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2007年02月23日(金) ■ |
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「ハネムーン」の淫靡な語源 |
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「知っておきたい『食』の世界史」(宮崎正勝著・角川ソフィア文庫)より。
【蜂蜜は、長い間「不死」のシンボルともみなされてきた。現在でもローヤルゼリーは、そのようにイメージされている。メソポタミア文明・クレタ文明などでは、蜂蜜は死後の世界で食べられる貴重な食物とされた。めったに食べられない蜂蜜を身近に置くことは一種のステータスでもあったようである。エジプト文明では、ファラオ(王)と神官のみが、神聖な食べ物として上質の蜂蜜を独占した。ラムセス三世の時代(前12世紀)には、3万1912個の壺、約15トンの蜂蜜が神殿に納められていたという。古代中国でも蜂蜜は評価が高い甘味料だった。『礼記』は、なつめ、粟、飴と並んで、子が蜂蜜を供することを、親孝行として記している。アメリカ大陸でも、最古のマヤ文明を築いたマヤ人の手でハチを飼う技術が確立されている。 時代はかなり下るが、中世ヨーロッパでも蜂蜜は貴重な食材とされた。ゲルマン人は、結婚後の1ヵ月間、蜂蜜を発酵させた酒を飲んで子づくりに励んだという。それが新婚旅行や新婚休暇を指すハネムーン(蜜月)の語源である。フランク王国のカール大帝(742-814)は財政面から養蜂を奨励し、収穫した蜂蜜の3分の2、密ロウの3分の1を税として物納することを義務づけた。当時、ある程度ゆとりのある家庭では必ずミツバチが飼われていたという。】
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この本によると、【現在でも、砂糖の原料のサトウキビとテンサイ(ビート)の生産量を合わせると年に15億トンを超え、米を麦を合わせた生産量よりも多い】のだそうです。「主食」である米や麦のほうが生産における優先順位は高そうなものなのですが、人間というのは本当に「甘いもの」が好きみたいです。 「蜂蜜」といえば、「砂糖」と並ぶ「甘いもの」の代名詞なのですが、現代でも砂糖よりちょっと値段が高くて神秘的なイメージがありますよね。いくら甘いものでも「砂糖とクローバー」では、マンガのタイトルとしては変ですし(まあ、考えてみれば「ハチミツとクローバー」も、両者ともカタカナであること以外には、あまり共通点は無さそうではあるのですけど)。 蜂蜜というのは、ここで紹介されているように、人類の歴史上長い間「高級甘味料」として珍重されているのです。なかでも僕が驚いたのは、「ハネムーン」の語源でした。 「蜂蜜のように『あまーい』日々」というような例えとして使われていたのかと思ったら、中世ヨーロッパの人々は、本当に蜂蜜を発酵させた酒を飲んで、蜜浸りになりながら、子孫繁栄に勤しんでいたようです。なんだか、そんなふうに考えると「ハネムーン」っていうのも、ちょっと淫靡な感じではありますね。そこまで新婚早々に「子づくり」を奨励されるというのも、現代人の感覚からすれば、かなりプレッシャーになるのではないかなあ、とも思いますけど。
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2007年02月22日(木) ■ |
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「鉄道ファン」と「女性専用車両」 |
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『女子と鉄道』(酒井順子著・光文社)より。
(「晩婚・少子化と女性専用車両」という項の一部です)
【新聞を読んでいたら、読者の声欄に「飛び乗ったら女性専用車両」という題の、男性からの投稿が乗っていたのでした。 海外在住のその日本人男性が、日本滞在中に電車に飛び乗って座ったら女性専用車両で、隣の女性から注意された、と。彼は、 「だが注意を受けるまでも受けた後も、その車両に乗り合わせた女性たちの一様に困惑し、うつむき続ける対処の仕方はあまりにも受動的、画一的で、疑問に思えた」 とし、さらには、 「(痴漢問題は)男性全員を痴漢予備軍におとしめ、女性を専用車両という保護下に置くことで解決したのだろうか」 としてある。ま、電車に飛び乗ったら周囲は女ばかり、おまけに注意までされたら、 「あまりに受動的で画一的」 と反撃したくなるのも、 「次の駅まで針のむしろに座る心境となった」 というのも、ごもっともというところでしょう。 また別の新聞投稿では、「先頭車両から閉め出さずに」というタイトルのもと、男性鉄道ファン(39歳)の意見が記されていたのでした。何でも、彼が久しぶりにとある鉄道に乗って先頭車両の運転室のすぐ後ろのかぶりつき席を目指したところ、そこは女性専用車両になっていた、と。そこで彼がどうしたかというと、「ためらいましたが」「乗車し運転席の後ろに立」ったというではありませんか。 当然、運転士や職員に注意されたにもかかわらず、彼は果敢にもその度に事情を話して乗車を認めてもらった(!)そうなのですが、同時に「自分のわがままを反省」もしたのだ、と。しかし彼は反省しつつも「先頭車両から鉄道ファンを閉め出さずに、ラッシュ時間以外は乗れるようにしてほしい」という、非常に大胆な要望を書いているではありませんか。「鉄道ファンとそうでない男をどうやって見分けろというのか」など、突っ込みどころ満載のこの投書ですが、鉄道ファンの熱い思いを知る一助にはなった。女性専用車両の導入は、思わぬところで鉄道ファン達を傷つけていたのですね。】
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映画『それでもボクはやってない』で、痴漢事件の裁判の実態を観て以来、僕としては、「痴漢冤罪の危険を考えれば、いっそのこと全部「男性専用車両」と「女性専用車両」に分けてしまったほうが良いのではないか?などと考えてしまうのですが、「女性専用車両」の導入のおかげで、「鉄道ファン」がこんなつらい目にあっているとは思ってもみませんでした。 「鉄道ファン」ではない僕としては、「運転室を見るために、周囲の女性達の白眼視に耐えつつ女性専用車両に乗り続ける(しかも、注意されるたびに「事情説明」までして!)なんて、ちょっと信じられないというか、周りも「認めた」というよりは、「こういう人には関わらないほうが安全だと判断した」だけのような気もするのですけど、ここまで実際の行動に移すことはなくても、悲しい思いをしている鉄道ファンというのは、けっして少なくないのかもしれませんね。 しかしながら、酒井さんも書かれているように、「鉄道ファンは『女性専用車両』であっても先頭車両に入ることを許す」というようなルールが非現実的であることは間違いありません。 おそらく、この39歳の鉄道ファンも頭ではわかっていながらもこんな要望を出さずにはいられないのでしょうけど。 実際は「先頭車両以外を女性専用車両にする」というのがいちばんの解決方法なのかもしれませんが、やっぱり「わかりやすい車両が女性専用」でないと非効率的であることも事実で、そういう意味では、「先頭車両」が選ばれるのはやむをえないことなのでしょう。「最後尾」だと、何両編成かによって乗車する場所が違ってきたりもしそうだし。
「女性専用車両」というのは、痴漢被害の現状を考えるとやむをえない選択だと僕は思うのですが、その一方で、マイノリティである「鉄道ファン」がこんなに辛い目にあっているのかと思うと、やっぱり少し寂しくなりますね。いっそのこと「鉄道ファン専用車両」とか作ってあげてほしいものです。
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2007年02月20日(火) ■ |
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『CanCam』『LEON』の広告収入の秘密 |
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「日経エンタテインメント!2007.3月号」(日経BP社)の特集記事「儲けの(秘)レシピ20」の「雑誌広告を売る」の項の一部です。
【ときに1冊1kgを超える女性用ファッション誌。ここまで太らせるのに大きく貢献しているのが広告ページだ。では1号当たりいくらくらいの広告収入があるのか。ファッション誌を含む主な40誌について調査した。 雑誌の広告は、広告ページ数×1ページ当たりの広告単価で決まる。そこで入手できる最新号について広告ページをカウント、広告代理店向けの雑誌媒体資料に記載された広告単価を参考に、1号当たりの広告収入を推計した。 その結果、1位はエビちゃん効果で絶好調の『CanCam』で約3億円。100ページ以上の広告ページが入っていた。ちなみに『CanCam』の発売部数は約64万9000部(日本ABC協会調べ)。とすると1冊当たりの広告価値は500円ほど。 女性誌以外では男性ファッション誌『LEON』がトップで約1.7億円だった。『CanCam』と同様に1冊当たりの広告価値を計算すると、部数は約7万4000部(日本ABC協会調べ)なので、2300円ほどになる。 ファッション誌以外では総合誌『文藝春秋』が約1.1億円、『PEN』『BRUTUS』といったカルチャー雑誌も約8000万円と広告収入は多い。 一方、雑誌は広告以外に販売収入もある。小学館が1年に『CanCam』から得る収入を概算してみよう。広告収入は3億円×12冊=36億円。広告代理店の手数料1割を引くと約32億円。販売収入は1冊620円×65万部×12冊=約48億円。書店や取次の取り分が引かれて、出版社に入るのは6割強程度なので約28億円。合計で60億円と見積もれる。 ただし、ここで計算したのは、広告が定価で売れたときの数字。実態は割り引きも少なくない。】
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この記事によると、『CanCam』にカラー1ページの広告を出すと、広告料は240万円になるのだそうです。見開きだと500万円近く。ちなみに、僕がよく読んでいる雑誌では、『モノ・マガジン』(月刊誌)がカラー1ページ140万円で、1号あたりの広告収入が約4300万円、『週刊ファミ通』は、カラー1ページが110万円で1号あたりの広告収入が約3100万円でした。 『日経エンタテインメント』に掲載されている「雑誌広告収入リスト」を眺めていると、広告収入の額というのは『LEON』の例でもわかるように、かならずしも発行部数に比例しているというものではないようです『CanCam』や『LEON』のように、読者の多くが「カタログ的に利用している雑誌」は、当然、宣伝効率が高くなるはずですしね。しかし、僕は『文藝春秋』を買うたびに広告の多さ、それも「記事のようにしか見えない広告」の多さに驚かされるのですが、あの分厚い雑誌にも、それなりに「宣伝効果」があるんでしょうかねえ(ちなみにカラー1ページあたりの広告料は168万円)。『週刊ファミ通』なんていうのは、雑誌を買う人と広告されているゲーム関連商品を買う人が合致している雑誌ですから、広告媒体としてはものすごく効率良さそうだな、という気はするのですけど。 しかし、『LEON』の「1冊あたりの広告価値が2300円」というのは凄い。それだけ広告価値があると判断されているというのは、ある意味、読者がものすごく掲載されている品物を買っている、ということなのでしょう。いっそのことタダで配ったほうがいいんじゃないかとすら思いますが、流通の問題もあるだろうし、「『LEON』を買っている男」というのがステータスだと考えている人も多いのでしょうから、なかなかそうもいかないのでしょうね。 それにしても、これだけのお金を払ってもらっていれば、雑誌では広告主の悪口なんて絶対に書けないだろうなあ、と思います。あんなに売れている『CanCam』でさえ収入の半分は広告収入ですし、『LEON』では広告収入のほうが圧倒的優位に立っているのです。「読者を大事に」って言ってはいるけれど、「読者がいないと広告取れないからなあ」というのが本音なのかもしれません。そして、「雑誌の広告を見てお金を使ってくれる読者」こそ、雑誌の生命線なのです。 『ファミ通』のクロスレビューで、大広告主の新作ゲームに低い点数をつけられないのも、企業の立場からすれば、いたしかたないところではあるのですよね。
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2007年02月19日(月) ■ |
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「ティッシュペーパーを歩いてると貰える国」の不思議 |
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『むかつく二人』(三谷幸喜、清水ミチコ著・幻冬舎)より。
(三谷さんと清水さんのラジオ番組『DoCoMo MAKING SENSE(J-WAVE)』の2005年4月〜11月放送分を書籍化したものの一部です)
【清水ミチコ:じゃ、あれは? 街角でティッシュを配ってますが、一切貰わない人?
