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2006年03月31日(金) ■ |
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新大関・白鵬が「早く大関になれた理由」 |
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朝日新聞の記事より。
【大関昇進が正式に決まった白鵬(21)=本名ムンフバト・ダバジャルガル、モンゴル出身、宮城野部屋。伝達式のあった29日は、師匠やモンゴルから来日中の両親らと喜びを分かち合ったが、これで満足したわけではない。関係者からは「次は横綱」との声が早くも高まっている。
白鵬の記者会見での主な一問一答は次の通り。
――口上に「全身全霊」を入れた思いは。
身も心もすべてかけてという意味。相撲に自分のすべてをささげるという気持ちで入れた。
――入門から5年で大関。どう感じているか。
幕内に上がった時から、頑張ればいけるかなという気持ちはあった。こんなに早くなるとは思っていなかった。
――早く大関になれた理由は。
まず日本語を早く覚えたこと。一番大切なけいこで、最初は親方や先輩が言っていることが分からなかった。日本語を覚えて、分かってくると、相撲も強くなった。次に太らないと勝てないと思って、ご飯をいっぱい食べた。あとは寝ること。寝るのが好きだから。】
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白鵬関のお父さんはモンゴル相撲の大横綱だそうで、まさに「相撲のサラブレッド」という感じなのですが、この新進気鋭の21歳の若者が「早く大関になれた理由」として最初に挙げたことが「日本語を早く覚えたこと」だったのは、僕にはちょっと意外な感じがしました。えっ?言葉がいちばんの理由なの?って。だって、相撲は言葉で勝負するものではないのだから。 でも、確かに「けいこで周りが言っていることがわからない」というのは、技術を磨くには、大きなハンディキャップではありますよね。そしてもちろん、日常生活においても「言葉がわからない」というのは、入門当時まだ16歳だった白鵬関にとっては、ものすごく辛かっただろうな、と思います。いくら天性のセンスを持っていたとしても、やはり、相撲という競技には相撲なりの勘所みたいなのがあって、ある程度そのコツみたいなものがつかめなければ、なかなか勝てない面もあるでしょうし、それには親方や先輩たちとのコミュニケーションは必要不可欠なはずです。 まあ、白鵬関がこうして「言葉のこと」を最初に挙げたのは、「言葉の問題がいちばん辛かった」ということの裏返しなのかもしれません。逆に、「自分の相撲の才能への確固たる自信」も感じますけど。
「日本の相撲界は、外国人力士にばかり活躍されて…」なんて、つい嘆いてしまいがちなのですが、考えてみれば、「外国人力士」というのは、「言葉の壁」があるだけでも、日本人力士よりもスタート地点ではかなり不利ではあるのですよね。相撲の才能はあっても、「言葉の壁」にはね返されて成功できなかった「仲間」たちのことを、白鵬関はたくさん知っているのでしょう。白鵬関は、相撲だけでなく、「言葉を覚える」「日本という国に慣れる」という、土俵の外の勝負にも勝って、今の地位にまで上り詰めたのです。 「勝負の世界」とは言うけれど、「力」だけで勝てるほど甘くはないんですよね、きっと。逆に、「学問の世界」だって、最後にモノを言うのは研究を続けられる体力と世渡りの才能だったりするものなあ。
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2006年03月30日(木) ■ |
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「自分らしさ」を見つけてくれる人々 |
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「NAMABON」2006年4月号(アクセス・パブリッシング)の辻よしなりさんの連載エッセイ「バイブルはもういらない」より。
【内面の自分だけではなく、外面の自分、いわゆる人から見た自分ほど解らないものはありません。そう、何を着たら一番自分らしいのか。それをアドバイスして、商売にしている人たちが出現しています。 『パーソナルスタイリスト』 芸能界の人たちや、政府の要人、企業の社長クラスなどには、よくスタイリストと呼ばれるファッションアドバイザーがついています。その人にあった衣装を見つけるというのは正直言って至難の業になってくることは、日ごろの生活の中で私たちは理解しています。何を買ったらいいんだろう、自分らしさを出しながら、でも新しい雰囲気にチャレンジしてみたい。その手助けをしてくれる人がいるんですねぇ。 まずは問診から入ります。 仕事は何をしているのか。 趣味は? 顔の形や体格はどうか。 何色が好きなのか。 故郷はどこか。 夢は何がある。 こんなことを事細かに質問をしていって、その人の人となりを見るんだそうです。そして、今までに着たことのない色やデザインの服を一緒にチョイス。買い物に付き合ってくれるんですね。また、自宅まで来てくれてどの服を上手く着まわしていけばいいのかを、教えてくれるんだそうです。相変わらずのポロシャツにチノパンから何とか脱却したい僕を含めた男の人なんかにも、かなり人気が上がっているみたいです。 しかし、料金が4万〜8万。かなり張るような気がするけど、無駄なものを買い続けるよりもむしろお得だと、もっぱらの評判らしい。 今や『自分らしさ』は、見つけるものじゃなく、お金で買える時代になりました!】
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ミスチルの歌に、 ♪自分らしさの檻のなかで もがいてるなら 誰だってそう 僕だってそうなんだ というフレーズがあるのですが、僕は30年あまり生きてきて、結局「自分らしさ」というのがどんなものなのか、よくわからないのです。「自分のやりたいようにやる」=「自分らしさ」だと思っている人もいるみたいですが、やっぱりそれはちょっと違うような気がするし。 でも、この文章を読んで、僕はあらためて考えました。結局、「自分らしさ」は自分では決められず、他人に「あの人に似合う」と思ってもらえるかどうかだけなのかもしれないな、と。 もちろん、「センスのよしあし」というのはあるのでしょうが、その「センス」というのも他人の評価だしね。 この『パーソナルスタイリスト』という職業のこと、僕はこの文章ではじめて知ったのですが、確かに、こういう職業にはニーズはあるだろうなあ、と思います。さすがに僕は自分が着る服を決めてもらうためだけに4万から8万を投資することにはためらいがありますが、人前に出ることが多い職業の人にとっては、「どんな服を着ているか」で値踏みされることって、けっこうあるはずだし、「自分がセンスのいい服を着ている」と思えるだけで、背筋だって伸びるかもしれません。逆に、本人が自信を持って着ることができれば、どんな服だって、それなりに「その人らしく」見えるのではないか、という気もします。それで自分に自信が持てるなら、けっして高すぎる投資ではないはずです。 それにしても、その「自分らしさ」がカッコいいかどうかって、結局は、他人の評価なんですよね。『パーソナルスタイリスト』が決めてくれるのは、所詮、他人からみた「あなたらしさ」であって、本当の「自分らしさ」ではないのです。 まあ、現実的には、自分で選んだ「自分らしくてカッコ悪い服装」よりも、誰かが選んでくれた「本当に自分らしいかどうかはともかく、似合う服装」のほうが、はるかにメリットが大きいのですけどね。
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2006年03月29日(水) ■ |
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姉歯元建築士への「糾弾」と「同情」のあいだに |
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産経新聞の記事より。
【耐震強度偽装事件で、建築基準法違反容疑で警視庁などの合同捜査本部による家宅捜索を受けた姉歯秀次元建築士(48)の妻(49)が二十八日早朝、千葉県市川市の自宅近くで死亡しているのが見つかった。現場や自宅から遺書などは発見されていないが、千葉県警行徳署は状況から、付近のマンションから飛び降り自殺したとみている。妻は病気のため精神科に通院していたという。 同日午前五時三十五分ごろ、市川市富浜のマンション(七階建て)駐車場に止めた車の中で、血を流した女性が倒れているのを所有者の男性(44)が発見した。 女性は病院に運ばれたが、全身を強く打っており、午前七時過ぎに死亡を確認。同署の調べで、姉歯元建築士の妻と分かった。】
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本当に痛ましい話です。姉歯氏は、「病気がちの妻が当時、入退院を繰り返していた。断ると収入がゼロになるということで葛藤した」と「偽装の理由」を話してたということもあり、この一報で悲嘆にくれているのではないでしょうか。こんな結果になるのならば、なぜ、あんなことをしてしまったのか?と。 もちろん、病気の妻のためとはいえ、住人の生命と財産に深刻な影響を与える「耐震偽装」なんて暴挙をやってもいいはずがありませんが、この事件には、「普通の人でも、ちょっと魔がさしたり、厳しい状況に追い詰められれば、とんでもないことをやってしまうことがあるのだ」ということをあらためて考えさせられました。少なくとも姉歯氏は、「生まれつきの極悪人」って感じではないものなあ。本当にそんな人がいるのかどうかはさておき。
以前、鳥インフルエンザの発生を知りながら国に報告をしていなかった浅田農産の会長夫妻も自ら死を選んでしまいました。確かに彼らは「責任者」であり、国民の健康に対して重大な影響を与えるかもしれない「隠蔽」をしたのですから、世間やマスコミから糾弾されるのはやむをえない面はあると思います。でも、その一方で、実際に亡くなられてしまうと、「自業自得だ!」なんて決め付ける気持ちにはなれなくて、「あんなに責めなくてもよかったのではないか」とか、つい考えてしまうのですよね。 しかし、現実問題として、あのような「人の命にかかわるような問題」を、「相手が自殺しないように、手加減しながら糾弾する」というのは、ものすごく難しいことでしょう。だからと言って「罪を問わない」わけにもいかない。言葉は悪いけど、彼らの死が、「自分たちも同じようなことをしたら、社会から抹殺されてしまう…」と人々に思わせる、「見せしめ」として作用しているんも事実ですから。 浅田農産の会長夫妻だって、あの事件がなければ、そんなに積極的に悪事を行うような人ではなさそうだったんですけど。
このような事件が起きると、手の平を返したように「そこまで姉歯氏の妻を追い詰めたのは誰だ?」という犯人探しが始まります。悪いのは、姉歯氏に偽装をもちかけた人々か、姉歯氏自身なのか、それとも、過剰な報道合戦で「ネタ」にするために「病気の妻」まで巻き込んだマスコミか、それとも周囲の人々の冷淡な反応か? 正直、姉歯さんの頭髪のことを話の種にしたり、この事件での「プライバシー暴き」の記事などを喜んで読んで喜んでいた僕は、「全部を誰かのせい」にはできないような気がしています。彼らを追い詰めた「空気」の一部は、僕が担っていたものでした。「安すぎるマンション」や「ゴシップ記事」というのは、それを求める人々のニーズに合わせて生まれたものです。みんなが「質の良いものはそれなりの値段がするのが当然」だと思っていたり(まあ、これは騙されるのもしょうがない面もあるんですが)、「下品なゴシップ記事が載るような雑誌は読まない」というような人ばかりなら、こういう類のものは、自然消滅していくはずなのですから。
僕はこの死に対して、ほんの少しだけ罪悪感を覚えます。 でも、「他にどうすればよかったんだ?」と自分に問いかけても、うまく答えを出すことができないのです。「自殺するかもしれない」からと言って、「無罪」にはできないだろうし。結局は、そういう小さな罪悪感は、「生贄になったのが自分じゃなくてよかった」という安堵の裏返しのような気もします。
結局、人間というのは本質的に残酷な生き物で、地球は「ちょっと運が悪かった人々」を切り捨てながら今日も回っているのかもしれません。 僕は、自分がこうして生きていられるのは、「正しいから」じゃなくて、「運が良いから」なのだと、最近よく考えています。
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2006年03月28日(火) ■ |
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「本は必ずしも最後まで読む必要はない」 |
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「吾輩ハ作者デアル」(原田宗典著・集英社文庫)より。
(「読書とは何か?」というエッセイの一部です)
【しかしながら、やがて私は自分の読書の方法に疑いを抱くようになりました。ひとつには自身でも、ものを書くようになったせいもありましょう。自分は何のために読書をしているのだろう? 読了の日付けとサインを記すため――つまりは一冊の本を最後まで読み終えるために、読書をしているようなものではないか。と、そんなふうに思ったのです。いつのまにか私は、誰もが陥りやすい誤解に陥っていました。それは、 「一冊の本を最後まで読み終わらなければ、読書ではない」 という考え方です。おそらく普通は国語の宿題などで、読書感想文を書かなければならない必要に迫られたりすることから、この「読了の義務感」が生じてくるのでしょう。だから私を含め、多くの人たちが、難解だったり、面白くなかったりしても、何とかして一冊の本を最後まで読もうとします。そして途中で断念したりすると、「自分は頭が悪い」とか「自分は読書が苦手だ」と思い込んで、本から離れていってしまうのです。 しかしよく考えてみてください。一冊の本を最後まで読み終わることが「読書」なのでしょうか? 違います。本を開いて、読んでいる時間こそが「読書」ではありませんか。長さは関係ありません。5分でも10分でも、本を読みさえすれば、それはもう「読書」です。もちろん最後まで読む必要だってありません。読了できなかったからといって、廊下に立たされるわけではないし、劣等生の烙印を押されることもないのです。読み始めたその本が難しくて分からなかったり、つまらなかったりするのは、読者に責任があるのではなく、作者の責任です。 ずいぶん大胆なことを言うな、と思われるかもしれませんが、私がこういう考え方に到ったのには、きっかけがありました。20代の半ばにたまたま読んだ随筆の中に、 「本は必ずしも最後まで読む必要はない。つまらなくなったら中途で放り出して、別の本を読めばいい」 というような一文があるのに出食わしたのです。書いたのは英文学者で、名文家としても名高い福原鱗太郎でした。 「世の中には一生を読書に捧げても読み切れないほど沢山の本がある。だから我々は面白い本だけを読むべきであって、つまらない本を無理して読むなんて時間の無駄である」 そんなふうに書いてあるのを読んで、私は目から鱗が落ちる思いを味わいました。まったくその通りだ、と一瞬にして納得がいったのです。同時に私は、最後のページに日付けとサインを誇らしげに記したいばかりに、つまらない本も斜め読みして読了した気になっていた自分を、恥ずかしく思いました。】
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確かにそうだよなあ、と僕もこれを読んで目から鱗が落ちました。 ここに引用させていただいた文章の前段には、アメリカの鉄鋼王カーネギーの父親が、その膨大な蔵書に、一冊読み終えるごとに、本の最後のページに日付とサインを入れていたというエピソードが紹介されています。この話を聞いた原田さんは子供の頃から大学の文学部を卒業されるまで、同じように読了した本に日付とサインを入れておられたそうですが、しだいに、それが「読み終えた本をコレクションするための読書」のように感じられてきた、とのことなのです。 まあ、このエピソードを読んだ僕の心には、一瞬、「そんなふうにサインとかしたら、ブックオフで買い取ってもらえないじゃないか!」という考えが浮かんだのも事実なのですけど。もちろん、カーネギーのお父さんの時代にはブックオフはなかっただろうし、金銭的・空間的な理由で本を売る必要なんてなかったのだろうとは思いますけど。 ここで紹介されている【「本は必ずしも最後まで読む必要はない。つまらなくなったら中途で放り出して、別の本を読めばいい」】という言葉に、今の僕は素直に頷くことができます。でも、20歳くらいだったら、たぶん「本の価値なんて、読み終えてみないとわからないし、そんな『自分にとって面白い部分』だけ読んでいたら、いつまでたっても自分のレベルアップにつながらないじゃないか」と感じていたように思われるのです。そして、たぶん、その時期の僕には、そういう本の読み方が必要だったのでしょう。 こんなふうに「面白い部分だけ読めばいいのだ」という考えは、僕自身の「残り時間の少なさ」による焦りなのかもしれません。でも、読みかけの本を山のように積み上げてしまっている僕としては、「結局、あの本を最後まで読めなかったのは、自分にとって『面白くない』『必要じゃない』本だったからなのだ」と考えると、けっこう気がラクになるんですよね。もちろん、そういう本だって、読むタイミングによっては、「自分にとって忘れられない本」になっていた可能性も十分あったのでしょうけど。そして、どんなに面白い本にも「つまらない部分」はあるし、大概のつまらない本にも「面白い部分」はあるのです。
