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2006年04月30日(日)
「絶対年齢」と「自覚年齢」

「いい歳旅立ち」(阿川佐和子著・講談社文庫)より。

(「自覚年齢」というエッセイの一部です)

【先日、90歳になる伯母を広島に訪ねた。ちょうど伯母の女学院時代の親友が亡くなった直後だったそうで、開口一番、「○○さんが亡くなったのよ」と言って肩を落としていた。気の毒とは思ったが、ギョッとするほど意外ではない。「あら、かわいそうに」と応えはしたものの、誠意に欠けていたらしい。伯母が小声で呟いた。
「世間の人は皆さんね、80歳過ぎて亡くなると、『天寿を全うしましたね』っておっしゃるけど、あれは失礼よ」
 怒っている。それだけ長生きすれば満足でしょう、死んで当然と思われているようで、不愉快だと言うのである。なるほどごもっとも。誰にも絶対年齢と自覚年齢には差があるのだ。まわりが決めるものではない。
 現に伯母は、その歳でなお、美に対する興味は底知れず、新しい皺取りクリームをプレゼントすると嬉々としてはしゃぐし、健康器具のコマーシャルを見かければすぐに購入し、「お腹がへっこむんですってよ」とダイエットに励むのだから、かなわない。天寿など当分、まっとうする気はないようだ。
 そういえば以前、知人が話していた。
「僕のオヤジがもうすぐ100歳になろうというのに一人暮らしなので、『そろそろ同居しましょうよ』と提案したら、こう言うんですよ。『もう少し歳を取ったら考える』って」
 いい話ではないですか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 うーん、「いい話」だとは思うのですが、その一方で、僕の心の中には、「人間って、いくつになっても悟れない生き物なんだなあ…」というような哀しみもあるのです。30代半ばの僕にとっては、100歳まで生きたら、もう十分天寿を全うしたのではないか、なんて考えがちなのですが、当人にとっては、また別の問題で。
 病院の外来で診ている御高齢の患者さんでも、80代から90を超えるような方でも、「これだけ生きたから、もう今すぐに死んでもいい」なんて言われることはないですし(だから病院に来られているのですけど)、「この歳まで生きたから、もう贅沢は言えないけど」と前置きをされつつも「いやあ、もう少し、高校生の孫が結婚するくらいまでは生きたいねえ」などと仰る方ばかりです。もちろん10代や20代の「自分が死ぬなんて発想がない」若者たちとは違って「死」を意識されてはいるのですが、それでも、いくつになってもなかなか「天寿」なんて自分では思えないのが人間というものなのかもしれません。ほんと、子どもの頃というのは、誰もが一度は経験してきた道ではあるけれど、年を重ねていくのはすべての人にとって「未知の世界」ですから、「若者に年寄りの気持ちはわからない」というのは当然のことなのかも。
 まあ、周りとしても、「天寿を全うした」と思ったほうが、精神的に救われる面があるのも否定できないし、それもまた「生きている人間の知恵」なのでしょうけど。
【「『近頃の若いモンは……』という繰り言が聞こえてくると、つい自分のことかと思って『すみません』と謝りたくなっちゃう」とおっしゃったのは、56歳当時の漫画家の東海林さだおさんである。】
 この本には、こんなエピソードも紹介されています。
 もちろん、そういう感じ方には個人差があるとしても、「絶対年齢」と「自覚年齢」を一致させるというのは、なかなか難しいことのようです。

 僕も正直、自分の年齢を考えるたびに「そんなに長い間、生きてきたっけ……」と、よく思います。同じくらいの年の同僚の子どもが小学生なんて聞くと、もしかしたら、自分だけ人生の一部の記憶を失ってしまっているのではないか、なんて戸惑ってみたりもするのです。



2006年04月29日(土)
「通訳」すればいいってものじゃない!

「オシムの言葉〜フィールドの向こうに人生が見える」(木村元彦著・集英社インターナショナル)より。

(「オシム語録」で有名なジェフ市原のオシム監督の半生とサッカー観を著した本の一部より。ジェフユナイテッド市原・千葉の通訳である間瀬秀一さんの話です)

【最初に監督の通訳をやる上で、関係者から言われたのは、通訳の中には立場を誤解して自分が監督みたいに振る舞ったり、命令したりする人間がいるから、そこは気をつけて欲しいということでした。
 だから、当初はマシーンじゃないけれど、監督の言ったことをただ訳して、選手に伝えていたんですよ。でもね、それじゃあ、やっぱり絶対伝わんないんですよ。
 監督が何かを言う。で、100パーセント、日本語で伝える。伝わったはず。なのに、選手ができない時がある。てことは、伝えたことになってないんですよ。
 意味は伝わっているんですけど、意図が伝わっていない。選手が理解できなかったり、動けない。ああ、これは、もうダメだなと。
 例えば、気持ち的にモチベーションをそれで上げられなくて、選手ができないのか。技術的に足りなくて、できないのか。でも、やってなかったら、僕が怒られるんですよ。
 そこで、思ったんです。この仕事って、通訳じゃないなと。そこで、やり方、変えたわけですよ。
 言ったことをやらせないと勝てないですから。極端に言うと、通訳としての指導力と言うんでしょうか。言葉を訳す力だけじゃなくて、どうすれば選手ができるようになるのか、そこら辺のやり方を考えました。
 前も話しましたけど、僕はいろんな国でいろんな監督を見てきましたけど、この監督は本当にすごいなと思うし、この監督のサッカーが実現できたら、絶対チームが強くなるという確信があるんです。
 だから、まず伝わるように訳す。例えば監督がギャグを言う。そしたら、絶対笑わしてやる。
 監督がことわざを言ったら、絶対、聞いている人を「おおーっ」と言わせてやる。じゃないと、監督が僕に不信を抱くじゃないですか。なぜ、俺、ギャグ言っているのに、笑っていないんだって。
 で、もちろん、内容は変えてないですけど。分かりやすい言い方とかはしているかもしれない。
 オシム語録の凄さに気づいたのは? いや、今でも気づいてないですよ。僕、一緒にいつもいるから。素晴らしい言葉、いっぱい言うし、それ、普段から聞いているから、普通なんです。それが日常だから、なんか、これってすごいこと言った、ていう気がしないし、僕もうまく訳したと思ったこと1回もないんです。
 だから僕、オシム語録とか、アップされても絶対見ないんです。覚えてないこともありますから。
 難しいのは、雑誌の取材とかしていて、最初は監督の言ったことをそのまま全部訳せばいいなと思っていたんですよ。でも、その中で、僕にだけ言っている時があるんです。
 でも、「まぁ、お前にだけ言うけどな」とか、そんなこと言わないから、これは訳すなよと察知する。監督は、僕に通訳としての訳し方を注文したことは1回もないですよ。こういう時はこう訳せ、こういう時はこうだ、それは、ないけど、暗黙の了解が何通りもあるんです。こういう時は、この人間には聞こえるように言うけど、あそこにいる人間には聞こえないように言うとか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 間瀬さんは、自らもプロサッカー選手として、いろんな国を渡り歩いてサッカー人生を送ってこられた方なのだそうです。これを読んでいると、確かに、サッカー経験のない人が、「言葉がわかる」という理由だけで通訳になるのはムリだろうなあ、ということがよくわかります。
 直接言葉が通じない(ことが多い)外国人がチームの監督の場合には、「通訳」というのは、本当に重要な存在みたいです。確かに、静かな会議の席などの通訳とは違って(いや、あれはあれで難しいところもたくさんあるのでしょうけど)、サッカーの監督の通訳の場合は、内容の正しさだけでなく、そのニュアンスといか「言葉の熱さ」みたいなものまで一緒に伝えなければ、「伝えた」ことにはなりませんから。
 「ここが踏ん張りどころだ、あきらめずに走れ!」という監督のゲキに対して、物静かに「あきらめずに走ってください」なんて通訳が喋っていたら、なんだかもう、選手もぐったりしてしまいそうですし。そういえば、あのトルシエ監督の通訳のダバディさんは、かなりオーバーアクションのイメージがあって、「いやいや、君は通訳だろ?」なんて僕はいつも思っていたのですが、実は、あれも「通訳」としての仕事だった、ということなのですね。
 あのトルシエの言葉のニュアンスを正しく伝えるには、あのくらいのアクションは必要だったのでしょう。
 そして、「ここはオフレコで…」なんていちいち断らなくてはいけないようでは、監督の通訳としては修行が足りない、ということなのでしょうね。

 「通訳」というのは、イメージよりもはるかに大変で難しいけれど、やりがいもある仕事のようです。こういう話を聞くと、「立場を誤解して自分が監督みたいに振る舞ったり、命令したりする人間がいる」というのも、頷ける話ではあるのです。



2006年04月28日(金)
木村拓哉、松たか子、『HERO』を語る

「松のひとりごと」(松たか子著・朝日新聞社)より。

(TVドラマ『HERO』の収録時を振り返って)

【「貴方にとってのヒーロー像は?」
 ドラマの収録中に受けた取材で、何度となく尋ねられた質問である。
 私は答えた。自分の夢や目的に向かっていく努力やその過程を楽しめる人ではないか、と。辛いこともすべて楽しめる心が、人を豊かにするような気がする。「ヒーロー」というのは、限られた人間にしか与えられない称号ではなく、誰もが生まれながらにして持ち合わせている資質のようなものではないだろうか。男女問わず、すべての人がなれるもの、形に残るだけではない志のようなものではないだろうか。
 共演者同士、同じ取材を受けることが多かった木村さんは、彼らしい簡潔な答え方をしていた。
「熱くて、本気で、スケベな人」
 それが答え。「本気」という言葉が私の心にひっかかった。本気でやれば本気で疲れる、本気でやればその分必ず自分に返ってくる、本気で……。
 そう言えば、『HERO』のテーマが、我々作り手を”本気”にさせてくれたのかもしれない。

(中略)

 思い出したことがある。
 以前、『天涯の花』という芝居を演ったとき、一連の宣伝の中で、原作者の宮尾登美子先生とお話をさせていただいたことがあった。そのとき、宮尾先生は、こんなことを言われた。
「思うように生きなさい。それがどんなに辛くても、思うままに生きなさい」
 思うようにする、一見自分勝手にも聞こえるが、それは相当のエネルギーが要ることだと思う。自分の意思、かなり強力なバイタリティがないと、自分で自分にのみ込まれてしまいそうな話だ。
 しかし、もしかしたら、「思うように生きる」ことが、現代を象徴する、そして、現代は必要とするヒーロー像なのかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 7月にスペシャルが放送されることになった、人気ドラマ『HERO』なのですが、出演されていた松たか子さんは、こんなふうに、「自分のヒーロー像」を語っておられます。これを読みながら、僕も自分にとっての「ヒーロー像」をずっと考えていました。
 僕は典型的なヒーローに対して、「ケッ、格好つけやがって!」なんて斜に構えてしまういけすかない子供だったのですが、思い返してみると、タイガーマスクとか、アントニオ猪木、歴史上の人物では、諸葛孔明、ああそうだ、海賊コブラは僕にとっては「ヒーロー」だったなあ、とか、いろいろ出てくるものですね。怪傑ズバットとか、まさに「熱くて、本気で、スケベな人」でしたし。それにしても、キムタク、けっこう良い事言うなあ、とか、思わず感動してしまいました。ただ、考えてみると、孔明とかは「憧れの人」ではあっても、「ヒーロー」ではないかもしれません。やっぱり「ヒーロー」っていうのは、「どんな苦境でも前向き!」じゃないといけませんから、あんまり深刻な表情が似合ってはいけないんですよね。それこそ、周りが「コイツ本当は何も考えていないんじゃないか?」と思うくらいの明るさがなければ。
 そういう意味では、長嶋さんというのは「ヒーロー」だし、新庄選手も「ヒーロー的」な人ですよね。僕は巨人は嫌いだけれども、今になって、あの長嶋さんに自分の親の世代が惹かれていた理由がわかるような気がしてきました。

 もちろん、「ヒーロー像」というのは人それぞれなのだとは思いますが、いつの時代にも、きっと「ヒーロー」は存在するのです。
 ある高名な歴史家は、「英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代は、もっと不幸だ」なんて言葉を遺しているのですが、やっぱり、いつでも、誰の人生にも、「心の中のヒーロー」はいるのですよね。

 うーん、僕に真似できそうなのは、せいぜい、「スケベ」くらいか……



2006年04月27日(木)
『Production I.G』という会社が成功した理由

「勝つために戦え!」(押井守著・エンターブレイン)より。

(「機動警察パトレイバー」「イノセンス」などの作品がある、映画監督・押井守さんが、プロダクション・アイジー(以下I.G)の成功の理由と、I.Gのプロデューサーである石川光久さんについて語っているところより。聞き手は野田真外さん)

【押井:そう、だから常勝は不可能でもある程度打率を稼いでいくためには、成功や失敗の理由をこつこつと積み上げて理解するしかないんだよ。そのための一番簡単な手段は強力な指導者がいること。I.Gの石川みたいなもんだよね。失敗した場合も石川が全部責任を持つ。成功したら、アイツが頑張ったおかげと現場を立てる。石川は現場に思い入れのあるタイプのプロデューサーだから現場を立てることを知っているよね。そこがまったくないプロデューサーは、失敗すれば全部現場の責任、成功すれば全部自分の手柄、ってことを繰り返すから、現場はどんどんクサっていく。愛情が持てないからスタッフはどんどんよそへ移っていく。スタジオのポテンシャルは下がっていく。逆に勝つスパイラルに乗ったスタジオはほっといても伸びる。仕事したいってところが山ほど出てくる。I.Gはその典型だよ」

野田:なるほど。

押井:そして石川は目指すべきいい作品の基準が明快なの。よく言う「TV局の方向性」とか「お客さんが喜ぶ作品を目指して」とかいうのは、実はよくわからない基準だよね。石川の言ういい作品というのは、現場が認めるいい作品。一番シンプルでわかりやすい。現場にとってのいい仕事とはクオリティってことだよね。なおかつ面白いかどうか。面白ければ絵なんかどうでもいいんだっていう言い方は現場はしないし許されない。石川はまず現場が納得する仕上がりを目指した。売れるか売れないかはわからないけど俺たちはいいものを作ったんだ、という誇りが持てる間は現場は求心力を持てるし、モチベーションも保てる。現場っていうのは前よりいいものを作ろうと必ず目指すからポテンシャルも上がる。スタジオというものを考えるのに一番重要なのはそういうこと。責任の所在を明らかにする。物事の基準を明快にする。
 I.Gという会社が成功した理由はあらゆる意味で基準を明快にしたことだと思う。これをやりたいという人間には必ずやらせる。演出やりたいっている人間にはコンテも切らせるし場合によっては作品も持たせる。

野田:ただ失敗したら二度目はないと。

押井:誰もが認めざるを得ないでしょ?……現場が評価するんだから。やらせてみて、誰かがアイツよかった、次やらせるべきだって言えば考える。そういう人間が一人もいなかったら、石川はやらせない。アイツは自分に映画を見る目があるとかホンを読む目があるとか、本質的には思ってないところが強いんだよ。まず現場にきく。基準を曖昧にしたまま一人で全部判断するのはダメ。一人の人間の中に見えない基準ができ上がっているだけで、誰にも理解できないから。モノを創る現場って言うのはちゃんと仕事してるかどうか誰もがすぐにわかるんだよね。アイツいねぇじゃんとか、ちゃんと1週間でこれだけのカットが上がったのかとか。あからさまにわかることを、ちゃんと吸い上げられるシステムになっているかどうかだよ。石川はボーナスの査定だって自分が主導してやってるんだから】

〜〜〜〜〜〜〜

参考リンク:Production I.G

 長年のパートナーでもありますし、悪口は書けないとは思うのですが、それにしても、この石川プロデューサーの「人心掌握術」と「スタジオの運営方針」というのは、ものすごく参考になる話だなあ、という気がします。
 石川さんというのは、「現場」というのをよく知っていて、しかも、「現場を立てる」ことができるリーダーのようです。「失敗した場合も石川が全部責任を持つ。成功したら、アイツが頑張ったおかげと現場を立てる」なんてことは、当たり前のようで、なかなかできることではないのです。僕も何人かの上司の元で働いてきましたが、本当にこういう上司はほとんどいませんでした。悲しいことに、その逆のタイプの人は、そんなに珍しくはないんですけどね。
 そして、ここで押井さんが語られている石川さんの「成功の理由」のなかで最も印象に残ったのは、その「目指すべきいい作品の基準」についてのものでした。
 「石川の言ういい作品というのは、現場が認めるいい作品。一番シンプルでわかりやすい」
 こういう発想というのは、「自己満足だ」とか言われがちだと思うのですが、確かに「○○らしく」とか「お客さんが喜ぶ」なんていうのって、かなり「抽象的な目標」なのですよね。作品を創っている側としては、「本当に目標を達成できているのか自信を持てない」と思うのです。「売れる」という目標についても、実際のところ、本当に良いものがヒットするかどうかというのは、なんともいえない世界なわけで。
 逆に「現場が満足できるクオリティであれば、それでいい」という「基準」というのは、確かに明快ではあります。もっとも、これも100%というわけにはいかないし、その「現場」を構成するスタッフが自分たちに甘い人たちばかりではどうしようもなさそうなのですが、I.Gの場合は、「勝つスパイラル」に乗れるメンバーをそろえたというのが、そもそもの「勝因」なのでしょう。

 でも、これって「理想の職場」であるのと同時に、ものすごく「厳しい職場」なのかもしれませんね。
 



2006年04月26日(水)
不登校や引きこもりは病気なんですか?

