出版社は出版社で、本をたくさん出したものの、どういう理由で売れたり売れなかったりするかが、つかめずにいます」
 知らないところで本が次々に出ては消えていく。そういう感じが出版社にも読者の側にもある。その流れの中心にいて、出版社と読者の両側が見える存在が、取次や書店なのだ。
「年間8万点と言っても、初版3000部の本だと置かれる店はいわゆるカリスマ書店員がいるような大型店に限られてきます。カリスマ書店員なら全体を見渡すことができて、そのなかから面白そうな本をピックアップしてくれるんじゃないかという期待が、出版社側にも読者側にも、すごく高まっているんです」
 90年代後半ぐらいから盛んに言われ始めた”書店の個性化”も書店員ブームの要因になっている。
「書店員の個性が出るものといえばポップですが、あれを大きくしたのは、やはり<ヴィレッジ・ヴァンガード>。ポップのコピーライトセンスで本を売って、買う側もポップを書いたセンスを買うんだ、みたいなコミュニケーションが成り立ちましたよね。全国の書店にポップが浸透したことで、書店の側の主体が転換したのかもしれません」

(中略)

 新刊が年間8万点も出版される昨今、たしかに水先案内人がいないと迷ってしまいそうだ。では、身近な水先案内人=書店員と、うまく付き合うには?
「書店員が一番気を配るのは、何と言っても棚。この並びの意味分かってくれたかなというのは彼らの一番気になるところですから、棚の編集を味わうのが、書店員さんとのいい付き合い方だと思いますね」】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 実際は、年間4万点だろうが8万点だろうが、「誰かひとりが読みきれるような分量ではない」ということにおいては、同じようなことなのではないかとも思えるのですが……

 しかし、これほど「本が売れない」とみんなが嘆いている時代にもかかわらず、自費出版・共同出版が身近なものとなったためか、「出される本の点数」は増えていく一方のようです。8万点のうちで、『ベストセラー』と呼ばれるような本は、マンガを除けば年間数十冊くらいのものでしょうから、「自分の書いた本を売って生活する」というのは、本当に「狭き門」なのですよね。

 これだけ多くの本が出ていると、読む側としても、8万冊をすべて吟味する、というわけにはいきません。『本の雑誌』や『ダ・ヴィンチ』のような「いま出版されている本を紹介するための本」は、すっかり「定番」として認知されてきましたし、インターネットでの「口コミ」も、かなりの影響力を持つようになってきました。まあ、テレビや新聞の書評の「影響力」というのも、まだまだバカにはできないみたいですけどね。有名人が「読んで感動した」というだけで、ベストセラーになることも少なくないですし。

 ここで永江さんが述べられている「書店の環境の変化」は、ずっと人口数万人〜20万人程度地方都市を渡り歩いて生活している僕も実感しています。30年くらい前の「本屋さん」は、駅の近くにある少数の大規模書店以外、「街の小さな本屋さん」が大部分で、僕は親に「大きな本屋さん」に連れていってもらうのをとても楽しみにしていたのです。
 ところが、20年前くらいからは「郊外型書店」が主流になってきて、いままでは19時、20時に閉まっていた書店が、22時、23時まで開いているようになりました。そして今は、レンタルCD、DVDショップとの複合店と都会の大規模書店が主役となっていて、僕が以前通っていた「郊外型書店」は、いつの間にかバタバタと潰れ、他の業種の店に変わっています。たまに街の小さな書店に入ってみると、雑誌とベストセラーとエロ本しか置いてなくて、困ってしまったりすることもあるのです。
 そういう「書店の営業形態の変化」に伴って、「書店員」という仕事も昔とは全然違ったものになってきているのでしょう。レンタルショップが併設されている店では、23時、24時閉店が当たり前ですから、さすがに「仕事を終えてから飲みに行く」のも辛いでしょうし。
 確かに、そういう「書店員たちの孤独感」と「書店員という仕事にやりがいを見出したいという気持ち」が、『本屋大賞』や「POPの隆盛」につながっているのかもしれません。もちろん、そこには「自分という存在を誰かに認めてほしい」という書店員さんたちの願いもこめられているのでしょう。「自分が勧めた本を知らない誰かが買って読んでくれる」というのは、やはり「書店員冥利に尽きる」だろうから。

 Amazonのようなネット書店と品揃えや便利さで勝負するのは難しい面があるので、リアル書店としては、「ネットでは、『検索』はできても『偶然の本との出会い』は難しい」という利点をアピールしていくしかなさそうです。ただ、ネット書店というのも、家で宅急便が来るのを待っていなければならないもどかしさや面倒くささがあるのも事実なんですが。

 いずれにしても、街の小さな本屋さんには厳しい時代が続きそうですし、書店員という仕事も「本の仕入れ、陳列とレジ打ちだけやればいい」という時代ではなくなってしまっているのです。子供の頃は、「好きなだけ本が読めるラクな商売」だと思い込んで、憧れていたのに……