三谷幸喜:僕は自信持って言えるんですけど、くれないんですよ。昔からそうだったんですけども。ティッシュを貰えないタイプなんですよ。
清水:ああいうのは貰ってもいいんだ。
三谷:アレルギー体質だし、ハナも出るので欲しいですね。だけども、僕の前の人には渡すけども僕は素通りして後ろの人に渡したりするんですよね。なんでなんだろう。
清水:なんでだろう。
三谷:だから、くれるまで何度も何度もその前を通ったことありますよ。学生の頃。タイミングだと思うんですよね。ちょうど前の人に渡して、で、次のティッシュを手に取ろうとした矢先に僕が通り過ぎるんで。あと自分に欲しい光線が出てるから、ちょっと意地悪心が出るんじゃないですか? あの人たち。
清水:ピーンとくんのかなあ。あ、こいつ欲しがってる。でも、あのバイトした友達知ってるんですけど。意外と貰わないのにも腹立ってくるって言ってましたね。ティッシュなんだから貰えよと思うんだって、配るほうとしては。私それを聞いたらもう、すっごい貰うようになったもん。
三谷:早く配り終えたいと思ってる人からも貰えないっていうのは、悔しいですけどね。
清水:昔ね、海外の人に言われたんですけど。日本というのは、ティッシュペーパーを歩いてると貰える国っていうのは本当なのかって。しかもティッシュペーパーをいらないっていう人もいるってのは本当か? って聞かれたことあったの。
三谷:ティッシュは買うものなのにと?
清水:それを無料で貰えるというのにまず驚いて、しかも断る人がすごくたくさんいるというのにまたびっくりしたんだって。
三谷:言われてみればそうですね。】
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ちなみに、この項の「ついでの話」として、三谷さんはこんなエピソードを紹介されています。 【ポケットティッシュを開発したのは日本人。明星産商の森宏社長が、昭和48年に広告宣伝用のマッチ箱から広告宣伝用の携帯用ティッシュを考案し、銀行などで「粗品」として採用されたのがきっかけで全国に広まった。いかにティッシュを折りたたんでいくかが開発の一番大きな課題だったという。】 僕もティッシュを目の前に差し出されると「受け取ったら負けだ」と無視して通り過ぎようと努力することが多いのですが、考えてみれば、別にティッシュくらい受け取ってもどうってことないというか、頑なに拒否するほど嫌なことをされているわけでもないんですよね。全く何も持たずに歩いているような状況でなければ「邪魔だ!」っていうほどかさばるようなものでもないし、「ティッシュが欲しいなあ……」という緊急事態ってたまにありますしね。そして、ティッシュやチラシを配っている人の近くを通るときって、かなり緊張して「僕の目の前に差し出すなよ……」と拒絶のオーラを全身にみなぎらせているのにもかかわらず、前後の人の前にだけ差し出されて自分がスルーされたりするのもちょっと寂しいものなんですよね。それがファッション系の宣伝だったりしたら「僕はきっとオシャレに興味がないオタクだと思われているんだろうな……」とか落ち込んでしまったり。
それにしても、ああいうチラシ配りのバイトというのもけっこう大変ですよね。彼らだって自分が通行者だったら受け取らないかもしれないけれど、通行人にひたすら拒否されながらもノルマをこなすためにチラシやティッシュを差し出し続けなければならないのだから。それも、ティッシュでもついていれば「貰えよ!」という気分になれるかもしれませんが、普通のチラシだったらさぞかし辛いだろうなあ。僕は小さなことでも他人に拒絶されるのが怖いので、あのバイトをやったら、「ううっ、僕がジャニーズ系の美男子だったら、みんな貰ってくれるのに……」とか考えてしまいそうです。 そんなに効果がありそうにも思えないのですが、ああいう宣伝方式がみんなに拒否されまくりながら無くならないのは、結局のところ、それなりに対費用効果があるということなのでしょうね。 言われてみれば確かに「歩いているとタダでティッシュが貰える国」の存在を信じられない外国の人はけっこう多そうです。しかも、通行人はそれを拒否したり、場合によっては配っている人を睨みつけたりするわけだから。日本というのは、そういう意味では、まだまだ、多くの日本人が考えているよりも、ずっと「豊かな国」かのかもしれません。
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2007年02月17日(土) ■ |
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荒木飛呂彦先生の「悪役」への奇妙な愛情 |
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「週刊SPA!2007/1/23号」(扶桑社)の「トーキングエクスプロージョン〜エッジな人々・第471回」漫画家・荒木飛呂彦さんのインタビュー記事です。取材・文は伊熊恒介さん。
(荒木先生の「悪役」の描きかたについて)
【インタビュアー:ディオは悪役中の悪役。ストイックなまでの悪役ですね。
荒木:悪いヤツは最後まで悪を貫いてほしいんです。急に改心して「悪いことをしたな……」なんて思いながら死んでいってほしくない。
インタビュアー:潔さの美学。
荒木:少年マンガなので読者が悪役に味方してほしくはないんですけど、ヤツらなりに一生懸命生きているんだってことを伝えたい。それが『ジョジョ』の作品テーマである人間賛歌にもつながる。だから中途半端には描きません。残酷な描写もやるときはやります。作者としては、それが愛情なんです。
インタビュー:戦いを描くうえでの美学、ルールみたいなものもあるんですよね。
荒木:決して根性だけで勝利しないということですね。例えば、主人公は窮地に追い込まれたときに、友達のことを考えると急に力が出るとか、そういうのは安直な気がして嫌なんです。そんなに甘いもんじゃない。】
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この『SPA!』の記事には荒木先生の写真も載っているのですが、1960年生まれということは、もう40代半ばのはずなのに、なんだかものすごく若々しくて驚いてしまいました。御本人は「あまりにそう周囲から言われるので『実は波紋戦士なんです』と答えるようにしている」そうなのですけど。
僕が『ジョジョ』をいちばん熱心に読んでいたのは高校〜大学くらいのときで、そのときは第2部〜第3部、ジョセフ・ジョースター〜空条承太郎が主人公の時期でした。第3部のクライマックスで、時間を止められるというDIOの最強のスタンド、「ザ・ワールド」を空条承太郎たちがどう攻略するのか、毎週ドキドキしながら読んでいたのを思い出します。そして、確かにその場面を読みながら、僕は、この上なく悪いヤツであるはずのDIOに、かなり魅かれてもいたんですよね。なんて酷いヤツなんだ、でも、なんかちょっとカッコいいよな、認めたくないけど……という感じ。
この荒木先生のインタビューを読んでいると、実は、荒木先生自身も「悪役」を描くほうが好きなんじゃないかなあ、という気がしてきます。これって、敵がどんどん改心して味方になっていく『キン肉マン』とかの「典型的な『週刊少年ジャンプ』のヒーローマンガ」への痛烈な皮肉のようにも思えるのですが、確かに、『ジョジョ』の悪役のほとんどは、自らの「悪の美学」に殉じて退場していきます。DIOなんて、何度出てきても絶対に「改心」しないですしねえ。他のジャンプ作品なら、DIOが改心して仲間になって、もっと強い敵が出てくるというのが「王道」のはずなのに。 でも、確かにそう簡単に「改心」するのは、現実社会においても、たいした「悪役」じゃないよなあ。
あと、「決して根性だけで勝利しない」というのも、思い返してみればそうなんですよね。多くのマンガは「友情」や「根性」で主人公に隠されていた力が発揮され、「奇跡の大逆転」を起こすのですが、『ジョジョ』は、どんな勝負においても、「なぜ勝てたのか?」ということに、(多少強引な場合もあるにせよ)「合理的な」説明が加えられています。「正しいから」勝つのではなく、「相手より技術的に上回っているから」「相手の弱点を見破ることができたから」勝つのが『ジョジョ』のルール。「友情パワー」で解決してしまえばラクなはずなのに、荒木先生は頑なにそれを拒み続けているのです。というか、むしろ、その「説明」を考えるのが楽しみでしょうがないように見えるときすらあるのですよね。
僕の学生時代、『週刊少年ジャンプ』のなかで、『ジョジョの奇妙な冒険』はかなり異質なマンガだという印象がありました。僕はその「違和感」の理由を絵や世界設定によるものだと長年思い込んでいたのですけど、本当に「奇妙」だったのは、そんな「目に見える部分」だけではなかったようです。
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2007年02月15日(木) ■ |
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「お金を出して本を読む人たち」を笑うな! |
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『たぶん最後の御挨拶』(東野圭吾著・文藝春秋)より。
(2002年の「年譜」の一部です)
【わからないといえば出版界の先行きだ。本当にもう本の売れない時代になった。不況の影響はもちろんあるだろう。書籍代というのは、真っ先に倹約するのが可能なものだからだ。図書館に行けば、ベストセラーだって無料で貸してくれる。レンタル業なんかも登場しつつある。どういう形にせよ、読書という文化が続いてくれればいいとは思う。しかし問題なのは、本を作り続けられるかどうか、ということだ。本を作るには費用がかかる。その費用を負担しているのは誰か。国は一銭も出してくれない。ではその金はどこから生み出されるか。じつはその費用を出しているのは、読者にほかならない。本を買うために読者が金を払う。その金を元に、出版社は新たな本を作るのだ。「読書のためにお金を出して本を買う」人がいなくなれば、新たな本はもう作られない。作家だって生活してはいけない。図書館利用者が何万人増えようが、レンタルで何千冊借りられようが、出版社にも作家にも全く利益はないのだ。だから私は「本を買ってくれる人」に対して、これからもその代価に見合った楽しみを提供するために作品を書く。もちろん、生活にゆとりがないから図書館で借りて読む、という人も多いだろう。その方々を非難する気は全くない。どうか公共の施設を利用して読書を楽しんでください。ただし、「お金を出して本を読む人たち」に対する感謝の気持ちを忘れないでください。なぜならその人たちがいなければ、本は作られないからです。】
