初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2005年09月30日(金)
コスメ・美容系ライターの「必勝パターン」

「ダカーポ・563号」(マガジンハウス)の記事「読まれてナンボ。雑誌ライターの必勝パターン」より。

(雑誌ライターの<書き出し>必勝パターンについての、媒体ジャンル別のインタビューの一部です。)

【―さてお次は、華やかに。女性誌のコスメ・美容系ライターMさんに聞いてみよう。

「本文の場合は、”〜だと思うだろうけれど、それは違う”戦法ですね」

―はい?

「『冬は日差しも強くないから安心していませんか? でも紫外線は確実に肌に届いてます』というふうに」

―まるで魔の手が迫ってきている感じですね。

「乾燥対策もキーポイント。冬に限らず、夏でもエアコンの影響うんぬんを語れるので、年中、からめられます」

―商品のキャプションはどうですか? 20本の赤い口紅をどう書き分けられるのかと不思議でしょうがありません。

「語彙力と、一度使った形容詞を覚えておく記憶力に尽きます。”真珠のようなきらめき”も”パーリーな輝き”も一緒だろって気分にはなりますが」

―それと、読むと「試してみようか」と駆り立てられるのは何なんでしょう?

「この美容液1本で人生変わる! くらいの大げさ感は必要。”凛としたクリーム”のように、画数の多い漢字を使うのもミソですね。そうして女性に魔法をかける。そんな心持ちで書いています」】

〜〜〜〜〜〜〜

 お決まりの煽り文句を書いているだけのようにも思える「女性誌のコスメ系ライター」というのも、けっこう大変な仕事のようなのです。僕が男で、あまり口紅に縁がないせいかもしれませんが、「20種類の同じような『赤』を、どう書き分けるか?」というのは、非常に難しいことだと思いますし。
 まあ、これを読んでみると、「その商品にあわせる」というよりは、「とにかく前に使われていない表現を考え出す」というのが重視されているみたいなんですけど。
 広告の世界の歴史からすると、「赤」の表現のしかたなんて、もう出尽くしてしまったのではないかとすら思えるのですが、それでも「オリジナル」でなければいけないというのは、本当に厳しい。簡単そうにみえて、多くの「言葉のストック」がないとやっていけないのでしょう。でも、【”真珠のようなきらめき”も”パーリーな輝き”も一緒だろって気分にはなりますが】って、「業界的」には、一緒じゃないんでしょうかこれって。
 「文章を書くことを仕事にする」といえば、小説家などが1ランク上のように思われがちですが、普通の週刊誌で読み飛ばされている無名のライターたちにも、いろんな工夫や苦労があるのです。文字を書くことは、(少なくともいまの日本では)誰でもできるからこそ、言葉を仕事にするというのは、そんなに簡単なことではないのでしょうね。
 でも「画数の多い漢字を使うのがミソ」なんて、けっこう読者はナメられているんじゃないか、とか、思わなくもないです。



2005年09月29日(木)
三島由紀夫の「優しい素顔」

「昭和史が面白い」(半藤一利編著・文春文庫)より。

(「三島由紀夫・善意の素顔」の回。対談されているのは、ホスト役の半藤一利さんと、元毎日新聞の記者で、三島さんに関する著書もある徳岡孝夫さんと、三島さんと交誼が深かった、歌手・美輪明宏さんです。)

【半藤:徳岡さんが三島さんとはじめて出会ったのは?

徳岡:私は毎日新聞の記者として、何度かインタビューさせていただきました。特に親しくなったのは、亡くなる前の三年間のお付き合いでしたから、美輪さんとは比べものならないんですけど。でも昭和四十二年には、僕の特派員としての赴任先のバンコクに三島さんが取材のために来て、一週間ずっと一緒に過ごしたこともありました。

美輪:それは、『暁の寺』の取材のときですね。

徳岡:そうです。二人で連日、日光浴したり映画見たり、めし食ったり……。そのときに、三島さんは非常に公私のけじめのはっきりした方なんだなあと思いました。公的な場では完璧に”作家のマスク”をつけて行動されていたようですけど、私的な場でお話をすると、本当に素直で気持ちのいい人だった。
 あのころ、「新潮」で『奔馬』を連載中だったんですが、三島さん私に「原稿料いくらだと思う? 一枚三千円だよぉ」って(笑)。まあ純文学の雑誌としても格安ですけど、それくらいの原稿料一ヵ月分なんて、三島さんは一晩で遣ってしまったでしょう。そんなこと言う三島さんが普通の人に感じられて、おかしくて。

美輪:公の場に行くと、見てておかしいくらいにガラッと人が変わる。とにかく文壇人としてナメられないようにという気遣いだったんでしょう。でも普段接していると、義理堅くて優しい人なんですよ。原稿用紙に美しい字でキチッと書くのも「植字工が苦労すると可哀相だから」という気持ちからだったし、待ち合わせには十五分前に必ず来ているのも「待たせるよりも待つほうが楽だから」と言って。私なんか、今日こそは三島さんを待っててやろうと思って二十分ぐらい前に行ったのにやっぱり先にいたんで「あなた、箒(ホウキ)にでも乗ってくるんじゃないの」(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 三島由紀夫さんといえば、とくに晩年はボディビルで体を鍛えたり、右傾化した言動が取り上げられたり、悪筆で有名な作家が多いなか、原稿用紙に美しい字できちんと書かれていたりと、とかく「厳しい人」というイメージが強いような気がします。冗談が通じないというか、マジメな堅物とでもいうか。
 まあ、「潮騒」なんていう作品もありますから、気難しくて厳しいだけの堅物ではないのでしょうが、とくに、亡くなられかたのインパクトがあまりに強いため(市ヶ谷の陸上自衛隊の駐屯地の総監室で割腹自殺)、そんな印象があるのですよね。
 でも、身近なところで接した人たちにとっての「人間、三島由紀夫」は、必ずしもそうではなくて、「厳しく、近寄りがたくみえた面」というのは、三島さんの「優しさの裏返し」であった、ようなのです。
 よく三島さんの潔癖な性格を伝えるために持ち出される「原稿用紙の字の美しさ」とか「時間に厳しい」なんていうエピソードは、実は、三島さんの「相手を思いやる気持ち」からきていたのです。常人以上に、「他人を傷つけたくない」という想いから出た行動にもかかわらず、多くの周囲の人からみれば、そうはみえなかったというのは、作家・三島由紀夫としては、むしろ本懐だったのかもしれませんが。
 これを読んでいると、「優しさ」って何だろうなあ、とか、僕は考えてしまいます。読みにくい字を書いて、編集者に「ま、読めなくてもいいよ」と鷹揚に構えてみせるよりは、ちゃんと読めるように書いたほうが、「本当に優しい」はずだし、「待たせるのは辛いから、早すぎるくらい早く待ち合わせの場所に行く」ほうが、はるかに「優しい」ことのはずです。
 でも、そういう「先回りの優しさ」っていうのは、あんまり伝わらないものなのかもしれないなあ、と、これを読んでいると思えてくるのです。
 「優しすぎるのだけど、ナメられたくない」そんなプライドの高い人の生きかたというのは、結局、ああいうふうになってしまうしかなかったのかな、という気もするし、もっと他の道もあったはずなのに、とも感じます。
 たぶん、三島さんは、「そういうふうにしか、生きられなかった人」なのだということは、なんとなくわかるのですけど。



2005年09月28日(水)
携帯電話が使えない言い訳

IT mediaの記事より。

【NTTドコモは9月28日、「ドライブモード」をより広い状況で利用できるよう音声ガイダンスを変更し、名称も「公共モード」に変える。11月17日の午前10時から。
 これまでドライブモードをオンにすると、「運転中のため電話に出られません(略)」と運転に特化したアナウンスが流れていたが、より幅広い状況に対応したアナウンスに変更する。11月17日以降、「ただいま運転中もしくは携帯電話の利用を控えなければならない場所にいるため、電話に出られません。のちほど、おかけ直しください」というアナウンスに変わる。
 「運転中だけでなく携帯電話の利用を控えなければいけない場所にいることを、かけてきた人に分かってもらえるサービスが必要だという声に応えた」(ドコモ)
 また併せて、電源をオフしている場合の新しいガイダンスも提供する。「*25251」をダイヤル発信して電源を切ると、「ただいま携帯電話の電源を切る必要がある場所にいるため、電話に出られません。のちほどおかけ直しください」というメッセージが流れる。
 いずれも使用料金は発生せず、公共モード中の端末にかかってきた電話についても通話料は発生しない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、自分が電話をかけた側だったら、「ドライブモード」だろうが「公共モード」だろうが、「要するに、電話に出られないんだな、ケッ!」とか言って電話を切るだけのことだと思うんですけどね。そもそも、「ドライブモード」って、そんなに使われているのかな、とも感じますし。
 それにしても、携帯電話が世に出た当初のうたい文句というのは「いつでもどこでも直接つながる電話」だったはずなのですが、これだけ携帯電話というのが「持っていて当たり前」の時代になってしまうと、かえって、「携帯電話のマナー」というのが重視されるようになってきました。むしろ、「携帯持ってない」とか言うと、何かポリシーがあるのではないかと思ってしまいますしね。
 まだ携帯電話が珍しかった時代には、新幹線とかバスの中とかで、ときどき、「今、どこから電話してるかわかる?新幹線の中だよ!そう、携帯電話買っちゃってさあ!!」というような人の姿があったのですが、今では、そういう人は珍しくなりましたし(逆に、そういう光景を目にしたら、「ちょっとヘンな人」だと思うに違いありません)、映画館に行けば、予告編のあいだに「携帯電話OFF!」を呼びかけるちょっと凝った映像が流れるのが当たり前になってきました。どんなにドコモがアンテナを増設しても、病院、公共交通機関、運転中など、アンテナが立っていながら携帯電話が使えない場所は、増えていく一方なのです。
 以前は、携帯電話にかかってくれば、相手は自分の知り合いだとある程度信用してよかったのに、最近は携帯電話にもワン切りとか不動産の勧誘の電話とかがかかってくるようになってきました。家の固定電話どころか、携帯電話でも、自分の知らない番号が表示された場合、一度留守番電話にして相手を確認してからではないと繋がない、という人も増えてきているようです(僕のそのうちのひとりです)。携帯電話というのは、一般的になればなるほど、逆に、「閉鎖的」になっていっている面もあるんですよね。
 結局「ドライブモード」が「公共モード」になったところで、運転中に電話がかかってきたときのもどかしい気持ちというのは、変わらないんだろうけどなあ。あの、どうせたいした用事じゃないんだろうけど、わざわざ携帯にかけてくるくらいだし、ひょっとしたら…でも運転中だしなあ…という、あの、モヤモヤとした不安感!
 実際は、今は「わざわざ」携帯に、なんて、かける側は全然思っていないんですけどねえ。
 確かに携帯電話は便利なのですが、その一方で、ずっと発信機をつけられているようなものでもあるのです。「どうして携帯持っているのに、連絡がつかないんだ!」なんて怒られるようなことは、「携帯以前」の時代にはありえなかったんだからなあ。
 



2005年09月27日(火)
飛行機内での、許されない「娯楽グッズ」

「オーケンのめくるめく脱力旅の世界」(大槻ケンヂ著・新潮文庫)より。

【4年ぶりに海外へ行ったのである。
 なぜ長い間、国外に旅をしなかったかと言えば、4年前に突然、飛行機恐怖症になっちゃって、行きたくても行けなかったのだ。タイから日本への機中で発作のようなものを起こしてしまって、すっかりおじけづいてしまったのだ。どうやらその頃に患っていたノイローゼの一症状であったようなのだが、もう飛行機まったく駄目になって、CMの撮影でサイパンに行ったのを最後に、好きだった海外への旅を一切止めてしまった。サイパンに行くのも、それは決死の覚悟が必要だった。飛行機に乗るかと思うと手足が震えちゃってたまらない。何かに集中していれば恐怖感もやわらぐであろうと、機中にとっておきの娯楽グッズを持ち込んだ。
 二箱のプラモデルだ。
 機動戦士ガンダムに出てくる「ガンキャノン」と、そして「おでん屋の屋台」のプラモだ。
 もしあなたが成田→サイパンの飛行機に乗っていて、隣の席の人がやおらプラモデルをつくり始めたとしたらどうであろう?
「お、プラモ! やっぱフライトのお供にはタミヤの1/24スケールがベストだよね〜パンサー戦車とかぁ」
 とはまず思わんであろう。それよりもまずギョッとするであろうし「こ、こいつヤバイやつじゃねーかな?」と焦るであろう。しかも「おでん屋の屋台」に接着剤チュウ〜ッとしぼられた日には本当に恐ろしい、がんもどきスカイハイである。機内プラモ持ち込みは、ノイローゼならではのバカ・チョイスだったのである。していいことと悪いことの判断能力がなくなってしまっていたのだ。結局、プラモの箱をバッグから取り出したところで当時のスタッフにやんわりと止められ、代わりにその箱の上にコクヨの原稿用紙を置いて、エッセイ書きながらサイパンまでの3時間をやり過ごした。】

〜〜〜〜〜〜〜

 飛行機や新幹線など、比較的長時間乗ることになる乗り物は、大概、席の好みを乗る前にリクエストすることができます。飛行機でいれば「窓際がよろしいですか?」というように尋ねられますよね。まあ、窓際を好む人もいれば、飛行機恐怖症で、窓際なんてとんでもない、という人もいるでしょうし、比較的通路に出やすいという意味で、窓際よりも通路側のほうがいい、という人だっているに違いありません。
 しかしながら、このような乗り物では、「席の位置」は選べても、現代でも乗る前には選びようがない、旅の快適さを決める重要な要素が存在するのです。
 それは、「隣にどんな人が乗ってくるのか?」ということ。
 こればっかりは、どんな乗り物でも、こちらで「指定」はできませんよね。もちろん、国賓であるとか、超セレブといったひとたちは、それなりに配慮してもらえるのでしょうけど。
 ちょっと前に、「ひーっこし!ひーっこし!」と毎日大音量で騒いでいるおばさんの話がありましたが、仮にああいう人が隣に住んでいたとしたら、たぶん、いくら大金を払って手に入れたマイホームでも、実勢価値はかなり下がってしまうと思われます。でも、家や土地は選べても、隣人は自分の力では、どうしようもないこともあるのです。あのくらいになるまでは、辛抱しなければならないというのは、ちょっとあんまりですが。

 とくに飛行機などでは、隣にちょっと勘弁してほしい人が乗ってきた日には、目もあてられません。ただでさえ、狭くて身動きもとれず、ストレスがかかる飛行機の中で、新聞をバーンと大きく広げたり、やたらとイチャイチャしたり、聞きたくもない自慢話を延々と続けたり……
 明らかに「隣の席で、こんなことをされたら困る!」ということはあるのですが、ここでの大槻さんとその周囲の人の判断基準では、飛行機の中でのプラモ作りはNGだろう、ということになっています。確かに、僕もあの接着剤のニオイは気になりそうだし、何より、隣でそんな細かい作業をされていたら、こちらまで息がつまりそうです。
 では、どこまで許されるか?と考えると、これも、なかなか難しい問題なんですけどね。読書は大丈夫だとしても、携帯ゲームをガチャガチャとプレイされるとダメだとか、パソコンのキーボードを打つ音もけっこう気になるとか…
 とはいえ、「周りの迷惑にならないように」と、あまりにずっと身を硬くしていたら、自分の身がもたないですしねえ。
 



