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2007年03月29日(木)
ヤマト運輸の「宅急便」誕生秘話

「阿川佐和子の会えば道づれ〜この人に会いたい5」(文春文庫)より。

(阿川佐和子さんと故・小倉昌男さんの対談の一部です。小倉さんはヤマト運輸の元会長で、「宅急便」の創始者として知られています(2005年6月30日に逝去されています))

【阿川佐和子:そもそも大和運輸は、小倉さんのお父上が大正8年におつくりになった運送会社で。

小倉昌男:そうそう。そこに僕が二代目として入ったわけ。

阿川:言っちゃナンですが、二代目ボンボンが入って。

小倉:そうです。だけど、親父が経営戦略を間違えて会社が赤字スレスレになっちゃった。親父は戦前に大和運輸を興して、日本で一番大きなトラック会社にした実績があるわけ。そういう成功体験がある年寄りって困るんだよね(笑)。

阿川:ハハハハハ。

小倉:運送業者は、戦前はお米や大根を運んでたの。それが戦後になって、道路もトラックの性能もよくなったから、それまで国鉄が運んでた家電、テレビや洗濯機を運び始めた。ところが、うちの親父は「そんなものは大和運輸のやる仕事じゃない。やるな」って筋論吐いちゃって、出遅れちゃった。

阿川:ほかの運送会社に?

小倉:他の運送会社はものすごい勢いで業績を上げているのに、うちは落ち込んじゃって。親父のつくった会社を息子が潰したらカッコよくないでしょう? しょうがないから、がんばろうと。起死回生のヒットを打ちたいなと思って、ずいぶん考えて、思いついたのが宅急便。

阿川:どうして思いついたんですか。

小倉:運送会社は個人の荷物なんて手間隙かかるだけで採算が合わないって、扱う会社が一軒もなかったの。松下電器のテレビを運べば、1回に何千万って運賃になるんだからね。だけど、考えてるうちに、小っちゃい荷物を運んだほうが利益率がいいことに気がついた。第一、一般の人は運んでくれる会社がなくて困ってるんだから、需要はあるでしょう。

阿川:でも、発案なさった当時は小倉さんは専務で、役員会で宅急便をやろうとおっしゃったら、社長であるお父上を始め全員が猛反対だったとか。

小倉:そうです。だって、誰も小っちゃい荷物運んで儲かるなんて気がつかないもん。

阿川:失敗するとはお考えにならなかったんですか。

小倉:考え方が間違ってなきゃ失敗しないでしょう。経営は論理ですよ。理屈なんです。

阿川:ちゃんと計算もなさった。

小倉:感じでね。要するに、経営というのは、犬が西向きゃ尾は東ですよ。

阿川:そりゃそうですが……。

小倉:1+1=2だしさ。収入−経費=利益。それしかないんですよ。簡単なんです。経営ってのは。

阿川:そうかなあ(笑)。

小倉:タクシーと同じ。トラックもハンドル一つに運転手は一人。だから、人件費は一人分。小っちゃな荷物をちょこちょこ運んでも、ガソリン代もべらぼうには増えない。収入より経費は少ない。それなら儲かる商売だ。だから、やろうじゃねえかって。

阿川:宅急便を始めるにあたって、考えたことは……。

小倉:簡単なんです。主婦を喜ばせばいい、サービスいいわねえって。それには、郵便だと3日も4日もかかるところを、宅急便は必ず翌日配達しようと。これは絶対にウケると思った。それを実行したら、お客さん喜んでくれて、また荷物を頼んでくれる。理屈でしょう?

阿川:その頃、個人の荷物に関しては独占状態だった郵便局は最初からライバルだとは思ってなかったんですか。

小倉:逆に郵便局がいてくれるほうがありがたい。いわゆる役人仕事でやる気ないから(笑)。サービスは悪い、エバッてる、時間がきたら「はい、さようなら」で帰っちゃう。ヤマトは残業してでも仕事を片づけるでしょ。民間のサービスのよさが際立つわけ。だから、社員に徹底させたモットーは、「サービスが先、利益は後」ということなんです。

阿川:手紙でさえ届くのに2、3日かかってたのに、どうやって全国に翌日配達ができたんですか。

小倉:不思議ですよね。僕自身も不思議でしょうがないんだ(笑)。

阿川:だって、そのシステムも小倉さんがお考えになったんでしょう?

小倉:うん。1日24時間を分けてね。日中の8時間で荷物を集める。そして、夜中の8時間で運ぶ。翌朝着いたら、現地の人にバトンタッチして、その人が配達する。そのサイクルをきっちり回せば荷物は翌日に届くんですよ。】

参考リンク:「宅急便30年のあゆみ」(ヤマト運輸のホームページより)

〜〜〜〜〜〜〜

 現在では、「当たり前の存在」になっている「宅急便」なのですが、その歴史というのは、そんなに古いものではないのです。そういえば、僕がまだ小さかった頃、「宅急便」というのが新しく始まるというCMを観たことがあるような記憶があるんですよね。子供心に、「そんな手間のかかりそうなことをやって、この会社は儲かるんだろうか?」と疑問だったのをなんとなく覚えています。
 参考リンクに書かれていたのですが、ヤマト運輸が「宅急便」を始めたのは1976年1月20日。「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というのが当時のコンセプトだったそうなのですが、大成功した今から考えると、本当に「合理的で斬新」に感じられるものの、当時はヤマト運輸の内部でも、みんな大反対だったとのことです。確かに、「そんな小さな荷物をいくら運んでも、割に合わない」ように思えますし、ライバルは「郵便局」という知名度・浸透度抜群の巨大企業ですし。最初の頃は、「本当にこれ、届くのかなあ?」と不安を抱えつつ頼んでいた人も多かったのではないでしょうか(ちなみに、発売初日に依頼された荷物は、わずか11個だったそうです)。今では、郵便局のほうが、「宅急便」を模倣するようになってしまいましたけど。

 ヤマト運輸が「宅急便」を始めることができたのは、小倉さんの「行動力」と同時に、会社が未曾有の危機にあったから、「一か八か、これに賭けてみよう」というな面もありそうです。少なくとも、「個人の荷物を取り扱う」というアイディアを考えたのは、当時でも小倉さんだけではなかったでしょうし、会社が順風満帆であれば、こういう「冒険」は受け入れられなかった可能性が高いはずですから。
 それにしても、このインタビューを読むと、小倉さんというのは、けっこう適当に物事を考えているようにみえるのですけど、実際は「難しいことをシンプルに捉えて、わかりやすく説明する」という術に長けている人だということがよくわかります。この話のなかでは、社員に対してもかなり厳しい要求と労働条件を突きつけているのですが、その一方で、この対談の他のところでは、【僕は「リストラ」って言葉、嫌いなのね。経営には雇用を保障する意味があるんだから、会社が赤字だからクビを切るのは本末転倒、経営者の責任放棄ですよ。赤字になったら「給料を少し下げさせてくれない?」って、とことん話し合ったらいいんですよ。】と語っておられます。けっして、「厳しさ」だけの人ではなかったからこそ、ヤマト運輸は成功を収めることができたのでしょう。
 まあ、「便利さ」の競争というのは本当に限界が無くて、家にいないことが多いのでいつも不在通知ばかりの僕などは、逆に、宅急便で働いている人たちに申しわけないなあ、と感じることも多いんですけどね。24時間配達可能なんて、やっぱりキツイ仕事だよなあ。
 他社との競争はもちろん、駐車違反の問題とか、個人情報保護とか、年間10億個以上の荷物を扱うようになっても、それはそれで「課題」は尽きないもののようではありますし。
 



2007年03月27日(火)
カンニング竹山「僕は芸人が一番素敵だと思いますね」

『QJ(クイック・ジャパン)・vol.70』(太田出版)の「カンニング全記録」という特集記事の「ロングインタビュー『竹山隆範すべてを語る23000字』」より。

(相方・中島忠幸さんが亡くなったときのことを振り返って)

【仕事は、お通夜の日だけは休ませてもらいました。その番組のプロデューサーが可愛がってくれていて、逆に「休め」と。ただ、葬儀の後は、そのまま生放送行きましたね。「傷つきました、しばらくお休みします」って感じに見られるのが嫌だったんですよ。それに、ちょっと周りと、時差みたいなものがあったんです。周りは「相方が亡くなられて……」ってスタンスで僕に向かってきますけど、そりゃあ気は落ちてはいますけど、実はみなさんが考えていることはちょっと前に終わったことなんで。だから、僕は大丈夫だってことを言うためにも、葬式終わったら働くしかねぇって。
 葬式の朝の、ギリギリまで迷いましたけど、結論としては生放送に行ってよかったです。芸人って優しいなって。まずナイナイの岡村さんが、相方が死んで、葬式が終わって生放送に来たいちお笑い芸人を、ちゃんとおいしくしてくれましたから。「竹山、切り替えろよ!」と言ってくれた、その一言で僕は全ての切り替えがつきましたからね。「あぁ、今俺キレていいんだ」って(笑)。「切り替えてるわ!」って。俺明日からも現場行けるな、みんな支えてくれるんだって、自信が付きました。
 紳助さんに言われた、俺が働くことによって、中島もみんなの記憶から消えないってことも、そればっかり意識しているわけでもないんです。「カンニング竹山」のままでいるのも、たけしさんがツービートを離れてもビートたけしと名乗っているのと一緒で、それが馴染んで呼びやすいからというだけで、こだわりはない。だけどたまに、控え室の札なんかに「竹山隆範(カンニング)」と書いてあるときがあるんですよね。それはちょっと戸惑うんですよね。カンニング自体はもうないですから。
 「中島の休業中にもギャラを折半していた」と言われていた問題にしても、ぶっちゃけギャラは分けましたけど、みなさんでも分けるんですよ。ずっと、たった二人でカンニングという”会社”をやってきたわけじゃないですか。夫婦ですよ、要は。その相方が白血病で倒れるわけですよ。単純に、お金かかるんです。正直僕も、二人の稼ぎが40万円だったら分けないです。でも、10万円もらえなかった二人が、ぶっちゃけ月100万円くらいもらえてるんです。一人で取ると200〜300万円ももらえるわけですよ。そこで相方が白血病なのに、一人で200万円ももらえねぇだろって。だから僕が苦労したことはひとつもないです。逆に僕が病気になって、あいつが僕の立場になっても、あいつも同じことをしたと思いますよ。

(中略)

 これ言うと語り過ぎかもしれないけど、僕は芸人が一番素敵だと思いますね。あったかいですよ、みんな。それほどギスギスした関係もなく、人を傷つけることもなく、いつも面白いことを考えて、一所懸命で。一つの笑いを作るために、一人が死に役になったり、どこへ行ってもみんなが協力して、支え合っている。この間「お笑ウルトラクイズ」(日本テレビ系/2007年1月1日放送)のロケに行った時も、体中の粘着を取るためにみんなで風呂に入ったんですよ。ダチョウ(倶楽部)さんが筆頭になって、粘着の取り方を教えてくれるんです。で、みんなで剥がし合って。「芸人っていいなぁ」としみじみ思いました(笑)。今食えるようになったんで言えるのかもしれないですけど、素敵な職業につけたとは思ってますね。
 うちの相方は、その全てを感じられないまま終わっちゃったかもしれないけど、芸人として名前は残せたと思うんですよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このインタビュー記事で、竹山さんは、自らの子供時代から中島忠幸さんとの出会い、芸人になったきっかけ、そして、「カンニング」が売れなかった時期のことなどを本当に正直かつ丁寧に語っておられます。相方・中島さんの「悲劇」に関する部分を除いても、十分読みごたえのあるインタビューでした。

 カンニング竹山さんが、自分ひとりで仕事をしているあいだも、ギャラを相方の中島さんと折半していたという話は、「美談」として語られているのですが、この竹山さんのインタビューを読むと、竹山さんは、そのことに関して【正直僕も、二人の稼ぎが40万円だったら分けないです。でも、10万円もらえなかった二人が、ぶっちゃけ月100万円くらいもらえてるんです。一人で取ると200〜300万円ももらえるわけですよ。そこで相方が白血病なのに、一人で200万円ももらえねぇだろって。】と仰っています。いや、僕は竹山さんなら40万でも半分ずつにするだろうとは思うんですけど、確かにふたりで10万円だったら、分けない、というか、分けられなかったかもしれません。自分が食えるかどうかギリギリのところだったら、そんな「余裕」はなかったかも。

 世間では、「せっかくカンニングも売れてきて、竹山もせっかく稼げるようになったのに相方にギャラを半分渡しているなんて律儀だよなあ」と思っていても、当の竹山さんとしては、「単に自分が月に100万円ももらえるようになっただけ」であり、残りの半分のお金は、もともと自分のものではないというふうに考えていたのでしょう。コンビの芸人はたいがいプライベートでは仲が悪い、なんてよく言われるけれども、いざとなれば、これだけ強い結びつきがあるのだなあ、と感動してしまいました。