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この文章は、「作家」として生計を立てている東野さんの心の叫びだなのだろうな、と僕には感じられました。 レンタルでも著作者に利益の一部が還元されるようなシステムができあがっているCDやDVD業界に比べて、本の場合、レンタルや中古書店でいくら多くの人に読まれても、著者にはほとんど見返りがないというシステムになっています。厳密に言えば、図書館やレンタルショップに購入してもらえるのですから、「出版社や作家に全く利益がない」というわけではないと思うのですが。それでも、出版業界というのは長い間「新刊書店で読者が定価で買ってくれること」を前提に成り立ってきていますから、この先「本を図書館で借りたり、ブックオフで中古を安く買う人」が多数を占めるようになっていけば、出版業界そのものが先細りになってしまうのはまちがいありません。
今から15年前くらいのパソコンのゲームソフト業界がまさにそういう時代で、僕が当時使っていたX68000というパソコンは高機能とゲームの作りやすさで評判だったのに、多くのユーザーが「市販のゲームは高いから」という理由でゲームソフトを買わずにコピーばかりするようになってから、一挙に衰退していきました。当時の多くのユーザーは、「同じ内容ならば、パッケージや説明書がなくても安いコピーのほうにする」という選択をしたのですが、クリエイター側からすれば、「どんなに一生懸命面白いゲームを作っても、みんなコピーばかりでお金を出して買ってくれないので全然儲からない」という状況になってしまったのです。それじゃあ、クリエイターがやる気を無くしてしまうし、「商売にならない」のは当たり前ですよね。 現在のパソコンソフトだって、結局のところ「高いパッケージソフトを買うなんて勿体無い」という人がたくさんいて、みんながコピーしてしまうからこそ、「正規品を買う人」に過剰な負担がかかるような高額商品になってしまうわけで。もしみんなが正規品を買って、ソフトメーカーが良心的な商売をしてくれれば、もっと安くなるはずなのに。
僕は「本道楽」の人間なので、かなりのお金を本に毎月費やしていますが、多くの人は「もっと他にお金の使いみちがある」し、「図書館やブックオフを効率的に利用するほうが賢い」と考えているようです。でも、そういう「賢さ」というのは、必ずしも出版業界や作家を幸せにはしないし、出版業界そのものを先細りにしてしまう危険を秘めています。現在は「『本』という媒体を所有すること」への読書マニアたちのこだわりだけが、出版業界を支えている時代なのです。
僕は「賢い読書家」ではなくて、本を買うことによるお金と空間の欠乏に日々悩まされているのですが、それでも、できるかぎり好きな本にはお金を出そうと思っています。誰も感謝してくれなくていいけれど、これからも、面白い本をたくさん読みたいので。
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2007年02月14日(水) ■ |
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「ジャンケンが強いという人とつき合え」と言われた女 |
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『月刊CIRCUS・2007年3月号』(KKベストセラーズ)の対談記事「NANNO PRESENTS 秋元康×南野陽子・第1回」より。
(南野陽子さんと秋元康さんの対談の一部です)
【南野:自分は最近、感動が足りないのかな。
秋元:そうなの?
南野:ん…感動しても素直にそれを表に出せていない…。
秋元:必要なのは好奇心だよ。僕は放送作家をやり始めた17歳の気持ちのままだから。例えば、5つの箱があるとするでしょう?ナンノは自分の好きな柄や形の箱があったら「その2つだけ見たーい」で、あとは見なくても平気な人なんだよね。「だって、私好きじゃないもん、このカタチ」とか言って。でも、僕は全部開けてみたい。そこが違うよね。ナンノは人づき合いも「あ、この人なんかイヤ」ってシャットアウトするでしょう?
南野:以前、「ジャンケンが強いという人とつき合え」って言われたから、男の人と会うと「ねぇ、ジャンケン強い?」って聞くのよ。
秋元:みんな強いって言う?
南野:半々。強いという人も多いけれど…これ、難しい。
秋元:ジャンケンは必勝法がないからね。「5回勝ったら勝ち」というルールで相手に4勝されても、「俺はジャンケンが強い」と思う人はへこたれない。でも、自分が弱いと思っているヤツは、相手に2勝されただけで、「勝てないな」と思っちゃう。投げちゃうか、最後まで諦めないで自分は強いから逆転できると思っているから。
南野:でも、ジャンケンは確率の問題でしょう? 強いって言い切れる人は、仕事や女のコのことを、ポーンと飛び越える力はあるんだろうけど、何の根拠もないことに自信を持たれてもねえ…。そこについていくのは、ちょっと怖いわ。
秋元:じゃあ、例えばダンナの会社が倒産しました。「大丈夫だよ、俺がお前と子供たちぐらい食わせていけるよ」と言ったところで、その言葉に根拠はないでしょう? 「俺、ジャンケン弱いし、会社も倒産したし…」なんて後ろ向きの人は頼りないよね。だから根拠がない方がいいんだって。
南野:そういう人じゃないと上に行けないことは分かるんだけど、ギャンブラー気質っていうか、バクチ打ちの怖さっていうか、そういうのは感じる……
秋元:いいんだよ、それで。その人を信じた。けど、ダメだった。それでいいんだよ。ところで、今は男選びも慎重なの?
南野:慎重っていうより、ちょっと休憩。
秋元:まあ、ナンノはしばらく結婚しないね。今年もないだろうね。】
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南野陽子さんは、現在30代半ばである僕の高校時代のアイドルだったのですが、そういえば最近またいろんなところでお見かけするようになったような気がします。きっと、僕の世代の人たちがメディアで少しずつ発言力を増してきたからなのでしょうね。 秋元康さんといえば、「おニャン子クラブ」で一世を風靡した放送作家なのですが、僕にとってはずっと「なんとなくいけ好かない人」ではあったのです。そんなにカッコいい男というわけでもないのに、なんかやたらと偉そうで自信たっぷりだし、高井麻巳子と結婚したし! しかし、こうして秋元さんの話をあらためて読んでみると、自信がなくて弱気になりがちな僕にとっては、この人に学ぶべきところも多いかな、という気もしてきました。 僕は、この2人の人生観でいえば、圧倒的に「南野さん的」で、「5つの箱」の話にしても、極端な話、自分に興味がある箱がそこになければ1つも開けなくていいとすら思ってしまいますし、「相性が悪そうな人」には、なるべく接しないようにしてしまうのです。ジャンケンにしても、「あんなの確率なんだから、強いも弱いも無いだろ」と思っています。 でも、秋元さんの話を読むと、ジャンケンの強弱というのは、「グー、チョキ、パーのどれを出すか」以外のところにもあるのかもしれません。 弱気になっているとき、自信のないときって、確かに「5回先に勝ったほうが勝ち」というルールであっても、最初に2回続けて負けただけで、「ああ、この勝負、もう負けだ……」という気持ちになってしまいがちですよね。実際は、「相手だって、2回続けて負けることだってある」はずなのに。そして、ジャンケンの5回勝負ではそんなことはないかもしれませんが、僕は人生での勝負どころで、「まだ2回しか負けていない」にもかかわらず、「もうダメだ……」と勝負を投げてしまったことって、けっして少なくなかったような気がしてなりません。1回1回のジャンケンの勝ち負け以前に、途中で勝負を諦めて負けを認めてしまうような人間が「勝負に弱い」「負ける可能性が高くなる」のは当然です。確率的には五分五分の勝負でも、途中で降りてしまう可能性があるならば、その分勝てる可能性は低くなるのです。「自信」というのは、それだけでひとつの武器なんですよね、きっと。弱気なギャンブラーって、聞いたことないし。 「負けを認められなかった」ばかりに、取り返しのつかない深手を負ってしまうことだってあるわけで、小市民の僕としては、「そんな勝負そのものを避ける」というのもひとつの生き方ではあるのですけど、それはそれでちょっと寂しい気もするのですよね。
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2007年02月13日(火) ■ |
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芥川賞・直木賞を辞退した作家の「辞退理由」 |
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『文藝春秋』2007年3月号(文藝春秋)の記事「芥川賞10大事件の真相」(湯川豊著)より。
【芥川賞直木賞の長い歴史のなかで、戦前・戦中のことではあるが、賞の辞退者が1人ずついた。 第11回芥川賞(昭和15年上期)は高木卓の「歌と門の盾」が受賞作に決定したが、高木は「2日考えた末」辞退した。高木卓(本名・安藤煕(ひろし))は一高のドイツ語の教授、「歌と門の盾」は大伴家持を主人公にした歴史小説だった。 菊池寛はこの受賞辞退について、「話の屑籠」(同年9月号「文藝春秋」)で怒りを書きつらねた。いわく、 「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るやうなら、初めから発表しない方がいいと思ふ」 文壇の大御所といわれた人らしい発言だが、高木の辞退理由もなんだか歯切れが悪かったのも事実である。 辞退理由の真相らしきものは、意外にも次の第12回芥川賞を「平賀源内」で受賞した、櫻田常久の「感想」(受賞のことば)で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の「かい露の章」が同じ11回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田が受賞できると考えたようである。「かい露の章」は最終候補作に残っていなかったのだから、ちょっと痛ましい誤認だった。 直木賞のほうは、第17回(昭和18年上期)、「日本婦道記」の山本周五郎の受賞辞退である。山本は「辞退のこと」という一文を寄せて、いった。 「……自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰ひました。この賞の目的はなにも知りませんけれども、もつと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、さういふ気持がします」 山本は戦後、すでに大家といわれるようになってからも、毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞を辞退している。生涯無冠、反骨の作家であることを貫いた。