ところで、この文章、「本」を「恋愛」に置き換えてみても面白いのではないかな、と感じました。【長さは関係ありません。5分でも10分でも、本を読みさえすれば、それはもう「読書」です】なんて、まさにそうなのかもしれないな、と。
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2006年03月27日(月) ■ |
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「麦茶に砂糖」の記憶 |
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「ゴハンの丸かじり」(東海林さだお著・文春文庫)より。
【TBSの朝の番組「はなまるマーケット」を見ていたら、麦茶の特集をやっていた。 番組の中で、 「子供のころ、麦茶に砂糖を入れて飲んでいた」 ということが話題になっていた。 ヤックンの世代だから、30代ということになり、その人たちの子供時代というと、今から20数年ぐらい前ということになる。 そうだっけ? 麦茶に砂糖入れたっけ? いやいや、ぼく自身にはそういう記憶はない。 麦茶なんてものは、そんなふうにして飲むのものではなかった。】
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この東海林さんのエッセイの初出は、2001年の7月です。「ヤックン」こと薬丸裕英さんの誕生日は、1966年2月19日ですから、現在(2006年3月)からすれば、ちょうど30年くらい前の話だと思われます。 僕は薬丸さんより少し年下なのですが、これを読んで自分の記憶を辿ってみると、僕も子供の頃、「砂糖入り麦茶」をたまに飲んでいたのです。当時も同級生に「えーっ、甘い麦茶なんて気持ち悪い」と言われたような記憶があるのですが、実際に飲ませてみると「けっこうおいしい」派と「やっぱりなんかヘン」派に分かれていました。当時は「子供が飲める甘い飲み物」と言えば、せいぜいおやつのカルピスかプラッシーくらいのものでしたから、「甘い」ということそのものがひとつの「価値」でした。コーラは「骨が溶ける」とか言われて、家では飲ませてもらえなかったし、僕も炭酸がきつくてちょっと苦手だったし。 でも、子供時代の僕が「麦茶に砂糖」というアイディアを思いついて自分から親にリクエストしたとは考えにくいので、あれは、僕の母親がどこかから受け継いできたものなのだと思われます。しかしながら、あのもともと甘みの気配もない麦茶を甘くするのには、けっこう大量の砂糖が必要だったみたいで、子供の健康に配慮してか、僕の親も何かのイベント(遠足とか運動会とか)のときか、よっぽど気が向いたときくらいしか、作ってくれませんでしたけど。それにしても、「はなまるマーケット」で話題になるくらい、「珍しい飲みかた」だったのか…… 今は僕も大人になったので、麦茶に砂糖を入れて飲むなんてことはありません。わざわざそんなことをしなくても、「甘い飲み物」なんていくらでもあるわけだし。まあ、昔は、こんなにみんなが「お茶」を自動販売機やコンビニで買って飲む時代が来るということも、全然予想していなかったことではあるのですが。ただ、あの「ほろ苦い甘さ」というのは、不思議な魅力があったような気もするんですよね。単に「郷愁」なのかもしれないけどさ。 ちなみに、この東海林さんのエッセイの最後には、【でも、江戸時代の記述に「砂糖を入れて飲む」というのがあるそうです。念のため。】という一文がありますので、「麦茶に砂糖」というのは、それなりの歴史と伝統があるみたいです。さすがに江戸時代の人が、「麦茶に砂糖」に対してどんな印象を持っていたのかまでは、書かれていませんでしたが。
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2006年03月26日(日) ■ |
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同期ってそんなものじゃないかと思っていました。 |
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「沖で待つ」(絲山秋子著・文藝春秋)より。
(住宅機器メーカーに同期で就職し、一緒に福岡営業所に配属された「私」と「太っちゃん」の話)
【特約店相手だったら、ある程度、急な事情も理解してもらえるのですが、新規工務店の最初の現場はワンチャンスだからそうはいきません。インフルエンザで40度近い熱を出した太っちゃんが、70キロ離れた伊万里の現場まで行くとき、運転をしていったのは私でした。会社の裏の内科で点滴を打ってもらって一瞬ハイになった太っちゃんは、もう大丈夫だからいいよそんな、と言ったのですが、私は予定をキャンセルしたんだから、と言って譲りませんでした。助手席に収まった太っちゃんは、もう大丈夫だからいいよそんな、と言ったのですが、私は予定をキャンセルしたんだから、と言って譲りませんでした。助手席に収まった太っちゃんは、いつものように軽口をたたきました。 「さては俺に惚れたな」 「ばか。誰が惚れるか」 けれど今宿をすぎるころには、太っちゃんは車に積みっぱなしにしていた現場用のジャンパーを着込んでぶるぶる震えていました。 「悪いな」 震えながら太っちゃんが言いました。 「惚れても無駄だよ」 私が言うと太っちゃんは口の端だけで笑ったようでした。 「現場行ったらしゃきっとしなよ。今は寝てりゃいいんだから」 仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。 同期ってそんなものじゃないかと思っていました。】
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きっと、ここに書かれているエピソード以外にも、「私」と「太っちゃん」は、お互いに助け合って仕事をしてきたのだと思います。その「現場」がきつければきついほど「同期」の結びつきというのは、強くなっていきがちなものなので。僕も研修医になってすぐの頃の同期のことは、いまだによく覚えています。けっこう転勤が多い仕事なので、いろんな人と一緒に働いてきたのですが、最初のいちばん辛かった時期の「同期」というのは、やっぱり特別なのです。正直、この文章のエピソードにしても、自分たちの新人時代のことを思い出してみても、「ここまでして体調の悪いときに無理して仕事をしなくてもいいのに…」ということはたくさんあるのですが、それでも、当時はみんな余裕がなくて「これは自分がやらなければならない」という場所から、一歩引いて考えてみることなんてできなかったんですよね。 そういう「同期の団結」って、どちらかというと「軍隊的」みたいなものなのかもしれません。いや「もしお前が倒れてその分の仕事もやらなければならなくなったら、俺も共倒れ」という、切実な「助け合わなければならない事情」があったのも事実ですし。 この文章のなかでは「惚れる」という言葉が出てくるのですが、男と女がこんなふうに「同期」だった場合、「純粋な恋愛感情」というのは生まれにくいのかもしれません。でも、同性に対してよりは、お互いに「ライバル意識」が生まれにくいような気がするので、とくに男にとっては、こういう「異性の同僚」というのは、自分の弱みを見せられる数少ない存在なのではないでしょうか。男同士って、なんでもあけすけに話せるようでいて、意外と相手と自分の力関係を意識したりしているものなので。 でも、こういう「同期」も、みんな偉くなっていくと、それぞれ嫉妬しあったり蹴落としあったりするような場合もあるんですよね。 【仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。】そんなふうに思える時期は、本当は、いちばん貴重な時期なのかもしれません。
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2006年03月25日(土) ■ |
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「ホームページ」という媒体に向いている人 |
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「これだけは、村上さんに言っておこう」(村上春樹著・安西水丸絵・朝日新聞社)より。
(読者から送られてきた質問メールの数々に、村上春樹さんが答えた本の一部。ちなみにこれが書かれたのは1997年です)
【質問21:ホームページの現状
<質問> 僕はインターネットを始めて2年近くが経過しましたがホームページ(HPってなんとなくいまいち存在理由がないというか、世間でいわれるほどたいそうなものじゃないんじゃないかと失望していたところ、村上さんのHPを発見し考えを新たにしました。全世界にむけた情報発信なんて騒いでいましたがそんなものはたして必要なのか? 結局、大企業の広告媒体として機能するか、もしくは電子テレビショッピングか、電子落書き帳となるか、せいぜいそんなところではないでしょうか? でも、そんな状況のなかで村上朝日堂は実に小気味よい展開をしていると思います。
<村上春樹さんの解答> お褒めいただいて恐縮いたしております。でもあなたがおっしゃるように、世間のホームページのほとんどって、なんかつまらないですよね。僕もちょくちょく見ているんですが、「これは便利だ役に立つ」というのって、あまりないような気がします。「これは楽しい」というのもなかなかないし。まだ容れ物優先で、中身が追いついていかないものが多いです。 僕は人前に出たり、しゃべったりすることは苦手ですが、活字が大好きな人間なので、こういう媒体ってやっぱり向いているんですよね。つまりリアルタイムで活字がやりとりできて、個人的でありながら、同時に個人的じゃないから。】
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この村上さんの解答の最後の部分、【つまりリアルタイムで活字がやりとりできて、個人的でありながら、同時に個人的じゃないから。】という一文は、まさに「ホームページ、とくに個人の趣味レベルのホームページとは何か?」という質問への解答にもなっています。こんなに簡潔で的確にまとめられるものなのだなあ、と感動してしまいました。 僕も、このインターネットという新しいツールにはじめて触れたころには、「うーん、これって、みんな凄いって言っているけど、本当に面白いの?」と疑問で仕方ありませんでした。もう、7年くらい前の話なんですけど。ポータルサイトや新聞社のサイト、有名人のサイトなどを一通り巡回してみると、あとはもう、やることが何もなくて。新聞取らなくていいなら便利だな、と感じたくらいで、しばらくはパソコンは「信長の野望」とかで遊ぶためのゲーム機と化していたのです。 でも、いわゆる「テキストサイト」「日記サイト」を知ってから、僕はこのインターネットという道具にズッポリとハマってしまい、自分でもこうして、ささやかながら「発信」する立場になっています。これって、7年前の自分には、想像もつかないことだったのです。 おそらく、僕にとっても、この「ホームページ」(今の「ブログ」も含む)というのは、ものすごく「自分に向いていた媒体」だったと思うのです。リアルタイムでやりとりするのが「音声」だったら、声や喋りに自信がない僕は二の足を踏んでいただろうし、「それならチラシの裏にでも書いておけ!」って言われても、誰も読まないチラシの裏に延々と文章を書き続けられるほど、僕はつつましい人間でもないのです。まさに、この【リアルタイムで活字がやりとりできて、個人的でありながら、同時に個人的じゃない】という媒体があればこそ、こうして僕は何かを「発信」するという喜びにひたれているんですよね。 だからこそ逆に、「ホームページ運営なんて、何が面白いの?」という「相性が悪い」人がいるというのも、非常によくわかるのです。それは「電話は嫌い」という人と、「メールなんてまどろっこしい、直接電話すれば済むことなのに」という人がいるのと同じことですし、ホームページという媒体に向かない人がいるのも当然のことでしょう。 オンラインゲームが登場したときには、すべてのゲームはオンライン化していくのではないかと言う人もいましたが、これまでのゲーム業界の流れとしては、「オンラインゲームを好む人というのはもちろん存在するけれども、みんながオンラインゲームに馴染むわけではない」ということが少しずつわかってきたようです。同じように、インターネットやホームページというのは、ひとつの革命的なメディアではあるけれども、すべての媒体が行き着くところではない、ということなんですよね。 とりあえず、僕は、「ホームページがある時代」に生まれてよかったと感謝しています。たとえこれが、過渡期の一時的な現象で、10年後には誰もホームページなんか見なくなったとしても。
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2006年03月23日(木) ■ |
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「老い」や「障害」も展示する動物園 |
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「<旭山動物園>革命―夢を実現した復活プロジェクト」(小菅正夫著・角川oneテーマ21)より。
【話は戻るが、命を伝えるために、旭山動物園がやっているもう一つのことは、歳をとって動作が緩慢になった動物や、交通事故で片方の羽を失ったカラスや足をケガしたタヌキ、電線に引っ掛かって羽を折ったフクロウなども、ほかの動物たちと同じように展示していることだ。 これに関しても、当初、各方面から批判を受けた。総理府(=当時、現内閣府)が定めた展示動物に関する基準では、傷病中の動物を見せて残酷な印象を与えることを避けるように定められている。北海道庁からは「基準を知らないのか」と釘を刺された。
一般の入場者からも「障害を見せ物にしている」という批判が届いた。ある学者からは、なぜあんな老いぼれた動物や、ケガをしている動物を展示するのだという声があったのも事実だ。 しかし、「老い」というのは、人間を含めすべての動物が等しく辿る道だし、動物の交通事故は人間が起こして、最悪の場合、動物たちの命を奪うのだが、ほとんどニュースにならない。ケガを負った動物たちは、人間が与える悪影響の”生き証人”なのである。北海道の野生動物が置かれている状況を知らせるには、こうした展示は必要だと考えている。】
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参考リンク:旭山動物園ホームページ
動物たちの迫力ある生態をなるべく野生に近い状況で観られるようにした「行動展示」で、年間約150万人もの入場者を集めている旭山動物園の園長・小菅正夫さんの著書の一部です。 「動物のありのままの姿を見せたい」「動物たちがいま置かれている状況をひとりでも多くの人に伝えたい」という園長の熱意が伝わってくる文章です。それこそ「事なかれ主義」であれば、高齢の動物やケガをした動物は、人々の目に触れないように「処分」してしまえばいいのですから。 でも、その一方で、もし自分がうららかな春の日にかわいい動物たちに会うために動物園にやってきて、そういう「残酷な印象を受けるような傷病中の動物」を見たら、それはそれであんまり気持ちのいいものではないだろうなあ、とも思うのです。 これはもう、どちらが正しいとか間違っているというような問題ではなくて、同じ施設に対して、お互いが求めているものが違っている、というだけの話でしかないのかもしれません。もちろん、動物園側だって、動物たちのかわいさ、カッコよさを観てもらいたい、という気持ちは十分にあるわけですし、そういう「負の部分」をさらけ出したとしても、動物や自然というのは十分に魅力的なものなのだという確信もあるのでしょうが。 それにしても、こういうのは動物園の中の話だけではなくて、人間社会における「老いたり障害を持ったりしている人間」というのは、あまりにも「隠蔽」されすぎているのかもしれません。そりゃあ、「見せ物」にされるのは許されないでしょうが、僕たちは、必要以上にいろんなものを「隔離」しすぎているような気もします。いくらハンディキャップを背負っているからといって、「周りから引き離され、隠される」よりは、「周りの人と同じ環境で生きられる」ほうが、はるかに心地よいことだってあるでしょうし。