2005年09月26日(月)
愚かなリ、男子。

「ひとりずもう」(さくらももこ著・小学館)より。

【ほとんどの女子は、かなり小さい頃から男子のことを軽蔑している。
 男子は、どうしてこんなに字が下手なんだろうと呆れ返るようなみっともない字を平気で書き、絵はチンポかウンコかガイコツばかり描き、漫画もチンポやウンコやハゲおやじか出てくるようなものばかり読み、給食の最中もふざけて笑って牛乳を鼻や口から出したりし、そうじ時間はホウキをバットにして雑巾を投げて野球をし、いくら先生に怒られてもやめずに、小学生時代から中学生になってもまだ同じ事をやり続けている。
 女子からしてみれば、男子の気が知れない。ふざけて男子の字のマネをしようと思ったってあんなに下手には書けない。左手で書いたって男子の字よりはまだましだ。チンポやウンコの絵なんて絶対に描きたくないし、男子の読んでいる漫画なんて見たくもない。給食中に汚いマネをするのもやめて欲しいし、そうじ中に野球をやるのも大迷惑だ。なんで小学生の時から中学生になっても、まだそんなくだらない事ばかりやり続けているのか、女子同士の間ではいつも「男子ってホントにバカだよね」と言い合っていた。
 私も、もちろんそう思っていた。男子はホントにバカだ。くだらない。だらしない。関わるとろくな事がない。
 と思っていたのだが、その辺に男子がウロウロしていると、ついついからかいたくなってしまい、結局私は小学校の頃からけっこうよく男子と遊んでいた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ほんとうに、あの頃の「男子」と「女子」の間には、暗くて深い河が流れていたような気がします。男子側からすれば、女子というのは、「先生の言いなり」で「偉そう」で「融通がきかない」「目の中に星が描いてある、同じようなストーリーの漫画ばかり読んでいる」というような存在だったので。
 でもまあ、こうやって、女子側からのコメントをあらためて聞かされると、全くもって「男子」というのは、ロクな生き物ではなような気がします。僕は自分自身では、「バカな男子」とは一線を隔していたつもりだったのですが、さくらさんがここに書かれているような「バカ男子の条件」を必要かつ十分に満たしていましたし……
 しかし、あらためて考えると、男というのは、「大人」になっても、やっていることは「男子」がグレードアップしただけなのかもしれません。カルテの字でも、「なんじゃこりゃ、暗号か?」と思うような「解読不能の文字」を書いているのは、男性がほとんどです(いや、少なくともカルテ上で、「読めないほど汚い字を書いている女性」というのを、僕は知りません。そりゃあ、世間の女性には、ギャル文字とか書いている人もいるんでしょうけど)。そもそも、書いた本人が読めなかったりするし。僕自身も悪筆なので、全然偉そうなことは言えないんですけど…
 男というのは、酒の席で3人集まれば、下半身トークをはじめる人がひとりはいますしね(ひょっとしたら、女性だってそうなのかもしれませんが)。
 でもなあ、あんなに「男子ってバカよねえ」と言っていた女子たちが、「大人の女性」になってみると「少年の心を持った男性が好き!」になってしまうのだから、わからないといえば、わからないものですよねえ。



2005年09月25日(日)
千葉ロッテマリーンズ「バレンタイン革命」の真実

「プロ野球チームをつくろう!3 公式コンプリートガイド」(エンターブレイン)より。

(千葉ロッテマリーンズ企画広報部長/荒木重雄さんへのインタビュー記事の一部です。)

【荒木「前の仕事(IT関係のビジネスマン)をしている時から、展示会等で千葉マリンスタジアムと同じ、海浜幕張駅にある幕張メッセには何度も足を運んだことはありました。が、そのすぐ裏のマリンスタジアムで熱い戦いが行われている空気は全く感じられませんでした。そこでまず、お客様にとって来ること自体が楽しい場所にしたいと考えました。昨年までの千葉マリンスタジアムは試合を観て、帰る、いわゆる典型的な”野球観戦場”でした。ただ野球を観るだけの。ボビー(バレンタイン監督)の言葉が象徴的だったんですが、彼はこう言うのです。”優勝チームですら、10回戦っても4回は負ける。プロ野球だけを商品にしたら、どうしてもそうなるんだ。だからそれ以外の部分で楽しめることを考えないといけない”と。まさに彼の言うとおりです。ただそのためにはどれだけ我々がエンタメというソフトを提供できるか。私は『滞留時間』と呼ぶのですが、いかにお客さんをスタジアムに長くいてもらえるようにするか。そうすることでビジネスの側面からも収益は確実に上がります」

(中略・「付加価値」としての5回の裏の300発の花火やチアリーディングチームの立ち上げなどの話題に続いて)

荒木「それとマリーンズの選手は、ファンサービスに対する意識はとても高いんです。じつはマリンスタジアムではヒーローインタビューが3回もあるんです。1回目はマスコミ向けに、2回目はライトスタンド前で。そして3回目はスタジアムの正面玄関の特設ステージで、スタジアムから帰る人たちに向けて行っているのです。何とスタジアム前に4000人ものファンに集まっていただいたこともあります。しかもこれは選手が自らの意思で行っていることで、我々が強要しているわけではありません。選手は自らファンサービスのために試合前にもサインに応じてくれますし、”ファンの皆さんのおかげで”という言葉が自然に出てきます」】

〜〜〜〜〜〜〜

 ヒーローインタビューなら、何度受けてもいいものかもしれませんが、それでも、3度となると面倒なんじゃないかなあ。
 それにしても、今年の千葉ロッテマリーンズの躍進ぶりは、とくにロッテというチームに興味がなかった僕にとっても、非常に印象的でした。それこそ昔は「お荷物」と呼ばれて、「ビールを飲むために川崎球場へ行っていた」という観客も少なくなかった、そんなチームだったのに。
 この話の中で、僕が驚いたことのひとつは、ボビー・バレンタイン監督の【優勝チームですら、10回戦っても4回は負ける。プロ野球だけを商品にしたら、どうしてもそうなるんだ。だからそれ以外の部分で楽しめることを考えないといけない】という発言でした。日本の監督なら「10回戦って、10回勝つつもりで」というように、少なくとも表面上は言うはずです。でも、バレンタイン監督は、「どんなに強いチームでも負けるのが野球というものだ」と公言していて、だからこそ、チームの勝敗以外のところでも、ファンサービスをしていくことが必要なのだ、と主張しています。「一監督」が、球団の経営姿勢について、ここまで言えること自体が、驚きなのですけど。
 贔屓チームのみじめな負け試合ばかりを見せられて苛立っている僕としては、「いや、6割とは言わないから、5割くらいは勝ってくれないと…」と思ったのですが、いずれにしても、贔屓チームの勝利だけを期待して野球観戦をするというのは、「野球、あるいは野球観戦を楽しむ」という点からいえば、非常にもったいないことなのかもしれません。なんでもアメリカナイズされるのが良いわけではないのでしょうが、もっと純粋に「野球そのもの、あるいはスタジアムの雰囲気を楽しむ」という姿勢があってもいいのかな、という気もするのです。
 もちろん、真剣勝負だから面白いのは間違いないのですが、その一方で、過剰に「自分のチームが勝つ」ことにばかりこだわる野球の観かたというのは、もう、流行らなくなっていくのではないかなあ。

 最近の千葉ロッテ・マリーンズは、ファンの熱心さとマナーの良さで知られるようになってきています。選手たちも、不人気球団だったからこそ、ファンを大切にする気持ちが一層強いようです。
 かつての「お荷物球団」は、選手とファンのお互いの努力と、それをつなぐ荒木さんのような人によって、変わりつつあります。
 球団のオーナーがお金をかけて、自分のチームを強くすることだけが、「ファンサービス」だという時代は、もう、終わりなのかもしれません。

 いや、もう終わりにしてほしいよまったく……

 



2005年09月24日(土)
天才・羽生善治が語る「才能」の正体

「決断力」(羽生善治著・角川書店)より。

【以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。直感でどういう手が浮かぶとか、ある手をぱっと切り捨てることができるとか、確かに個人の能力に差はある。しかし、そういうことより、継続できる情熱を持てる人のほうが、長い年月で見ると伸びるのだ。
 奨励会の若い人たちを見ていると、一つの場面で、発想がパッと閃く人はたくさんいる。だが、そういう人たちがその先プロになれるかというと、意外にそうでもない。逆に、一瞬の閃きとかきらめきのある人よりも、さほどシャープさは感じられないが同じスタンスで将棋に取り組んで確実にステップを上げていく若い人のほうが、結果として上に来ている印象がある。
 プロの世界は、将棋界に限らず若いからといって将来の保証はまったくない。確かに、年齢が若ければ集中力も体力も充実している。だからといって、その人に明るい未来があるかの保証はまったくないのだ。
 奨励会を抜け出すのも大変だが、たとえば、タイトル戦に四、五段の人が出ようと思ったら、予選で若手同士でつぶし合わなければならない。勝ち上がってもA級が待っている。それを全部勝たなくてはいけない。層の厚さという点で、私のころとはかなり状況が違う。やっても、やっても、やっても、結果が出ない……そういう状況だ。しかし、そういう中でも、腐らずに努力していけば、少しずつでもいい方向に向かっていくと思っている。
 やっても、やっても結果が出ないからと諦めてしまうと、そこからの進は絶対にない。周りのトップ棋士たちを見ても、目に見えて進歩はしていないが、少しでも前に進む意欲を持ち続けている人は、たとえ人より時間がかかっても、いい結果を残しているのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今の日本で、「天才」の名前を挙げよと言われれば、たぶん、羽生さんの名前を挙げる人というのは、かなり多いのではないかと思います。将棋というのは、1対1で行われる「ゲーム」だけに、世間一般のいろんな勝負事のなかで、もっとも純粋に「才能」が問われるものではないか、という印象もありますし。実際は、この羽生さんの本を読んでみると、それなりの「しがらみ」みたいなものもあるようなんですけどね。
 「天才・羽生」が語る「才能」についての文章、僕にとっては、非常に興味深いものでした。その「一瞬のきらめき」を持っている「天才」のはずの羽生さんにとっての「才能」というのは、むしろ「努力をする姿勢を持ち続けること」だったのか、と。
 僕の記憶の中にも「アイツは頭いいんだけどねえ」と周りから言われ、「勉強すればできるだろうに」と期待されつつも、結局「才能は、ある」で終わってしまった人というのは、少なくありません。彼らは、ひとつの瞬間に、みんなをハッとさせるような「きらめき」を見せるのですが、結局それは長続きしないのです。そして「やればできる」と自分も周りも思い込んでいるうちに、いたずらに時間だけが流れていく。
 もちろん、芸術の世界では、その「一瞬のきらめき」がうまく作品として世に残ることもあるのですが。
 僕がこの本を読んで感じたのは、羽生さんというのは、その「一瞬のきらめき」と【十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられること】を両立している稀有な人である、ということです。でも、「天才・羽生」にとってより重要なのは、対局のときの「閃き」よりも、それを産み出すために、日々研鑽を続ける、ということのようなのです。棋士のイメージというのは、それこそ真っ白な状態で対局場にあらわれて、相手に応じて臨機応変に勝負する、というものだったのですが、実は、棋士たちの勝負というのは、対局場に座る前に始まっていて、将棋において、僕たちが「まだまだ序盤」だと思っているような状況が、すでにクライマックスのようなのです。そして、「ここが勝負どころ」だと僕が思っているような段階では、もう、すでに決着はほとんどついているんですよね。
 実際は「努力をするにも、努力する才能が必要」なのかもしれませんが、それでも、「少しでも前に進む意欲を持ち続ける」というのは、けっして「できないこと」ではないはずです。「閃きがない」ことが終わりなんじゃなくて、「自分には才能がないから、と諦めてしまうこと」が、「投了」なのでしょう。
 【やっても、やっても、やっても、結果が出ない……】この、三度も繰り返される「やっても」は、おそらく、羽生さん自身の経験で書かれているのだと思います。「天才」であり続けるっていうのは、そんなに甘いものじゃない、ということなのでしょうね。
 



2005年09月23日(金)
キャラクターとして周囲に認めさせてしまえば”勝ち”

「週刊SPA!」(扶桑社)2005年9月13日号の記事『超保存版[ザ・時給]本当にオイシイ仕事は何だ?白書』より。

(経済学者・森永卓郎さんのコメントの一部です。)

【そこそこ働いて、確実に給料はもらい続けるには、それなりの気遣いやテクニックが必要だというのだ。
森永:「早く帰宅しても、有休を消化しても、誰にも迷惑をかけないのは鉄則。就業時間内はマジメに働いたうえで定時に帰るのはもちろん、社内の業務の流れをよく観察し、エアポケットのようにヒマになる時期を見つけて、効率よく休むということが重要」
 また、”いざというときに必ず役に立つ人”として周囲に認知させるのもテだとか。
森永:「私のかつての同僚に、まさにそのタイプがいたんです。定時になるとさっさと帰るし、しょっちゅう有給を取る。でも、何かトラブルが起きたときにSOS連絡を入れると、真夜中だろうが遠方にいようが駆けつけてきた(笑)。恐らく、彼の労働時間は僕の3分の2ぐらい。でも腹は立たなかったし、社内での評価も高かったですよ。要は、やり方は人それぞれでしょうが、サービス残業はしないといった仕事スタイルを、一種のキャラクターとして周囲に認めさせてしまえば”勝ち”なんですよ」】

〜〜〜〜〜〜〜

 こういうのって、言われてみれば、思い当たることというのは、身の回りにたくさんあるんですよね。僕は小心者なので、自分の仕事が比較的早く終わってしまっても(とはいえ、当然終業時刻は大幅に超過しているのですが)、なんとなく周りをみてしまってなかなか帰れないのですけど。
 でも、実際にそういう「ただ漫然と遅くまで残っている」という仕事のスタイルって、あんまり良いものではないなあ、というのはよくわかります。ちゃんとやるべきことを時間内にキッチリ済ませて帰る人に対しては、上司や周囲の人からは「メリハリがつけられて要領がいい、デキル人」というふうに評価が上がることはあっても、「早く帰ってしまうから」という理由で、評価が下がることはないんですよね。
 そりゃあ、同僚からすれば「アイツはいつも早く帰りやがって」みたいな嫉妬を受けることだってあるでしょうけど、嫉妬している側は、「ただ残っているだけ」とか「日中の仕事の密度が薄い」だけで、「遅くまで残っている」ということで、自分の優位を保とうとしていることも多いような気がします。
 休みにしたって、「誰が何日休んだか」なんて、周りの人はいちいち気にしていないものなんですよね。「今月は休みなく働いた」なんていって自分のことを評価しているのは自分だけ、なんていうことは、非常に多い。でも、「堂々と休めるほどの自信」って、なかなか持てないのも現実。
 それに、「誰にも迷惑をかけずに休む」っていうのは、業種によってはものすごく難しいことなのです。必ず誰かがいなければならないところ、というのはあるので。まあ、そんな仕事を選んでしまったのが運のつき、なんですけどねえ。
 仕事とは直接関係ないのですが、僕の友人に「飲み会嫌いな男」がいます。彼は酒の席と酔っ払いが苦手で、仕事のあとの「飲み会」というのは、ことごとくパスしていました。でも、ずっとそうしているうちに、最初は「付き合いが悪い!」なんて言っていた人たちが「あいつはああいうヤツだから、それはそれでしょうがないな」と思うようになっていったのです。逆に、ほどほどに付き合っている僕が「今日は疲れているから…」と言うと、「付き合い悪くなったな、お前」などと言われたりするんですよね。
 そこに至るまでの道は厳しくても、確かに、【一種のキャラクターとして周囲に認めさせてしまえば”勝ち”】っていうのって、あるんだよなあ……