(中略)
ここからは戦後の話になる。昭和20年から23年の空白の後、芥川直木両賞は24年第21回から再開された。 第28回(昭和27年下期)の芥川賞は、五味康祐「喪神」と松本清張「或る『小倉日記』伝」の2作だった。2作とも直木賞系の色あいがあるし、五味、松本のその後の作風から考えても、小さからぬ驚きがある。実際、この受賞をめぐって、芥川賞と直木賞の境界についてさまざまな議論が起った。 「或る『小倉日記』伝」じゃ、当初直木賞の候補作だった。前回から直木賞の選考委員になっていた永井龍男が、選考会の席上で「これは芥川賞候補に回したらどうか」と提案し、会の諒解とともに芥川賞候補になった。当時は両賞の選考会が別の日に開かれていたので、こんなことができたのである。 松本清張がのちに書いたエッセイ「賞と運」によれば、事前に直木賞候補になった通知を受けていた。北九州小倉に在住していた松本は、1月21日の夜、ラジオを聴いて、直木賞は立野信之「叛乱」が受賞と知った。2日後、夜遅く帰宅すると、朝日新聞の記者が待っていて、芥川賞の受賞を知らせた。松本は、自分は直木賞の候補だったはず、と腑に落ちない。そこで友人の名前をかたって毎日新聞の小倉支局に電話してみた。以下は「賞と運」から引用。 「『たしかにその方が芥川賞になられました。あなたは受賞者のお友だちだそうだが、おめでとうございます』 と電話で祝福を云われた。そこで初めて本当だと納得したのだが、さすがにその晩は昂奮した。1月23日の夜遅く子供を連れて、冬の満天の星が冴える下を昂る気持ちで歩いたのを憶えている」(記録によれば、直木賞が決定したのは1月19日、芥川賞は1月22日だが、いまは松本の文章のままとしておく)】
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芥川賞・直木賞をめぐるさまざまなエピソードが集められている文章の一部。受賞決定後の辞退者というのは、戦前に芥川賞が1人、戦中に直木賞が1人しかいないそうです。そんなに少ないのか!という感じなのですが、その「たった1人」の辞退理由というのは、けっこう気になりますよね。ちなみに現在は、「最終候補作品とすることに各作家から諒解を得ている」そうなので、まず受賞辞退は起こらないようです。落選した際の選考結果を読んで「こんな賞は今後もう要らない!」と決別宣言してしまった横山秀夫さんのような例もあるのですけど。 山本周五郎さんに関しては、「今さら俺(のような地位の定まった作家)に直木賞じゃないだろ!」ということで辞退された、あるいは、そういう賞を嫌う反骨の士であった、ということなのだと思います。現在、「山本周五郎賞」というかなり権威のある文学賞に名前が冠されているというのは、ちょっと皮肉な感じではありますが。 しかしながら、高木卓さんの話は、なんだか読んでいてめぐりあわせの悪さというか、人生の悲哀が伝わってくるようなエピソードでした。同人誌の先輩に賞を譲るために芥川賞を辞退してしまったと言われている高木さんは、当然のことながら、その後芥川賞に縁がありませんでした。今の時代の僕からすれば、そうやって「譲った」ところでそんなに都合よく先輩にお鉢が回るなんてことはないだろうと思うのですけど、たぶん当時は、「文壇」という世界が狭くて、そういうことが起こりうると信じられていた時代なのでしょうね。もちろんこれも「真相」が高木さんの口から語られたわけではないので本当のところは藪の中なのですが、芥川賞そのものだけではなくて、菊池寛さんらに悪い印象を持たれてしまったのは、その後の作家活動において、かなりのマイナスではあったでしょう。 その一方で、「後輩に譲られた」側の櫻田常久さんは、その次の回であっさりと自力で芥川賞受賞者に名を連ねることになりました。もちろん櫻田さんは辞退などしていません。そのとき高木さんは、「やっと安心できた」のでしょうか、それとも「こんなことなら、前回は自分が貰っておけばよかった」と思ったのでしょうか?
もうひとつの第28回の芥川賞の話ですけど、松本清張さんといえば、日本の社会派推理小説の草分け的な存在であり、むしろエンターテインメント系のような気がするのですが、実は芥川賞の受賞者だったという話にはちょっと驚きました。貰っているのなら直木賞のほうだろう、という感じなのに。 ただ、これを読んで「芥川賞と直木賞の境界線への疑問」というのは、最近言われ始めたことではなくて、ずいぶん前からあったのだな、ということはよくわかりました。現在では芥川賞・直木賞の選考会は同時に開催されているので、「直木賞の選考会で、芥川賞候補に回すことが決められる」なんてことはありないのですが、今でも「この作品は芥川賞候補になっているけど、作家のキャリアや内容的には、直木賞っぽいけどなあ」って思うことはけっこうありますよね。結局のところ、そういう「曖昧さ」も含めて、芥川賞・直木賞というのは、日本の文壇の権威であり続けているのです。
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2007年02月11日(日) ■ |
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「熱く議論を主導するリーダー的な人」の現実 |
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『逃亡日記』(吾妻ひでお著・日本文芸社)より。
(吾妻ひでおさんが自らのアシスタント時代を振り返って)
【インタビュアー:一般の認識だとその時代というのは、劇画の大ブームの中で手塚先生が対抗して『COM』の運動ができたみたいに思われてますけど、その辺の劇画と漫画の関係性はどうなんですか?
吾妻ひでお:ああ、劇画派、漫画派っていうのはあったね。明確に。
インタビュアー:吾妻さんはもちろん……。
吾妻:オレは漫画派で。劇画やっているやつは頭悪いって思ってた(笑)。
インタビュアー:佐藤プロに行った人は劇画派ですよね。
吾妻:彼は桑田次郎さん風の絵柄だけど、他のマシンガンを描いてるほうね(笑)。そういう絵を描いているやつは頭悪いって。 殺し屋ばっかり出てきて拳銃の撃ち合いして、眉毛異常に太いし。知能低いと思ってた(笑)。 当時は喫茶店のモーニングサービスに間に合うように行って、パンと卵を食べて、漫画論を戦わすんだよね。朝からもう大声張り上げて、「お前違うだろ」って、しらふで言い合っていた。
インタビュアー:そういう時は、吾妻さんは議論を主導するほうだったんですか?
吾妻:主導はやっぱりリーダー的なやつがいてそいつが。でも主導はしないけど、オレも熱く語ってた。黙って聞いていたのは松久。あいつは醒めてて不言実行の男だから。
インタビュアー:そういうところでリーダー的な人って、作品を残すことはあまりないですよね。
吾妻:そうなんだよね。議論ばっかで、頭でっかちになって描けなくなっちゃうんだよね。そいつからの漫画の構想はいっぱい聞いたけど、描いたのは1本しか読んだことない。 それで喫茶店でさんざん激論交わしたあと、みんなアパートに帰って自分の漫画描くのかと思うと、だれ一人1ページも描いてない、てか描けない。大言壮語しすぎて自分の現実との違いにふと気づくと落ち込んで寝ちゃう。それでも翌日はまた同じことを繰り返す(笑)。】
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これを読んで僕が考えさせられたのは、本当に当たり前のことなんですけど、「作品についての議論の場でリーダーになるような人が、創作者として優れているというわけではないのだな」ということでした。ここにも書かれているのですが、結局大部分の「頭でっかちの理論家」というのは、自分の理想と自分が書ける作品のあまりのギャップの大きさに負けてしまって、壮大な構想を形にできないまま、年ばかり重ねてしまいがちなのです。逆に考えれば、議論の場で立派な発言をすることができなくても、「とにかく実際に作品を形にできる人間」のほうが最後には生き残るということなんですよね。 吾妻さんによると、当時のアシスタント仲間のなかで漫画家としてそれなりに成功したのは、吾妻さんと「黙って聞いていた」松久さんだけだったそうですし。 それにしても、「頭悪そう」とさんざんバカにしていた「殺し屋ばっかり出てきて拳銃の撃ち合いして、眉毛異常に太いし」というマンガがこんなに長い間続いているとは、当時の吾妻さんは夢にも思わなかったでしょうね。
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2007年02月09日(金) ■ |
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角川春樹が語る、映画『蒼き狼』の製作費30億円の内訳 |
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「日経エンタテインメント!2007.3月号」(日経BP社)の記事「映画プロデューサーに聞く〜角川春樹さん、『蒼き狼』の製作費30億円は何に使ったの?」より。
(2007年3月3日公開の映画『蒼き狼』の製作費30億円の使い道についての角川春樹プロデューサーへのインタビューの一部)
【角川春樹:いちばんかかっているのは4ヶ月のモンゴルロケの費用ですよ。スタッフ、キャストだけで300人はいますから、その宿泊代が大きい。撮影時期は夏だったんで、観光シーズンにぶつかってね。ホテル、飛行機代も含めて高くついた。
役者はみんな同じホテルに泊めて、スタッフはまた別のホテルに泊めた。それぞれの部屋の値段は違うんで一概にはいえないけれど、仮に1人1万円で計算したとしたら、300人が4ヶ月泊まると、単純に3億6000万円くらいかかる計算になる。でもおそらくそれ以上はかかったはず。半月で1億円は超えてたから。 それでもオールロケにこだわった理由は2つある。1つは画面の質感を統一すること。もし日本で撮影したら、湿気の違いなどで画面の質感が変わってしまうんだよ。 もう1つはリハーサルが十分にできること。だから非常に団結心も強くなる。毎日食事の後は、俺の部屋に俳優を集めて、台本読みをした。そうすることで、役への理解度も深くなる。 あとは馬を相当買い集めましたね。日本だとレンタルで1日最低10万円はかかるけど、モンゴルでは馬は買い取りで1頭当たり10万円くらい。でも売るときは3分の1くらいにしかならない。5000頭は撮影で使ったから、5億円くらいは馬で使ったかな。
インタビュアー:映画の中で圧巻なのは、チンギス・ハーンの即位式を描いたクライマックスシーン。大平原に2万7千人のエキストラを集め、総額1億円をかけて実物大のスケールを再現した。