「わしズム・Vol.18」(小学館)の対談記事、「長田百合子vs小林よしのり 『受け入れる』『見守る』『与える』親が子供をつけあがらせる」より。

(小林よしのりさんと、引きこもりや不登校児のリハビリ寮を運営し、29年間で2000人をこえる子供たちの問題を解決してきたという長田百合子さんとの対談の一部です)

【小林:実際のところ、不登校や引きこもりは病気なんですか。

長田:学校の先生はすぐ心療内科に行かせるし、医者も「病気だ」と言うけど、ほとんどの不登校は病気じゃないですよ。親の子育てが原因なの。たとえば子供が「おなか痛い」と言って学校を休んだとき、私なら三食お粥を食べさせて、テレビも見せずに布団で寝かしておきます。これは退屈だし、お粥にも飽きるから、仮病なら翌日から学校に行きますよねぇ。ところが不登校の親は、いつもと同じ食事を作ってやる。ゲームをやっていても何も言わない。結局母親が受け入れている。それが1つのパターンなんですね。

小林:心理学者は「病気だから受け入れろ」と言うけど、実際は、何でも受け入れたことによって不登校になってしまうわけですね。

長田:その受け入れ方も半端じゃないですよ。ある母親なんか、カウンセラーに「幼児返り」も受け入れろと言われて、中学3年生の男の子と一緒にベッドで寝たんです。すると息子が母ちゃんの胸を触ってきた。カウンセラーはこれも「受け入れろ」と言う。次に下半身に手が伸びてきた。それも受け入れて下着の上から触らせていたら、こんどはキスですよ。それでもカウンセラーは「小さい頃はキスしたでしょう」とか言って受け入れさせる。最後はとうとう舌まで入れてきた。そこで「これはヤバイ」と思った母親が、私のところに相談に来たんです。

小林:そこまで受け入れるのかぁ。いわゆる引きこもりの問題も、その延長線上にあるんでしょうね。

長田:そうです。「すべて受け入れろ」と言われた親は、子供が「金をくれ」と言えば、いくらでも渡しますよね。その金を持って、不登校の子供が外をブラブラ歩き始めるわけですよ。親のスネをかじって、税金も払わない。もっとひどいのは、生活保護を受ける引きこもりが急増していること。

小林:えっ、そうなんですか?

長田:病院に行けばすぐに病名がつくから、診断書を取って役所に提出するんですね。「病気だから働けません」と生活保護を申し込むわけ。もちろん本当の病気の人もいますが、そうじゃない人もいる。役所も何だかんだとネジを巻いて働かせようとするんですが、連中はそこでバタンと倒れて意識不明を装うことだってできる。救急車でも来たら勝ちですよ。次に役所に行って、「あなたが責めたから僕は倒れたんですよ」とでも言えば、もう断られることはない。真面目に働いて税金を払っている若い人たちが、我が子を自立させられなかった親の尻拭いをさせられるんです。そんな世の中で、どうして若者が意欲を持てるんですか。今は「権利だ、自由だ」と騒いだり、「自分は弱者だ」と言った者が勝ってしまう世の中ですけど、責任も義務も伴わない履き違えた自由や権利ばっかりでしょ? だいたい、人間が自由を寄越せと言い出したら終わりですよ。たとえば結婚ひとつ取ったって、すごく不自由ですよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「これはヤバイ」って、もっと早く気付くだろ普通…という気もしなくはないのですが、確かに「カウンセリング」のなかには、こんなとんでもないものもあるのかもしれません。いくらなんでも、これはあまりにも酷い話なのだと思いたいのですが。「小さい頃はキスしたでしょう」って、落語かそれは。
 でも、その一方で、医者というのもこういう「切実な現場」において、ついつい「事なかれ主義」に走りがちでもあるので、あんまり偉そうなことは言えそうにありません。「診断書」を希望されたときに、グレーゾーンの状態であり、患者さんがそれを強く求めている場合、そういう「診断」をつけてしまっている場合も、けっして少なくないのではないかと思うのです。いわゆる「器質的疾患」なら、「データが合わないから」「レントゲンに写っていないから」ということで拒否できるのですが、精神的な疾患の場合、どうしても、そういう客観的な評価がしにくい面がありそうですし。
 結局は、カウンセラーも、医者も、そして親も、「受け入れる」という名目のもとに、単なる「責任逃れ」をしているだけなのかもしれません。受け入れてあげたんだから、自分の責任じゃない、って。
 確かに、受け入れたほうがラクだものね。恨まれなくてすむしさ。

 もちろん、この長田さんの考え方にも極端なところはありますし、すべての「引きこもり」たちが、これで社会に適応できるわけではないとは思うのです。本当の精神的な疾患によって、コミュニケーション不全に陥ってしまう若者というのは、けっして少なくはないのですし。
 それでも、こういう「ものわかりが良すぎる大人たち」が、より多くの「引きこもり」を生む土壌となっているというのは否定できません。
 「引きこもりは現代人の病だ」と「専門家」たちは言うけれど、「引きこもりでも飢え死にしない世の中」のほうが、もしかしたら歪んでいるのかもしれませんし。
 もし、引きこもりの人が無人島に打ち上げられたら、それでも彼らは引きこもり続けるのだろうか?

 しかしながら、僕はここで偉そうにこんなことを書いているけど、僕の子供だって引きこもりにならないとは限らないんですよね。僕自身にも、引きこもりの素養は十分ありそうですし……

 そのとき、真正面から立ち向かえる「勇気」が、僕にあるだろうか……
 



2006年04月25日(火)
1914年、オーストリア皇太子夫妻の暗殺を契機に、第一次世界大戦はじまる

「きまぐれ遊歩道」(星新一著・新潮文庫)より。

【「ロマンス」という項より。

 サラエボは現在、ユーゴスラビアの都市。1914年の6月。この地でオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フランツ・フェルディナントが暗殺された。
 このハプスブルグ家は、ルイ16世の王妃のマリー・アントワネットや、ナポレオンの2番目の妃のマリー・ルイーズも一族。
 フランツは子供の時からおとなしく、孤独を好み、聖職者に教育され、まじめな性格だった。宴会があっても、夫人と会話をかわすことがない。30歳を過ぎても独身。
 候補として、何人もの王女の名があがったが、その気にならない。皇帝は伯父に当り、その息子の自殺、つづいてフランツの父の死。それで皇太子になったという立場を考えてか、ウィーンの宮廷生活をきらってか、各説ある。
 そのうち、フランツはフレデリック大公の家を、しばしば訪問するようになった。王女が多くいる。だれかを好きになったのならば喜ばしいと、関係者はほっとした。
 しかし、フランツ皇太子が明らかにした女性は、ゾフィー・ショテク。その家で召使いの仕事をしていた。彼女の父は外交官で、伯爵の称号を持っていたが、貧しい家。美人かもしれないが、さらに美しく、格式の高い家柄の王女は、ほかにたくさんいる。皇帝も大公もがっかりし、大臣も反対、国民も驚いた。
 それでも、フランツの心は変わらない。前例がないので、皇族どうしの宮中での儀式はおこなえない。皇太子はそれを無視し、1900年に結婚となった。フランツ、36歳。
 ゾフィーは魅力ある女性で、思いやりもあり、頭もよく、世俗的な欲望も少かった。うわさはひろまり、すばらしい妃殿下と呼ばれた。
 3人の子が生れる。絵にかいたような、しあわせな家庭。恋はみのったのだ。
 フランツ皇太子は、国のために働いた。ドイツとだけ友好するより、ロシアとも協調し、外交的に安定した関係を築こうとした。国内の改革も、計画していただろう。陸軍総監という、要職についた。
 しかし、これに反対するテロ・グループは、オープンカーに爆弾を投げた。それは避けたが、車に飛び乗った者が拳銃を発射。ゾフィー妃が身をもって防いだが、第2発目が皇太子に命中。2人とも死亡。ちょうど、14回目の結婚記念日だった。
 これがきっかけで、第一次世界大戦に発展し、暗い時代に入る。】

〜〜〜〜〜〜〜

 星さんは、このエピソードのあとに、一言の感想も書かれていません。言葉にならなかったのか、それとも、言葉は不要だと思われたのか。

 僕はこの「ロマンス」のことを、この本を読むまで全く知りませんでした。ここに書かれている人物のことで僕が知っていたのは、歴史年表中の
『1914年、オーストリア皇太子夫妻の暗殺を契機に、第一次世界大戦はじまる』という「歴史的事実」だけだったのです。
 でも、この「暗殺されてしまった皇太子夫妻」には、これだけのエピソードが秘められていました。この文章を読んで、僕が「歴史として知っていること」というのは、本当は、事実のほんのヒトカケラにしかすぎないのだな、ということを、あらためて思い知らされた気がします。
 まじめで、内向的な人物だった皇太子が自分の信念を貫いて選んだパートナー。時代や家柄などを考えれば、それは「暴挙」であったに違いありません。そして、フランツ皇太子は、自分の選択眼が正しかったことを証明しようとしていた矢先に、最愛のパートナーとともに凶弾に倒れてしまいました。当時の人たちは、きっと、ものすごく悲しんだだろうなあ、と思うのです。

 結局、一部の好事家や研究者を除けば、今の時代に残っているのは、『1914年、オーストラリア皇太子夫妻の暗殺を契機に、第一次世界大戦はじまる』というだけの「事実」でしかありません。こんなふうに、歴史のなかには、数々の「忘れられたエピソード」が置き去りにされながら、後世に伝わっていくのでしょうね。
 なんだかそれは、ものすごくせつないことのように、僕には感じられてならないのです。



2006年04月24日(月)
『功名が辻』に秘められた司馬遼太郎の「本音」

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2006年5月号の読者ページ「今月のえこひいき」のなかの「私の本談義」というコーナーより。書かれているのは、原田由美子さんという方です。

【あとがきを読むのは、あとか、さきか。
(『功名が辻』(司馬遼太郎著・文春文庫)についての感想)

 「あとがき」は、いつ読むのがいいだろう。読後の余韻にゆっくりひたる。感動をより深く心に残す。物足りなさを感じたなら補足する。いずれも読後だ。
 しかし、提出期限のせまった読書感想文を前に、本すら読んでいない緊急時、本文を飛ばして「あとがき」をたよれば、原稿用紙を埋めるくらい頼りになる。
 今回、その危機の教訓をころりと忘れ去り最後の最後にやっとたどり着いた「あとがき」は、結末の知れた歴史小説で唯一のどんでん返しであった。
 永井路子さんによる「あとがき」は、作者司馬遼太郎さんへのインタビューが含まれていた。そこには、司馬さんへのインタビューが含まれていた。そこには、司馬さんの口から「千代のことはあまり好きではない」という暴露セリフがとび出していた。思い返せば、本文中に感じた違和感の原因、山内伊右衛門一豊が千代に抱く非難の発言の数々に納得がいった。
 司馬さんは、一豊に限らず小説の登場人物をして、司馬さん自身の気持ちを代弁させて読者の気持ちまでもスッキリさせる技術を持ち合わせている。それが司馬小説の魅力であるし面白さであり感情移入しやすいところだと思う。だからこそ、「あとがき」は読後でなく、先に読んでおけばよかったのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「あとがき」をいつ読むか?というのは以前からいろんな意見があるようですが、僕は基本的に「一番最後」と決めています。やっぱり、読み終えた本の余韻を感じながら「あとがき」を読むのが好きなので。なかには、「台無し…」というようなものもなくはないんですけどね。
 そういえば、僕が中学校くらいのときにも「あとがき」だけを読んで夏休みの宿題の読書感想文を仕上げるテクニックって、けっこうメジャーでしたよね。あとは、あらすじをまとめて、「やっぱり戦争は怖いと思いました」とか。
 しかしながら、僕は「功名の辻」は未読なのですが、よっぽどのマニアでないかぎり、こういう「司馬遼太郎の各キャラクターへの好み」を事前の情報として知っていることは、あんまりプラスにはならないような気がするんですよね。それはひとつの「謎解き」ではあるのかもしれないけれど、「語り部」としての司馬遼太郎を考えるときに、「作者が千代のことを好きじゃないから、千代に対して非難めいた書き方をしているところが多いのか…」と思われながら読まれるのって、けっしてプラスの影響ばかりではなさそうです。
 そういう意味でも、「あとがき」は、「あとに読まれること」を想定して書かれているのだろうし、逆に、そのあとがきを読んでから、もう一度作品を読み返してみようという興味をそそられるものなのではないかなあ。

 それにしても、「あまり好きではない」人物を主人公にあれだけの作品を書いてしまう司馬さんは、やっぱり凄いですよね。ある意味、過度の思い入れがないからこそ、客観的に見られた面もあるのかもしれませんけど。



2006年04月23日(日)
「戦争して女性や労働者を解放するつもりだった」

「週刊SPA!2006.4/4号」(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ』」第188回より。

【坪内:しかし、菅と小沢って、実はあんまり年が変わらないんだよね。59歳と63歳。

福田:菅は、市川房枝の弟子でしたね。市川房枝は、戦前は大政翼賛会(戦争のために国民の統制を図ろうと、すべての政党を解体した)の最右派だったんだからね。戦争協力者として、戦後、公職追放されているんですよ。

坪内:そういう人たちが、戦後、左翼に行くんだよね。

福田:17歳の右翼高校生に刺殺された社会党委員長・浅沼稲次郎も、かつては戦争を推進してましたからね。つまり、戦時中の「総力戦体制」というのは、女性や労働者の地位を向上させる面もあったんですよ。国民全員の総力戦で、女の力も大切だぞ、と。

坪内:平等なんだよね。

福田:それに、普段は姑の下でこき使われていた農村の娘さんが、国防婦人会に入ると、おおっぴらに外出できるんですよ。電車に乗って大会に行ったり。明らかな解放だったんです。大政翼賛会・総動員体制というのは。女性や労働者の。

