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2004年10月31日(日)
「ローソン」とは一体何ぞや?

「九州ウォーカー・2004.No.23」の読者投稿ページ「ハガキの惑星」の「ローソンにひそむ『へぇ〜』な話」より。

【投稿者:最近気付いたことがあります。コンビニの名前なんですが、セブンイレブン」や「ampm」は意味がわかりますよね。もともとは7時から11時(23時)まで開いていたとか午前も午後もいつも開いてますとか、そういうところからきてるのでしょうが、「ローソン」って一体どういう意味なんでしょう?しかも、よくよく見てみるとローソンのロゴマークの中にはビンみたいな絵が入ってて、それも含めて「?」です。

回答者:目の付けどころが鋭いですな☆ローソンのマークの中にビンの絵が描かれているなんて読者の何割の人が認識しているでしょうか。そもそもの疑問は、「ローソンとは一体何ぞや?」っちゅうとこやね。単語としての意味はわからんよね。しかし、それもそのはず、「ローソン」は、ナント人名だったんす。ローソンの起源はアメリカの「ローソンミルク社」。つまりローソンさんっちゅう人がやってた牛乳屋さんなわけよ。そんで、今でもロゴマークにミルク缶が残っているんだっちゅーの。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もけっこう「ローソン」を利用しているのですが、実はこれを読んでロゴマークの写真をあらためて見て、ようやく「確かに、『フランダースの犬』でパトラッシュが引いていたようなミルク缶が描かれている」ということを認識しました。車を運転していても、あの「青地に白の看板」=「ローソン」というのは一目でわかるはずなのに、わかっているつもりでキチンと見ていないものというのは、けっこう多いものだなあ、とあらためて痛感させられました。
 ところで、この投稿者はそれなりの年齢、たぶん20代半ば以上ではないかと僕は思ったのですが、その理由は、「セブンイレブン」の名前の意味がわかる、と書いてあることでした。
 高校時代くらい15年〜20年くらい前、「セブンイレブン」は、「朝7時から夜の11時まで開いている、画期的な店」として「セブンイレブン、いい気分〜、開いててよかった!」というキャッチコピーとともに、どんどん全国展開をしていきました。今となっては、コンビニは24時間営業が当たり前なのですが、以前は夜の7時を過ぎれば開いている店もほとんどなく、夜にお腹が空いたら冷蔵庫の余り物をあさるかガマンするしかないというのが世間の常識だったのに、この「コンビニエンスストア」という存在は、いろんな意味で人々の生活に劇的な変化をもたらしたのです。夜更かしをする人が増えたからコンビニができたのか、コンビニができたから、夜更かしをする人が増えたのか、それはもう、今となってはわからないことなのですが。
 おそらく「ローソン」さんも、自分の名前のついた店が、この日本という遠く離れた国でここまで一般的なものになり、ゲームとかチケットまで売られるようになるとは、牛乳屋さんをはじめたときには、夢にも思わなかったことでしょう。サイドビジネスで身を滅ぼす企業がたくさんある一方で、シャープペンシルをつくっていた「SHARP」とか、花札やトランプをつくっていた「任天堂」のような企業も、けっして珍しいものではないんですけどね。



2004年10月30日(土)
「白黒つけろよ!」と「両者健闘」という解釈

共同通信の記事より。

【「これじゃ、まるで草野球だ」「いったい何回戦までやるんだ」――。

 韓国プロ野球の覇者を決める韓国シリーズ(7回戦制)で29日までに3試合が引き分けになり、プロ野球ファンから勝負の醍醐味(だいごみ)がないと抗議が殺到した。

 今季は現代とサムスンが韓国シリーズで対戦。韓国野球委員会(KBO)の規定では延長は十二回まで、試合時間が4時間を超えた場合は新しいイニングに入らないと決めている。

 22日の第2戦は8―8、25日の第4戦は0―0、29日の第7戦は6―6で引き分け。30日は現代が勝って3勝2敗3分けとリードしたが、前代未聞の第10戦まで行く可能性も出てきた。KBOのホームページには「ファンをばかにしている」などと抗議の書き込みが相次ぎ、スポーツ紙も一面トップで「勝負が見たい」(スポーツ・ソウル)と批判した。】

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 この記事を読んで、「日本で同じことが起こったら、みんなどんな反応をするだろう?」と僕は考えてみたのですが、少なくとも「ファンをばかにしている」というような論調にはならないのではないでしょうか。
 確かに、一昔前の日本のプロ野球にも、ここで書かれているような「試合時間が4時間を超えると延長戦の新しいイニングには入らない」という規定があって、ペナントレースで「引き分け狙い」のチームが投手交代を長引かせたり、監督がダラダラとマウンドにいたりするのにはしらけることも多かったのです。
 しかしながら、日本シリーズという大舞台で、両チームが死力を尽しての闘いの結果が「引き分け」であれば、一般的な日本の観客やメディアの反応は「両チームの健闘を称える」という感じになるのではないでしょうか。  「ファンをバカにしている」と怒るどころか、「長くシリーズが観られる」と喜ぶ人もけっこういそうです。たぶん僕も、贔屓チームが優勢なのに追いつかれて引き分け、とかでなければ、むしろ「いい試合だった」と満足しそうな気もしますし。

 もちろん、こういうのは「お国柄」であって、「引き分け」に対して批判的な韓国の一部の人々が悪いというわけではないのですが、なんとなく「引き分け」=「どっちもよくやった」というような印象を持ってしまいがちな日本人の「引き分け観」いうのは、少なくとも「世界標準」ではないのだなあ、とあらためて感じてしまう記事でした。
 「白黒つけろよ!」というのが常識な文化だってあるのです。
 まさか、「一稼ぎ」するために、わざと引き分けにして試合数を増やしている、なんてことはないだろうとは思うのですが。



2004年10月29日(金)
「いかがでしょうか」「やめときます」の恋

スポーツニッポンの記事より。

【日本一の歓喜から、わずか3日。松坂が、ついに心を決めた。日本のエースと人気アナウンサー柴田アナのビッグカップルが今オフ、ゴールインすることとなった。

 「最終的に日本一で終わったので、ここから新しいスタートができるという感じです。春のキャンプまでに入籍・挙式を済ませます」

 2人が出会ったのは西武入団直後の98年オフだった。当時は恋愛感情は抱かなかったが、関係者とともに食事をするなどして、その仲は親密になっていった。99年12月の日本プロスポーツ大賞の表彰式では日本テレビ・福沢アナから「うちの柴田は独身で売り出し中ですが、どうですか?」と“紹介”され、柴田アナからも「いかがでしょうか」と言われ「やめときます」と冗談を飛ばすひと幕もあったが、00年3月から交際がスタート。同年9月に写真週刊誌に報じられてからは“球界公認”で愛をはぐくんできた。

 4年半の交際を経ての結婚。「3年前から結婚しようと言っていた。ただ、彼女自身が見極める時間が欲しいと言うことだった。本当は金メダルを獲って結婚したかったけど、最終的に日本一になれたんで」と松坂。すでに、昨年オフに柴田アナの両親へのあいさつを済ませ、今年6月からは都内のマンションで同棲を開始。結婚は秒読みとなっていたが、12年ぶりの日本一が結婚を決意するきっかけとなった。

 今年8月のアテネ五輪では、準決勝・オーストラリア戦に先発する松坂を、ネット裏から両手を顔の前で握り締めて見守る柴田アナの姿があった。「勝てなかったときも彼女につらい思いをさせた。でも、一番厳しく見てくれている人」と松坂は話した。時には厳しく、そして心から心配してくれた。料理が得意な柴田アナとカロリー計算もともに行う。「僕と食事をするときは好きなものを作ってくれる。年の差を感じないでやってこられた」と照れながら話した。】

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 まずは、松坂さん、柴田さん、おめでとうございます。交際中は、なんとなく、「野球漬けであまり世間ずれしていない若者を手篭めにしてしまった手練手管の女子アナ」みたいなイメージもあったのですが、実際に二人並んでの幸せな様子を見ていると、なんだかそんなことを考えていた自分が恥ずかしくなるようなさわやかさでした。よく、「野球選手は年上の奥さんがいい」なんて話を耳にしていたのですが、某野村監督とか某「オレ流」の人の家庭を想像すると、誠に失礼ながら、「うーん、あれはあれで幸せなんだろうけど、僕はああいう『年上女房』は、かなわないなあ」なんて思っていたのです。
 でも、このカップルなら、まあ納得、かな。「結婚」となると、手のひらを返したように祝福モードになるのも、なんとなく変な感じなのですが。
 
 それにしても、この二人、よくこれだけ長続きして、ゴールインしましたよね。確かに高校を卒業するくらいの男って、大学なり社会なりで「ちょっと年上のオトナの女性」に憧れたりしがちなものなのですけど、実際に十代のころから付き合いはじめて、こうして「けじめをつける」ところまで行くのは、割合としてはそんなに多くはないと思いますし。そういえば、以前松坂さんは「憧れの人」として女優の奥菜恵さんを挙げておられたのですが、IT企業の社長と結婚された奥菜さんも柴田さんも「デキる男が好き」という点では、共通点がありそうな気もします。

 僕がこの記事を読んで印象に残ったのは、二人の出会いのシーンでした。【99年12月の日本プロスポーツ大賞の表彰式では日本テレビ・福沢アナから「うちの柴田は独身で売り出し中ですが、どうですか?」と“紹介”され、柴田アナからも「いかがでしょうか」と言われ「やめときます」と冗談を飛ばすひと幕もあった】なんて、まだ20歳くらいの若者だった(今でも十分若いけど)松坂さんがはにかんでいる姿が見えるようで、なんだかとても微笑ましい感じがして。そういう妙に照れてしまう時代、僕にもあったよなあ、なんて考えてみたり。
 球界のエースと人気女子アナの恋、かならずしも平坦な道ばかりでは、なかったのだろうけど。

 何年か前、松坂さんは柴田さんのところに行っていて駐車違反をしてしまい、自分の身代わりとして当時の広報部長の黒岩さんという人を出頭させたとして世間を騒がせました。正直、あのときは僕は松坂さんへの過保護っぷりに憤りすら覚えたものです。駐車違反そのものよりも、身代わりを立てたという事実に。結局バレて、松坂さんは書類送検されて「前科一犯」になってしまったのですが、ひょっとしたら、ああいう不祥事もまた、ふたりを結びつけたのかもしれません。
 でも、これからは2人で、誰を身代わりにするのでもなく、自分たちの道を切り開いていかれることでしょうし、そうでなくてはならないと思います。今年の日本シリーズで不調ながら中日打線を抑えた松坂投手の姿は、今から思い出すと、確かに「一皮むけた」ものだったような気もしますし。

 しかしなあ、一生に一度くらいは【「うちの柴田は独身で売り出し中ですが、どうですか?」】と女子アナを「紹介」されて、本人から「いかがでしょうか」なんて言われてみたいものですねえ。きっと、僕の手の届かないところで売り出されているんだろうなあ…



2004年10月28日(木)
「ご冥福をお祈りしたいと思います」の錯覚

「ああ、腹立つ」(阿川佐和子ほか・新潮文庫)より。

(有名人たちの「腹が立つこと」に関するショートエッセイ集の中から、タレント・松尾貴史さんの「コーヒーになりまーす」より。)

【最近私が納得できないのは、「なります」と「の方(ほう)」である。例えば喫茶店でコーヒーを持ってくるとき、「はーい、コーヒーになりまーす」あるいは「はーい、コーヒーの方、お持ちしました」と言う。「コーヒーになります」と言われた時、私は必ずと言っていいほど、「いつですか?」と聞くことにしている。
「コーヒーの方、お持ちしました」の場合は、「コーヒーしか注文していませんが」と断る。私もいやなやつだが、そうでもしないとストレスがたまって仕方ない。レジでは、「御会計の方、5百円になります」と言われる。「御会計の方」と言われても、すでにレジの前に立って伝票を手渡しているのだから、ほかに「何の方」があるというのだ。「ごちそう様のあいさつの方」をしろというのか。それに、「五百円です」「五百円いただきます」ではいけないのだろうか。

(中略)

「けれども」「したいと思います」なども、同質のものだ。「私、犯行現場に来ているんですけれども、異臭が漂っているんですけれども」などとよく使われるが、「けれども」の後に反対の意味の言葉は続かない。ただただ、「けれども」と四文字足すことによって、丁寧な言葉を使っているかのような錯覚に陥っている。「ご冥福をお祈りしたいと思います」と口走るキャスターもいる。祈りたいと思うだけで、実際には祈らないのだ。ある意味正直だが。】

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 松尾さんも本当に意地悪だな、と思いつつ、僕も常日頃から感じていたことをこれだけ上手く言い表されると、ただ頷くばかりです。
 「全然元気ですよ〜」という表現に違和感を覚える人も少なくなってきた昨今、こういうのはもう、「慣用句」なのかもしれませんが。

 こういう言い回しで、僕が以前から気になっていたのは、横綱・貴乃花の「〜というかたち」の連呼です。
 「これから、親方として後進を育てていくというかたちで…」とか「相撲は日本の伝統文化というかたちで…」とか、言っていることは立派な内容なのに、「かたち」という言葉ばかりがものすごく耳について、聞き心地が悪くて仕方ありません。学校の先生にも、語尾に「ね」ばかりつける先生がいて、授業中に内容そっちのけで「ね」を何回言ったか数えた経験のある人も多いのではないでしょうか。

 日本語というのは、まわりくどい言い方をすればするほど丁寧だと誤解している人がけっこう多いのだけど、確かにそういう「言葉」を広める役割があるテレビの中でも、「ご冥福をお祈りしたいと思います」というのは、丁寧なようで、ものすごく失礼な言い回しです。
 「〜したいと思います」というのは、政治家の「前向きに善処したいと思います」や小学校の学級会での「いじめをなくしたいと思います」と同じで、実際にはうまくいかなくても「まあ、思ってはいたんですけどねえ」という、「逃げ道を含んだ」言い方なんですよね。
 たぶん、このレポーターたちの多くは、「ご冥福をお祈りしたいと思います」という言葉を何の疑問も持たずに使っているのでしょうが、考えてみれば、「ご冥福をお祈りします」ですよね。ひょっとしたら、レポーターやキャスターは、あくまでも黒子だから、なるべく自分の感情を出さないように、なんて意識があるのだろうか?
 こういうのは、穿った見方なのかもしれません。でも、これを「丁寧語」だと思って使っているのだとしたら、やっぱり恥ずかしいことだし、相手には失礼なことです。「思う」だけじゃなくて、ちゃんと祈れよ。
 それとも「ご冥福を祈ろうと思う自分」を「いい人」だとアピールしたいだけなの?