角川:この即位式を撮るには3日間かけているからね。500騎の軍隊、300人のエキストラなどは、3日間現場にいるわけだけれども、即位式の撮影で使った1億円はそれとは別。撮影で2万7千人の群集を集めたのが1日で、そこに1億円かけたわけだ。これは取材陣用のチャーター、宿泊費も含めてだけれども。協力してくれたモンゴル軍にかかる費用や食事代などもかかる。それに2万7000人を輸送するだけで4時間以上はかかるから。だから450台のバスをチャーターした。 あと今回は衣裳だけでも1億円以上はかかっている。ウランバートルの人口で把握できるのは大体70万人なんだけども、そのうちの単純に20万人以上の人が衣装作りに参加したんだから。 CG全盛の時代に、なぜ実物にこだわるかというと、観客の目が肥えているからなんだよ。CGってうそっぽい感じがあるからね。奥行きがものすごく重要。 ほかのプロデューサーと俺との差は、シナリオが書けて、演出ができるかどうかだね。例えば役者からこうしてもらえないかと言われたら、バーッとシナリオを変える。そして監督やスタッフとミーティング。そうするとお金をかけるべきシーンと絞るべきシーンが分かるから、お金のかけ方も変わるということだよ。】
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このインタビューでの角川春樹さんの話を読んでいると、「お金を絞るべきシーン」なんて意識が本当にあるのだろうか?と疑問にもなってくるのです。なんだかもう、湯水のように撮影費を使うことそのものが角川さんの趣味なのではないかと思えてきます。僕はモンゴルの物価に関する知識はほとんど無いのですが、ホテル代も結構高いし、馬代もぼったくられているのでは……という気もします。「馬は買い取りで1頭当たり10万円で、売るときは3分の1」なんて、交渉次第でもうちょっと安く上がるのでは…… もっとも、ハリウッドスターの場合、1作の出演料が20億円とか30億円というのも珍しくないようなので、役者ではなく見せ場のシーンや小道具にお金をきちんとかけるというのも、ひとつの「戦略」ではあるのでしょうけど。 それにしても、この角川春樹さんの「偏ったこだわり」に、僕は正直驚いてしまいました。
実は、僕は昨日映画館でこの『蒼き狼』の予告編を観たのですが、危うく飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになってしまったのです。チンギス・ハーンを演じているのは反町隆史さんなのですが、この映画では、チンギス・ハーンやその郎党たちを演じる日本人の役者たちが普通に日本語で喋り、合戦シーンは日本の戦国時代の戦いそのもの。いや、ハリウッド映画ではアレキサンダー大王だって英語で喋るのですから、これはもう映画界の「お約束」なのかもしれませんが、テレビのスペシャルドラマならともかく、30億円もの巨費を投じた日本映画でここまで徹底的に「ローカライズ」された作品というのは前代未聞なのではないでしょうか。『GTO』がチンギス・ハーンというのも違和感があるし、予告編の印象では、スケールが大きいだけのNHKの「大河ドラマ」みたいなんですよ本当に。自分たちの英雄が日本語で喋って、日本の戦国武将のような言動をしているのを観て、モンゴルの人たちは悲しくないのかなあ。これだけ人や馬に巨額のお金をかけているわりには、時代考証とか設定のリアリティに対するこだわりは、あんまり無いみたいなのですよね。まあ、エンターテインメントとはそういうものだ、と言われれば、返す言葉もありませんが……
製作費53億円と小室哲哉さんの個性的な主題歌で話題になった『天と地と』という角川さんの作品も、興行収入100億円を叩き出して、最終的には黒字になったそうですから、角川春樹さんはちゃんと「お金は使っても、その分の結果は出している(ことが多い)」のですけどね。確かに、『蒼き狼』も、ちょっと観てみたい気もするものなあ。もちろんネタとしてだけど……
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2007年02月08日(木) ■ |
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「夢を与える」 |
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『文藝』2007年春号(河出書房新社)の「【対談】高橋源一郎×綿矢りさ」より。
(綿矢りささんの最新作『夢を与える』についての、綿矢さんと高橋源一郎さんとの対談記事「21世紀版・日本の『感情教育』―『夢を与える』をめぐる5つの質問」の一部です)
【高橋:これはテーマにも関係してくるんだけど、『夢を与える』というタイトルは最初から決まっていたの?
綿矢:そうですね。変えることも考えはしましたけども、ラストが決まったときに「これしかないな」と思って。
(中略)
高橋:さっきの質問に戻るけど、『夢を与える』というこのタイトルはなぜ?
綿矢:この言葉が本当にきらいなんですよ(笑)。だから使ってみようかなと思って。
高橋:なるほど。これは誰が誰に「夢を与える」んでしょうかね。授業ではいろんな説が出たんです。 まず最初に考えられるのは、テレビ局等が夕子を通して一般の人に夢を与えるということ。つまり主体はテレビ局、与えられるのは一般の人、視聴者です。それで夕子は媒介。それからテレビ局じゃなくて世間というものが夕子を媒介にして人々に夢を与えるという説もありました。他には、夕子がお母さんに夢を与えているという説もあります。
綿矢:なるほど。
高橋:あとは、さらに解釈すると、夢を与えるはここではテレビタレントということになっているんですけれども、小説もそうではないかと。だとすると小説家が読者に夢を与えるということがこの小説の裏にある。その担い手は夕子なのか綿矢りさなのか、だからそこでモデル問題になってくる。夕子がテレビ局の媒介であったように綿矢りさも媒介であるということですね。つまり小説家も夢を与える存在だとするならば、ここではネガティブに使われているから、小説家としての自己否定ということではないかと。さらにうがった見方としては、『インストール』や『蹴りたい背中』で読者に夢を与えたけれど、「その夢はもう忘れてください、もうこれからは夢を与えられません」と言ってるという説がかなり濃厚だったんです(笑)。 それで途中から夕子は綿矢さんがモデルというよりも、綿矢さんが小説の中に送り込んだ自分の分身で、いわゆるモデルとか私小説じゃなくて、要するに綿矢さんの小説のアイディアを代行してくれる存在であるのではないかという議論にもなりました。つまり夕子は夢を与える媒介なんだけれども、代行をするというその部分においては小説家あるいは小説のメタファーである。じゃあこの「夢を与える」というのはポジティブな意味かというとポジティブな意味ではないので、小説というのも実はテレビ局が与えているように幻にしかすぎない、だから近代小説が否定されているんだと。 そう言われると何となく説得力があるでしょう、作者にとっても(笑)。
綿矢:そうですね、そんなにいろんなパターンがあるとは勉強になります(笑)。もう本当に全部驚きという感じで、正直に言わせてもらうと、私はそこまでは考えてなかった。本当に、ぼんやりとこの言葉に向かい合って作った小説だから。
高橋:言葉にね。
綿矢:はい。だから私の中でもまだ答えが出てない。
(中略)
綿矢:作者としては、単純に夕子が主人公で(笑)。
高橋:あ、そう(笑)。
綿矢:もしお母さんが主人公だったら、「夢を託す」とかにします。
高橋:でもこの小説でやっぱりキーになっているのは「夢を与える」というフレーズだっていうことを綿矢さんがさっき仰って、きらいな言葉って言ったけど、じゃあこれはどこから来たの?
綿矢:これはよく聞く言葉ですね。先ほどはこういう言い方はないのではないか、っていうお話だったんですけど。
高橋:みんなさ、「夢を与える」って文章にすると偉そうじゃない、って言うんです。
綿矢:普通に「夢を与える仕事に就きたい」とかみなさんよく仰ってますよね。文章にするとさらに偉そうなんですけど、でも私はやっぱりこの言葉があまり好きではなくて。
高橋:でもさ。好きじゃない言葉をタイトルにするっていうのもすごいことだね(笑)。
綿矢:そうですね。地味かなとか思ったりしたんですけど。
高橋:全然地味じゃないよ(笑)。
綿矢:でもやっぱり昔から結構考えさせられることが多い言葉だなって。
高橋:じゃあずっと気にはなっていた?
綿矢:はい、なっていましたね。】
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今日、2月8日発売の綿矢りささんの新刊『夢を与える』についての綿矢さん自身の言葉。今の日本の小説家で、綿矢りささんほど新刊が出ることが話題になる作家は、村上春樹さんくらいのものでしょう。こんなふうに話題になるということに対して、御本人はどう考えているのか、プレッシャーはないのか(ないわけがないのですが)、というようなことを僕はつい考えてしまうのです。
この対談では、高橋源一郎さんが『夢を与える』という言葉に対して、「誰が誰に『夢を与える』のか?」と綿矢さんに尋ねているのですが、綿矢さん自身は、その「読解」に対して、やや困惑しているようにすら僕には思えました。でもまあ、今の彼女の立場からすれば、読者から主人公の夕子のモデルは綿矢さん自身であり、この作品は綿矢さんからの「もう私は夢を与えるのに疲れました」というメッセージなのではないか、というふうに読まれるのは致し方ないのかな、という気はしますよね。
誰かに「夢を与える」仕事というのは、非常に限られたものです。スポーツ選手や芸能人、あるいはサーカスのパフォーマーなど、星の数ほどある職業のなかの、ごく一部でしょう。しかも、スポーツ選手や芸能人で「子供たちに夢を与えられるような」人というのは、ごくひとにぎりの成功者だけですし、他人に「夢を与える」というような発想は傲慢な感じはします。確かに、「夢」なんて、誰かに与えられるようなものじゃない。もちろん、僕はこの言葉について、「なんとなく嫌な感じ」というくらいの印象しかなくて、こんなふうに指摘されるまでは、綿矢さんのように「嫌い」になるまで深く考えたことはなかったのですけど。 そして、綿矢さんの「子供時代から『夢を与える』という言葉は嫌いだった」という発言からは、きっと彼女も僕と同じように、「自分は他人に『夢を与えられるような』立場になることはないだろうな」と考えていたことがうかがえます。しかしながら、綿矢りさという小説家は、若い作家志望者たちにとって、まさに「夢を与える」存在になってしまっているのです。それは、彼女にとって、いったいどんな感じなのでしょうか?