坪内:うん。

福田:彼らも、戦後、急に「反戦」に回らなきゃカッコよかったんだけどね。「戦争して女性や労働者を解放するつもりだった」って、ちゃんと言えばさ。

坪内:戦前、女性はそのくらい”下”に置かれていたわけだから、戦争と国家総動員という女性解放の手段があって、その次のステップに進めた――その事実を認めないで、戦争協力してきたことで私たちを批判してくるのは、あんたおかしいと、市川房枝はキチンと言えばよかったんだよね。だけどネグっちゃった。

福田:「橋のない川」を書いた住井すゑもそうでしょ。「被差別部落の解放と人間の平等を訴えた文学者」とされているけれど、あの人は戦前の最右翼ですからね。農民の報国作家として、聖戦のためにすべてを捧げようと延々やってたから。

坪内:「作家の戦争責任問題」を追及した特集が10年くらい前の「論座」であって、当時右翼って思われたオレは、住井すゑを擁護したわけ。どこがおかしいんだと。当時としてはそれは、1つの新しいラインだったんだから。あとまた、農本主義というか、農民文学というのは、それはそういう右翼にならざるをえなかったわけね。

福田:住井作品は、戦前はまとも。戦後のほうがよっぽどメチャクチャだよ。なんだっけ、『私たちのお父さん』とか、ほとんど金日成崇拝だよ。この大きいお父さんがいたお陰でみんな平等になりました、みたいな。

坪内:反近代主義と、農本主義が結びついていく。クヌート・ハムスンというノルウェーを代表するような作家もそう。農民文学を書いていて、親ヒトラーなんだよね。

福田:それを言ってしまえば、『チャタレイ夫人の恋人』のロレンスとか、みんな繋がりますよね。

坪内:そうそう。

福田:もちろんロレンスはハムスンほど露骨にファシスト的ではないけど。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「左翼」イコール「反戦主義者」、というイメージを僕はずっと抱いていたのですが、このお二人の対談を読んでいて、それは一種の「思い込み」なのだということがよくわかりました。
 確かに、歴史というものを考えてみれば、「実力主義」の時代の多くは、戦乱の時代だったのです。豊臣秀吉や劉邦が「成り上がった」のもそんな戦乱の時代でしたし。逆に、平和な時代には「血統」で多くのことが決まってしまったわけで。
 そういう観点からみれば、「軍国主義時代」というのは、日本という国にとって、最大の「平等な実力主義の時代のひとつ」ではあったわけです。「皇室」という不可侵の頂点を除けば、あとはまさに「誰にでもチャンスがあった」と言えなくもありません。現代の僕からすれば「戦争をするための組織がすべてを支配する」という状況に肯定的な気持ちにはなれませんが、当時の人たちにとっては、「新しい時代」であり、けっして悪い面ばかりではなかったのかもしれません。
 たとえば、東南アジアの国のなかで、日本軍の占領→撤退を機に植民地支配から解放された国があるように、それが「目的」ではなかったとしても、戦争というのは、いろいろな物事を変えていくきっかけとなることは厳然たる事実なのです。

 それにしても、こういう文章を読んでみると「反戦」なんていうのはある個人にとっての不変のイデオロギーではなくて、状況に応じていくらでも「転向」できる人もけっして少なくはないようです。そもそも、太平洋戦争での敗戦前には「反戦」の人は、日本にはほとんどいなかったわけだし。

 みんなを動かそうとしている「自分をアピールしたい人」にとっては、「反戦」も「戦争推進」も、ひとつの「手段」でしかないのだろうか……



2006年04月22日(土)
「それであなたは何と思ったのかな?」という「文学的指導」の嘘

「はじめてわかる国語」(清水義範著・西原理恵子・絵:講談社文庫)より。

(清水さんと、古今の「文章読本」について分析した『文章読本さん江』という著書のある斎藤美奈子さんとの対談の一部です)

【清水:もうひとつ面白いのはね、文学的指導ね。つまり、「そのときどう思ったの?」というやつです。

斎藤:子どもの作文指導には、必ずそれがありますね。

清水:「目の前で友だちがペタンところんだ。先生が来て助けた」という作文があるでしょ。そのときあなたはどう思ったの? 心の動きを書きなさい、というね。

斎藤:そうそう、それがウザいんだ。

清水:私も最初はやっていたんです。そういうふうに書いたほうが、作文は豊かでいいものになるのかな、と。「みじめだなと思いました」とか「かわいそうだなと思いました」とか書いてあるほうが、「ころんだ」というよりもいいだろうと思っていた。でもどうしてもそれが書けない子がいました。
 ところが、その子はそういうことが全く書けないのに、報告文なんかを書かせるとメチャメチャうまかったりすることがわかったの。

斎藤:わかります、わかります。

清水:だから、「心が書けるようになろうね」という側へ引っ張っていってもいい子もいるよ。でも、全員そっちへ持っていこうと思ったら大間違いだということに気づいたんですよ。

斎藤:いい話だなあ。

清水:ある男の子が、学校でやったことを書く作文が、5年生なのに2年生ぐらいのレベルなんですよ。「体育の時間に体操をやった。ころんだ。うまうできた。わりと楽しかった」というやつですよ。何書いてもそうで、これは国語レベルが低い子だなと思っていたんですよ。
 そしたらその子が、映画の「タイタニック」が気に入って、調べたことを書いたんです。タイタニックというのは1900何年に何々港を出て、3日間航海して、どこそこ沖で……というのを。自分で調べて書いたんです。そしたら、ちゃんと記事になっている。
 だから全然違う才能の持ち主がいるんで、型にはめてはいけないということがわかった。

斎藤:私が知っている子どもは伝記が好きで、シュヴァイツアーはこうでしたとか綿密に書くんだけれども、先生のメモは必ず「それであなたは何と思ったのかな?」とついてくるんですね。
 彼としては、そういうことを書くのは美学に反すると思っている。自分が思ったことよりも、ここに出てくるこの人のほうが素晴らしくて、それを先生に教えてやりたいと思っている。ただ、あまりにも「○○君はどう思いますか」というのばっかりくるから、彼は「感動した」と一言つけるというパターンを学んだんです。前と同じように書いて、最後に「感動した」の一言で逃げる。小泉方式です(笑)。
 学校は、それでどう思ったかということを書かせるのがいい作文教室だと思っている。

清水:だから子どもは卑怯なことを覚えてしまうわけです。こう書くと先生が喜ぶという技ばっかり身につけているわけです。だから「僕もそういう人になろうと思いました」なんて大嘘をね。

斎藤:それが大人になっても続くんだ。】

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 このあと、斎藤さんは、「国語教育といっても、なかば道徳教育ですから、それがもう1つの問題ですよね」と仰っておられます。言われてみれば確かにその通りで、現在の「国語」、とくに「作文」というのは、「わかりやすくて簡潔な文章を書く技術」というよりも、「どんなことを考えたか?」で評価されることが多いですよね。どんな名文であっても、そこに書かれている「感想」の内容が「やっぱり戦争は素晴らしいと思いました」とかであれば、絶対に「読書感想文コンクール」で賞状を貰うことはできないでしょう。
 「本」にもさまざまなジャンルのものがあって、推理小説は好きでも純文学はダメとか、ノンフィクションはよく読むけれどファンタジー小説は理解しがたい、という人がけっこういるように(というか、「本好き」の大部分は、多かれ少なかれ、自分の「守備範囲」みたいなものを持っているはずです)、「国語」という教科には、さまざまなジャンルの文章が含まれています。ここで例に挙げられているような、「感想を書くのは苦手だけれど、主観を極力排して事実を的確にまとめる才能を持っている人」というのは確実に存在しているのですが、残念ながら彼らの多くは「国語嫌い」になってしまうのです。
 ほんと、あまりに圧倒的な「事実」の前では、感想の言葉なんて無意味で、単なるノイズでしかないと感じることってけっこう多いんですよね。僕もときどき、「活字中毒R。」を書きながら、「引用部だけで十分なんじゃないか?」と思いますから。

 そして、実社会では、「感想」を書く文章力って、そんなに必要じゃななくて、むしろ、「記事」をまとめる力のほうが役に立ったりもするわけです。もしかしたら、全国紙にときどき載っている「ヘンな記事」というのは、「感想を書くのが得意」=「国語が得意」で、新聞記者になってしまった人のものなのかもしれません。

 しかし、評価する先生たちの立場になってみれば、確かに「内容抜きで、文章の技術だけを評価する」というのは、ものすごく難しそうですよね。小学校では、先生たちは国語ばっかりやっているというわけでもないし。
 結局、「○○君は、どう思いますか?」は、先生たちにとっても「切り札」なのでしょうね。

 というわけで、お二人の素晴らしい対談に、本当に感動した!(小泉方式)



2006年04月21日(金)
「日本人らしさ」「自分らしさ」という幻想

スポーツニッポンのサッカー・ワールドカップカウントダウン特集より、金子達仁さんのエッセイ「春夏シュート」の一部です。

【日本人らしいサッカーを。そう言われ続けてもう何年になるだろう。よそさまのコピーやパクリではない、自分たちのオリジナルだと胸を張ることができるサッカー。日本人の国民性を表すサッカー。それを手にすることができない限り、日本サッカーに未来はないし、世界と戦える日も訪れない――。わたし自身、そう信じてきた部分もある。
 だが、ここにきて少しずつ考えが変わってきた。
 日本人らしい野球は何か。そう聞かれれば多くの人は共通したイメージを抱くことになろう。緻密な野球。自己犠牲の精神を前面に打ち出された野球。今風にいうならば、スモールベースボールということになるのだろうか。
 では、日本野球界の先達たちは、日本人らしい野球、自分たちらしい野球をやろうとして現在のスタイルにたどりついたのだろうか。
 違う。
 多くの日本人が無死一塁での送りバントを好んだのは、それが勝利の確率を高めるために適した手段だと考えたからだ。つまり、自分たちらしい野球をして送りバントに固執したのではなく、送りバントを選択する割合が米国よりも多く、結果として日本人らしさが表れただけなのである。
 日本人らしいサッカーとは、結果であって目的ではない。
 考えてみれば当たり前のことではないか。日本の食は、酒は、絵画は、クルマは、最初から「日本人らしい」ものをつくろうとしてつくられたものではない。結果として誕生した作品のタイプがよく似ていて、かつ愛する人も多かったから「日本人らしい」ものとして認知されたのである。】

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 この文章は「たった3回目のワールドカップ出場なのに、自分らしさ、日本人らしさにこだわるのは、少し傲慢なのではないだろうか」と締められています。これは、サッカーに限らず、すべての「自分らしさ依存症」にかかっている人たちが、読んでおくべき文章だと思います。
 確かに、野球でも、車や電器製品でも、「日本らしい」と僕たちが感じ、世界に誇れるようなものって、別に「日本人らしくする」ということを目的にしたものではないのですよね。そのスタイルは、「試合に勝つこと」や「より多く売れること」を追求した結果確立されたものであり、僕たちが「らしさ」だと思っているものの多くは、当事者にとっては、「結果を出すために試行錯誤の末に見つけた、最良の選択肢」でしかないのです。もし日本の野球選手がみんな王貞治や松井秀喜であればバントなんてかえって非効率的な戦術でしかないし、日本の道路が広くてガソリンが安ければ、日本車の設計思想は、全く異なったものとなっていたでしょう。「結果がともなわない『らしさ』」の多くは、自己満足でしかないのです。
 結果を出すために努力するのがめんどくさいから、目的もなく「自分らしさ」に逃げてしまう人って、けっして少なくはなさそうです。それこそまさに「練習のための練習」で、無為に時間を浪費してしまうだけなのに。
 
 僕たちは「自分らしく生きよう」なんて、「自分らしさ」を探したりしがちなのですけど、実は、「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないものなのです。SONYやHONDAがその黎明期に成功し、ブランドを確立したのは、「SONYらしい製品」をつくろうとしたからではなくて、「より優れた製品をつくる」ということに歯を食いしばって全力を尽したからであり、結果的に、その辿ってきた試行錯誤の道のりを、みんなが「SONYらしさ」だと感じるようになっただけでしかありません。

 「自分らしさ」とは、結果であって目的ではない。もちろん、「勝つ」ことだけが全てではないかもしれないけれど、「結果を出すために努力する」ということのほうが、これみよがしにマイナーメジャーな音楽や本にハマっていることを他人にアピールするよりも、はるかに「自分らしさへの近道」なのかもしれません。



2006年04月20日(木)
私が「漫画原作者」をやめた理由

「封印作品の謎2」(安藤健二著・太田出版)より。

【さらに、この章で取り上げた水木杏子にしても、現在は漫画原作者をやめている。きっかけは『キャンディ』の原作に書かれたあるシーンが、漫画に描かれた時点で無断で変えられていたことだったという。人気キャラクターの1人、ステアが第一次世界大戦に志願し、空中戦で撃墜される印象的なシーンだ。漫画ではステアは、敵国の名パイロットと戦う中で友情を深め合ったあと、別の飛行機に撃たれるのだが、原作ではそうなっていなかった。ステアは、気を許したはずの名パイロットに撃たれているのだ。水木は、ある単行本のインタビューでこう回想している。

 まんがでは相手もステアに感動してるんだけど、戦争ってそんなに甘いもんじゃない、ステアがふっと相手に気を許したとき、その本人から撃たれてしまう……そう描きたかった。(略)ちょうどその時は海外に行っていて、いがらしさんのネームの相談にものれなかったし。私の責任でもあるの。でも、帰国してすぐ、激しい雨の降る深夜、ゲラを受け取って、もう直せないと言われてね……。帰り道、夫の車の中で、声をあげて泣いてしまった。ステアが死んで悲しかった……誰だか分からない人に、ステアを撃ってほしくなかったのよ。あのシーンは、まんが的にはよく描けていると思う。それはそれで認めつつ、あの雨の夜、車のワイパーと雨粒を見ながら、「もう原作の仕事はやめよう」って決心したのね。

        (伊藤彩子『まんが原作者インタビューズ』 同文書院)


 漫画原作者の難しい立場はここにある。原作者としての名誉や収入とは別に、作家性そのものを時に否定されかねないのだ。竹熊(健太郎)はこう打ち明ける。
「梶原一騎にしても、小池一夫にしても、なんで有名な原作者が一様にコワモテになっていくのかわからなかったんですよ。でも、自分でやってよくわかりました。ある意味、そこまでやっていかないと原作の個性ってなくなってしまう。漫画家にしても編集者にしても、たたき台にくらいにしか思ってませんから。それなのになぜ原作が必要とされるのかというと、無から作品を立ち上げるのは大変だから、何かよりどころになるストーリーの骨格というか設定が欲しいわけですよ。それから後は、それこそ『原作なんかいらない』なんてことになりかねない」】

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 「キャンディ・キャンディ」の原作者の水木杏子さんの述懐から。この話を読んでいると、確かに、漫画原作者というのは辛いなあ、と感じてしまいます。結局漫画家の手を経なければ、「作品」として認められないものを書いているわけですから。
 そういえば、伝説となった「あしたのジョー」の最終回は、原作者である梶原一騎さんが書かれた「原作」とは違うものなのだそうです。あの「真っ白になってしまう」ラストシーンは、漫画を描いていたちばてつやさんのアイディアによるものなのだとか。その話は、「美談」として語り継がれているのですが、原作者の梶原一騎さんにとっては、それが嬉しいことだったのだろうか?と、この文章を読みながら、僕は考えてしまいました。
 この「キャンディ・キャンディ」の1シーンで、水木さんが描きたかったことはよくわかります。「戦争」というものを踏み込んで描こうとするなら、この「気を許した相手に撃たれる」というのは、大きなメッセージ性を持っていると思うのです。でも、その一方で、漫画家のいがらしゆみこさんからすれば、やはりその描写は「自分の漫画としては、受け入れがたいもの」だったのですよね。確かに、「キャンディ・キャンディ」の主な読者である女の子たちには、それはあまりにも「生々しい」描写であるのかもしれません。水木さんは、「誰だか分からない人に、ステアを撃ってほしくなかった」けれど、いがらしさんは、「気を許したはずの名パイロットに、ステアを撃ってほしくなかった」のです。こういうのはもう、お互いの趣味の領分ともいうべきもので、どちらが正しいかなんて、誰にも決められません。でも、「キャンディ・キャンディ」という作品には、テレビゲームのように「2つのエンディング」を用意するわけにはいかなかったのです。
 「ちょうどその場にいなかった」こともあって、後世に「作品」として残ったのは、いがらしさんが描いたものとなりました。それは確かに、水木さんにとっては、「自分の『作家性』の否定」だと感じられたことでしょう。いちばん書きたかったところが、「改変」されてしまったのですから。
 