 …僕も今、「失礼なことだと思います」と一度書いて消して、「失礼なことです」に書き換えたところなんですが。

 



2004年10月27日(水)
「電車男」よ、どこへ行く…

eiga.comの記事より。

【今年の3月から5月にかけて、掲示板サイト2ちゃんねるで話題を呼んだ電車男のエピソードが本になって人気を集めているが、出版元の新潮社には映画化のオファーが殺到しているという。

 「電車男」とは、生まれてから一度も彼女のいたことがなかったアキバ系のオタク青年(後の電車男)が、ある日電車の中で女性に絡んだ酔っぱらいを撃退したことから、恋が芽生えていく過程を記録した純愛ストーリー。女性と接した経験が一切ない青年を、2ちゃんねるの住人たちが煽り、励まし、デートの指南をし、交際が発展していく様が、独特の臨場感や一体感とともに綴られている。
 
 新潮社の「電車男」は10月22日の発売から、3日あまりですでに5刷、12万5000部を出荷したという。また、同書の発売をアナウンスした9月上旬には映画化に関する問い合わせが入り始め、これまでに大手映画会社、テレビ局などから10本以上のオファーが届いているそうだ。気になる映画化について、新潮社の編集担当者は「ようやく書店に並び始めたところで、映画化をするかしないかも含め、まだ何も決まっていない状態」と語っている。いったいどんな形で映像化するのかを含め、行方の気になるプロジェクトである。】

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 本当に、もし「映画化」されるとしたら、どんな形になるのでしょうか「電車男」。
 実は僕がこの「電車男」の話を知ったのは、もう「完結」(?)してしまった後なので、たぶんこれをリアルタイムで観ている人は、もっと面白かったんだろうなあ、なんて思いながら読んだんですけど。
 
 この「書籍化」に関しては、「どうしてネットで読めるものをわざわざ書籍の形で読む必要があるのだ?」なんて疑問の声も上がっていて、僕もそう思っていましたが、今日行った本屋では、なんと平積みにしてあって、なんだか友達が出世したような気分になってしまい、ついレジに持っていってしまったのです。
 『新潮社』なんてメジャーな出版社から、しかもこんなに話題になって世に出るなんて、偉くなったなあ、と感慨に浸りつつ。
 書店のレジの女性店員さんにお金を払いながら、「この人は、この本のことを知っていてディスプレイしたのかな、ひょっとしたら2ちゃねらー?」とか妄想を抱いていたんですが、この記事を読んで、「単なる売れ線として並べられたのかな?」という気もしてややガッカリ。
 そんなにみんな買っているんなら、僕は買わなくても良かったかな…と僻んでみたり。
 
 たぶん、「電車男」って、ネットを知っている人のほうが面白く読めるし、「ネットでリアルタイム」⇒「ネットで話題になってからまとめ読み」⇒「書籍で」という順番で面白さは減衰していくのだと思います。ネットを知らない人なら、あの「2ちゃねらー用語」とか「アスキーアート」だけで引いてしまうかもしれないし。
 でも、こういうのは僕の勝手な思い込みで、日頃ネットに接していない人は、むしろ「新鮮で面白い世界」と感じることもあるのでしょう。
 あの「世界の中心で、愛をさけぶ」だって、いわゆる「読書人」には「ベタすぎる」とか「古くさい」なんて酷評されていたにもかかわらず、最近の調査では「若者が本を読むきっかけになった」なんて話もあるみたいですから。
 これで、「犯罪の温床」というイメージを持っていた「2ちゃんねる」アレルギーの人も、イメージが変わったりもするのかな。

 それにしても、この本の印税は、どこに行くんだろう。中野独人さんって、「電車男」さんなんでしょうか?掲示板に書き込みしていた「名無しさん」たちは、印税もらえないんだよなあ。

 「本当に実話なの?」とか聞くのは、野暮ってものだとは思うけどさ。



2004年10月26日(火)
「セクハラ」と「スキンシップ」と裸の王様

西日本新聞の記事より。

【福岡県警は二十五日、解任から一カ月でホークスタウン前社長の高塚猛容疑者(57)の逮捕に踏み切った。企業トップが部下へのセクハラ容疑で逮捕されるという異例の事件。県警は別の社員らからの相談も受けており、「悪質性、常習性の立証は可能」(捜査幹部)と判断して強制捜査の方針を選んだとみられる。
 県警によると、逮捕容疑となった二件は事件当時、周囲に複数の社員が居合わせた。また、キスされた被害者の一人は十代で「悪質」と判断した。
 大野敏久・県警捜査一課長は「立件できる自信を持っている」と言葉に力を込めた。
 一方、関係者によると、ホークスタウンでは高塚容疑者の著書を年間約一万冊以上も「営業用消耗品」として購入。ホークスの日本シリーズ放映権獲得を狙う地元テレビ局などに、著書の購入や主催パーティーへの参加を強く求めていた、との証言もある。
 ホークスタウン側は「(高塚容疑者と)取引先との不透明な資金の流れがあり、限りなく黒に近いグレーの案件が五十から百ある」として民事訴訟や刑事告発も視野に入れている。
 これらの問題について県警幹部は「金銭面の問題については会社が被害届や告訴状を出すなどの処罰意思を示さなければ捜査に踏み切ることはできない。現時点では会社側の調査を見守るしかない」と慎重な姿勢をみせている。】


共同通信の記事より。

【「うちとはもう関係ない人」。女性社員に対する強制わいせつ容疑で、福岡ダイエーホークスの元オーナー代行で、「ホークスタウン」前社長の高塚猛容疑者(57)が25日、逮捕された。ホークスタウン従業員らは一様に硬い表情。球団関係者からは、突き放す言葉が続出した。
 福岡市中央区のホークスタウン事務所。中に入ろうとしていた女性は「(逮捕を)知らなかった」と絶句。高塚前社長は、東京都港区赤坂のホークスタウンが使用していたマンションで就寝中、捜査員に起こされて逮捕されたという。別の女性も「そうなんですか」と驚いた様子で足早に立ち去った。
 午前9時前に球団事務所に出勤してきたホークスの高橋広幸球団社長は「本当ですか。私は全く聞いていない。確認できていないから何も言いようがない」と驚きを口にした。木村寛広報部長は「たまたまうちの社長をしていただけ。うちには関係ない」と言い切った。】

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 被害者が十代の女性社員だったからとくに「悪質」というのは、ある意味「年齢差別」のような気もしなくはないのですが、なにはともあれ、とんでもない社長がいたものです。
 彼こそが「ダイエー最大の不良債権」だったのかもしれなません。

 しかし、この高塚元社長、人格はさておき、業績をみると、こちらのページにもあるように、かなり「やり手」の経営者であったことは間違いないようです。実は数年前にもセクハラ疑惑が持ち上がり、進退が問われたことがあったそうなのですが、その際にはダイエーの中内会長が強く高塚氏を支持したために、現職に留まれたと言われています。もっとも、中内会長としては、それまで大赤字を垂れ流していたダイエーの「福岡事業」を黒字に転換させてくれた大功労者であり、ダイエーという会社にとって不可欠な人材であったという「お家事情」もあったのでしょうけど。
 
 ちょうど一年前くらいの冬、僕はダイエーの福岡3点セット(ダイエー球団・シーホーク(ホテル)・ホークスタウン(リゾート施設))のうちのひとつである、シーホークに宿泊する機会がありました。確か、5年前くらいにも泊ったのですが、そのときと比べて大きな違いに気がついたのです。それは、ホテルのあちこちに置いてある、「高塚社長づくし」とも言えるような、気持ち悪くなるほどのたくさんの高塚社長の著書の数々。ホテルのロビーやレストランの待合室、さらに客室にまで彼の著書が置いてあって、「好評発売中」とか書いてあるのです。まさに、「教祖」という感じだったのですが、一介の宿泊客としては、そういう異様なまでの持ち上げ方には、「自分の会社の社長を客に向かって誉めそやすなんて、非常識だなあ」と呆れ返りました。「シーホーク」のスタッフにはとくに変な人はいませんでしたし悪い印象はなかったのですが、その「教祖本責め」に関しては、正直かなり不愉快だったのです。「なんでお金を払って他人の自慢話を聞かされないといけないんだ?」って。
 こうなってから思い出すと、いくら「カリスマ」でも、やっぱり異常な状況だったのでしょう。
 逆に、よくあんなになるまで、みんな黙っていたなあ、と不思議なくらいで。
 本を買わされて余っていたのなら、ヤギの餌にでもすればよかったのに。

 それにしても、この高塚社長をここまでつけあがらせた周囲の人たちの責任というのは、問われることはないのでしょうか?ダイエーの中内会長をはじめ、明らかな「セクハラ」を「スキンシップ」と言い換えて全肯定した取り巻きのイエスマンたちは、高塚氏が解任されてしまえば「たまたまうちの社長をしていただけ。うちには関係ない」と突き放して自己保身を図ろうとしています。
 この問題の背景には「あれだけの手腕があるのだから、多少の問題には目をつぶろう」という経営側の「本音」が感じられるのです。あの赤字事業を黒字に転換させたのだから、セクハラくらい、いいじゃないか、という視点や「ダイエーという巨大船が沈むことを考えれば、生贄を何人か差し出して済むなら、それでいいじゃないか」という諦め。

 こんな「暴走」を止める人が誰もいなかったなんて、たぶん、ダイエーは「潰れるべくして潰れた」会社なのでしょう。僕はこのニュースを聞いて、あらためてそう感じました。
 でも、この「セクハラ社長」のアイディアに僕も踊らされて「3点セット」を利用していたのですから、偉そうなことは言えませんが。
 そして、人間というのは、「能力」と「モラル」がかならすしも比例するものではなくて、本当に「恐ろしい人間」を造るのは、本人の力だけではなくて、周りの「協力」があるのだろうなあ、とつくづく思います。
 これだけ多くの利用者の「ニーズ」を的確に分析できていた人が、自分の目の前にいる女性が「スキンシップ」を嫌がっているかどうかの判断もできなくなってしまうなんてね…



2004年10月25日(月)
ガルシア・マルケスの発行部数倍増計画!

時事通信の記事より。

【「百年の孤独」などで知られるメキシコ在住のノーベル賞作家、ガルシア・マルケス氏(77)がこのほど10年ぶりに発表した新作が、思わぬ話題を呼んでいる。
 新作「メモリア・デ・ミス・プータス・トリステス」は、1950年代を舞台に、コロンビア人の老人が愛の遍歴を述懐する内容。27日に出版予定だったが、母国コロンビアで印刷所から流出したとみられる海賊版が広く出回ってしまった。これを受けて、同氏側は予定を1週間早めて20日から発売した上で、「本物」は海賊版とは最終章が異なると異例の発表を行った。出版元のランダムハウス・モンダドリ社は時事通信に対し、「書き換えたのは出版3週間前で、芸術的観点からの部分的な修正」と強調しているものの、海賊版に腹を立てたマルケス氏が一矢報いたのではないかとのうわさが広がっている。】

ガルシア・マルケスさんの略歴はこちら。

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 「現代ラテンアメリカ文学の旗手」であり、文学史上大きな影響を与えているガルシア・マルケス。もう77歳になられたんですね。
 僕も高校時代からハマっていた筒井康隆さんが紹介されていたので、「百年の孤独」他の何作品かは読んでいます。
 東アジアのニュースでは、よく「海賊版」の話題が出てきて、CDやDVDなどは、「本物の発売日前には、すでに海賊盤が多くの人に行きわたっている」などという話を良く聞きます。それにしても、マンガ以外の本の「海賊版」というのは、けっこう珍しいのではないでしょうか?
 そもそも、「印刷所から流出した」なんて、損害賠償ものなのではないかなあ、とも思いますし。

 「海賊版」ではありませんが、洋楽のCDなどは価格が安い輸入盤に対抗するために、国内盤には詳細なライナーノーツがついていたり、ボーナストラックが入っていたりするものです。そうでもないと、やっぱり消費者というのは「同じものなら、安いものがいい」と考えがちなものです。
 だからといって、小説に「本物にはボーナス・トラックが!」とか「豪華特典付き」というわけにはいかないだろうしなあ。

 もちろん、この「書き換え」が、「海賊版対策」なのかどうか、真相は作者本人にしかわかりませんが、この場合の最大の問題点は、果たして、その「書き換え」というのは、どの程度だったのか?ということでしょう。
 ほとんど話の本筋が変わらなければ、どちらも本人の作品には違いないわけですし、「海賊版でもいいや」と思う人もいるでしょう。逆に「海賊版なんて許せない」という人もいるでしょうが。
 しかしながら、ガルシア・マルケスという人は「海賊版が出るくらい」熱心なファンが多い作家でもありますから、もしかしたら、「海賊版」と「改訂版」の両方を手に入れて、比較してみたい、という人もけっこういるかもしれません。むしろ、「海賊版」のほうが「レア物」として価値が出たりするんじゃないだろうか、とも予想されますし、改訂する前の「海賊版」のほうが良かった、なんて声が出てくる可能性もあります。こういうのって、「直せば必ずしも前より良くなる」とは限らないから。

 でもなあ、77歳になって、ノーベル文学賞も獲って、これだけの名声を得ている大作家でも、やっぱり海賊版にはムカつくし、「一矢報いるために、自分の作品を書き換えた」なんて言われるものなんですね。事実かどうかはさておき。
 このくらいの大家になれば、「海賊版への憎しみ」より「自分の作品を改訂することへの不安」のほうが先に立つのではないかというのは、読者の勝手な思い込みなのでしょう。

 実は、この「海賊版」〜「改訂版」の過程そのものが、「マニアに2冊買わせるための戦略」だったりしたら、それはそれで「さすがマルケス!」とか思わなくもないのですけど。