でも、その一方で、やっぱり、そういう「世間にアピールするという大義のための犠牲になる動物」の本心はわからないよな、とも僕には思えるのです。厳しい環境で他の動物たちと争うよりは、隔離されてエサをもらえたほうがラクなのかもしれないし、もしかしたら、そうやって「展示」されていることに対して、不愉快な感情を抱いているかもしれない。そこまで動物を「擬人化」するのは人間の勝手な思い込みなんだろうけど……
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2006年03月22日(水) ■ |
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人生は「練習の1本目のパス」の繰り返し |
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「オシムの言葉〜フィールドの向こうに人生が見える」(木村元彦著・集英社インターナショナル)より。
(「オシム語録」で有名なジェフ市原のオシム監督の半生とサッカー観を著した本の一部より)
【オシムは「羽生はそのポジションにもっといい選手がいても、どこかで使いたくなる選手だ」と言った。そう言わしめるようになっていったには当然ながら、深い過程があった。走るサッカーの象徴のような羽生はこう見ていた。 「監督は厳しいけど誰よりも選手のことを考えてくれているんです。それが求心力になっていると思います。僕も最初は練習でミスをすると、いきなり『お前だけ走ってこい!』と、開始早々にひとりだけ罰走させられて、何だよと思っていたんですよ……」 でも、今考えてみると、さらにレベルアップできると信頼されていたからだと思えるのだ。 「監督はよくトップ下の選手が簡単に5メートル、10メートルのパスをミスしていたら、サッカーにならないと言うんです。その意味では、僕がそこ(トップ下)をやるのなら、ミスは絶対に犯しちゃいけないんですよね。練習でひとつのメニューが始まって『やれ』と言われた時に、最初はゆっくり入っちゃったりしますよね。様子を見ながら、みたいなパスを出して、たまたま受ける側もそういう気持ちで入っていると、多少ズレるじゃなですか。それで僕のパスミスみたいになる。そういうのが許されないんです。1年目からすごく言われました。すぐに『お前、走って来い』。散々繰り返されたので、僕はもう練習の1本目のパスから集中しよう、と思うようになったし、数メートルという短いパスでも、しっかり通そうという気持ちになりましたね。 なんで1本のパスで、俺だけこんなに走らされなきゃいけないのかと当初は悔しかったんですが、それがあるから今があるんですよ」】
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ジェフユナイテッド市原を率いる、名将・オシム監督。この監督の含蓄のあるコメントの数々はサッカーファンのみならず多くの人に注目され、ジェフの公式サイトには、こんな「オシム語録」のコーナーがまであるのです。 そのオシム監督から学んだことに関する、ジェフ市原の主力選手のひとりであるMF羽生選手の話です。 羽生選手の練習でのミスに対して、オシム監督は、ずっと厳しいペナルティを与え続けます。最初は「なんで俺だけがこんな目に…」と憤っていた羽生選手なのですが、彼は、少しずつ気付いていくのです。ああ、プロというのは、練習の最初の1本のパスから、集中しなければ、本番で通用するようにはならないのだ、と。 この話を読んであらためて考えてみると、普段「練習」としてやっていることの多くは、「練習のための練習」になってしまっているような気がします。野球のウォーミングアップとしてキャッチボールをやるというのは、「筋肉を温める」という意味はあるのかもしれませんが、それこそ、漠然と投げたり受けたりしているだけでは、自分のレベルアップにはつながりません。でも、同じキャッチボールをしていても、自分の中でテーマを持って集中してやれば、そこには「意味」が出てくるのです。こんなふうに投げれば、球は真ん中に行くのだな、とか。でも、多くの場合、とりあえず投げたり受けたりしているだけでも、「練習したような気分」になってしまいます。 そして、大事なのは、「練習でできないことは、試合でもできない」ということなんですよね。 いくら自分で「一生懸命練習をしている」「一生懸命仕事をしている」と思っていたとしても、実際に仕事をしている現場というのは、この「練習の1本目のパス」の繰り返しです。「ちょっと慣れれば、もっと良い仕事ができるのに」とか愚痴りながら、パスミスを繰り返してしまうことって、けっして少なくないような気がします。「練習の1本目のパスから集中する」ことを意識していなければ、本番で安定した仕事をしてみせることはできないはずなのに。 いや、あらためて言われてみれば、本当にこのオシム監督の教えの通りなのですが、そういうことって、なかなか気がつかないまま時間ばかりが過ぎてしまうんですよね。 なんだか、僕は自分の人生そのものも、こんな漫然としたパスの練習ばっかりしているような気にすらなってきました。そして、「本気を出せばこんなものじゃないんですけどね」って、ずっと言い続けているような。
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2006年03月20日(月) ■ |
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「告発ブログ」の危うさ |
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毎日新聞の記事より。
【インターネットのブログ(個人の日記風簡易型サイト)に書かれた小説のモデルにされ、名誉を傷つけられたとして、京都市内のタクシー会社が元運転手の男性(58)に慰謝料など1100万円の賠償などを求めた訴訟で、京都地裁の中村哲裁判官は16日、「社会的評価や信用を低下させた」などとして男性に100万円の支払いを命じた。ネット問題に詳しい岡村久道弁護士(大阪弁護士会)は「ブログでの名誉棄損を認定した判決は聞いたことがない。今後は同様の問題が増えると予想され、警鐘になる」と話している。 判決によると、男性は04年4〜5月、24回にわたり同社をモデルとした小説をブログに掲載し、「社内で運転手が飲酒し、管理職も放置」「幹部が会社の金を横領」などと表現。会社や幹部は仮名だったが、自己紹介で会社や自分を実名表記した。同社は小説掲載を理由に解雇したが、男性が解雇無効を求めて提訴。男性が05年2〜3月に全回分を再掲載したため、会社側が反訴していた。 判決は「男性が主張するだけの事実は認められない」としたうえで、「同社を知る業界の者が読めば、同社がモデルで、事実と思うことが想定される」と指摘した。 男性は判決後、「内容は事実。今後もブログで公表していく」と話した。これに対し、同社側の弁護士は「場合によっては名誉棄損での刑事告発も検討せざるを得ない」としている。 岡村弁護士は「情報発信の敷居が低くなったのはいいが、不特定多数の人が見る影響力の大きさを考えねばならない。その危うさを象徴する判決」と話している。 ブログは、運営事業者に登録して手軽に開設できる。総務省によると、05年9月末現在、国内では延べ約473万人の利用者がいるという。】
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この記事の最後に、「ブログについての解説」が書いてあるところを見ると、少なくとも毎日新聞的には、「ブログというのは、まだまだ社会的に完全には認知されていない」という判断をしているのでしょうね。 しかし、この件に関しては、内容が事実であるかどうかにかかわらず、「そりゃあ、会社としてはこの社員をクビにするだろうな…」と僕は思いますし、そもそも、なんでそんな会社で働くのか?と疑問にもなってしまいます。まあ、そいうのって、医療者サイトに対する「そんなにキツイなら、仕事辞めれば?」っていうリアクションと似たようなもので、仕事を辞めたら辞めたで、そう簡単に次の働き口なんて見つかるものじゃない、というのが現実なのでしょうけど。ブログが多少話題になったところで、たいした収入になるわけでもないしね。 この「告発」の内容が真実であれば、そんな告発者は会社にとっては不都合極まりない存在でしょうし、内容が虚偽であれば、そんなネガティブな噂を世間に垂れ流すような社員に給料を出せというのは、理不尽な話ではあるでしょう。 世間には、「暴露モノ」のブログというのはたくさんあって、それぞれ仮名にされていたり、「実在の人物とは関係ありません」と但し書きがついたりしているのですが、それでも、こんなふうに話題になってしまって、書いた本人のほうがビックリ、なんていう事態は、けっして少なくないのかもしれません。この場合は、明らかな「告発本」らしいので、会社と争うというのはしょうがない面もありそうですが、「書いてあること」に対して、自分が意図しているように常に相手が受けとってくれるかというのも、「相手しだい」ではあるのですよね。 先日、火葬場で働いている女性のブログを書籍化したものを書店で見かけたのですけど、内容的には、第三者である僕からすれば、御遺体に対して失礼な内容は無かったように思われまし。でも、御遺族にとっては、そういうふうに「ネタにされる」ということそのものを不快に感じる人だって、少なくはないと思うのです。僕の身内だったら、やっぱり「なんだかなあ…」って感じるだろうし。それはもう、「日記」の宿命なのかもしれませんが、家の日記帳とは違って、ブログというのは、「その悪口を相手が絶対に読んでいないとは限らない」し、「悪口のつもりではなくても、書かれている人が傷つく可能性は、十分に考えられる」のですよね。さらに紙の日記と違って、「自分の悪口が、世間にばら撒かれている」というのは非常に腹立たしいことのはずです。1日1万アクセスのサイトでさえ、日本の人口の1万人に1人くらいしか見ていないとしても。 さらに、「内容が事実」であるからといっても、世間に公開するのが不適切なことだってあるのです。 そういう意味では、「ブログ」というツールができる前までは、「マスメディアを利用しての告発」や「訴訟」という方法しかなかったわけで、それをやる人々には、ある種の「覚悟」が必要とされていました。 でも、今は、ネットという方法ができたたため、「なんとなく『告発』してしまった人たち」というのは、けっして少なくないと思うのです。いやもちろん、社会的に大きな意義のある「告発」だって少なくはないのですが、ネット上にたくさんある「告発サイト」の多くは、単なる「誹謗中傷」だったり、「告発する側の思い込み」だったりするようです。「覚悟」が必要な時代には、公表する時点で誰かが「それはやめておいたほうがいいよ」とストップしてくれたような内容でも、今は、自分の力で世界中に「告発」できてしまうような時代になってしまっているのです。それはむしろ、告発者にとって、自分を貶める危険が高いにもかかわらず。 ブログが一般的になればなるほど、どんどんブログが書きにくくなっていくというのは、なんだかとても皮肉な話ではあるのですけど。
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2006年03月19日(日) ■ |
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「カーリング娘。」にとっての「オリンピックの意味」 |
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「Number.648」(文藝春秋)のトリノオリンピックの特集「日本女子カーリングチーム・小野寺歩〜心に響いた励まし。」(松原孝臣・文)より。
(トリノオリンピックでの大活躍で一躍時の人となった、日本女子カーリングチームの小野寺歩さんへのインタビュー記事の一部です)
【インタビュアー:メダルへの思いにあるものは。
小野寺「カーリングはすごくマイナーなスポーツで、『あんなのはスポーツじゃない』とか、中傷する話も耳にしていました。自分はプライドを持ってカーリングをやっている。そう言われるのが悔しかった。それには五輪でアピールするしかない、メダルを取ってカーリングの魅力を知ってもらおう、歴史を作りたいと思って臨みました」
インタビュアー:カーリングは頭脳とともに、実は体力面もきつい競技ですよね。
小野寺「見た目より全然ハードです。全身を使います。それに試合は2時間半以上。体力がなければ集中力も続かない。だから夏場は徹底的に体を鍛え上げます」】
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小野寺さんは、北海道常呂町生まれで、13歳から競技を始められたそうです。カーリングができる環境を求めて2003年に青森に移住して「チーム青森」を結成した、というような話は、ここで書かなくても、もうみんな聞き飽きているかもしれません。 トリノオリンピックでの大活躍で、カーリング教室は大盛況となり、「チーム青森」のメンバーも「カーリング娘。」なんて呼ばれたりして大人気なのですが、この小野寺さんのインタビューを読んでいると、これまでの彼女たちの道のりは、けっして平坦ではなかったということがよくわかります。 「カーリング」という競技は、「なんだか石みたいなやつを投げて、ホウキで床をゴシゴシするやつ」というのが世間的な認識で、学校のトイレ掃除をサボるときの遊びのネタにされるとか、「なんでこんな競技がオリンピックに?」と話題にされるとか、そういう語られ方しかしてこなかったような気がしますし。僕も内心「カーリングとかだったら、自分もオリンピックに出られるんじゃないか?」なんて思ったりもしていました。
でも、実際のカーリングという競技は、小野寺さんがここで語っておられるように、けっこう体力的にもハードなようです。試合時間が2時間半以上というだけでも、それだけの長時間集中力を切らさないだけでもけっこう大変だし、あの重いストーンを「目標に確実に投げる」というのは、かなりの筋力と正確な投擲の技術が必要になるはずです。僕は昔弓道をやっていたことがあるのですが、あれも「弓を引くだけだから、そんなに体力は要らないはず」だと思い込んでいたのですが、確実に的に向けて矢を射るためには、けっこう体力・持久力が必要なものなのです。そもそも、重心がしっかりしていなければ狙いなんて定まるわけがないし、重心をしっかりさせるためには、ある程度の基礎体力が無いとダメなんですよね。そりゃあ、スピードスケートの選手たちほどのハードな体力トレーニングではないでしょうけど。
それにしても、今回、小野寺さんたちは、他の競技の全般的な不振もあって、「カーリングの魅力」を日本中に伝えることができましたが、彼女の【五輪でアピールするしかない、メダルを取ってカーリングの魅力を知ってもらおう】という言葉の切実さには、なんだかすごく考えさせられました。マイナー競技であるがゆえに、4年に1度のオリンピックで、しかもメダルに絡むくらいでないと「世間にアピールする機会すらない」というのは、大きなプレッシャーだっただろうなあ、って。他の大会でどんなに活躍しても、オリンピック以外では、誰もカーリングに見向きもしてくれないのだから。 小野寺さんは、このインタビューのなかで、【ソルトレイクが終わって4年間、五輪のことを考えない日は1日もありませんでした。この4年間を1週間のために費やしてきた。】と語っています。「じゃあ、Jリーグで頑張ろう」とか「ペナントレースで活躍すればいいや」なんて言うことができない、「マイナースポーツの悲哀」が。ここにはあるのです。自分で選んだ道とはいえ、本当に大変だったと思います。 こういう話を聞くと、なんだか、「せっかく話題になっているんだから、もうちょっと頑張ればいいのに」とか言うのも、ちょっと申し訳ないような気もしなくはないですよね。
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2006年03月18日(土) ■ |
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柴咲コウさんの「裸眼とメガネとコンタクト」 |
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「日経エンタテインメント!2006.4月号」(日経BP社)の柴咲コウさんのロングインタビューの一部です。柴咲さんのプライベートライフについての質問から。
【インタビュアー:目が悪いけどコンタクトをしてないというウワサは本当ですか。
柴咲:はい。映画を撮るときも絶対しない。バイクを運転するシーンとか、見えなきゃ困るときだけ。
インタビュアー:家ではメガネ?