 確かに「たたき台」の有無っていうのは、なにかを創り出すときには、けっこう大きいものではあるのです。一度キャラクターができてしまえば自由に動かせる漫画家でも、必ずしもゼロから「魅力的なキャラクター」を生み出せるというものではないだろうし。
 でも、原作者からすれば、自分が書いている「作品」が単なる「たたき台」だなんて、認めたくないはず。
 そんなふうに考えてみると、そもそも、2人の「作家」がひとつの作品をつくるということそのものが「矛盾」なのかもしれませんね。

 ちなみに「キャンディ・キャンディ」は、現在、原作者と漫画家の軋轢によって、「封印作品」となっているそうです。



2006年04月19日(水)
新庄剛志の「引退」に寄せて

「上機嫌の作法」(齋藤孝著・角川oneテーマ21)より。

【プロスポーツの世界は上機嫌な人材の宝庫ですが、今のプロ野球でナンバーワンの上機嫌男といえば新庄剛志選手です。彼には、次にどんな行動に出るか、何を言い出すか予測できない面白みがあります。
 たとえば、阪神時代には、「ジーパンが似合わなくなるから」という理由で、下半身強化のトレーニングを拒否したことがありました。
「センスないから(野球)辞めます」「僕はJリーガーになりたい」と引退宣言したかと思うと、数日後には撤回したことも。
 そうかと思うと、突然FA宣言をし、阪神からの5年12億という提示を蹴って、2400万円でメジャーリーグ、ニューヨーク・メッツに入団する。「結果はどうあろうと、俺の人生なんで、楽しもう」。欲得を度外視した潔さ、これぞ新庄選手らしい上機嫌です。そして「新庄はメジャーでは通用しないだろう」という大方の予想を覆し、最初の打席でヒット、ホームでの初ヒットがホームランといった華のある一面を見せるのです。しかし、当の本人は通用するかしないかなど全く意に介さず、ただ楽しめるか楽しめないかを尊重して野球をやる。
「記録はイチロー君に任せて、記憶は僕に任せてもらってがんばっていきたい」と語ったこともありました。
 昨シーズンからは「ハムの人になります」と北海道日本ハムファイターズに入り、「これからはセでもメジャーでもなく、パ・リーグです」と言ってファンの注目を集めています。
 目立つことや、人から注目を浴びることが大好きな新庄選手の場合、もともと天然の上機嫌気質を持っているといえそうですが、彼の言葉には、みんなを楽しませよう、喜ばせようという気持ちが非常に強い。そのためには、進んで自分を笑い飛ばそうとする。サービス精神が旺盛なのです。
 野球一筋にやってきた人間らしからぬ発言がポンポンと飛び出してくるのも、新庄ならでは。野球少年には「女の子にモテるように、カッコよくプレイしろ」とアドバイスする。「うまくなっていいとこ見せよう」という気持ちがあれば努力するし、上達もするから。一見「ええ格好しい」のお調子者のように聞こえますが、「カッコよく見せる」ことは自分を客観的に見る目がなければできません。ただの能天気ではないのです。】

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<新庄選手の通算成績(2005年シーズン終了時点)>
(日本)1285試合 打率.253(4725打数1196安打) 189本塁打 654打点 71盗塁 
(MLB)303試合 打率.245(876打数215安打) 20本塁打 100打点 9盗塁

 ちなみに、メジャーから帰国して、日本ハムに移籍してからの新庄選手の成績は、2004年が、123試合出場、504打数150安打で、打率.298、本塁打24本で79打点(ゴールデングラブ賞受賞)、2005年が、108試合出場、380打数91安打で、打率.239、本塁打20本で57打点(ゴールデングラブ賞受賞)でした。
 この成績だけを見れば、新庄選手は記録的には「一流ではあるけれども、超一流とは言い辛い」レベルの選手であり、去年の成績と足の怪我を抱えていることを考えると、「引退を考えても不思議ではない」という気もします。広島ファンの僕としては、去年2000本安打を達成して引退した野村選手でさえ、野球ファンとスポーツニュース以外ではほとんど話題にならなかったのに、このくらいの成績の選手の「引退宣言」が、全国のトップニュースになってしまうというのは、ちょっと不思議ではありました。
 とか言いながら、僕も昨日の「引退劇」から、なんとなく、新庄選手のことばかり考えているのですけど。
 新庄選手は僕と年齢が近いのですが、僕は新庄のあの傍若無人な態度、以前はあまり好きではありませんでした。むしろ、「野球選手なんだから、もっと真面目に野球やれよ!」「格好ばっかりつけやがって!」というような、否定的なイメージを抱いていたのです。その感情のなかには、あんなに「自由奔放」にもかかわらず、世間から「叩かれる」なんてこともなく、かえって愛される新庄剛志という人間への妬みの成分も含まれていました。
 でも、最近になって、僕にもなんとなく、新庄剛志という人間の魅力がわかってきたのです。いや、考えてみれば、新庄って本当に「サービス精神」の塊のような人なんですよね。あのバカっぽくて何も考えて無さそうなポジティブさというのは、「裏表のない率直な人柄」なのだし、本当に「みんなを喜ばせるのが大好き」なんですよね。難しそうなことを言って他人を否定ばかりしがちだった昔の僕にはよくわからなかったのだけれど、人の世には、たぶん「太陽」が必要なのです。「とにかく、難しく考えてばっかりじゃなくて、楽しくやろうぜ!」っていうお手本を見せて、みんなの気分を明るくしてくれるような。
 なんだかね、最近の僕は、新庄を見ていると、けっこう元気が出てきていたんですよ。相変わらずバカだなあ、でも、こいつスゴイなあ!って。
 僕の上の世代にとっては、長嶋さんがまさに、そういうタイプだったのではないかと思うのです。

 新庄選手というのは、実は、ものすごく「気配りの人」でもあるそうです。日本ハムに入団したときには、背番号を譲ってくれた選手にすぐにお礼とお詫びの電話を入れたとか、今年も開幕の際に、こっそり楽天の野村監督に挨拶に行ったとか。考えてみれば、本当に「他人の心が分からない人」に、みんなを喜ばせるパフォーマンスができるはずもないんだよなあ。そして、野村監督もインタビューで話しておられましたが、新庄選手の本当にスゴイところは「守備と肩と足」だったそうで、成績にもあらわれているように、けっして「ホームランバッター」ではなかったんですよね。

 僕もぜひ一度、今シーズン中に、ナマ新庄を観ておきたくなりました。いやまあ、「新庄剛志引退ツアー」にほぼ1シーズン付き合わされる羽目になってしまった日本ハムの他の選手たちには複雑な心境もあるとは思うのですが。
 でもなあ、今シーズンの「野球界からの引退」で感傷に浸っていたら、来年以降はさらにいろんなところで活躍していて、「センチになって損した」とかいうことも十分にありえそう……



2006年04月18日(火)
「年はいくつですか?」と聞かれる不快感

毎日新聞の記事より。

【高松地検の川野辺充子検事正が就任会見で年齢の公表を拒む一幕があり、杉浦正健法相は18日の閣議後会見で「世間では女性に年を聞くのはタブー。気持ちはよく分かる」と述べながら、「法務・検察幹部の年齢は公益性が高い情報。隠すことはない。オープンでいい」との認識を示した。
 12日の就任会見で記者から年齢と生年月日を聞かれた川野辺氏は「プライベートなことなので」「女性に年齢を聞くんですか。すごいですね」などと述べ、公表を拒んだ。法務省が発表した人事異動の資料でも、川野辺氏が公表に同意せず、当初は生年月日と出身大学が伏せられていた。一部記者の指摘後、これらの情報が記載された略歴が改めて配り直された。
 川野辺検事正は7日付で最高検検事から同地検検事正に就任した。過去に秋田地検検事正も務めており、二つの地検で検事正になったのは女性では初めて。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は最初にこのニュースを耳にしたときには、「いや、川野辺検事正も、そこまで頑なにならなくても…」と感じました。地検の検事正といえば、「公人」に属するでしょうし、ある程度「情報公開」を求められるでしょうから。本当に不躾な話ですが、「別に隠すような恥ずかしい年齢や出身大学でもないだろうにねえ」などとも、ちょっと考えてしまいました。
 でも、考えてみれば、失礼なのはこの記者のほうなんですよね。

<以下の話はフィクションなのでひとつよろしく>
 そんなに前の話ではないのですが、僕がある病院の医師と電話で話していたとき、その相手は突然怒り出して、こんなことを言い始めたのです。
「先生、年はいくつですか?」と。そして、「そちらが年下なら、そんなにいろいろ聞かずに、黙ってハイハイと素直にこちらの言うことを聞くべきではないか」と。
 普通に患者さんに対するやりとりをしている最中だと思っていたので、僕はなんだかものすごく面食らってしまいました。なんでも、僕の喋り方が気に食わないとか、そういう理由だったらしいのですけど。
<フィクション終わり>

 この人は、「年齢を聞く」という形式をとりながら、実は「お前みたいな若造が!」と言いたかったのです。僕は、年を尋ねられたとき、「今年で60歳になりましてのう、ゴホッ、ゴホッ」とかやってやろうかと一瞬悩んだのですが、一応大人ですので、結局それを実行には移しませんでした。でも正直、「なんて失礼な人なんだろう…」とは間違いなく思ったんですよね。あなたは、相手が年下だったら、どんな理不尽でも通ると考えているのか?とか、相手が年上かもしれない状況でも、そんな無礼な質問をするのか?とか。
 そもそも、僕の経験上、公の席で相手の年齢を聞く人にロクな人間がいたためしがありません。
 僕がいくつであろうと僕は僕でしかないのだし、僕の言っていることが間違っているのなら、「年はいくつですか?」なんてまわりくどい言い方をせずに、間違っているところを指摘してくれればいいのです。
 僕だって、相手が尊敬すべき人間であれば、実年齢が年上だろうが年下だろうが、「尊敬すべき人間に対する態度」をとっているつもりなのに。

 そりゃあ、年齢というのもお見合いパーティの席とかなら必要な「情報」でしょうし(釣書見とけよ、という話ですが)、酒席などで、初対面の年が近そうな人に対する接し方を判断するために「おいくつなんですか?」なんていうのにまで目くじらを立てるつもりはさらさらありませんが、この記者会見のような公の場で、「あなたはいくつですか?」なんていうのは、問われている側にとっては、いわば、「鼎の軽重を問われている」ということにほかなりません。
 川野辺検事正の年が40歳であろうが80歳であろうが、いまこの場に存在しているのは、「同じ人間」なはずです。年齢や生年月日なんて聞いて、何か有益なことがあるのでしょうか?それこそ、「あの若さで検事正なんて」とか「苦労されたんだねえ」とか、余計な評価をされるための「燃料投下」になるだけなんですよね、年齢なんて。それとも、誕生日プレゼントでもくれるのでしょうか?いや、そもそも、この場合の「公益性」って、世間の人々の興味を満たすため以外の何の意味があるのか、僕にはさっぱりわかりません。検事としての能力というのは、年齢によってそんなに左右されるのかね。
 それでもやはり「公人」としては、「経歴詐称」「学歴詐称」なんていう問題が生じる場合もあるから、「公開」が必要なのでしょうか?でも、それが必要だとしても、記者会見の席で、わざわざ問いただされるようなことなのでしょうか?というか、書いてなければ自分で調べろよそのくらい。

 川野辺検事正さま、僕はあなたがいくつでも、何大学出身でも一向に構わないので、どうか、いいお仕事をなさってください。それが、唯一の「判断基準」です。

 



2006年04月17日(月)
エキストラ魂!

日刊スポーツ4月15日号の記事「週刊テレビライフ」(中野由喜・著)より。

【「功名が辻」のエキストラとして活躍する黒木利徳さん(43)は、俳優を目指して大学を中退し、芸能事務所のエキストラ派遣要員に登録した。これまで、約20年もエキストラ人生を歩んできた。大河ドラマでは、’01年「北条時宗」から今作まで6作連続で出演した。大河ドラマの仕事の魅力と特徴を「レギュラー出演者と違って、ある時は商人、ある時は農民、また、ある時は落ち武者や死体と、1つの作品の中でいろんな役で何度も出演できる。上を目指す私にはいい経験になり、大きな夢を見ることができる」と説明した。「功名が辻」ではこれまで、商人と武士、忍者として出演した。
 死体の役を演じる時は、腹部に息を吸い込み、まばたき1つしないように1分以上は息を止める。「理由は分からないけど、仲間の間では、死体を演じると、長生きすると言われていて、私は縁起がいいと喜んでやってます」。仏壇の遺影の写真も同様という。わらじをはいて、砂利道を歩く時は痛い顔をしない。氷点下のロケで、水が凍った川で死ぬシーンでも、寒そうな顔をしない。真夏に、重さ約20キロの鎧を着けた合戦シーンでは、暑がったりしてはいけない。どんな過酷な役でも収入に変わりはない。それでも「つらいと思ったことがない。腐らない、あきらめない。どんな状況でも明るく元気に仕事をこなす」と、画面の片隅のシーンに全力を注いでいる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 こういう無名のエキストラの人たちがいればこそ、テレビドラマや映画というのは、成り立っているんですよね。それにしても、この「エキストラ魂」というのは、本当にすごいなあ。いや、主役級で高額のギャラでも貰っていれば、多少過酷な撮影だってしょうがなくやるかもしれませんが、このエキストラの人たちの収入なんて、そんなたいした額ではないはずです。有名俳優みたいに、辛いシーンの撮影のあとはみんなにねぎらってもらえる、なんてこともないでしょうし。
 この「死体を演じると長生きする」なんていう「伝説」は、ものすごくよくできた話だなあ、という気がします。いくらなんでも、「1分間もまばたきひとつしないで息を止めておく」なんていう役が「縁起が悪い」とか「早死にする」なんて言われていては、誰もやりたがらないでしょうしね。でも、このポジティブさというのは、ちょっと仕事がキツくなっただけで逃げ出したくなる僕にとっては、まさに信じられないものなのです。エキストラって、そんなに楽しいのだろうか……

 主役級からエキストラまで、「演技の世界」というのは、本当に「一度ハマったら抜けられない」魅力があるようです。それにしても、20年間エキストラ人生を続けていながら、【上を目指す私にはいい経験になり、大きな夢を見ることができる】なんて言わせてしまう世界というのは、ある意味、ものすごく罪作りでもあるのかもしれませんね。



2006年04月16日(日)
ネガティブ・スパイラルの渦の中で

「陰日向に咲く」(劇団ひとり著・幻冬舎)より。

(あるアイドルおたくの独白)