2005年09月22日(木)
「ナポリタン」を求めて三千里

「ゆっくりさよならをとなえる」(川上弘美著・新潮文庫)より。

(「ナポリタンよいずこ」という題のエッセイの一部です。)

【突然スパゲッティナポリタンが食べたくなって、困った。
 オリーブオイルだのゴルゴンゾーラチーズだのポルチーニだのを駆使した本場イタリア的「パスタ」ではなく、ハムと缶詰のマッシュルームを油で炒めたところに、ちょっと茹ですぎたスパゲッティーをほぐしながらいれて、最後にトマトケチャップをちゅーっと絞り出してからめた、あの古式ゆたかな「スパゲッティー」が、どうしても食べたくなったのである。
 町じゅうを、スパゲッティーナポリタンを探しつつ、歩く。イタリア料理店がある。オープンテラスの喫茶店がある。ビーフシチューが名物の洋食屋がある。しかし、スパゲッティーナポリタンがメニューにありそうな喫茶店は一軒もない。
 スパゲッティーナポリタンはもともと、トマトソースのパスタを日本風に手軽にアレンジしたものだろう。たとえばカレーうどんのカレーが本来のカレーとは別物であるように、スパゲティーナポリタンも本来のトマトソースのパスタとは別物であるにちがいない。この別物感が、いい。そういえば焼きそばパンというものもあった。あんパンというものもあった。本来の食品を、「日本風」にアレンジしたもの。そういうものが、私は大好きなのである。
 カレーうどんも焼きそばパンもあんパンも脈々と世に生きつづけているのに、スパゲッティーナポリタンがないのはけしからん、と憤慨しつつ、町を歩く。そういえば、とどんどん思い出す。バター醤油かけごはんというものもあった。熱いごはんにバターをひとかけ、そこにちゅっと醤油をたらし、かきまぜて食べる。これも立派に市民権を得ている。『平野レミのおりょうりブック』(福音館書店)にも堂々と載っていたし。】

〜〜〜〜〜〜〜

 結局この日、川上さんは、愛しい「スパゲッティーナポリタン」にめぐりあうことはできず、家で自分なりの「ナポリタン」を作ってみるのですが、結局【こんなんじゃない。正しいスパナボはもっと油くどくて妙に甘くて必要以上に赤くてためらいのないものなんだ、と心の中で叫びながら、食べおえた。】ということになってしまうのです。ちなみに、このエッセイの次の回では、読者から「正しいスパナボが食べられる店情報」がいくつか送られてきた、という話が出てきます。意外と「スパゲッティーナポリタン」のファンというのは、少なくないのかもしれません。
 このスパゲッティーナポリタンというのは、僕が子供の頃にはよく食卓に上がっていたもので、「スパゲッティー」といえば、この「ナポリタン」か「ミートソース」のことでした。そういえば以前、ナポリに言った日本人が「本場のスパゲッティーナポリタンを食べたい」とリクエストしたところ、現地の人に「そんなものはない」と言われた、なんていう話を耳にしたことがあります。どうして「ナポリタン」という名前がついたのかを調べてみるとこういう記事があったのですが、結局、誰が最初にこの名前をつけたのかについては、定説はないようです。
 最近は、「パスタ専門店」(スパゲティじゃなくて「パスタ」ですからねえ)が増えてきて、スパゲッティーを口にする機会も20年前よりは遥かに増えてきたにもかかわらず、僕もこの「ナポリタン」を口にするのは、コンビニ弁当のつけあわせとして、くらいのような気がします。そもそも、メニューに載っていないのか、それとも、メニューに載っているにもかかわらず、僕の選択肢に入ることがなかったのかすらわからないくらいのもので。

 「本格化」するにつれ、僕が子供の頃に親しんだ食べ物が変容していくのには、ちょっと寂しい感じもあるのです。ソーセージ界からは、「魚肉ソーセージ」や「赤いタコさんウインナー」が斜陽族となり、オムライスも外で食べれば、デミグラスソースがかけられていることが多いのです。そりゃあ、子供心に、なんでチキンライスもケチャップで、卵の上もケチャップなんだろう?と思ったこともありましたが、やっぱりあれは、トマトケチャップの酸っぱさが懐かしい。カレーだって、今はどこでも「胃が痛くなる本格スパーシーカレー」ですし。
 たぶん、こういうのって、「美味しい」という以上に、思い出を美化してしまっている面が大きいのだろうし「ナポリタン」だって、実際に口にしてみれば「まあ、こんなもんだよな」というだけで、とりたてて大騒ぎするほど美味しいものではないのかもしれません。
 それでも、自分が慣れ親しんできた食べ物たちが「ニセモノ」として低くみられるのは、なんだかとても悲しいことなのです。

 しかしまあ、実際にパスタ専門店で、「ナポリタン」を見かけたとしても、やっぱりもっと豪華な感じがする「サーモンといくらのパスタ」とか「牛頬肉のパスタ」とかを注文してしまいそうな気もします。
 もちろん、財布が許せば、という話ですけど。

 「ナポリタンは、遠くにありて思うもの」なのかもしれませんね。




2005年09月21日(水)
同じ部屋では眠れないふたり

「我が妻との闘争〜極寒の食卓編」(呉エイジ著・アスキー)より。

【つらいことがあったせいで早寝をした私は哀しみのあまり、深夜にふと目を覚ましてしまった。いつもなら嫁は私とは別々の部屋で布団を敷いて子供たちと寝るのだが、私を移動させるのが面倒くさかったのか、畳で寝ていた私に布団を掛け、その横に布団を敷いて眠っていた。
 普段、離れて寝ているのには理由があった。私は真っ暗でないと眠れないのだ。案の定、部屋には電気がつけられていた。嫁が気付かぬよう細心の注意を払って布団から抜け出す。そしてゆっくりと照明のヒモに手を伸ばした。
 パチン……これ以上はできないくらいの小さな音で電気を消した瞬間、
「私は真っ暗やと怖くて眠れへんのじゃ!子供たちもそれで馴れとるんじゃ!今すぐ電気つけんかい!」
 丑三つ時に嫁の怒声が県住に響き渡る。電気より先に声で子供たちが起きてしまいそうな怒りっぷりである。なんでさっきまで寝てたのに、あんな小さい音で起きるねん。どんなセンサーがついてるねん。
 もうすぐ朝だ。そしてそれは嫁のルールしかまかり通らぬ一日の始まりでもあるのだった……。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、本当に呉さんがかわいそうでなりません。とくに、「呉エイジ予備軍」である僕のとっては、身につまされる話です。
 ところで、これを読んでいて僕は思ったのですが、「寝るときに真っ暗なほうがいいか、灯りがあったほうがいいか」というのは、けっこう両極端に分かれるような気がするのです。いや、僕だって、そんなにたくさんの人と同じ部屋で寝るという経験をしてきたわけではないのですが、たとえば修学旅行のときとか、部活の合宿、社員旅行などの状況で、「寝るときに、真っ暗にするかどうか」というのは、けっこう意見が分かれるところではありますよね。
 ちなみに僕は、子供のころから「真っ暗だと怖くて眠れない派」だったのです。そもそも「眠る」という行為そのものに、「寝たら、明日は起きられないんじゃないか」とか、「寝て起きたあとの自分は、今の自分とは別人なのではないか」とか、いろいろと考えると、怖くなってしまうんですよね。それこそ、部屋の灯りというのは、自分をこの世界に留まらせてくれる道しるべのように感じていたのです。
 でも、その一方で、「少しでも明るいと、気になって眠れない」という人もいます。こちらは、「まぶしい!」というある意味まっとうな理由で、世界を暗黒にすることを必要としているのです。
 そして、この両者が一緒に寝ようとするとき、やはりそこには「歪み」が現れてきます。でも、こういうのって、「習慣」ではあるし、情緒と理性との争いなので、どこまでいっても平行線なんですよね。
 「怖い!」と「怖くない!」、「まぶしい!」と「まぶしくない!」ならば、それぞれ議論の余地もあるのでしょうが、「怖い!」と「まぶしい!」というのは、あまりにもかみあっていない理由なのです。

 結局は、一緒の部屋で眠るかぎり、どちらかが妥協するしかない話ではあるのですが、誰かと生活をともにするというのは、実務的には、細々としたところで、いろいろな問題があるものみたいです。



2005年09月20日(火)
眞鍋かをりさんが、「ブログを書くうえで一番気を付けていること」

「眞鍋かをりのココだけの話」(眞鍋かをり著・インフォバーン)より。

(巻末の「読まれるブログにするための眞鍋かをり流<10カ条>」のうちのひとつです。

【3.主張はOK。……でも批判は考えもの

 ネットの世界では誰もが簡単に自分の意見を自由に公開することができます。でもその「自由」をはき違えてしまうと、絶対に人には読んでもらえません。主張と批判のラインというのは本当に微妙なものですが、読み手はその違いを敏感に感じ取るものです。言葉を発信できるということは、その言葉で人を傷つけることもできるということ。この部分はブログを書くうえで私が一番気を付けていることです。記事の見直しをしながら「これを読んで傷つく人がいないだろうか」といつも心配になります。実際には不本意にもそういう人もいるのかもしれませんが、自分なりに厳しくチェックして、それをクリアしてからじゃないと更新はしません。主張には批判が含まれてしまうこともあります。でも、「むやみに人を傷つけないこと」を意識して当事者の立場からもものを見て、言葉を選び抜いた主張なら、読み手が嫌な思いをすることは少ないでしょう。結局、自分本位で読み手のことを考えないブログというのは読まれないんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ブログの女王」眞鍋かをりさんが語る、「読まれるブログにするための秘訣」なのですが、併載されているインタビューでは、眞鍋さんは【とくにしっかり時間をかけて書くときは、ひとつの言葉を選ぶのに何十分もかかったり、接続詞を選ぶのに延々頭を悩ませたりとか……。すごく考えますね。】と答えられています。気楽に面白いことを書いているようにみえるけど、実は、ものすごいこだわりがあったり、細心の注意をされたりしているようなのです。確かに、「軽く読ませる」というのは、一見簡単そうなのだけれど、本当は大変なことなんですよね。
 さて、ここで眞鍋さんが書かれている「主張と批判」の話なのですが、この言葉には、眞鍋さん自身の経験もたくさん込められているのだと思われます。多くの人の目に触れるサイトであれば、それだけリアクションの数も多いでしょうし、読んでいる人の立場も幅広いものとなるでしょうから。インタビューのほうでは、【う〜ん、実際に書き始めてから思ったのは、起きた事件などに触れるとしても、なにを書いても結局はイヤな思いをする人がいるんだな、ということですね。それが多数派の意見であろうと少数派の意見であっろうと、どちらかが不愉快な気分になるとしたら、とくに批判めいたことなんかは偉そうに書くことはできないですね。】と言われています。結局のところ、どんなに気をつけていても、「誰も傷つけない文章を書く」というのは、やっぱり不可能なのかもしれません。副作用のない薬がありえないように、何かを表現するというのには、そういうリスクがつきものなのでしょう。ただ、それでも眞鍋さんは、書き続けることを選んで、「むやみに人を傷つけないこと」を意識することによって、今まで「ココだけの話」を維持してきたのです。イヤになってしまったこともあるだろうし、プレッシャーも大きくなる一方だったと思うけれど。
 多くの鳴り物入りで登場した「芸能人の本音が聞ける」はずのブログは、どんどん「宣伝しか書いていないブログ」や「無難なだけで、面白くないブログ」になっていっているのに。
 僕だって、芸能人だし、若い女の子だから、こんなに読まれているんだ」とか、ちょっと妬いてみたりもするのです。いやもう、考えてみれば「アクセスが多い」というだけで、こうして悪意を持って観る人間だっているのだから、眞鍋さんも大変ですよね。
 たぶん「正しいこと」を書いているブログというのは、この世界にたくさん存在しているのです。でも、そういう「正しい内容」がなぜ多くの人に伝わらないのか?その答えを出すための大きなヒントが、この眞鍋さんのアドバイスにはこめられているのではないかなあ。
 「自分の話を聞いてもらうためには、まず、相手の話をちゃんと聞くこと」、そんなの、コミュニケーションの基本として小学校で習っているはずなのに、どうしてネットを介すると、人はみんな「独善的」になってしまうのでしょうか…



2005年09月19日(月)
ナチュラル・ボーン・ゲーマーの「天職」

「女流棋士」(高橋和著・講談社文庫)より。

(女流棋士(今年の2月に引退されたので、正確には「元」ですが)高橋和(たかはし・やまと)さんが、交通事故で左足に大きな怪我をして、入院されていたときのエピソードです。