柴咲:お化粧もするときには絶対にコンタクト。視界良好、毛穴もよく見えるじゃないですか。めんどくさいやってときはメガネ。】
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僕は「メガネがないとメガネがどこにあるかすらわからない」ほどの「メガネ愛好家」なのですけど、この柴咲さんの裸眼とコンタクトとメガネの使い分け、なんだかとても不思議な気分になってしまいました。いや、僕の場合はもともとドライアイ気味なのでコンタクトという選択肢そのものが無いのですけど、これを読んでいると、柴咲さんは別に「コンタクトを入れられない」ってわけでもなさそうです。 まあ、女性の場合「人前ではメガネじゃなくてコンタクト」という人はけっこういると思うのですが(余談ですけど、そういう人のメガネ姿をたまに見ると、なんだかちょっとドキッとしますよね)、柴咲さんは、「女優としては、コンタクトを入れてカメラの前に出ることすら抵抗がある」ということなのでしょうか。このインタビューの雰囲気だと、それ以外でのプライベートでも、「化粧をするとき意外は、みんな裸眼」という感じです。 確かに、僕もメガネをかけ始める前までは、目が悪くなったことを自覚しながらもメガネはカッコ悪いというイメージがあって、慣れるまではかなり抵抗があったのですが、実際に使い始めてみると、その「見える」という便利さには抗えず、こうしてメガネ愛好家になってしまったのです。でも、柴咲さんのようにメガネを使いながらも裸眼メインというのを維持するのって、すごい意志の力がいるのではないでしょうか。メガネをかけて外を歩くことを覚えると、メガネ無しでは、けっこう怖いと思うのですが。 それにしても、女性というのは、家では「化粧をするため」にコンタクトとメガネを使い分けていたりするものなんですね。こういうのはまさに、僕の知らない世界だなあ。
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2006年03月17日(金) ■ |
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「お水ください」に秘められた決意 |
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「NAMABON」2006年4月号(アクセス・パブリッシング)の原田宗典さんの連載エッセイ「そういえばこないだ」より。
(原田さんが近所の商店街の小さなカレー屋に入ったときに「水のピッチャー」が出てきて感心したというという話の続きです)
【別にピッチャーがなくたって、店員に水のおかわりを頼んでガブ飲みすればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、混みあっている時や、店員からは死角にあたる席についた場合などには、やはりどうしても遠慮してしまう。だから店員の動向や顔色を窺いつつ、声をかけるタイミングを探るようになる――するとこの間には、頭の中で「何と言って水を頼もうか」なんてことを考えてしまったりする。ただ水のおかわりを頼むと言っても、その店の雰囲気や店員の態度、性別、こちらの気分によって、頼み方は様々である。そういえば私の父親は、どんな店に入っても、空になったグラスを軽く掲げて、大きな声で、 「おひやちょうだい!」 と頼むのが常であったが、これを真似するのは、なかなかどうして難しい。店員が若い女性だったりすると、”おひや”という言葉が通じなかったりするし、”ちょうだい”という言葉がなれなれしく響いて、怪訝な顔をされることもある。やはりここはひとつごくベーシックな言葉を選択して、 「お水ください」 と言うべきだろう――そう判断を下して、店員が近くを通りがかった時に、この言葉を口にする。ところが私の場合、遠慮がちな気持ちがあるために声が小さくなっているからだろうか、3回に1回くらいの割合で、申し出を無視されてしまうのである。自分としては色々と気を遣って、できるだけハキハキと口にしたつもりの「お水ください」が伝わらなかった時の、恥ずかしい挫折感というのは、小さからぬものがある。店員には届かなかったその声が、大抵他の客たちには聞こえていて、周囲には、 「おっと、空ぶりですね」 「お気の毒さま」 「バーカみたい」 などという同情とも嘲笑ともつかぬ雰囲気がもやもやーんと漂うので、こちらとしてはいたたまれない気分を味わう。】
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僕はこの原田さんの文章を読みながら、「ああ、こういうのって、僕だけじゃなかったんだ!」と、ものすごく心強い気分になりました。いやほんと、あの「お水ください」が伝わらなかったときの挫折感というのは、本人にとってはかなりのものなのです。 僕はもともと滑舌が悪く、その上自意識過剰であまり人前で大きな声が出せないので、こういう「お水ください」とかを店員さんに言うのって、すごく苦手なんですよね。その上「お水だけなんて、タダなんだから悪いかなあ…」なんて考え始めたりすると、「お水ください!」なんて大声で叫ぶのは、なんだかとても嫌になってしまいます。ましてや、その「嫌な自分を押し殺して出した叫び」がスルーされてしまうと、ものすごく落ち込んでしまうのです。もともと自分自身に「滑舌が悪い」とか、「声が小さい」なんていうコンプレックスがあると、なおさらこういうのってショックを受けるんですよね。「ああ、僕の言い方が悪いから伝わらないんだ……」って。 そんな感じですから、もちろん「おひやちょうだい!」なんて言ったことはありません。それで「なんて馴れ馴れしいオッサン!」とか思われたら悲しいもの。回転寿司でも、たどたどしく「お会計(あるいはお勘定)おねがいします」を貫いて生きてきました。「おあいそして!」と言える大人にいつかなれるのだろうか?なんて思いつつ。「おあいそ」なんてカッコつけちゃって…なんて周りにみられるもの嫌なんですよね。 そして、回転寿司での注文のときには「マグロ1皿お願いします」なんてガチガチになって店の人にお願いしては、同行者に「そんなに気合い入れて注文しなくてもいいんじゃない?」なんてバカにされたりするわけです。そんなこと言われても、あなたの声はよく通るし聞き返されることはないかもしれないけれど、こっちだって必死で注文しているんですよね、その「マグロ1皿」を。あの「はあ?」って聞き返されるときの辛さって、ハキハキ族には一生わかんないだろこんちくしょう。 ほんと、ああいう「お水ください」というような店員さんへのアピールって、意識すればするほど難しくなるような気がします。 だから僕は、「活気がありすぎる店」って、いまだに苦手なのですよね。その一方で、あんまりしみじみと構われるのもダメなんだけどさ。
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2006年03月15日(水) ■ |
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メジャーって少しダサくないとダメ。 |
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「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2006年4月号の記事「INTERVIEW〜映画に命を吹き込む人々」より。
(「北斗の拳」の「週刊少年ジャンプ」連載時からの担当編集者であり、3月11日から公開中の映画「ラオウ伝 殉愛の章」の製作総指揮・脚本を手がけた堀江信彦さんへのインタビュー記事の一部です。
【今回の執筆で、堀江氏はバックに音楽を流して作品世界に入り込んだ。 「教会音楽や、エスニックなものなど。『北斗神拳』のルーツを考え、シルクロードから中国を経て日本にきたイメージを深く持ちました。映画本編の音楽もそう。シュウが聖帝十字陵に巨大な聖碑を担いで上るシーンの曲は、じつに荘厳ですよ」 その曲はニューヨークまで遠征、フルオーケストラで録音した。 「僕は『メンズノンノ』の編集長もやってたからわかるんだけど、メジャーって少しダサくないとダメ。だから映画の一箇所にテレビ主題歌だった『愛をとりもどせ!!』を新しいヴァージョンで入れてあります。全編クラシックでくるかと思ったら、ダダダ!と始まる。ウケたい、喜んでもらいたいというダサさ、つまりサービス精神です」 その『愛をとりもどせ!!』も、フルオーケストラで録った。 「ねぜここに歌が入るのか(笑)。最近、『俺カッコイイの作ったから、お前見ろよ、気に入らなかったら帰れよ」というような突き放した映画が多いけれど、俺たちはマンガ上がりだから、喜んでもらいたい。自分が喜ぶことには限界があるけど、人を喜ばせてその顔を見て喜ぶのは限界がないでしょ」】
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先週末から公開されている、映画「ラオウ伝 殉愛の章」なのですが、脚本はこの堀江さんが書かれていたみたいです。堀江さんは集英社の「週刊少年ジャンプ」の編集者から編集長を経て、2000年に同社を退社、現在は「週刊コミックバンチ」(新潮社)を出している株式会社コアミックスの代表取締役として活躍されています。 このインタビュー記事のなかで、いちばん僕の印象に残ったのは、【メジャーって少しダサくないとダメ。】という言葉でした。そう言われてみると、「北斗の拳」そのものも、ストーリーそのものはまさに「少年漫画の王道」なんですよね。ここで堀江さんが例に挙げられている、あの「YOUはSHOCK!」でおなじみの「愛をとりもどせ!!」が使われている場面、僕はまだこの映画そのものは未見なのですが、「なんてベタベタなんだ…」と思う一方で、やっぱりそのシーンは盛り上がるだろうなあ、とも感じるのです。「世界の中心で愛をさけぶ」とか「東京タワー」とか「ハリー・ポッター」とか、「ものすごくメジャーになる作品」っていうのは、確かに、「あんなの珍しくもなんともないのに…」と「違いのわかる人々」からバカにされるくらいの「わかりやすさ」が必要なのかもしれませんね。そもそも、その作品を読んだり観たりしてくれる人の大部分は、「少しダサい、普通の人々」なのですから。 「北斗の拳」そのものは、20年前から全く同じストーリーの作品なのに、こうして今また再評価されているというのは、結局、「王道」には、いつの時代にもそんなに変わりはないのだ、ということなのかもしれません。 ただ、こういう「サービス精神」ってかなり微妙な匙加減というのがあって、「王道」も度がすぎるとさすがに呆れられてしまうような気もしますけど。
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2006年03月14日(火) ■ |
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「疑惑の判定」と「野球大国」の良心 |
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共同通信の記事より。
【野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)2次リーグの米国−日本で、西岡(ロッテ)のタッチアップでの生還の判定が覆ったことは、13日付の米各紙でも取り上げられ、判定変更に批判的な論調が目立った。 USAトゥデーは試合展開よりも、事の経緯を詳しく紹介し「テレビのリプレーを見る限り、西岡の判定を変えたのは間違いである」と主張。ニューヨーク・タイムズ紙は「野球を通じて友好を深めるはずの大会で、最初の事件が起きた」と批判した。 】
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いやほんと、あの「疑惑の判定」はあんまりでした。目の前で見ていた塁審のジャッジを無視して、いきなりアウトに判定が覆るなんて…何度VTRを再生してみても、「あの西岡選手の離塁のタイミングがアウトなら、ルールブックのほうが間違ってるだろ!」と言いたくなるほどの酷い判定。ましてや、あの8回表の日本の攻撃は、まさにこの試合の「ヤマ場」でしたからねえ… 僕もずっと怒り心頭で、「何が野球大国アメリカだ!」とものすごく憤っていたのです。まったく、八百長大国じゃないか、と。 この共同通信の記事を見て、僕も最初は「当たり前だろ」と思ったのですが、その一方で、「でも、日本のスポーツ界というのは、これを『他人事』として罵倒できるのか?」という気が少しずつしてきたのです。 記憶に新しいところでは、あの「亀田3兄弟の長男のローブロー」なんて、多くのメディアでは、「亀田がボディに猛然とラッシュしてKO」と平然と伝えられていましたし、何年か前のK−1の武蔵選手の試合なんて、「これでドロー?!」とか「これで判定勝ち?」なんていうのが何度もありました。オリンピックなどの国際試合での日本の解説者は、判定そのものに疑問が残るようなものでも、日本に有利な判定の場合、「いやーラッキーでしたね。でも、審判は絶対です!」なんてサラッと流してしまうことがほとんどのような気がするのです。メディアもまた然り。日本が有利な「疑惑の判定」については、「これもまたスポーツの一面なのだ」とか書いてスルーしまくり。「ボクシングやK−1は『興行』だろ?」と言われそうですが、このワールド・ベースボール・クラシック(WBC)だって、2次リーグからは、「野球大国」アメリカで行われる「興行」とも言えるわけです。万が一、この2次リーグでアメリカがアッサリ敗退するようなことがあれば、アメリカの人々はしらけきってしまって、興行としても失敗するのは目に見えていますし、「メジャーリーグの国」の威信はズタズタになってしまうでしょう。 でも、アメリカのメディアは、そういう破綻をもたらす可能性があるにもかかわらず、「自分の国の過ち」に対しても、こうやって、声を挙げる姿勢を持っているのです。もちろん、全部のメディアがそうなのではなく、こういう「反体制メディア」が取り上げられているだけなのかもしれませんが。 あの審判は無能だと思うし、ああいう場面でビデオを使用しない頑迷な姿勢には疑問が残るし、何より、あんないい試合があんな判定でぶち壊しにされてしまったことには憤りを感じますが、それでも、「アメリカの恥知らず!」と言い切れるほど、日本のスポーツ界やスポーツメディアは立派なものではないと思えて仕方がありません。