【先日の握手会で気になったことがある。客が少なかったのはもちろんだが、問題なのは、むしろ客の質である。僕も含めてだが、とにかく皆が皆ダサい。よれよれのTシャツに丈の短いGパン、紙袋にメガネ。
 今までは僕も別にそれで良いと思っていた。しかし、考えてみれば一流のレストランではネクタイ着用が義務付けられているように、ミャーコに一流のアイドルになってもらうためにはファン自身の質の向上が必要だと思う。小汚い格好をした客が並ぶレストランを見て、人はその店に入ろうとするだろうか。それよりも綺麗な格好をしている客が並ぶレストランのほうに入りたがるはずだ。つまり、僕らの格好がミャーコの人気に直結していることになる。
 そんなわけで服を買いに新宿の某デパートに向かったのだが、入口まで来て足が止まってしまった。
 店に入れない。店に出入りする小洒落た若い男女を目にして、ボサボサ頭でヨレヨレ姿の自分が場違いであることに気づいた。銭湯でスッポンポンになるのは当たり前のことだが、街でスッポンポンになるのは問題だ。それと同じように秋葉原を歩いている分にはまったく問題のなかった僕の格好も、ここではスッポンポンと同じ。通り過ぎる人々がみんなして僕を見て笑っているような気になる。デパートで服を買うためには、まずデパートで服を買うための服を買わなくてはならないらしい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、なんだかものすごく身につまされる話だなあ、と思いながら、僕はこの文章を読んでいました。
 僕は御洒落な人間ではなく、ファッションセンスにも全く自信がないのですが、こういうのって、別に服装のことに限らず、生きていく上でいろいろな場面で出てくるシチュエーションのような気がします。たとえば、「もっとダイエットしなきゃ」とか「ギャンブルをやめよう」とか、そういう状況で。
 僕たちは、第三者として、他の人がやっている「ムダなこと」に対して注意や批難をすることがあります。「それは食べすぎなんだよ」とか「ギャンブルなんて、儲かるのは胴元だけなんだよ」とか「不倫なんて、悪いに決まっているじゃないか」とか。でも、その当時者だって、「そんなことは他人に言われなくても、自分でもわかっている」のですよね。にもかかわらず、実際にその「間違った習慣や行動」というのを止めるというのは、ものすごく難しいことなのです。タバコの煙が苦手な僕にとっての「禁煙」と、ヘビースモーカーにとっての「禁煙」が、けっして同じ難易度ではないように。
 「ダイエット」ひとつにしても、世間の人たちはみんな「食事を減らして、運動すればいい」という、「ダイエットの王道」を知っているはずなのに、それをうまくやり遂げられ、リバウンドも出さない人は、ごくごく一握りしかません。多くの人は、「わかっているはずなのに、それを実行するための最初の一歩が踏み出せない、あるいは、具体的にはどうしていいのかわからないまま、昨日と同じ日常を繰り返してしまう」のです。毎月外来で同じようなやりとりを繰り返している患者さんを診ているとつくづくそう感じるし、そもそも、僕自身もそういう「同じことを繰り返して、なかなか前に進めない人間」なのです。【デパートで服を買うためには、まずデパートで服を買うための服を買わなくてはならないらしい。】ということに気がついて、そして、その壁の高さにひるんでしまって、結局、いつも同じことの繰り返し。「最初の一歩」を踏み出すというのは、本当に難しい。そして、「明日からのダイエット」は、翌日になっても「明日から」のまま。
 以前書いたように、むしろそういう「自分のセンスに自信が持てないお客」というのは、店員さんにとっては格好の「カモ」(という言い方は失礼でしょうが)なのですから、割り切って、店員さんのなすがままのコーディネートを受け入れられればそれはそれで少しはレベルアップできるはずなのですが、自分で「センスが悪い」と自覚していながら、そうやって「センスの悪い人」として他人に扱われるのは受け入れがたかったるもするのです。

 「自分を変える」というのは、本当に難しいことなのです。「わかりきったこと」のはずなのに、みんな、間違った習慣から逃れられない。
 なんだかもう、どうしようもないなあ、と思うと、ただひたすら悲しくなるばかりです。その壁を乗り越えられないのが自分の「限界」だとか「運命」なのだとは、信じたくはないのだけれど。



2006年04月14日(金)
知られざる「ナレーションの技術」

「阿川佐和子のワハハのハ〜この人に会いたい4」(文春文庫)より。

(阿川佐和子さんと森本毅郎さんの対談記事の一部です。森本さんが語る「ナレーションの技術」について)

【阿川佐和子:お世辞抜きで言いますけど、私、森本さんのナレーションって、ズバ抜けて素晴らしいと思ってるんですね。昔、特番で初めて一緒に仕事をしたとき、ナレーションのコツを教えていただいて、後々、ものすごくためになったんです。

森本毅郎:あ、そう? そんな生意気なこと言った? やっぱりNHKってすごいんですよ。先輩から後輩へ無言の教育が行われる。すごい技術を「盗め!」と言わんばかりに見せつけられるんだよ。

阿川:役者もいいけど、私、森本さんみたいなちゃんと技術を身につけた方に、若い人にアナウンスメントとかナレーションを教えていただきたいと思うんです。

森本:いや、それはダメだよ。もう今は職能が問われずに、役者とかの固有名詞が先行する時代になっちゃったから。

阿川:え〜っ、技術、大事だと思うんだけどなあ。

森本:俺ね、NHK時代にナレーションで悩んでいるときに、平光淳之介さんという名人にどうしたらいいか聞きに行ったことがあるの。そしたら、「いや、森本さん、お声もよろしいし、いいんじゃないんですか」と言うんだよ。

阿川:教えてくださらない。

森本:「僕は本気でいろいろ聞きたいんです」と粘ったら、「僕のところに来る人はだいたい『よかった』と言ってほしいからなんです」って。「いや、僕は本気です」と食い下がったら、「ホントですね? じゃあ」って引き出し開けて手帳を出して来て……。

阿川:きゃあ〜、怖い!(笑)

森本:そこに俺のナレーションに対するコメントが書いてあった。俺が聞きに行かなかったり、本気じゃなかったら、彼はそのまんま出さなかったんだよ。

阿川:で、何を言われたんですか?

森本:「あなた、『何々しました』の『た』がダメです。『た』の研究をしなさい」と。それから俺は、平光淳之介とか和田篤とか名人たちのナレーションを全部録音した。それを聴くと、和田篤の「た」は「た」と「て」の間で、ソフトなんだよ。

阿川:へえ。

森本:平光さんはサ行がすごい。「スッさて」と摩擦音が先に来るから、すごい説得力がある。で、俺は和田篤の「た」と平光淳之介のサ行を盗んだから、グチャグチャになっちゃった(笑)。

阿川:いやあ、面白いッ! そういうこと、教えていただきたいんです。

森本:まあ、聞く耳持たない時代だからねえ。俺、昔よく言ったんだよ。「問いの悪しき者には答うる事勿れ」。質問がよくないやつには真面目に答えるな、と。フフフフ。

阿川:ギクッ(笑)。

森本:いや、それはあなたに言ってるんじゃなくて。以前、歌右衛門さんがインタビューで話していた。「歌舞伎の伝承というものをどうお考えになりますか」と聞いたら、(声色を使って)「私どもがね、いろいろお教えしようと思っても、受ける側でその気がなければ、伝わりませんもんでございましてね」って(笑)。名言だな、と俺は思ったよ。学ぶ側にその気がないのにね、いくら言ったってダーメなんだ。】

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 以前、古館伊知郎さんの「トーキング・ブルース」というソロライブを観に行ったことがあるのですが、そのなかで古館さんは、NHKの松平定知アナウンサーのナレーションを「あの人のすごいところは、聞く人の『常識』を逆手にとっていることだ」というように語っていました。例えば、普通のアナウンサーであれば、室町幕府を興した足利尊氏は…」というナレーションをするときには、「足利尊氏」の名前を大きな声でハッキリと言いますよね。でも、松平さんは、「室町幕府を興した」を大声て強く喋ったあとで、声を落としてボソッとした感じで「足利尊氏は…」と続けるのだ、と。実際にそれを古館さんがステージでやってみせると、確かにそれは「松平調」なんですよね。そして、「一番肝心なことば」をぼかして喋ることで、かえって視聴者は「足利尊氏」の部分を無意識のうちに集中して聞きとろうとし、その「キーワード」が印象に残るのです。
 こういうのが、まさに「テクニック」なのだなあ、と僕は感心してしまいました。でも、僕はそれまで何度も松平さんのナレーションを何度も聞いてきたにもかかわらず、そんな「ナレーションの技術」を意識したことはなかったのです。やっぱり同業者の古館さんの耳は凄かった。
 ナレーションなんて、「感情を込めて、はっきりと喋ればいい」などと簡単にイメージしていたのですが、「声だけの世界」だからこそ、そこにはさまざまな「喋る技術」が反映されているのですよね。
 それにしても、「た」がダメだとか、「た」と「て」の間だとか言われても、なんとなくキツネにつままれたような気がしてならないのですが、ナレーションの職人の世界というのは、こういうレベルでの勝負なのだよなあ。
 
 しかし、この話を読んでいて、僕はいままでの自分が「問いの悪しき者」だったのではないか、と思えてしかたありませんでした。もっと素直に、切実にいろんなことを熟練者に尋ねていれば、もっともっといろんな場面でレベルアップできたような気がするのです。たぶん、いろんな人が、「伝えるべきもの」を僕に対して持っていたはずなのに、僕はそれをうまく「引き出す」ことができなかった。
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉がありますが、本当にその通りなのですよね。「こんなことを聞いたら恥ずかしい」とかいう思い込みなんて、結局、自分の可能性を狭めるだけなんだよなあ。



2006年04月13日(木)
ものすごく困る悩み相談

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2006年5月号の本谷有希子さんのエッセイ「小耳劇場・第9回『悩み相談の巻』」より。

【先日、ものすごく困る悩み相談を耳にしてしまった。夕方のファミレスで隣のテーブルに座った小学生男子とそのお姉ちゃんらしき中学生女子の会話だったのだが、それまではお互い一言も言葉を交わさず運ばれてきたパフェにスプーンを突き立てていたというのに、ふと弟のほうが思い詰めたような表情でその悩みを淡々と打ち明け始めたのである。
「姉ちゃん、最近、俺の中にキムタクが住んでる」
 ヤバい。これはかなりヤバい相談だ。なぜならキムタクは家の中に住むものであって、小学生男子の中に住むものではないからだ。だったらまだ「最近、俺の中に金正日が住んでる」のほうが社会情勢について考えてそうでマシな気がする。「俺の中に悪魔が住んでる」。これも比喩表現っぽくてだいぶいい。ここまで来たら思いきって「俺は山手線沿線に住んでる」でいいじゃないか。
 しかし少年は「ちょっと待って。今あいつ呼ぶから」と片手を軽くあげ、それまでとまったく同じ淡々としたトーンで「キムタクです」と挨拶した。キムタクが「キムタクです」と挨拶する衝撃。私はこのピンチを姉がどう乗り切るんだろうと気が気じゃなかったが、バニラアイスをスプーンに載せた彼女は一言「メロンジュースもらって来て」と命じ、「キムタク」と頷いた弟は空になったグラスを持ってドリンクバーに走っていった。知らなかった。キムタクは「キムタク」って返事するのか……。】

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 この「困る悩み相談」の話を読んで、そういえば僕も「パンダの物真似」ということで、「パンダパンダ」なんて鳴いてみせたりしていたなあ、などと懐かしく感じました。もちろんパンダは、「パンダ!」なんて鳴いたりはしないのですけど。
 それにしても、この「俺の中にキムタクが…」という話って、言っているのが小学生ではなくて大人だったら、さらにすごい衝撃だったと思います。僕だったら、なるべく早く食べ終えて、レシートを掴んでレジに向かいたい気持ちと、その後の展開が気になるのとで、とても悩んだだろうなあ。
 まあ、その場合は、細木和子先生とか、宜保愛子先生の出番になってしまいそうですが。

 大人のこういう「頭の中に住んでいる系」に比べれば、この「頭の中に『キムタクです』と名乗るキムタクが住んでいる男の子」は、かわいいもの、ではあります。こんなふうに全国で呼び出されているのかと想像すると、キムタクさんも大変だろうなあ、と同情してみたり。
 そして、ここまで踊ってみせている弟を完璧にスルーして、「キムタク」にジュースを持ってこさせるお姉さん。子ども同士というのは、ある意味、大人と子どもよりも冷酷かつ無関心なもののようです。
 たぶんこうして「少年の頭の中のキムタク」というのは、失われていくのでしょうね。

 僕だったら、この「相談」に、どう答えただろう?



2006年04月12日(水)
戦争に負けるまで日本人にブスは少なかった

「週刊SPA!2006.4/4号」(扶桑社)の「トーキングエクスプロージョン〜エッジな人々」第428回・美容外科医・高須克弥さんと漫画家・西原理恵子さんの対談記事の一部です。

【高須:基準を作って、それに従わせることで統治するってのは帝国主義の手法なんです。今の世の中は欧米の帝国主義の基準、つまり白人の顔やプロポーションが美の基準になってて、胴長短足、一重まぶたで丸顔で……っていう伝統的な日本美人がブス呼ばわりされる。でも、戦争に負けるまで日本人にブスは少なかったんです。だから、僕の夢は美の帝国の皇帝になって、美の基準を自分の好みにしてしまうこと(笑)。

西原:この人の場合はシャレになんないから。全国の高須クリニックで毎日どれだけの娘さんが整形してんのかと思うとさ。

高須:美人ってのはバランスの整った人のことなの。口がすごく大きいとか、エラがすごく張ってるとか、どこか突出したものが一つあるとブスになっちゃう。だけど、それは”特異な才能を持っている人”と言ってもいいんでね、それを平均化しちゃったら、つまんない、パワーのない人間になる。それは顔だけじゃなくて、スポーツとか音楽とか、いろんな面で言えることでね、たとえば松井秀喜が字を読めなくたっていいじゃない。だから、ブスだって言われたら、「私、どこが目立っているのかしら」と喜んでもらいたいわけ。

西原:今の日本だと、若くて細くて小さな女のコ、それこそ小学生みたいな幼いコが美の象徴でしょ。

高須:男が弱くなってきてるから、そうなっちゃう。男がたくましくなれば、成熟したのがいいと感じるようになると思うんだけどね。僕の美の基準は白い肌で脂の乗った西原先生のような女性ですから。】

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 お笑い芸人の世界では、いわゆる「インパクトがある顔」というのはものすごく羨ましがられるらしいです。確かに、「整っているけれども印象の薄い顔」であるよりは、「一度見たら忘れない顔」のほうが良い場合というのは、けっして少なくないのかもしれません。
 先日、書店で、こういう雑誌を見かけたのですが、この表紙の女の子、綾瀬はるかさんのあまりに「ゆるい」表情に、僕はけっこう驚いてしまったのです。この子、こんなに垂れ目だったかな、とか、これで表紙になっちゃっていいの?とか。顔のパーツじゃありませんが、伊東美咲さんの声というのも、あの顔とかスタイルからすると、ちょっとギャップがありますよね。最初に聴いたときは、ちょっと「えっ?」って思いましたし。
 でも、よく考えてみると、こういう「ちょっとズレたところ」って、けっこう彼女たちのチャームポイントであるような気もするのです。完璧な造形のスーパーモデルも魅力的ではありますが、心に残る顔って、必ずしも「整っている」とは限らないんですよね。むしろ、そのはみ出している部分に魅かれることも多いのです。
 高須先生の夢は極論だとしても、今の日本の「美の基準」というのは、どう考えても「日本人にはクリアしがたい条件」ばかりが設定されてしまっているような気はします。そもそも、「金髪モスーパーモデル的な造形」を日本人が目指すのはかなり無理があると思うし、少なくとも日本の男の多くは、叶姉妹みたいな「ゴージャスさ」を求めてはいないはずです。それはそれで、「日本の男はみなロリコン!」とかいって、叩かれたりもするんだけどさ。
 そういえば、「みんなが染めないといけないような髪の色」というのが「スタンダード」になりつつあるのも、かなり不自然ですよね。