 そして、「売れたからこそ」なのかもしれませんが、この竹山さんの話に出てくるナインティナインの岡村さんやダチョウ倶楽部の「芸人仲間への温かさ」というのは、本当に羨ましいなあ、と、芸人になろうなんて想像したことすらない僕でも思うのです。
 僕もお正月に「お笑いウルトラクイズ」を観たのですけど、あの収録のあと、芸人たちがお風呂でお互いに粘着を剥がし合っている姿を想像すると、なんだか笑いながら涙が出てきてしまいそうになってしまうんですよね。
 



2007年03月26日(月)
「2ちゃんねる」管理人・西村博之氏が語る「堀江貴文さんのすごいところ」

「九州スポーツ」2007年3月23日号の記事「エンタメ戦闘区域・『2ちゃんねる管理人・ひろゆきがキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!<4>』」より。

(「2ちゃんねる」管理人の西村博之さんへのインタビューで構成された記事の一部です)

【尊敬する人は、目標にする人物は、基本的にはいません。元ライブドア社長の堀江さんがいろいろお祭り騒ぎを起こしていた時は注目していました。何をやらかすか分からないし、どう動くか全く予想がつかないというところが魅力でしたね。
 周囲ではライブドア事件の判決が確定後(無罪、執行猶予なら)一緒に何かやるのではと期待する声もあるようです。でも、堀江さんは精神的にダウンしそうな気がする。堀江さんがすごいのは、あれだけお金を持っているのに自ら道化役を引き受けてとにかく一生懸命なところ。
 ボクからすれば何もあそこまで頑張らなくていいじゃないかと思うんです。でも、判決後は逮捕されたことを振り返って「今までオレは何をやっていたんだ」と急に落ち込んじゃいそうな気がします。
 ボクは基本的に朝、絶対に起きられない人間なんで、最も尊敬するのはきちんと7時に起きて、9時に出社するサラリーマンです。みのもんたさんが1週間で最も長時間(21時間42分)テレビの生放送に出演する司会者として、ギネスブックに認定されたことが話題になりました。
 でも、何がすごいんですかね? サラリーマンには30年間ずっと9時〜5時で働いて、無遅刻無欠勤の人も多いんですよ。みのさんの実働時間はサラリーマンよりも少ないわけですから。彼が30年間サラリーマンと同じ賃金で、今と同じペースでテレビに出演し続けないと認めるわけにはいかないですね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、西村博之さんにインタビューした記者は、こんなふうにに西村さんの印象を書かれています。
【西村博之氏をメディアは孤高のカリスマのように扱っている。しかし、その実態はハキハキしゃべる礼儀正しい好青年。靴を履くのが面倒くさいとシティーホテルにサンダル履きでやってくる無骨な面もある。とにかく魅力的なキャラクターだった。】
 まあ、それを「無骨」と感じるか、「TPOをわきまえない非常識な男」と判断するかは、相手次第、という気もしますし、僕だったらそういう席に「誤解を招くような服装や格好」は避けると思います。西村博之さんは、「他人の目を意識しない(あるいは、意識しながら自分のイメージ作りをしている)」のは間違いないでしょうね。そういう意味では、テレビなどの大きなメディアに積極的に露出することを選んだかどうかの違いだけで、堀江貴文さんと西村博之さんというのは、けっこう似ているところもあるのではないかな、と僕は感じました。そして、堀江さんが燃え尽きてしまうのではないかという推測も、当たってしまうのではないかという気がします。

 ここで西村さんが語っている「堀江さんのすごいところ」というのは、言われてみれば確かにその通りで、堀江さんが「あれだけお金を持っているのに、自ら道化役を引き受けてとにかく一生懸命だった人」であったのは間違いありません。その「一生懸命さ」が向けられたベクトルに問題があったとしても、あれだけの企業の社長で大金持ちであれば、自ら細木和子の番組に出演したり、バッシングする人たちに正面きって反論する必要はなかったはずです。あるいは、早々に「引退」して、悠々自適の生活を送るという選択肢だってあったのではないでしょうか。少なくとも、あそこまで矢面に立つ「必要性」は、堀江さん個人にとっては、ほとんど無かったんですよね。それでも、「そうせずにはいられなかった」堀江さんの勤勉さというのは、なんだかすごく悲しいものにも感じられるのです。

 このインタビューはかなり露悪的なもので、「みのもんた生放送出演時間」というのは、あくまで「画面に映っている時間」でしかなくて、映っていない時間にも取材とか打ち合わせとかリハーサルなどのさまざまな「仕事」をしているなんてことは西村さんも百も承知のはずなのですが、あえてそういうところは知らんぷりをして「サラリーマンは偉い」と言ってしまうところが西村さんと堀江さんの最大の違いなのかもしれません。西村さんのほうが、ちょっとだけ「嘘が上手」なのですよね。

 西村さんの話を裏返せば、「ボクはあんな安月給で、毎日早起きして会社に通う人生なんてまっぴらごめんですけどね」ってことなのですから、ほんと、モノは言いようだな、という気がします。
 



2007年03月23日(金)
「できるだけ早く」「いつか必ず」は、負け犬予備軍の合言葉

『あなたの話はなぜ「通じない」のか』(山田ズーニー著・ちくま文庫)より。

【日本に暮らす私たちが、省いたり、ぼやかしたりするものが主語の他にもまだある。

感冶課長「請求書は、できるだけ早く提出してください」

論田くん「できるだけ早くって、いつまでですか?」

感冶課長「できるだけ早くだ。総務は急いでるんだ」

論田くん「あの、何月何日の何時まででしょうか? 外注先にいま、お盆休みを取っている会社があり、17日の朝9時にならないと連絡がとれないのです」

感冶課長「できるだけ急いでもらってくれ」

論田くん「…………。では、質問を変えます。8月17日の10時までになら提出できますが、これでは遅いでしょうか?」

感冶課長「……。総務に聞いてみる」

感冶課長(戻ってきて)「論田、提出の期限は18日中だそうだ」

 これは、業務連絡に日時がないことがネックだとすぐわかる。「できるだけ早く」は人によって「1時間以内」か「本日中」か、「今週中」か、ずいぶんブレる言葉だ。なのに、自分でもつい「できるだけ早く」「急ぎでお願いします」とやってしまうのはなぜだろう?
 「時間」に決めは億劫だ。時間を入れなければ私たちはわりと自由に願望を語れる。「私、絶対自分史を出すわ!」「両親をヨーロッパに連れていくぞ!」では、それに日付を入れてください、というと、たいがい無口になる。以前、企業にいたとき、「事業計画とは、夢に日付を刻むことだ」と教えられた。最初はこの意味がわからなかったが、自分で企画を立てる段になって、アイデアをスケジュールに落としていくところで本当に苦悩した。そのかわり、日程が組みあがっただけで、ほぼ、仕事の全容が見えた。それだけ、時間の決定にはさまざまな要素が絡んでくる。大小さまざまな「決め」をしないと、適切な時間の設定ができない。
 決めのない発言は、結局、相手に負担をかけてしまう。発信には、極力、日時を刻もう。
 例えば、相手の都合を聞くにも、「いつがいいですか?」としないで、「8月20日までの間で、いつがいいですか?」あるいは、「17日、18日当たりいかがですか? 時間帯は午後ならいつでもかまいません」というように、積極的に具体的な日時を入れてみよう。
「お金」も同じように「そんなに高くない」「良心的なお値段で」などとつい曖昧にしがちだ。お金の話をあからさまにするのは、はしたないという習慣もあろう。しかし、例えば、会費8000円を、すごく高いと感じるか、そんなに高くないと感じるか、金銭感覚は人によってとても違う。不透明にしたままだと相手は自分と対等になれない。情報は持ってないほうが不利に立たされる。金銭の情報は、早いうちに公開し、相手が検討できるようにする。値段の決定ができない段階でも目安の数字は示したい。
 論理の橋を架けるには、わかりやすいこと、人によるブレが少なく、どんな人にもガラス張りで、対等に内容の検討ができることが条件だ。
 主語を決めることで人を決め、時間を決め、お金を決める。決める億劫さやリスクを引き受ける。優柔不断な人はどうしたって論理的になれない。論理的に話すコツは「決め」だ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 とても参考になるというか、僕自身にとっても、すごく反省させられる文章でした。こんなふうに「できるだけ早く」「なるべく急いで」などという言葉の語感の強さに満足してしまって、「どこが本当のタイムリミットなのか?」ということを曖昧にしてしまっていることって、かなり多いのではないでしょうか。それは結果的に頼む側にとっても頼まれる側にとっても「見解の相違」を生むだけのことなのに。
 確かに「時間間隔」っていうのは人それぞれで、メールに「なるべく急いで返信してください」と書いてあったとしても、人によって、その「急ぐ」の概念というのは異なるのです。ある人は、そのメールを読んだ途端に返信メールを打ち始めるでしょうし、ある人は「急いで、っていうことだから、今日中には返信しなくちゃな」と思うでしょう。あるいは、「1週間以内には返事しなくちゃな」と考える人だっているはずです。でも、そこに書いてあるのが具体的な日時ではなくて曖昧な「なるべく急いで」という言葉であれば、どんな解釈をするかは、ある程度受け手のほうに任せてしまっている、ということなんですよね。もちろん、本当に「一刻一秒を争う」ような用件なら、メールじゃなくて直接会って話すか電話を使うべきなのでしょうけど。
 ここに出てくる「論田くん」の【論田くん「あの、何月何日の何時まででしょうか?】っていうのは、なんだか子供のケンカでの言い合いのような印象を受けるのですが、僕がそんなふうに感じるのは、日本の大人社会では、日常的には、こういう「クリアカットに条件を提示すること」への違和感がかなり強いから、なのかもしれません。あるいは、無意識にお互いに条件を曖昧にすることによって、いざとなったら「できるだけ早くって言ったのに!」「僕なりにできるだけ早くやりました!」というような逃げ道を作っているだけなのかも。この例では、総務に問い合わせるという手間がかかっているのですが、結果的には、最初から課長が総務に問い合わせておいて具体的な期日を設定しておけば、それが可能かどうかについて相談するだけで済む話だったのですから(おそらく、その場合だと論田くんは「わかりました」と返事をして、そのまま期日までに請求書を提出しただけだったはずです)、かえって余計な手間がかかってしまっているわけです。

 この文章で、僕にとっていちばん痛いところをつかれたのは、【「時間」に決めは億劫だ。時間を入れなければ私たちはわりと自由に願望を語れる。「私、絶対自分史を出すわ!」「両親をヨーロッパに連れていくぞ!」では、それに日付を入れてください、というと、たいがい無口になる。】というところでした。僕もいつも「まとまった文章を書きたい」とか「英語の論文をなるべく書くようにする」というようなことを考えているのですが、僕の「決意」にも、日付が入っていないのです。本当に「目標を達成している人」というのは、たとえば「1年間に1本、必ず英語の論文を雑誌に投稿する」とか「3月31日締切りの文学新人賞に間に合うように、今書いているものを仕上げる」というような、具体的なスケジュールを必ず意識しているのです。そして彼らは、目標から逆算して、「1年に1本論文を書くためには、今から3か月以内にデータを集めて、半年前には日本語で下書きをしておかなければならない」という中間の目標を設定し、そして、それを実現するために「今日は仕事が早く終わりそうだから、あの実験のデータを整理して、あの論文を読んでおこう」というふうに、目の前の「今、やらなければならないこと」をこなしていくのです。考えてみれば、論文を書くためにはたくさんの積み重ねが必要なわけで、ただ「英語の論文を必ず書く!」という「努力目標」だけを繰り返していても、そんなのは妄想の世界でしかありません。「必ず!」って言っていれば、寝ている間に小人さんたちがやってきて、論文を書いてくれているわけがないんですよね。
 ああ、書いていて自分で情けなくなってきたよ……

 とりあえず「スケジュールを立てる」というのは、目標を達成するためには重要なポイントなのでしょう。「夢がある自分」に酔うのためではなく、本当にその目標を実現しようと思っているのなら、まずは具体的な日付を入れてみるべきなのです。
 ただ、実際には、「計画を立てた時点で満足」してビールを飲んで熟睡、なんていうのも、ありがちな話なんですけどね。僕も学生時代の「夏休みの友」の「スケジュール表」通りに生活したことなんて、結局1日もなかったものなあ……
 