2004年10月24日(日)
「南極観測隊」 vs 「お客様相談室」

「面白南極料理人」(西村淳著・新潮社)より。

(南極観測隊のドーム基地に調理担当として赴任した著者が「牛乳を基地で1年中飲む」ために四苦八苦している場面)

【小学校時代をマイナス30℃まで気温が下がる、日本でも有数の低温地帯・名寄市で過ごした経験で、凍った牛乳はおなじみだった。宅配されてくる一合瓶は寒さで紙のキャップが持ち上がり、石炭ストーブの横か、電気冷蔵庫に入れて解凍して飲んでいたことを思い出した。クリームが上の方にわずかに付着していたが、別に問題もなく飲んでいたので、これでいってみようかと決めかけたが、なにせ行くところは超低温地帯、ドームふじ。もし、仮に分離状態が戻らず、飲料不可なんてことになったら、例の大魔神ドクター、怒りのあまり、体を巨大化させ国家財産のドーム基地を破壊しかねない。そんな博打はとてもおそろしくて打てず、そっと某メジャー乳業メーカーお客様相談室に電話した。
「あのーちょっと聞きますけど、LL牛乳って冷凍しても大丈夫なんでしょうか?」
 返ってきた答えは、
「LL牛乳は常温で保存し、長持ちすることを前提に販売している商品ですので、冷凍保存となると前例がございません」
「はい!わかりました」と返事をしたくなるほどの当たり前の答えが返ってきた。
「すべて凍ってしまうところに大量に持っていくんですけど……」。この時点でこれはいたずらと判断されたのか、応対してくれている女性の声が硬化した。
「お客様、製品の保存法等はパックの横に書いてあるので、その通りに使用してください」
 ガチャン!!切られた。
 もう一つの大メーカーに、今度は南極観測隊と名乗って電話した。こちらは「後日返事を差し上げます」といくらかは丁寧な応対をしてくれたが、その後日はついに訪れなかった。南極観測隊と自称してすぐに信じてくれるのは、「紅白歌合戦」の電報だけのようだ。しかしここで引き下がってはと、あちこち電話をかけまくり、そのうち大日本冷凍牛乳研究所なんてところに突き当たり、見事解決法を見いだした。と書きたいところだが実際は、電話してもけんもほろろに扱われ、結構精神的に引いてしまった。「この問題は先送り!!」と生来の「いやなことは避けて通る性格」が台頭。午後いっぱいは頭の隅っこに引っかかっていたが、夜になって居酒屋で冷たいビールを一口飲んた途端、きれいさっぱり忘れてしまった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「牛乳問題」については、「案ずるより生むが易し」というべきでしょうか、筆者は牛乳を確証もないまま冷凍することにしてしまったのですが、【10ヶ月たって大豆粒ほどのクリームがちょっとできたものの、解凍すると見事にフレッシュミルクに戻ってくれた。同時期に搭載した昭和基地の同じものは、ドロドロの分離した気持ち悪いものが沈殿していて、とても飲めたものではなかった。】という「大成功」の結果に終わることになるのです。
 僕がこの文章を読んで考えたのは、ひとつは「お客様相談室」というのは大変なところだなあ、ということ、そしてもうひとつは、やっぱり「難しいお願い」をするときには、頼む側にもある種のプロセスが必要だと認識されているんだな、ということでした。
 この「お客様相談室」の対応を読んで、前者の【製品の保存法等はパックの横に書いてあるので…】のほうのメーカーの対応は、最初読んだときには「これは画一的で酷い対応だなあ」と思ったのですが、おそらく、「お客様相談室」というところには、毎日この手の「イタズラ電話」というのがかかってくるのでしょう。僕の知り合いに某携帯電話会社のオペレーターをしていた女性がいましたが、彼女によると、「電話での問い合わせのとき、顔が見えないからなのか、信じられないような剣幕で怒鳴ってくる『お客様』とか(電話が止められた原因は、電話料金が残高不足で引き落とせなかったからなのに)、もっと酷いのになると、それこそハアハアしながら「下着の色は…?」なんて手合いもいるらしいのです。そうなると、すべての問い合わせに対して「真摯に」答えるのは、なかなか難しいことなのだとは思います。
 もちろん、企業としてのイメージもありますし、「失礼にならない程度に」しないといけないのも事実ですが。

 もう一つの大メーカーに対しては「南極観測隊ですが…」と名乗ったにもかかわらず、結局「回答」は得られませんでした。こちらのほうにも、問題があるような気がします。対応したオペレーターが、「南極観測隊なんて、冗談に決まっている」と判断したのか、上層部が、「そんな儲かりそうもない問題提起に回答する手間は勿体無い」と考えたのか。
 いずれにしても、「本物の南極観測隊なら、そんな『お客様相談室』ではなくて、もっと「然るべきルート」(政府とか公的な機関)からの依頼になるのではないか、と判断していた可能性はあるのではないでしょうか。確かに、映画「南極物語」や「紅白歌合戦」以外に南極観測隊の活動を目や耳にすることはほとんどなかったし、まさか、本物の隊員が、こんな「相談室」に直接連絡してくるなんて、名乗られても狐につままれたようなものなのでしょうし、この手のイタズラは多いのだろうし。

 しかし、そうやって考えてみると、こういう「お客様相談室」というのは、いろんな意味で「客」と「メーカー」を直結していないのではないか、とも思えてきます。結局、いろんな人のイタズラやメーカー側の怠惰の積み重ねで、メーカー側にとっては「単なるクレーム処理班」みたいになっているのかなあ、という気もするのです。メーカー側にとっては、「本当に重要な情報がもたらされたり、客からの積極的なリクエストに対応するための部署」ではなくなっているのかもしれません。
 それにしても、この本を読んで思ったのは、「南極観測隊」といっても、ごく普通の人々(とはいっても、体力や精神的なタフさにおいて、選ばれた人々であることはまちがいないですが)の集団で、何か困ったことに対しては、自力で対処しないといけないんだなあ、ということでした。
 まあ、そういうのを「面白がって」やっていける人でないと、南極で1年以上も外界と遮断されて生活するなんて冒険には、耐えられないのでしょうけど。



2004年10月22日(金)
『ドラゴンクエスト』の面白さと堀井雄二の才能

「CONTINUE.Vol.17」(太田出版)のインタビュー記事「日野晃博(レベルファイブ)TFLOとドラクエを語る」より。

【インタビュアー:ところで、日野さんにとって、堀井雄二さんは憧れの人じゃないですか。実際にいっしょに仕事をして、印象は変化しましたか?

日野:ある意味では印象通りの人でもあったんだけど。堀井さんは力の抜きどころを知っている、ゲーム作家だなぁと思いました。資源が無限にあるという前提で、ゲームを面白くする方法って言うのは、ある程度のゲーム制作者ならだいたいわかる。でも、限られた条件の中で面白くするっていうのは大変なことで。限られた条件の中で最大限のパフォーマンスを引き出すっていうのは、才能の差だと思うんだけど。そういう点意味で堀井さんの考え方はすごい。面白いところには力を入れるけど、力を抜くところでは抜くという判断ができるんだよね。「ここはいらない」ってバサッと切り落とす。これが『ドラゴンクエスト』の面白さなのかと。僕だとよくばりに、入れられるものをじゃんじゃん入れちゃうかも知れない。やはり、堀井さんはファミコンっていう少ないデータ容量のゲーム機で、面白いものを作り続けるという結果を出してきた人なんですよ。】

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 ドラゴンクエスト8」を制作したゲーム開発会社「レベルファイブ」の代表・日野晃博さんのロングインタビューの一節です。
 「捨てる!技術」という本がベストセラーになりましたが、実際に一緒に仕事をした日野さんの目からみると、ゲームデザイナーとしての堀井さんの才能は、「力の抜きどころを判断する力」、すなわち「ここはいらない」というところを切り捨てることができる人、という点にあるようです。

 確かに、最近のゲームをやっていると「詰め込みすぎ」という印象を受けることがあって、制作者側としては、「いろいろな遊べる要素を詰め込んでいる」つもりでも、遊ぶ側からすれば「そんなことまでつきあってやっているヒマはないんだけど」とか「そんな『寄り道』に力を入れるくらいなら、本筋のところでもうちょっと頑張ればいいのに」なんて思うこともけっこうありますし。
 「ものすごくリアルに描いてあるグラフィック」とか「広大な世界」なんていうのは、やっぱり作る側からすれば、「売るために必要な要素」「プレイヤーへのサービス」だと考えてしまうんでしょうね。
 実際に遊ぶ側からすれば、魔法を一度使うたびに長々と凝ったグラフィックが流されたり、隠し要素だらけで、画面の隅々まで調べてまわらないとクリアできないゲームなんていうのは、「めんどくさい」以外の何物でもないんだけど。
 「ドラゴンクエスト」というのは、「1」からもう20年くらい経っているにもかかわらず、ゲームとしての基本的なところは、ほとんど変わっていません。グラフィックもサウンドも向上してはいるのですが、あくまでもそれは「演出の一部」であって、「せっかく描いたすごい魔法のグラフィック」だからと、プレイヤーがそれを飽きるまで何度もみせられるようなことはほとんどありませんし。
 以前、井上ひさしさんが「文章の書き方」について「いい文章を書くためには、自分がいちばん気に入っている部分を省くようにすればいい」というのを取り上げたことがあったのですが、確かに、作り手が苦労したところとか自信があるところを見せたいと思うあまり、独りよがりになってしまう場合というのは、けっこう多いのかもしれませんね。
 昔のゲームには、「1日3回食事をしないと、プレイヤーが飢え死にする」とか、「街の人と会話するためには、ちゃんと文章を入力して『会話』しないといけない」なんていう「リアルなんだけど、めんどくさくて、面白くない設定」というのが取り入れられていたものがあったのです。
 それはそれで、「リアリズム」という観点からはアリなのでしょうが、多くのプレイヤーは、やっぱりそこまでゲームにリアリティを必要としていなかったようです。
 もちろん、「ドラゴンクエスト」には固定ファンがたくさんついているから、「面白くなるまで、みんなガマンしてくれる」し、「他の人との共通の話題になるゲーム」という強みもあるんですけどね。

 「なんでもできる時代」だからこそ、「ほとんど何もできなかった時代」に培った「切り捨てる技術」が生かされている、というのは、皮肉な話ではありますが。
 そういえば、「新しい『何か』を始めるより、昔から続いている、不要な『何か』を省くことのほうが、はるかに有用で大事なことだ」というようなことを言っていた人がいたような気がします。



2004年10月21日(木)
BMWを衝動買いさせる接客術

「変?」(中村うさぎ著・角川文庫)より。

(「依存」をテーマにした、「買い物女王」こと、中村うさぎさんの対談集の一節です。文筆家・本橋信宏さんとの対談より)。

【中村:違う自分になりたい願望ね。それは、私にも確かにある。ちょっと話がそれますが、買い物依存症には二種類あるんですよ。ひとつはスーパーや百円ショップなどで、これは絶対に使わないだろうというようなスポンジなどを片っ端から買って、とにかく量で快楽を味わうタイプ。それと、私みたいに買う量自体は少ないけど高額商品をポンポンポンと買って、そのスリルに快楽を感じるタイプ。このふたつのタイプが、いつも「買い物依存症」という病名でひとくくりにされるのが、納得いかなかったんですよ。このふたつでは、買い物の動機が違うんです。前者はコレクター的な要素があると思うんですね、巣にいっぱい藁を持って帰るような鳥みたいな。後者は、虚栄心が大きな動機なんですよ。私は明らかに後者なんです。虚栄心からブランド物を買ってしまう。

本橋:ある意味、ブランド依存でもあるんだ。

中村:そうなんです。高級ブランドを身につけると、自分がワンランク上の女になったような気がするんですよ。

本橋:ブランド物って、確かにコンプレックスを刺激しますよね。僕も薬でラリって、BMW750iLを衝動買いしたことがある。代理店に行ったらセールスマンが冷ややかで、「こいつ。どうせ買えねぇだろ」って感じなんですね。それでムッとして、即決で買っちゃったんです。

中村:あー、そうなのよねぇ。コンプレックスの強い人間は、ムキになっちゃうのよ。私も若い頃は、シャネルなんか、こーんなに敷居が高くてさ、店の中に入れなかったの。もう、別世界で。そんで小金を稼ぐようになったら、豹変しちゃって。もう鼻の穴膨らませて買いまくっちゃってさ。今までの復讐みたいに。ざまーみろって感じでね。それがまた気持ちよくって、やめられなくなったのね。】

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 いや、いくらラリっていたとしても、コンプレックスが刺激されたとしても、「衝動買い」でBMWなんてありえねえ!と思いながら、僕はこれを読んでいたのですが。
 あまりブランド物に興味を持てない人間なので、実際のところはよくわからないのですが、異性としては、いくらシャネルに身を固めていても、泉ピン子さんや叶姉妹に対しては、むしろ引いてしまう男のほうが多いのではないかなあ、とか思うのだけれど。

 それはさておき、この「BMW衝動買い」の話からすると、セールストークというのは、必ずしも真面目にお客さんの相手をするだけが「買ってもらうための手練手管」ではないのかもしれませんね。ここに書いてあるように「コンプレックスを刺激されて、BMW即決」なんてお客さんもいるのならば。
 そんな行き当たりばったりで高額の買い物をして、よく払えたな、なんて僕はつい考えてしまうのです。
 たぶん、真摯な態度で店員さんが本橋さんを接客しても「いやーBMW欲しいなあ、でも、そんなお金ないんだよね。ゴメン!」ということで、話はオシマイだと思います。普通、無い袖は振れませんから。
 でも、人間というのは不思議なもので、「欲しい」という単純な欲望以上に、自分のコンプレックスから「買わなければならない」「やらなければならない」という「義務感」みたいなものに捉われてしまうことがあるようなのです。
 中村さんではないですが、「シャネル、ザマミロ!私にだって買えるんだから」とか毒づきながら棚買い、みたいな矛盾。