【そんな中、いちばん上のお兄ちゃん違っていた。なんと持っているのは、当時出はじめたカード型ゲーム機。今でこそ家庭用ゲーム機が普及し、とくに珍しいものではなくなったが、その頃はまだ持っている人も少ない、貴重なおもちゃだった。
「おにいちゃん、ナニそれ?」
 私は言った。
「ん、ああこれか。これは『パラシュート』っていうゲームだよ」
「ぱらしゅーと?」
「ほら、よく見てみな。上から人が落ちてくるだろ。それを下でキャッチするんだ。こうやって左右のボタン動かしながらね。どうだ、やってみるか?」
 こう言うとお兄ちゃんは、そのゲーム機を私に差し出す。
「うん!」
 私は待ってましたとばかり大きな声で返事をし、ゲーム機に飛びついた。
 はじめは失敗ばかりしていたが、三〜四回も遊ぶとコツを覚え、高得点が出るようになってくる。
「おっ、なかなかうまいもんじゃないか」
 ひょいとのぞき込みながら、お兄ちゃんはうれしそうに言った。しかし私はゲームに夢中で、お兄ちゃんの声が聞こえない。しかしまあ、ここまではよかった。
 それから五分が経ち、十分が経っても、私は一向にやめようとせず、むしろやればやるほどにのめりこんでいった。
「あのさぁ、そろそろ……」
 お兄ちゃんが困り顔で私に言う。
「あっ、ほらほら、みんなもう部屋に帰っちゃったよ」
「……ああそうだ。もう三時だからおやつの時間だ。今日は何だろうなぁ」
「お兄ちゃんは私の気持ちをそらそうと、いろいろなことを言ってきたが、なにを言ってもまったく効果がない。私はお兄ちゃんのベッドを占領し、決して動こうとしなかった。
「やまとちゃん、こっちのゲームはどうだい? これも面白いんだよ」
 この言葉には反応した。今まで画面しか見ていなかった目が、一瞬だけチラッとお兄ちゃんの差し出す違うゲーム機に移った。しかし、画面はそれどころではない。上からどんどん人間が降ってくるのである。助けなくてはならない。すぐに目はもとに戻り、お兄ちゃんはハァと肩を落とした。
「わかったよ。じゃあ終わったらベッドの上においといてね」
 おそらく私のゲーム好きはこの頃から始まっているのだろう。ありとあらゆるゲームが好きで、しかも困ったことに勝つまでやめなかった。だから周りはとにかく大変だった。小さい私を上手に勝たせてあげないと、いつまでたっても終わらないのだ。まあ、今となっては職業にまでなったのだからありがたいことなのだが、その頃つきあわされた人たちは、たまったものではなかっただろう。
 それからしばらくして、お兄ちゃんが部屋に戻ってきた。「まだやってるのかこいつは……」とでも言いたげに、顔をヒクヒクさせながら私のほうを見て、
「終わったかい?」
 と言った。
「ううん、あともうちょっと……」
 私がそう答え終わろうとした瞬間、
「あっ……」
「ど、どうした!」
「画面が……まっ暗になっちゃった」
「…………」
 電池切れだ。これでやっと、ゲーム機は無事お兄ちゃんのもとへと帰っていったのだった。
 もちろんこの後も、お兄ちゃんの所に通いつめたことは、言うまでもない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『パラシュート』懐かしい!
 当時の任天堂のゲームウォッチの中でも、この『パラシュート』と『マンホール』は、とくに人気が高くて、ずっと売り切れだったのを思い出しました。
 この文章に出てくる「お兄ちゃん」は、血が繋がった戸籍上の「兄」ではなくて、一緒に入院している年上の男の子のことなのですが、このとき、高橋さんは4、5歳。三つ子の魂百まで」なんて言いますけど、そんな子供のころから、こんなに「ゲーム好き」だったなんて。高橋さんは、結果的に「将棋というゲーム」にハマってしまい、プロ棋士への道のりを歩くことになるのです。

 こうして、実際にものすごい難関をくぐり抜けてプロ棋士になった方の話を読んでみると、こういう、ものごとに熱中したら、それをつきつめないと気がすまない性格」というのは、たとえその熱中の対象がゲームであっても、ひとつの『才能」なのかもしれないな、という気がしてきます。「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」でも、「全アイテム収集」とか「最強キャラ作成」なんていう「やりこみプレイ」をやっている人の姿は、単なる「ゲーム好き」を超越して、崇高ですらあります。僕もゲームは大好きなのですが、「適当にレベルアップをしながら、それなりに勧めていく」という感じだからなあ。

 高橋さんは「棋士」という趣味と実益を兼ねた職業に就かれたのでよかったのですが、こういう「才能」って、きっといろんなところで「ゲームばっかりやって!」というようなお小言とともに、摘み取られていっているんでしょうね。
 ただし、「プロ棋士」を目指すというのは、それはそれで大変な道のりなのです。その「将棋の子」(大崎善生著、ちなみ大崎さんは高橋さんと結婚されています)という本によると「奨励会」に属しているプロ棋士の候補生たちは決められた年齢までにプロ棋士になれないと、永久にプロ棋士にはなれず、奨励会からも「卒業」させれてしまうのです。そして、「夢破れた敗者」たちは、心に大きな傷を負って、「第二の人生」を送っていかなければなりません。自分が大好きなものに「自分の敗北」を思い知らせられるのは、本当に辛いことでしょうけど。

 まあ、この話でいちばんかわいそうなのは、せっかくゲームを貸してあげたのに、当時はまだ高かったゲームウォッチ用のボタン型電池が切れるまで遊ばれてしまった「お兄ちゃん」なんですけどね。

 そういえば、こんなふうに人の家でゲームばっかりやっているヤツがいたようなあ、なんて、半分懐かしく思いつつ。
 



2005年09月18日(日)
父・ヒロシの「唯一の長所」

「ツチケンモモコラーゲン」(さくらももこ、土屋賢二共著・集英社文庫)より。

【ツチヤ:でも、ヒロシさん(さくらさんのお父さん(=「ちびまる子ちゃん」のお父さんに近いキャラクターだそうです))みたいなタイプは結婚相手にいいんじゃないですか。

ももこ:うん、悪くはないと思うんですよ。でも、母に言わせるとヒロシと結婚してよかったことは、気楽だったということだけだって。それであとは全部ダメだって(笑)。

ツチヤ:ほとんどの男はなんのとりえもないんだから、一つでもいいところがあれば立派ですよ。でも気楽以外は全部ダメなんですか。

ももこ:それはそう言えますね。私もそれはわかっているんです。ヒロシは気楽だということ以外に長所がとくにないんです(笑)。

ツチヤ:娘にまで気楽にそんなことを言われて、いいんでしょうか、ヒロシさんは。

ももこ:いいんですよ。だって私は、そのヒロシの唯一の長所である気楽だということが結婚するうえでいかに大切かということをよくわかってるんですから。

ツチヤ:へー。気楽って、そんなに大切なことなんですか。

ももこ:ええ。だって、気楽だという長所しかないヒロシと、母は離婚していませんもん。気楽だということだけで他が全部ダメでも、離婚に至らないというのは、結婚生活のうえでいかに気楽なのが大切かということを物語っていると思うんですよ。

ツチヤ:なるほどね。気楽だとなかなか別れるまでにはならないんですね。怖くて別れられないこともあるけど…。

ももこ;だから私は気楽さの面から見た場合、ヒロシ度の高い人がいいんです。最悪でも現状のヒロシがいいですね。

ツチヤ:現状のヒロシでもいいんですか。

ももこ:最悪でもね。私も、ヒロシだったら離婚しなかったと思うんです。何回かは離婚を考えることもあるかもしれないけど、本当に離婚に至ることはないと思うんですよね。それでこのまえ母に「私は最悪でもおとうさんみたいな人がいい。お母さんはよかったね」と言ったら、それをヒロシがきいていて「結局オレかよ。うちの女はみんなそうなんだよな」って、得意になっているんですよ。

ツチヤ:最悪でもというところを忘れていますよね。

ももこ:そうなんです(笑)。最悪なヒロシが、気楽点だけで60点でギリギリ合格だとしたら、それよりもっと追加点がいっぱいほしいところですね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、こういう「価値観」みたいなものって人それぞれだろうし、「お気楽で緊張感がなくて、刺激がない」という理由で離婚を求められる人だっているのでしょうから、「結婚生活を続けるための最低条件」というのは、一概にいえるものではないのでしょうけど。
 それでも、離婚されてそんなに時間がたっていなかったこの対談の時期にさくらももこさんが、「気楽」であるということの重要性を語っておられるのには、ものすごく考えさせられます。それこそ「気楽でさえあれば、離婚には至らなかった」とまで、仰っているわけなので。
 確かに、人と長くつきあっていく上で、この「気楽さ」というのは、けっこう大切な要素のような気がします。短い間のつきあいであれば、お互いに刺激しあえるというのも大事そうですが、とくに生活をともにするようになれば、お互いの嫌な面だって、見えてくるんですよね。そういうときに、相手を自分の型にキチンとはめようとしたり、あまりにあれこれ干渉しすぎたり、家の中が厳しい雰囲気になって、気が休まらなくなったりすれば、やっぱり、その関係は破綻に向かっているのでしょう。もっともこれは、お互いに高めあえるけど、比較的短い関係というのが必ずしも無益だというのではなくて、あくまでも「結婚生活を続ける」という観点においての話ですが。
 でも、「気楽さ」とか「明るさ」っていうのは、どんな人間関係においても、愛される基本なのだと思います。

 それにしても「最悪でもお父さんのような人がいい」というのは、父親にとって、ほめ言葉なのかどうか……ヒロシさんは、けっこう喜んでいるみたいなんですけど、そういう愛嬌みたいなのもまた、「気楽な人」のいいところなのかもしれませんね。



2005年09月17日(土)
「新しいことやってます」という人は嫌いです。

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年10月号の恩田陸さんと鴻上尚史さんの対談記事より。

【鴻上:たぶん、チェーホフは役者も選ぶんだよね。小津さんの映画と同じで。シェイクスピアは少々下手な役者がやってもそこそこ観られるものになるんだけど、小津作品もチェーホフも、名優たちがやんないと目も当てられないから(笑)。あ、今その話をしながら、今回ぜひ聞きたかったことを思い出したんだけど、恩田さんって、物語ることが好きなの?

恩田:好きというか、ストーリーというものに興味があるというか……。私には、ストーリーにオリジナルなんかないという持説があって。つまり、人間が聞いて気持ちいいストーリーというのは、ずっと昔からいくつかパターンが決まってて、それを演出を変えてやってるだけだと。でも、昔聞いて面白いと思ったストーリーは今でもやっぱり面白い。それが不思議で面白いから小説を書き続けている、という感じなんですよね。

鴻上:つまり、同じパターンなんだけど演出を変えるというところに今の作家の使命があると?

恩田:そうですね。だから、私は新しいことやってますという人は嫌いなんです。それはあなたが知らないだけで、絶対誰かが過去にやってるんだからと。以前、美内すずえさんのインタビューをTVで見ていたら、『ガラスの仮面』は映画の『王将』が下敷きになっていると。で、今なぜ自分は漫画を描いているかというと、小さい頃、一生懸命夢中になって観たり読んだりしたストーリーを追体験したいからだと。それは、すごく共感したんですよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ネットで文章を書いていると、とくに、時事問題などを扱っていると、この恩田さんが言われている「オリジナリティ」について、考えさせられることがよくあります。何かの話題に関して、自分で一生懸命に「オリジナルな意見」を書いたつもりでも、必ずどこかに同じような内容の文章というのが存在しているんですよね。小心者の僕は、そういうのを見て、自分が「パクリ」だと思われたら嫌だなあ、なんていう気持ちになるのですが、正直、このネットというあまりに広い世界で「オンリーワン」になるのは、ものすごく難しいというか、絶対に無理なんじゃないかなあ、と。
 恩田さんは、「創作」について発言されているのですが、「ストーリーにオリジナルなんかない」という達観は、創作者としては、やはり異質な部類なのではないでしょうか。みんなそれを感じながらも、「オリジナリティ」を追求しようとしているのでしょうかもしれませんけど。「それじゃあ、『演出家』じゃないか!」という見方もあるでしょうし。
 ただ、恩田さん自身は「新しいこと」なんて、そう簡単にできるものじゃない、と言いながら、根本は同じでも「新しい見せ方」というものに、ものすごくこだわっている人なのかなあ、という気がします。「新しいものなんてない」という認識は、本人の思い込みで「新しいもの」を書いている人よりは、はるかに「本当に新しいもの」に近づいているのかもしれませんし。
 まあ、こういうのも「人それぞれ」なんでしょうが、確かに、「セカチュウ」とか「イマアイ」なんていう大ヒット小説も、「どこかで読んだ話」だと散々言われていましたし、やっぱり、意欲的だけれど難しい実験作よりも「マンネリ化した王道」のほうが、多くの人に受け入れられるのは間違いないようです。だからといって「実験作」がない世界というのは、活気もないだろうし、あまりにも寂しいんですけどね。

 それにしても、『ガラスの仮面』が、『王将』を下敷きにしているのは、これを読んではじめて知りました。北島マヤは、坂田三吉だったのか…
 
 



2005年09月16日(金)
江口寿史さんが、初めて「落とした」日

「マンガの道〜私はなぜマンガ家になったのか」(ロッキング・オン)より。

(漫画家・江口寿史さんの回の一部です。語り手は江口さん御本人。)

【初めて落としたのは、『ひばりくん!』連載中……半年くらい経った頃かな。その時は、作画の面で煮詰まっちゃって。どうしても1週間じゃ描けなかった。休みも取れないし、キツいなあと思ってて。何ヶ月かに一遍休ましてくれとか、隔週にしてとか、言ってたんですよ。でも、その頃そういう作家なんていないんで……今、いっぱいいるじゃないですか。その頃はとんでもなかったんですよ、そういうこと言うのがね。
 当時の編集長が西村さんっていう非常に癖のある人で、「そういう作家は使うな」ってことになってたらしくて。「江口はもういい」ってことになってたらしいです、あの人の本読むとね(笑)。俺は好きだったんですけどね、ああいうタイプの人。でも、編集長にはもう見限られてたみたいだね。その頃、『ひばりくん!』はすごい人気はあったんだけど、「制作の面で苦労かける作家はもう要らん!」ていうふうになっていったんですよ。その頃は、もう『北斗の拳』とか『CAT'S EYE』とか、いろいろ出てきてたし。で、部数は相変わらず伸びてるし。まあ、江口は描けばアンケートは上位にいくけど、たまに載ってなかったりして雑誌の信用にかかわるほうが大きい、というふうになっちゃって。
 だから、自分でも……もう『ジャンプ』の中に居場所ないかなとか思い始めてたんです。その頃、大友克洋さんだとかがすごいマイペースで仕事してた時期で、いろんな雑誌で描いて、単行本なんかも装丁に凝った大きい判型のものを出したり、そういうスタンスにすごい憧れ出して。だから週刊で四苦八苦して描くよりも、そういうふうな作家になりたいなあとかいう感じになってきて、それでだんだん『ジャンプ』に対して熱がなくなっていったんですね。