 ちなみに、西原さんは【先生が言うには、年取ったら、顔を取るかスタイルを取るか、どっちかだと。つまり若い頃のスタイルを保とうとすると、顔はシワだらけの干し柿バアサンになっちゃう。でも、私みたくデブだと、シワもないし、ツヤツヤしているという(笑)】なんて仰っています。
 結局、「完璧」というのは、ものすごく不自然なものなのかもしれません。



2006年04月11日(火)
映画ファンにとっての「家庭用ビデオ夜明け前」

「NewWORDS」2006・SPRING ISSUE(角川書店)の藤野千夜さんのコラム「なつかシネマ19XX」より。

【はじめてのビデオデッキがうちに届いたのは、私が高校を卒業してからだった。今でも覚えている、あの日……。
 朝から家族は大忙しで……
 という話が書ければ三丁目の夕日な感じになって素敵かとは思うけれど、べつにそんな時代でもなかったし、自分で買ったわけでもないからよく覚えていない。時期は普通。世間のトレンドから言って、とくに早くも遅くもないころ。
 とはいえ、家のビデオで映画を見られるというのは、やっぱり相当に刺激的なことだった。なにしろソフトさえ手に入れれば、大好きなあの作品も、この作品もいつでも楽しめるのだ。
 しかも何度でも。
 逆に言えば、その機械が家になかったころは大変だった。たぶん多くの映画ファンは。
 くり返し作品を観るためには名画座にでも通うしかなく、テレビでのぶつ切り放送を待ちわびながら、原作やシナリオ(はちょっとおたく)を読み、パンフレットのスチール写真を眺め、サントラ盤のレコードを聴き、足りない部分は「思い出す」。
 そう、貧しいけれど、豊かな想像力あったあのころ……というのはやっぱり三丁目の夕日にまかせたいが、私が名画座によく通った’80年前後でも、客席のうしろのほうに三脚を立てている人、というのをたびたび見かけて驚いたことは確かにある。
 もちろん写真を撮るのだ。
 映画の。】

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 ちなみに、藤野さんの個人的見解によると、そういう「映画館で写真を撮る人」というのは、角川映画、とりわけ薬師丸ひろ子さんの作品に多かったそうです。確かに、「セーラー服と機関銃」の頃の薬師丸さんはとにかくすごい人気でした。幸運にも僕はこういう人たちと映画館内で遭遇したことはないのですが、映画のいいシーンで(彼らが撮りたいのも、当然そういうシーンなので)、シャッター音、酷いときにはフラッシュまで焚かれていたらしいので、普通に映画を観にきていた人たちにとっては、さぞかし不愉快な話だったと思います。でもまあ、当時からすれば、「好きな映画を観る」ためには、ひたすらテレビで放映されるのを待つしかなかったわけですから、どうしてもスクリーンの中の薬師丸ひろ子を自分の傍に置いておきたい、という気持ちは、わからなくもありません
 それにしても、僕は自分が生まれてから30数年の現代社会というのは、そんなに大きな変化はないんじゃないかと考えがちなのですが、こうしてみると、「家庭用ビデオデッキ」がこんなに普及して、レンタルショップに行けば、観たいビデオがいつでも比較的安価に観られるということだけでも、昔からすれば、まさに隔世の感があります。思い出すと、それまでは、「好きな映画を自分のものにする」ということは、ものすごく大変なことだったんですよね。セルビデオソフトというのは比較的昔からあったのですが、1本で1万円以上もするものがほとんどでしたし、種類も非常に限られていましたし。
 僕たちの日常生活というのはなかなか劇的な変化がないように思えるけれど、レンタルビデオにしても、携帯電話にしても、インターネットにしても、実際の現代社会には「昔にはなかったもの」が満ち溢れているのです。
 あのころ、みんなに白眼視されながら映画館で写真を撮っていた人たちは、今、どういう気持ちなんだろうなあ……
 



2006年04月10日(月)
「西原理恵子」の幻影

「悔しいラブレター」(パチンコ必勝本2006・4月2日号、ゲッツ板谷著)より。

【「ゲッツさんのことは西原さんの漫画で知りました」
 「私はサイバラさんの漫画に出てくる板っちが大好きで、板っちことゲッツ板谷さんの本も今度読んでみようと思います」
 「ゲッツさんのエッセイには西原理恵子さんの漫画が入っているので、図書館では借りずに本屋さんで買っています」
 オレの元には、前記のような内容の電子メールや出版社経由のファンレターが多数届く。この1〜2年で西原の名前が混じっているメールや手紙の数はかなり減ったものの、それでも全体の1〜2割のメールや手紙には西原の名前が入っている。で、そういう一文を目にする度に(やっぱし、サイバラのねーさんには足を向けて寝られねえんだなぁ……)といった悔しさも正直感じるのである。
 もう何度も書いていることだが、オレと西原は美大受験のための予備校で知り合い、その後、漫画家になった彼女の後押しがあってオレはライターになった。そして、超売れっ子の漫画家になった西原は、10年近くにも渡って事あるごとにオレのことを各出版社に売り込み続けてくれ、何とかオレが文章で飯が食えるようになっても、さらにオレの本が売れるようにと毎回その表紙のイラストや本文中の漫画を描いてくれたのである。
 そう、オレが出版社に足を突っ込んでからは友だちという関係を超越し、姉というか義理の母というか、とにかくそんな感じの存在としてオレのことを応援し続けてくれたのだ。が、皮肉なことに情が深いサイバラは、その情を受ける身内や友だちにとって、時として「薬」ではなく「毒」になってしまうのである。オレは今までに、サイバラからの強力な援護を受け続けることによって”勘違いの人”になったり、ただ甘えることだけを覚えたり、男芸者のよういに立ち回るようになったりして、結局は表現者としても人間としても腑抜けになってしまった者を何人も見てきた。そして、その度に自分はそうなりたくないと思い、考えた挙げ句に出てきた結論は”西原に対しては感謝をしつつも一生ファイティングポーズを取り続ける”ということだった。つまり、彼女の強大な才能や母性愛には決して飲み込まれずに、いつかきっと西原の漫画より面白くて多くの人を惹きつけるような文章を書いてやろうと心に誓ったのである。

(中略:それからゲッツさんは、少しずつ”西原抜き”の本を出したりしながら、作家としての評価を高めていきます。しかしながら、西原さんは「毎日かあさん」「上京ものがたり」で手塚治虫文化賞短編賞を受賞したりと、さらに幅広く評価されていったので。
 そして、ゲッツさんは、ギャグを捨てて初の自伝的小説である『ワルボロ』を上梓されたのですが、その矢先に、西原さんがある出来事をキッカケに軽い鬱状態になっていることを知ります。ゲッツさんは、そんな状態の西原さんに送るべきか悩んだ末に『ワルボロ』を西原さんに郵送したのです。その3日後に西原さんからゲッツさんに送られてきたのが以下のFAX。

 ワルボロ、届きました。かっこいい本ですね。今日から中国にゆくので旅先でゆっくり読ませて頂きます。
 初小説、本当に本当におめでとうございます。
 これから先、たくさん仕事が増えるでしょうが、どうか断る、やめる、進めるを無理せず決めて下さい(40歳からの体と脳ミソは、おっとろしいほど弱っている事が今回の件でわかった私)。
 人のことを全く言えねーけど、断れない板谷くんが心配です。

                                                そりでは。西原理恵子

 情けない話だが、オレはこのFAXを読んで泣いた。
 やっぱり西原は、オレにとっては姉、もしくは義母のような存在なんだなぁ〜と改めて思い知らされた。完敗だった。いや、未だに同じフィールドにさえ立っていなかったのだ……。】

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 僕がゲッツ板谷さんのことをはじめて知ったのも、西原さんの漫画の中でした。今では板谷さんも売れっ子ライターであり、初小説『ワルボロ』も高い評価を受けているのですが、僕にとっても昔の板谷さんが、「西原理恵子の取り巻きライター」のような印象だったのは事実です。書かれていた雑誌も、ギャンブル雑誌がほとんどでした。
 冒頭でゲッツさんは、【かなり減って、「サイバラ言及率」は全体の1〜2割】と書かれていますから、おそらく数年前までは、過半数くらいは「西原理恵子」の名前がメールやファンレター中にあったのではないでしょうか?それはやっぱり、クリエイターとしてのゲッツさんにとっては、必ずしも喜ばしいことではなかったはずです。もちろん、西原さんの力添えがきっかけで「人気ライター」になれたのだと頭では理解していたとしても、やっぱり、「オレは西原理恵子のオマケか!」というような気持ちになったことだって、あったと思うのです。
 それにしても、西原理恵子さんの、この板谷さんに対するフォローというのは、極めて珍しいものだと思うのです。まあ、世間には「名コンビ」と言われる作家と挿絵画家というのは沢山いるのですが、その多くは「お互いにプロになってから知り合ったコンビ」であり、「無名時代からの知り合い」が、ずっとコンビを組んでいるパターンというのは、ほとんどないはずです。ましてや、長い間板谷さんの文章は、「売れっ子漫画家、西原理恵子のヒモ」みたいな存在だったわけですから。もちろん、西原さんだって、板谷さの才能を評価していたのだとは思うのですが、それでも、西原さんには、板谷さんのことは放っておいて、もっと有名で「本が売れる」ライターと組むという選択肢は、いくらでもあったはずなんですよね。
 でも、その一方で、この西原さんの「情の深さ」が、たくさんの人をダメにしてきたというのもよくわかります。それは、けっして西原さんが悪いわけではないのだけれども。
 板谷さんはそんな人たちをずっと見てきて、いつか自分はそうなってしまうのではないか、という恐怖感もずっと抱いていたのだろうなあ、という気がします。
 ここで紹介されている西原さんから板谷さんに送られたFAXを読んで、僕も西原さんの優しさと気配りに涙が出そうになりました。西原さん自身もキツイ状態のときだったはずなのに。
 ただ、この手紙を読んで、こんな優しすぎる人に圧倒的な力で庇護されているというのは、ある意味、ものすごく辛いものだろうなあ、と感じたのも事実なのです。
 誰のせいでもなく、「優しさ」が、かえって行き場を無くしてしまうことというのも、この世界にはあるのかもしれませんね。



2006年04月09日(日)
探偵が語る「浮気の見破りかた」

「週刊ファミ通」(エンターブレイン)2006.4.14号の記事「エイプリルフール特別企画!!ゲームのウソorホントクイズ!!」の中の「ウソから出たマコトコラム〜ウソを見破る方法〜探偵編〜」より。

(総合探偵社 ガルエージェンシーの松尾さん(仮名)が語る、探偵が見たウソの実態)

【<探偵が語るウソの見破りかた(おもに恋愛に有効)>
・携帯を2〜3台持ち、頻繁に仕事用携帯に電話がかかる
・絶えずメールをしている
・急に忙しいが口癖になる
・休日に家族にかまわなくなる
・服やアクセサリーの趣味が変わる
・言い訳を事前に言う

 依頼の7割は浮気調査で、浮気をごまかす数々のウソを聞いてきました。浮気調査のお願いに来る方の多くは、対象者が男性の場合は携帯電話のメールや明細書の発信履歴等を、女性の場合は服やアクセサリーの変化を見て、ある程度確信を持ってこられます。大抵そういう方の調査に行くと、出張を偽って都内で密会をしている場合が多いですね。今日は仕事で帰れないと言って、20時間ホテルをハシゴしている方もいました。なかには変わった依頼もあって、男女3人で焼肉店でごはんを食べてほしいという内容でした。食事後にレシートを渡すと、依頼主はそれをわざと目立つところにおいて、その時間帯のアリバイを作るんだそうです。そこまでウソをついて浮気したいのかなぁ、と感心しましたね。基本的に男性のほうが綿密にウソをつくので、あまりに完璧すぎるときは、怪しいかもしれませんよ。】

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 探偵が語る、「浮気を見破る方法」について。【対象者が男性の場合は携帯電話のメールや明細書の発信履歴等を、女性の場合は服やアクセサリーの変化を見て、ある程度確信を持ってこられます】という部分を読むと、男性は妻や彼女の浮気に対し、見た目の変化という漠然としたイメージで判断するのに対して、女性の場合は携帯電話のメールや明細書など、より具体的な「物的証拠」まで押さえていることが多いということがよくわかります。そういえば、僕が聞いた話では、「今日は当直だから」と言って浮気相手と海に行って、証拠が残らないように車の中の砂やガソリンスタンドの領収書まで念入りに「隠滅」したのに、「あの病院に行ったにしては、車の走行距離が長すぎる」ということからバレてしまった、というのがあります。いやほんと、上には上がいるものです。
 しかし、ここで語られている「焼肉屋のアリバイ」の話なのですが、正直僕も、ここまでやって浮気したいのだろうか?と疑問になってくるのです。だって、めんどくさそうだし。
 もしかしたら、こういう「アリバイ作り」って、むしろ、やっている本人は「スパイ大作戦」みたいな感じで、けっこう面白がっているのではないかな、という気もするんですけどね。「こんなことまでして浮気しなくても…」というよりは、「相手との逢瀬そのものより、綿密なアリバイ作り」のほうが、本人にとっては楽しくなってしまって、「アリバイ作りのスリルのために浮気する」人とかもいるんじゃないかなあ。



2006年04月08日(土)
スポーツライターの必要条件

「ダカーポ・579号」(マガジンハウス)の特集記事「『食える!』ライターになる」より。

(スポーツライター・金子達仁さんが語る、「スポーツライターの必要条件」)

【金子さんに、スポーツライターに必要な条件について聞くと、「どの分野のライターでも同じだと思いますが、ものを書く仕事ですから、今までの人生でどのくらいの本を読んできたか、これが決定打。模倣の引き出しは多い方がいい。海外のミステリーが好きで、カッコいいフレーズは常に書き留めますね」
 その次が、取材対象のスポーツ選手に好かれること。
「好かれるのは、子供の頃から運動が得意なタイプですね。勉強ばっかりやってたっていうタイプはまず好かれない。でも、スポーツやってた人で、原稿が書ける人って少ないんですよ」

 できれば、客商売を3年ぐらい経験してから、ライターになったほうがいいと金子さんは語る。「それからでも決して遅くないし、誰とでも気さくに話せるようにならないと、インタビュアーはつとまらない。気の合う選手ばかりじゃないですからね」
 金子さんの場合は、学生時代の飲食店での猛烈バイト経験が、かなり役に立っているようだ。】

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 あの中田英寿選手とも親交が厚い金子さんなのですが、ここで語られている「スポーツライターに必要な条件」というのを読んで、僕は「ああ、僕はスポーツライターには絶対になれないなあ…」と痛感しました。ライターという仕事は、たくさんの有名人に会えて自分が書いたものが雑誌に載って、それでお金も貰える羨ましい職業だと思いこんでいたのですが、実際はそんなに甘いものではないみたいです。
 そもそも「本をものすごく読んでいて」「子供の頃から運動が得意なタイプで」「誰とでも気さくに話せる」なんていうのは、僕にとってはスーパーマンです。僕に言わせれば、「子供の頃から運動が得意」なら、わざわざ読書にふけったりしないような気がしますし、実際に「運動が大好きな読書家」というのは、かなり少数派なのではないでしょうか。読書っていうのは、インドア派の代表的な趣味みたいなものですし、そんなにスポーツが好きならば、文章にするより、自分の身体で表現したほうが、よっぽど楽しそうです。そう考えたら、「スポーツをすること」と「スポーツを文章にすること」というのは対極にあるのかもしれませんし、スポーツと文章との相性は、けっして良くはなさそう。
 でも、やっぱりスポーツを言葉にするというのは、自分でワールドカップに出たり、球場でホームランを打てない人々にとっては、「自分も参加できる」という点で、非常に魅力的なことではあるのです。
 どんなスーパースターでも、インタビュー相手としてやりやすい人かどうかは、また別の問題です。ライターというのは、どんないけ好かない取材対象に当たってしまっても、「相性が悪いから話せません」なんて言えないのですから、凄い忍耐力を要することもある職業なのですよね。
 確かに、スポーツライターというのは、「狭き門」だよなあ。