もちろん、準決勝でアメリカには完膚なきまでに「お返し」を! ……って、アメリカ、韓国に惨敗してるんですけど……
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2006年03月13日(月) ■ |
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ありきたりなことが真面目に行われている生活 |
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「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン」(リリー・フランキー著・扶桑社)より。
【オカンに起こされ、目を醒ますとすぐ隣のキッチンから、味噌汁の匂いとぬか漬けの香りがしている。オカンの少ない荷物の中にはオカンの唯一の宝物であるぬか漬けの壺が当然のように入っていて、到着したその瞬間から、毎日かき混ぜられ、その日その日の野菜が漬けられていた。 自堕落の生活の染み付いていたボクは、どんなに重要な用事があっても寝覚めが悪く、遅刻、すっぽかしを繰り返していたのだけれど、このオカンの作る朝食と、ボクが起きる時間に合わせて漬けられたぬか漬けの威力には不思議と目が醒めたものだった。 風呂が沸かしてある。洗濯物が畳んである。部屋が掃除してある。キッチンからはいつも食べ物の匂いがたちこめている。 湯気と明かりのある生活。今までと正反対の暮らし。あの頃、あれだけ仕事に集中できたのは、あの生活があったからなのだと思う。 ありきたりなことが真面目に行われているからこそ、人間のエネルギーは作り出されるのだろう。】
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リリー・フランキーさんの大ベストセラー「東京タワー」の一部です。大きな病気をされたあと息子であるリリーさんと一緒に暮らすために東京に出てきたオカン(=リリーさんのお母さん)の同居生活。【年老いた母親と30を過ぎた独身の息子が古い雑居ビルの小部屋ではにかみながら暮らしている様子】なんて、リリーさんは、ちょっと照れながら書いておられますが。 僕は結局、大人になってからは自分の母親とずっと2人で同居する機会はありませんでしたし、結婚経験もないので、こういう生活の実体験はありません。正直、自分が20代半ばくらいにこの文章を読んだとしたら、「ふん、無頼を気取っていたリリーさんも、なんだかマイホーム主義になっちまってつまんないねえ」なんて、心の中で嫌味のひとつも投げつけていたような気もします。 でも、30代半ば、独身である僕は、この文章に深く頷いてしまうのです。ああ、本当にその通りだ……と。 20代いっぱいくらいまでは、仕事漬けで、寝食を忘れ、コンビニ弁当と牛丼チェーンとほかほか亭のローテーションでも、そんなに不満はなかったのですよ。きちんと太陽の下に干されたふかふかの布団で寝なくても、部屋が散らかっていても、まあ、そんなものなのだよね、僕は仕事が大変なんだからしょうがないさ、と。 しかしながら、最近、日常生活が乱れていると、人間というのはどんどん消耗していくものだなあ、とつくづく思うのです。いや、食事ひとつにしても、「また今日もいつもの弁当か牛丼かラーメンか…」とか考えるだけでも、なんだかもう、ご飯食べなくていいかな…とかいう投げやりな気持ちにすらなるのです。いわゆる「クリエイター系」には、無頼な生活を公言している人もいらっしゃいますが、普通の人間が普通の仕事をするためには、「ありきたりのことが真面目に行われていること」というのは、とてもとても大事なことなんですよね。僕が子供の頃に当たり前だと思っていた、ご飯の時間になったらご飯が出てくる生活、いつも新しい下着が用意されている生活というのは、本当は、ものすごく貴重なもので、周りの人々の献身的な努力によって維持されていたものだったのです。それを失ってしまって、自堕落な生活に耐えられなくなってきたこの年齢になって、あらためて僕はそれを痛感しています。 いやまあ、自分できちんとやれ、と言われれば、返す言葉がないのですけど……
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2006年03月11日(土) ■ |
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日本では幸福になりづらいのだ。 |
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『プロ論。2』(B-ing編集部[編]・徳間書店)より。
(水木しげるさんの「プロの哲学」をテーマにしたインタビューの一部です)
【水木サン(水木しげるさんは、自身をこう呼ばれるのだそうです)は、ヒットさせようと思って描いたことはないですね。それよりも自分が面白くて、描きたくてしょうがなかった。好きなことですから、時間も忘れて描いてしまう。だから、あっという間に数十年がたっちゃって(笑)、気づいたら60代。考えてみると幸せな人生です。でも、幸せだったと気づいたのは、80歳を過ぎた最近なんですけどね(笑)。 とんでもない忙しさでしたが、海外旅行にはよく行ってました。やっぱり南がいい。南は豊かで楽しい暮らしをしている。だから、そこに住んでいる人は妖怪を感じる「妖怪感度」が高い。パプアニューギニアのセピック川沿岸なんて最高です。文明社会に暮らす人は、あんな何もない場所で、なんて思いますが、モノはなくても精神的に豊かなんです。なんたって働かない(笑)。それでも食べていける。 それこそ、彼らが日本に来たりしたら、地獄だと叫びますよ。文明社会で暮らそう、学校に行こうという人も現れない。僕は幸福観察学会なんてやっていますが、幸福学なんて彼らには必要ないんです。文明社会こそ、モノがないと落ち着かなくて、幸福学みたいなものを追い求めるんです。 でも、日本で暮らしているんだから、これはしょうがない。だとすれば、素直に受け入れる必要がある。日本では幸福になりづらいのだ、と。カネがないと厳しい世の中なのだと認識することです。となれば、頑張って働くしかない。怠けてカネをもうけた話は、いまだかつて聞いたことがありませんからね。 好きなことをやるのは当たり前。だって、その方が頑張れるもの。でも、それだけじゃダメ。頭を使って、知恵を振り絞らないと。成功するんだという強い意志を持って努力しないと。 特に若い人に言っておきたいのは、苦しむことから逃げちゃイカンということです。若いときにラクしようとしたらイカン。ちょっとでも苦しい方向に行かないと。いいですか、人生はずっと苦しいんです。苦しさを知っておくと、苦しみ慣れする。これは強いですよ。 ラクはいつでもできます。でも、ラクばかりしていると、もっと苦しいことが待っていたりする。水木サンの若いころは軍隊でした。軍隊は、つらいなんてもんじゃなかった。しかも、死と隣り合わせです。それを考えれば、今の若い人は幸せです。努力次第で何でもできるからです。】
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水木しげるさんは、1922年生まれですから、現在は80代半ばになられます。この日本という国に生まれて「どうして自分は幸せになれないんだろう?欲しいものが何でも手に入るところにあるはずなのに」と悩んでいる僕にとっては、ここで水木さんが仰っている【日本では幸福になりづらいのだ】という言葉には、そうなのかもしれないなあ、と素直に頷いてしまう部分と、「とはいえ、南の島で、とりあえず『遊んで暮らせる』ような生活というのが、本当に幸せなんだろうか?」と疑問を感じる部分が混在しているのです。 でも、確かに「働かずに食べていける生活」というのは、ものすごく魅力的というか、人間の本能は、たぶん、それがいちばん「幸せ」なのだろうな、とは感じます。ネット上にたくさんある「簡単な仕事で遊んで暮らせる!」なんて誘い文句には、その内容のいかがわしさも手伝って「遊んで暮らして何が面白い?」なんて反発してしまうのですけど、逆に言えば、「努力して自分の才能を世界に証明しようとする」ことというのが「幸福への近道」であるというのは、「文明社会が決めたルール」でしかないのかもしれません。みんながそうやって努力すればこそ、文明社会というのは維持できるわけですし。 そもそも、「モノがないと不幸」だと感じるのは、「モノがある生活」を知っているからなんですよね。縄文時代の人は「テレビや冷蔵庫がないから困る」なんて考えはしないわけで。 もちろん、彼らには彼らなりに物質的な幸福」を求めていたのかもしれませんが。 水木さんは、そんな「幸福になりづらい日本」に生きる人々に対して、「でも、しょうがないから頑張るしかないんだよ」と仰っています。考えてみれば矛盾しているような気もしますが、こういう切り替えの速さもまた「妖怪的」たるゆえんなのでしょうか。 まあ、正直なところ「軍隊体験」を出されてしまうと、現代人としては、「それに比べたら今の自分は恵まれているよなあ」と考えざるをえないんですけどね。対抗して自衛隊に入るほどの気力も体力もないですし。
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2006年03月10日(金) ■ |
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村上春樹の生原稿を「流出」させた男 |
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日刊スポーツの記事より。
【作家村上春樹さんの自筆原稿が本人に無断で流出し、古書店やインターネットで高値で売りに出ていることが10日までに分かった。同日発売の月刊誌「文芸春秋」4月号に村上さん本人が経緯を寄稿した。 16ページにおよぶ村上さんの寄稿「ある編集者の生と死」によると、流出した原稿は複数あり、インターネットのオークションにかけられたり古書店で売られたりしている。例えばフィッツジェラルド作「氷の宮殿」の翻訳は、400字詰め原稿用紙73枚で100万円を超す値段で古書店に出ていたという。 寄稿によると、これらの原稿は村上さんが、中央公論社(現中央公論新社)の編集者に直接渡した。編集者は退社後、2003年に亡くなった。 村上さんは「生原稿の所有権は基本的に作家にある」とし、「流出したまま行方不明になっている僕の自筆原稿はまだ大量にある。それらが不正に持ち出された一種の盗品であり、金銭を得るために売却されたものであることをここで明確にしておきたい」と書いている。 中央公論新社は「村上氏にはご迷惑をおかけし、申し訳ないと思っております」とコメントしている。】
以下は、「文藝春秋」2006年4月号に村上春樹さんが寄稿された「ある編集者の生と死―安原顯氏のこと」の一部です。
【安原顯氏が小説を書いていたことを知ったのは、かなりあとになってからだ。彼はいくつかの筆名で、あるいはときには実名で小説を書いて、それを文学賞に応募したり、あるいは小さな雑誌に発表したりしていた。自分が担当している作家たちにも自作を見せてまわって、感想を求めていたらしい。正直言って、とくに面白い小説ではなかった。毒にも薬にもならない、というと言い過ぎかもしれないが、安原顯という人間性がまったくにじみ出ていない小説だった。どうしてこれほど興味深い人間が、どうしてこれほど興味をかき立てられない小説を書かなくてはならないのだろうと、首をひねったことを記憶している。いちばんの問題は、自分が本当に何を書きたいのか本人にもよく見えていなかったというところにあるのだろうが、いずれにせよ、これだけの派手なキャラクターを持った人ならもっともっと面白い、もっと生き生きとした物語が書けていいはずなのにとは思った。しかし人間性と創作というのは、往々にして少し離れた地点で成立しているものなのだろう。 知る限りにおいては、彼の小説が賞を取ることはなかったし、広く一般の読者の注目を引くこともなかった。そのことは安原さんの心を深く傷つけたようだった。僕も何度か彼の作品を読まされて、そのたびに当たり障りのない感想を述べていた。悪いことはひとことも言わなかったと思う。良い部分だけを取り上げて、そこを集中して熱心に褒めた。もちろんどんな作品にも必ず良いところはあるから、それは決してむずかしいことではない。とはいえ彼も熟練したプロの編集者だから、こちらのほめ方にもうひとつ気合が入っていないことくらいは簡単に察する。それで何度か僕に対して腹を立てたことがあった。この人らしいといえばそれまでだが、彼が僕に求めていたのは批評ではなく、感想でもなく、熱烈な無条件の承認であり、応援だったのだ。 「あのな、あの****(高名な批評家)でさえ、この作品を絶賛してくれたんだぞ。素晴らしい、見事だといってくれたんだぞ。なんでお前(ごとき)がもっときちんと褒められないんだよ?」と面と向かって難詰されたこともある。こうなるとまるで子供のむずかりみたいだが、本人はそれだけ必死なんだなという切実な印象は持った。とにかく笑いごとではまったくなかった。安原さんがその人生を通じて本当に求めていたのは小説家になることだったのだろうと今でも思っている。編集者として多くの作家の作品を扱ってきて、「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ。】