 ……それで、3年目に『ひばりくん』の次を描かずに逃げちゃったんですよ(笑)。これ1回だけですよ? ほんとに逃げたのは(笑)。毎週火曜日が締切だったんですけど、月曜の夜にバックレて、ホテルに潜伏してた。それで次の日、明らかにこう、すべてが終わった時刻になって家に帰ったのね。……学校サボってた高校ん時思い出したけどね(笑)。 そしたら編集長から電話が来て、「どういうつもりだお前、ちょっと顔出せ!」とか言われてね。で、呼び出されて行ったら、「隔週で描きたいとか、もうそういう作家は要らないから、自分で勝手にやれ!」とか言われて(笑)。それっきりです、『ジャンプ』は(笑)。訣別ですね。
 でも、『ジャンプ』を離れた時は、後悔はなくて、解放感のほうが大きかったね。もう毎週描かなくていいっていう。なんか、会社辞めたサラリーマンみたいな(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 江口さんといえば、「描かない漫画家」として有名なのですが、このインタビューによると、「ほんとに逃げたのは1回だけ」なのだそうです。それにしても、漫画家、とくに週刊の連載を持っている漫画家というのは、本当にハードな仕事だよなあ、とあらためて考えさせられます。
 『ストップ! ひばりくん』が「週刊少年ジャンプ」に連載されていたのは、1981年から1983年。ちょうど僕が「ジャンプ」を読み始めた時期になります。当時は「Dr.スランプ」や「キン肉マン」の人気が出てきて、「北斗の拳」も始まり、まさにジャンプの「黄金時代」であり、まだ小学生だった僕には、『ひばりくん』は、「なんだかよく分からないマンガ」だったような記憶があります。その「黄金時代」の裏側には、こういう「秘史」があったのですね。
 確かに、人気漫画家だった江口さんと『ひばりくん』を「切る」ことができたのは、当時のジャンプの連載マンガの層が厚くて、『ひばりくん』がなくても土台が揺るがない、という自信が、西村編集長にはあったのでしょうし。
 こういうのは、漫画家サイドからみれば「狭量な管理者からの抑圧」なのでしょうが、何百万部も発行されている巨大雑誌の発行側とすれば、「信用」を維持するためには、仕方のない「改革」なのかもしれません。少なくとも、江口さんの連載が終わって、印刷会社の人は、ちょっとホッとしたことでしょう。
 「常識にとらわれない人」にだって(むしろ、そういう人のほうが)、面白いマンガを描く才能は宿っているのに、「常識的なふるまい」ができないと切り捨てられるというのは、ちょっと寂しい気もしますけどね。
 考えてみれば、あれだけの「絵」を毎週、一年間休みなく描き続けるというのは、ものすごい労力がいることです。『マカロニほうれん荘』を描かれた鴨川つばめさんがインタビューで言われていたのですが、「常に『新しいこと』を要求されるギャグマンガ、そしてギャグマンガ家というのは、ストーリーマンガ(とその作家)よりも、はるかに消耗が激しい」そうなのです。吾妻ひでおさんなんて、本当に「失踪」してしまったのだし。
 それにしても、あれだけ「落とす作家」として有名な江口さんでも、「ほんとに無連絡で落とした」のは、一回きりだったとは。読む側としては、「作家急病のため」という「おことわり」を読むたびに、残念に思いつつも、その「急病」の裏にある「秘密」を勘繰ったりしていたものなんですけどねえ。
 最近では、「取材のため」とかいって、休みをとるのが週刊マンガ雑誌の「常識」になってきて、多少は労働条件は改善されているみたいです。これも、「先人」である、江口さんと、編集者の苦労から生まれた「進歩」なのかもしれません。それは、それでも求められるくらいの才能がある人限定の「特権」だったとしても。
 



2005年09月15日(木)
ムツゴロウさんの語られざる「暗黒面」

「週刊アスキー・2005.9.13号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(元アイドルたちに赤裸々に現役アイドル時代の思い出を語らせた「元アイドル!」などの著書がある、プロインタビュアー・吉田豪さんと進藤さんとの対談記事の一部です。)

【進藤:やっぱり人間的に振り幅のある方への興味が強いのかしら。

吉田:うーん、本人のキャラクターそのものがスゴい人、ガッツさんなんかはそうですよね。あとはギャップがある人。なかでもムツゴロウ(畑正憲)さんは最高でしたよ。

進藤:ムツゴロウさんのギャップ?

吉田:正直、ムツさんのことはそんなに好きじゃなかったんです。だからちょっと視点を変えて、動物のことは一切触れず、”バイオレンス&セックス”をテーマに話をしてみようと。指を噛み切られた時期だったし、ムツさんがいかに無茶してきたかっていう話をメインに訊いたら、「そんな話を訊かれたのは、はじめてですよ!」って大興奮しながら、ご本人もすごく喜んでくれて。で、そのとき「アンタ、これから絶対に売れるよ!」と言ってくれたんです。

進藤;私もムツゴロウさんにインタビューさせてもらったけど、ノリノリじゃなかったなあ(笑)。

吉田:テレビの海外取材のときの話も、「向こうの人は収入が低いからお金をあげると喜ぶんですよ!」とか無邪気に言うんです(笑)。それ以外にも相当ヤバイ話してましたよ。でも周囲から、あれはちょっと行き過ぎって話があったんでしょうね。だから単行本では残念ながら未収録になってしまったんですけど。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、【この話が単行本未収録になることをムツゴロウさんに連絡したら、ムツゴロウさんは「あなたは絶対に成功する、と吉田さんに伝えてください」とまた言ってくれた】そうです。吉田さんにとってだけではなく、ムツゴロウさんにとっても、記憶に残るインタビューだったんでしょうね。
 ムツゴロウさんこと畑正憲さんに対して、世間一般のイメージとしては、「動物王国」の一風変わってはいるけれども、動物好きの優しいおじさん、という感じだと思うのですが、考えてみれば、あれだけの「王国」という組織を維持していくには理想だけではうまくいかないものでしょうし、あれだけ野生動物とわかりあえるというのには、ただの「優しいだけのおじさん」には難しいのではないかという気もします。そういえば、ムツゴロウさんって、麻雀の達人としても知られているんですよね。「純粋無垢」なだけ、では、動物たちとわたりあっていけないに違いありませんし、それが「善い」とか「悪い」というよりは、「人間って、そういうもの」なのでしょう、たぶん。「お金をあげると喜ぶ」というのは、「差別的表現」の範疇に入るのでしょうし、「良識派」の人々は目をひそめてしまうのかもしれませんが、ムツゴロウさんは、「実際にそうだから、そう言っている」だけなのですよね。まあ、それを「公言」するのは、いろんなしがらみもあるのでしょうし、「事実であるということ以外に、何のメリットもない」ですからねえ…

 それにしても、こういう話を読むと、「その人の生の言葉が訊ける」と思いがちなインタビュー記事というのも、実は、いろいろ「脚色」されたり、「削除」されたりしているのだなあ、ということがわかります。それ以前に、インタビュアーが同じことしか訊かなければ、同じような答えしか得られないわけですし。
 吉田さんには、「元アイドル!」の中にも、単行本収録の際に「お蔵入り」になってしまったインタビューもあったりするのですが(南野陽子さんの回は凄かったらしいです)、僕としては、そういう「載せられなかった話」というのに、ものすごく興味があるんだけどなあ……
 




2005年09月14日(水)
椅子に座ろうとしない人々

「お笑い 男の星座2〜私情最強編」(浅草キッド著・文藝春秋)より。

(「未来ナース」という番組で故・鈴木その子さんを「発掘」した浅草キッドが語る、番組収録中のその子さんのエピソードのひとつです)

【そして、ある日、俺たちもたまたま移動の際にロールスの総革張りソファーに身を沈める機会があった。
 車中の短い時間にも先生は眼鏡をかけて、細かい数字が書かれた経理書類をチェックしながら、その合間に自らの著書の新刊の校正ゲラに目を通していた。
「先生、そこまで自分でやられると、お疲れになるんじゃないですか? 人にお任せになったらどうですか?」
 と俺たちが話を振ると、
「もう、これはね、あたくしの性分なのよ。人任せに出来ないの……」
「先生、仕事漬けは体に毒ですよ!」
「どんなに人に、もう満足でしょって言われても、あたくしはね、まだまだ、やり残したことがあるのよ……」
 虚空を見つめて呟いたこの言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
 短期間に長く時間を共にしてきたが、先生のこの一言は俺たちにとって忘れ難い。
 さらに「その子の休日」のロケの期間、とりわけ印象的だったのは、待ち時間にスタッフや俺たちが奨める椅子に頑として一度も座らなかったことである。
 現場で大物にもかかわらず、特別扱いを拒むという意味では、「スタッフや出演者の皆さんが、仕事をされているのに……」と、ロケ先で必ず待ち時間でも立ったままだったという、映画界に於ける高倉健さんのエピソードが想起されるが、先生は一言。
「私、休み癖をつけたくないのよ〜」
 この仕事への執念、それは普通の人から見れば、ある種の偏執、狂気とも見えた。
 それほど彼女は”やり残したこと”への使命感を片時も忘れなかった。
 しかし、この俺たちとのロケ企画も長くは続かなかった。なぜなら、先生には移動の時間すらスケジュールがなくなったのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 健さんも、その子さんも凄いなあ!とこの文章を読みながら思った一方で、僕は正直「こういう人たちと一緒に仕事をするのは、ものすごく大変だろうな」とも感じました。
 だって、あの高倉健さんが立ってたら、他のスタッフや出演者は絶対に自分だけ座るわけにはいかないでしょうし(意外とそうでもないのか?)、考えようによっては、「ちゃんと休憩をとって、体力を回復または温存したほうが、いい仕事ができる」ような気もしなくはありません。まあ、そういう「合理性」を超えた健さんの真摯な姿に心打たれるのは、まさに健さんが「カリスマ」だからなんでしょうけど。内心「足痛いよ〜健さん座ってくれ〜」と思っていたスタッフだっていたのかもしれませんが。
 これは、鈴木その子さんの「休み癖」についても言えることで、トータルの仕事の量と質を考えれば、待ち時間にはしっかり休養したほうがいいんじゃないかと思われます。運動部の補欠選手の応援じゃあるまいし…
 でも、彼らは、そうできないんですよね。
 それが、彼らの「流儀」に反することで、彼らは「性分として、立っていなければならない人間」だから。
 たぶん、他の人が「形だけ」同じようにしてロケ中にずっと立っていても、「かっこつけるなよ」という感じにしか見えないのではないかなあ。
 このエピソードが凄いのは、これが彼らの「ファッション」だからではなく、「生きざま」そのものだからなのでしょうね……




2005年09月13日(火)
『スーパーマリオブラザーズ』生誕20周年!

「週刊ファミ通」(エンターブレイン)2005年9月16日号より。

(「SOFTWARE IMPRESSION」の「ファミコンミニ スーパーマリオブラザース」のレビューより(世界三大三代川・著))

【2005年9月13日。『スーパーマリオブラザーズ』が生誕20周年を迎える。これは、ただ20周年を迎えることがめでたいのではない。このゲームが20年間(毎年ではなくとも)遊ばれたことがすごいのであり、めでたいのだと思う。ファミコンから始まり、スーパーファミコン、ゲームボーイカラー、ゲームボーイアドバンスと、リメイク、移植を続け、そのたびに僕も遊んできた。さらに、たまにファミコンを引っ張り出して遊んだりもした。今度はゲームボーイミクロで遊ぶだろう。そのあとはレボリューションで遊ぶだろう。そのまえに、またファミコンを引っ張り出すかもしれない。僕は10年後にも『スーパーマリオブラザース』を遊び続ける。これは予想じゃない、確信だ。そのとき、さらにヘタになった自分に苦笑いしているかもしれない。もうクリアーできなくなっているかもしれない。たとえそれでも、マリオになりきり、楽しみながら遊んでいることを願う。どれだけプレイしたとしても、このゲームは変わらず気持ちいいはず。20周年なんてまだまだ。マリオは僕をゲームの世界に引きずり込んだ張本人なんだから、もっと一緒に過ごしてもらいたい。
 とりあえず20周年のいまは、ニンテンドーDSで発売される新作『ニュースーパーマリオブラザーズ(仮題)』の発売を待ちながら、ゲームボーイミクロで遊ぼうと思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「スーパーマリオ」20周年。僕が最初にこのゲームで遊んでから、もう20年もの月日が経ってしまったんですね。本当に、時間が経つのって早いなあ。
 20年前のあの日(とはいっても、発売日に買ったのかどうかは、よく覚えてないんですけどね)、「スーパーマリオ」が家にやってきた日のことを、僕は今でもよく覚えています。当時は今みたいに、注目ゲームは発売前から大きな宣伝が行われるような時代ではなくて、あの「マリオブラザーズ」の続編だからという理由だけで、僕はこのゲームを買いました。期待半分、不安半分で。
 でも、このゲームは、「予想をはるかに超えて」楽しかったのです。あのポヨーンという絶妙のジャンプの間、軽快なサウンド、魅力的なキャラクター。
 そして、僕を驚かせたのは、「背景」あるいは「障害物」だと思っていた土管の中に入れて、そこがボーナスステージになっていたことでした。今までこういうゲームをやっていて、「ここに入れたらいいなあ」というようなところに、ちゃんと「仕掛け」が作られているという凄さだったのです。
 いや、当時の僕には、「スーパーマリオ」は、けっして簡単なゲームではなかったのだけれど、それでも、しばらくの間、うちのファミコンには「スーパーマリオ」がささりっぱなしでした。そういえば、ウチの親がやっているのも目撃したことがありました。僕も、弟も、そして姉や妹も、みんなこのゲームをやっていたのです。まあ、妹はいきなり最初に出てくるノコノコに激突してみたり、「あっ、そこはボーナスステージだったのに…」と弟が口を挟んできたりと、みんなそれぞれ、自分のペースで、このゲームで楽しんでいたんですよね。
 考えてみたら、「スーパーマリオブラザーズ」は、この20年間で、もっとも多くの人が触れたゲームのひとつであり、また、それ以上に、僕のような30代〜40代の大人から、今の小学生まで連綿と繋がっている「共通の文化」なんですよね。そして、その「繋がり」は、海外にも広がっている。音楽の世界にも、映画の世界にも、また、そのほかのエンターテインメントの世界にも、20年間愛され続けている「スーパーマリオ」に匹敵する「文化」は、類がないと思うのです。
 たぶんこれからも「スーパーマリオブラザーズ」は、いろいろな機種で、いろいろな場所で、みんなに遊ばれ続けるに違いありません。そりゃ、若者たちには「古くさい」とか言われちゃうかもしれないけれど。
 まあ、なにはともあれ、20歳の誕生日おめでとう、スーパーマリオ。そして、これからもよろしく。「スーパーマリオなんて、知らない!」って言われるのは、僕もちょっと、辛いからさ。