 僕も「買う気がない」(もしくは、買うお金がない)にもかかわらず、「どうせ買わない客」として扱われるのは、なんとなく不快な気がします。逆に、店員さんに徹底マークされて逃げられない状況というのも、それはそれで辛いのですが。
 でも、こういう「お客のコンプレックスを刺激するような接客」というのも、ひょっとしたらアリなのかもしれませんね。僕も見栄っ張りなので、注意しなくては。
 まあ、こういうのって相手を間違えたらトンデモナイことになりそうだから、ワザと「どうせ買えないだろ接客」をやるのは、かなり勇気がいると思うのですけど。



2004年10月20日(水)
「頑張れ」って、なんて無責任で、バカなことを言ったんだろう。

スポーツニッポンの記事「スポニチ好奇心」より。

(元F1ドライバー、片山右京さんの回。現在は(通称)パリ・ダカールラリーに参戦されるなど、F1以外のカテゴリーのレースで活躍し、登山家としても知られています)

【「挑戦をやめるわけにはいかないんです。」
 人生観が変わるほどの出来事があったのは95年のことだった。
 白血病を患う17歳の少年を見舞う機会があった。レーサー志望の少年にかけた言葉は「頑張れよ、あきらめるな」。だが2ヵ月後、彼は亡くなった。「頑張れなかったって、右京さんにあやまってほしい」という遺言を伝え聞き、頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。
 「なんて無責任な、バカなことを言ったんだろう。簡単に、頑張れだなんて」。言葉だけの激励ではダメだ。頑張れと言うからには、自らが頑張る行動をしなければ。そう心に決めた。F1では限界を感じて引退したが、山には挑戦し続けられる。「頑張ることは恥ずかしくないが合言葉。だからボクもどんどん頑張っていかないと」】

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 このエピソードを聞いて、「頑張れ」という言葉の「重さ」について、僕はあらためて考えさせられました。「頑張れ」というのは、本当に簡単に口にしてしまう「応援の言葉」だけれど、僕は果たして、他人にそんな言葉をかけられるだけの「責任」を負って、それを口にしているのだろうか?と。
 実際のところ、「苦しんでいる、もしくは頑張っている誰かに何か言葉をかけなくてはならない場面」というのは必ずあるわけで、そういうときに、僕もつい、この「頑張れ」を口にしてしまうのです。
 「もっと頑張れ」と思っているわけではなくて、まさに「他にいい言葉が思い浮かばないための、苦し紛れの選択」として。「とりあえず、頑張れ、って応援しておけば無難だろう」というような感じで。

 僕だって、この言葉をかけられて、「もう頑張ってるよ、他人事だと思って!」と言い返したくなることだって、あるのですけど。
 とはいえ、後から記憶として残っているのは、「そういえばアイツはあのとき、『頑張れ』って応援してくれたよな」ということだったりしますから、「何も言わずに見守る」よりは、とにかく言葉をかけるというのが大事なのかもしれない。
 「黙っていても伝わっているのではないか」というのは、あまりに過剰な期待であることが多いものですし。

 それにしても、この右京さんの述懐は、「誰かに憧れられる人間」というのは、いろんなものを背負って生きていかなければならないのだ、ということをあらためて思い知らされます。
 もちろん「ヒーロー」「ヒロイン」でなくても、誰かに「頑張れ」と声をかけるというのは、このように自分に対してもなんらかの「責任」を生むものなのですよね。まあ、多くの場合、テレビ画面に向かっての「頑張れ」に、そこまでの真摯さを持っている人間なんてほとんどいないわけですが、身近な人への「頑張れ」という「励まし」というのは、けっこう重いものなのです。病床にある人に、ずっと「頑張れ」と声をかけていた家族が、最期に「もう頑張らなくていいよ…」と口にしたとき、僕はそこに深い愛情を感じることだってあるのです。

 でも、「もう頑張らなくていいよ」と右京さんがこの少年に声をかけるわけにはいかなかったでしょうし(そもそも、そんなことをこの少年も望んでいなかっただろし)、右京さんは、「無責任」でも「バカなことを言った」ワケでもないと僕は思います。他にもっと、「かけるべき言葉」があったのだろうか?と考えてみるのだけれど、それは僕には思いつかなくて。
 とはいえ、僕がそう右京さんに言ってみたところで、右京さんの「自責の念」は、変わるはずもありません。それは、右京さん自信が背負ってしまった「責任」なのだから。
 
 「頑張れ」って言うのは無責任だから、言わないようにするっていうのは、確かに正論なのでしょう。でも、「頑張れ」って他人に自信を持って言えるように生きる、というのが、本当の「責任のとり方」なのかもしれませんね。それこそ、「口で言うのは簡単」なことなんだろうけど。

 右京さんに「頑張れ」って言ってもらえて、この少年は嬉しかったのだと僕は思いたい。それが、生きている人間の勝手な思いこみだったとしても。
 



2004年10月19日(火)
自殺予防に、魚を食べよう!?

時事通信の記事より。

【魚をよく食べる人は、そうでない人より自殺のリスクが低い−。こんな研究結果を富山医科薬科大と中国・大連医科大の共同研究チームがまとめ、米国の医学専門誌「バイオロジカル・サイカイアトリー」に発表した。
 研究チームは2002年4月から7月にかけ、大連医科大の救急病棟に入院した自殺未遂者100人と、事故で入院した患者100人の血液を採取。魚の油に含まれる脂肪酸、エイコサペンタエン酸(EPA)とドコサヘキサエン酸(DHA)の赤血球中の濃度を測定した。
 両群を比較すると、自殺未遂者の方がEPA、DHAとも濃度が低かった。EPAの場合、200人を濃度の低い順に4グループに分けると、第1グループに自殺未遂者が最も多く、濃度が高いほど減少。第1グループの自殺リスクを1とすると、第4グループは約8分の1の0.12だった。
 また、DHAの場合も同様に、第1グループのリスク1に対し、第4グループは0.21という結果が出た。】

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 魚を食べると、自殺する気が失せるのか?(完全に失せる、というわけではなさそうですが…)この記事をちょっと意地悪に解釈すると、そんなふうにもとれますよね。
 しかしながら、この「自殺率の国際比較」を御覧いただければ、世界中でもかなり魚を食べている国のはずの日本人は、世界の自殺率で第10位にランクされており、そのほかの国々を眺めていても、必ずしも「魚を食べている国では、自殺率は低い」とは言い切れない印象があります。いや、言い切れない、というよりは、「関係ないんじゃないの?」というのが正直な感想なのですが。むしろ、民族性とか宗教的な要因のほうが大きいのではないかな、と思われます。
 しかし、「それは、国家間ではそうかもしれないけど、同じ『中国人』というカテゴリーで比較すれば、魚を食べている人のほうが、自殺率が低いんだ」と言われると、そうなのかな、としか言いようがないところもあるんですけど。

 ところで、この記事を読んで「そういえば、僕もあまり魚食べてないよなあ」と思いました。
 考えてみると、「魚に含まれる化学物質の血中濃度」はさておき、「魚を食べる」という行為には、ある種の意味はあるのかもしれません。
 ひとり暮らしが長い僕は、日頃あまり魚を食べる機会がないのですが、ひとりで気軽に入れるような店で魚料理を食べるのはなかなか難しいし、自分で料理するのにはかなり手間がかかりますし、技術も必要です。魚というのは、けっして高級食材ばかりではないのですが、安い魚を美味しく食べるためには、その分時間や手間が必要なことが多いのです。ハンバーガーやラーメンと違って、刺身だけとか焼き魚一品だけで一食を済ませてしまうことは難しくて、ご飯や味噌汁がないと、なんとなく落ち着きませんし。
 ゆえに、僕のひとり暮らしの食卓(というか、食卓なんてほとんど使っていないのが実情だったりするのですが)には、あまり魚料理が載ることはないのです。
 思い出してみると、僕が子供のころの家の食卓には、母親が作ってくれた魚料理が並んでいることが多かったですし(それはそれで、ファーストフード好みの子供は悩みの種だったようですが)、お金あるいは手間がかかる魚料理を食べられる環境というのは、少なくとも毎日ファーストフードの生活より、一般的に経済的にも時間的にも余裕があり、「食卓を一緒に囲む人」がいるという「孤独じゃない」環境であることが多いのではないでしょうか。
 「魚を食べると、自殺のリスクが低くなる」というのは、正直眉唾物だという気がしますが、そう考えてみると、「魚を頻繁に食べられる環境にいる人は、比較的経済的・精神的に落ち着いている場合が多い」(=自殺のリスクが低い)ということは言えるのかもしれません。



2004年10月17日(日)
誰が、物事の「価値」を決めているのか?

「プチ哲学」(佐藤雅彦著・中公文庫)より。

【「価値のはかり方」について
 
 普通、寿命というのは時間で測りますが、トイレットペーパーの場合、寿命は長さで測る、という考え方も成立します。
 ひとつの事柄には、いろんな価値が存在します。例えば1kgの金塊は、お金に換えると莫大な額の数字になりますが、つけもの石として使うとしたら、1kgの価値しかありません。あるものの価値を測るのに、いろんなっものさしがあるということを知るのはとても大事なことです。そして、その時もっと大事なことは、どのものさしをあなたが選ぶかということなのです。】

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 僕はこれを読んで、ものごとの「価値」というものについて、あらためて考えました。例えば「お札というのは、みんながこれを『お金』だと認めているから価値があるわけで、そうでなければタダの紙切れだ」ととか言いますよね。
 結局、「絶対的な価値」なんていうのは存在しなくて、どれだけ多くの人がそれに価値を認めるか、という「ものさし」の集積でしかないのでしょう。
 例えば、イチローの年間最多安打と同じような「大記録」が、ハンドボールやボーリングというった比較的地味な競技で作られたとしても、そこに「価値」を見出す人が少ないのと同じで。
 確かに、人気スポーツは競技人口が多くてレベルが高いという面はあるかもしれませんけど。

 たぶん、世間には「イチローがどんな大記録を作ろうが、所詮野球選手じゃないか」という「ものさし」で判断する人もいるでしょうし、「プロとしてのサービス精神が足りない」という「ものさし」で判断する人もいるでしょう。
 まあ、イチロー選手の場合はともかくとして、僕も自分の周囲に人について考えるときにいろんな「ものさし」を用いているのです。
 例えば「やさしい」とか「不器用」だとか「頭がいい」とか。
 でも、同じ人に対して、「甘い」とか「堅実」とか「鼻につく」とかいう印象を持つ人もいるわけで、よく小学校の通知表に書かれていたように「優しさ」と「優柔不断」というのは、紙一重というより、その「価値」を判断する人の立場や「ものさし」によるものですから。街頭で募金箱に1000円入れるサラリーマンは、世間一般からみれば「優しさ」でも、妻からすれば「今月は苦しいのに…」と苦虫を噛み潰すような行為かもしれません。

 僕はどうも、他人に対して、欠点ばかりを測る、ネガティブなものさしを使ってしまうことが多いので、自分で金塊をつけもの石にしてしまっているような気がします。
 無意識のうちにそういう「ものさし」を使う癖がついていて、自分で判断しているにもかかわらず、それが絶対的な「価値」だと信じ込んでしまいがち。
 「短所を見て自分を安心させる」より、「長所を見て自分の糧にする」ほうが、はるかに自分にとって有益なはずなのにね。



2004年10月16日(土)
「叱ることからは、何も生まれない」

西日本スポーツの記事より。

【選手時代から、自分の力だけを頼りにのし上がってきた落合監督の財産は、4球団を渡り歩いた経験だ。
「オレはいろんな監督の下についてプレーしてきた。野球についていろいろ学んだつもりだ」と語る。
「責任を与えることによって人は伸びる。プロなんだからミスを責めたりはしない。自覚を持った人間に叱ることからは何も生まれないよ」というのが持論。】

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 今日からプロ野球の日本シリーズが開幕するのですが、僕は正直、中日の新監督に落合さんが決まったとき、これは今年の中日は厳しいな、と感じたのです。何かとマイペースな言動で知られていましたし、指導者としての現場経験にも乏しかったし「4球団を渡り歩いた経験」というのは、僕からみれば、「自分のやり方を通して、ファンを裏切ってきた」というふうにも思っていましたから。もちろん、本人の意思とは関係なしにトレードを通告された、というケースもあったわけですけど。
 今年の落合監督の成功の要因は、この「持論」に集約されているのかもしれません。「自覚を持った人間に叱ることからは何も生まれない」というのは、僕も常々考えていたことでした。
 まだ物事に対する自分なりの判断基準を持たない子供の場合、「叱る」という形での「価値基準の提示」であるとか、「負けん気を起こさせる」というのは必要なこともあるでしょうが、大人同士の場合、叱られて「じゃあ、頑張ろう」と思うよりも、かえって萎縮してしまったり、やる気をなくしてしまったりする場合が多いような気がするのです。「愛の鞭」なんていうけれど、そういうのって、鞭をふるう側の自己満足に過ぎないのではないかな、と感じるのです。
 だって、大部分の人は、自分を褒めて評価してくれる人のために頑張ろうとは思えても、自分をけなしたり、叱ったりする人のために力を尽くすことは難しいのではないでしょうか。
 もちろん、「アメとムチ」を使い分けることは重要でしょうし、相手が大人でありプロであるという信頼関係があるからこその言葉なのでしょうが。

 しかしながら、この「オレ流」が、果たしてずっと続くかどうかというのは、非常に難しいところです。大魔神・佐々木を擁して横浜を日本一に導いた権藤監督は、優勝したときには「選手の自主性を生かした名将」とたたえられましたが、何年か後には、「監督は厳しさが足りず、選手の規律が乱れている」という批判を浴びました。
 西武を何度も日本一に導いた森監督は、横浜では「選手に対する締め付けが厳しすぎる」ということで、監督の座を追われています。
 今年「オレ流」が成功したのは、星野監督時代からの管理野球に対して萎縮していた選手たちが、落合監督の下でのびのびプレーできたからで、この状態が続くと、今度はまた「気の緩み」が蔓延してくることも十分に考えられます。
 「叱ることからは、何も生まれない」確かに、そうであってほしい。でも、それで結果が出るかどうかというのは、タイミングという要素もあるんですよね。その「タイミング」が、偶然のものだったのか、それとも必然のものだったのかは、今はまだわかりませんけど。



2004年10月15日(金)
「プロ野球オーナーズ・クラブ」の面接風景

スポーツニッポンの記事より。

【新規参入を申請しているライブドアと楽天の第2回ヒアリングが14日、東京・港区の品川プリンスホテルで開かれた。日本プロ野球組織(NPB)の審査小委員会(豊蔵一委員長=セ・リーグ会長)が楽天、ライブドアの順番で約1時間半ずつ聴取。ライブドアはアダルトサイトの問題点とともに、アダルトゲームソフトの製造、販売を手がけている点を指摘されるなど、堀江貴文社長(31)が対応に苦慮。楽天と明暗が分かれる形となった。

 ライブドアのヒアリングが始まり30分が経過したときだった。豊蔵委員長が「ライブドアには健全育成に妨げとなるコンテンツはありますか?」と質問。堀江社長は「われわれがサービスの場を提供することはあっても、製造、販売はありません」と冷静に答えたが、その直後、清武委員(巨人球団代表)がアダルトゲームソフトのパッケージを取り出すと、低い口調で堀江社長に質問した。

 清武委員 ここに1つソフトがあるんですけど、製作・販売、ライブドアと表記されています。実際に製作などは行っていないんでしょうか?