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この「村上春樹自筆原稿流出事件」を今朝ヤフーのヘッドラインで読んだときには、率直なところ、「ああ、またこういうニュースか…」としか思いませんでした。作家の昔の原稿流出なんていうのはそんなに珍しい話ではないですし、以前には漫画でも同じような事件もありましたし。流出した「氷の宮殿」の翻訳が73枚で100万円を超えていたということや、18時の全国ネットのニュースで最初から2番目に取り上げられたということに対して、「さすがは村上春樹」と、感心してしまったくらいだったのです。 でも、この文藝春秋に村上さんが寄稿された文章を読んでみると、そこに書かれていたのは、ある編集者と作家の愛憎入り混じった物語でした。村上さんの原稿を無断で自宅に持ち帰った、安原顯(あきら)さんという編集者は、村上さんの「数少ない友人のひとり」だったのです。 村上さんは作家デビューされる前に千駄ヶ谷でジャズを流す店を経営されていて、安原さんはその店の客のひとりでした。その頃の安原さんは、カウンターのなかで立ち働いているバーテンダーが、のちの日本を代表する作家だとは、夢にも思っていなかったに違いありません。そして、「風の歌を聴け」で村上さんがデビューしてからしばらくは、「サラリーマン的ではない編集者」と「文壇が苦手な小説家」は、「異分子同士」の連帯感があったようです。ただし、仕事の上では、「作家をコントロールしたがる」安原さんは村上さんの好みのタイプの編集者ではなかったようで、一緒に長編の仕事をしたことはなかったそうなのですが、それでも、当時は誰も知らなかった海外作家を村上さんが翻訳したものを雑誌に掲載してくれたりして、村上さんは、現在でも安原さんに対する感謝の念は持っている、とも書かれているのですが。 しかしながら、ある日を境に(「その日」や「そのきっかけ」は、村上さんもわからないと書かれていました)、安原さんは壮絶な「村上春樹バッシング」を始めます。そして、それ以降、2人は絶縁関係となりました。
上に引用させていただいた文章は、村上さんが「小説家・安原顯」について書かれている部分なのですが、僕は正直、これを読んで、安原さんという人の心境を考えると、この人を「裏切り者!」と言い切れないような、やりばのない哀しみを感じるのです。一方の当事者である村上さんが書かれた文章なので、100%の事実とはいえないのかもしれません。でも、自分が大手出版社の編集者だったときに空気のようにバーテンダーをやっていた男が、あっという間に国民的な作家になっていき、自分は置いてきぼりにされてしまっているというやるせなさが、この安原さんの言動から伝わってくるのです。この「自分の才能を信じたくてしかたなかった男」に対する、村上さんの【「これくらいのものでいいのなら、俺にだって書ける」という思いを抱くようになったのだろう。その気持ちはよくわかる。また書けてもおかしくはなかったと思う。しかし、何故かはわからないのだが、実際には「これくらいのもの」が書けなかったのだ。】という言葉は、もしかしたら、泉下の故人にとっては、原稿流出なんて比べ物にならないくらい強力な「しっぺ返し」なのかもしれません。この「紙一重」が、永遠に届かない差であることは、村上さんにも、安原さんにもわかっていたはずなのです。 そう、安原さんには、「作家としての決定的な何か」が足りなかった、ということなのでしょうし、それをこんなふうに「文藝春秋」に書かれるなんて、本人が読んでいたら、すごい屈辱を感じていたことでしょう。 でも、それを目の前の「天才」の前で認めたくない安原さんの気持ちは、「神の座」に到底届かない僕にもよくわかります。「アマデウス」のモーツァルトとサリエリのように、安原さんにも「才能」がそれなりにあったからこそ、かえってその「圧倒的な差」を自覚せざるをえなかったのかもしれません。
安原さんは3年前に亡くなられているのですが、亡くなられる前から出版社に無断で自宅へ持ち帰っていたさまざまな作家の生原稿を、古書店で「処分」していたそうです。彼が作家の生原稿を売り払っていたのは、それを自分の「財産」だと疑うことがなかったからなのか、高く売れる事を知ってお金に目がくらんだためだったのか、作家たちへのなんらかの「復讐」であったのか、それは僕にはわかりません。村上さんも「わからない」と書かれています。むしろ「金に困って」だったらまだマシだ、とすら思っておられるのではないかなあ、と僕には感じられます。 多くのメディアでは、「人気作家の原稿流出事件」として扱われていますが、おそらく、村上さんにとって「流出」してしまったものは、自分の生原稿だけではないのでしょうね。本当に、人の心ってやるせない。
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2006年03月09日(木) ■ |
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東野圭吾さんが「作家になって一番辛かった時期」 |
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『オール讀物』2006年3月号「第134回直木賞決定発表」より。
(『容疑者Xの献身』で、第134回直木賞を受賞された、東野圭吾さんの自伝エッセイ「楽しいゲームでした。みなさんに感謝!」の一部です)
【そして7月2日の午後7時半頃、運命の電話が鳴った。 「おめでとうございます」 この台詞を耳にした時には、頭がくらっとした。新しい世界への扉が開かれる音がはっきりと聞こえた。 事実、それからほんの少しの間はバラ色だった。単行本の『放課後』は十万部も売れた。週刊文春のベストテンで1位にも選ばれた(当時が乱歩賞作品が1位になるのがふつうだったが、そんな事情は知らなかった)。 しかしそんなものが長く続かないことは私にもわかっていた。ここが勝負所だと思った。それで会社を辞めて上京することを決心した。 ところが上京後に会った編集者は明らかに困惑していた。 「あんなにいい会社、よく辞める決心がつきましたね。一言相談していただければ、アドバイスできることもあったのですが」 新人賞を獲り、浮かれて会社を辞めて上京――おそらくそういう新人作家が多いのだろう。それを思いとどまらせるのも彼等の仕事なのかもしれない。 「大丈夫です」私はいった。「十分に計算した上でのことです」 「いや、そうはいっても筆一本で食べていくのはなかなか大変ですよ」 依然として不安そうな彼に私は次のような話をした。 『放課後』は10万部売れた。しかしそれは乱歩賞受賞作だからであり、今後そんなに売れることはありえないだろう。妥当な数字はその十分の一だと考える。つまり1万部だ。 一方会社を辞めることで執筆に専念できるから、年に三作は書くつもりである。 千円の本なら印税が百円入る。要するに年間の印税収入は300万円ということになる。これは会社員時代の年収とほぼ同じである。 以上の話を聞いた編集者は、そこまで考えておられるのなら大丈夫でしょうといって、ようやく笑ってくれた。どうやら彼は私の会社員時代の給料を過大評価していたようだ。 自分で言うのも変だが、この時のシミュレーションは、デビューしたての新米作家が立てたものにしては、じつに正確だった。実際、上京してからの数年間の収入は、この想定額を少し上回る程度にすぎなかったのだ。そしてそのことに不満はなかった。この業界で生きていくことは、当初覚悟していた以上に厳しかった。乱歩賞という看板の有効期間は驚くほど短かった。何しろ翌年の乱歩賞受賞パーティでは、担当編集者以外、殆ど誰も私の名前を覚えていなかったのだ。乱歩賞でさえそんな具合なのだから、他の新人賞ともなればもっと厳しい。毎年、多くの新人作家がデビューしてはいつの間にか消えていくという状況を目にするうち、作家として生活ができるだけでもありがたいと思うようになった。 そんな私にショックを与えたのが、近い世代の作家たちの台頭だった。後からデビューした作家が次々と文学賞を獲り、名前をあげていく。また新本格の旗印をあげた連中が、楽々と大量の読者を獲得していく。 焦ったときには遅かった。私の名前は読者にとっても評論家にとっても新鮮なものではなくなっていた。自分では力作を書いたつもりでも、はじめから注目されていないのだから、話題になりようがない。『天空の蜂』という作品を3年がかりで書いたときには、ペンネームを変えることさえ本気で考えた。 思えば作家になって一番辛い時期だったかもしれない。辞めたいとは思わなかったが、どうしていいかわからなかったのは事実だ。】
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東野圭吾さんが、「放課後」で乱歩賞を受賞して作家デビューされたのは、1985年のことでした。それから今回の直木賞受賞まで、22年間もかかっているわけですね。僕のイメージからすれば、東野さんはずっと「人気作家」だったような気がするのですが、実際は、そんな平坦な道のりではなかったようです。いや、年3冊書いて各1万部で年収300万円で会社勤め時代と一緒、と言ってはみても、その印税収入は、会社員の給料のようにある程度保障されたものではないですし、作家には退職金もありません。編集者も「やっちゃったなあ…」と思ったのではないでしょうか。僕が読んだある女性作家のインタビュー記事では、新人賞を獲った作家に編集者がまず言うのは、「早まっていきなり会社を辞めたりしないでくださいね」ということなのだそうですから。逆に言えば、まずは新人賞を獲ることを「作家の卵」たちは目標としているのだとしても、それは「作家になるための条件」でしかなくて、実際に「作家として食べていける人」というのは、そのうちの一部の人でしかないのですよね。そういう意味では、本当に厳しい世界なのです。【乱歩賞という看板の有効期間は驚くほど短かった。何しろ翌年の乱歩賞受賞パーティでは、担当編集者以外、殆ど誰も私の名前を覚えていなかったのだ。】と東野さんも書かれているように、ごくごく一握りの「注目作家」以外は、すぐに忘れられてしまうのが常の世界。そういわれてみれば、僕だって、文学賞の受賞者を何回か前まで思い出せるのってせいぜい芥川賞・直木賞くらいだし、その受賞者のなかにも忘れてしまっている人がたくさんいます。おそらく、いろんな事情で、「東野圭吾になれなかった作家」というのもたくさんいたのでしょうね。ほんと、華やかな世界のようで、けっしてラクな仕事でも儲かる仕事でもないみたいです。 それにしても、こういうエピソードを読むと、作家にとって自分の担当編集者というのはまさに「苦楽をともにしてきた存在」だというのが、よくわかるような気がします。そして、多くの作家よりも、編集者のほうが高給取りだったりするんだろうなあ、きっと。
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2006年03月08日(水) ■ |
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ナポレオンの「片腕」だった男 |
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「ナポレオンに選ばれた男たち〜勝者の決断に学ぶ」(藤本ひとみ著・新潮社)より。
【情報の収集から決定、実行までの速さに、ベルティエは目を見張った。まるで下士官のような身軽さだった。様々な軍隊の司令部に所属してきたベルティエは、せっかく情報を提供しても、それを生かしきれない将軍をたくさん見ていた。決断力がないのである。今動かなければチャンスを失うと言う大事な局面で動けない。参謀としてははがゆくもあったし、自分のそれまでの努力が無になるむなしさをかみしめることもたびたびだった。 だが、この司令官は違う。もしかして彼なら、現状を何とかしてくれるかも知れない。希望を持ったベルティエはナポレオンと2人になる機会をとらえ、自分の調査結果を報告した。 「よく言ってくれた」 ナポレオンは、ベルティエの肩をたたいて激励した。 「参謀長のあなたは、私の片腕だ。あなたの力なくして私は何もできないだろう。これからも大いに活躍してくれ。期待している。もちろん、それなりの名誉も報酬も用意するつもりだ。よろしく頼む」 それまでベルティエは、司令部の将官として、実戦に関わる将官たちから無言の差別を受けてきた。司令官からもである。 「参謀なんて、しょせん事務屋だからな」 そう言われたこともあった。軍隊においては、銃弾の飛び交う戦場で活躍してこそ名前を認められ、名誉や報奨金を手にすることができる。司令部が情報を収集し、兵站を管理し、統括しなければ軍は戦えないのだが、それを理解する司令官は少なかった。 参謀は陰の存在となり、身分制度がしっかりとしていた革命以前ならともかく、革命後の実力主義の軍内では報いられなかった。 ベルティエは、それを不当だと思いながらも甘んじてきた。声を上げても、取り合ってくれる人間がいなかったのである。だが今ここに、参謀を片腕とまで言ってくれる司令官が現れたのだった。ベルティエは、ナポレオンについて行こうと決心した。自分を評価してくれる人間のために働きたいを思ったのだった。 以来ベルティエは、ナポレオンのかたわらで働き続けた。地図を読み解き、錯綜する情報を整理し、なまりの強いナポレオンの言葉を正確にとらえて文書化し、各部隊に伝達した。 ナポレオンは、ベルティエのペンが追いつけないほどの速さでしゃべり、時には文書化できないほどの俗語を交え、またエルバ島をエルブ島と言い、イタリアのオゾホをイゾープと言い、スペインのサラマンカをスモンレスクと言った。人名も平気で間違え、タレイランのことは終生タイユランと呼び続けていた。 さらに始終話を飛躍させ、一つの作戦を命令している途中に他の命令を思いつき、それを話している間に別の命令を混ぜ、いつの間にか最初の命令に戻っているといった調子だった。 整理の好きなベルティエにとって、混乱は情熱をかきたてるものだった。努力を重ねてベルティエは、ナポレオンについていった。 このため、1日の労働時間が13時間を超えることもまれではなかった。ナポレオンが休んだり眠ったりしている間に、ベルティエは命令書の清書をしたり、補足をしたりしてそれを完璧なものにしなければならなかった。そして休もうとすると、ナポレオンが起きてきて次の仕事が始まるのだった。 四六時中ナポレオンに寄り添ううちに、ベルティエは、ナポレオンの思索を読み取れるようになった。たとえナポレオンが言い間違えても、ベルティエの命令書には、本来ナポレオンが言うはずだったことがきちんと書かれる。ナポレオンはベルティエを絶賛した。 「不可欠の協力者、理想の参謀長だ」 これを面白くなく思ったのは、戦場を活躍の場としている将官たちだった。彼らは事あるごとにベルティエの神経質な性格や、爪をかむ癖などを皮肉った。 ベルティエはたいそう傷ついたが、どうやって対抗すればいいのかわからなかった。口下手だったし、相手は大勢で、しかもりっぱな体格をした戦いのプロだった。ベルティエはじっと我慢をし、ただ働き続けた。】