2005年09月12日(月)
「イルカちゃん」からのお願い

「ばななブレイク」(吉本ばなな著・幻冬舎)より。

【よくその島のことがTVで紹介されているからだろう、そこには日本人がたくさんいた。だいたいがハネムーナーで、島でのマリンスポーツと、イルカの餌付けをセットで楽しんでいた。当然のことだが、野生イルカの餌付けにはいろいろなルールがある。野生動物には基本的に人間は手で触ってはいけないし、まして毎日あらゆる種類の人がそこでイルカに直接魚をあげるのだから、何が起こるかわからない。どんな菌をイルカにうつしてしまうかわからないし、どんな悪い人が混ざっているのかわからない。管理するほうは大変だと思う。観光と収入と観察と研究のバランスから、その餌付けという企画ははじまったのだろう。
 日本人が多かったので、日本語で説明するスタッフもいた。私は、その説明を聞いて、頭がぽかん、となってしまった。
「いいですか、これはイルカちゃんからのお願いです」「人間が触ると、イルカちゃんはびくっとします、なので、触った人がいたら必ずわかります、触る人がいると、ストレスがたまって、イルカちゃんは死んでしまいます。もしも悪い菌がついていたら、エイズのような病気になって、やはりイルカちゃんは死んでしまいます。うっかり触らないように、空いたほうの手は必ず、後ろ手にして、上げておいてください。アイスクリームはお好きですか?餌の魚を持つ時は、必ずアイスを持つのと同じ持ち方で、持ってください……」
 その緊迫した内容に比べて、表現は全部こういう感じだった。まわりをぐるりと見てみたが、子供はいない。立派な大人ばっかりだった。私は通りすがりのものなので、その説明の仕方がそのスタッフの人が独自に考え出したものなのか、あまりにもみんながばかで何を言ってもイルカに触りまくるからそんなことになったのかはわからないけれど、とりあえずイルカちゃんはそんなことお願いしたりしないので、普通に「野生動物と向き合う時のルール」を教えればいいのではないだろうか……と言いたかったけれど、その、まだ何もしていない人々に対してはじめから断罪するような、悪い子供に言うような物言いも、わーい!イルカに触っちゃえ! と触っちゃう人々も、どちらもなんとなく日本人というものの、他人との信頼やコミュニケーションというものについての成熟度の低さを物語っているような気がした。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「イルカちゃん」というような表現にさらされる状況って、日本人が海外のツアーに参加すると、経験することがものすごく多いような気がします。いや、海外に限らず、国内でも、この手の「○○ちゃんがかわいそうですからね〜」というような「みなさんへのお願い」をされることって、けっこうありますよね。イルカは人間の言葉を解するそうですから、「バカにしてんのかよ!」とか思っているのかもしれません。
 病院でも、お年寄りに「○○さん、ダメでちゅよ〜」みたいな「赤ちゃん言葉」で話しかけている人がたまにいて、そういうのを見るたびに、僕はちょっと悲しい気分になります。相手は人生の大先輩であり、オトナなんだから、今の状況はどうあれ、それなりに礼儀を尽くすのがスジだろう、とか考えてしまうのです。まあ、やっている本人は、それが「優しい言葉遣い」だと、信じているようなのですけど。まあ、実際は、それで御本人が気を悪くされているかどうかなんて、当事者にしかわからないことには違いありませんが。
 ただ、これをあらためて読んで考えてみると、日本人というのは、「子供(とくに赤ん坊)に対する言葉」というのが、「いちばん丁寧で優しい表現」だと考えていて、動物に対しても「擬人化」している民族なのだなあ、とも思います。「環境を守るために、イルカに触るな」と言われるより、「目の前のかわいいイルカちゃんが死んでしまいます」のほうが、僕にとっては、はるかに「抑止力」が強い表現であるのも事実ではありますし。「大人をバカにしてんのか?」と感じる一方で、大上段に「地球環境のために、触らないのが当然なんだからな!」と言いつけられるよりは、気分的には、受け入れやすいのかもしれません。「環境のため」って言われたら、「でも、自分ひとりくらいなら…」っていう反応をする人は、けっこういそうだし。
 実際は、外国人がオリジナルでこういう言い方を考えるわけもなく、たぶん、誰か日本人あるいは日本通の人が訳したのか、日本でのこの手の「説明」を参考にしたものなのでしょうから、いずれにしても、「日本人には効果的」だと判断されている表現ではあるのですよね。

 しかし、僕もオーストラリアに行ったとき、「コアラ抱っこ写真」を撮って大喜びしていたことを告白せねばなりません。村上春樹さんの「シドニー!」によると、あの「コアラ抱っこ」は、コアラに多大なストレスを与えると言われており、州によっては禁止されているところもあるらしいのですが、その「コアラ抱っこ禁止の州」では、観光客が激減したそうなのです。僕も、ふかふかのコアラを抱っこしたときには、「ああ、これぞオーストラリア!」と感激したものです。やっぱりコアラは可愛いし。

 結局、「イルカちゃん」とか「コアラちゃん」とか、お前ら大人をバカにするな!と言う前に、自分が【普通に「野生動物と向き合う時のルール」】をわきまえて、「大人として扱われてしかるべき行動」をとってみせないといけないのでしょうね、きっと。
 



2005年09月10日(土)
カリスマWEB日記作家が語る「有名人ブログの光と影」

「週刊SPA!2005.9/13号」(扶桑社)の記事「自己主張する『有名人ブログ』」(取材・文/磯野麻衣子 編集部)の菊地成孔さんのインタビューより。

【僕がWeb日記を始めた当時(’99年)は文筆の仕事もしていませんでしたから、何も考えずにがんがん書き始めました。規制なんて一切ないと思っていましたし、現在においてもWeb日記やブログは、どんな酷いことや間違いを書いても基本的には構わないと思っています。
 始めて1年ぐらいで「人気サイト」みたいに言われ出してからは、最早「公器」になってしまった。ファンメールに混じって抗議や訂正の請求が沢山来て。「影響力があるんだから発言に注意しろ」「読んで傷ついた。謝れ」とか知らない人に言われて、自由とモラルについて考えました。掲示板などとも違い、一人ひとりが勝手に何かを書くという行為の束でできた社会において、モラルの確立は難しいのかも知れないですね。
 世界には嫉妬も憎悪も怨念もあるけど、善意も愛情も救済もある。という当たり前のことも思い出させられました。神経症のカムアウトをしたことがあり、治療日記だった時期があるのですが、その2年間に悪意のあるメールは一通も来なかった。天使みたいなメールがいっぱい来て。あの時期がなかったら死んでたかも知れない。それで今度は元気になって有名になると、誹謗や中傷や皮肉のメールが凄くなってきて。でも、最初に善意の存在を知っていたので平気でした。今後「有名人ブログ」が定着するかどうかは、悪意による汚染をいかに排除するか、そのシステムの建て方次第と言えるのではないでしょうか。元気いっぱいで始めて、最初に悪意を喰らって参ってしまう人もいるでしょうから。(談)】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、菊地成孔さんは、こういう方です。
 ここで語られている「ネット上のカリスマ」としての経験を踏まえた菊地さんの話には、いろいろ考えさせられます。僕はさすがに、【規制なんて一切ないと思っていましたし、現在においてもWeb日記やブログは、どんな酷いことや間違いを書いても基本的には構わない】とは思いませんけど。
 菊地さんは、6年にわたってWEB日記を書かれていたのですが(2005年7月に更新停止)、同じ人間に対する周囲の反応が、たった6年間でこんなに移り変わっていっているのですよね。「公器」になってしまってからの菊地さんの苦悩というのが、ものすごく伝わってきます。
 ただ、その一方で、ネット上には「天使」もいるのです。「電車男」のように悩んでいる人を励ましたり、応援したりしてくれる「名無しさん」もたくさんいます。ちょっと調子に乗っていると叩かれるし、落ち込んでいると励まされる。そういう意味では、ネットの世界というのは、【世界には嫉妬も憎悪も怨念もあるけど、善意も愛情も救済もある。】というのを、あまりに激しく思い知らされる場所なのかもしれません。ついこの間まで、みんなが賞賛して持ち上げていたはずの人も、逆に有名になってしまうと引きずりおろされてしまう。いやまあ、こういうのって、「現実社会の縮図」そのものなのですが。まあ、少なくとも、悪いことばかりじゃないし、「弱者ばかりが叩かれる」よりは、「良心的」なのかもしれません。
 眞鍋かをりさんは、以前自分のブログで【ほかのメディアと違って、何の演出も受けないこのツールのなかでは、100%に近く正直でありたい】と書かれていました。そして、「100%」のあとに「に近く」と書いているところが、眞鍋さんのブログの微妙なバランス感覚なのでしょう。やっぱり、本当の「100%」は書けないけれど、それを100%に近く読み手に感じてもらうというのも、ひとつの技術。

 それにしても、「ブログ」というツールが、世界に「影響力」を発揮するようになるにつれ、どんどん「制約」は増えていく一方だというのは、皮肉なことですよね。



2005年09月09日(金)
進め!「めざまし捏造隊」!

日刊スポーツの記事より。

【フジテレビ朝の情報ニュース番組「めざましテレビ」(月〜金曜午前5時25分)で「やらせ」が行われていたことが8日、分かった。「めざまし調査隊」というコーナーで、04年5月以降複数回にわたって過剰演出があったことが発覚。同局は7日放送分で同コーナーを打ち切り、やらせにかかわったフリーの担当ディレクターA氏(30代前半の男性)との契約を解除した。また同局の番組プロデューサーを含む責任者3人を減給、減俸処分とした。
 「めざまし調査隊」は、94年4月の番組開始と同時に始まった名物コーナー。6〜7分間の枠で、一般の人々の生活の悲喜こもごもを紹介し、司会の大塚範一・高島彩アナがコメントする内容だった。今回判明したやらせは、04年5月以降で少なくとも3件。実際に失恋経験がない女性に、1年前に彼氏にふられたと装わせ、1年ぶりに彼氏に電話して再会を求める演出などをしていた。
 同コーナーは、外部のディレクター7人が交代で担当。やらせにかかわったフリーディレクターA氏は、02年から参加し、過去100本以上も同コーナーの制作を担当していた、中心的存在。しかし、最近になって番組スタッフがA氏の取材方法に不審を抱き調査したところ、やらせが発覚した。
 同局広報部は「視聴者の信頼を裏切る結果となってしまい、大変申し訳ございません」とマスコミ各社に送付したファクスで謝罪した。7日放送分で同コーナーを打ち切り、A氏との契約も解除。さらに、管理責任を果たせなかったとして、同局の番組プロデューサー、情報制作局室長、担当の取締役局長の3人にも減給、減俸の処分を科した。

 同番組は放送12年目の今年6月、朝の情報番組のライバルである日本テレビ「ズームイン!! SUPER!」を月間視聴率で初めて上回ったばかり。過熱する朝の視聴率競争も、今回の不祥事と無関係ではなさそうだ。同局は、A氏が3年半も番組制作にかかわっていたため、調査を継続するといい、さらにやらせが発覚する可能性もある。

◆発覚した「やらせ」

 【04年5月17日放送 週末の出来事】草野球を趣味にしている男性が登場。聞けば25打席無安打だという。26打席目に妻からもらったお守りを身に着け打席へ。見事ヒットを打ち「妻のおかげ」と喜ぶ。しかし、お守りはA氏が用意したもので、現場で男性に交渉して身に着けさせた。

 【04年7月29日放送 あなたの暑さ対策は?】カーテン、まくら、電灯など部屋の中をブルーにすれば涼しくなるという男性、部屋を締め切ってダイエットに励む女性、部屋に複数の扇風機を置いている男性が登場。3人はすべてA氏の知人で、演出を依頼された。

 【05年4月4日放送 花見の出来事】井の頭公園で1人で花見をしている女性。前年の花見の時期にその場所で彼にふられたという。1年ぶりに彼に電話する女性。しかし彼は来られないという。登場した女性に失恋の事実はなく、A氏の演出だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は朝テレビを観る時間があるときは、小島奈津子さんの時代から「めざましテレビ」を選んでいたので、この「やらせ報道」は、ものすごくショックでした。なんてひどい番組なんだ!って。

 …と言いたいところなのですが、このニュースを嬉々として報道する他のテレビ局をみていると、「このくらい、どこでもやっているんじゃないかなあ?」と感じてしまったのも事実です。というか、こんな「やらせ」がどうしてバレてしまったのだろう、誰か出演者がバラしたのか?というような疑問もありましたし。結局は「内部告発」みたいなのですけど。
 でもなあ、あの「めざまし調査隊」が、全くの「演出なし」だと思いながら観ていた人って、どのくらいいるのでしょうか?それこそ、「占いコーナー」と同レベルの「信頼性」だったような気がするし、そういう「演出っぽさ」も含めて、みんな楽しんでいたのではないでしょうか?もちろん、こうしてあらためて「やらせでした」と言われると「騙しやがって!」と憤ってみたりもするんですけどね。
 ちょっと昔、僕の大学の合格発表のときの話。地元のテレビ局が取材に来ていたのですが、彼らはしばらく合格者の番号が貼られた掲示板の前でカメラを回したり、インタビューをしていたのです。でも、テレビ的にはどうも派手さが足りなかったらしく、新入生の勧誘に来ていた先輩学生である僕たちに「君たち、胴上げとかやってくれない?」と頼んできました。結局、全然受験生ではない、僕の同級生が胴上げされる映像が、夕方の地元ニュースで流れることになったのですが、これを観ながら、「まあ、マスコミなんて、こんなものなんだよなあ」と実感したような気がします。彼らだって「お金を稼ぐための仕事」と「プライド」をいつも天秤にかけていて、それには個人差があるものの、必要に迫られれば、「事実と演出」の線引きというのは、けっこうアバウトなものなのかもしれません。むしろ、このディレクターは、最初からバラエティ番組を作っているようなつもりだったのではないでしょうか。
 どうせ、誰にも迷惑かけないんだから、このくらいの「演出」はいいだろ?って。
 そして、そのほうが、視聴者も喜んでいたりもするのだろうし。
 これを真似して、部屋の中を真っ青にした人がいたりすれば、それはそれで「悲劇」ですが。
 
 実際のところ、現実のほうが「劇場化」している昨今ですから、このくらいの「演出」なんて、「大事故の被害者家族に突撃インタビュー」とかより、はるかにマシなような気もしますけど。
 「事実の報道」「知る権利」の大義名分のもとに堂々と行われている、もっと酷いことにも、目を向けて欲しいものです。




2005年09月08日(木)
実の弟(オタク)への禁断の「家庭科講義」

「週刊アスキー・2005.9.6号」の読者投稿のページ「週アス女子部」より。

【実の弟(オタク)に家庭科講義

 独身で両親と同居中の弟の部屋はフィギュアやポスターで埋め尽くされ、誰が見ても”オタク道”まっしくら、中でもひときわ目をひくのが2体の等身大フィギュアです。
 1体は『エヴァンゲリオン』のアスカ、もう1体はイージーオーダーです。奴らの存在感たるや半端ではなく、背は私より高く、身体はジュニアサイズのくせして胸とお尻だけが「♪98、98〜」の世界です。
 母は当然マジギレ状態で、「あんまりお母さんを刺激しないように」が私の口癖というありさまです。
 先日その弟からめずらしく電話がありました。「洋服をオーダーする時ってどこを計ればいいの?」。礼服でもつくるのか? 察しのいい週アス女子部読者のみなさまはピンときたでしょうが、つい常識的な発想をする私。そう、つくるのは2体目の彼女のお召物だったのです。今までは人間用と、専用既製品で済ませてたのに……トホホ。

私「まさか人間用テーラーで?」

弟「コスプレ用専門店があるんだ」

 かくして家庭科(被服)の講義開始。胸囲・胴囲・腰囲は基本で、デザインによって首・腕・脚まわりと丈の採寸が必要であること、さらにゆるみも……。

私「人間の場合は動くから、静止時の寸法だけじゃダメなわけよ」

弟「でも、フィギュアは動かないから、その点は大丈夫だね」

私「……(フォロー不可)。コスプレってみんな自分でつくるじゃん。人間用の型紙もあるし、やってみれば?」

弟「専用キットもあるんだけど、それじゃいつになるかわからないし」

私「そりゃそうだ」

 と、前向きなんだか不毛なんだかわからないやりとりが続き……。

私「めんどうだから(店に)本体持っていけば?」

弟「それは大変だろうから、計ってこいって」

私「(フリダシに戻るって感じ)上(半身)と下を分けて持ってけば?」

 そういう構造ではないらしい。

私「で、いったい何をつくる気?」

 言いにくそうに「レオタードなんだけど」。……なんか一気に脱力感です。最初に訊くんだった。ついでに予算も白状させたかったのですが、その後の展開を警戒してか奴は決して口を割りませんでした。
 次回の帰省は非常に楽しみなのですが、母の血圧だけが気がかりな今日このごろです。(東京都 るーく)】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、お姉さんも「週アス女子部」にこれをネタとして投稿されているのですから、オタクに理解があるというか、嫌いじゃないとは思うんですけど。
 それにしても、この話を読んで、「オタク道」を貫くのも、けっこう大変なんだよなあ、と思いました。だって、考えてみてください。いくら好きでも、実の姉に「等身大フィギュア」のための採寸のしかたを尋ねるなんて……こういうのって、身内にはかえって頼みにくいもののような気がしませんか?
 僕だったら、絶対に直接店に持って行くと思います。