それにしても、小説家というのは、ひとつの言葉に対して、ここまでいろんなことを考えるのかと本当に驚いてしまいました。僕は『夢を与える』というタイトルを聞いて、内心、「なんかパッとしないタイトルだなあ」と思っていたのに。
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2007年02月07日(水) ■ |
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「才能があるのに売れていない作家」しか愛せない編集者 |
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『妖精が舞い下りる夜』(小川洋子著・角川文庫)より。
(『シュガータイム』という作品に関する、小川さんの思い出)
【思い出の多い作品です。「マリ・クレール」に1年間連載しました。 ある日の夜中、突然面識のない編集者の方からお電話をもらいました。「完璧な病室」を読んだ。とにかく連載小説を始めよう! というのです。声は大きいし威勢がいいし、話の内容は突拍子もないし、唖然としてしまいました。デビューして1年かそこらで、まだ100枚以上のものを書いたことさえない新人に、連載小説なんてできるわけがないと、わたしは思い込んでいましたから。 けれどそんなことにはお構いなく、その方は自分がどれだけ小説というものに心を動かされてきたか、いい小説を読みたいと切望しているか、情熱的に語りました。言葉を挟む余地なんてありません。彼の頭の中には、既に「マリ・クレール」での連載の計画が明確に出来上がっていたのです。 それでも「わたしみたいな若造に、どんなものが書けるか自信がありませんし……」などと言ってぐずっていると、一段と声を大きくし、「三島由紀夫が『花ざかりの森』を書いたのは16の時だ!」と叫びました。その勢いに恐れおののき、思わずイエスと言ってしまったのです。それが安原顯(やすはら・けん)氏との出会いでした。 毎月毎月二十枚を積み重ねてゆき、一つの物語に作り上げる作業は、もちろん初めてのことですから、精神的に厳しいものでした。原稿を送ってから電話が掛かってくるまでの数日は、不安で仕方ありませんでした。でも安原さんはいつも、小説に対するそのあふれる情熱で、わたしを励まして下さいました。 勇気を出して書いてよかったと思っています。他人に左右されず、自分のやり方で書いてゆくのが、本来の作家の姿でしょうが、私の場合は自分で自分のことが何も分かっていないので、強引すぎるほどの編集者の方にぐいぐい引っ張られると、思いもよらない作品を書いてしまうのです。】
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「博士の愛した数式」「ミーナの行進」などの作品で知られる作家、小川洋子さん。この「シュガータイム」という作品は、1991年に単行本として発行されているのですが、この作品が生まれたきっかけは、編集者・安原顯さんからの1本の電話だったそうなのです。安原さんと言えば、僕にとっては、この「村上春樹自筆原稿流出事件」の一方の当事者であり、村上さんに対する加害者というイメージが強いのですが、小川さんからすれば、安原さんは、(ちょっと煩くて煙たいけれど)「自分の世界を広げてくれた恩人」なのですよね。いや、村上春樹さんが書かれた「ある編集者の生と死」においても、少なくとも村上さんが「小説を書いているバーテンダー」だった時代の安原さんは、村上さんのよき理解者であり、支援者でもあったのです。村上春樹さんにしても小川洋子さんにしても、もし彼らが駆け出しの時期に安原さんと出会っていなければ、「売れなかった」ということはなかったとしても、その成功までの道のりは、現在よく知られているものとは違っていた可能性が高いような気がします。
僕はこれを読んで、安原顯という編集者は、「素晴らしい小説を書きそうな売れていない若手作家」が大好きな人だったのだなあ、と感じました。そして、彼らを情熱的に支援するにもかかわらず、実際に自分が支援してきた作家が「売れっ子」になってしまうと、今まで応援してきたはずの人にもかかわらず、その作家に嫌悪感を抱かずにはいられなくなるのです。でも、それって結局、安原さんは、相手を嫌いになるために応援しているようなものですよね。たぶん、彼自身は、自分のそういう嫉妬めいた感情を認めたくはなかったのだろうけれど。
人というのは、ほんとうにさまざまな面を持っているものだな、と僕はこれを読んで感じました。少なくとも小川洋子さんにとっての安原顯さんは「大恩人」です。そして、「才能があってまだ売れていない作家しか愛せない編集者」というのは、文学界にとっては貴重な存在であっても、本人にとっては辛い人生だっただろうな、と僕には思えてなりません。
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2007年02月06日(火) ■ |
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世界各地でジョークの”標的”にされている日本人 |
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「週刊SPA!2007/1/23号」(扶桑社)の「SPA!RESEARCH〜海外で遭遇した『日本人差別』の実態」より。
(ベストセラーとなっている『世界の日本人ジョーク集』の著者・早坂隆さんが語る「なぜ日本人は、外国人から揶揄されてしまうのか?」というインタビュー記事です)
【これまで日本人が被った海外での差別体験を見てきたが、世界中で交わされるジョークでも日本人は諸外国より揶揄されているようにも見える……。世界50か国を訪れてジョークを集め、70万部の大ベストセラーを記録した『世界の日本人ジョーク集』(中公新書)の著者・早坂隆氏に、その実情を聞いてみた。
早坂「実は揶揄されているばかりというわけでもないんです。人種からくる行動の違いを笑いのネタにする”エスニックジョーク”では、アメリカ人=自慢好き、イギリス人=堅苦しい、ドイツ人=真面目、フランス人=女好き、ロシア人=酒好きというのが定番。日本人は金持ち、ハイテク、勤勉というイメージで、確かに笑いのネタにされていますが、同時に一定のリスペクトも受けている。例えば、いまだ根強い金持ちのイメージも、拝金主義を揶揄される一方で、経済大国としての羨望を集めてもいる。今の日本人は不景気だとボヤきますが、世界から見れば十分裕福です。餓死者が出る国すら少なくないわけだし……」
日本人がジョークのネタにされる理由はほかにもある……。
早坂「よく言われているように、和を尊び、総じて控えめな集団生活の民族性は、すぐ謝る、お辞儀をする民族としてジョークにされやすいんです。実際、とりあえず”Excuse me”から会話に入る日本人は多いですし。日本語の『すいません』の意味で使っているんでしょうが、欧米人から見れば突如として謝っているよう。しかも、個人主義の欧米では、謝ったら負けみたいな考え方もあるし、余計に奇妙に映る……。その分、民族としてキャラが立っているからネタになるんでしょう(笑)」
世界各地でジョークの”標的”にされている格好の日本人だが、
早坂「アジアの国では、ジョークのネタになるのは中国と日本くらい。でも、いわば世界からその存在を認められているということでもある。将来、日本人ジョークがなくなったとしたら、そのほうが、国としてはマズいんじゃないでしょうか」】
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まあ、ジョークのネタにされるのは、確かに「有名税」みたいなもの、なのかもしれませんね。かなり歪められたものであっても、世界中で「日本人」という民族が認知されているというのは、けっして悪いことばかりではないはずです。「ネットの某巨大掲示板で悪口を書かれまくっている芸能人」と、「某巨大掲示板で話題にさえものぼらない芸能人」とでは、どちらが成功しているかと言われれば、やっぱり前者のほうですしね。もちろん、個々の悪口に関しては、ムカついたりイヤになったりすることも多いのでしょうけど。
実際は、僕がこの早坂さんの話を読んで、「酒が飲めないロシア人だっているだろうに」と思ったように、こういう「民族性」っていうのは一種の象徴的な記号みたいなもので、どこの国の人も「国民全員がそういう人」だとは考えていないのではないでしょうか。でも、何年か前に、アメリカでのインタビューで、「日本にはまだニンジャがいる」と真顔で答えていた人を観たので、そういう「先入観」とか「典型的なイメージ」といのは、なかなか払拭できないものなのかもしれませんね。そもそも「金持ち、ハイテク、勤勉」というようなイメージは、ジョークに登場するキャラクターとしてはかなり感じ悪そうですが、「金持ち」や「勤勉」であることそのものは、けっして悪いことではないですし、あまりこだわりすぎないほうが良いのかも。
「とりあえず”Excuse me”から会話に入る日本人」というのは、僕もそのひとりなので、非常に耳の痛い話ではあります。僕たちだって、いきなり「ごめんなさい」から会話に入ってこられたら、「えっ、何で謝るの?」って違和感があるでしょうし。ああ、でも日本って、他の人の家の玄関に上がるときからすでに「ごめんください」だから、そんなに違和感ないのかな。 ただ、そういうのって、諸外国からみれば「奇妙」ではあるかもしれないけれど、少なくともそんなに「不快」ではないのでは……という気もするのです。「海外でナメられないように」と、東南アジアの国で、ガハガハ笑いながらやたらと偉そうにしている人たちよりは、はるかに良心的に思えますし。 そういえば、何年か前にアメリカで国内便の飛行機に乗ったとき、隣に座っていたアメリカ人らしき若者が、飛行機が離陸してシートベルトのサインが消えた途端に空いていた後ろのほうの席に移っていったことがあったなあ。気持ちはわかるし、周りが空いている席のほうが良かっただけなのかもしれないけれど、あれは、日本人ジョークよりもはるかに僕を傷つけた出来事でした。いや、傷ついたとか言いつつ、いろいろ英語で話しかけられたりするよりはマシだな、とかも考えていたのですけど。
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2007年02月05日(月) ■ |
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「悩むこと」と「考えること」の違い |
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『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史著・大和書房)より。