2007年03月22日(木)
「将棋がスポーツであること」の一つの根拠

『大山康晴の晩節』(河口俊彦著・新潮文庫)より。

【棋士がいちばん勝てるとき、すなわちピークは25歳くらいである。加藤一二三は18歳でA級八段になり、中原誠は24歳で名人になった。史上最年少名人の記録を作った谷川浩司が名人になったのは21歳。羽生善治は24歳のときである。
 ピークはだいたい30歳くらいまで維持できるが、それからはほんの少しずつだが、棋力が落ちはじめる。そして40歳を過ぎるとガクンと落ちる。あるとき私はそれに気が付いて、男の厄年は本当だ、と思った。A級中堅で活躍していた棋士が、40歳前後になると、B級1組に落ちる。それまでの力を私達は覚えているから、1年でまたA級に戻るだろうと見ていると、さらにB級2組に落ちてしまう。そんな例は、大内延介、板谷進、桐山清澄、勝浦修、その他たくさんある。さすがにB級2組の格ではないから、B級1組にすぐ戻るが、A級までは戻れない。
 50歳ともなれば、どんな棋士でも衰えがはっきり見てとれるようになる。大山(康晴)にしても名人位を失ってからは、奪い返すことはできなかった。米長邦雄は49歳11ヶ月で初めて名人になったが、これは最年長名人として破られることはあるまい。この米長にしても全盛期は30歳から40歳のころだった。中原も50歳になると、A級を維持するのが苦しくなった。かつて大山は「毎年落ちそうになるようなら、もう長いことはありません」と言ったが、そういうものなのだろう。米長も、名人位は1期だけで羽生に奪われ、54歳のとき、A級から落ち、順位戦から引退し、フリークラス棋士となった。中原もやはり51歳でA級から落ち、二年後、B級1組でフリークラス棋士となった。
 中原、米長は、江戸時代の天才を含めて歴代十傑に入る大棋士だが、それと比べると、大山の強さがはっきりする。50歳から60歳になるまで、A級から落ちそうな気配はまったくなかった。それどころか、東京将棋会館、関西将棋会館を建設するときは、先頭に立って募金活動を行うなど、精力的な働きぶりは超人的でさえあった。】

参考リンク:順位戦について

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 プロ棋士の「クラス分け」である順位戦のシステムについては、参考リンクをごらん下さい。まあ、要するにプロ棋士の世界というのは、名人を頂点として、その下にリーグ戦でトップになれば名人に挑戦できる「A級」(定員10人)、そしてB1級、B2級……と、明確な階級付けがなされている、ということなのです。

 僕は将棋の世界にはけっこう興味があって、子供の頃は「将棋入門」を読みながらひとりで詰め将棋を解いたりするのが好きだったのですが、この文章を読んで最初に思い出したのは、小学生くらいのときに読んだ将棋の本に書いてあった「将棋はスポーツ」という言葉だったんですよね。それを読んだときには、子供心に、あんな駒を動かすだけのゲームの、どこが「スポーツ」なんだよ……と大いに疑問だったのですけど、この「年齢と実力の相関」というのは、まさにプロスポーツの世界のもののように感じられます。【棋士がいちばん勝てるとき、すなわちピークは25歳くらいである。】【ピークはだいたい30歳くらいまで維持できるが、それからはほんの少しずつだが、棋力が落ちはじめる。そして40歳を過ぎるとガクンと落ちる。】大部分のプロ野球選手、プロサッカー選手の「年齢と能力の変化」って、こんな感じですよね。羽生善治さんが7冠を達成したときに、世間は「若き天才」と彼を賞賛しましたが、世間一般では「若造」と呼ばれる年齢の羽生さんも、棋士として名人になった年齢は、けっして、突出して若かったというわけではないのですよね。むしろ、頂点に達するべき人のほとんどは、そのくらいの年齢で頭角を現していたのです。

 僕の子供の頃のイメージとしては、「将棋は体力もそんなに使わないし、経験を積んできたベテランのほうが強いのが当たり前」だったのですが、実際の将棋の世界では、けっしてそんなことはないようです。棋士というのは、経験だけでは勝つことができない、本当に厳しい職業なのだな、とあらためて思い知らされます。何時間も将棋版の前で集中力を保つというのは、見た目以上に気力・体力を消耗するのでしょうね。

 昨日(2007年3月21日)、渡辺明竜王とコンピューター将棋の最強ソフトと謳われる「ボナンザ」が公開対局を行い、112手で渡辺竜王が勝ちました。今回の対局に関しては、渡辺竜王が「苦戦」したというよりは、「ボナンザ」が「予想以上に善戦した」という感じなのですが、オセロやチェスの世界ではコンピューターが人間の名人を打ち負かしていることを考えると、いつかは「将棋の名人がコンピューターソフトに負けるとき」が来るのでしょう。

 僕としては、その日が来るのが少しでも遅くなるのを願ってやみません。
 一昔前までは、「まともに相手をしてくれる将棋ソフトが出る日はくるのだろうか?」と思っていたはずなのに。

 まあ、スポーツの魅力が「記録」や「結果」だけではないように、将棋の魅力も、それを指している「棋士」たちの人間ドラマに拠るところが大きいのですけどね。



2007年03月21日(水)
「鉄道オタク」の地位向上と「鉄道水着グラビアアイドル」の出現

『TVBros。 2007年06号』(東京ニュース通信社)の特集記事「出発進行!鉄道ファンファン〜鉄道オタクのファンになろう!」より。

(「鉄道オタク」のAさん(男性・36歳既婚)とBさん(男性・29歳未婚)による「鉄オタ座談会」の一部です)

【A「鉄道好きをカミングアウトできない人は、まだ正直多いと思うなあ」

B「野村総研の調査では、鉄道ファンは約2万人で市場規模は約40億円あるって言ってるけど、実際にはもっと多いような…」

A「地理好き、旅行好きっていうのは、鉄道好きのカモフラージュだよね」

B「車持ってないのに地図好きとか」

A「行ったこともない場所であっても、山ほど語れちゃう」

B「僕は男で旅行好き、しかもそれが国内旅行だったら8割方疑う」

A「女の鉄道好きは、僕が30歳になるまで会ったことがなかった。それまではデートするにしても、うまく”今日はどこそこへ行こう”とカモフラージュしてたよ、お目当ての列車に乗るために(笑)」

B「でも結局、移動ばかりになっちゃうんだよね。テツの旅行とはまさに移動のことだから(笑)」

A「それに、とにかく急ぐ。お目当ての列車のために走る! 限られた時間の中でなるだけ鉄道に乗っていたいからね」

B「その頃からすると大分理解される(?)ようになってきたよね。今では女性運転士さんや車掌さんもよく見かけるし。鉄道アイドル、略して”鉄ドル”なんかも出てきたし」

A「鉄道水着グラビアアイドルってすごいよねえ。俺の持論だけど、女の鉄道好きってファザコンが多いと思うんだよなぁ……。父はいつも無言だったが、私をいつも見つめていた…のような」

B「そう、まさに背中! 鉄道の魅力は背中ですよ」

A「やっぱ、くるりの岸田繁くんが風穴をあけてくれたよね。音楽雑誌とかでも鉄道の話をしたり、歌詞の中にも鉄道用語を織りまぜたりして。アルバムの『ファンデリア』ってあるでしょ? あれも鉄道用語。京浜急行をテーマに『赤い電車』という曲自体も作ったしね」

(中略)

A「3大鉄道趣味と言えば、乗り鉄と、鉄道写真を撮影する”撮り鉄”、鉄道模型を楽しむ”模型鉄”だけど、俺は時刻表好きの”スジ鉄”。時刻表の収集の他に、想像の旅行に浸って楽しむ”机上旅行”をしたり、ダイヤから列車の運用方法を読み取ってみたり。ダイヤにストーリーを見出せるかどうかだね」

B「車両が好きなのはテツの大前提。その上でジャンルが細かく分かれてる」

A「車両はバンドにとっての楽器みたいなもの。音楽が”乗り”だったり”撮り”だったりするというわけ。ちょっとビンテージだと評価が上がる点も似ているよね」

B「後は、発車ベルや走行音を収録する”録り鉄”、切符や鉄道部品を収集する”蒐集(しゅうしゅう)鉄”、それに廃線間近の鉄道を趣味にする”葬式鉄”」

A「葬式鉄は、廃線間近に駆け込み乗車するからモラルが低い傾向があるんだよなあ。好きなミュージシャンの解散コンサートのように行きたい気持ちはわかるんだけど、鉄道そのものは見せるものじゃないから…」

B「他にオプションとして、どんどん突き詰めていくと、廃線跡をたどる趣味→まだ未完成だったり、計画倒れになってしまった”未成線”趣味→自分で勝手に路線を考えて地図に書き込む”架空鉄道”趣味へとグレードアップしていくよね」】

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 漫画『鉄子の旅』の大ヒットなどで、最近にわかに注目されている「テツ」こと「鉄道オタク」なのですが、この「鉄道オタク」の中にも、いろんな人がいるのだな、ということがわかります。3大鉄道趣味の「乗り鉄」「撮り鉄」「模型鉄」くらいは僕にも理解できるのですが、「架空鉄道趣味」になってくると、それってもう、頭の中だけの世界で、対象が鉄道じゃなくてもいいのでは……

 僕の実感としては、野村総研調べだという、「鉄道ファンは約2万人で市場規模は約40億円」という数字は、ちょっと鉄道ファンを過小評価しすぎなのではないかな、という気がするのです。実際に休日を使って全国の鉄道めぐりをするようなコアな「鉄道オタク」はこのくらいなのかもしれませんが、『鉄子の旅』やゲームセンターでの『電車でGO!』の大ヒットをみると、潜在的鉄道ファンというのは、もっと多いのではないでしょうか。
 しかし、「鉄道水着グラビアアイドル」というのを今回はじめて知りましたが、さすがにそれは守備範囲が狭すぎるようにも思えますけど(ちなみに、その「鉄道水着グラビアアイドル」というのは、この人のことらしいです)。

 もしかしたら、この「鉄道オタクブーム」のおかげで、「潜在的鉄道ファン」たちが、一斉にカミングアウトしはじめるかもしれませんね。
「なんでそんなところにわざわざ電車で行くの?」
「だってさ、電車のほうが時間が正確だし、手荷物検査もないしさ」
あるいは、
「旅行の計画立ててくれたのはいいんだけど、けっこう移動時間が長いよね、疲れるんじゃないかなあ」
「いや、せっかく行くんだから、いろんなところを見ておいたほうがいいと思ってさ」
 こんなあなたの恋人や友人は、本当は「テツ」なのかも!
 いや、僕も「キライじゃない」のですけどね。



2007年03月19日(月)
元人気アイドルの「デビューして貧乏になっちゃった話」

『元アイドル!』(吉田豪著・ワニマガジン社)より。

(『ジェームス・ディーンみたいな女の子』というキャッチフレーズが印象的だった、大沢逸美さんと吉田豪さんとの対談の一部です。大沢さんの「アイドル時代」のお金についての話)

【吉田豪:ホント冷めてますね(笑)。もともと大沢さんが芸能界を目指したのは両親に家を建てたかったからだそうですけど。

大沢逸美:うん、それだけです(あっさりと)。とにかく、お金持ちになりたいっていうか、お金が欲しかった。

吉田:ダハハハ! 自分の欲みたいなものはなかったんですか?

大沢:ないですよ。洋服もアクセサリーも全然興味ないし。比較的冷めてたので、小学校の頃から「両親は私が食べさせなきゃいけない」と思ってましたね。

吉田:そういう思いで芸能界入りしたのに、皮肉にもデビューしたことが両親への嫌がらせにつながっちゃったわけですか。

大沢:そうですね。私がデビューしてから実家に帰ると、それまで住んでたアパートの全員が集まっていい顔してるんですけど、私がいないところでは散々なこと言ってたらしいんですよね。「あの家ではお金が右から左へ流れてる」みたいに。その妬みで、父なんて10年くらい乗ってる車をビーッって傷つけられて。たぶん、聞こえるような陰口も言われたんじゃないですかね。

吉田:確実に儲かってなんかいないんですけどね。著書によると、衣装代も自腹で大赤字だったわけだし(笑)。

大沢:そう! 当時はスタイリストさんとかみんな付いてないですから、自分で衣装を持って、お化粧して、衣装代は私にみんな伝票がついてたんです。

吉田;衣装代が自腹で、給料から寮費も引かれるから、デビューして貧乏になっちゃったっていう話は衝撃的でしたよ!