 …と書いてみたのですが、「実物大フィギュア」を抱えて店まで行くのは、なかなか辛いですよね。解体不能みたいだし(家に運ばれてきた状況も、けっこうすごいと思う)。そんな大きくて怪しげな箱を抱えたまま街を歩くくらいなら、やっぱり、「採寸の仕方」を聞いたほうが早そう。
 しかし、こういうときに誰に尋ねるかというのは、悩ましいところです。そういえば、僕も大学時代に、学園祭の出し物で女物の下着を買わなければならないことがあって、ものすごく困惑したものでした。当時、彼女がいれば事情を話して買ってもらうこともできたのでしょうけど、残念ながら僕とその友人たちはみんなフリーすぎるほどフリーで。
 ただ、そのときに「身内」という選択肢はなかったなあ、やっぱり。
 身内だからこそ、かえって恥ずかしいという気持ちもあると思うんですよね。
 結局そのときは、女性の先輩に泣きついてしまったのです。
 ましていわんや、フィギュアのレオタードをや。

 家に飾ってあるということは、身内にはカミングアウトしているのだとしても、「身内に直接尋ねる恥ずかしさ」と「自分のフィギュアにレオタードを着せてあげたい気持ち」を天秤にかけて、「レオタード」が勝つというのは、よっぽど好きじゃないと、考えられないことでしょう。
 「オタクを貫いて生きる」というのは、なんだか軟弱そうなイメージがあるのだけれど、現実には、よっぽど硬い意志がないと不可能な、ストイックかつ厳しい道なのかもしれません。



2005年09月07日(水)
旅にも年齢がある。

「いつも旅のなか」(角田光代著:アクセス・パブリッシング)より。

【旅先で知り合い、ともに旅をはじめた男の子と女の子、彼らは年齢にふさわしい旅をしている。めずらしいものの並ぶ屋台で選んで選んでものを買うこと、蝋燭の明かりの下でそれを食すこと、安い部屋をシェアして節約すること、いきあたりばったりみたいな恋をすること、恋をしながら埃っぽい赤土の道を歩くこと、そうしながら遥か彼方の日本を、そこにいる退屈な恋人を思うこと……そんなすべて、彼らの年齢にこそふさわしい。ラオスのなんにもない町が親密じゃないなんて、彼らはこれっぽっちも思わないだろう。私もかつて、そういう旅をしていた。そういうふうに世界を見ていた。もし私が彼らともっと年が近かったら、木の腐りかけたベランダでの食事に、もっと興奮しただろう。そして刹那的に進行する彼らの恋に、うっとりと耳を傾けただろう。彼らの恋を「つまんない」と思い、何もない、親密に思えない町を「つまんない」と思う私は、それだけ年齢を重ねたのだ。デイパックを背負った彼らと、見かけこそ一緒であれ、私はずいぶん違ってしまったのだ。二十代の旅の仕方を、もうそろそろかえなくちゃいけないのかもしれない。そう思った。
 友達づきあいでも恋愛のはじまりでも、仕事のやりかたでもなんでもいいんだけど、「なんだか以前の方法論が通用しないぞ」と気づくときがある。たとえば私と同い年の友人Aちゃんは、恋愛の序章において、酔って寝技というのが得意であり彼女の一般だったのだが、あるときからその成功率ががくんと下がる。私はもてなくなったのか、と彼女は悩むが、そうじゃなくて、酔って寝技は二十代の彼女にふさわしかったのであって、三十代半ばを過ぎた彼女のその技は、相手に恐怖を与えこそすれ恋愛の序章にはなり得ない。のだ。
 旅にも年齢がある。その年齢にふさわしい旅があり、その年齢でしかできない旅がある。このことに気づかないと、どことなく手触りの遠い旅しかできない。旅ってつまんないのかも、とか、旅するのに飽きちゃった、と思うとき、それは旅の仕方と年齢が噛み合っていないのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 角田さんがラオスで出会った「22、3歳の男女」としばらく一緒に過ごしていて、「つまんない」と感じた理由について書かれた文章です。この男女は、日本にそれぞれ別の恋人がいるにもかかわらず、旅行中に気があって、ふたりで旅をしていたそうです。
 角田さんは1967年生まれ、この文章は、比較的最近書かれたものですから、僕からすれば、【デイパックを背負った彼らと、見かけこそ一緒】という姿で旅をされていること自体が、僕にとっては驚きではあるのです。今まで、いわゆる「貧乏旅行」って、怖くてやったことないものなあ。
 でも、ここに書かれている、「旅と年齢」の話は、たぶん、そういう「転機」にさしかかりつつある僕にもよくわかるような気がします。もちろんこれは「旅」に関することだけではなくて。
 今までは、「楽しい」と思っていたことが、なぜか楽しくなくなってくる、今まではうまくいっていたやり方が、なぜか通用しなくなってくる。
 友人Aちゃんに対する【酔って寝技は二十代の彼女にふさわしかったのであって、三十代半ばを過ぎた彼女のその技は、相手に恐怖を与えこそすれ恋愛の序章にはなり得ない。のだ。】というのは、辛らつな視点ではありますが、いくら自分では「今までと同じ」つもりでも、その周りではいろんなものが変わっていってしまうのだ、ということを、鮮やかに描き出しているような気がします。「成功率」を語れるほど「寝技」を多用してきたのかよ!と、ちょっとあきれてみたりもするのですが。

 もし、いままでうまくいっていたことが急にうまくいかなくなってしまったときには、「このやり方は、自分の年齢と噛み合っているのだろうか?」と考えてることが必要なのかもしれません。それは、なかなか難しくて、物悲しいことなのですが。
 僕も30年以上生きてきましたけど、正直、20歳のときより年をとったとは思うけれど、そういう「転換点」みたいなものははっきりと自分ではわからないし、それを認めたくない、という気持ちもあります。でも、それを認めるところからはじまる、新しい楽しみというのも、きっとあるのでしょう。それを信じたい。

 まあ、そう実感しつつも「二十代の旅の仕方」や「寝技」へのこだわりををなかなか捨てられないというのも、またひとつの現実なのですけどね……



2005年09月06日(火)
『Shall we ダンス?』と「分かりやすい映画」

「『Shall we ダンス?』アメリカを行く」(周防正行著・文春文庫)より。

【僕にとっては初めての経験だった。日本でも何度も試写に立ち合ってはいるが、その結果によって自分の映画の内容が変えられるなどという試写の経験はない。どちらかといえば客の反応を見て、どう宣伝していくかという宣伝部の問題だったり、観たお客さんの口コミを期待してのものだったり、試写そのものを宣伝にするというイベント性の強いものだったりした。アンケートを取ることもあったが、それは僕にとって完成した映画がどう観客に伝わったかを知る、あくまでも結果なのであって、映画作りの過程ではなかった。
 だからこそ、こんなに嫌な試写はない。初めてアメリカのお客さんが観る場所に自分がいて、その反応を目の前で確認するのである。そして反応が悪ければ、どうやったら「売れる映画」になるかをアメリカのスタッフと相談しなければならないのだ。監督にとってこんな酷いことはない。日本公開のオリジナルバージョンは自分の中でこれ以上はない、という形に仕上がっているのである。別にアメリカ人のために作った映画でもない。僕の頭の中にあった観客は、少なくとも自分の母であり(誰にでも楽しんでもらえるものにしようと思った時には、母を想定することにしている。自分の母親に分かるということ、つまり昭和一桁生まれの専業主婦に分かるということが僕にとってもっとも具体的な「分かりやすい映画」なのである)、映画のスタッフ一人一人であった。その結果、日本ではとても多くの人の共感を得て、今だロングランを続けている最中なのだ。それを今さら、ああでもない、こうでもない、といじられるのは御免蒙りたい。
 しかし、外国でのことでもあり、逆に彼らがこの映画を観て何をどう感じるのか、それを知ることは作り手としてとても楽しみだったのも事実だ。
 果たして『Shall we ダンス?』はアメリカで受け入れられるのだろうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 結果的に、『Shall we ダンス?』は、アメリカでも大ヒットしたのですが、この「『Shall we ダンス?』アメリカを行く」という本の中で描かれている日本とアメリカの映画産業のギャップには、いろいろ考えさせられました。「外国語映画は、とにかく2時間以内じゃないと、誰も観に来ない」なんていうのが「常識」だというのだから。
 僕などは、上映時間が長いほうが、なんとなく「得した気分」になってしまうんですけどねえ。
 それはさておき、この周防監督の文章の中で、僕がいちばん印象に残ったところは、監督がこの映画を「自分の母親(つまり昭和一桁生まれの専業主婦、と書かれています)に分かるように」イメージしていた、というところでした。
 映画というのは、とくに商業映画であれば、より多くの観客を呼ばなければなりませんから、僕はもっと広い範囲での「観客」を想定しているものだと思っていたのです。例えば「若い女性」とか「子供」とか、そういう感じの。もちろん、そういうマーケティングをやっている映画も多いのでしょうけど、周防監督という人は、「自分にとって顔が見えて、感性もわかっている、身近な人々」をイメージしながら、この「若者から高齢者まで非常に幅広い層の(そして、国境すら越えて)愛された映画」を撮ったのですね。
 これを読んで考えたのは、よりたくさんの人に理解されようという発想で
「みんなに分かるもの」を作ろうとするのは、かえって「誰にもわからないもの」を作ってしまう可能性が高いのではないか、ということでした。
 「みんな」っていうけど、「みんな」なんていう人は、この世にはいないわけです。それよりは、自分にとって顔の見える相手にわかるように、伝わるようにしていくほうが、結果的には、多くの人に届くのかもしれません。それはたぶん、WEBの文章でも、同じことなのでしょう。まあ、「自分の母親に分かるようなものなら、大多数の日本人にはわかるだろう」なんていうのは、当のお母さんにしてみれば「感性を信用されているのか、バカにされているのか微妙なところなのかもしれませんが。
 本当に「みんなに伝えたいこと」ほど、まず、自分にとって大切な「誰か」に伝わるかどうかを考えてみるというのは、ものすごく意味があることだと思います。
 



2005年09月05日(月)
「お化け役者」が消えてしまった理由

「週刊アスキー特別編集・これが日本一のレポート漫画だ!!カオスだもんね!特別編」(水口幸広著)より。

(水口さんたちが、お化け屋敷用の人形を作成している「丸山工芸社」を取材したときに、代表取締役の柳誠さんから聞いたエピソード)

【真っ暗な中では、あの人形でもう十分イケテてるとは思うんですけど…
人間のお化け役者と絡めた日にゃ…
もうメチャメチャ怖いっスよねえ〜〜〜

柳:ハハまあ、そうなんでしょうけどね…

しかし、ある事件がきっかけで、その後人を使ってはやってないらしい。

その事件とは?

あるデパートの屋上でお化け屋敷を開催した際、たまたまお化け役者の手が客に触れた。

その客は… 子どもだった。

泣き叫ぶ子供。
そして、こともあろうに、その母親が訴えた!!

柳:結局和解が成立するのに1年もかかりましてね…

な…なんと……】

〜〜〜〜〜〜〜

 いやまあ、確かに、この子供にとっては、ものすごい「恐怖体験」だったのだとは思いますが、こんなことで訴えられて、しかも、その「和解」が成立するまでに、1年間もかかってしまうだなんて…
 柳さんたちが、「お化け役者を使うのをやめた」というのも、わかりますよね。考えてみれば、この親子(子供のせいじゃないだろうけどさ)のために、「お化け役者文化」の一部は、確実に消滅してしまったわけです。
 それにしても、無理矢理道端で「襲撃」されたのならともかく、自分からお化け屋敷に入っておいて、「怖い目に遭わされたから訴える!」なんていうのは、あまりに本末転倒で悶絶してしまいます。それも、「執拗に追い回した」という話ではなく「たまたま手が触れた」というレベルの話で、なのです。
 親の反応としては、「このお化けも人間がやっているんだから、怖くないよ」と子供に言い聞かせるのが「普通」だと思うのですが、いろんな親というのがいるんですね。
 こういう場合、もし機械仕掛けのお化けだったら、セーフなの?とか、いろいろ考えてしまいますけど。
 アメリカの「マクドナルドのせいで太った訴訟」に対して、「訴訟社会って、バカバカしいよなあ」と感じた日本人は、僕も含めてたくさんいたと思うのですが、日本でもこんな「トンデモ訴訟」が起こされていて、しかも、1年も和解にかかっていたなんて…
 誰でも、どんなことでも訴えられる社会というのはすばらしいのかもしれませんが、その一方で、訴えるほうにも「理性」が必要なのではないか、と考えさせられる話です。その1年の間、会社側は、さぞかし辛い思いをされたことでしょう。

 お化け屋敷にときどき訪れる、「お化けよりも怖い生き物」の話。
 



2005年09月04日(日)
走れよ!メロス……

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年9月号の投稿コーナー「素朴なギモンをみんなで共有!今月のナゼ……?」より。

【日本の文豪の「ナゼ……?」考察

 日本の文豪というと誰を思い浮かべるだろう?まっさきに名前が出てくるのが夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、川端康成ってところでしょうか。名前からして重厚さが感じられる。夏目漱石なんて旧1000円札ですからね。日本の象徴のようになってしまってる。今回寄せられた投稿から「文豪」と呼ばれる小説家のイメージをまとめてみたところ、まず、男性作家であること。教科書に掲載されていること。モノクロ写真、ヒゲ、着物、早死に……と文豪の文章に関する投稿はあまり見当たらない。やはり教科書で見た「著者近影がみな斜めの角度〜」のいかにも象徴的な写真の印象が根強い様子。

(中略)