 「昔も今も、給料が安いのと本の重さだけは変わらない」と言っていたのは誰だったかな……



2007年06月12日(火)
ZARD『負けないで』の知られざる誕生秘話

『FRIDAY』2007/6/22号(講談社)の記事「名曲『負けないで』直筆の歌詞も初公開〜『ZARD』坂井泉水、未公開・8枚の素顔写真」より。

【透き通る歌声でファンを魅了し続けた坂井泉水。その代表作を挙げる上で、やはりこれだけはハズせない曲といえば、デビュー2年目の'93年1月に発売された『負けないで』だろう。数ある彼女のヒット曲の中でも最大の約184万枚を超えるセールスを記録し、一躍、スーパーアーティスト・坂井泉水の人気を決定づけたこの曲は、ドラマのタイアップがきっかけとなって、アルバム収録用の1曲から”格上げ”されたものであるが、実は”知られざる誕生秘話”があった。
「あの曲は当時の会社で私が担当していたドラマ『白鳥麗子でございます!』(フジテレビ系)の主題歌になったんですが、実は当初、クラシックの曲を使う予定でした。他の歌手のタイアップ依頼も、そんな理由でずいぶん断っていましたよ。ところが、たまたま坂井さんの事務所スタッフから『一度、聴いてみてほしい』と渡された1本のデモテープが『負けないで』だったんです。聴いた途端『これだ!』と思いました。曲や詞のイメージがドラマにピッタリだったし、何より人を包み込むような”母性”を感じさせる、優しい歌声が素晴らしかった」(現テレビ朝日編成制作局チーフプロデューサー・黒田徹也氏)
 レコーディングの際、彼女はノートに書いた歌詞を持ち込み、スタッフと協議しながら繰り返し歌い込んでいった。この歌詞原稿からは、彼女が試行錯誤しつつ、詞の内容を入念に練り上げていった様子が見て取れる。ちなみに、『負けないで』は'92年秋にレコーディングされたが、このとき、彼女の歌い方をめぐって、本人とスタッフとの間では話し合いが繰り返されたという。
「問題となったのは、サビの”どんなに離れてても”という部分でした。坂井は『は』の後で、ブレス(息継ぎ)を入れ、続く『な』にアクセントをつけて歌う癖があった。出だしと比べると1オクターブ音域が上がる難しい曲なので、息継ぎしないと歌い切れないんですが、その場所が明らかにおかしい。そこで息継ぎの場所を変えたらどうか、と提言したのですが、結局、あの歌い方になったのです。もし、彼女がこちらの意見を受け入れて歌い方を変えていたら、曲のイメージも随分違ったはずだし、あれだけの大ヒットにはならなかったかもしれません」(当時のレコーディングスタッフ)
 また、歌詞が”別れた彼にエールを送る”という後ろ向きとも取れる内容だったため、シングル化にあたって『負けないで』というタイトルをめぐっても意見が分かれたが、結局、そのままで発売されることになった。つまり、『負けないで』は、坂井本人の歌詞や曲調に対する強いこだわりと、いくつもの幸運が重なって生まれた名曲だったのである。
 その後、『負けないで』は'94年春の選抜甲子園入場テーマ曲に選ばれるなど、「みんなにエールを送る」歌として人々の心に焼き付いてきた。関係者によれば、素顔の彼女もこの歌詞と同様、周囲を明るくさせることが好きな女性だったという。
「とても周囲に気を遣う人で、みんなを笑わせるのが好きでした。ときどき、オヤジギャグを飛ばしてましたね(笑)。それに大変な”聞き上手”でもあった。スタッフの誰もがついつい、彼女にはプライベートなことをペラペラしゃべってしまうんです。彼女の歌詞は日常のありふれた事柄を題材にしたものが多かったんですが、あれはスタッフから聞いた話を材料にしていたのかもしれません」

(中略)

 慶応大学病院に入院中も彼女は周囲への気遣いと優しさを絶やすことはなかった。病棟で知り合った女性患者の体調が悪化したとき、彼女はわざわざ女性の病室を訪れ、その枕元で『負けないで』を歌ってあげたことすらあったという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『FRIDAY』の記事だから……と、半信半疑でこの記事を立ち読みした僕は、その数分後、『FRIDAY』を持ってレジに向かっていました。この記事で紹介されている坂井泉水さんのレコーディングでのプライベート写真や手書きの歌詞原稿は、大学時代から『ZARD』の、坂井さんの歌声を聴き続けてきた(もちろん、ZARDに対する熱意みたいなものには波があったにせよ)僕にとっては、なんだかとても貴重なものに感じられたのです。手書きの歌詞の原稿も「普通の20代の女性が書いた」、親しみを覚えるものでした。なんのかんの言っても、僕はこれまでの人生で、坂井さんの曲を何千回と耳にしてきているのです。

 この記事で紹介されている、『負けないで』の「どんなに離れてても」というサビの部分、確かに当時の僕も気になってはいたんですよね。「どんなにはなれてても」にブレスを入れるとしたら、「どんなに はなれてても」というのが日本語としては自然なのではないでしょうか?
 でも、確かに坂井泉水さんは「どんなには なあれてても」って歌っていたんですよね。
 この「ちょっと不自然なブレス」っていうのは、なんだかとても耳に残る感じがしました。逆に「普通の歌い方」であれば、『負けないで』は、ここまで「記憶にも記録にも残る曲」にはならなかったのかもしれません。そういう、ちょっとアンバランスなところがあるほうが、バランスが取れすぎている曲よりも「気にかかる」ものですし。この歌い方は、坂井さん自身が「狙っていた」ものなのか「どうしてもそうなってしまった」ものなのかは、この記事からは窺い知ることはできませんが、いずれにしても、『負けないで』は、けっして「順風満帆に生まれたヒット曲」ではなかったようです。

 ZARDというのは、本当に不思議な存在でした。誰もがその曲と坂井泉水という人のことを知っていたにもかかわらず、ステージに立つことはほとんどなく、バラエティ番組で坂井さんが「素顔」をさらすこともありませんでした。しかしながら、だからこそZARDの音楽というのは、歌手の人生の栄枯盛衰に左右されず、聴かれ続けるのではないかな、と僕は思うのです。

 坂井さんが病室で歌ってあげたという歌のように、ZARDの曲は、これからもいろいろな場面で僕たちを励まし、勇気づけてくれることでしょう。

 優しかった君は、もう、いなくなってしまったけれど。



2007年06月11日(月)
「作品が変わるわけがない。自分が変わったのだ」

『週刊ファミ通・2007/6/22号」(エンターブレイン)の「ソフトウェア・インプレッション〜ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争」(世界三大三代川・著)より。