大沢:最初は、すぐお金持ちになれると思ってたんです。「お金持ちになりたいから芸能界」っていうのがありましたから、もうビックリですよね。「えっ、バイトと変わんないじゃん!」って感じで(笑)。

吉田:それどころかバイトは衣装代かからないですからね(笑)。

大沢:制服は支給してくれますもんね(笑)。あと、親もレコードをまとめ買いするだろうし、「娘をよろしく」みたいので付け届けもしていたでしょうし。

吉田:結局、大沢さんも事務所に前借りを繰り返すことになって。

大沢:全部払い終わったのが22〜23歳のときでしたからね。

吉田:それだと、歌番組とか出る気もなくならないですか? また衣装作んなきゃいけないんだ……」って感じで。

大沢:いやいや、そんなのなんにも考えてないんですよ。だって私が払ってるわけじゃないから。要は18歳ぐらいまでは全部親のところに請求が行ってたわけだし、こっちはそういうものだと思うじゃないですか。でも、違う事務所の子たちは「社長にステレオ買ってもらった」とか「ドレッサー」買ってもらっちゃった」とか言ってるんですよね(笑)。まあ、そういう事務所はみんな潰れてますけど。

吉田:結局、ホリプロは正しいってことなんですかねえ(笑)。

大沢:他の事務所の子は、みんな衣装どころか私服も買ってもらえたの。だけど私の場合、スタイリストさんがいっぱい持ってきてくれた服をマネージャーさんが「俺のプレゼントだよ」みたいな言い方するから「うわっ、ありがとうございます」って言ったら、それも全部ツケで(笑)。「ちゃうやん!」みたいな。別に私は欲しいって言ってないのに……。

吉田:これでホリプロ上場の秘訣がわかった気がしますね(笑)。

大沢:「そりゃ自社ビルも建つわな」みたいな(笑)。】

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 大沢さんのヒット曲『ジェームス・ディーンみたいな女の子』が発表されたのが1983年だそうですから、僕にとっては、「ちょっとお姉さん」という感じの年齢のアイドルだったということになります。そういえば、テレビで「なんだか男みたいな女の人が出てるな」と思いながら観ていたような記憶もありますし。

 僕はこの大沢さんの話を読んでいて、「これって、どこの悪徳プロダクション?」などと考えていたのですけど、この恐るべき「アイドルから搾取するプロダクション」の正体が、あの有名な「ホリプロ」だったなんて……

 大沢さんは「ホリプロ・スカウトキャラバン」の第7代グランプリ受賞者で、榊原郁恵さんや堀ちえみさんらを輩出しているこのオーディションは、当時から「アイドルのエリートコース」というイメージがありました。でも、その「エリートアイドル」だったはずの大沢さんに対しても、当時のホリプロはこんな感じだったというのは驚きです。芸能人になって、しかも売れているにもかかわらず「プロダクションに借金していた」なんて、そりゃあ、周りの人も信じてくれませんよね。少なくとも今の和田アキ子さんがそんなに「搾取」されているとは思えないので、「若いうちは薄給で、這い上がってきてベテランになればそれなりの待遇」ということなのかもしれませんが、これを読んでいると、芸能プロダクションというのは、「共同出版」で儲けようとしている「自費出版社」に似ているところもありそうです。

 これも考えようによっては、「衣装にではなくプロモーションにお金を遣っている」可能性もありますし、それこそ「衣装代は出してくれるけれども肝心の仕事を取ってきてくれないプロダクション」あるいは「良心的だけれども多額の借金を抱えて潰れてしまうプロダクション」よりは、「アイドルには金銭的に渋くても、ちゃんと黒字を計上して安定しているプロダクション」のほうが、長い目でみれば「優れたプロダクション」なのかもしれません。大沢さんも「そりゃ自社ビルも建つわな」と苦笑しながら、現在もホリプロ所属ですしね。

 現在はここまで酷くはないとしても、アイドルというのは「彼ら、彼女らが実際に稼いでいるお金」に比べたら、はるかに薄給のようです。そんなの信じられない、理不尽だ、と僕も思うのですが、結局、「それでもアイドルになりたい女の子」が大勢いるかぎり、アイドルは搾取され続ける運命なのかもしれません。



2007年03月18日(日)
「男女の愛憎劇」では、新人賞は絶対に受賞できない!

『月刊公募ガイド・2007年4月号』(公募ガイド社)の若桜木虔(わかさき・けん)の「作家養成塾・第95回」より。

【20歳の看護師と14歳の中学生という年齢枠を思い切って取り外して分析してみると、この二人の恋愛が成就するにしろ(おそらく成就しないわけだが)否にしろ、この物語は端的に身も蓋もない言い方をしてしまえば「男女関係の話」ということになる。世の中には男女二つの性しかないわけで、その枠組みの中で考えようとすると、どうしても可能性は極めて狭められる。どのくらいの男女パターンが考えられるか、ちょっと自問自答してみてほししい。

(1)相思相愛の関係(夫婦関係、恋人関係)
(2)友情と恋情の間を揺れ動くような関係
(3)兄妹とか従兄妹などの関係
(4)先輩&後輩・上司&部下などの男女関係
(5)憎み合う男女関係
(6)一方が他方を追いかけるストーカー的な関係

 ほらもう、考えるのが辛くなってくるだろう。無理に捻り出しても、十に届かせるのは至難の業で、これに三角関係とか性同一障害とかの捻りと加えても、まだ十に届かない。
 これほどパターンが少ない以上は、どんなに凝った設定を筆者本人が考え出したつもりでも、男女関係に主軸を置く限りは既に書き尽くされており、新鮮味は何一つない――ということを意味するのである。新鮮味に乏しい→「何処かで読んだような話」という既視感→新人賞選考では「オリジナリティなし」で予選落ち、という経過を辿ることにならざるを得ない。
 つまり、男女関係を物語の主題に据えてはいけない。据えたら確実に失敗する」ということが言えるのだ。

 私の講座に来られる人で「男女の愛憎をテーマに書きたい」という人は引きもきらないくらいに多いのだが、それでは新人賞は絶対に受賞できない、今までに書かれていない男女関係のパターンなどは存在しないのだから、ということを常々から口を酸っぱくして言っている。
 確かに男女の愛憎劇は副次的なテーマにはなり得るし、また人間ドラマとしての奥行きを出すためにも必要ではあるから、それを盛り込むこと自体を私は否定しない。だが、絶対にメイン・テーマとはなり得ないものなのだ。
 野球に喩えるなら、愛憎劇という要素は一番二番の小回りの利く打者には向いているが、絶対に四番打者は務まらない、ということなのである。
 既に作家デビューして、文壇にそれなりの地位を築いた人が書くのであれば男女の愛憎劇をメインに据えた物語を世に問うことは可能で、現実にそういうヒット作も存在するが、それを勘違いして「デビュー以前の新人にも適用して貰える」と安易に思い込んでしまうところに間違いの最大原因がありそうに思える。
 あくまでも新人賞に求められるのは「前例のない話」「既視感を与えない話」なのである。だから、新人が賞に応募しようと考えたら、男女の愛憎とは完全に別次元の主題を設定しなければならない。
 政治的・経済的・宗教的・哲学的・芸術的・学問的……とにかく何か男女の性とは無関係な方向に主題を求めてみることが要求される。
 男女問題などは「あくまでも物語を読者に面白く味わってもらうためのスパイス」ぐらいに心得ていないと、永遠にクレバスの罠に嵌り込んで、そこから抜け出すことができない。】

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 これは、「作家志望の人が新人賞を獲ってデビューするための講座」の一部なのですが、確かに「男女関係」というのは人類普遍のテーマである一方で、本当に「書き尽くされている」のだよなあ、と思い知らされます。

 一昔前は、「恋愛」が主題の「トレンディドラマ」というのもけっこうあったような気がするのですが、最近のテレビの連続ドラマでも「恋愛」が描かれるドラマにしても、「オタク男性とネット掲示板での『名無しさん』との交流」が大きなアクセントになっていた『電車男』とか、クラシック音楽の世界を背景にした恋愛ドラマ『のだめカンタービレ』のように、「恋愛だけを真正面から描いたもの」は壊滅状態です。こんなに医療ドラマとかキャビンアテンダントとかの「専門職」ドラマが流行る理由というのは、おそらく、そういう「プラスアルファ」がないと、視聴者の興味を引けなくなってきているからなのでしょう。
 20歳の看護師と14歳の中学生の恋愛を題材にした小説というのは、たぶん、書いている作家志望の人にとっては「非日常的な、斬新な題材」だという意識があるのでしょうが、それを読む側にとっては、「だから何?」っていう話なのかもしれません。これだけ世間に「驚くべき情報」があって、テレビやネットでそれらに日常的に接していれば、多少のことでは、読者は驚きません。恋愛というのは、誰でも「自分の体験だけは特別」のように思い込みがちなのですけど、それこそ「90歳の大富豪と30代の元プレイメイトとの結婚」くらいじゃないと、みんな驚いてはくれないわけです。いや、その話ですら、僕は正直「ふーん」って感じだったのですが。そもそも、恋愛話なんて、自分が主人公の知り合いであるか、自分が登場しているかでもないかぎり、そんなに面白いものじゃないような気がしますし。
 もちろん、「恋愛小説」を全否定するわけではありませんが、作家本人にたくさんの固定ファンがついているとか、あるいは、書いている人がもともと有名人とかでないかぎり、「頭一つ抜け出す」のは難しいジャンルなのは間違いありません。とくに新人賞では、書いている人は「自分だけの体験」のつもりでも、「同じような恋愛小説」ばかりを何作も下読みの人や選考委員は読まされることになるんですよね。僕だったら、「同じような恋愛小説」というだけで、まともに内容を読まなくなるかもしれません。

 あの渡辺淳一大先生の『失楽園』とか『愛の流刑地』などの作品、僕はあまりにしつこく繰り返される性描写にすぐに投げ出してしまったのですが、逆に、あれだけの有名作家でも、「恋愛小説」で商売しようと思ったら、あそこまで他の作品と「差別化」した「色情小説」を書かなければいけないのだ、とも考えられなくもないのです。本当に御本人がそこまで考えて書かれているかは僕には全くわからないのですが。



2007年03月17日(土)
「隠れた名店」を発見するための五原則

『にっぽん・海風魚旅2』(椎名誠著・講談社文庫)より。

【能代の駅前でちょうど昼時間だった。何を食うかを皆で検討した。K君いわく、駅前には必ず旨いラーメン屋がある、そういう店を見きわめるのには、(1)小さい店で路地の奥にある (2)暖簾が汚れている(沢山の人がくぐるので) (3)店の前にクルマは自転車がとまっている(遠くからの客がいるから) (4)芸能人の色紙などが貼ってない (5)厨房で沢山の人が働いている、の〔ウマ店発見の五原則〕があるという。
 N氏が素早くその五原則に合致する店を見つけてきた。一同どどどっと突撃。
 なるほど店の前の路地には軽自動車が何台かとまっている。暖簾はかなり汚れていた。店は小さく十人も入ればいっぱいである。先客が二人。壁に色紙が貼ってあるが、芸能人のものではなく近所の中学校や高校の生徒たちのものだ。
「つまり地元の人がいっぱいきているのですよ」K君が得たりとばかりそう呟く。
 厨房には女の人が3人いる。みんなよく太っている。
「うまいからつい店の人も食べてしまうんですよ。で、あんなふうに太ってしまう」K君の小声の注釈が続く。なるほどいちいち納得できるのである。
 チャーシューメン、チャーハン、餃子、タンメン、中華丼が四人のおじさんたちの注文した品々であった。
 ぼくはラーメンにした。まもなく出てきたそいつのまったく不味いこと。ラーメンはスープが濃すぎて表面にアブラのようなものが浮かんでいる。味はなんだか一週間ぐらい煮返した味噌汁みたいだ。麺は腰がまったくない。それでも半分食ってしまうオノレが悲しい。
 あとの皆もそれぞれ同じような感想であった。結局K君の〔ウマ店発見五原則〕の(1)はよしとしても、(2)は単なる不精、(3)は自動車の列は無関係な人々、(4)は芸能人の色紙を貼りたいが来ないので味もわからぬ近所の常連のガキの手になるもの、(5)は単なるデブ一家らしい、という結論になった。バカタレメ、とK君が皆から罵倒足蹴りにされたのは言うまでもない。】

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 もしかしたら、能代の人たちと椎名さん一行の味の好みが違っただけなのでは……とも考えてみたのですが、「味はなんだか一週間ぐらい煮返した味噌汁みたい」なんていうのを読むと、やっぱりこの店は美味しくなかったのだろうなあ、と思います。K君の〔ウマ店発見の五原則〕は、読み返してみても、けっこう理にかなっているような気はするんですけどねえ。

 知らない町で食事をするときって、店選びには本当に悩みますよね。せっかくだからそこでしか食べられないような「隠れた名店」に行ってみたいけれど、僕たちは経験上、知らない店に「冒険」して入るのには大きなリスクを伴うことを知っています。夜の歓楽街でなければ、ぼったくりバーに引っかかって大損害、なんてことはないのでしょうが、他のお客さんの誰もいない店で、不味い料理を店主の期待に満ち溢れた視線を感じながら食べなければならない、というのはかなり辛いものです。だからこそ、つい「どこでも同じ味」のマクドナルドや吉野家という「とにかく無難な選択」をしてしまったりもするわけです。「全国どこでも同じ味」っていうのは、「面白くない」のはもちろんなのだけれども、「安心できる」のは確かですから。