2006年04月07日(金)
「なぜ人を撃ったのか?」

「魔王」(伊坂幸太郎著・講談社)より。

【「何を思い出したんだ?」
「以前に読んだ本。人が殺人を行う場合の心理について書かれた本」
 マスターは瞼を閉じる。どうぞ先を進めて、と促す合図のようだ。
「基本的に人間は、殺人には抵抗がある。いや、動物全般がそうらしいですね。その本によれば、動物は、『同種類』の相手は、できるだけ殺さないようにするらしいんです。つまり人は、たとえ相手が敵であっても、殺人を犯さない方法を選ぼうとする」
「でも、戦争では、人は人を殺す」
「だから、殺人を実行するにはいくつかの要因があるんですよ。たとえば、面白いことが書いてあったんですが、戦場から帰ってきた兵士に、『なぜ人を撃ったのか』と質問をした時、一番多い答えは何かと言うと」
「殺されないために?」
「俺もそう思ったんだけど、違いました。一番多いのは、その本によれば」
「よれば?」
「『命令されたから』」
「なるほど」
「これは他の人の実験でも明らかになっているらしいんですよ。人は、命令を与えられれば、それがどんなに心苦しいことであっても、最終的には実行する」
「他の要因は?」
「集団であること」自分でそう答えた瞬間、スイカの種、ライブハウスの聴衆、隊列をなして行進を行う兵隊、それらが頭に浮かんだ。「集団は、罪の意識を軽くするし、それから、各々が監視し、牽制しあうんです。命令の実行を、サポートするわけです」
「集団か」】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は普段、「人間というのは、人の言うことを聞くようにはできていない」なんて思い知らされることが多いのです。でも、それはあくまでもみんながある程度余裕のある状態だからであって、極限状態ならば、人というのは「自分でなんとかする」よりも「誰かなんとかしてくれ」と思うものなのかもしれません。
 僕は以前「こんな言葉」を読んだことがあるのですが、自分で迷っているときに誰か「偉い人」に命令されてしまうと、それに従ってしまいがちなのでしょう。だって、そのほうがラクだしね。
 そして、人間というのは、「自分が生き残るため」に人を傷つけることに対して罪悪感を覚えがちなのに、「上司に言われたから」「上官に命令されたから」と「他人のせい」にできる状況ならば、けっこう残酷なことができてしまうもののようです。ナチスによるユダヤ人排斥の現場での実行者たちは、確かに「やらなければ自分が殺される」という状況ではなかったはずですから。そして、あの状況は、確かに「集団」でしたし。
 歴史を学ぶときに「どうしてあんなに昔の人は残酷なことができたのだろう?」なんて思うことがあるのです。でも、実際のところ、人というのは、誰か命令する人がいて、それが「正義」だと思い込むことができれば、意外と残酷なことができてしまうみたいなんですよね。秦の始皇帝の時代や第二次世界大戦中のドイツや文化大革命期の中国にだけ、突然変異的に「残酷な人類」が局所的増殖をみせていたというわけではなく。
 近い将来、「なぜお前は人を撃たないのか?」と問われる時代が来るかもしれません。その時に僕は、その「問い」に自分の言葉で答えることができるのだろうか……
 



2006年04月06日(木)
作家がものを書く「動機」は?

「これだけは、村上さんに言っておこう」(村上春樹著・安西水丸絵・朝日新聞社)より。

(読者から送られてきた質問メールの数々に、村上春樹さんが答えた本の一部です)

【質問63:作家がものを書く動機は?

<質問>
 よく創造的仕事をされる方は自分の心のバランスのためやむにやまれずそれを行っていると聞きます。
 以前から誰かに聞きたくて聞く相手が無く困っていたのでここぞとばかりにお尋ねします。作家の方がものを書き始める動機は(1)メッセージを発信するにやまれぬ欲求、(2)文学好き、(3)その他、何なのでしょう?また、メッセージ発信のため自分の内面を見つめぬいていくとどこかでかえって心のバランスを失うことがあると思われますがこの点どのようにバランスをとっておられるのでしょう? 悩める子羊の参考にしたいと思います。(会社員・39歳・男)

<村上春樹さんの解答>
 とてもむずかしい質問で、簡単に短くは答えられません。でもあえて短く答えますと、結局のところ人は書かずにはいられないから書くのです。たぶん小説家は誰だってそうだと思います。自分の中から文章が溢れ出てくるのです。僕はもう20年近く小説を書いていますが、「どうして自分は書くのか」ということについて考えたことはほとんどありません。考える必要もとくにないからです。
 自分の内面を見つめることで心のバランスを失うことはあるか? もちろんあります。問題は自分の内面を見つめていないときに、そのバランスをどのようにリアルにクールに補修し回復していくかということです。僕は音楽を聴いたり、運動をしたり、旅行をしたりしています。インターネットで馬鹿なことを書いているのも、そのひとつかもしれないですね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はときどき自分に対して、「なぜこんなふうに、お金にも名誉にもならないことを書いているんだろう?」と問いかけてみることがあります。実際、こんなふうに書いている時間があるのなら、英会話教室にでも通ったほうが、レッスン代はかかるにせよ、はるかに一社会人としては気がきいていますよね。まあ、結局は「楽しいから」ということに尽きると思うのですけど。
 「作家がものを書く動機は?」というこの質問者の問いに対して、村上さんは、【結局のところ人は書かずにはいられないから書くのです】というふうに答えられています。つまり、「ものを書く」というのは、受験勉強をするような、目的を達するための不自然な努力から生まれてくるものではなくて、夜になったら眠るのと同じような、自分にとっての生理的な現象なのだ、ということなのでしょう。もちろん全ての作家が村上さんのようなタイプとは限りませんし、プロであれば、締め切りに間に合わせるために100%満足ではない作品を世に出さなければならなかったり、「ものを書く」という行為が自分のステップアップの手段だったりする人だっているとは思うのですが、結局のところ、「なぜ書くのか?」なんて考えこんでいるようでは、プロの作家としてやっていくのは無理なようです。むしろ、「書かないと死んでしまう」くらいじゃないとダメなんだろうなあ。

 以前、原田宗典さんが、「小説家になるにはどうすればいいですか?」という問いに対して、「そんなノウハウを他人に質問する前に、我慢できなくて机に向かって自分で書きはじめてしまうくらいでないと難しいと思う」というようなことを答えられていたのを読んだ記憶があります。
 たぶん、「書くこと」っていうのは、「バランスを失うこと」であると同時に、ある種の「バランスを取り戻すこと」なのではないかと僕は最近考えています。そういう意味では村上さんの「生原稿流出事件」への告発文が「なぜ書かれたのか?」といくら周りが勘繰ってみても、村上さん自身にとっては、「書かずにはいられなかった作品」だったのかもしれませんね。



2006年04月05日(水)
「袋小路」のゲーム機たち

読売新聞の記事より。

【性能追求から、面白さ重視の原点回帰へ――。これまで、映画並みの動画表現など、機能を高めることを競ってきたゲーム機商戦に、地殻変動が起きている。
 超高性能が売り物のマイクロソフト(MS)の「Xbox360」や、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の「プレイステーション」シリーズは販売が伸び悩む一方、性能面は抑えた任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」が、ヒット作ソフトに恵まれて好調な売れ行きだ。
 MSは6日に「Xbox360」のてこ入れ策を発表して巻き返しを図るが、高性能化こそが市場を拡大するというこれまでのゲーム機の“常識”は転換点にあるようだ。

 ◆敬遠―― 

 MSは、ゲーム王国・日本市場の攻略を最重要課題に挙げてきたが、Xbox360は昨年12月の発売以来、3月26日までの販売台数が約12万3000台(ゲーム情報誌出版会社のエンターブレイン調べ)にとどまっている。
 一方で、任天堂が3月2日に発売した「ニンテンドーDS Lite」は26日までに約38万4000台を売り上げており、勢いの違いは歴然だ。
 Xbox360や、今年11月に発売が延期されたプレイステーション3など、次世代型高性能ゲーム機の泣きどころは、ゲームソフトの開発負担の重さだ。
 次世代機は、データ量が多い高品質な画像をスムーズに再生する機能が持ち味で、数年前のスーパーコンピューター並みの性能を備えている。
 この性能をフルに引き出すゲームソフトを開発するには、1本あたり数十億円規模と、大作映画に匹敵する開発費が必要とされる。ただ、巨額の開発投資を回収する売り上げを確保できるかどうかは未知数で、こうしたリスクを抱えられるソフト会社は少ない。
 初代PSから飛躍的に性能が向上したPS2は、ソフトの売り上げ本数が初代のPSを下回っている。「高性能を追求するあまり、操作が難しいゲームが増えて消費者に敬遠された」(業界関係者)ためという。

 ◆絶好調――

 これに対し、絶好調なのが、任天堂のDSシリーズだ。昨年のゲーム機市場のハードの販売台数は、ニンテンドーDSが400万台と、SCEのPS2や携帯ゲーム機プレイステーション・ポータブル(PSP)の約2倍の売れ行きを示した。追加機種の「DS Lite」は店頭で品切れを起こすほどのブームとなっている。
 ヒットの原動力となっているのは、簡単な計算などを繰り返して「脳年齢」を表示する「脳を鍛える大人のDSトレーニング」などのソフトだ。複雑な操作は必要ないが、これまでゲームに興味がなかった女性や中高年層を引きつける面白さが魅力とされる。
 任天堂は、1990年代前半までゲーム市場で主導権を握っていたが、SCEやMSの高性能ゲーム機に逆転された。それが、現在は、ゲーム本来の単純な面白さを強調した原点回帰戦略で、復権しつつある形だ。
 エンターブレインの浜村弘一社長は、ニンテンドーDSの好調さについて「ゲーム機の売れ行きは、ソフトなどのアイデア次第であることを証明した」と分析している。】

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 それこそ画面の中を白い棒と球が動くだけだったものが「テニスゲーム」なんて呼ばれていたような「テレビゲーム創成期」からゲームという娯楽に接してきた僕としては、正直、複雑な気分になる記事でした。
 たぶん、「ゲーム」という文化は一般化してきて、みんなのものになってきているのだと思います。2005年の日本のシングルCDで唯一ミリオンセラーになったのが「青春アミーゴ」だったのですが、「ファイナルファンタジー12」は200万本売れていますし、「大人のDSトレーニング」も軽く100万本を突破しているのですから。

 でも、その一方で、「ゲームという娯楽」は、少なくとも技術的にはある種の袋小路に入ってしまったような気がしてなりません。
 僕がマイコンでゲームを始めた頃には、「画面上のキャラクターがアニメーションする」とか「ゲームで登場人物が喋る」というような、「技術的な革新」というのは、ユーザーにとっての「ゲームの面白さ」に、かなり直結していました。というか、当時のゲームって、「ゲームでこんなこともできるようになったのか!」という驚きに満ち溢れていたのです。もちろん、それが必ずしも「ゲーム性」に直結していない場合もあったんですけどね。

 例えば、「映画」という娯楽になぞらえれば、「画面が動く」という驚きのあと、「トーキー」(弁士ではなく、画面の登場人物がリアルタイムでセリフを喋る)になって人々は驚き、あの「風と共に去りぬ」で画面がカラーになったことによって、観客は喝采しました。もちろん、「風と共に去りぬ」は、その「最初のカラー作品」というインパクトがなくても素晴らしい作品だったと思いますが、それでも、当時の映画には、「そんなことができるようになるなんて!」という、作品への評価以上の観客の「驚き」があったのだと思います。もちろん、僕たちには当時の人々の感慨は、想像する以外にはどうしようもないのですが。
 「映画」は、もちろん今も進化し続けています。凄いSFXや3Dサウンドなんて、昔の人からすれば、夢みたいな話でしょう。でも、少なくとも今の僕たちは、「SFXが凄いから」というだけで、無条件に映画を賞賛したりはしなくなりました。要するに「そんなの当たり前」の基準がどんどん高くなってしまっているんですよね。

 ゲームの世界も、たぶんそんなふうになりつつあるのです。「画面上の女の子が瞬目をする」だけのことで歓声を上げていた僕たちは、それより遥かに技術的には上を行っているはずのXbox360の凄い画面を観ても、正直、「まあ、次世代機なんだから、そのくらいはやってくれなくっちゃね」としか思えなくなってしまっています。でもそれって、「技術の革新とともに喜びがあった時代」の遺物である僕としては、寂しいことでもあるのです。ああ、自分はここまでゲームに慣れてしまったのか…と。

 たぶん、これからもいろんな人の「工夫」によって、面白いゲームというのはたくさん出てくるでしょう。
 しかしながら、ダイナミックな「技術的な革新に伴う喜び」というのを感じることは、もう、無くなってしまうのかもしれません。「アイディア次第」というのは、裏を返せば、「アイディアでしか変化をつけられない」という、良く言えば「安定期」悪く言えば「停滞期」なのかな、とも思えるのです。

 僕も最近のプレステ2のゲームは、パッケージを開けてマニュアルを観ただけでお腹いっぱいになってしまうことが多いしなあ……



2006年04月04日(火)
新潮文庫の背表紙の秘密

「この文庫がすごい!2005年度版」(宝島社)より。

(作家・伊坂幸太郎さんのインタビューの一部です。取材・文は、友清哲さん)

【伊坂:自分が新潮社でデビューしたからというわけではないんですけど、新潮文庫は背表紙のカラーが作家ごとに決まっていたり、いろいろ工夫されている点が好きですね。

インタビュアー:あ、ホントだ!『オーデュポン(の祈り)』はホワイトですが、『ラッシュ(ライフ)』は水色ですね。

伊坂:一冊目はみんな白と決まっているそうなんですが、二冊目から色が付く。だから今後『オーデュポン』も重版されることがあれば、この水色が付くそうです。

インタビュアー:なるほど! これが新潮文庫における伊坂さんのイメージカラーになるわけですね。

伊坂:何色がいいか聞かれて「薄い青」と答えたら、同系統の色を何パターンか見せてくれて、そこから選ばせてもらったんです。面白いですよね。

インタビュアー:ところで、『オーデュポン』は文庫化に際して、150枚(原稿用紙換算)も削られたどうですが、その意図は?

伊坂:そもそも僕自身、本は携帯するものという意識があるので、分厚くするのは気が進まなくて。それに、冒険小説などならともかく、僕が書く作品というのは、それほど長い分量が必要なものではないと思っているんですよ。長くなるのはむしろ書き手の怠慢だと思っているほどで。『オーデュポン』はとくにムダに長かったので、絶対もっと削れるはずだと思っていました。

インタビュアー:具体的にはどのような部分を削られたのでしょう?