 堀江社長 製作する会社は小さい会社で、資金力がない。われわれが窓口となっているだけです。

 清武委員 基本的に販売しかしないんであれば、そう表記すべきでは?

 堀江社長 そういう形にしないと、流通に乗せられないですから…。

 堀江社長の“苦しい弁明”を聞いた出席者たちの表情は曇り、会場は重苦しい沈黙に包まれた。

 この日のヒアリングでは財務関連の質問に加え、両社の主要事業であるインターネット関連で、アダルトサイトなどについて時間が費やされた。審査基準の1つである「公共財としてふさわしい企業、球団か」は、審査小委員会が重点項目として位置づけていたものだ。野球協約の第3条にも「野球が社会の文化的公共財となるよう努める」と記されており、清武委員は「公共財としての役割があるので尋ねないわけにはいかなかった」と説明した。

 楽天のヒアリングでも審査小委員会からアダルトサイトの取り扱いに関する質問が飛んだ。楽天側は一部のアダルトコンテンツがあることを認めた上で「クレジットカードがなければ入れない。そういう制限はできているし、合法的なサービス」と説明。同様の質問に堀江社長は「われわれは場を提供しているだけ。見逃しているわけではないが、排除は難しい」と答えるなど、両者の食い違いが顕在化した。

 「おのおのに特徴があり、差はある。比較考量は審査小委員会で詰めていきたい」と豊蔵委員長。この日のヒアリングは当初非公開で行う予定だったが、ライブドア側の希望で公開された。そこで飛び出した“アダルト問題”はライブドア側には“失点”となったとの見方もある。堀江社長は会見で「まだまだ決定まで時間がある。闘っている状況で過去は振り返れない」と強気の姿勢を崩さない。ヒアリングはこの日でほぼ終了。審査小委員会は26日の実行委員会に審査結果を答申する。

 ≪係争中の案件について≫両社には、業務に関する係争中の案件の有無も問われた。楽天が「全く係争中のものはありません」と答えたのに対し、ライブドアは「民事、刑事ともにあります」と回答。金融機関との間で民事で係争中であるほか、同じ相手から名誉棄損訴訟も起こされていることを明らかにした。】

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 このやりとりを聞いて、ネットに日常的に接している人であれば、ライブドアの堀江社長の言い分は、けっして間違ってはいない、と感じられると思うのですが。
 そもそも、ポータルサイトである「ライブドア」とネット通販をメイン業務としている「楽天」とでは、同じ「IT関連企業」とはいっても守備範囲は異なりますし、楽天だって「楽天広場」には「成人向けの日記」がたくさんあったり、楽天が買収したインフォシークで検索すれば、小学生だって入れるアダルトサイトなんて、腐るほどあるんですけどね。確かに、正式なコンテンツとしては、クレジットカードがないと入れない有料エリアには青少年が入るのは難しいかもしれませんが、無料アダルトサイトの「あなたは18歳以上ですか?はい/いいえ」なんてのが、「成人確認」だとしたら、まさに「形式だけ」だと思うのですが。

 そもそも、「面接での質問」というのは、けっこう「試験官次第」とうところがあるのです。僕が受験した某大学医学部の面接では、「どんな医者になりたいですか?」という質問が定番とされていて、僕はそれに対して「研鑽を重ね、地域医療に貢献できるような医師になりたいです」と答えて、試験官は「ふんふん」と頷いてそれで終わりだったのですが、僕の同級生は、僕と同じように答えたにもかかわらず、「それで君は、現在の地域医療の問題点をどれだけ把握しているのかね!受験生はみんなそう答えるが、そんなに甘いものじゃないんだよ!」とさんざん責められて辛かった、と試験が終わった後に話していました。この場合は、面接した先生も違ったんですけどね。
 それでも、質問者側にその気があれば、模範解答にだって、いくらでもツッコミを入れることは可能なのです。「楽天」の「クレジットカード認証」に対してだって、アダルトサイトを見る子供は、所詮有料サイトは観ないでしょうから(大人だって、クレジットカードの情報を入力しなければならないような有料アダルトサイトは、お金もかかるしセキュリティも不安だしで、それほど利用しないと思うのですが)、本当にそれだけで「ポータルサイト」としての楽天は「配慮している」と言えるのか?とかね。
 しかし、楽天側に対してはその問題を深く追求することもなく終わった、というのは、同じ人たちが質問者である以上、「無知」か「作為」としか考えられません。あるいは「先入観」か。
 暗黙の諒解、があったのかもしれないし、あるいは、楽天側にだけ、「こういう質問をするから」という想定質問集、みたいな情報が流れていた可能性もあります。ひょっとしたら、楽天のスタッフたちは優秀なので事前に察知していたのかもしれませんが。
 その一方で「ライブドア」に対しては、まさに「吊るし上げ」ともいえるような粘着攻撃。考えてみれば、ライブドア側はこの手の質問を想定していなかったのだろうか?とも感じるのですけど。
 堀江社長も「アダルトソフト」を自社が作っていたことを知らないわけでもなかったでしょうに。
 それにしても、そのソフトの現物まで持ち出して糾弾するNPB側も、「これは裁判なのか?」と言いたくなるような用意周到っぷりです。
 ちなみにその「アダルトソフト」はこちら
 うーん、少なくとも審査小委員会の委員の皆様方には、あまり理解されそうもないでしょうね…
 堀江社長の「名義貸し」のような言い訳は、さらに胡散臭さを増幅しています。そのソフトを積極的に売ろうとしていることは間違いないのだし。別に違法でもなんでもないのですが、「それでも、公序良俗に反するのではないか?」という聞き方をされると、「犯罪じゃないんだから」と開き直るわけにもいかないしなあ。
 どちらかというと、「客観的な判断」というより、「プロ野球オーナーズクラブ」というハイソな社交クラブへの入会審査で、いかに現会員たちに気に入られるか?という勝負のような気もしますが。
 
 とはいえ、この両者の質問に対する「答え」(というよりは、「対応能力」は、周囲の人にある種の印象を与えたのは確かでしょう。本音としては、三木谷社長も、「現状のインターネットで、『青少年に悪影響を与えるかもしれないアダルトコンテンツ』根絶は、技術的にもコスト的にも不可能」と考えていたとしても、やっぱりこういう場では「立派な建前」のほうが望まれているようです。
 高校球児が後輩を苛めたりタバコを吸っていても、やっぱり甲子園は多くの人にとって、「青春の汗と涙の場所」であり続けているように、夢を売る商売には、そういう「建前」だって必要なのでしょう。

 現状では、「楽天有利」は動かない情勢のようですが、ライブドアにとっては、ここまで(公共の電波で「メイドさん…」というソフトを大公開されたり、係争中の裁判について聞かれたり)虐げられながら、新球団を立ち上げるメリットって、はたしてあるのでしょうか?もう知名度も(良くも悪くも)上がったし、新加入すればワガママな選手やファンとボロボロの県営球場の修理(しかも、あの球場では近々「建て替え」という話になるでしょう)まで押し付けられるのに。
 確かに、既成球団の経営権譲渡ではない、「無の状態からの新球団立ち上げ」というのは、ものすごく面白いコンテンツだとは思うけど…
 結局「東北楽天」で落ち着いたら、「普通のプロ野球チーム」が、ひとつ減ってひとつ増えただけ、という気がして、一傍観者としては、つまらない感じもするんだよなあ。

 それにしても、前途有望な大学生に何百万円という裏金を渡して勧誘しているような大人たちが、他人に「青少年の健全育成」なんて説くのは、ちゃんちゃらおかしい話ではあります。
 ライブドアも「アダルトソフト」じゃなくて、「大人向け栄養ゲーム」というジャンル名にすれば、こんな目にあわなくて済んだのかもしれなかったのに。



2004年10月14日(木)
「将来のための修学旅行」とは言うけれど…

毎日新聞の記事より。

【中学高校の秋の修学旅行にちょっとした異変が起きている。首都圏のレジャー施設や繁華街を訪ねる傍ら、訪問先に大学を選ぶコースが増えているのだ。少子化で「淘汰(とうた)の時代」を迎え、受験生の確保やPRに躍起の大学側と、修学旅行を利用して進学を真剣に考えさせたい学校側の思惑の一致が背景にあるようだ。リクエストに応じてキャンパスでは模擬授業や進学説明会などが開かれている。
 「ご覧の通り門がありません。社会に開かれた大学を象徴しています」。9月28日。早稲田大学(東京都新宿区)の大隈講堂前で、マイクロバスから降りたのは、福岡県立鞍手高校(直方市)の2年生37人。学生ガイドの説明を受けながらイチョウ並木を歩き、「冬のソナタみたい」と顔をほころばせた。この日は同じ高校の別グループも国際基督教大や東京理科大などを訪ねた。日程の後半には東京ディズニーシー行きも組まれている。
 引率した山内省二教諭は「スキーや韓国旅行は楽しいが、進路を考える手助けになるものをと、始まった。見学するとその大学の受験生が増えるのも事実」と語る。
 早大には10月だけで30高校1485人が訪れる予定だ。中学生対象のキャンパスツアーも昨年から始めた。同大は「必ず受験につながるとは考えていないが、キャンパスの雰囲気や生の授業を直接伝えられるのは大きい」と訪問を歓迎している。
 修学旅行のレジャー色を一掃した学校もある。群馬県立高崎高校(高崎市)。02年から、従来の京都や広島への旅行をやめて「企業・研究所・大学訪問研修旅行」に切り替えた。2泊3日の日程で商社やシンクタンク、東大、京大、筑波大、早大、慶応大などを訪ね、訪問後にレポートを書かせる。学習主体のため、今年からは「旅行」の名前も外した。同校は「将来を見据えた進路指導をやろうと考えた。親や生徒には好意的に受けとめてもらっている」と話している。】

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 こういう「修学旅行での大学訪問」って、最近の流行なのでしょうか。
 実は僕の高校の修学旅行が、「東京・京都観光+大学めぐりツアー」だったので、この記事を読みながら、当時のことを思い出してしまいました。もう、15年くらい昔の話になりますが。
 あのころは、修学旅行が「有名大学訪問+自由観光」と聞いて、「まあ、気合の入った進学校なんて、そんなものなんだろうな」とか冷めた目で修学旅行をいうのを捉えていました。そのことについてとくに「うれしい」とか「残念」とかは感じてはいなかったような記憶があるんですけどね。
 そもそも、男子校の修学旅行なんて、どこに行ってもロマンなんてありはしないし、修学旅行に行くこと自体「かったるいなあ…」という雰囲気だったし。男だけでディズニーランドとかに連れて行かれた日には、暴動でも起こしたかもしれない。

 とはいえ、この「大学めぐり」というのは、それはそれでいい経験だったとは思います。僕は東大、慶応、そして京大に行ったのですが、やっぱり、「かったるいなあ」がメイン感情ではあったものの、「憧れのキャンパス・ライフ」というのにわずかでも接することができたのは、マイナスにはならなかったような気がするのです。記憶しているのは、東大の学食が閉まっていたこととか、有名な「東大の赤門」は間近でみると「ガッカリ観光地」みたいだったとか、慶応の図書館に本がたくさんあったこととか、どの大学も学生は一見普通の人だったこととか。
 まあ、中には「絶対東大に入る!」と固く決意した同級生もいたようですから、それなりに意義のある経験ではあったのでしょう。
 僕は当時の学力からして、このレベルの大学には縁がないと悟っていたので、「ここが、あの東大か…」なんて、一生に一度ガンジス川に沐浴に来たインドの人のような心境で、物見遊山していたわけなのですが。でも、「俺は東大に行ったことがあるんだ!」というネタに使えるというメリットもなくはないです。
 そのなかで、僕がいちばん印象に残ったのが京都大学でした。緑豊かな古都の格式あるキャンパスは、非常に印象深くはあったのですが、実際に僕の記憶に残っているのは、「とにかく京大は暑い!」ということ。そもそも、盆地で夏の暑さには定評がある京都に、真夏に行くこと自体が問題なのではないかと思いますけど。
 おかげで、「こんな暑いところにある大学には通えない!」という情報がインプットされてしまい、結局、某地方大学に落ち着いてしまった、というわけです。
 あのとき京都がもっと涼しかったら、僕のモチベーションももう少し上がっていたのかもしれないのに…
 
 ところで、その「大学めぐり」は、あまりに「娯楽性に乏しく、生徒がかわいそう」ということで翌年からは廃止され、僕の後輩たちは「いやー、めんどくさいですよ海外なんて!」とか言いながら、日本を脱出していきました。まったくもって、向学心のない後輩たちです。

 でもなあ、広島の原爆資料館とか京都の古寺とかいうのは、こういう機会に一度は見ておくべきなんじゃないか、という気もするんですよね。大学訪問は、高校生くらいになれば、自力でできるだろうし。
 「この大学に入りたい」という動機づけと、「こういう原爆の被害を繰り返さない、平和な世の中をつくりたい」という動機づけ、どちらが将来にとって大事なんでしょうね…