【マンガの『めぞん一刻』を初めて読んだとき、確かに面白かったものの、あまり心に残るようなものではなかった。それが小学校高学年のとき。それから数年後。あらためて読んだ『めぞん一刻』は、いまでも読み返すほどのおもしろい作品に変わっていた。だが、作品が変わるわけがない。自分が変わったのだ。何気ないコマの描写の意味がわかるようになり、主人公である五代君の心情が手に取るように伝わってくる。作品に対する印象の変化の大きさに「大人になるってこういうことか!」と強く実感したことを覚えている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、こういうのって、確かにありますよね。
 これを読みながら、僕もいままで自分が読んできた本や観てきた映画のことを思い出していました。その時期に読んだからこそ感動できたものもあるし、体験するのが早すぎた、あるいは遅すぎたがために「面白いんだけど、なんだかのめりこめないな」と思った作品もけっこうあったような気がします。
 例えば、僕が高校時代にどっぷりとハマっていた『銀河英雄伝説』(田中芳樹著)などは、今はじめて読んだら、「なんだこの左翼的御都合主義スペースオペラは!」と、「トンデモ本リスト」に入れてしまったかもしれません。作品には年齢だけではなくて「時代性」というものもあって、『銀英伝』などは、現在では中高生が読んでも、ちょっと違和感がある世界観のように思われます。

 『フィールド・オブ・ドリームス』という映画、僕が最初に観たのは大学に入ってすぐの頃だったのですけど、ラストのお父さんとのキャッチボールのシーン、当時の僕は「ああ、いい場面だな、ここでみんな感動するんだろうな」と客観的に観ていたのです。当時の僕は、自分の父親が死んでしまうなんて実感は、全然ありませんでしたから。
 たぶん、今はじめて『フィールド・オブ・ドリームス』を観たとしたら、あのラストには号泣してしまうに違いありません。

 筆者の世界三大三代川さんは、『めぞん一刻』について書かれていますが(しかし、中学生くらいであのマンガの「機微」がわかるようになったというのは、ある意味すごいと思うけど)、同じ作品でも、自分の経験と重ねあわせることができるようになったり、自分の立場が変わったりすると、全然違う感想を持ったりするものなんですよね。
 僕は『三国志』をはじめて読んだときは、「正義の味方」である劉備や諸葛孔明を一生懸命応援していたのですが、自分が年を重ねてくると、「漢王室の血縁であることの正当性」をひたすら主張していただけの劉備や孔明よりも、裕福な名家の出身ではあるものの、宦官の家と蔑まれながらも、過激なやりかたで古いものをどんどん打倒し、有能な人材を引き立てて新しい世界を作ろうとした曹操が、なんだか魅力的に感じられてきたのです。昔は曹操なんて大嫌いだったのに。
 「不倫小説」を好む子供はほとんどいないけれど、大人になると、多くの人が「この主人公の気持ち、わかる!」とか言うようになりますし。
 
 こうして考えてみると、「心を動かされるような作品」との出会いというのは、その作品と、受け手である自分の年齢や心の状態という要素がうまく噛み合わないとうまく起こらない、稀有な化学反応みたいなものなのかもしれません。だからこそ、「自分の記憶に残る本や映画」って、とても大切なものなんでしょうね。



2007年06月10日(日)
タミヤの「代理店選びの鉄則」

『伝説のプラモ屋〜田宮模型をつくった人々』(田宮俊作著・文春文庫)より。

【ドイツの名詞男ハインツを選んだことで、代理店選びの鉄則がひとつわかってきた。「取扱商品に有名ブランドをひとつももっていないこと、できればタミヤ一社だけの代理店であること」である。理由は簡単。懸命に売ってくれるからだ。
 その鉄則のおかげで、フランスでは39歳のありがたい男と巡りあうことができた。アンリ・ロベールである。
 1986年、フランスの代理店だったセジグループが破綻した。日本でいえば総合商社のような会社だった。ホビー部門は堅調という報告を受けて安心していたにもかかわらず、フランスのタミヤ製品が突如”孤児”になってしまった。急いで新しい会社を捜さなければならない。
 パリの国際玩具見本市で目安をつけておいた7社を訪問して手応えを調べることにした。そのうち6社は、パリ近郊で地理的条件は良かったが、取扱商品が玩具から模型にいたるまで多岐にわたっていた。タミヤの販売に集中してくれるか、どうしても不安だった。
 最後の一社は、グラウプナー・モデリシモという初めて聞く名の会社だった。しかもパリから小型機で30分もかかるファルケノンという辺鄙な田舎町にある。ザールブルッケン地方にある鉄の産地で、ドイツとフランスが常に領有権を争っていた場所として有名だ。
 前もって連絡しておいたのに、私、商社の深野君、平山部長の3人が訪ねると、主人のロベールは興奮気味だった。並んだ順番が7番目でしかも一番地の利が悪い場所だから、(ここまでは来ないだろう)と思い込んでいたのかもしれない。
 パリと違って気持ちのいいフランスの田舎町だった。ロベールの倉庫はその風景に溶け込んでしまうような古い木造の建物だった。早速、100平方メートルほどの倉庫内を案内してもらう。真っ先に興味を持ったのは棚である。がらんとしている。空いたスペースがとても多い。ライバル会社の商品もない。主力商品の存在が見えないのだ。
 ロベールは懸命に倉庫を案内しながら、「自分の信用なら銀行で調べてくれ」という。必死である。興奮してタバコを休む間もなく吸いっぱなしだ。我々タミヤ勢はノースモーキングの人間だから、とても気になった。プラスチック製品の入った倉庫内でタバコを吸うのは絶対に危険だ。
「この人はよくタバコを吸う人だねえ」
 とあきれて草野君にいうと、彼は間髪を入れず、
「ミスター・タミヤは喫煙する人は嫌いだ」
 とぶっきらぼうにロベールに告げた。すると、世界一の愛煙国家の住人が急いでジタン(しかもフィルター無し!)をもみ消し、
「タミヤの代理店にしてくれたら絶対に禁煙する!」
 といい放った。フランス語とドイツ語はしゃべれても英語を使えない彼に、
「英語も必要だよ」
 と注文をつけると、
「女房と一緒に英会話を習う!」
 といい出した。
 夕刻が迫って来た。
「こんな田舎町でも3つ星レストランがある。食事をしていってほしい」  という。ロベール夫妻と模型談義をしながらそこで食べたトリュフの味は、いまだに忘れることができない。我が人生、三大美味のひとつである。
 飛行場へ向かう時間が迫っていたので慌ただしく席を立とうとすると、
「フランクフルトの空港前のホテルなら、自分の車で送っていったほうが早いから時間は気にしないでくれ」
 といってくれた。その言葉でワインの酔いがほどよく回り、ロベールの小さなBMWでフランクフルトの空港まで送ってもらうことにした。ロベールが酔った勢いでアクセルを踏む。平均時速180キロ。すっかり酔いが醒めた。
 ホテルに戻ると2日間で回った7社の代理店候補の会社を検討した。結果はロベールの圧勝だった。
 まず、主力商品に事欠いているので、タミヤ製品を一生懸命売るだろう。第二に、夫妻は以前ドイツのホビーショップに勤めていたから、夫婦そろって模型に関する知識が豊富だ。
 もうひとつ、倉庫のスペースが空いていて、タミヤ製品が入る余地が十分ある。しかもドイツとの国境の小さな町なので輸入ライセンス枠に関係無しで商品が流れる。
 ロベールが帰宅する時刻を見はからって電話をした。夜中11時半くらいだったと思う。
「明日の午後の便で二品に帰るので明朝10時ごろホテルに来てほしい」
 と伝えた。
 翌朝、ロベールは妻のエリカと正装してやってきた。条件を提示するなかで、
「小さくてよいから、パリにも事務所と倉庫をもちなさい」
 といい添えた。ホビーショップは圧倒的にパリに集中しているからである。
 条件交渉はスムースに進んだ。最後にロベールがタミヤの代理店になった時のマークを3種類、提案してくれた。すべて綺麗に彩色されている。彼は昨夜一睡もしないでこの新しいマークの図案を考えてくれたのである。
 3種類のなかから「T2M」というマークを選んだ。
 ビジネスはとてもうまくいき、数年で事務所や倉庫は新しい土地に移された。いまやフランス有数のホビーグッズのインポーターである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 結果的には、タミヤにとって、このアンリ・ロベール氏との出会いは「お互いにとって素晴らしい幸運をもたらした」のですが、この「タミヤの代理店選びの鉄則」というのは、僕にとっては非常に興味深いものでした。
 この田宮社長が書かれたものを読んでみると、僕だったらグラウプナー・モデリシモという会社は絶対に選ばないだろうなあ、と思うのです。
 知名度は低いし、田舎にあるし、倉庫には商品が少なく、社長であるロベールは熱意はありそうだけれども、あまり商売上手という感じではありません。どうみても、「有望な会社」には見えませんよね。
 僕がタミヤの社長としてパートナー選びをするのであれば、もっと知名度が高くて棚は商品であふれ、活気がありそうな会社にするだろうと思うのです。タミヤの代理店に立候補してきた会社は、他にもあと6社もあったのですから。