 先日、イタリアに行っていたのですが、旅の後半は、食事をする店選びの難しさと連日続く同じような料理に「マクドナルドに入りたい……」という衝動にものすごく駆られたものでした。結局その野望は同行者に「なんでイタリアに来てまでマックにいかなきゃいけないの、もったいない!」と却下されましたが、土地勘が無い人間にとっては、「そんなに美味しくはないけれど、最低限の味が保証されていて価格も予想でき、買いやすい」というファストフードというのは、けっこうありがたいものなのだと思い知らされました。スローフードって言っても、やっぱりいきなりイナゴとか食べろっていわれても、ねえ。

 この〔ウマ店発見の五原則〕のような「隠れた名店の見つけ方」を語る人はけっこう多くて、僕も似たような話を聞いたことが何度もあります。しかしながら、それで実際に「当たり」を引いた記憶はあまりないんですよね。とくに田舎では、美味しい店は繁盛するとすぐに店を大きく、綺麗にして移転していくことが多いような気がしますし。
 そういえば、僕も以前、友人と「こんなに小さくて汚くても潰れていないんだから、きっと名店に違いない!」と言いながら入った味噌ラーメン屋で酷い目に遭ったことがありました。あれはまさに「一週間煮込んだ味噌汁」だったなあ。その店のTVでちょうど流れていたのが、みのもんた司会の『愛の貧乏脱出作戦』だったのは、今でも鮮明に覚えています。



2007年03月15日(木)
突然、『スーツを買ってやる!』と言い出したお父さんの話

『ゴー宣・暫<1>』(小林よしのり著・小学館)より。

(小林よしのりさんが語る、亡くなられたお父さん、小林携次郎さんについて。初出は月刊『ランティエ。』(取材と文・北井亮))

【小林よしのり「うちの父親は、節目節目で自分の成長に役立つことを言ってくれるんよね。ほかにも、大学時代に商業高校の同窓会があったんやけど、そのとき突然、『スーツを買ってやる!』と言い出した。当時のワシはボロボロのジーンズとTシャツしか持ってなかったけど、それで十分だと思っていたから『いらん!』って答えたんよ。そしたら父親が、『ほかの皆は就職して社会人だしスーツで来る。だから買ってやる』と言い張る。普段、そんなこと言われたことなかったから、何を考えてるのかとビックリした」

 押し問答の末、「じゃあ着ていかんでもいい。持ってきて着て行かんのと、持たなくて着て行かんのとでは全然違う」と無理矢理デパートに連れて行かれ、スーツを買い与えられた。

小林「恐らくは、父の貧乏体験が理由だったんだと思う。父が兵隊に取られているとき、自分の母親へ宛てた手紙を見たんやけど、そこにはこう書かれていた。『シャツが足りません。お願いですから送ってください。ムダ使いもしてないし、お国のために頑張っておりますので何卒お願い致します』。ワシ、それ見て涙が出たね。兵隊全員が平等に見える軍隊のなかでも、物を持っていないとみじめな思いをする。そんな些細なことでも男のプライドが損なわれることがあると知っていたから、同窓会に行くためだけにスーツを買ってくれたんやね」
 こうした父の言動が、自分という人間の核を成していることに気づいたことで、ようやく親孝行も意識できるようになったという。
「あるとき父を香港に連れて行ったんよ。それで、ナイトクルーズの船上で『またいつか来たいね』とか言ったら、『いやぁ、もう来ることなかろうや』って(笑)。実際、もう海外に行くことはなかったんよね」】

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 僕も成人式のとき似たような話があったなあ、と思いながら、僕はこのエピソードを読んでいました。確か、そのとき僕は、「スーツなんて要らないから、そのお金を現金で欲しい」とかなんとか言ったような記憶があります。そんな「ムダ使い」をするくらいなら、父親が自分の服でも買ったらいいのに、とか。当時の僕は「人間は服装で価値が決まるものではない」と思っていましたし、そんなふうに見た目にこだわる親が、なんだかとても古臭い「過去の遺物」のように見えていたのです。ほんと、今から考えたら、イヤイヤながらでも、買ってもらっていればよかったなあ、という気がします。

 この「じゃあ着ていかんでもいい。持ってきて着て行かんのと、持たなくて着て行かんのとでは全然違う」というお父さんの言葉、おそらく当時の小林さんは、「着ていかないスーツを買うなんてもったいないし、バカバカしい」と反発されたのではないでしょうか。でも、お父さんは自分の体験から、「同じような環境にいるはずの人間のなかでの、ちょっとした差」というのが、ときに、ものすごく大きな傷として残ることがある、ということを知っていたのでしょうね。成人式とか同窓会レベルならさておき、軍隊生活なんてみんな同じようなものだと僕は想像していたのですが、「同じようなもの」だからこそ、「違い」を感じずにはいられないところもあったのです。いやまあ、この話の場合、プライド以前に、本当にシャツが足りなくて着る物がなくて困っていたのかもしれませんが。

 結局、僕は成人式には出席せず、いくばくかの小遣いをもらっただけのような記憶があるのですけど、最近、僕も親になったら、同じようなことをして子供に煙たがられるのだろうな、と思うようになりました。
 「昔はバナナ1本丸ごとなんて到底食べられなかった」と語りながら子供たちに、もう珍しくもなくなっていたバナナを食べさせようとしていたのを思い出すたびに、親の心っていうのは、子供にはなかなか伝わらないものだよな、と考えてしまいます。



2007年03月14日(水)
「幻冬舎」と「太田出版」の不思議な友情

『ダ・ヴィンチ』2007年4月号(メディアファクトリー)の「ヒットの予感EX」という記事(取材と文・岡田芳枝)でとりあげられていた『編集者という病』(見城徹著・太田出版)という本の紹介記事の一部です。

【人は彼を「風雲児」と呼ぶ。風を鮮やかに巻き起こすその剛腕は羨望を集め、また嫉妬する者はやっかみの舌打ちを鳴らし、枯渇するどころか勢いを増す底知れぬ力に懼れおののく――。出版界において、これほど長きにわたって話題を振りまき、注目を浴び続ける編集者が、かつていただろうか。
 その男、見城徹が、編集者として生きてきた日々を振り返ったはじめての著書『編集者という病』を出版した。
「角川書店にいた頃から”本を出さないか?”というオファーは数え切れないほどあったけれど、そのたびに辞退してきました。というのも、”自分が本を出すなど、作家の方々に失礼だ”という気持ちがあったからです。だから、彼が担当でなければ、編集者である限り本を出すつもりはまったくなかったんです」
 見城が言う「彼」とは、太田出版の前社長である高瀬幸途氏。高瀬にとって『編集者という病』は、編集人、発行人としての最後の仕事になる。
「高瀬は、僕の先生であり、ライバルであり、いつも互いに助け合ってきた親友。そんな彼の最後の仕事が僕の本になるというのなら、傲慢だけど相応しいと思ったんですよ。だって、彼のささやかな人生をいちばん知っているのは僕だと思うから。俺のなかには本を出す立派な理由があるんだ。そう自信を持って言えるんです。
 それは27歳のことだった。見城は2年前に、海外翻訳権の代理店に勤めていた高瀬の伝手で角川書店にもぐり込み、首尾よく正社員になって、めきめきと頭角を現していた。そんなとき、高瀬は見城の前から忽然と姿を消す。
「頭角を現すためには、人を出し抜いたり、陥れたり、戦って倒したりしなくちゃいけない。高瀬は搾取のない理想郷をつくるためなら戦うことができる男だけれども、自分が頭角を現すために戦う男じゃなかった。まるでチボー家のジャックのような男だから」
 自分を支えてくれたように、僕は彼を支えることができなかった――。突然の失踪に、見城は罪の意識を感じずにはいられなかった。しかし3年後、二人は再会を果たすことになる。約束の場所は、神保町の喫茶店。待ちきれずに外へ出て、見城はその姿を探した。やがて、片足を引きずりながら前より痩せた高瀬が逆光を浴びてこちらに向かってくるのがわかった。その顔に微笑が浮かんでいるのを確かめると、滂沱たる涙がこぼれ落ちた。
「沢木耕太郎さんの本に『深夜特急』があるけれど、深夜特急に乗るというのは”脱獄する”というトルコの囚人の隠語。それはとりもなおさず、いままでの自分の人生を脱獄するという意味なんです。かつて非合法革命党派に所属していた高瀬がアラブに行っていたのか、地下に潜っていたのか、日本中を旅していたのか、3年間何をしていたのかわからないけれども、こう思ったんです。『君もまた、君の深夜特急に乗っていたんだな』と。
 その後の歩みは、非常に対照的だった。見城がミリオンセラーを連発し、自ら幻冬舎を立ち上げる一方、高瀬はサブカルチャーから現代思想までを網羅する、これまでにない出版社として太田出版を引率し、一時代を築き上げる。対照的ながら、それぞれ唯一無二の編集者となった。
「まったく好対照だけど、彼を鏡にすると自分の人生が見えるというような、そんな想いがあるんです」】

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 見城徹(けんじょう・とおる)さんは、1950年生まれ。1975年に角川書店に入社し、数々のベストセラーを手がける剛腕編集者として知られていましたが、1993年には角川書店を辞めて自ら幻冬舎を設立されました。現職は幻冬舎代表取締役社長。幻冬舎は、創業後13年間で13冊のミリオンセラーを刊行しているそうです。

 この記事、見城さんの『編集者という病』という本の紹介のはずなのに、この本が太田出版から刊行されることになった経緯というか、見城さんとこの本の「担当編集者」となった高瀬幸途さんの交友関係が延々と語られています。でも、この記事を書かれた方が、この二人の話を大きなスペースを割いて書きたくなった気持ち、僕にもよくわかります。

 僕は見城さんのことも知りませんでしたし、「幻冬舎」が1993年設立という新しい会社であるということも知りませんでした。言われてみれば、子どもの頃には無かったような……という感じで。今となってはあまりにメジャーになりすぎていて、その起源を思い起こすことができないんですよね。
 幻冬舎には、後発の出版社にもかかわらずミリオンセラーを多く生み出していることから、「メジャー指向」というか「売れ筋狙い」というような印象もあるのですけど、角川書店時代から「剛腕編集者」として知られ、幻冬舎の大黒柱となった見城さんの無二の親友が、『完全自殺マニュアル』などを出版した「サブカルチャーの発信源」である太田出版の支柱の高瀬さんだったというのは、かなり意外に感じられました。この二人は、まさに【対照的ながら、それぞれ唯一無二の編集者となった】のです。

 ちなみに、高瀬さんのほうは、「担当編集者インタビュー」のなかで、こんなふうに仰っています。

【彼とはじめて会ったのは1970年代の前半でしたが、そのときからすでに太陽のような男でしたね。僕はどちらかというと陰性で、月のようなタイプ。当時から二人を知っている人たちからは「どうして友だちなのかわからない」とよく言われました。僕自身も、こんなに長いつきあいになったことをいまでも不思議に思うんです。】

 対照的な出版社を率いることとなった、対照的な二人の不思議な友情。そして、その友情から生まれた1冊の本。
 「幻冬舎」と「太田出版」は、全く違ったタイプの出版社のように思えますが、実は、そのアプローチのしかたが正反対だっただけで、「目指すところ」というのは、同じだったのかもしれませんね。

 それにしても、人と人って、本当に不思議なものですね。正反対だからこそ、お互いに魅かれあったのか、それとも、正反対のものを受け入れる度量があったからこそ、二人はこうして成功することができたのか……