 もちろん、僕だって自分が高校のときは、「もっと面白そうなところがいいな」としか考えていなかったけれど。



2004年10月13日(水)
英国人の理不尽な「怖いものランキング」

西日本新聞の記事より(情報元は共同通信)。

【<英国世論調査で>
 英国で行われた「怖いもの」についての世論調査で、各国で頻発するテロを抑え、クモが堂々の1位に輝いた。
 英国人1000人を対象にした調査によると、テロに次ぐ恐怖はヘビ。以下「高所」「死」「歯医者への通院」「注射」「人前で話すこと」「借金」と続いている。
 クモがトップになったことについて、心理学者は「多くの足で走り回る小さな虫への恐怖は、石器時代にまでさかのぼる根源的なもの」と解説している。】

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 まあ、「堂々の1位に輝いた」というのは、クモにとっては言いがかりもいいところで、一部の毒グモを除けば、クモというのは人間にとっては「益虫」の類らしいのですけど。
 同じようなアンケートを日本でやったら、どうなるのかというのは、興味深い気もします。日本の伝統的な「怖いもの」は、「地震・雷・火事・オヤジ」って言いますよね。これは「オヤジ」を除けば「人間の力の及ばない自然災害」であり(火事も、昔は自然鎮火を待つしかなかったでしょうし)、そういう「巨大な力」というのは、確かに人間にとって根源的な恐怖なのだと思います。
 とはいえ、「何に恐怖を感じるか?」というのは、実体験があるかどうかにかかっている面もあって、「地震」が少ない国では「地震」に恐怖を感じる人は少ないのではないでしょうか。日本で「道を歩いていて、ライオンに襲われたらどうしよう」と恐れる人がいないのと同じように。
 そういう意味では、「クモ」というのは、誰でも見たことがある「気持ち悪い動物」でしょうし、具体的にすぐイメージできる「怖いもの」としては妥当なような気がします。
 僕は断然「ヘビ」なんですけどね。あの形状の生き物が襲ってきたところを想像すると、それだけで背筋が寒くなりますし、暖かい時期の夜中に草の多いところを歩くときって、「ヘビ、いないよなあ…」なんてドキドキしていたりもするのです。実際に動物園以外で生きているヘビを見た機会なんて、たぶん数えたら両手があれば十分なのに。それでも、「あの草むらにヘビがいるかも…」いう余計な想像力というのは、なかなか消えないものです。
 現実問題として、今の日本の地方都市に住んでいて、毒グモや毒ヘビに襲われて命を落とす可能性というのは、非常に低いものです(ハブがいる沖縄は除いたほうがいいかもしれないけど)。川口浩探検隊(今は「藤岡探検隊」ですね)にでも入って「恐怖のヘビ島」にでも行かないかぎり、ヘビに襲われて死ぬ可能性はごくごく低いもののはずなのに、やっぱり怖い。

 僕は「あの家の陰にテロリストがいるかも…」という恐怖感におそわれたことは今のところないので、やはり「恐怖の対象」というのは、それまでの体験に深く影響されている面もあるのでしょう。「死」はともかく、「高所」「歯医者への通院」「注射」「人前で話すこと」なんていうのは、「ごく身近でありふれた恐怖体験」なわけだから。
 そういう意味では、「テロリズム」が2位というのは、「テロよりもクモが怖い」というよりは、「テロの恐怖」が「クモ」と同じくらい「現実的な恐怖」として浸透していることのあらわれなのかもしれません。もちろん、メディアの影響もあるでしょう。

 それにしても、おそらくクモにとっては、「自分たちは普通に生きているだけなのに、テロより嫌われるとは…」という理不尽な結果だろうと思われます。某国の大都市を守るために日夜がんばっている「クモ男」だっているっていうのねえ。



2004年10月12日(火)
「賢者の贈りもの」の喜びと難しさ

「泣く大人」(江國香織著・角川文庫)より。

【贈り物は素敵だ。贈るのも、贈られるのも。とくに冬のそれは素敵。心があたたかくなるから。
 子供のころ、お中元やお歳暮をだしにいく母についていくのも好きだった。
 お元気ですか、という挨拶。私はあなたを憶えていて、気にかけていて、あなたのことをおもっています、というしるし。
 現実の贈り物だけじゃない。本のなかの贈り物のシーンにも、いつも胸が躍った。若草物語にも足長おじさんにも、大きな森の小さな家にもやかまし村のシリーズにもそれはあって、どの場面も実にわくわくして読んだ。
 私が結婚してよかったと思うことの一つも贈り物だ。奇妙なことに、私は男の人に贈り物をするのが極端に苦手で、もともと贈り物が好きなだけにそれは困ったことだった。たぶん自意識が過剰なのだろう。身につけるものを贈るのは馴れ馴れしすぎる気がするし、食器や鞄や煙草入れはもっと馴れ馴れしい。相手の生活に自分をわりこませるような気がする。本やCDと言った趣味のものは、相手の好みを知っていればなおのことさしでがましい気がするし、結局、食べ物か飲み物か花、つまりいずれなくなるものしか贈れないのだった。(さんざん考えたあげく、美しいみどり色の小さな雨ガエルをつかまえて、ママレードの入っているびんに入れて贈ったこともある)
 恋愛関係にある異性に物を贈るというのはある種の束縛のような気がするのだけれど、結婚して思った。このひとには何を贈ってもいいのだ!赦されている。下着や靴下だって。コートや鞄だって。それはとても嬉しいことだった。とても嬉しい、とてもほっとすること。
 最近いただいた贈り物で幸福だったのは詩。それから言葉を添えたワインのコルク。】

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 「他人に贈り物をするのが好き」という人は、実際はけっこういるのかもしれません。僕だって、誰かに何かをあげて、喜んでいる顔を見るのは好きですし。でも、「贈り物好き」と「贈り物上手」の間には、けっこう深い溝があるのも事実でしょう。
 たとえば、子供のころの友達への誕生日プレゼントというのは、今から考えたらものすごく気楽なものです。なんといっても、予算が限られているし、ワインのコルクというわけにもいかないでしょうから。もっとも、それは今から考えたら、という話で、当時はそれでも四苦八苦していましたけど。
 僕は以前は、「贈り物は形として残るものがいいなあ」と思っていました。食べ物なんてのは、「食べればなくなってしまうもの」だから、あげる側としては、あんまり面白くないな、って。
 でも、大人になって考えると、贈り物というのは「無くなってしまうもの」のほうが、いいのかもしれない。昔好きだった人にもらった小物を見てせつなくなったりするのは、ある種の呪縛でもあるわけだから。
 とっておくほうも、保存する苦労、無くしてしまったときの申し訳なさ、というのもあるでしょう。食べ物のような「消えもの」であれば、「美味しかった」で、丸くおさまりますし。
 それでも「相手の心に残るような贈り物をしたい」というのは、好感を抱いている誰かに何かを贈るときには、少しは頭をかすめるものです。

 江國さんは、「結婚してしまえば、相手に何でも贈れるから嬉しい」と書かれています。確かに、そういう一面もあるのですね。
 誰かに何かを贈るときに、つりあい」みたいなものを考える人は多いはずです。相手と自分の現在の立場や経済力とか、好感度とか。
 たとえば、男性が女性に下着を贈るというのは、やっぱり「そういう関係」でないと「この人、何考えてるの?」と思われるでしょうし、いきなり高級外車とかプレゼントされたら、そこに何かの「意味」を相手は感じるでしょう。もちろん「もらうだけもらって、また後で考える」という人だっているかもしれないけど、多くの場合は、贈り物の質と量というのは、「束縛」にもつながります。あんまりよく知らない(あるいは興味がない)異性から、高級ブランド品をいきなりプレゼントされたら、喜ぶ人より、引いてしまう人のほうが多いのではないでしょうか?
 大概の場合、贈るほうも「相手が喜んでくれて、なおかつ相手に気を遣わせすぎないようなもの」を選ばなくてはならないから、気苦労が絶えないのです。
 そういう意味では、「何を贈っても『束縛』とか考えなくていい結婚相手」というのは、確かに贈り物好きには、得難い存在なのでしょうね。
 でも、高価なプレゼントとか買ってきた日には、「そのお金は何処から出てるの!家計も苦しいんだから、返してきて!!」とか言われないとも限らないとは思うんだけどなあ。
 だからといって、雨ガエルとか詩なんてのは、自分が受け取る立場だったら、限りなく「微妙な贈り物」だろうしね。



2004年10月11日(月)
スカウトされたい女たち

日刊スポーツの記事より。

【大手芸能プロダクションに実在する社員をかたった偽スカウトマンが都内に出没し、女性から名前や住所などを聞く被害が続出していることが10日までに明らかになった。ヌードをほのめかしたり、詐欺目的だったりと形態はさまざま。大手芸能プロの多くはスカウト活動に関して厳格なマニュアルがあり「怪しい勧誘には用心してほしい」と呼び掛けている。
 大手芸能プロ「ホリプロ」では「実在する社員の名前をかたり、スカウトと称して女性を誘う男が頻出している。ここ数日間で女性側から問い合わせがあっただけでも6件。実際の“被害”はもっと多いと思われる」と頭を痛める。銀座、新宿、池袋、吉祥寺など若者でにぎわう都内のあらゆる繁華街に出没しているという。
 実在社員の名前と役職を印刷した偽造名刺を渡し「ファション誌の表紙に出ないか」と声を掛けるのが主なパターン。実際にスカウトされ芸能界入りした優香や藤原竜也などの名前を挙げながら、巧妙に連絡先を聞き出すケースもあったという。社員の名前や役職は、ホームページや紳士録などから入手しているとみられる。興味を示した女性から名前、住所、電話番号を聞き出し、後日、喫茶店での面接を持ち掛ける。「『表紙の仕事のほかにヌードになってもらう必要もある』と言われたのだが」とホリプロに問い合わせてきた女性もいるという。
 約3000人のタレント、モデルが所属するオスカープロモーションでも、実在社員の名前をかたった偽スカウトの被害があったという。入手した本物の名刺を使い、やはり「ファッション誌の表紙に出ないか」と声を掛ける。「オーディションの参加料として50万円必要」などと持ち掛けられた女性もいたという。数年前には女性側からの被害届を受けて警察が動き、2人が逮捕されたこともある。同社では「スカウトの際にこちらからお金の話をすることはありません」と話している。
 ここ数年、タレントと一般人の垣根が低くなり、スカウトされることを期待して渋谷や原宿を歩く女の子たちも多い。乙女心につけ込んだ最近の偽スカウト横行について、ホリプロでは「怪しい話には用心し、事務所に問い合わせてほしい」と呼び掛けている。】

参考リンク:「スカウトの悪徳手口公開」(恋愛科学研究所)

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 こういう「スカウト詐欺」って、僕が子供のころから新聞の三面記事や深夜番組で話題になっていたような気もするのですが…それでも、「一般人と芸能人の垣根が低くなっていること」や「ネットで簡単に本物のプロダクション社員のプロフィールが手に入るようになったこと」から、さらに手口が巧妙になってもいるのでしょうね。「普通、こんな手に引っかからないだろ…」というような甘い言葉にも「芸能界に入りたい人たち」は、「騙されてみよう」と考えるのかもしれませんし。
 それにしても、「ファッション誌の表紙に出ないか」なんて、出版社側の立場になって考えれば、表紙というのは雑誌の「顔」ですから、未知数の新人を起用するよりは、「表紙買い」してくれるようなタレントを使うはずです。そりゃ、スカウトキャラバンとかで優勝でもしていれば話は別だろうけど。少なくとも、まともな商業誌では、まずありえない話。
 
 ところで、「タレントになりたい」という人はかなり多いのだとは思いますが、一口で「タレント」とはいっても、実際のところピンキリみたいですね。僕は消費者金融のCMに出演されている井上和香さんとかを観るたびに「事務所のほうはきっと、稼げるうちに稼いどけ」と考えているんだろうなあ、とかつい感じてしまうのです。
 「アコム」のCMでブレイクした小野真弓さんのような例もあるわけですが、将来的に看板にするつもりのタレントさんにとっては、消費者金融のCMというのは、ヘタしたらマイナスイメージにもなりかねませんし。
 でも、そんなふうに「使い捨てられるんじゃない?」と思われるようなタレントたちだって、実はすごく恵まれているほうなのかもしれません。
 この記事には、オスカープロモーションに所属の3000人、と書いてありますが、たぶん、そのうち僕が名前を聞いて「ああ、あの人か」と顔と一致するレベルの売れ方のタレントというのは、100人に1人くらいのものだと思いますから。
 タレントと一般人との垣根が低くなっても、タレントと「売れているタレント」の間の垣根は、むしろ高くなっていたりして。
 本当は、「そういう話は全部ワナ」だと割り切れれば騙されることはないんでしょうが、「ワナかもしれないけど、騙されてもいい」という人は、けっこう多いのかもしれないな、という気もするのです。
 参考リンクにも書いてありますが、何の商売でも「自分の商品を大事にしない」ところは、うまくいくはずもないのにねえ。

 スカウトといえば、「最近街を歩いていても、水商売のスカウトの人から『働いてみませんか?』って声をかけられなくなって寂しい」という話を同僚の女性から聞きました。
 「えっ、そういうのって、『寂しい』の?」と聞き返すと、
「実際に水商売をやる気は全然ないし、声をかけられるとうざいけど、やっぱり、声かけられなくなると女として寂しいですよ」との返事。
 僕はそういう立場になったことがないからわからないのですが、やっぱり「そういうもの」なのでしょうか?