 でも、田宮俊作社長は、普通の人がネガティブなイメージを持つであろう「棚が空いていること」を「ここにタミヤの商品を入れられる」と考え、「商売があまりうまくいっていないからこそ、タミヤの商品を必死で売ってくれるはずだ」と予想したのです。もちろん、アンリ・ロベールという人間になんらかの魅力を感じたのも事実でしょうし(僕がこの文章を読んだ限りでは、単なるお調子者なんじゃないかという印象だったのですが)、連れていってもらったフランス料理の店が人生のベスト3に入るくらい美味しかったというような「後押し」もあったのかもしれません。とはいえ、普通の人であれば、やっぱりもっと「無難な選択」をするのではないかなあ、と僕は思うのです。いちばん大きくて安定している会社を選んでおけば、万が一失敗してもみんな「納得」してくれるでしょうし。

 こんな話があります。
 ある有名な靴のメーカーが、アフリカの原住民の村に販売担当者を派遣しました。
 一人目の担当者は、本社にこう報告したそうです。
「この村では、誰も靴なんか履いちゃいない。こんなところで商売ができるわけがないよ」
 しかしながら、二人目の担当者は、興奮しながら、こんな報告をしたのです。
「大変だ!この村には、まだ靴を履いていない人がこんなにたくさんいる。これはビジネスチャンスだ。すぐサンプルを送ってくれ!」

 「パイオニア」と呼ばれる人の考え方というのは、「マイナスに見える条件をプラスに変えてしまう」ものみたいです。
 そして、この選択には、「どん底から抜け出そうと必死になっている人間への共感と応援」もあったのではないかと思います。
 田宮社長は、ロベール氏に、無名の模型会社から「世界のタミヤ」を築き上げてきた自分の姿を重ねていたのかもしれませんね。



2007年06月08日(金)
『ウルトラマン』のアラシ隊員だった男の憂鬱

『わらしべ偉人伝〜めざせ、マイケル・ジョーダン!〜』(ゲッツ板谷著・角川文庫)より。

(インタビューした人に友達を紹介してもらうことによって(「テレフォンショッキング」方式)、マイケル・ジョーダンにたどりつくことを目指した『週刊SPA!』の連載記事を書籍化したもの。毒蝮三太夫さんの回の一部です)

【ゲッツ板谷「ところで、毒蝮さんときたら、まず頭に浮かぶのが『ウルトラマン』のアラシ隊員なんですけど(笑)。

毒蝮三太夫「あのね、昭和39年に東京オリンピックがあってさ。体操のウルトラCとかなんとかで、とにかく”ウルトラ”って言葉が流行ってたんだよな。で、東宝にいた円谷さんが、まず『ウルトラQ』っていうのを作って、その2年後に『ウルトラマン』を作ることになったの。そんで、科学特捜隊を演じる役者が5人必要だってことになって。3人は東宝から、あとの2人はTBSから出すことになったんだよ。要するに、国会でもやってる組閣人事みたいなもんだな。で、俺はTBSのドラマに出ていた縁で、その5人の中に入ったんだけどね。採用された理由は”3点セット”なんだよ。丈夫で、安くて、ヒマ。ガハッハッハッハッハッハッ、バカヤロー――」