伊坂:同じことをいろんな箇所で何度も言ってたりしたので、とにかくムダな部分を削りました。それにもうひとつ、やはりこれはデビュー作なので、いま読み返すと文章的に厳しいというのもありましたね。単行本版を読み返すと、もう全部書き直したいくらいで……。結果的に150枚ほど削ることになったんです。

インタビュアー:それでもストーリー自体は変わっていませんね。

伊坂:そうですね。細かいシーンが削られたりはしてますけど。実際もう、1ページ目から全然文章が違うので、なかには両方読んでくれて「まったく書き換えられているんですね」と気付いてくれた人もいました。

(中略)

インタビュアー:下世話な話ですが、ページ数が多いほうが価格も下げられて、そのぶん印税も上がる……なんて計算は働かないものなのでしょうか? 少なくとも出版社サイドにはそういう営業的な戦略はあると思いますが。

伊坂:これは決してキレイ事ではないんですが、僕は自分の作品が安ければ安いほど嬉しいです。単純な話、安いほうが売れるとも思ってますし(笑)、それだけ多くの人の手に取ってもらえれば。それに、やっぱり文庫本は、持ち歩きたいときにサッと鞄に入れられるほうがいいですよね。】

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 「文庫」というのは、新刊書に比べれば、どうしてもデザイン上の制約などが大きくなるのですが(そりゃあ、「文庫サイズ」じゃないといけないしね)、新潮文庫の背表紙の「作家固有の色」というのは、けっこう洒落ているなあ、とこれを読んで思いました。「最初の1冊の初版はみんな白」だそうですから、本屋さんの文庫本コーナーに、「自分の色」の本がずらっと並んでいるのを見るのは、作家にとっては、ものすごく嬉しいことだろうなあ、と思います。しかも、その「色」は、作家本人が選べるというのですから。僕はああいうのって、出版社がある程度決めてしまうものだとばかり思っていました。本の装丁ならともかく、背表紙の色にまで、そんなに気を遣っているなんて。いや、もしかしたら、選べるのは伊坂さんみたいな人気作家の特権だったりするのかもしれませんけどね。

 ところで、僕は最近、伊坂さんの作品である「死神の精度」「魔王」を新刊書で読む機会があったのですが、そのいずれも、最初に手にとったときには、「値段のわりには薄い本だな…」と思ったのです。でも、実際にページ数を見てみると、薄いと思ったその本は250ページを超えており、けっして「短いわりに高い」わけではないんですよね。そりゃあ、「もっと長くて、同じ位の値段の本」はたくさんあるとしても。
 このインタビューを読んでみると、伊坂さんは、新刊書の装丁においても、外見上「分厚くてお得な感じを与える本」にするのではなく、あえて薄い紙を使って、「本が厚くならないように」しているように思われます。しかしながら、いくら昔の作品とはいえ、わざわざ時間をかけて150枚も削ってしまうというこだわりっぷりも凄いですよね(ちなみに、『ラッシュライフ』のほうは、80ページくらい削っているそうです)。もちろん、そういう手間をかけることによって、コアなファンは両方読んでくれるというメリットはあるのでしょうが、削ることが必ずしもプラスになるとは限らないわけですから。

 「文庫化するときには、必ず書き直す」なんていう高村薫さんのような人もいるくらいなので、やっぱり昔から「本好き」だった作家にとっては、「文庫」というのは、特別な思い入れがあるものなのでしょう。作家になる人たちだって、学生時代に新刊書を買いまくるほどお金持ちじゃなかっただろうし。伊坂さんが【単純な話、安いほうが売れるとも思ってますし(笑)、それだけ多くの人の手に取ってもらえれば。】と仰っているように、同じ100万円の印税なら、2000円の新刊書が5千部売れるより、500円の文庫が2万部売れたほうが、よりたくさんの人にも読んでもらえているわけですしね。



2006年04月03日(月)
日本の住宅にあるクールなもの

「週刊SPA!2006.4/4号」(扶桑社)の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス・562」より。

(鴻上さんが、4月からNHKのBSで始まる『クール・ジャパン』という、日本に来て間もない外国人たちに『かっこいい日本』を紹介してもらうとい番組の司会をすることになり、その第1回の放送のテーマ「日本の住宅にあるクールなもの」から。

【一人はスリッパをあげました。
 じつは、スリッパは、日本人の発明なんだそうです。驚きです。
 明治時代、日本家屋に土足のまま、ずかずかと上がってくる外国人に困って、せめてこれをと、靴の上から履いてもらうために作ったものなんですと。だから、最初は、靴より大きいものでした。
 なので、英語のスリッパは、日本のスリッパではありません。英語のスリッパではありません。英語のスリッパは、室内履きというか、簡単に履けるタイプの靴のことです。
 でね、どうしてスリッパがかっこいいかというと、欧米のみなさんは靴を脱がないでしょう(アジアがどうなっているのか詳しく分からないところが情けないんですが)。ハリウッド映画なんか見ると、ベッドの上でも、ギリギリまで靴を履いてるでしょう。 で、これは誰が見て考えても、不衛生なわけですよ。
 オランダ人の参加者は、「オランダはほこりっぽい土地なので、家では靴を脱いでいる人がたくさんいるんだ。だけど、友達が来たら土足のまま、部屋に入ろうとするだろう。だから、いつも、そこでどうしたらいいんだろうっていう議論になるんだ」と語りました。
 部屋で靴を脱ぐのはとても快適だという、日本人からすれば当然でも、欧米人からすれば、信じられない現実を知って、スリッパの存在を「かっこいい」と言うのです。
 ただし、中には、混乱するからかっこよくないと反対した外国人もいました。タタミの部屋では脱がなければいけないし、トイレに入ると、トイレ用のスリッパに変えないといけない、複雑すぎる、とその人は言いました。
 トイレにトイレ用のスリッパがあったのは、ぶっちゃけて言えば、男性がおしっこをする時に、トイレの床にちょいと余計なものがこぼれると思われたからで、男性がみんな座っておしっこをするようになれば、じつはトイレのスリッパは不要になるのです。】

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 実は、僕はつい最近、この「スリッパは日本で発明された」というのを「IQサプリ」の問題で知ったばかりなのですが、「スリッパ」が、ここまで外国人にとって「クール」であるとは、思ってもみませんでした。むしろ日本人である僕にとっては、「スリッパを履くことさえ違和感がある」のですけど。
 しかしながら、僕がこの鴻上さんの文章を読んで驚いたのは、「外国人にも、土足で部屋に入るのは不衛生」という意識があるのだ、ということでした。いや、外国人は「部屋に入るときに靴を脱ぐ」という日本の習慣に対して、「よそよそしい」とか「神経質すぎる」というふうに受け止めている人ばかりなのではないか、と僕は考えていたものですから。もちろん、「外国人」というのをすべて「日本人」に対立する存在としてひとくくりにするわけにはいかないのですが、少なくとも、オランダには、家では靴を脱いだほうがいいと考えている人たちが少なからずいる、ということなんですよね。それでも、彼らはなかなか「靴を脱がない習慣」から逃れられないわけです。
 考えてみれば、どこの国の人であっても、「生き物」としては、足に「靴を履いている状態」より「脱いでいる状態」のほうがラクだし、気持ちいいのはまちがいないはずです。まあ、「気持ちいいこと」ばかりを追求するのは、必ずしも「文明的」ではないかもしれませんけどね。
 それにしても、僕たちが日常的に使っているスリッパ一足にも、日本の先人たちの知恵が詰まっているのです。

 ちなみに、外国人が「スリッパよりも、もっとかっこいい」と思っていたものは「お尻を洗ってくれるトイレ」だそうです。いやまあ確かに、僕も最初に見たときには、「よくやるなあ…」と感動しましたけど。




2006年04月02日(日)
「生き急いだ」漫才師と、その相方だった男

日刊スポーツの記事より。

【漫才コンビ「紳助・竜介」で一世を風靡(び)した元タレント松本竜助さん(まつもと・りゅうすけ、本名・稔=みのる)が1日午前5時2分、大阪市内の病院で脳出血のため亡くなった。49歳。50歳を機に再び漫才をする約束をしていた相方の島田紳助(50)は「ネタ合わせ、嫌やったんやろ」と号泣。竜助さんを「戦友」と呼び「アホ、ボケしか言うことない。悔しい」と声を振り絞った。また竜助さんが自叙伝を執筆中だったことも分かった。

 50歳になったら再び漫才をする−。そう約束していた誕生日(6日)まであと5日、緊急入院から10日で、竜助さんは力尽きた。半生を振り返る自叙伝を執筆中だったが、それを出版することもできなかった。志半ばで短い一生を終えた相方に代わって、紳助がこの日夕、都内で会見した。

 紳助は、竜助さんが倒れた22日は沖縄にいたが、奥さんからの電話で一報を受け、翌23日に大阪の病院に駆けつけた。「手握ったら、握り返してくれた気がしたんやけど、もう脳死状態やった。今思えば錯覚やった」。大粒の涙を流しながら、その時の様子を話した。「竜と50歳なったらやろう言うてた。おれ、あと6時間で50歳やった」。見舞ったのは23日午後6時ごろで、紳助は24日が50歳の誕生日だった。紳助は親友の明石家さんま(50)にも電話で相談しながら、3回、見舞ったという。

 紳助と竜助さんは、85年の解散まで実質的に8年間コンビで活動。漫才ブームに乗り大活躍した。解散後、紳助は成功し、竜助さんは98年に事業に失敗し、1億2000万円の負債を抱えて自己破産した。竜助さんを「戦友」と呼ぶ紳助は「僕と出会わんかったら売れへんかったから、普通の人生あったんちゃうか。売れてプレッシャーなって、生き急いだんちゃうか。真剣に悩んでる」とやりきれない思いをこぼした。】

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 僕自身にとっての松本竜助さんについては、「紳助さんと一緒に漫才をやっていた、『紳助・竜介』の存在感の薄いほうの人」であり、そういえば「ひょうきん族」の「ひょうきんベストテン」で「うーなーなーうなうなうななー(ズキ!)」ってやっていた「うなづきトリオ」にも入っていたよなあ、とかいうようなことが思い出されるくらいの存在なのですが(ちなみに「うなづきトリオ」の他の2人は、ビートきよしさんと島田洋八さん)、まだ49歳ということもあって、今回の「脳出血で危篤」という報道には驚きました。芸能人であるかどうかに関係なく、人が命を落としてしまう年齢としては若すぎます。
 「戦友」であった島田紳助さんの記者会見の記事を読んで、僕はその「相方」に対する義理堅さ、情の深さに感動しました。でも、その一方で、「島田紳助さんの自意識過剰」に対して、やや違和感をおぼえたのも事実です。この【「僕と出会わんかったら売れへんかったから、普通の人生あったんちゃうか。売れてプレッシャーなって、生き急いだんちゃうか。真剣に悩んでる」】なんて「コンビを解消したあとでも成功した相方」に言われるのは、ものすごく龍助さんにとっては悔しいことなんじゃないかなあ、って。それを言えるのは紳助さんだけなのだろうけど、たぶん、「島田紳助ほど才能がなかった」であろう松本竜助という人は、コンビ解消後は、紳助さんと常に比較されながら生きていて、そしてその対抗意識からの「背伸び」から、自己破産に追い込まれるまで「何かをやってみせよう」という思いにとりつかれていたのではないでしょうか。
 確かに、あんなふうに「時代の寵児」にならなければ、竜助さんは、いろいろ無理をして、こんなに早く命を落とすことにはならなかったかもしれないし、もっと「平凡な幸せ」を得られていたのかもしれません。そう考えると、「自分が巻き込んでしまったのではないか…」という紳助さんの「罪の意識」はよくわかります。でも、それはカメラの前で言うべきことなのかな、とは感じるのですが、紳助さん自身にもどうしようもないような感情の乱れからの発言だったのかな……
 いや、「幸せ」って本当にわかりませんよね。もし竜助さんが、芸能界では成功せずに、平凡な幸せに包まれて長生きしたとしても、やっぱり本人にとっては、「早死にしてもいいから、一度は売れてみんなにちやほやされてみたかった…」なんて、死ぬ間際に後悔しないとはかぎらないのだし。



2006年04月01日(土)
気になる女性にメールを送るタイミング

「sabra」2006年4月13日号(小学館)の「くらたまが徹底指南・超行列の恋愛相談所 倉田真由美vs悩める子羊達!」より。

【27歳男性(彼女いない歴3年)からの相談

<悩み>じらしか、脈なしか?

相談者:気になる女性がいます。彼女からメールをくれることもあるのですが、僕からメールを送ると、返事がけっこう遅れることがあるのです。じらされているだけなのか、それとも全く脈なしなのか、どういうことだと判断したらいいのでしょうか?

倉田:要するに、彼女の本心がわからないんだよね?

相談者:はい。僕の気持ちを知っていながらメールをくれるのは、彼女のほほうにも気がある証拠だと思うんですが、返事がなかなか来ないのは、じらされているんでしょうか?

倉田:いや、気持ちを知っていながらメールをくれるのは、少しは気がある証拠っていうのは、ものすごく勝手な思い込みだよ。だって、自分のことを好きだとわかっている人がいるとして、その気持ちを早く吹っ切ってもらいたいって思う人は稀でしょ。男女問わず、人から好かれるのは、悪い気がするものではないから。
 だから、自分の気持ちを知っているのにメールをくれるからって、彼女も気があるのではないかと考えるのは早計だよ。「ある程度は気がある」から「ほとんど気がないけどとりあえず引っ張っておきたい」まで、グラデーションの距離は長いですよ。

相談者:僕はメールをもらうと速攻で返信しているんですが、僕も少し遅らせたほうがいいでしょうか?

倉田:私は女性誌でも恋愛相談やってるんだけど、女の子たちも似たようなことで悩んでるんだ。
 だけど、それを悩み始めた時点で、負けまくりなんだよね(笑)。余裕がある人は、メールを出すタイミングをいつにするかなんてことは、考えないんだよ。相手のことをどれだけ気にしているかによって、メールをいつ出したらいいかと考える時間の長さが決まってくるんです。
 私もメールをいつ出すのか悩んだ経験はあるけど、そういう余裕のなさは、絶対に相手にバレる。だから、そういうことは考え過ぎないほうがいいと思うんだ。
 考えすぎない時のほうが、ナチュラルに行動できるよ。多少の余裕があるように見えるしね。まあ、さんざん迷って失敗したとしても、学ぶところはあるはずだから、それはそれだとも思うけど。】

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 ああ、【「ある程度は気がある」から「ほとんど気がないけどとりあえず引っ張っておきたい」まで、グラデーションの距離は長いですよ。】というのは至言だと思います。そりゃあ相手にもよるでしょうけど、一般的には、自分のことが好きだと予想される人を片っ端から切り捨てたがる人なんていないわけで。「メールのやりとりくらい」ならば、よっぽど嫌いな相手でさえなければ、そんなに苦痛にならないという人も多いのではないでしょうか。
 もっとも、メールの頻度というのは、「好感度」に必ずしも比例するというものではなく、単に「メール好きか?」という要因もけっこう大きいような気はしますけどね。
 
 しかし、「悩み始めた時点で、負けまくり」というのは事実なんですが、やっぱりそういうのに慣れていないと、本人にとっては悩むしかないんですよね。「悩むな」と言われたら、今度は「どうやったら悩まないだろう…」なんて、真剣に悩んでみたりして。「考えるな」と言われたって、ブルース・リーじゃないのですから、「感性のままに行動する」なんてことは普通、なかなかできません。よく「男は恋人(あるいは妻)がいるほうがモテる」なんて言いますけど、所持金ゼロのときに「どうやったら金持ちが大金持ちになれるか?」なんて話をしてみても、しょうがないわけだし。

 結局は、「恋の駆け引き」なんて、やろうと思っても、なかなかできるものじゃない、ということみたいです。僕の知り合いの女性たちは、「とにかく返事は早く」「男はそんな駆け引きなんてしないほうがいい」「むしろ、女に翻弄されるくらいのほうが可愛げがあってベター」なんて先日言っていました。

 まあ、「メールしようと思ったときは、躊躇せずに即座にメールするべき」なのは間違いないみたいです。あくまでも「ストーカー」にならないレベルで。「少なくともその日のうちに」というのが、最低限のマナーだと言っていた人もいましたし。
 でも、メールだけでは、いくらがんばってもなかなか決定打は放てないにも事実ではありますよね、所詮は。