「教科書で文豪の作品は学ぶのに文豪自身の人生は学べない〜」の投稿ですが、その後の彼らの人生をあらためて知って驚かされました。『坊っちゃん』の夏目漱石は神経衰弱だったし、『蜘蛛の糸』の芥川龍之介は睡眠薬で自殺してるし、『走れメロス』の太宰治はパビナール中毒だったし……。特に友情と信頼を描いた『走れメロス』執筆の背景には、太宰が熱海の旅館で借金を返せなくなり、友人の檀一雄がお金を届けに行くがそれも豪遊に使い借金はさらに10倍以上にふくれ上がり、「金を借りてくる」と太宰は檀を旅館に置きざりにしてそのまま何日たっても帰らず……というエピソードがあったとか。檀が業を煮やし探しに行くと、太宰は井伏鱒二と将棋を指して遊んでいた……っておいおい、『走れメロス』で書いてることと、やってることが違いすぎだよ。この背景、子どもには教えてはいけません。投稿の「文豪なんて言われているが奇人変人が多い〜」ですが……ほんと、たしかに。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「文豪」なんて言われるような大作家は、ある意味、(才能も含めて)アブノーマルな面を持っている人間なのですから、「奇人変人」なのもしょうがないのかな、とも思うんですけどね。
 まあ、夏目漱石さんや森鴎外さんなどは、やや偏屈そうなイメージはありますが、社会的にもそれなりに「立派な経歴」を持った人ではあったようですが。
 この太宰治の「檀一雄置き去り事件」というのはけっこう有名な話で、たぶん、こういった体験が、太宰さんの「走れメロス」のモチーフになっているのでしょう。ただ、小説のメロスは葛藤を抱えながらも友のところに戻るという感動的な話である一方、それを描いた太宰本人は、「友人を人質にしておいて、自分は悠然と将棋を指していた」というのは、ちょっと情けない話ではあります。小説的には、メロスが逃げちゃったら「話にならない」でしょうけど。
 読者としては、すばらしい話、感動的な話を書く人は、みんな立派な人格者であると思いたいし、そう考えがちなところなのですが、実際は必ずしもそうではないようです。太宰さんの場合などは、あの破滅型の人生そのものが、彼の「小説の世界の一部」だったのかもしれません。後世の読者であり、彼の「作品」にだけ接していればいい僕たちは、そういう解釈をして、それでおしまいなんですが、リアルタイムで太宰さんに接していた人たちには、「なんてどうしようもないヤツなんだ…」と嘆息していたくなることも多かったと思うのです。むしろ、そういう「どうしようもないところがある人」のほうが、人間の機微に踏み込んだ作品を残したりするもののようです。
 本当に「ちゃんとした人」というのは、言葉になんかせずに、自分の行動で完結してしまっていて、言葉にできてしまうものは、すべてフィクションなのかもしれません。実生活で信じるべきは、「立派なことを言っている人」ではなくて、「立派なことをやっている人」なんだよなあ。




2005年09月03日(土)
ある東証一部メーカーの「経営改革残酷物語」

「週間SPA!2005.8/16,23号」(扶桑社)の記事「これが我が社の大失敗プロジェクトだ!」より。

(東証一部メーカーDの社員・米山幸二さん(仮名)の告白「コンサルの言いなりになった社長が招いた悲劇」)

【想像してみてください。販売の90%を代理店に頼っていた会社が、いきなり代理店を飛ばして直販に切り替える。そんなの無理に決まってますよね。でも、ウチの会社は実際それをやっちゃったんですから、笑っちゃいます。
 キッカケは社長が、ある経営コンサルタントの営業セミナーに出席したことです。ここでリクルートの営業手法などを聞きかじったらしく、「ウチの営業もリクルート流にする」なんてかぶれたんです。
 そこで、この経営コンサルタントが率いる外資コンサル会社に「営業革新プロジェクト」を依頼。そもそも、このセミナー自体が、ヤツらの「営業」なのに、まんまと引っかかっちゃったんですね(笑)。
 数日後、3〜4人のコンサルたちがウチに乗り込んできました。彼らは「代理店依存はリスキーだ」とブチ上げたのです。こんな意見、現場を無視していますよ。私ら社員には、長年代理店に製品を売ってもらってきた「恩」があるんですよ。案の定、噂を聞きつけた代理店からのクレームが殺到。でもコンサルたちは、「もう決まったことだから実行するように」と涼しい顔。まるで「私たち考える人、あなたたち手を動かす人」といわんばかりでした。でも、ヤツらの思い通りにはいきませんでした。
 長年代理店頼みだったウチの営業マンに営業力があるはずもなく、受注は凍結。あげく、怒った代理店が、腹いせに競合の製品を営業しだして、売り上げは激減。結局ン十億もの損失が出ました。
 なのに、コンサル連中ときたら、「膿を出すには痛みが伴うものです」なんて言っているんですよ。ホント、コンサルほど信用できない連中はいませんね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、いわゆる「経営コンサルタント」という人たちの全部が、こんな感じではないとは思うのですが、こういう「経営改革残酷物語」みたいなことが、たぶん、日本中で起こっていて、コンサルト会社は、「言ったとおりにできない御社に問題がある」とか言って、高いコンサルト料をせしめているのではないでしょうか。確かに、彼らの思い通りにできれば、理論上は利益が上がるのかもしれませんが、やっぱり、現場には「しがらみ」とか「今までの積み重ね」みたいなものもありますしね。そういう人間の感情の機微を考慮に入れていないような「経営改革」なんて、まさに「机上の空論」でしかありません。そしてまた、「正しいこと」が、必ずしも「受け入れやすいこと」ではないですし、この場合などは、代理店にとってはまさに死活問題であり、そう簡単に「そうですか」というわけにはいかないでしょう。
 そういう「現場の声」にこだわりすぎていると、全然「改革」できなくなってしまうのも事実なんですけが、この例はあまりにも、極端にすぎますよね。結局、辛い思いをするのは代理店と現場の営業マンなのに、経営コンサルタントは涼しい顔。
 もちろん、正しい理論を立てる人が、かならずしも優れた実践者というわけではないでしょうし、それを望むのは、ちょっと酷な話ではあるんですけど、やっぱり当事者の感情としては、「あいつらは自分では何もしないくせに!」という話になってしまいます。そして、理論の誤りよりも、そういう感情的な軋轢というのが、歴史上しばしば「改革」を失敗させる要因になり、「改革者」たちを断頭台に送り込んでいったのです。
 ただ、この手の「正しい経営改革」っていうのは、一企業の話としては、「どうしようもない失敗談」として物笑いの種と反省材料になるくらいのものですが、国レベルの「改革」でも、こういう話はたくさんありそうです。

 「改革」というのは、本当に難しいもので、その成否のカギというのは、結局は「改革者」への周囲の「思い入れ」に尽きるのかもしれません。
 「正しい」「間違っている」よりも「好き」「嫌い」のほうが、人間にとっては「自然な感情」なんですよね、きっと。



2005年09月02日(金)
戦慄の「タイタニック女」!!

「九州ウォーカー・2005 No.19」のコラム「シネマ居酒屋」(Key教授)より。

(このコラムの「主」であるkey教授と助手のひろみさん、OLのキクチさんのやりとりの一部です。)

【Key:「お前たち、DVDというものをわかってないな」

キクチ:「特典映像の話ですか」

Key:「ちがう、ちがう。もっと基本的なことだ。いいか。”DVDはあくまでも記録物であり、映画は鑑賞物である”ということだ。つまり、ゴッホの絵を見たのは本物(鑑賞)か写真(記録)かということだ。どれくらいの大きさで、どんなタッチで、実際はどんな色かなんてのは記録じゃわからんということだ」

ひろみ:「観る行為の問題ですか」

Key:「そう。つまり観に行くという行為そのものが”映画”として存在するということだ。例えば、誰と観たかってのは、結構重要なファクターだろ。私の知り合いで”タイタニック女”というのがいたぞ。そいつは20回以上『タイタニック』を観てるんだが、全部一緒に観た男が違うんだ。男と付き合いだすと、まず『タイタニック』を観るんだ」

キクチ:「『タイタニック』ってどのくらい上映してたんですか?

Key:「まる1年だ」

キクチ:「ということは、1年で20人の男と付き合ったってことですか」

Key:「20人以上だ」

ひろみ・キクチ:「デッ!」

Key:「彼女いわく、最も映画を観た1年だったそうだ」

キクチ:「そういう問題ですか」

Key:「まぁ、鑑賞物だからこそのエピソードだな。これは極端な例だが、実際はお前たちだって、昔観た映画を改めて観た時、”一緒に観た人”や”どこで観た””その時何してた”なんてのが思い浮かんだりするだろう」

ひろみ・キクチ:「確かに」

Key:「それが映画だ。ひろみ君に『スター・ウォーズ』最終章は泣けたのかと聞かれたが、泣けたんだよ。しかし、単純にストーリーがなんて話じゃなく、あれは28年間の歴史だ。多くの人が待ったものだ。私の友人にもいるが、事故や病気など様々な要因で観届けられなかった人がいる。運命とはいえ、そんな人々の思いもこもったのがあの映画だ。28年もの長い時間のなかの出会いと別れ、出来事を越えて、ついに最後まで観ることができた幸せを純粋に感じるものだったよ」】

〜〜〜〜〜〜〜

 いくら『タイタニック』が良い映画で、3時間を超える上映時間があって、1年間も上映され続けていたとしても、映画館で20回以上も観たというのは、ちょっと信じられない話です。ここまで来たら、「タイタニックをいろんな男と観た記録」にチャレンジするために、いろんな男性と付き合っていたのではないか、とすら思えてくるのですが。
 でも、ここに書かれているように、「誰かと映画を観る」というのは、本当に特別な体験になることがありますよね。自分ひとりで観る映画というのも良いものなのでしょうが(僕はどうも「ひとりで映画館に入る」という行為そのものがなんとなく気恥ずかしくて、なかなかひとりで映画を観に行くことはないので)、誰かと一緒に観に行くことによって、副次的な「映画にまつわる思い出」というのも増えていくのです。冷静であまり物事に動じないと思っていた人がベタベタな恋愛映画で号泣していたり、日頃は穏やかな人が、意外と「好戦的」であるということがわかったり。
 ひょっとしたら、この「タイタニック女」にとって、『タイタニック』という作品は、相手の男を知るための試験紙みたいなものだったのではないでしょうか。彼女自身は『タイタニック』に飽き飽きしているにもかかわらず、相手の男のこの映画に対する反応を観察していたのかもしれません。
 僕の場合は、『タイタニック』に感動したのは事実なのですが、それはデュカプリオの献身にではなくて、人間の歴史の中に、あんな辛い目にあった人たちがたくさんいたのか…という「歴史的悲劇に対する感傷」だったんですけどね。

 ところで、最後の「スター・ウォーズ・エピソード3〜シスの復讐」なのですが、僕もエンディングのスタッフロールを観ながら、目頭が熱くなってきたのです。まさに、このKey教授と同じ理由で。「シスの復讐」は、確かに単体としてもすばらしく面白い映画ではあるのですが、「感動して泣いてしまう」ようなストーリーではないはずです。けっして、ハッピーエンドではないですし。でも、なんだかね、流れていく最後のスタッフロールをボンヤリと観て、ジョン・ウイリアムスのテーマ曲を聴いていたら、いろんなことを思い出してしまったんですよ。とくに、「この映画を観届けることができなかった人々」のことを。そして、いずれは僕も何かの作品に対して「観届けられなかった人」の仲間入りをすることになるのだな、という予感……

 たぶん、『スター・ウォーズ』の歴史は、僕たちの歴史でもあり、その「完結」は、ひとつの「区切り」だったのです。



2005年09月01日(木)
まず、コマ割りひとつうまくできない。

「ひとりずもう」(さくらももこ:絵と文・小学館)より。

【高校二年の夏休みが終わり、春休みがやってきた。この二年間というもの、何もしなかったことに焦りを感じつつ、私は漫画を描き始めた。
 漫画の内容は、ラブコメの少女漫画だ。私は、正当な少女漫画家になりたかったのである。子供の頃から授業中にいっしょうけんめい描き続けた漫画の絵も、目がキラキラした少女漫画の女の子の絵ばかりだった。だから当然、自分の目指すべき作風は伝統的な恋物語の少女漫画だと思っていた。
 普段から、らくがきは山のようにしていたが、いよいよ漫画を描いてみようと思うと、非常に難しいものだった。
 まず、コマ割りひとつうまくできない。あんなにいっぱい漫画を読んでいたはずなのにいざ自分でコマを割ってみようと思っても、なかなか難しいものだ。
 私はこんな事もできないのか…と驚いた。けっこう描けるんじゃないかと思っていたのに、ものさしを持ったとたんに悩んでいるなんて、なんという情なさだろう。
 しかし、ものさしを持ったままじっとしているうちに春休みが終わってしまったら大変だ。上手くできなくても、とにかく進めていくしかない。
 それで下描きを進めてみたのだが、絵を描くのってなんて難しいんだろう…とまた驚いた。自分は学校の中でも漫画は上手い方だと思っていたが、全然上手く描けない。どう見ても、人物の等身も狂っているし、背景もまるっきり下手だ。道端の木一本さえ上手く描けない。
 かなり自信を失いつつあった。いっしょうけんめい描いているつもりだけど、いっしょうけんめいなのと上手いのとは全く別なんだなァ…と思った。なんかもう、やめた方がいいかもしれないなァ…とも思ったが、これは私の小さい頃からの目標だったのだから、一応やるだけやらなきゃ、と思い描き進めた。
 10枚ぐらい下書きが進み、何度も読み返してみたが、全然面白くなかった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 さくらももこさんが、はじめて自分の漫画を描いたときのこと。
 たぶん「仕事」にしても「創作」にしてもそういう傾向はあると思うのですが、一般的に、他人がやっていることを傍で見ていると、あるいは、できあがった作品を読者・視聴者などとして消費していると、「これ、つまんないなあ」と感じたり、「自分のほうが、うまくできるんじゃないか」と考えたりしがちです。
 いやまあさすがに、プロ野球選手みたいに、150kmで向かってくるボールを100mもかっ飛ばすなんてことはできませんが、小説などに対しては、とくにそんなふうに思ってしまいませんか?だって、そこにあるのは、誰にでも書ける「文字」の羅列でしかないのですから。
 しかし、実際にやってみると、「読者として好き」あるいは、「趣味の落書き」のレベルと「作品を描く」ことの間には、予想以上の大きな溝があるようです。何の仕事でもそうなのですが、傍からみて「大事そうに見えるところ」とプロにとっての「重視すべきこと」は、必ずしも同じではないことも多いのです。
 たとえば、焼き鳥屋の仕事で、客としての僕は「あの焼き加減が難しいんだろうなあ」と思うのですが、実際にその仕事をやっている人にとっては、「焼く」というのももちろん大事なポイントではあるのですが、それ以前の「タネを同じ大きさでキレイに串にさしていく工程」というのが、ものすごく重視されているのです。病院で行われる「採血」にしても、あれは、最後に針を刺すというプロセスが大事だと僕も以前は思っていたのですが、実際にやってみると、「どの血管から採血をするのか?」という準備の過程や刺そうとする血管をしっかり固定するという、針を持っていないほうの手の動きの重要性がわかってきます。実は、本当の難しさというのは、消費する側にとっては、普段全然意識しないところに隠れていることもあるのです。
 野球漫画を描くにしても、「カッコいい試合の場面」を描くことはできても、ただ試合の場面だけを描き続けるわけにはいきません。その試合と試合のあいだをどうやって繋いでいくのか、というのが、作品として質を決めていくような気がします。戦国時代を描いた時代小説でも、常に合戦シーンばかりというわけにもいきませんしね。
 (「アストロ球団」のような、ごく一部の例外は存在するのですけど)

 いまや人気作家のさくらももこさんでも最初はこんな感じだったのですから、本当にプロを目指すのであれば、結局は、うまくいかないことにあきらめずに、粘り強く描いていくしか方法はないのかもしれません。
 ただ、どんなに粘り強く描いても、その先に「栄光のゴール」があるとは限らないのが、「創作」の辛いところではありますね……