2007年03月13日(火)
「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」

『リトル・バイ・リトル』(島本理生著・講談社文庫)の巻末の原田宗典さんの「解説」より。

【「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」
 と若き日の林芙美子は、”小説の鬼”と呼ばれた作家、宇野浩二に尋ねたという。林芙美子というのは、後に『放浪記』を書いて、広く愛される作家になった人である。宇野浩二と初めて会った時は、まだ女学生だったという。
「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」
 この素朴すぎて感動的ですらある質問を、よくぞ口にした。さすが林芙美子、と私は思うのである。
 対する宇野浩二の答えも、質問と同じくらい素朴なものだ。曰く、
「話すように書けばよろしい。これは武者小路実篤氏が祖です」
 簡明にして的確に、浩二は核心を述べている。いや、大袈裟に言うのではない。話すように書く――そういう文章が書ければ、それは小説になる、と言っているのだ。
 宇野浩二という人は、先年亡くなられた水上勉さんが師と仰いだ作家で、文字通り生涯を文学に捧げた人である。たとえ無名の女学生からの質問だからといって、こと文学に関しての問いかけに、その場しのぎの適当な答えを返すとは思えない。
「話すように書けばよろしい」
 これは、魔道とも呼べる文学の道を血を流しながら歩んできた宇野浩二が、素手で掴んだ一つの真実であったに違いない。本当のところであるからこそ、咄嗟に答えたのだと私は思う。ちなみに「話すように書けばよろしい」小説の祖と呼ばれている武者小路実篤という作家は、世間ではかぼちゃの絵とか好々爺然とした肖像写真などで知られるばかりだが、この人こそ口語体の元祖であると言っていい。若き日の実篤が、普段話しているようにして書いた小説は、芥川龍之介をして、
「文学の天窓を開け放ったような」
 と言わしめたほど斬新なものであった。実篤のすごいところは、生涯を通じて、小説も詩も戯曲も論文も、すべてを「話すようにして書」き抜いた、という点である。現在、私たちがこんなふうに口語体で書けるようになる上で、実篤が果たした功績は、実は大きいのではないか、と私は考えている。
 さて林芙美子が「小説の書き方」を宇野浩二に尋ねてから、百年近い月日が流れて、二十一世紀。これだけ時間が経っているのだから、「小説の書き方」だって相当進歩し、変化しているはずだろう――と思いきや、答えは今日でも変わらない。
「話すように書けばよろしい」のである。
 しかし実際に書いてみれば分かると思うのだが、人間というのは日頃自分がどんなふうに話しているか、なんてことは意識しないで生きているものなので、いきなり「話すように書け」と言われても、どう書けばよいのか分からないのが普通である。大抵の人がここで挫折し、自分には書けない、と諦めてしまうか、「話すように書く」ことを無視して、「書くように書いて」しまう――しかし「書くように書いた」文章は滅多なことでは情緒を生まない。それは単に情報を伝えるだけのもので、目には触れても、心に触れることはない。
 その昔チェホフが口にしたという「雨が降ったら”雨が降った”とお書きなさい」という言葉――なあんだ、そんなこと、当たり前で簡単すぎることじゃないか、と軽んじられがちだが、書いてみると、これが非常に難しいことであると段々分かってくる。書き言葉、特に日本語は装いたがる性質を有しているために、つい余計な形容詞をくっつけたりしてしまう。”雨が降った”だけでは何だか物足りないような気がして、”銀色の雨がしとしと降った”などと書いてしまうのだ――これは、前述の「書くように書いた」文章の一例でもある。「話すように書く」ことができれば、ここは当然”雨が降った”だけでよいのである。】

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「話すように書けばいい」
 以前にも聞いたことがあるような気がするのですが、今回、原田さんの文章のなかでこの言葉を読んだとき、僕はなんだかすごく感動してしまったのです。書けば書くほど「書くように書く」というか、ついつい凝った言い回しや個性的な比喩を目指してしまいがちになるんですよね。それで、「うまく書けない自分」に絶望しては消し、の繰り返しになってしまうのです。

 以前、井上ひさしさんが「文章教室」で、「ある程度の長さの文章を書いてから、それを短くまとめるとき、最初に削るべきところは、『自分がいちばん気に入っているところ』だ」と言われていました。井上さんによると、自分で気に入るようなところというのは、物事を客観的にとらえられていないことが多いし、読む側からみると、表現が過剰だったり冗長だったりして、かえって「面白くない」ことが多いのだそうです。

 僕はこれを読んで、「それなら、『書けない』ときには、自分の言葉で喋ったものを録音して、それをそのまま文字に書き起こせばどうだろうか?」と考えました。「書けない」人でも、そうすれば「自分の考えを書くことができる」のではないかと。ただ、それを実践しようとすると、僕自身が「うまく自分が話したいように話せない」ということがわかったのです。そもそも、自分の声とか話し方に自信が無くて、昔も留守番電話のメッセージを自分で聞きなおすのがイヤでイヤでしょうがなかったくらいなので……
 うまく話せる人は、「書こう」なんて思わないのではないか、などと言いたくもなるのです。

 それでも、この「話すように書く」というのは「書けない人間」にとっては、ものすごく参考になる言葉ではないでしょうか。「うまく書く」「カッコよく書く」のではなくて、目の前にいる相手に心を込めて話す言葉をそのまま書けば、少なくとも「伝わる文章」にはなりそうな気がします。
 そう言いながらも、やっぱり雨が降っていることを伝えるために「雨が降った」とだけ書くのは、なかなか勇気が要ることではあるんですよね。僕もそんなの読んだら、内心バカにしそうだし。




2007年03月12日(月)
「帝王」カラヤンの「指揮で一番大事なこと」

「阿川佐和子の会えば道づれ〜この人に会いたい5」(文春文庫)より。

(阿川佐和子さんと故・岩城宏之さんの対談の一部です。岩城さんはNHK交響楽団終身正指揮者にもなられた、日本を代表する指揮者です(2006年6月に逝去されています))

【阿川佐和子:指揮者に必要な資質っていうと、何ですか?

岩城宏之:カリスマ性っていうか、オーケストラの前に立った途端、ビーンと電波が走らなきゃだめですね。指揮っていうのは教えることはできない、教わることもできない。結局、なれるやつがなれるだけとしか言えない。とにかく何ものかをみんなが感じるか感じないかだけなんですよ。

阿川:ヒエー。

岩城:でもね、指揮者、演奏家というのは、ヤキモチ焼きの権化なんですよ、作曲家っていうのは「あいつの曲なんかダメだ」とか言いながら、お互いの作家生活は認めてるんですけどね。

阿川:岩城さんもヤキモチ焼き?

岩城:うん。人の音楽会聴くと、舞台に駆け上がって殴り倒して、代わりに指揮したくなる(笑)。

阿川:アハハハハ。正直でカッコいーい。たとえば誰?

岩城:小澤征爾、メータ、バレンボイムは殴り倒して代わりたいとは思わない。「ふーん、なるほどね。ああいうことやるのか」と、認めるな。

阿川:認めるのは三人だけですか?

岩城:いや、やっぱりカラヤンとバーンスタインはどうしようもなくスゴいと思う。あの二人は別格だったな。

阿川:二人のスゴさはどう違いますか。

岩城:カラヤンは完全につくった美というか。自分でも「指揮者は自分を神格化させなきゃいかん」と言ってたけど、それをホントに実行したと思うな。パジャマに着替えたとき、あの人はどんな顔してたかと思うぐらい。

阿川:実物に会われても、カリスマ性がありましたか?

岩城:すごかったですね。カラヤンがやったことは超民主的な独裁。誰も独裁されてると気がつかないんだけど、完全にやってる。僕は二十二、三歳でN響の指揮者見習いのとき、カラヤンにいきなり「レッスンするから、好きに指揮してみろ」ってN響の前に引き出されて。カラヤンがそこに座ってるところで『エロイカ』をやったの。

阿川:ベートーベンの。何て言われました?

岩城:「もっと力を抜いて」とか「俺はもう二、三十年やってるから、これができるんだ」とか。カラヤンはすぐ自慢するのよね(笑)。

阿川:かわいいとこあるのね(笑)。

岩城:1時間くらいレッスンされて、あとで部屋に呼ばれて。「君はなかなかよい運動神経と表現力を持っているからオーケストラはちゃんと君の言う通りに動く。ただ、一つだけ気をつけろ。君のワーッと指揮するところから、みんな思わずギーッと汚い音を出してる」って。

阿川:ほお。

岩城:それから、「指揮で一番大事なことはキャリーすることで、ドライブすることじゃない」と。

阿川:どういう意味ですか?

岩城:最初は僕もわかんなかった。だんだんわかってきたのは、たとえば馬に乗ったとき、ドライブは手綱を引き締めてあっちに行けこっちに行けと完全に言うことを聞かせて動かす。馬はその通りに動くけど面白くない。キャリーはどこへでも好きなところへ行きなって言って、馬が人を乗っかってるのを忘れちゃって好きにしてるけど、実はそれを完全にコントロールしてる。その違いじゃないかと。

阿川:なるほど。

岩城:王様の存在を忘れさせて、自発的に嬉しく演奏させてるんだと思う、ところが全部言うことを聞かしてる……それがカラヤンのやり方。僕もこの頃やっと少しわかるようになってきたと思う。

阿川:キャリーが。

岩城:でも、カラヤンは正直だったですね。クラシック界の帝王と言われていたけれど、あるとき、彼と親しかったN響の有馬さんに言ったそうですよ。「俺は、世間が俺がどれだけ政治的に立ち回って世界の音楽界を握ってると言っているか知ってる。それはある程度ホントだ。でも、俺はやっぱり(右腕を指して)これだけなんだ」と。

阿川:腕だけ?

岩城:その腕でいい音楽をやって、お客をつかみたいだけだと。結局、それで人が集まって、権力が湧いちゃうんだけどね。

阿川:腕一本で勝負してたんですね。

岩城:で、とっても小っちゃな話になるけど、僕も我が小っちゃな国ではちょっとだけ偉いでしょ。N響とかいくつかのオーケストラを持ってて、芸術院の会員になったとか。さぞやいろんな政治力やなんかを使ったんだろうって思ってる人はたくさんいますよ。でも、僕はやっぱり指揮をうまくやって、お客さんに認めてもらおうとしか思ってないの。だから、カラヤンが言ったことも本音だと思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 クラシック界の「帝王」と呼ばれた男、ベルリン・フィルハーモニーの4代目の首席指揮者・ヘルベルト・フォン・カラヤンについての、岩城宏之さんの記憶。クラシック音楽にそんなに詳しくない僕ですら、カラヤンの名前は知っていますし、おそらく、日本でも小澤征爾さんと並んで、もっともよく名前を知られている指揮者なのではないでしょうか。
 カラヤンは、その音楽的な才能を賞賛されていたのと同時に、その「政治力」を語られることも多い指揮者でした。中川右介さんが書かれた『カラヤンとフィルトヴェングラー』という本のなかには、【カラヤンは世界のクラシック音楽界の主要ポストを独占し、人事権を持ち、利権を握り、世俗的・実質的な意味で音楽界に君臨】【「有能なビジネスマン」とよく評された】と書かれています。
 ここで岩城さんが紹介されている「帝王」カラヤンの実像は、「クラシック音楽界のドン」としてていうより、「ちょっと自慢したがりなひとりの指揮者」としてのものです。これを読んでいると、カラヤンは指揮者に必要な条件として、「運動神経と表現力」を重視していたのだな、ということがよくわかります。「運動神経」なんて、音楽とはあまり結びつかないもののような気もしなくはないのですけど。
 そして、カラヤンは岩城さんに「キャリーとドライブ」の話をしています。これは、指揮の世界に限らず、人を動かすときの真理として応用できそうな話です。もっとも、言われてみればわかったような気分にはなるのですが、実際にどうすれば「キャリー」できるのかカラヤンは岩城さんに語ってはいませんし、たぶんそれは言葉で教えられるようなものでもないのでしょう。それができる人が「カリスマ」ということになるのでしょうね。

 カラヤンが【「俺は、世間が俺がどれだけ政治的に立ち回って世界の音楽界を握ってると言っているか知ってる。それはある程度ホントだ。でも、俺はやっぱり(右腕を指して)これだけなんだ」】と言ったというエピソードには「帝王」の素顔が垣間見えて、なかなか興味深いものがあります。「政治力」ばかりが強調されるけれど、本人にとってはやはり、「素晴らしい指揮をすることこそが全ての源」だったのです。それをどういうふうに「運用」するかは、人それぞれなのでしょうけど。

 しかし、カラヤンもああ見えて、世間の評判を彼なりに気にしていたというのは、ちょっと微笑ましいエピソードではありますよね。



2007年03月10日(土)
消費者金融で「貸す人」「借りる人」それぞれの現実

『サラ金嬢のないしょ話』(小田若菜著・講談社文庫)

【(サラ金の返済が遅れている人々あれこれ)

 ご主人も奥様もお客様で、ご夫婦仲良く遅れています。
 でもお互いに、
「相手には利用を知らせるな」
 とがんばっています。
 お互い様なんだから、知らせたほうが楽だとは思うんですけど、お互いに知っちゃったら、さらに延滞ひどくなるかもしれませんね。

 やはりご主人も奥様も仲良く遅れ、ついでに息子は自己破産。
「お金ないんで払えません」
 そう言う奥様の声のBGMにワイドショーの声が聞こえます。
 奥様は無職、つまり、専業主婦です。
「奥様がパートに出られるとかで何とかならないでしょうかね」
「仕事なんてないんです」
「ないことないでしょ。新聞に入っているチラシとか、ハローワークとか」
「チラシは捨てちゃいました。ハローワークがどこにあるかわかりません」
 ハローワークのある場所を説明。すると、
「車がないから行けません」
「歩いていけばいいでしょ」
「歩くと疲れますから」
「疲れるとか、そういうこと言ってる場合じゃないでしょう」
 電話口からため息が聞こえます。ため息つきたいのはこっちです。
 少しの間、そして、奥様、再び口を開きます。
「働くの向いてないんです」
「向いていないって……じゃあ、どうしても働かないで借金返す気でしたら、一時的にでも電気や電話止めちゃったらどうですか? 水道やガスは困るでしょうけど」
「電気が止まったらエアコン動かないじゃないですか。この暑いのに、死ねっておっしゃるんですか?」
 いやあの、熱帯でもないのに、エアコン止まったってそうすぐには死なないと思うんですけど……。
「困ります……」
 電話口で泣き出す奥様。こっちも困ってるんですけど……。

(中略)

「どうせお前ら悪いことばかりやってるんだろ! 裁判に訴えればこっちのものだ。訴えてやるっ!」
 あの、私たち「お支払いが遅れてますよ」とお電話しただけですので、請求電話がかかってきたというだけで訴えてもお支払いがチャラになることはないと思うんですけど?