【不安とトラブルは違うと書きました。 そもそも、「考えること」と「悩むこと」は違うのです。 僕は22歳で劇団を旗揚げしました。今と違って、学生劇団からプロを目指すなんて、誰もやっていませんでした。当然、旗揚げの時は、不安でした。 早稲田大学演劇研究会という所にいたのですが、先輩が、僕に、「鴻上、劇団、どうするの?」と聞いてきました。 「今、どうしようか考えているんですよ。旗揚げしたほうがいいのか、やっていけるのか……」 と答えると、その先輩は、 「考えてないじゃん、悩んでるんだろう」 と言いました。えっ? という顔をすると、先輩は、 「考えることと悩むことは違うよ。考えるっていうのは、劇団を旗揚げして、やっていけるのかどうか――じゃあ、まず、今の日本の演劇状況を調べてみよう。自分がやりたい芝居と似たような劇団はあるのか、似たような劇団があれば、どれぐらいのお客さんが入っているのか、自分の書く台本は演劇界の中でどれぐらいの水準なのか――そういうことをあれこれ思うのを考えるって言うんだよ。当然、調べたり、人に聞いたりもするよね。悩むってのは、『劇団の旗揚げ、うまくいくかなあ……どうかなあ……どうだろうなあ……』ってウダウダすることだよ。長い間悩んでも、なんの結論も出ないし、アイデアも進んでないだろ。考える場合は違うよ。長時間考えれば、いろんなアイデアも出るし、意見もたまる。な、悩むことと考えることは違うんだよ」 これもまた、目からウロコのアドバイスでした。 トラブルは考えることができますが、不安は、ただ悩むだけです。悩めば悩むだけ、不安は大きくなります。
(中略)
僕が、悩むことと考えることの違いを聞いて、目からウロコが100枚くらい落ちたのは、有効な時間の使い方を発見したからです。 悩むとあっという間に時間が過ぎます。そして、何も生まれていません。「どうしようかなあ……」と堂々巡りを続けるだけです。 考える場合は、時間が過ぎたら過ぎただけ、何かが残ります。それが結果的に間違ったことでも、とりあえず、何かやるべきこと・アイデアが生まれるのです。 そして、その何かをしている時、不安は少しおさまるのです。】
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これを読んで、僕が日頃「考え込んで」いることの大部分は、ただ「悩んで」いるだけなのだなあ、と思い知らされました。いや、「どうしよう…ダメなんじゃないか…」とウダウダと頭の中で堂々巡りを繰り返しながらも、自分ではけっこう一生懸命「考えている」つもりで「お前にはオレの気持ちなんかわからないよ」なんてカッコつけたりしがちなんですよね。実際は「ただ深刻ぶっているだけのくせに!」なんて、しっかり相手に「理解」されていたりするのですけど。
確かに、「悩むこと」からは何も生まれません。まあ、現実には、「何もせずに時間を過ごすこと」によって解決し、あるいは決着がついてしまう問題、あるいは、時間を過ごす以外に解決する方法が無い問題というのも人生には存在するのですが、少なくとも「悩むこと」よりも「考えること」のほうが建設的ではあります。もちろん、鴻上さんがここで挙げている「劇団の旗揚げ」についても、「考えた」からといって有効な解決策が得られるとは限らないし、かえって不安が増すばかりなのかもしれませんが、それでも、そういうふうに「考える」経験を積んでいくことによって、より的確に、効率良く「考える」ことができるようになっていくはずです。逆に「悩むこと」から得られるものって、「過剰な自意識」くらいのもの。
でも、「考えたほうが建設的」だと思っていても、やっぱり「悩んでしまう」状況ってありますよね。それが「正しい」からといって、常に冷静に「考える」ことができる人間ばかりであれば誰も悩んだりしないわけで。 ただ、「こんなに悩んでいる悲劇的な私」に溺れてしまわないためにも、「悩むこと」と「考えること」の違いを頭の片隅に留めておいたほうが良いとは思うのです。
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2007年02月04日(日) ■ |
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「ちなみに、我々の業界ではこれらをねつ造と呼ばず、”微調整””演出”と呼びます」 |
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『週刊プレイボーイ』(集英社)2007/2/12(No.7)号の特集記事「TVはこんなふうに嘘をつく!」より。
(特集記事中の「下請けテレビマン懺悔”あるある”座談会」という記事の一部です。参加者は、中小番組制作会社のAさん、大手番組制作会社のBさん、フリーディレクターのCさん)
【B:ところでみなさん、ねつ造なんて正直、日常茶飯事でしょ?」
A・C:もちろん!
C:例えば、番組のコメント取り。信憑性を高めるために大学の先生とかに取材に行くんだけど、根底から覆されることを言われるなんてしょっちゅう。血液型の番組で脳の権威の先生に取材に行ったのに「血液型の性格診断なんて信じてません。脳の中で性格をつかさどる部分には血液は流れていない」って丁寧な説明で完全否定されちゃったり(笑)。でも、少しでも曖昧な答えがあれば、すかさず「いや、それはこういうことですよね。それを先生のお言葉でもう一度」って、こちらが引き出したいコメントに誘導尋問して、なんとか形にしてる」
B:今回の件での一番の失敗は、みんなが知ってる「納豆」に目を向けたことかな。誰も知らない食材を扱っておけば、へたに検証なんかされなかっただろうに(笑)。 「美容」と「健康」モノは怖いんだ。数字は取れるけど、視聴者はもう小さなことじゃなかなか驚かない。かといって、大きな発見を求めちゃうと今回のように無理が出ちゃう。 ともあれ、視聴者の方々には「画面で外国人がしゃべってる映像には気をつけろ」ってことを言いたい(笑)。視聴者が検証しようがないということで、製作者側が勝手に訳してテロップ出してることもあるんだから。
A:じゃあ、なんでねつ造するかっていうと、カネも時間もないから。カネは、例えば『あるある』クラスだと最低1億円。テレワークの段階で5千万円。それを800万円くらいで下請けに振る。ロケとか取材には「ディレクター、カメラ、アシスタント」の3人ひと組で行くのが普通なんだけど、数年前は予算がそのひと組あたり1日14万円だったのが、今は8万円なんて額に下がってる。これで人件費だけじゃなく機材代・ガソリン代、それと会社の儲けを出さなきゃならないから、カツカツ。 それで制作日数が延びると、その分費用もかかるから、その日で取材が終わるように無理して結論を作っちゃう。 でも、だいたい、なんでもともと数千万円の予算を持つ番組が末端のたった数万をケチるのかがわからない。 そんなことだから人員不足も深刻。請け負う番組数は増えてるのに、新人は3K仕事に嫌気が差してすぐ辞めちゃう。ちなみに、テレワークも離職率は高いですよ。
B:でも、制作会社の人間は局の人間に対して絶対「できない、おかしい」とは言えないしね。そんなこと言えば、会社は仕事外されるし、死にそうに苦労して下積みから這い上がった人間は、またツライADに格下げされちゃうこともある。ADって、相変わらず毎日寝れずに月給17万、先輩のパシリに合コンのセッティングっていう世界で、マジでつらいからね。
C:一方で局の人間って、会議と管理するのが仕事で現場を知らないヤツがらけ。そんなヤツに限って無茶な命令を出すんだよね。
――実際に、『あるある』以外で、みなさんが見聞きしたねつ造を教えて。
C:ある健康系番組でコンタクトレンズの恐怖を扱った時のこと。スタジオ収録に出演したタレントのコンタクトの汚れを調べたら、アイドルもお笑い芸人もあまり差が出なかった。そこで、お笑い芸人のものはワザと汚して、かつフォトショップでさらに修整。極端な差を作ったこともあったな。 骨格の病気を扱った時も、医者が用意した症例写真がインパクトに欠けるので、オーバーに関節を曲げた写真を撮って差し替えたり。 部屋のカビがテーマの時も、大物女優とお笑い芸人との部屋でそれぞれ採取したものを比べようとした。大物女優の部屋のカビが少なかったのはいいんだけど、お笑い芸人の部屋のものはスケジュールが合わなくて採取さえできなかった。だから、慌てて悲惨な生活をしてる番組ディレクターの部屋から採取。もちろん、カビはたっぷりでした(苦笑)。ちなみに、我々の業界ではこれらをねつ造と呼ばず、”微調整””演出”と呼びます(苦笑)。
B:飲酒運転追求番組でのこと。あれは居酒屋の駐車場とかで飲酒ドライバーに必要以上に強気に詰め寄ると、穏やかだったドライバーが「お前だった酒飲んで運転したことあんだろ?」って突っかかってくる。そしたらこっちは「1回もないです!」って言い切ってわざと挑発する。そうすると画面的にはヒートアップしていいんですよ。そういうテクなんです。 それをやるディレクターだって、別の時には平気な顔で飲酒運転してますから。そいつは「大義が大切なんだ」って我々に説教しますけど、「やだやだ、信用できね〜」って思う。
A:これは報道系じゃなくてバラエティ系なんだけど、無名のお笑い芸人が世界中をヒッチハイクする番組あったでしょ。あれで芸人が現地の人と交流したりした。あそこで出てくる人たち、全部やらせだから。ヒッチハイクで停まる車でさえもね。治安の悪い街でも、芸人本人はビクビクしてたけど町の怖い人はみんなエキストラだから。】
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まあ、この対談記事そのものも、参加者が実名なわけではないし、どこまで鵜呑みにしていいか疑ってはかかるべきだと思うのですけど、それにしても全部作り話というわけではなさそうですよね。僕は、飲酒運転ドライバー本人が「仕込み」じゃなくて、本当に素人をディレクターが挑発して怒らせているとか、某バラエティ番組で、「芸人本人はビクビクしていた」(芸人たちは「やらせ」は知らなかった)とかいうような話を読むと、むしろ「予想していたより真面目に番組を作っているところもあるんだな」と感心してしまいました。もっと嘘ばっかりなのだろうと予想していたのに。
それにしても、ここで紹介されているテレビ番組の制作の現場においての「ねつ造」の数々には、ただ呆れるばかりです。僕も実際に健康系番組の取材を受けた医師たちの「自分のコメントのごく一部を強調して使われた」とか、「○○は絶対に、100%ないとは言い切れませんよね?」という取材者の質問に「そうですね…」と答えたら「××先生は、○○の可能性が十分にあると言っていた」というコメントにされていた、とかいうような話を何度も耳にしたことがあります。取材者の多くは、「実態を知る」ことが目的ではなくて、「あらかじめ準備された結論を権威付けできる」コメントした必要としていないのです。しかしながら、今までそんな偏った取材をされた人たちの困惑の声が大きく取り上げられることはありませんでした。だって、それを「報道」するのも、マスコミですからね。
「あるある事件」というのは、まさに「氷山の一角」でしかないのだと僕は思っています。「納豆事件」というのは、「メジャーな食材で大きな反響を狙いすぎた」がために馬脚を現してしまいましたが、この事件だって『週刊朝日』が採り上げようとしなければ、これほど大きな問題にはならなかったはずです。マスコミの「ねつ造」を「発掘」できるのも、やはりマスコミの力なのだというのは、それらの権力から程遠いところにいる僕にとっては、怒りよりも恐ろしさを感じてしまうのですけど。