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皇帝ナポレオンの名前を知らない人はいなくても、ナポレオンを支え続けた参謀長ベルティエの名前は、知っている人のほうが少ないくらいではないでしょうか。僕も、某シミュレーションゲームをやるまでは、こういう人がいたことを全く知りませんでした。 しかしながら、この文章を読んでいると、もし、この有能な参謀長がいなければ、ナポレオンはあそこまでの成功を収めることができたのかどうか、僕には疑問に思えます。ナポレオンがどんなに素晴らしいアイディアを持っていたとしても、天才であるがゆえにあちらこちらに飛躍している話を、「普通の人間」である他の将軍たちや兵士たちに伝わるように「翻訳」する人がいなければ、たぶんそのアイディアは、「机上の空論」に終わっていたはずなのです。「3時間しか眠らずに仕事をしていた」と言われるナポレオンの傍にずっといて、しかも、ナポレオンが休んでいるときも仕事をしていたというのですから、それはまさに「激務」としか言い様がないものだったと思われます。 しかしながら、【緻密で正確かつ迅速な仕事のできるベルティエは、ナポレオンにとって必要な存在だった。だがあまりにも地味で神経質、幅の狭いその人柄に、ナポレオンは、人間的魅力を感じなくなっていった】のです。そして、「緻密な仕事以外には、無価値な男」として、冷遇されるようになってしまいます。のちに皇帝に復位してワーテルローの戦いに臨むナポレオンの周囲の将軍たちは、ナポレオンの招きに応じなかった参謀長・ベルティエの不在を最も嘆いたそうです。彼がいないとナポレオンの軍隊は機能しない、と。 歴史というのは、ひとりの英雄によって象徴されがちなものですが、実際は、この参謀長・ベルティエのような「英雄を支える人々」の力こそ、歴史を動かしていたのかもしれません。 もちろん、ベルティエだってナポレオンに出会うことがなければ、こういう形で歴史に名前を残すこともなく、ただの「几帳面なだけのつまらない人間」として生涯を終えていたのかもしれませんし、こういう人を「片腕」として評価したナポレオンの見識こそが成功をもたらしたもの事実なのでしょう。そして、その見識も、自分が偉くなると失われてしまうというのもまた「人間的」だと言えなくもないのですが……
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2006年03月07日(火) ■ |
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「白い恋人パーク」を知っていますか? |
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「GetNavi(ゲットナビ)」2006年4月号(学習研究社)の記事「大人の工場見学」より。
【チョコレートをランドグシャーでサンドした、北海道へ旅行に行った知人が必ず買ってくるお土産といえば……そう、『白い恋人』。なんでも日本各地のお土産品の中でも売り上げ第2位だとか。そこで、現在恋人募集中の担当は、「恋人の作り方」を学ぶため、一路、北海道へ。 超有名お土産品となった『白い恋人』だが、その製造・販売元は「石屋製菓」という会社で、なんと創業50年以上の老舗製菓メーカーだ。そして、大ヒット作となった『白い恋人』が発売開始されたのは1976年。ヒットのきっかけとなったのは、札幌〜東京間の機内食として採用されたことだとか。現在では、年間約2億枚もの消費量をかかえるオバケお菓子なのです。 そしてこの『白い恋人』が製造されている工場を訪れた担当は、ここでまた驚かされちゃいました。なんぜこの建物、外から見ると、中世英国の雰囲気がプンプンの、まるで豪華なお城。実際に『白い恋人』を製造する工場は「チョコレートファクトリー」と呼ばれ、からくり時計「グランマイスター」や、お菓子&ケーキショップ「ピカデリー」などを併設。さらにサッカーJ2・コンサドーレ札幌の練習場まで含めて、「白い恋人パーク」という名の一大テーマパークを形成しているのです。家族で訪れている人たちもいれば、恋人とデートで訪れている人たちもいます。 この白い恋人パークは年中無休で営業しており、600円の入場料を払えば誰でも『白い恋人』の製造ラインが見学できます。まず担当もこの製造ラインを見学させてもらったのだが、もう建物の中はチョコレートの甘い香りでいっぱい。この工場では約300人が働いており、1日に約54万枚もの『白い恋人』が製造されるとのこと。1日働いていたらチョコの香りが身体に染み付きそうである。これはチョコ好きにはたまらない職場かも。
(中略)
ちなみにこの一連の建物の内装も外装に負けず劣らず豪華絢爛。なんでも社長が、中世英国ファンらしく、本物の豪華アンティーク内装で飾られているのである。これだけでも一見の価値ありだ。】
参考リンク:石屋製菓「白い恋人パーク」 「チュダーハウス」
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『白い恋人』は、確かに有名なお菓子ですが、日本各地のお土産のなかでも売り上げ2位なんですね。北海道限定販売なのに、そんなに売れているとは。そして、いくら北海道の土地が安くて、製菓業が夢を売る仕事とはいえ、ここまで趣味に走りまくった工場まで造ってしまうとは。夢があるというよりは、『白い恋人』って、そんなに儲かるのか…と僕は驚いてしまいました。年間約2億枚っていうことは、日本国民がみんな、1人あたり2枚近くは食べているってことですし、確かに、価格に比べて原価はそんなに高くはなさそう。でも、「お土産」だから、なんとなく言い値で買ってしまうというところもありますよね。いやまあ、確かに美味しいけど『白い恋人』。でも、さすがにみんなお土産がこれだと、「たまには気をきかせてマルセイバターサンド買ってこいよ…」とか、思わなくもないです。でも、『白い恋人』って、値段のわりにたくさん入っているので、お土産としては比較的コストパフォーマンスにも優れているからなあ。
この『白い恋人』、北海道内限定発売らしいのですが、最初は札幌〜東京間の機内食で採用されたのがヒットのきっかけだったとか。東京への帰りの飛行機内で『白い恋人』を食べて、どうしても買いたくなってしまった人にとっては、「悲劇」です。発売開始から約30年ですから、それなりの歴史はあるものの、そんなに大昔からあったというわけではないんですね。こんなお城みたいな工場まで造ってしまうなんて、まさに『白い恋人』さまさまですよね。 ところで、ここまで読まれてきた皆様は、おそらく、「じゃあ、全国1位のお菓子って何なんだ?と疑問に思っておられるのではないでしょうか? というわけで、僕もいろいろ調べてみたのですが、2003年のデータの1位はこのお菓子でした(これ以上新しいランキングが探せなかったので…)。 なお、参考までに2003年のランキングはこちらです。もみじ饅頭とか、八つ橋とかが入っていないのは、ちょっと意外な気もしますが、同じようなものを多くのメーカーが出しているお菓子は、なかなか難しいのかもしれません。 しかし、世の中には、まだまだ僕の知らない「テーマパーク」が、たくさんあるものなのだなあ。
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2006年03月06日(月) ■ |
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パソコンユーザーが、「貴族」だった時代 |
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「ASAhIパソコン」2006/3/15号のエッセイ「価格ボム!」(小田嶋隆・文)より。
【アサパソは、パソコンがまだ、海のものとも山のものともわからないインチキくさいおもちゃだった時代に創刊した雑誌だった。 だから、業界は変わり者のスクツで、読者はマニアの集合で、編集部はひとつのデカいタコ部屋だった。 「潜水艦みたいですね」 と、朝日新聞社内の簡易宿泊施設に閉じこめられた(そう、私は、創刊準備号の締め切りを3ヵ月も延ばしていた)時、私は、創刊時のデスクであった今は亡き三浦さん(合掌)に言ったものだ。 「ボクはここで暮らしてるんだよ」 と、三浦さんは楽しそうに答えた。 そう。当時、4人しかいなかった編集部員は、24時間常駐していた。 メーカーの出してくるソフトは、バグだらけで、そのソフトについて私が書いたレビューにも、少なからぬ誤記があった。でも、誰も腹を立てなかった。 ユーザーはソフトのバグ取りを自分でこなし、読者は誤植を見つけると、うれしそうに電話をしてきた。 なぜなんだろう? どうして彼らはあんなに寛大だったのだろう? おそらく、値段がかかわっている。 当時、マトモに動くパソコンのセットを一通りそろえると、100万円ぐらいにはなった。ソフトウェアも、コピー用紙をホチキスでとじたみたいなマニュアルのついたブツが、5万円で売られていた。 それでも、誰も文句を言わなかった。 どういうことなのかというと、つまり、当時のユーザーは、貴族だったのだ。 パソコンという、カネと時間をやたらと食うわりには、ほとんどモノの役に立たないマシンにかかずりあっていた人間である彼らは、年に一度のウサギ狩りのためだけに10頭の馬と5匹の犬を飼っているどこだかの貴族と同じく、滅び行く人々であったのだ。 1990年代からこっち、パソコンは5年ごとに半額になる調子で値段を下げ、性能の方は、5年で10倍になっていった。 で、われわれはどうなったんだろう? 正直に言おう。オレらは安くなった。チープな存在になった。たった390円の雑誌を高いと感じるほどに、だ。】
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まあ、18年前であれば、当時高校生くらいだった僕の基準からいえば、「マトモに動くパソコンのセット」は、とりあえず50万くらいあれば十分だったような記憶がありますし、さすがにその時代は、「コピー用紙をホチキスで止めたようなマニュアル」の数万円のソフトもほとんど無かったような気がします。今から20数年前くらいは、まさしくこういう状況ではなかったかと思いますが。 そういう点は抜きにしても、僕もこうしてパソコン(マイコン)が純粋に「モノ好きの趣味」であった時代からつきあってきたのですけど、確かに、昔のマイコンユーザーは、ある意味「貴族的」であったのかもしれません。買って来たゲームが起動できなくても、プログラムを入力したにもかかわらずエラーメッセージ連発でも、僕たちは、そういう「思い通りにならないコンピューターという機械」そのものに魅力を感じていたのです。むしろ、「これをいつか思い通りに操れるようになりたい!」と、日々研鑽に励んでいました。コンピューターそのものは、今の時代に比べたらはるかに不親切なものでしたし、マニュアルも分厚いばかりで何をやっていいのかわからなかったし、そのわりにはできることというのは、ほんのささやかなことだったのですけど。当時は、丸1日かけて、「画面の端から端まで線を引くプログラムを組んだ!」とか言って、大喜びしていたのですから。
今から考えたら、その時間も勉強していたら、ハーバード大学にも余裕で合格していたのではないかと勝手に思い込んでしまうくらいです。放っておいても、こんなにいろんなことがラクにできるようになるなら、あるいは、パソコンのほうが、こんなに「人間寄り」になってくれるのなら、あのとき、あんなにしゃかりきになって「マイコン入門」とか読まなければよかった、なんて思わなくもありません。ほんと、今ではBASICでプログラムを組む人なんてほとんどいないし、その必要性もない(いや、昔からなかったんですけどね、残念ながら)。僕よりずっと後からパソコンに触れた人たちが、はるかに速いブラインドタッチで、僕を追い越していくのです。
でもね、正直役に立ったとは思わないけれど、僕にとってのあの時代、日進月歩で進化していく「人に優しくないコンピューター」と過ごした日々というのは、本当に楽しかったんですよね。当時のパソコンというのは、どんどん「できること」が増えていって、自分は「進歩の最先端にいる」という実感めいたものを味あわせてくれたから。万人に便利ではなかったからこそ、「他人と違う自分」に酔うこともできたんですよね。 確かに、当時の僕たちは、周りが何と言おうと、「貴族」だったのかもしれません。パソコンが役に立たなかった時代は、なんて楽しかったのだろう!