 10日以上遅れたお客様は、サラ金嬢ではなく男性社員の担当になる場合がほとんどです。
 それ以上遅れると、男性社員が直接ご自宅まで回収に向かいます。


(大手消費者金融「武富士」について)

 ちなみに武富士はいとこのお嫁さんが元武富士社員なので、実はけっこういろんな話を聞かせてもらっています。以前、テレビとかでもやっていましたけど、本当に毎朝会長の写真に向かって「会長おはようございます。今日も一日よろしくお願いいたします」と挨拶をするのだとか、朝礼では「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」などの挨拶練習を欠かさず、『日常の五心』とかいう標語のようなものを暗唱させられるんだとか。朝礼時にはラジオ体操も欠かせないそうですが、ちょっとでも気を抜いて体操すると怒られるので、大げさなぐらいに手足を動かすんだとか。しかも店長になると、毎年元旦には会長の自宅兼研修所に詣でなければならなかったそうです。早く詣でれば詣でるほど忠誠心が高いとされますので、ほとんどの店長が大晦日の夜から会長の自宅前に待機していて、会長宅前で新年を迎えていたそうです。詣でなければ「会長への感謝の気持ち」が足りないということで、降格さえあり得たとか。会長が代わったので、さすがに今はそんなことは無くなったんじゃないかなと思いますけど。】

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 ほんと、貸す側も借りる側もどっちもどっち、という世界です。この「借金を返さない人たち」の話を読んでいると、自分から借りておきながらこんな態度をとるような「お客様」から取り立てをしなくてはならない消費者金融のスタッフにもちょっと同情してしまいますよね。まあ、そんな人たちに貸すほうにも責任があるのは事実なんですが、結局のところ、「ご利用を計画的に」できる人というのは、消費者金融から借金などしないわけで、貸す側も「絶対に返してくれそうな人」ばかりを選り好みするわけにもいかないようです。さすがに、「絶対に返してくれそうもない人」には、大手消費者金融は貸さないみたいですけど。
 しかし、そう考えてみれば、より「返せそうもない人」ほど、より高金利で危険な闇金などから借金せざるをえなくなるのですから、世の中というのは「うまくできている」というべきなのか……
 実際は、大部分の顧客がなんとか返済しているからこそ消費者金融という商売は成り立っているのでしょうけど。

 その一方で、この(以前の)武富士の話も凄いです。中小企業などでは「カリスマ化された経営者」の話は珍しくないのかもしれませんが、ここまでくると、さすがにねえ。元旦のなるべく早い時間に会長宅に詣でるために、大晦日の夜は会長宅前でカウントダウンなんて、「いざ鎌倉」か「新型ゲーム機の発売日」か、という感じです。さすがに、いろいろな問題が噴出してきたみたいですが、長年こんなことが行われてきたなんて信じられません。それも、何十年も前の話じゃないのだから。

 TVで親しみやすそうなCMを流してアピールしていても、消費者金融の実状はこんなものです。ただ、本当に消費者金融というのが全く無くなってしまったら、そこでお金を借りていた人たちが「借金」をしなくなるのか、闇金に向かうのか、それとも、犯罪行為に走ってしまうのかと考えると、消費者金融にも「必要悪」という面はあるのかもしれません。
 こうして「借りる側」「貸す側」の両方をみてみると、消費者金融というのは、やはり「関わらないに越したことはない」のは間違いないのですが、好きで借金する人なんていないだろうしねえ……



2007年03月08日(木)
村上龍さんが語る「現代における文学の役割」

『文藝春秋』2007年3月号(文藝春秋)の記事「特別鼎談・我らが青春の芥川賞を語ろう」(湯川豊著)より。

(石原慎太郎さん(『太陽の季節』昭和30年下期)、村上龍さん(『限りなく透明に近いブルー』昭和51年上期)、綿矢りささん『蹴りたい背中』(平成15年下期)の3名の芥川賞作家による鼎談の一部です)

【石原慎太郎:文学には時代時代の役割があって、バルザックやドストエフスキーの頃だったら、一生に一度もパリやペテルブルグに行くことがない人間のために、街の様子を描写するという叙事詩としての役割があった。でも、とうの昔にそんな役割はなくなっていますね。

綿矢りさ:小説が情報を伝える役割を持っていた時代もあったんですね。SFとか、空想の未来を作るために言葉を使うんじゃなくて、実際に存在する場所の情報を文字で輸入していたとは。私はそういう時代をすっ飛ばしているものですから。

村上:今、パリの様子を知る目的でバルザックは読まないものね(笑)。

石原:文学の大きな主題であるモラリティだって、現代ではインモラルなものがこれでもかと視覚化されて氾濫している。そこで龍さん、こういう時代の文学の役割というのは何なのかねえ? とても難しい時代にきていると思うけど。

村上:新聞の三面記事を見れば、あらゆるタイプの心の闇が溢れていますからね。ただ、僕が思うのは、未来になって、たとえ医療技術が高度に発達して寿命が200才まで延びても、人間がナイトメア、つまり悪夢を見なくなることはないと思うんですよ。ヒトゲノムがすべて解明されても、全世界が民主的になっても、人間の精神は過剰で、社会性から切り離された自由な部分が必ずあって、だから不安定で、摩擦や矛盾は必ずあると思うんです。文学は解決策を提示するわけじゃないし、癒すこともできないけれども、疑問を示すとともに、ある種の人たちに「それはあなただけじゃない、普遍的なことだ」というメッセージを発することはできると思うんです。

石原:面白いなあ。なるほど、文学は悪夢か。

村上:いじめで子どもがたくさん自殺して、文科省も学校も、子どもの自殺の防止策をしきりに考えているけど、自殺を止めさせるのは本当に難しいと思う。校長先生が壇上から「人の命は地球より重い、自殺はやめましょう」といくら言っても、子どもは分かんないですよ。でも、ひょっとしたら、ある種の小説には、自殺しようかなと思っている子どもを止める力はあると思う。「それはあなただけじゃないんだ」というメッセージだったり、あなたは知らないかもしれないけれども、人生はこんなに複雑なんだ、それをもっと知った方がいい、知るためには今死なないほうがいいよ、というメッセージとしてあり得るんじゃないかな。人が悪夢を見るということは、誰だって自殺の誘惑にかられる危険性があるということですよね。そういうときには、案外、文学に存在価値があると思うんですけどね。

綿矢:文学は内面の深い描写も多いので、知らない世界を広く深く知ることができます。

石原:文学の持っている毒が、自殺しようとしている子どもの心を揺さぶっることがありうるということですね。とても重要なキーワードだねえ。ナイトメア。】

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 うーん、さすがは村上龍。と感動しながらこの部分を読んでいたのですが、考えてみれば、これもちょっと強引な理由付けではありますよね。だって、「文学には自殺しようかなと思っている子どもを止める力がある」としても、場合によっては、「自殺しなくてよかったはずの子どもを自殺に駆り立てる力もある」ように感じられますし。それでも、こういうことを即座に言葉にできる村上龍さんって凄いな、と圧倒されるのは間違いないのですが。石原慎太郎さんなどは、すっかり村上龍さんに頼りきってこの対談を乗り切っている、という印象です。

 この鼎談を読んでいて僕が感じたのは、どんどん「文学」の存在価値を見出しにくい時代になってきているのだろうな、ということでした。確かに、現代の日本人は海外の情景を文学で知るよりは旅行番組やホームページで知るほうが一般的でしょうし、実際に自分で旅をして「体験」することだって、ごく一部の地域を除けば、そんなに難しいことではないのです。
 ただ、それでもわからないのは「他人が本当は何を考えているのか?」であり、それを知ることができるというのは「文学」の最後の役割なのかな、とも思います。最近の小説では「特別な人」よりも「ごく普通の人」が描かれることが多いように感じられるのは、「特別な人」のことは、他のメディア(例えば、新聞の三面記事や情報誌のインタビュー)で知ることができるからなのかもしれませんね。

 僕自身は、「存在意義」はさておき、「読む」「読んで知識や他者の体験を蓄積する」ことそのものに快楽を覚える人間は、一定の割合で存在するのだ、というような気もしているんですけど、彼ら(というか僕ら)が、いつまでも「文学」に忠誠を尽くすのかどうかは、正直わかりません。人類の歴史からみれば、「文学」そのものが、過渡期の一時的な現象なのかもしれませんしね。それこそ、1万年後の人類からすれば、「文学」も、僕たちにとってのルービックキューブのブームと同じようなものになってしまう可能性だってあるでしょう。あるいは、他人が考えていることがわかる機械が完成すれば、誰も「文学」になんか見向きもしなくなってしまうかも。
 それでも、今の時点で、「文学」というのは、ある種の人々の心を動かすことができるツールであるというのは、まぎれもない事実なのです。

 ところで、この鼎談のなかの別のところで、石原さんと村上龍さんが「文学には毒が必要なのではないか」と仰っているのに対して、綿矢りささんが【私はどちらかというと、今は、読んだあと居心地の悪さの残る本よりも、心がきれいになるような浄化作用のある本が求められているように思います】と仰っていたのが僕にはすごく印象的でした。僕はちょうど村上さんと綿矢さんの中間くらいにあたる年齢なのですが、確かに、斬新な、よりインモラルなものを求める気持ちがある一方で、「もう『毒』はお腹一杯だよ……」という気分は、僕にもあるんですよね。

 そう仰っている綿矢さんの新作が、ものすごく微妙な後味の『夢を与える』だったりするのが、「文学」というものの面白さなのかもしれませんが。



2007年03月07日(水)
百科事典を売りに来た人にBMWを買わせる接客術

『プロ論。3』(B-ing編集部[編]・徳間書店)より。

((株)ダイエー、代表取締役会長・林文子さんのお話の一部です。林さんが自動車販売の仕事をされていたときのエピソードです)

【車が好きで、自動車販売という仕事があると知って、募集をしていたホンダの販売店に初めて電話を入れたとき、女性にはちょっと難しい、と言われました。でも、私は引き下がりませんでした。熱意というものは、やっぱり通じるんです。そして始まった3日間の研修。営業ノウハウはひとつも教えられませんでした。印象深かったのは、納車前の洗車の仕方。学んだのは、自動車販売の仕事は売ってから本当のサービスが始まるのだ、ということでしたね。
 最初は飛び込み訪問から始めましたが、全く苦にはなりませんでした。だって、それまでの仕事の方が断然つらかったから。やらされ仕事ではなく、自らの意思でやっている。この喜びといったらありません。また、そういうう状況だと、素直になれる。素直さというのは、今もいちばん大事なことだと思っています。当時、飛び込み訪問の目標を1日100件に置いたのも、他社のトップセールスの本にそう書いてあったから、その通りにやっただけです。
 当時は朝から深夜まで、本当によく働いていました。でも、大変だなんでちっとも思わなかった。むしろ、いろいろな人に出会えて毎日が楽しかった。そのうち、気づき始めるんです。実はお客さまにとって、セールスである私は特に必要がない存在なんだ。勝手にお客さまの生活のリズムを崩して、お宅におじゃましているだけなんだ、と。そうであるなら、なんらかの形でお役に立たないといけない。そう思って接していると、その気持ちが行動に表れる。お客さまに喜ばれるようになる。すると、自然に車も売れるようになった。それで分かったんです。営業の仕事というのは、ご縁があって出会った人に、今この一瞬だけでも、この方のためになりたい、その思いで取り組んでいけばいいのだ、と。そうすれば、数字は後からついてくるのだ、と。
 だからこそ、出会いは何よりも大切にしました。その瞬間に最大限の努力をする。それは必ず伝わるんです。例えば、BMWの営業時代、ショールームに百科事典の営業が訪ねてきたことがありました。百科事典なんていらないと、即、断ってもいい。だけど、私はていねいに話を聞いて差し上げた。すると後日、彼がなんと同僚を連れてきてくれたんです。「BMWを買いたいというのでぜひ紹介したくて」と。こういう広がりは、本当にたくさんありましたね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 フォルクスワーゲン東京、ビー・エム・ダブリュー東京の社長から、2005年に経営再建中のダイエーの会長に抜擢された林文子さんは、日本を代表する女性経営者のひとりです。このお話を読んでいるだけでも、林さんの「営業という仕事への思い入れ」の強さが伝わってきますよね。