ただ、これを読んでいると、「現場の人間だけが悪い」というわけではなさそうなんですよね。視聴率を獲るために無理なスケジュール、安い予算で「インパクトのある内容」を要求するテレビ局やそんな番組を鵜呑みにして、高視聴率を与えてしまう視聴者にも責任はありそうです。もし視聴者が「そんなに上手い話や健康上の大発見が毎週あるはずがない」という理性を持っていれば、そもそも、「あるある」はこんな長寿番組にはなっていないはずです。いや「健康になる方法」の王道は、バランスが取れた適量の食事療法、適度な運動、十分な休養だということは周知の事実のはずなのだけれど、みんな「ラクして健康になる、痩せる方法」ばかりを追い求めてしまうから、騙されてしまうんですよね。ここ10年くらい、いろんなダイエットの本が出ましたけど、結局「ゴールデン・スタンダード」になったものはひとつもありはしないのに。
これからも、テレビは「ねつ造」(あるいは「演出」)を続けるはず。それを無くすための唯一の方法は、視聴者がもっと賢くなることだけなのです。 でも、「ダイエットのためにはカロリー制限と運動療法」って番組よりも、「納豆を食べて簡単にダイエット!」って番組のほうがやっぱりウケそうですよね、人って信じたいことしか信じないものだし。
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2007年02月03日(土) ■ |
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遊人、松本零士らの「著作権ドン・キホーテ」の功績 |
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『出版業界最底辺日記』(塩山芳明[著]・南陀楼綾繁[編]、筑摩書房)より。
【1990年11月×日
今絶賛発売中の、真弓大介センセ初の増刊号、『天国少女隊』で、すてぃる88に短編を描かせたのだが、出来上がった作品を見て今回は旧作を掲載、顔を描き直させ、他誌にまわすことに。 主人公の顔が、遊人センセのキャラに似ていたため。普段は”たかがエロ漫画”であり、ンなことはいちいち気にしないが、相手が遊人センセとあっちゃねえ。何しろこのセンセ、1年ほど前この世界のSなる無名なエロ漫画家と出版社に、著作権侵害だからとン百万円だかを請求する内容証明書を送りつけ、結局は何分の1かで手を打ったと噂される、コワ〜〜〜イ人だから。 『漫画なんて所詮は人真似。アイツだって昔はそうだったのに、バッカじゃねえの」「遊人て、『劇画ブッチャー』とか『劇画デカメロン』で、ついこの間まで描いてたヤロだろ? あの頃は池上遼一まがいだったのに、よくゆうぜ」「今は超売れっコだけど、何年か前持ち込みにきたよ。ンな態度でかい奴じゃなかったけどねえ。確かに気持ちはわかるけど、年収が300万円くらいしかない奴にお金払わせて、どんな気持ちなのかねえ。法律的にはどうか知らんけど、一種の弱い者いじめに見えるね」等の批難の声が、僕のまわりでは巻き起こった。だから、『ANGEL』が批難の矢面に立たされた時は「天罰だ!!」の大合唱。 が、僕はそれ、違うんじゃないかな〜と。著作権なんて、こういう人情云々には妥協しない、高利貸し、いや、ドン・キホーテみたいな人が何人か出てくんなきゃ、絶対に確立されっこない。とはいえ僕なら、ビンボ漫画家個人ではなく、それで大儲けしてる、版元のみ標的にしますがね。その方が、よほど寝ざめがいいんじゃ?(すてぃるセンセに尋ねたところ、全然遊人センセなんて参考にしてないんだって。資料はやまだのらセンセオンリー。なのにこうなっちゃうのだとか。不思議ですね?)】
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僕は某松本零士先生の「著作権」に関する言動などを観ていて、槇原敬之の歌詞の「パクリ騒動」や「宇宙戦艦ヤマト裁判」での松本さんの言動に「何なんだこの銭ゲバ漫画家は……」なんてかなり悪い印象を抱いていたのです。『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』なんていう名作を描いてきた人だけに、その作品の内容と作家自身の言動とのギャップに失望してしまったこともあって。 この遊人さんのエピソードを読みながら、僕はその松本零士さんのことを思い出さずにはいられませんでした。 僕も学生時代に遊人さんの漫画を何度か読んだことがありますが(当時は「有害コミック」の代表のようなイメージで、かなり世間からバッシングされていました)、正直あまりに人間離れしたスタイルの女性キャラの数々に、欲情するというよりは引いてしまったような記憶しかないんですよね。でも、当時は遊人さんの作品は大人気で、似たような漫画を描く人も多かったようです。 ここに書かれているように、遊人さんも以前は「売れない漫画家のひとり」であり、彼が訴えた相手の生活レベルや作品の彼らの「盗作」がほとんど世間には影響しないこともある程度は理解しているはずなのですが、確かに、こういう「著作権の鬼」みたいな人が出てこないと、いつまで経っても漫画家の「権利」というのは確立されなかったのでしょう。偉い人に「まあ、キミも誰かの絵を真似したことくらいあるだろう?」と言われてウヤムヤにされてしまってばかりで。 あまりに「それはオレの作品のパクリだ!」と、絡みまくる人は当然、業界内でも煙たがられると思うのですが、こういう「銭ゲバ」っぽい「ドン・キホーテみたいな人」がいればこそ、結果的に「作家の権利」というのは向上してきているんですよね。大部分の作家たちは、表向きは「あんなに大騒ぎするなんてみっともない」というポーズを取りながら、実際は「自分の著作権を放棄」する人なんていないし、彼ら「ドン・キホーテ」のおかげで得られた権利を、まるでそれが当然のことのように享受するわけです。結局のところ、大部分の人は、「面倒なことには巻き込まれたくないけど、オイシイところは遠慮なく戴いている」のですよね。 いや、僕だってできればそうしたいし、実際に社会生活上、普段「あんなに気合入れて抗議したりしなくてもねえ」なんて白眼視している人たちが勝ち取った「権利」のおかげで、たくさんの利益を得ているのも事実なんだよなあ。
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2007年02月01日(木) ■ |
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「同時通訳」という仕事の本当の難しさ |
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『雑学図鑑・街中のギモンダイナマイト』(日刊ゲンダイ編・講談社+α文庫)より。
(「同じ人物の同時通訳を何人もが交代でこなすのは?」という項の一部です)
【テレビの報道番組などでおなじみの同時通訳だが、たまに1人の人物の通訳を何人もが交代で受け持つことがある。なぜだろうか? 同時通訳は正式には「放送通訳」と呼び、外国語を日本語に(または日本語を外国語に)瞬時に翻訳してみせる離れワザだ。 その放送通訳、2002年12月に勃発したイラク戦争の初期報道でひときわ目立つ現象が見られた。ブッシュ米大統領の緊急演説などの際に、複数の通訳者が目まぐるしく交代していたのだ。これは通訳の世界では当たり前のことなのか。 そこで、この業界に詳しい『通訳翻訳ジャーナル』編集長の八代登志江氏(当時)に聞いたところ、 「放送通訳に限らず、通訳にかかわる仕事はことのほか高い集中力が要求されますので、複数の人間は一つの案件を担当するケースは多いのです」と説明する。 放送通訳には厳密に分類すると「時差通訳」と「同時通訳」の2通りがある。時差通訳は事前に番組で流すVTRを下見し、ある程度の原稿を作ってから放送に臨む。片や、同時通訳(「生同通」とも呼ばれる)はまさに瞬時に通訳をするやり方で、突発的な大事件が起こった場合などに限られる。それも同時通訳をする時は狭いブースに2〜3人が押し込まれ、5〜10間隔で交代し、交代後は次に通訳を受け持つ人のためにメモを取るという忙しさ。しかも一発勝負のため、ミスは断じて許されない。 「同時通訳をこなせるようになるのには、どんなに語学力がある人でも軽く10年はかかります。常に世間の時事に目を配るなど、普段の努力も欠かせないですし」(八代氏)】
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日本の放送通訳で一番多いのは、やはり英語の同時通訳なのだそうです。それにしても、これだけ世間に「英語が喋れる人」は満ち溢れているように見えても、あの「同時通訳」というのは、テレビを観ている側が考えているような、「英語ができる人なら誰でもできる」というようなものではないようです。考えてみれば、リアルタイムの「生同通」では相手が何を言ってくるのか全然わからないわけですし、「同時通訳」が必要になるような大きな事件・事故の際には、演壇に立っている人は専門用語や普段は耳にしないような言い回しを使うことも多いでしょうし。「生同通」の「難易度」は、文字になったものを翻訳することや演説が一通り終わって、その概略が掴めてから通訳することに比べれば、はるかに高くて当たり前ですよね。そして、例えばイラク戦争に関するアメリカ大統領の演説であれば、現在の世界情勢をある程度理解していなければ、ごくわずかな時間での適切な翻訳は難しいはずです。国や都市の名前なんて、それが固有名詞であることを知らなければ「どういう意味?」なんて迷ってしまうかもしれません。場合によっては、「同じことを日本語で言われたって理解するのが難しい」ような専門的な内容を同時通訳しなければならない場合だってあるでしょうし。 しかも、そこで語られているのは世界を左右するような非常にデリケートな内容なのですから、ちょっとした聞き逃しや翻訳の間違いも許されないのです。逆に、よく5分〜10分も、そんな緊張に耐えられるよなあ、と感心してしまいます。おまけに、自分が通訳していない間も、他の人のサポートに回らなければならないなんて。「人が喋っている言葉を日本語に直すだけ」のようなイメージがあるけれど、実は、通訳っていうのはそんなに簡単な仕事ではないようです。テレビでも同時通訳の場合には通訳者の名前がちゃんと明示されることが多いのは、やはり、それだけのスキルが必要な、責任のある仕事がということなのでしょうね。 でも、こういう記事を読むと、「そこまでして、『同時通訳』にこだわる必要があるの?とか、つい考えてしまうんですよね。国際会議でのリアルタイムでの議論でもなければ、それほど「同時」でなくてもいいような気もすするのですけど。テレビの報道番組だって、大統領の演説が終わったあと10分くらいかけて翻訳をキチンとチェックしてから日本語訳を流しても、少なくとも日本国内では困る人はいないような……
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