 この記事にあるような「どうして騙されるのかわからないようなスカウト詐欺」がなかなか絶滅したいのは、多かれ少なかれ「スカウトされたい」という気持ちをみんなが持っているためなのかもしれませんね。
 



2004年10月10日(日)
オンナの幸福、オトコの欲望

「トンデモ本 女の世界(上)」(と学会・著、扶桑社文庫)より。

(よく雑誌の裏表紙などに載っている「開運グッズ」の「ライスチャーム」の広告について書かれた文章の一部です。)

【「太古の昔から他に品種と交わる事の無い野生米サティバ」に「インドの高僧ヴィラカーラ氏が自らの頭髪で依頼者の名前を書き、生命エネルギーを注入」し(あまりのエネルギーのために写真が全カットぶれていたんだそうです)「聖水のカプセルに入れて」アクセサリーに加工したモノ。

 まずは女性向けブレス(ペンダントもあります)。広告の肩に踊る字が、「恋愛」「結婚」「美」「金運」「学業」「友人」。まあ、女の子の夢ですねえ。
 ところがこれが男性向けになると……「金」「オンナ」「競馬」「パチンコ」「仕事」「事業」!!「オンナ」とカタカナ書きのところなんかが憎いですね。これだけ欲望をムキ出しにされると気持ちいいくらいです。】

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 サイトをやっていて、メールアドレスを公開していると、いわゆる「ネットビジネス」のメールが毎日本当に嫌になるほどやってきます。そういうサイトを覗いてみると、「5000円で開業、在宅で月々数百万円の収入が!」なんて売り文句とともに「成功者の体験談」が載せられています。そういった体験談というのは、まさに「類型的」なんですよね。
 いわく、「外車を何台も所有」「海外に別荘があり、遊んで暮せる」「美女に囲まれてウハウハ」とか、全部そんな感じ。
 しかしながら、僕はこういう「体験談」を読んでいつも、こんなふうに思うのです。
 この「ネットビジネス」をやっている人たちは、こういうのが、世間の人々の「欲望」の主流だと判断しているのだな、と。
 確かに、お金なんていくらあっても困るものじゃないけれど、「働かないで、1年中別荘で美女に囲まれているような生活」って、そんなに楽しいものでしょうか?そりゃ、食うや食わずの生活よりははるかに望ましいものではありますが。
 いや、僕だって年を取って引退すれば気候のいい南の島でビーチに寝そべって暮らすのもいいとは思うけど、少なくとも今、そんな生活が可能になったとしても、最初は楽しくても3ヶ月くらいですぐ飽きてしまうのではないかと予測しているのです。美女とかに囲まれていると、疲れそうだしねえ。
 それでも、「世の男の憧れ」というのは、そんなものなんでしょうか?
 「名誉のほうが大事」とか言ってみても、機密費で愛人の名前をつけた競走馬を購入した外務省の偉い人だっていたわけだし(あれだけわかりやすい「成金趣味」というのも、それはそれで珍しいような気もしますが)。
 
 ところで、ここに書かれている「欲望」って、男性向けのものは、いわゆる「物質的なもの」がほとんどなのに対して、女性向けのものは「恋人」ではなくて「恋愛」「結婚」、「お金」ではなくて「金運」と、抽象的なものが多いですよね。裏を返せば「男の欲望の対象は具体的な『モノ』で、女の欲望の対象は、抽象的な『概念』である、という見方をしている、ということなのでしょう。
 確かに、男は「彼女が欲しい」と口にすることがあっても「素敵な恋愛がしたい」というセリフはあまり発することはないような気がするんですよね。最近は、女性が「彼氏が欲しい」と言うことは多そうなのですが、全体としては、やっぱり男のほうが「物質的」な傾向があるのかもしれません。

 その一方で、「男はロマンチストで、女はリアリスト」とも言いますから、なんだかよくわからないような気もするのですが、実際のところはどうなんでしょうね。
 もしかしたら、「男は」「女は」と言うよりも、世の中全体が「物質重視の傾向になっているだけなのかもしれません。
 ルナアル(1864〜1910、フランスの小説家・劇作家)は、「幸福とは、幸福をさがすことである」と記しました。結局、「幸せ」にはなりたいのに、何が「幸せ」だか、よくわからない時代は、現代だけではないのでしょうけど。



2004年10月09日(土)
感動する遺書、感動できない人生

「知識人99人の死に方」(荒俣宏監修・角川文庫)より。

(収録されているコラム「よい遺書、わるい遺書」(文・岩川隆)の一節です。『世紀の遺書』という巣鴨プリズンに幽閉されていたBC級戦犯の人たちが、同じような境遇のもとに刑死した戦犯たちの絞首台に上る寸前に書いた手紙やメモを集めて収録した本(収録数は、700にもおよぶそうです)を何度も読み返して考えたこと。)

【繰り返しているうちにわかってきたことは、皮肉にも、この世にある者が感動するような文(遺書)を書きつづって死んでいった人間たちの生(人生)は概して、それほど褒められたものではないということだ。たとえば、人間についての深遠なる思い、生と死についての考え方、文章力などどこをとっても立派で、この遺言集のなかでも十人のうちの一人に入るだろうと思われる人物がいるが、生前のことを調べさせていただくと、どうも感心しない。軍隊や戦地で部下や同僚だった人たちの話を聞くと、将校としての人望は薄く、エピソードからは「無責任」で「愚痴が多く」「見栄っ張りで利己的」な人物像が浮かび上がってくる。戦犯容疑となった犯罪事実も、他の多くが上官の命令や周囲の状況によってやむにやまれず敢行した行為であるのに対して、彼の場合は、「早くからジャングル内に逃走し、食料欲しさに村に出て地元の住民を殺害。たまたまそれが終戦直前の日付であったので戦犯にとして逮捕された」という。
 「人間とは存在そのものが哲学だ」とか「死もまた美である」とか書いている立派な遺書から受ける印象とはとても結びつかない実像だ。読ませる文章、自分を立派に見せたい文章。
 死ぬときまで見栄を張らなくてもよかろうにと思うのだが、この世への未練が無意識のうちに読むものを感動させる文章を書かせるらしい。このような名文の遺書は下級の兵士や将官クラスには少なくて、概して中級の尉官や下士官に多いのが興味深い。いずれも、いくらかの教育を受けたいわば知識階級である。
 いまの私は、立派な遺書や感動的な”最期の文”を目にすると、ご本人には失礼であるけれども、警戒し、ほとんど信用しなくなっている。】

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 僕はこれを読んで、耳の痛い話だなあ、とつくづく思いました。考えてみると、素晴らしい作品をを書いた作家や評論家の私生活というのは、けっしてその作品にふさわしいほど立派なものではないことが多いような気がします。もちろん、そういう「無頼」が売りの人もいるのでしょうけど。
 ここに書かれているのは、「戦犯として処刑された人々の遺書」ですから、まさに「命をかけた文章」に関してなのですが、確かに、僕も自分の身を振り返って、「本当に懸命に生きているのなら、言葉で何かを遺そうとする前に、行動で何かを遺そうとするべきではないのか?」と反省することもあるのです。例えば、こうして何かを書いているあいだに、何か論文を読むとか、参考書を調べるとか。そして、「言葉ではなく、行動で遺そうとした人」(たとえば、ずっと美味い蕎麦を打ちつづけたとか、田舎でお年寄りを診るのに一生を捧げた、とか)には、現実で勝てない分、こうして延々と言い訳を続けているのではないだろうか、と。
 本当に懸命に生きていたら、そもそも、こんなことを書いている時間すらないのでは?とかね。

 「気の利いた文章を遺そう」というのは、【読ませる文章、自分を立派に見せたい文章】を自分のイメージとして遺しておきたい、ということであり、「見栄を張っている」という面もありそうです。もちろん「素の自分を出している」つもりの場合もあるかもしれませんが、では「素の自分」というのは、言葉にできるものなのだろうか?

 そうして考えていくと【「無責任」で「愚痴が多く」「見栄っ張りで利己的」な人物像】それは、まさに僕のことのような気がしてならないのです。

 「書きたいという衝動」というのは、確かに僕の中にはあるのです。でも、それは何かの代償であり、プロの作家のように誰かに何かを伝えるほどの力すらないのに、こういうことに時間を費やしているというのは、たぶん、ものすごく時間の無駄なのでしょう。

 とはいえ、そう簡単に「未練」というのはなくならないでしょうから、少しずつでも「行動で示す」ようにしなくてはなりませんね。
 「遺書」だけが立派でも、どうしようもないから。




2004年10月08日(金)
『ネバーランド』を創った男

FLiXムービーサイトの記事より。

【「ピーターパン」の生みの親であるスコットランド出身の作家、J・M・バリーを描いた、ジョニー・デップの主演作『ネバーランド』が、バリーの親族から非難されている。この作品は、実在の人物を元に、世界的ファンタジーの誕生秘話を綴った感動作。しかしバリーの親族は、この作品が事実に基づいていないと不満を漏らした。劇中、バリーが初めてヒロインのシルビアに出会うシーンでは、シルビアの夫はすでに亡くなっているが、実際はまだ健在であったり、バリーとシルビアの関係が微妙に異なっているようで、親族は「事実に基づいていないのは残念。映画は歴史を書き換えることがよくあるけれど、少しの書き換えで、家族にとってはそれは他人になってしまう」と語っている。】

参考リンク:サー・ジェームズ・マシュー・バリ年譜

      ピーターパン&ジェームズ・バリ

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 僕はこの「ネバーランド」という映画のことは知らなかったのですが、少なくとも現在最も人口に膾炙している「ネバーランド」は、あのマイケル・ジャクソンが築き上げた「子供の楽園」(&性的虐待疑惑スポット)のことだと思われます。
 そして、好事家の方々は、その「ネバーランド」という名前が、「ピーターパン」に出てくる「永遠の若さの国」から取られているというのを御存知なのではないでしょうか。
 「ピーターパン」の作者である、J.M.バリという人は、スコットランドの貧しい機織り職人の家に生まれましたが、お母さんは彼にたくさんの物語を教え、それが彼の文学的基盤になったといわれています。そして、6歳のときには自作の芝居を上演するようになったそうです。
 バリが8歳のときに当時13歳のお兄さんが事故で亡くなり、そのときの「母の心では、兄は永遠に少年のままなのだ」という想いが、のちの「永遠の少年・ピーターパン」につながっているといわれているのです。
 そして、バリーは結婚生活が不遇だったこともあり、近所に住む二人の少年、ジョージとジャックと親しくなり、冒険物語や妖精の話などを聞かせて楽しむようになり、それが縁でその後、二人の両親(弁護士アーサー・L・デイヴィズと妻シルヴィア)やジョージたち5人兄弟とも親しくなったバリは、デイヴィズ一家を庇護するようになったのです。
 ちなみに、この5人兄弟の長男ジョンは22歳で第一次世界大戦で戦死、四男マイケルは20歳で溺死しています。
 バリーは、生涯「子供たちのために」さまざまな慈善事業を行い、亡くなる前には、【「ピーター・パン」による印税及び上演料すべてをグレイト・オーモンド街児童病院に寄付する】という声明を出してさえいるのです(ちなみに、この「著作権」は、2007年までで期限切れになってしまうので、児童病院は、「ピーターパン」の続編を書いてくれる作家を探しているのだとか)。

 こうして、バリーの生涯のことを調べてみたのですが(とはいえ、ネット少し時間をかけて検索したくらいでは、あまり多くの情報は得られませんでした。英語ができれば違うのかもしれませんけど)、バリーの生涯には、「若くして亡くなった人々の影」と「少年愛の傾向」がみられます。「少年愛」とはいっても、肉体的なものではなく、精神的なものだけだったのかもしれませんが、ここまで「子供」にこだわりがあったというのは、やはり「一般的ではない」と言わざるをえないでしょう。もちろん、それが責められるべきことかどうかは別として。

 僕はこの記事を読んで、「どうしてこの家族は、そんな『映画ではよくあるような枝葉末節の設定変更』にこだわるのだろう?」と思いました。
 【親族は「事実に基づいていないのは残念。映画は歴史を書き換えることがよくあるけれど、少しの書き換えで、家族にとってはそれは他人になってしまう」と語っている】というのは、有名な劇作者の親族とはいえ、あまりに偏狭なのではないか、と。
 「シルビアの夫が健在かどうか?」というのは、最初は不倫とかそういう話なのかと思いましたが、むしろ、現実のままのほうが不倫チックなのではないかな、とか、そんな感じもしましたし、【バリーとシルビアの関係が微妙に異なっているよう】とはいっても、2人の交流は100年以上も昔の話ですから、親族だって「本当の関係」は今となってはわからないのではないか、とか考えもするのです。

 「夢の世界を創造した人」の伝記が、多少フィクションでも(いや、あまりに悪意に満ち溢れた嘘では許せないでしょうが、これはそういう映画ではなさそうだし)、別にいいんじゃないかなあ、と僕は思うのですけどねえ。
 でも、マイケル・ジャクソンのせいで、「ネバーランド」もイメージ低下が甚だしいから、デリケートになる気持ちもわからなくはないのですが。



2004年10月07日(木)
インターネット時代の「コレクター魂」

京都新聞の記事より。

【京都市伏見区の京都まつり実行委員会が、区民パレード隊への協賛金と引き換えに渡している醍醐コミュニティーバスの模型「チョロQ」が、市民らの間で人気を集めている。ところが、一部の収集家らが、買い求めた「チョロQ」をホームページ(HP)で高値販売しており、関係者は「本来の趣旨と違った扱い方はやめて」と困惑している。
 「京都文化祭典04」の一環として9月19日に開かれた京都まつりへの補助金数10万円が、市財政悪化を理由にカットされたため、実行委が、同まつりの区民パレード隊の諸費用を工面する目的で、がん具会社と提携し、「チョロQ」6000個を製作した。
 模型は、全長5センチほどで、ぜんまい仕掛けで地面に置いて後方に引いて離すと走行する仕組み。地域住民のバス利用促進を図る狙いもあり、8月末から区役所や深草・醍醐の両支所などで、バスの1日乗車券と同模型をセットに、1000円で渡している。
 区役所などによると、住民や子どもだけでなく、他府県の模型収集家たちが、数10個単位で引き換えており、中にはHPで入札にかけ、高値で取引している、という。
 同区役所醍醐支所の高田民義・まちづくり推進課長は「愛好家のためではなく、まつりへの協賛とバス利用を促進するための模型だ」と、理解を求めている。
 模型は、あと数100個しかなく、10日と17日、11月23日に地域住民の交流の催しで、パレード隊に協賛する人だけに引き渡すことにしている。】