板谷「で、演じてどうでした?」

毒蝮「恥ずかしかったに決まってんじゃねえかよっ。30にもなってオレンジ色の制服を着せられてよぉ、仲間からは『あんなジャリ番組に…』なんてからかわれるし。とにかく、当時は円谷プロに1週間に10日通ってたな。しかも、特撮がらみだったから演技の注文も大変だったよ。光線銃の先の位置を動かさないまま倒れてくれ、とか、怪獣から目を離さずに3人のチビッコを素早く抱き起こしてくれ…なんて言われてさ。俺はゴム人間じゃないってんだよっ」

板谷「ブハッハッハッハッハッ!」

毒蝮「そんなことばかりやってたから、撮影が終わったら決まって隊員たちと車で飲み屋をハシゴして回ってて。でも、あの当時だったからそんな無茶ができたんだな。今だったらすぐにとっ捕まって『科学特捜隊、飲酒運転で丸ごと御用!』なんて見出しが各紙面で踊ってるよ。…で、そのうち街を歩いてると『あっ、アラシ隊員だ!』なんて小汚いガキにまとわりつかれるようになってさ。だいたい地球を守ろうって大仕事に、何で隊員が5人しかいねえんだよっ!?」

板谷「ブハッハッハッハッハッ!(ラジオのまんまだわ、この人って)」

毒蝮「ところで、ウルトラマンのタイマーって何で3分間なのか知ってる?」

板谷「つまり、子供がTVの前で集中して座っていられる時間が3分間……」

毒蝮「そう。あと、特撮ってお金かかるだろ。だから、そういう設定にしとかないと予算がもたないんだよ。…しかし、円谷さんは凄い人だね。当時、その特撮技術をスピルバーグとかルーカスが見に来てたらしいよ」】

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 毒蝮三太夫さんといえば、『ウルトラマン』を再放送でしか観たことがない僕でさえも「アラシ隊員」のイメージが強いのですから、当時の子供たちには、それはもうすごい知名度だったのではないでしょうか。しかしながら、当時の「科学特捜隊の隊員たち」は、けっして喜んでその役を演じていたわけではないみたいです。

 現代くらい特撮の技術が発展し、特殊効果が全く使われていない映画のほうが珍しくなってしまえば、役者たちもごく当たり前のこととして、何もないスタジオで「光線銃の先の位置を動かさないまま倒れてくれ」とか「怪獣から目を離さずに3人のチビッコを素早く抱き起こしてくれ」というような「演技」を受け入れられるのでしょう。でも、当時の舞台俳優出身の役者さんたちにとっては、『ウルトラマン』のような「子供向け」の「イロモノ」に出演しているのに加えて、そんなわけのわからない演技を要求されたというのは、すごく屈辱的なことだったのかもしれません。
 実際に、周囲からからかわれたりもしていたようですし、「撮影が終わったらみんなで飲み歩いていた」なんていうのも、やはり「『ウルトラマン』の撮影は役者として、あまり面白い仕事ではなかった」からでしょうしね。

 番組があまりに大ヒットし、子供たちの心に残ってしまったがために、彼らは「科学特捜隊の隊員」というイメージに縛られ続けてしまうことになりました。番組への出演が決まったときの彼らはみんな、まさか自分たちの役者人生が、『あんなジャリ番組』に左右されるなんて思ってもみなかったに違いありません。「こんなはずじゃなかったのに」というのと「子供たちに夢を与えられる役ができてよかった」というのと、たぶん、その両方の感情が、元隊員たちの心には入り乱れているんだろうなあ。



2007年06月06日(水)
『フランダースの犬』最終回の「忘れられた名台詞」

『文学賞メッタ斬り! 2007年版 受賞作はありません編』(大森望、豊崎由美共著・PARCO出版)より。

(豊崎由美さんの「おわりに」の一部です)

【「パトラッシュ、ぼく、もう疲れちゃったよ」だと思いこんでおりましたの、アニメ『フランダースの犬』最終回、全国の小学生を涙にくれさせた名台詞は。ところが、
「パトラッシュ、疲れたろう?」
 本当は愛犬のほうを先に気づかっていたのを、つい最近知って愕然。ネロ、あんた子どもなのにえらいよっ!というわけで、
「大森さん、疲れたろう?」
 まずは相方の労をねぎらう大人のわたしなんでありました。】

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 この『フランダースの犬』の最終回、僕もよく覚えている……つもりだったのですが、記憶っていうのは、時間が経つと曖昧になってしまうのが常のようで。
 僕も、この文章を読んで、「そういえばそうだったよな……」とあのルーベンスの絵の前でのラストシーンをあらためて思い返してみました。

 言われてみれば確かにネロは「ぼく、もう疲れちゃったよ」と自分のことを嘆く前に、「パトラッシュ、疲れたろう?」と、最後に残った「親友」のことを気づかっていたような記憶があるのです。そして、よく覚えていなかった僕が言うのもどうかとは思うのですけど、あのときにネロが自分のことより先に「親友」のことを気づかうような「バカがつくくらいのおひとよし」でなければ、あのラストシーンには、あれほどのインパクトは無かったかもしれません。
 まあ、ここでパトラッシュが「疲れてないよ!」と吼えながら元気に庭を駆け回ったりすればドラマは台無しになってしまうわけですが。

 あらためてこう言われてみると、アニメの台詞の「順番」というのにも大きな「意味」があったりするのだな、と考えさせられます。

 しかし、僕は正直、あの『フランダースの犬』のラストシーンがものすごく苦手なんですよね。あまりに救いようが無いので。あのシーンは確かに「泣ける」けれど、どちらかといえばそれは僕にとって、「感動」というより「世界の不公平さへの憤り」なのです。

 なんで「善良すぎるくらい善良な人間」が、こんなに不幸な目にあってしまうのか?
 最後に「秘蔵の絵」が見られたから幸せでしたね、正直に頑張ったから天国に行けましたね、って言われても、みんなそれで納得できていたのかなあ……