 もちろん、こういうふうに「他人と積極的に繋がっていけること」には林さんの天性の才能というのもあるでしょうし、林さんと同じことが面倒くさがりやで人嫌いの僕にできるとは到底思えないのですが、それでも、この百科事典の営業の人の話には、僕もすごく考えさせられました。

 僕も仕事でかなりたくさんの人に会うのですが、自分にとっての「お客様」である患者さんや同じ職場の人たちに対してはそれなりに気を遣って接しているつもりでも、薬のメーカーの営業マンなどに対しては、疲れているときなどは、つい冷淡な態度を取ってしまいがちなのです。もともと人と話すのが好きではないこともあり、「今は疲れてるから」と言ったり、話しかけられても無視して次の仕事に向かったり。「どうせセールストークだから」という意識もありますし。

 先日、ちょっとした用事である会社に電話をしたときのことです。そこの会社の人が「何の用?」みたいな横柄な調子で話していたので携帯電話を握り締めながらムカムカしていたら、しばらく話しているうちに気がついたのか、「あっ、もしかして……お客様のじっぽさんですか……大変失礼しました。取引先の者と勘違いしておりまして……」と平謝り。そういうことは誰にでもあることでしょうし、僕はそれを責めるつもりにはなれなかったのですが、心の中では、「ああ、僕の前ではあんなに丁寧な言葉遣いで礼儀正しいあの人も、普段はこんな感じなのだなあ」と思ったのは事実です。そして、それはやっぱり、良い気分になる出来事ではなかったんですよね。というか、これが彼の「本性」なのか、と軽く失望しました。人間なんてそんなものだと、わかっていたつもりなのに。

 僕が薬のメーカーの人に冷淡な態度を取っているのを患者さんが見たらたぶん同じように思うでしょうし、メーカーの人たちというのは、いろんな情報を提供してくれたりするわけですから、「車の販売店にやってきた百貨時点のセールスマン」よりも、はるかに「大事にするべき繋がり」であるはずです。それこそ、彼らは「いい病院知らない?」って周囲の人に聞かれる機会も多いでしょうし、そういうときに日頃の付き合いでの印象の影響は、けっして少なくはないはずです。もちろん「癒着」してしまってはどうしようもありませんが、「また宣伝かよ…疲れてるんだよ…」と拒絶する前に、短時間でも話を聞いてあげるだけで、全然イメージは違ってきますよね。彼らだって、仕事だからこそ腰を低くして嫌がられながらも話しかけてきているわけですし。

 「世の中そんなに甘くない」のかもしれないのですけど、他人に丁寧に接してもらおうと思うのであれば、自分も他人に真摯に接するように心がけることは大事なのです。人は、自分を無視する人よりも、自分の話をちゃんと聞いてくれる人を信頼しやすいものですし。この「百科事典のセールスマンとBMW」の話が伝説になっているのは、こういうのが稀なケースだからなのだとしても。



2007年03月06日(火)
漱石と鴎外と太宰と藤村の「著作権ビジネス」

「週刊SPA!2007.2/6号」(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ!』」第226回より。


【坪内祐三:著作権ってさ、文芸・音楽・美術は作者が死んだあと50年間有効でしょ。それを今、日本文芸家協会が、三田誠広('77年に芥川賞を受賞した小説家)を中心に70年間に延長しようと運動してて、反対派とモメたりしてるんだよ。

福田和也:勇気あるよね〜。自分の作品が死後に残ると思ってるんだね。

坪内:思ってるんだね。

福田:三田さん、今、著作権を放棄してもなんの実害もないでしょ。

坪内:それがさ、著作権の保護期間を70年間に延ばすべきだって人たちの主張が、スゴイ奇妙な論理なんだよ。それこそ、金井恵美子も『一冊の本』で批判してたけど。なんかさ、「若くして著者が死んだときに、残された妻子の生活が……」って言うわけ。だけど、親が死んだときに子供が0歳だったとしても、死後50年で50歳だよ。50歳にもなって親父の著作権料で生活するなんて、そんなニート、オレは許さないよ。

(中略)

坪内:むしろオレは、著作権を死後30年までに減らせっていう運動をしたいね。ていうのもさ、今、著作権が死後50年まで有効になっちゃってるから、「全集」とか「アンソロジー」の編纂がやりにくいんだよ。遺族を探して交渉して印税を払って、となると、確実に売れる全集しか出版社が手を出さない。

福田:著作権なんて出版後5年で消えていいから、税金マケてくれ、とかね。

(中略)

坪内:だから……なぜなんだろう、なぜ文芸も保護期間を70年に延長したいんだろう。だって今現役で書いている人で、死後50年経って作品が残るって人はほとんどいないと思うよ。でも、読みたいと思っている人がかろうじて残ってるときに、「よし全集を作ろう」ってなっても、著作権が生きてるから簡単には作れない。そのうえ70年にしたら、権利が延びた20年の間に忘れられちゃうパターンもあるから。自分の作品を後世に残したいなら、どんどん著作権を減らしたほうがいいんだよ。そう思うと、誰のための延長論なんだろうね。

福田:不明ですよね。

坪内:日本の場合、伝統的に著作権の運用がイイカゲンだから。一番有名なのは尾崎紅葉ね。尾崎紅葉はいつも春陽堂って出版社で本を出してたんだけど、春陽堂って「印税」じゃなくて「買い取り」、つまり原稿料を1回払っておしまいのシステムだったの。『金色夜叉』みたいにスゲー売れた本でもほとんどお金になんなくて、それで明治36年に死んじゃうから、未亡人がホントにカツカツの貧窮生活になっちゃうのね。

福田:死後の円本(全集)の印税も入らないわけ?

坪内:そう。原稿の権利丸ごと買い取りだから、円本でも印税が入らない。

福田:それはヒドイね。

坪内:で、昭和18年に菊池寛が、「それはヒドイだろう」っていうんで、作家仲間から義援金を集めたんだよ。

福田:菊池寛が。

坪内:一方で賢いのが、当時から印税ってことをちゃんと考えてた森鴎外と夏目漱石と幸田露伴。この3人は、買い取りが常識だった当時でも印税制なんだよね。ただ露伴の場合は、売れないから買い取りより安くなっちゃった。漱石はね、増刷ごとに印税率を上げてるの。漱石はやっぱりそのへんもスゴイよ。

福田:印税を考えないで、自分で出版しちゃったのが島崎藤村ね。

坪内:藤村は、自分で出版社つくったんだんだよ。それで儲けるんだよね。『破戒』も自費出版でしょ。それから新潮社に高く売るんだね。それぐらいさ、当時の作家ってそれぞれインディーズでやってたんだよ。

福田:自分の了見と工夫でね。

坪内:うんうん。今の作家って、いろいろ守られてるうえで、さらに著作権50年を70年になんて、冗談じゃないって感じだよ。

福田:そういえば、村上春樹ってスゴイんだってね。海外出版物の著作権の管理って、当然、講談社がやってるんだと思ったら、早々に、講談社とまったく関係のない、海外のエージェントに任せてるんだって。だから、海外でどんなに春樹が売れても、講談社インターナショナルには、一文も入らないんだって。

坪内:著作権で一番恩恵を受けたのはさ、太宰治の遺族だよね。

福田:それはそうだね。

坪内:太宰は生きてるあいだは全然、売れなかったんですよ。「せめて1000部売れたい」みたいな人ですよ。それが、亡くなって人気急上昇でしょ。太宰の長女の津島園子さんって今、代議士の奥さんで、早稲田の文学部卒業なんだけど、1960年代に真っ赤なスポーツカーで大学にね。なぜか遺族は、印税で真っ赤なスポーツカーを買うよね。澁澤龍彦の未亡人も真っ赤なポルシェかなんかでしょ。

福田:まあ、作家の遺族なんて、あんまりいいもんじゃないですよ。

坪内:三田誠広だって、息子がピアニストとして自立して、ってエッセイで書いてるわけじゃない? じゃあ遺族に死後70年間もお金を残す必要ないじゃない。

福田:というか、そこに照れがないのがコワイよね。なんか、「オレも死んだ後で少し売れるかしら」と……ちょっとぐらい思うけど……口に出すのは恥ずかしいよね。そんなことはさあ、言わないよ普通。少なくとも文章書いてるぐらいの人間なら。恥ずかしい。

坪内:死後50年だと忘れられてるけど、70年目に発見される、そういう作家だという自負心なんじゃない?

福田:50年といえばスタンダールですよね。生きてるあいだはまったく売れなかったから、死ぬときに「50年後、俺は発見される」と断言して。生前、バルザックやミュッセにはかなり評価されたけど、あとは評価されなかった。それが50年後に『赤と黒』が売れ出して。

坪内:むしろ、70年後に爆発的に売れそうな、西村賢太や中原昌也さんが言うなら、三田誠広より説得力あるよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 いやもう、三田誠広さんは酷い叩かれっぷりなのですが、('77年に芥川賞を受賞した小説家)なんて名前の後に説明が加えられる時点で、もし著作権が70年に延長されても、三田さんには「実益」はほとんど無いのではないかと思われます。もちろん、太宰治やカフカやスタンダールのように死後あらためて人気作家になる可能性はゼロではありませんが、そういう「奇跡」の可能性と作品そのものが「歴史的に生き残れる確率」を考えれば、50年でも長すぎるのではないかと僕も思うんですけどね。

 ただ、50年前の作品なんてほとんど読まないだろ、と思っていたら、つい先日読んだ井上靖さんの『風林火山』は1955年刊行だということに驚きました(井上さんが逝去されたのは1991年)。この作品が今回大河ドラマの原作となったことで、現著作権者の方々には、かなり金銭的に大きな見返りがあったのではないでしょうか。作品自体も「古さ」を感じさせない素晴らしい小説です。ジャンルによっても違うのでしょうが、読まれ続けている人気作家の場合、「50年」と「70年」では、けっこう大きな差が出ることもありそうです。
 まあ、三田さんの場合は「日本文藝著作権センター理事長」だそうなので、もしかしたら「立場上仕方なく」著作権延長を主張されているのかもしれませんけど。

 それにしても、このお二人の対談記事を読んでいて驚いたのは、歴史に残る作家たちの「著作権意識」についてでした。
 夏目漱石とか森鴎外クラスになると、「出版社との契約条件」も違っていたなんて。漱石や鴎外はヨーロッパへの留学経験がありますので、その影響が大きかったのかもしれませんが、それにしても、「買い取り」が主流だった時代に「印税契約」を結んでいたのがこの日本文学界の2大巨頭だったというのは、頷ける話であると同時に、巨匠というのはお金にもこだわりがあったのだな、ということを考えさせられます。幸田露伴の場合も、長い目で見れば「印税契約」はプラスになっているでしょうし。全盛期には漱石、鴎外も及ばないような人気作家であった尾崎紅葉が、「買い取り契約」しか結んでおらず、大ベストセラーを生んでもそんなに大きな収入にはつながらなかったというのは、彼の作品が後世あまり読まれていないこともあって、なんだか漱石・鴎外との「格の違い」みたいなものを感じさせられますし。
 自費出版で大儲けした島崎藤村なんて、まさに今の「ずっとインディーズのミュージシャン」を彷彿とさせられます。
 そういう点でいえば、村上春樹は、出版社の契約条件においても、現代の日本の作家のなかでは「別格の人」と言えるのでしょう。

 しかし、生前は多額の借金に追われていたという太宰さんは、まさか自分の作品がこんなに売れて、子孫の懐を潤わせることになるなんて、夢にも思っていなかったでしょうね。「10分の1でいいから、生きている間にその金があれば……」と言いたかったと思われます。遺族側としても、金銭的なメリットはあったにせよ、「太宰治」というスキャンダラスな存在を抱えて生きていくのは辛かったという面もありそうですが……
 延長にこだわる作家にはほとんど恩恵がなさそうなのに、自分が死んだあとのことなんてほとんど考えてもいなかったような作家に大きな恩恵がもたらされてきたというのは、なんだかすごく皮肉な話ではあるのですけど。