昔のマイコンの素っ気なさを知っている僕としては、正直、今の「万人に使いこなせなければならないパソコン」を見ていると、ちょっと、パソコンのほうがかわいそうに思えてくることもあるのですけどね……
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2006年03月04日(土) ■ |
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ライブドアの「儲からない本業」 |
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「週刊SPA!2006.3/7号」(扶桑社)の特集記事「巷に溢れる『ネットで楽して大儲け!』の落とし穴」より。
(「ライブドア社員が語る〜いかに儲からない本業を地道にやってきたか」という項の一部です。個人を特定されないために、複数の社員の話を編集部で総合したものだそうです)
【ホント儲からないですよ。例えばウェブ制作は、1ページの制作費が5万円ぐらい。それで最低5人が動き、外注のギャラや経費も賄うんです。ウェブはいくらでも直せるので、プログラム変更まで必要な修正作業を延々と依頼してくるお客さんもいます。コンサルまでやれば利益は出ますけど、そんな案件ばかりではないですしね。 ポータルの「ライブドア」も大変。150万人の会員がいるライブドアブログのサーバーだけでも維持費が凄いですし、メンテナンスも多い。今、トップページの一番高い広告が、1週間で150万円。ヤフーは480万円です。広告費はページビューで決まるので、堀江さんがメディアに出てたのは「無料のCM」だったんです。 広告の営業も設けるのは大変みたいです。マージンは、自社ポータルが40%、他者媒体は15%、例えばヤフーの一番安い40万円の広告を取ると、入るマージンは6万円。それで、月1000万円近く売り上げないと目標に到達しないとか。朝10時出社で、四季報などで新規のアポイントメントを入れて、スーツ姿で夜まで外回りらしいですから、IT企業なんてイメージはないですよ。 ライブドアは、経費も厳しいです。固定電話はなくてPCに入れたIPフォンだし、ボールペン1本買うにも3社から相見積もりを取る決まりなので、自腹で買うほうが早い。家賃を半分、上限月7万まで補助してくれるけど、残業してもタクシー代は一切出ない。机はヤフーのお下がりです。年収は高い人もいますけど、低い人だと300万円なんてこともあります。ストックオプションも、今となっては単なる紙くずですしね(苦笑)。 (それだけ薄利でカツカツなのに、数字上は儲かってておかしいと思わなかったか?と聞くと) メディア(ポータル)事業部が大赤字なのはわかってました。問題になっている「子会社の利益つけ替え」も、何となく知ってはいたけど、グループ内だから問題ないのかな?ぐらいに思ってたんです。 ファイナンス部門だけが儲かっていたのは知ってます。社員旅行のとき、ファイナンス部の人だけビジネスクラスだったし(笑)。】
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なんだか、この話を読んでみると、「ライブドア」の社員も人もまた被害者だったのかな、という気がしてきます。「メディア(ポータル)事業部」の収入というのは、「ウェブ制作」と「広告費」がメインのようなのですが、これらから得られる利益と、150万人もの無料ユーザーを抱えるブログのサーバーの維持費やメンテナンスにかかるコストを天秤にかければ、どう考えても、「大赤字」になってしまうような。いくら広告費を稼ごうにも、ユーザーを不快にさせずにポータルサイトに貼れる広告には限界があるでしょうし、1週間で150万円のネット広告を出そうという企業が、そんなにたくさんあるとは限りませんし。しかし、「IT企業」に就職したつもりが、一日中「広告取り」に明け暮れている営業の人たちは、けっこう大変なんだろうなあ、と思います。結局、営業の仕事というのは、どこもそんなに変わりないのかもしれません。 このライブドアという会社がダメになってしまった原因というのは、ある意味、「いびつな成果主義」にあったのかな、という気もします。結果として赤字とはいえ、「ライブドア」という企業の知名度を高め、社会的な信用を築いてきたメディア事業部にはこんな「緊縮財政」を強いておいて、その信用を利用してお金を稼いでいたファイナンス部だけが「社員旅行でビジネスクラス」では、会社としての連帯感はものすごく希薄だったのではないでしょうか。それとも、大企業なんていうのはそういうもの、なのかなあ。 しかし、これを読んでいると、「『本業』では儲からない」ということがよくわかります。現在のように、「無料サービスが当たり前で、ユーザーはお金も払ってくれないのに文句ばかり言っている」という状況では、ああいうやり方しかなかったのかもしれませんが、それを「ネット企業の宿命」で済ませていいものなのか、僕はかなり疑問です。 さて、これからテレビのように「広告で運営していくメディア」になるのか、それとも、「ユーザーも費用を負担していくメディア」になるのか? 僕は「ネット上のある程度の自由」を維持するためには、少しくらい費用を負担していくのも致し方ないかなあ、と考えているのですけど。
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2006年03月03日(金) ■ |
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妻をピアノ教室に行かせたくない理由 |
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「マダムだもの」(小林聡美著・幻冬舎文庫)より。
【それはそうと、近所にこれだけの習い事教室がひしめいているのである。始めないテはないではないか。 さっそく、手始めにピアノのお教室に見学に行ってみようかなー、とオットにその旨、話してみた。すると、オットは急に顔を曇らせて、 「え? ピアノ? えーっ。それはやめてよー」 と言うではないか。彼は、少年時代、ほんの少しの期間だったらしいが、ピアノを習っていたことがあり、婿道具として実家からはピアノを持ってきていた。今でも、気分転換にピアノを弾くこともあり、ひとつの曲をしつこいほどに延々と練習したりして、レパートリーは1、2曲だが、なんだかとても楽しそうであった。たま〜に、連弾というのだろうか、簡単な右手のパートをワタシに弾かせてくれることもあり、お互い趣味のないものどうし、これは唯一、老後の共通した趣味になるのでは? と、かなり盛り上がっていたのに。 「え? な、なんで。楽しいじゃん。一緒に弾くの」 「……そういうことじゃなくてさ……」 ってどういうことだかよくわからないが、オットは、突然ブルーモードに入ってしまった。 「ピアノはやめてよ、お願いだから」 「だからなんで?」 「……だって、ピアノだけでしょ?」 「なにが」 「ぼくが、キミより上手なの」 「は?」 「ほかは何もできないでしょ」 「?」 「ほかにとりえは何もないでしょ」 「……な、なに言ってんの」 「唯一、優越感に浸れるモノでしょ。それまでどうぞ奪わないでください」 「…………」 なーんか。どうでしょ。こういうの。一瞬ちょっと気の毒とは思ったけれど、なに唯一の優越感って。それほどまでに、ワタシは、オットに対してけちょんけちょん?そんなことはないでしょう。それに、ワタシにできることだって、たいしたすごいことなんか全然ないし、むしろ、いろんな意味で、オットのことは尊敬さえしているというのに。一方、バレエとなると、 「バ、バレエ? あ、それはイイね。いいよいいよ草刈民代みたい?」 って、アンタそら草刈さんに失礼だろうが。玄米ゴハン食べさすぞ。とにかく、オットは、ワタシがピアノを習うことに断固反対。 「……でも……やっぱ、いいよ」 「え、いいの?」 「うん。……そしたらぼくがピアノをやめるから」 って。サビシそうな目で、遠くを見つめている。 「なんでやめんのさー」 「だって、絶対ぼくよりすぐ上手になるもん」 ……なんか、やーな感じでしょ。ああ見えて、オットはかなり頑固である。 そして、ワタシに対してのなにもそこまでな対抗意識。 とはいうものの、誰の人生って、ワタシの人生だからねー。 どうしたもんでしょうか。とりあえずバレエやっとく? でもやっぱりピアノもやりたい。】
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この文章を読んで、みんな、どう思うんだろうなあ…と僕は考え込んでしまいました。やっぱり、「そんなふうに、妻の趣味や向上心を認めない男なんて最低!」というのが一般的な感想なのでしょうか。 僕自身は、この文章を読みながら、オットのほうに、ものすごく感情移入してしまいました。いや、もちろんこのエッセイ集をこのページまで読んできて、小林さんの優秀さというか、パワフルな仕事のこなしっぷりを知っているから、という面もあるのだとは思うのですが。 一般的に、人間にはプラス面とマイナス面があるし、それを補い合っていくのが夫婦という存在なのでしょう。そして、自分のパートナーは優秀であればあるほどいいし、お互いに高めあっていくのが理想の関係…のはずですよね。 しかしながら、あまりに「優秀なパートナー」と一緒にいると、身近な存在だけになおさら、自分の「コンプレックス」というのが増幅していくのを感じるものではないかと思うのです。そりゃあもう、どちらかが「あなたまかせ」ならともかく、お互いにプライドがあればなおさら。でも、この「パートナーに対するコンプレックス」の最大の問題点は、そのコンプレックスを抱いている本人にとっては、その「コンプレックスそのもの」だけではなく、「自分のパートナーに対して嫉妬するなんて…」という「罪悪感」も同時に抱えてしまう、ということなんですよね。 まあ、そういうパワーバランスがうまくとれていれば、「これは負けているけど、こっちは自分のほうが上だし」と、総合的ににはコンプレックスは中和されてしまうはずなのですが…… たぶん、このオットにとっては、家のなかの出来事で、妻に対して優越感を抱けることがこのピアノしかなくて、それまで負けてしまったら、「コンプレックスのオーバーフロー状態」になってしまうのではないかという気がします。些細なことに思えるけれど、こういうのが「心のよりどころ」だったりするのでしょうね。
ちなみに、御存知の方も多いでしょうが、この小林聡美さんの「オット」は、脚本家・映画監督の三谷幸喜さんです。当代随一の人気脚本家でも、自分の妻に、こんな気持ちを抱いているなんて……ほんと、人間の「コンプレックス」ってやつは、外からみても全然わからないものみたいです。
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2006年03月02日(木) ■ |
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配偶者の「匂い」がわかりますか? |
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「怪食対談・あれも食ったこれも食った」(小泉武夫著・小学館文庫)より。
(東京農業大学教授で、醸造学・発酵学・食文化論専攻の小泉武夫さんがさまざまな著名人と「食」について対談されたものを集めた本の渡辺貞夫さんとのやりとりの一部です)
【小泉:「アラバスター」という匂いの測定器がありまして、これはセンサーを照射して臭みの強さを数値で表すことができるんです。鮒鮨(ふなずし)のふたをパッと開けたところに測定器からのセンサーをサッと当てると、470くらい。焼いたクサヤは1200、納豆は230、ボクのはいている靴下、この間測ったら205.納豆の臭さに近い(笑)。
渡辺:小泉さんの靴下、洗いたてでしょ?
小泉:いやいや、ずーっとはいている今の靴下ですよ(笑)。
渡辺:酒の肴に靴下の匂い……勘弁してよ、このへんで(爆笑)。
小泉:世界一臭いのは、スウェーデンでつくられている「シュール・ストレンミング」という魚の発酵缶詰なんです。匂いの強さはなんと8700。まさに地獄の缶詰です。
渡辺:缶詰と言えば、韓国にも臭い魚の缶詰がありましたよね。
小泉:エイですね。これを食べて亡くなる人がいるんですから。韓国で現実に。
渡辺:死んじゃう! あまりに臭くて……。
小泉:そうなんです。ネズミが死んだときに発するような匂いなんですよ。食べると涙がボロボロ出てくる。冠婚葬祭には必ず使います。それと、アルカリ発酵なので危険でもあるんです。
渡辺:怖いなぁ。あれ? なんだかロレツが回るのが遅くなってきたみたい(笑)。
小泉:匂いの話が出たついでに、こんな「研究」結果もあります。日本人は外国人の肌はミルクの匂いがすると言うんです。反対に、外国人は日本人の肌の匂いは、ぬか漬け、味噌汁、魚の匂いがする。そう言いますね。 渡辺:へぇー。そうかな?
小泉:もっと学究的な話をしますと、ある大学で世界の衛生学者や医学者が参加して民族の嗅覚の研究会を行いました。その研究の中で、参加した学者の奥さんの下着を机の上にポンポン置いていった。それで、この下着はどれが奥さんのものが、匂いを嗅いで判定してもらった。その結果はどうだったと思います? 外国人の学者は自分の奥さんの下着をみんな、鼻で当てちゃうんです。日本の研究者は全然当たらない。日本人の嗅覚はダメなんですかねぇ。
渡辺:日本人は肉食じゃないから、匂いにあまり敏感でないのかなぁ。
小泉:匂いは民族性なんですね。】
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「臭みの強さを数値化する」というのは、なんだかあまり実感がわかないような気もするのですが、世界にはいろいろな「臭い食べ物」というのはあるんですね。「シュール・ストレンミング」なんて、クサヤの7倍なわけですから、正直、なんでそんなものをわざわざ食べるんだ…とか、つい考えてしまいます。韓国の臭いエイの缶詰は「冠婚葬祭には必ず使う」ということなのですが、日本で一般的に行われているような「披露宴」の料理にそんな臭いのものが出てきたら、出席者はみんな絶句してしまいそうです。というか、披露宴どころではなくなってしまうのではないでしょうか…「臭い」に対する感覚というのは、本当に文化や民族によって異なるものですよね。日本人が喜ぶ「炊きたてのご飯の香り」なんて、欧米の人たちは全然受け付けないというか、「なんだこの臭いは!」という感じなのだそうですし。
それにしても、ここで挙げられている「学究的な話」には、ちょっと驚きました。「民族の嗅覚」の研究って言うけれど、実際にそれが行われていたときの光景を想像すると、なんだかもう苦笑するしかないような。どういう状態の「下着」が集められてきたのかなどと、つい考えてしまいます。外国人はみんな自分の奥さんの「匂い」がわかるというのは、嗅覚が敏感なのか、それとも体臭が強いのか、あるいは香水を使っている人が多いからなのか? まさか、日本人の研究者は奥さんに近づく機会がないから、なんてことはないですよね……
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2006年03月01日(水) ■ |
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リリー・フランキーさんが「20歳のオレに言いたいこと」 |
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「週刊アスキー・2006.3/7号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。
(『東京タワー』がミリオンセラーとなった、イラストレーター/文筆家のリリー・フランキーさんと進藤さんの対談の一部です)
【進藤:あのぉ、リリーさんの1日のなかで、エロ時間ってどれくらいなんですか。
リリー:いろいろなエロがあるけど。
進藤:ぜーんぶ、ひっくるめて。
リリー:具体的には計ったことないしなぁ、たぶん平均的だと思います。
進藤:ふーん、平均的なんだ?
リリー:まあ、オレの場合、1日中エロ時間と言えば言えなくもないけど(笑)。あとそうね、原稿もイラストも手書きで、メールもしないから、パソコンで作業することはほとんどないんだけど、17インチの『パワーブックG4』を持ってて、エロサイトからエロ動画をダウンロードするだけに使ってるんですよ。
進藤:それ、全部保存してるの?
リリー:内蔵ハードディスクがもうパンパン。そのためにハードディスク増設したほどだし(笑)。でも観返したりはしないんで、ためておくだけなんだけど、それをゴミ箱に捨てる勇気は持っていないし、無料動画ってところがセコいんだよね(笑)。
(中略)
進藤:週アス読者に向けて、なにかメッセージをいただけますか。
リリー:まず20代の人なら、今、想像している自分の40歳の姿なんて、まるで当てにならないと言いたい。
進藤:どういうことですか?
リリー:20代のときの40代像って、まともに結婚して子どももいて、立派になってるイメージがあると思うんだけど、そんなことはない。
進藤:リリーさんがそうだったの?
リリー:だって20歳のオレが、今の自分を見たらビックリするもん(笑)。20歳のオレに言いたいね。「20歳のお前より、42歳のオレのほうがオナニーしてるし、もっとワガママになってるなんて信じられるか」とね。
進藤:理想像にしがみつくなと。
リリー:10代や20代が思う大人像なんて、たぶん実在しないんですよ。】
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『東京タワー』以前に、「ココリコ・ミラクルダイブ」などに出演されていたリリーさんを観ての僕の印象は、「なんかしょうもないエロオヤジだなあ……」というものでした。いや確かに、あの「脱力感」みたいのはものすごく新鮮で、「ギラギラしていないエロ」っていうのは、けっこうインパクトがあったような気もしますけど。 そのリリーさん、『東京タワー』で、まさに「時の人」となっています。サイン会には若い女性がたくさん押し寄せてくるらしいです。 でも、このインタビューでの「エロ動画を保存するためだけにパワーブックG4のハードディスクまで増設してしまうリリーさん」には、なんだかとても親近感がわいてきます。僕の場合は「エロ動画」ではないのですが、確かに、ネット上で見つけた面白い動画とかって、なかなか捨てられないんですよね。そして、わざわざ保存しているわりには、本当に観ないのですよこれが。それこそ、必要なときに、またネットで探せば見つかりそうなものなのに、それでも「ゴミ箱」に捨てられない。そういえば、うちのDVDのハードディスク内もそんな感じです。あれだって、映画などは、必要なときにレンタルビデオ屋に借りに行けば済む話のはずなのですが。 確かに、10代の頃の僕は、自分がそんな「セコい大人」になるなんて、想像していませんでした。 僕はいま30代半ばなのですが、この時点で既に、20歳くらいのときに想像していた自分の姿とあまりにかけ離れてしまっていることに愕然としています。もっと仕事熱心で、もっと社交的で、もっと人に一目置かれる人間になっていたはずなのに…これは悪い夢なのだろうか? 実際にやっていることは、20歳の頃とそんなに変わらなくて、時間がないのとお金が少しはあるために、かえってタチが悪くなってしまっているような面すらあるのです。それこそ、結婚でもすれば、違うのかもしれませんけど…… でも、さすがに「20歳のお前より、42歳のオレのほうがオナニーしてるし、もっとワガママになってるなんて信じられるか」というのには、ちょっと僕も絶句してしまいます。ワガママのほうはともかくとして……
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