2007年06月05日(火)
辛酸なめ子さんが、某大手英会話教室で「上のクラスにあがれなかった理由」

『自立日記』(辛酸なめ子著・文春文庫PLUS)より。

(辛酸なめ子さんの2000年9月16日の日記から。辛酸さんの某大手英会話教室での体験)

【英会話で、また激しい身振り手振りを強制されました。「I could read music when I was ten years old!」と叫ぶまで言わされました。かなり苦痛でした。まわりの人の笑い顔もひきつって、同情心が見え隠れしています。アメリカ人なんて全員死んじまえ(うそ)。
 クラスのあと、事務員に呼び止められ、残りポイントが少なくなっているけれど、更新はどうするかと問い詰められました、それなので「今のクラスのレベルではもうやるべきことは全部習ったし、もう限界を感じているので、一つ上のクラスになったら更新しようと思います」と言いました。
 すると、事務員はカルテを見て、「池松さんは文法や語彙には特に問題はないですが、積極性が足りませんね。これをクリアすれば上にあがれます」と言うのです。なので「日本語でも積極的に話せないのに、急に英語で積極的になどなれません。これは性格の問題なので仕方ないのですが」と言うと、「でも、英語という言語自体が、積極的な言葉なのです」と事務員は言いました。
 どうやらこのままだと、一生クラスの階層が上がることがなさそうです。絶望的になりました。】

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 僕は今までに何度も「英会話教室に通って、英語を身につけよう!」と決心してきたのですが、結局一度も体験入学すらしたことがありません。でも、この辛酸なめ子さんの「英会話教室での体験」を読むと、「どうせ僕に英会話教室は向いてなかったし、行ってみても続かなかっただろうな……」と諦めがついたような気がします。

 いや、確かに「会話」には「積極性」って大事だとは思うんですよね。何度か海外旅行をしてみて実感したのは、僕の「自信なさそうにボソボソと喋る、(たぶん)文法的に正しい英語」よりも、おばちゃんたちが大声で喋る単語だけの言葉のほうが、よっぽど「通じている」ということなのです。もちろん、重要な商談であるとか、学術的な話をしにいくのであれば、それなりに「正しい英語」を喋らないと相手にしてもらえないのでしょうが、「楽しく観光旅行をしたい」というレベルであれば、「ちょっとだけ正確な文法」よりも「積極性」のほうがはるかに「コミュニケーションに役立つ」のは間違いありません。

 でも、「あなたには積極性がない」という理由で英会話教室のクラスが上がらないというのは、なんだか腑に落ちない話です。僕のような「積極性のない人間」は、だからこそ、「文法や語彙」を身につけることによって、外国語でコミュニケーションするときの羞恥心を軽減しようとしているはずなのに。「英語という言語自体が、積極的な言葉なのです」って言われたら、僕などはどんなに勉強しても英語が上手になるわけがありません。学問には「積極性」が大事だっていうのは事実なんでしょうけど、真面目にやっている本人からすれば、「じゃあ、ここでは何を教えているんだ?」という気分にもなりますよね。

 そもそも、【「激しい身振り手振りを強制」されたり、「I could read music when I was ten years old!」と叫ぶまで言わされたり】することが、「積極性を向上させるためのトレーニングになる」とは、僕には全然思えないのです。こういうのって、多くの日本人生徒にとっては、むしろ英語に対する嫌悪感を助長するだけなのでは……

 ところで、「I could read music when I was ten years old!」って、いったいどう訳せばいいのでしょうか?



2007年06月04日(月)
任天堂の本社まで行ってしまった母

『泣ける2ちゃんねる』(泣ける2ちゃんねる管理人・2ちゃんねる監修:コアマガジン)より。

【「親が買ってくれた思い出のゲームソフト」より(投稿者:氏名不詳(02/06/03 17:01))

 小学生の時、ファミコンが故障した。
 それでおかんに修理出してきて、って言って
 俺は友達の家に遊びにいった。

 普段ファミコンショップなどに修理に出すが、おかんはあまり機械に詳しくなかったらしく、任天堂の本社までいってしまったw(編註・w=笑い の意)

 普通なら門前払いだが、なんと任天堂の社長室まで招かれ、社長が出てきて、「いつもありがとうございます。確かに修理お預かりします」といわれたらしい。あまりに腰の低い社長におかんはびっくりしたらしい。

 今思うと、子供のためとはいえ本社までいってくれたおかんに感謝したい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『2ちゃんねる』への書き込みですし、僕は以前、「富士通の本社にパソコンを買いに行って驚かれ、いろいろおまけをしてもらった人の話」というのを聞いたことがありますので、まあ、この話が事実かどうかというのは、眉唾モノかな、という気もするんですけどね。

 ただ、この話の時代、まだファミコンが全盛期だった頃の時代の「任天堂」という会社では、こんなエピソードが本当に起こっていてもおかしくなかったよなあ、と僕は懐かしく感じたのです。

 昔は花札とかトランプを作っていた『任天堂』という会社は、「ファミリーコンピューター」の大ヒットで、一躍「世界を代表する一大エンターテインメント企業」になりました。それでも、ファミコン黎明期の任天堂をはじめとするゲームメーカーには、こういう「親しみやすさ」があったんですよね。たぶん、今の『NINTENDO』で同じようなエピソードを書き込む人がいても、みんな「作り話だろ、それ」と本気にしないと思います。「あんな大企業の社長が、わざわざ会ってくれるわけないだろう」と。

 あの「ファミコンブーム」の時代のゲームメーカーには、こういう話が本当にあってもおかしくないような、「ゲーム機を本社に直接修理に持ってきてくれたお母さんに偉い人たちが本気で感謝する空気」があったのです。このお母さんを見て、任天堂の人たちは、「自社のゲーム機がこれだけたくさんの『普通の人々』に愛され、大事にされていること」を喜んだに違いありません。

 これはまさに、ゲーマーたちも、ゲームメーカーも、そして、ゲームという文化も、まだまだ「未成熟」だった時代の温かいファンタジー。



2007年06月03日(日)
コミュニケーション・ツールとしての「口裂け女」

『ダ・ヴィンチ』2007年6月号(メディアファクトリー)の特集記事「よみがえる都市伝説」より「スペシャル対談・大槻ケンヂ×石原まこちんのぎりぎり都市伝説!」の一部です。構成・文は杉江松恋さん、司会は阿部美香さん。

【大槻ケンヂ:都市伝説といえば、最近のヒットは妖怪ゴム人間でしょう。『ダウンタウンDX』で的場浩司が、頭がコンドームみたいになった人間を見たという話をしていたんです。そうしたら石坂浩二が「俺も見た!」って言って、わざわざ番組に出てきたんですよ。

石原まこちん:ええーっ!?

大槻:そのあと、東スポの1面に、「ゴム人間が明治神宮を参拝している写真を撮った」っていう記事が載ったんです。石坂浩二がそれを見て「私の見たものに似ている」と。東スポの結論としては、ゴム人間はケムール人に似てるんじゃないかというんですよ。たぶん、石坂浩二が『ウルトラQ』のナレーションだったことに対するリスペクトだと思うんですけどね(笑)。

石原:すごいですねえ、ゴム人間。それは知らなかった。

――お二人の記憶に残っている都市伝説のキャラクターは何かありますか?

大槻:僕が不思議なのは、人面犬とか人面魚とか、なんで人面に人はこだわるんだろうということですね。

石原:人面蟹までいましたからね。

大槻:ねえ(笑)。動物の体に人の顔をはめこみたい日本人の願望は、どっからきているのだろう。身も蓋もない言い方をすると、人間の想像力っていうのは、意外にレベルが低いんじゃないかという気がする(笑)。妖怪なんかはどの地方に行っても、キャラクターって大概決まっているでしょう。口裂け女っていうのも、口が耳まで裂けてて長い髪で包丁持ってるって、モンスターのデザインとしては弱すぎですよね。

石原:実際に夜道で見たらむちゃくちゃ怖いでしょうけど(笑)。デザインとしては弱いです。

大槻:子供の考えみたいですよね。逆に言うとシンプルだからこそスターになれたのかな。雨宮慶太さんとかが考えるようなデザインだと逆に勝てない。

石原:ああ、絵描き歌にならないとキャラの人気って出ないっていうんですよ。口裂け女は簡単なんで、すごくキャッチーだったんでしょうね。チュパカブラなんかだと少し複雑すぎかな。

大槻:僕はね、口裂け女ダイレクトの世代なんです。あれは学習塾の増殖に関わっているっていう説もあって、インターネットのない時代に他校の子供たち同士が塾を通してする会話のツールとして口裂け女の噂が流れたという。確かに、僕も塾で聞いたんですよ。当時はバリバリ信じてましたね(笑)。僕は西武線沿いの町に住んでいたんですけど、もう新井薬師までは来ているって言われて。あれは、リアルだったなあ。

石原:僕は、最初が人面犬なんですよ。ずっと『ムー』読者だったもので(笑)。あれは信じましたね。小学生のときに友達と探しにいきましたから、多摩川に。でも途中でパンツ拾いとかのほうになっちゃって、パンツ落ちてたんですよ、多摩川。

大槻:エッチした女の子が脱いだまま捨てちゃうんだ(笑)。もう穿きたくないわ、って言いながら。

石原:そうです。汚ねえ!汚ねえって言いながら、後で戻ってきてこっそり拾うんですよ(笑)。】

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 大槻ケンヂさんは1966年生まれ、石原まこちんさんは1976年生まれですから、僕はちょうどこのお二人の間の世代にあたります。「口裂け女」は聞いたことがあるもののまだ小さかったし(田舎に住んでいたので、「どうせ口裂け女は都会にしか出ないだろうと思ってましたし)、人面犬のときは、「世の中にはこれだけたくさん犬がいるんだから、それっぽい犬だっているだろうよ」というような、醒めた見方をするくらいには「大人」になっていたんですよね。

 あらためて言われてみると、この手の「異形のもの」のデザインというのは、妖怪にしても宇宙人にしても「人間に似ている」あるいは「人間以外の地球上の生物に似ている」ものがほとんどです。まったく地球とは違う環境で進化した宇宙人が、あんなに「人間っぽい姿」をしている可能性は低いような気がするのですけど、やはり「人間の想像力には限界がある」のかもしれないな、という気もします。「人間には思いもつかないような姿をしている」のだとしても、それを「想像して絵にできる人はいない」わけで。

 「口裂け女」という都市伝説が、「塾」という「同じ学校での共通の話題を持たない子供たちのコミュニケーション・ツール」という一面を持っていたというのには、なるほどなあ、と感心してしまいました。
 テレビゲームもなく、子供向けのマンガ雑誌も少なく、塾で勉強の話なんてするのはカッコ悪いと思っていた当時の僕たちには「同じ塾にいる他校の生徒との共通の話題」というのがとても少なくて、どうやって話しかけていいのか、すごく困っていたんですよね。そんななか「共通の話題」としての「口裂け女」というのは、本当にその存在を信じていたかどうかはさておき、「話しかけるキッカケ」としては、非常に重宝されていたのでしょう。

 「口裂け女は100mを5秒で走る!」というような話を聞いて、「それなら日本代表としてオリンピックに出ろよ口裂け女……」とツッコミたくなったのは僕だけではないと思うのですが。

 それにしても、このお二人の対談のなかで僕がいちばん驚いたのは、「多摩川には使用済みのパンツが落ちている!」という話でした。
 むしろ、この話の方が僕にとっては「都市伝説」です。子供の頃にこれを聞いていたら、近くの川原に探しに行ったかも。
 そういえば、僕も昔から、道路の真ん中に靴が片方だけ落ちているのを見つけて、「なんでこんなところに?」と疑問だったんだよなあ……



2007年06月01日(金)
歴史を変えた「事務屋」たち

『武士の家計簿』(磯田道史著・新潮新書)より。

(「算術からくずれた身分制度」という項から)

【実は「算術から身分制度がくずれる」という現象は、18世紀における世界史的な流れであった。それまで、ヨーロッパでも日本でも、国家や軍隊をつくる原理は「身分による世襲」であった。ところが、近世社会が成熟するにつれて、この身分制はくずれはじめ、国家や軍隊に新しいシステムが導入されてくる。近代官僚制というものである。官吏や軍人は「生まれによる世襲」ではなく「個人能力による試験選抜」によって任用されるようになる。ただ、いきなり、そうなるわけではない。
 最初に、この変化がおきたのは、ヨーロッパ・日本ともに「算術」がかかわる職種であった。18世紀には、数学が、国家と軍隊を管理統御するための技術として、かつてなく重要な意味をもつようになっており、まずそこから「貴族の世襲」がくずれた。軍隊でいえば、「大砲と地図」がかかわる部署である。フランスでもドイツでも、軍の将校といえば貴族出身と相場がきまっていたが、砲兵将校や工兵、地図作成の幕僚に関しては、そうではなかったという。弾道計算や測量で数学的能力が必要なこれらの部署は身分にかかわらず、平民出身者も登用されたのである。このあたりは『文明の衝突』で有名なS.ハンチントンの著作『軍人と国家』や中村好寿『21世紀への軍隊と社会』に詳しい。
 余談であるが、ナポレオンが砲兵将校であったことは興味深い。貴族とはいえ、コルシカ島の出身で差別をうける彼が砲兵将校の道をえらんだのは、将来の出世を考えれば当然であった。そして結局、平民出身者の多い砲兵をひきつれて革命側につき、政権をうばってフランスの身分制にとどめを刺し、近代国家への道をひらいたのである。
 日本でも、同じことがいえる。18世紀後半以降、幕府や藩は、もともと百姓町人であった人々を登用し、彼らの実務手腕に依存して行政をすすめるようになる。百姓や町人の出身者に扶持・苗字帯刀・袴着用などの特権をあたえて、武士の格好をさせ、行政をゆだねる傾向が強まった。武士と百姓町人の中間身分の存在が政治に大きな影響を与えるようになったのである。
 京都大学名誉教授朝尾直弘氏によって提唱されたこの学説を、歴史学界では「身分的中間層論」とよんでいる。江戸時代は士農工商の厳しい身分制のように言われるが、文字通りそうであったら、社会はまわっていかない。近世も終わりに近づくにつれ、元来、百姓であったはずの庄屋は幕府や藩の役人のようになっていく。彼らはソロバンも帳簿付けも得意であり実務にたけていた。猪山家のような陪臣身分や上層農民が実務能力を武器にして藩の行政機構に入り込み、間接的ながら、次第に政策決定にまで影響をおよぼすようになるのである。猪山家は、その典型例であったといってよい。さらにいえば、明治国家になってからも、このような実務系の下士が、官僚・軍人として重要な役割を果たすことになるのである。】

参考リンク:ナポレオンの「片腕」だった男(活字中毒R。('06/3/8))

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 金沢藩の経理業務にたずさわる「御算用家」であった猪山家の「家計簿」から、武士の日常の生活を読み解くという非常に興味深い本の一部です。
 一般的には、平和な時代には「官僚」がもてはやされ、動乱の時代には軍人や革命家がもてはやされる、と思われがちなのですが、言われてみれば確かに「戦乱の時代」には、「経理の専門家」がよりいっそう必要とされるものなんですよね。
 この本に出てくる猪山家の当主のひとり猪山成之は、明治維新の際に大村益次郎の新政府軍を軍務官として財政的にやりくりしていたのですが、

【新政府は「元革命家」の寄り合い所帯であり、当然、実務官僚がいない。例えば、1万人の軍隊を30日間行軍させると、ワラジはいくら磨り減って何足必要になり、いくら費用がかかるのか、といった計算のできる人材がいないのである。
 このような仕事には成之のような「加賀の御算用者」がうってつけであった。加賀百万石の御算用者は「日本最大の大名行列」の兵站業務を何百年も担ってきたのである。事実、成之は大村(益次郎)をよく支えた。】

 ということです。現実社会で大軍を動かすためには、ひとりの革命家の気概や理想よりも、食料や靴の供給のほうが重要な場合が多いのです。破竹の勢いで進撃していたにもかかわらず、補給の失敗で敗れた、あるいは退却せざるをえなかった「大軍」が、歴史上多く遺されています。そもそも、首脳部はともかく、一般の兵士たちは「食べさせてくれるほうに味方する」場合も少なくなかったわけで。

 こうして歴史の流れをみてみると、ナポレオンが砲兵出身であったことは、「歴史の必然」だったのだな、ということがよくわかります。ナポレオンがどんなに優秀な士官でも、騎兵の一員であれば、貴族たちに出世を阻まれてしまっていたかもしれません。そして、参考リンクに挙げたのですが、ナポレオン自身もベルティエという参謀を非常に重用し、賞賛していました。他の勇将たちは、戦場で目立った働きをするわけではないベルティエを「事務屋」として蔑んでいたのですが、ナポレオンは「不可欠の協力者、理想の参謀長だ」と評価し、自らの「片腕」とも公言していました。ナポレオンは、もしかしたら下士官時代の自分の姿を、この参謀長に見ていたのかもしれません。

 豊臣秀吉が石田三成などの文官を優遇したために古参の武将たちが反感を抱き……というのが「関ヶ原の戦い」のひとつの要因だと言われていますが、逆に言えば、石田三成のような「実務官僚」たちを優遇するようなセンスがあったからこそ、豊臣秀吉は天下人として君臨できたとも言えるでしょう。

 この本で採り上げられている猪山成之は、天下を動かそうという野心など全くなく、「御算用家」の跡継ぎとして家を守ろうと勉強していただけなんですよね。でも、その「算術」を極めることによって、結果的に歴史を動かす重要な役割を演じてしまったというのは、なんだかすごく面白い話だと僕には思えるのです。