ちなみに、記事全文とこの「チョロQ」の写真はこちらです。

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 先日、「薔薇族」の廃刊の記事について、「インターネットは『アンダーグラウンド』の敷居を劇的に低くした、と書きましたが、こういう「コレクター」たちにとっても、インターネットというツールは、収集の手間を省くのに、非常に効果的なのだろうな、と思います。僕は自分でネットオークションに出品したり落札したりしたことはないのですが、学生時代に欲しかった旧いパソコン(PC9801シリーズとかX68000とか)+昔やりたいけどお金が無くて手が出なかったゲーム、なんていうのに数万円くらいの値がついているのを見ると、「うわっ、欲しいなあ…」と思わず入札したくなってしまいます。だって、こんな旧型のパソコンなんて、ちょっと田舎に行けば、見かけることなんてまずないですし。
 ネットオークションでは、本当にさまざまなものが売られています。「それは『ゴミ』じゃないのか?」とか「その値段で出品・発送する手間を考えたら、全然儲けにならないのではないか?」というような商品もありますが(中には、儲けじゃなくて、捨てるに忍びないので、誰か大事にしてくれる人に譲りたい、という例もあるみたいです)、今まで都会の裏通りにある、ちょっと入りにくいような店でしか買えなかったようなものが、家のパソコンの前で簡単に「落札」できるのだから、コレクターにとっては、まさに「いい時代」になったものです。
 もっとも、「苦労してコレクションしないと、面白くない」なんて向きもあるみたいですけど。

 ところで、この「チョロQ」なのですが、僕は最初これを読んで、ある程度「プレミア化」を狙っておまけにしたのだから、こういう結果になったのは、「成功」なのではないかなあ、とも思ったのです。誰も見向きもしなければ、「おまけ」の効果はないわけですし。
 昨日テレビで観たニュースでは、今度発売される「韓国四天王」のうちのひとりの写真集は、「1冊は見て楽しむため、もう1冊は保存版」として、2冊一度に予約する人が多い、というエピソードが紹介されていました。こういうのは、僕が学生時代のころから、一部では当たり前のように行われてきたことではあるのですが。
 とはいえ、「本当の限定品」の場合、ひとりに買占められると「客寄せ」の効果がなくなってしまうので、こういう「買占め(しかも、買った本人はネットオークションで転売)」というのは、困った行為には違いありません。よくテレビに出ている「激安スーパー」の「100g1円の肉」だって、誰かが全部その値段で買い占めて、100g5円とかで転売されては意味がないのと同じです。
 さまざまな「ちょっとマニアックなもの」にも陽の目があたるようになったのは良い面もたくさんあるのでしょうが、その一方で、「素人のダフ屋化」もみられているんですよね。ネットを使って売りさばくのが簡単になったために「転売目的」で、買う人も出てきていますし。
 「山形の巨乳アナウンサー」とか「醍醐コミュニティーバスのチョロQ」なんていうのは、「インターネット時代」だからこそ、付加価値を生んでいるもののような気もしますが。

 「自分でお金を出して買ったものをどうしようが、客の勝手だろ!」と言われたら、なかなか反論するのは難しいところなのだろうし、この関係者だって、そこまで深刻に「頭を痛めている」わけではないとは思いますけどね。
 内心「なんでこんなものに…」と困惑してはいそうですが。
 
 コレクター魂って、こういうふうに拒絶さえるとさらにヒートアップしがちなんだよなあ…



2004年10月06日(水)
腕時計をしない人、外でサンダル履きの人

「あるようなないような」(川上弘美著・中公文庫)より。

【「腕時計をしない人は信用しないことにしてるのよ」という声が後ろから聞こえてきて、驚いた。特急列車に乗っているときだった。
 「腕時計をしないってことはね、万人の時間にあわせず自分だけの時間で生きることを選ぶっていうことなの。腕時計しない人は、今の世の中で最も貴重な人の時間を無駄にしても、心咎めない人に違いないのよ。全然信用できないわ」
 聞いていて、どきどきした。腕時計を、私はしないのである。
 「それから、もう一つ、サンダル履きでぺたぺただらしなく外を歩く人も、だめね」声は続く。
 「あんなしめつけのゆるいものを履いている人は、きちんとした生き方が出来ないに決まってるのよ」
 さらにどきどきした。夏はいつだってゴム草履でぺたぺた歩いているのだ、私は。少し改まった外出には、ゴム草履そっくりの形の皮製のサンダルを履く。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、この話の主は、【後ろのボックスをそっと窺うと、スーツをきちんと着た女の人だった。綺麗な人だった。】そうです。
 しかし、この人が直接自分に向かってこんなことを言っているのではない、ということがわかっていたとしても、やっぱり川上さんはいたたまれない気持ちではあったでしょうけど。
 僕は以前、心理テストで「腕時計は恋人の象徴」という話を聞いたことがあります。要するに、「腕時計をいつもつけている人は、恋人と常にベッタリ一緒にいることを望むタイプ」で、「必要なときしか、つけない」という人は、「恋人と用事のあるときしか会う必要を感じない」し、「多くの時計を状況に応じて何種類かを使い分ける」人は、恋人も「シチュエーションに合った人を何人かのうちから選ぶ」のだとか。まあ、こういう心理テストというのは、大概「当たっているような、そうでもないような」ものですから、あんまり深刻に考えても仕方がないのですが。
 ちなみに僕は、「必要なときだけつける」という感じです。そして、腕時計はしょっちゅうなくすし、本当に必要なときには見つからないことが多い気がします。

 よく「男の経済力は、時計と靴を見ろ」って言いますよね。スーツなどは仕事で必要な人はムリしてでも良いものを買うけれど、時計や靴までは、本当にゆとりがないと手が回らないものだから、って。とはいえ、この話がここまで人口に膾炙してしまっては、みんな注意するようになるでしょうから、現在ではあまり有効な「見分け方」ではないのかもしれません。

 それにしても、この女性の「人を信用する基準」というのは、あまりに表面的すぎるのではないかなあ、と僕は思います。
 確かに「時計がないと困る人」とか「サンダル履きが向かない職種の人」というのは存在しますし、いわゆる「お堅い仕事」の人が多いのでしょう。僕が以前勤めていた病院では、「医者のサンダル履きは、見栄えが悪いから止めるように」なんてことが、会議の議題になったこともあったくらいですから。
 逆に、「夏場はラクだし、手術場に入るときにすぐに脱いだり履いたりできて便利」なんて意見も現場からはあったんですけどね。

 たぶん、この女性は、ものすごく真面目な人なのだと思います。でも、【腕時計しない人は、今の世の中で最も貴重な人の時間を無駄にしても、心咎めない人に違いないのよ。】って、実際は、その人にとっての「他人」つまり、「私の時間を無駄にしないで」ということなのではないか、という気もするのです。こういう人とは、仕事上ではおつきあいがあっても、プライベートでお友達にはなりたくないなあ、なんて僕は身震いしてしまいます。サンダル履きにしても、日常生活では人に不快を抱かせないような格好であれば、責められる筋合いはないような気もしますし。
 さすがに僕も友人の告別式にTシャツ・ジーンズで来る人は「非常識」だと感じますから、そういうのには、人それぞれの「許容範囲」があるのには違いありませんが。
 「じゃあ、纏足(昔の中国で、女性の足のサイズが大きくならないように足を締め付けていた習慣)をしていた女性たちは、みんなきちんとした生き方をしていたんですか?」とツッコミを入れたいところなのだけどなあ。

 とはいえ、世の中には、こういう考え方をしている人がいるというのは事実ですし、「いる」どころか、けっこう多数派なのかもしれません。
 そんな自己完結的な「御高説」を聞かされている時間ほど、人生でムダな時間というのもないような気もしますが、こういう人は「持論を語りたがる」ことが多いんですよね。
 そう思うのは自由だから、自分だけで実行して「立派な人間」になっていればいいだけのことなのに。
 



2004年10月05日(火)
高齢者が「オレオレ詐欺」に引っかかってしまう理由

産経新聞の記事より。

【73歳男性 警察の防犯劇ヒント
 「オレオレ詐欺」とみられる不審な電話を受けた東京都文京区の無職の男性(七三)が、警察が企画したオレオレ対策の「防犯劇」を見ていたことから犯行を見抜き、教わった通りに「うちの名字は」と迫って相手の男を撃退していたことが五日、分かった。
 男性は「電話の男は、劇と同じで実に“名演”だった。劇を見ていなかったらだまされるところだった」と警察に感謝の言葉を寄せた。
 警視庁本富士署によると、九月二十八日午後、男性の妻(七一)が「おれだよ」とかかった電話を、おいからと勘違い。妻が一人でないと気付いた男はいったん電話を切ったが、翌日になって「友人の保証人になってしまった。相談に乗ってくれないか」と「本題」を切り出した。
 妻の話で「これが劇で見たオレオレ詐欺か」と気付いた男性が、教わった通りに「うちの名字を言ってみろ」と問いただしたところ、男は黙って電話を切ったという。
 防犯劇を上演したのは、九月中旬から本富士署員が結成、地域で活動している「本富士出前防犯劇団」。弁護士や警察官を装う新たな「オレオレ」の手口も紹介、不審電話では名字や名前を言わせるよう指導した。詐欺師役を務めるベテラン刑事は「オレオレ詐欺がなくなるまでやる」と、早速あがった成果に満足そうな様子だ。】

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 確かに、こういうふうに「防犯意識を高める」というのは、「オレオレ詐欺」のような犯罪への対策としては、非常に有効なのだと思います。「もしもし、オレ、暴力団の車にぶつかって、事務所に連れてこられて…」なんて「自分の身内かもしれない人」に電話で言われた場合、そういう犯罪があることを「知っている」かどうかというのは、すごく重要ですから。
 それにしても、この73歳の男性は、律儀だよなあ、なんて僕は思うのですけどね。逆探知でもしていて時間を稼ぐ必要があるならともかく、「怪しい」と思えば、わざわざ「名字を言ってみろ」なんて言うより、そのまま電話を切ってしまえばいいんじゃないの?という気もしますし。
 やっぱり、「もし本人だったら…」という一抹の不安があったのか、それとも、「犯人に目にもの見せてやろう」という気持ちがあったのでしょうか?

 僕は携帯電話の「拘束感」(要するに「携帯持っているんだから、いつでもどこでも電話に出るのが当たり前だろ?」という風潮のことです)が、とても苦手なのですが、とはいえ、携帯電話のメリットというのもけっこう大きいよなあ、と思っているのです。
 それは、「携帯にかかってくる電話は、基本的に知り合いからのものだから、出なくてはならない」というスクリーニングができるということです。携帯電話の電話番号というのは、電話帳にも載っていませんし、どこかの名簿から横流しされていないかぎり、知らない人からいきなりかかってくるということは、まずありえません。さらに、「非通知の場合には出ない」などの「きまりごと」を作っておくと(本当に用事がある人は、留守番電話に入れるはずですから)、「電話によるセールス」や、このような「オレオレ詐欺」などの不快な電話を受けなくてもすみますし。
 まあ、僕の場合はそもそも電話というのが嫌いで、家の固定電話に「楽しい用件」が入ってくることはない、という大前提があるので、家で商売をしている人や家族全員が携帯電話を持っているわけではない家族の場合は、そういうわけにもいかないのも事実なのでしょうが。

 家に来るハガキはダイレクトメールばかり、かかってくる電話の多くはセールスか「オレオレ詐欺」なんていうのは、寂しいというか、いたたまれないというか。外から求められるコミュニケーションの大部分がネガティブなものというのは、なんだかなあ。

 日頃高齢の人と接する機会が多い僕からすると、73歳男性!なんて書いてあるけど、73歳くらいで予備知識があれば、そう簡単にこんな手口には騙されないくらいの判断力はありそうなものだし、ことさらに「73歳!」を強調するのはどうかな、という気もします。
 でも、この73歳の男性の妻は、この話によると「オレオレ詐欺」に対する予備知識があまり無かったようなので、僕たちが「稚拙な犯罪」のように軽く考えがちな「オレオレ詐欺」というのは、かなり深刻な問題のようです。
 「バカだから騙される」というよりは「人を信じやすい、いい人だから騙される」というこの「オレオレ詐欺」というのは、許し難い犯罪なわけで。
 結局、被害者になっている高齢者は、ネットなどのメディアから遠いために、そして、テレビなどの「高齢者にとって身近なメディア」が、そういう『数字が取れないこと』を周知させるのに冷淡なために、被害者になりやすいんですよね。

 いっそのこと、高齢者のほうが携帯電話を持つべきなのではないか、とも考えてみるのですが。
 今の携帯電話は、話をするだけならそんなに操作は複雑ではないし、通話料の問題さえ改善されればむしろ「高齢者にこそ必要」な気もするのです。
 そうしたら、「携帯版オレオレ詐欺」とか出てきそうではありますが。



2004年10月04日(月)
「ワープロ」 vs 「書写」 vs 「日ペンの美子ちゃん」

毎日新聞の記事より。

【青森県の公立中学校で、「書写」の授業が学習指導要領で定めた時間を満たしていない実態が、県書写書道教育研究会(会長、米田省三・県立三本木高校長)の調査で分かった。米田会長は全国でも同じ傾向と見ており、「国語科全体の時間が減ったしわ寄せがきている。日本文化全体にも大変なこと」と危惧(きぐ)している。
 書写は毛筆や硬筆で書き方を学ぶ授業。現在の指導要領(00年度実施)は、中学の書写の時間を1年生で「国語科の10分の2程度」(年間約28時間)、2、3年生で「10分の1程度」(約10時間)と定めている。
 しかし、同研究会が県内一部の11中学校を対象に00年度の実態を調べたところ、1年生で規定通り授業をした学校は1校もなく、2、3年生でも1校だけだった。中には「夏休みの宿題とした」「授業初めの漢字練習を書写指導とした」など、授業として全く行っていない学校もあった。
 行わない理由には「授業時間の減少で、書写を確保するのが難しい」「教科書の消化に追われている」などの回答があった。県教育庁義務教育課は「指導要領通り実施されていると考えていた。早急に全体の状況を把握したい」としている。
 中学校教員経験の長い毎日書道会常任顧問、中野北溟(ほくめい)さん(81)は「書くことで伝統文化に根ざした文字文化への関心が生まれる。頭の中だけではなく体を通し、身に着けるという人間教育のうえでも(書写は)大事な役割を果たす」と話している。

 ▽押木秀樹・上越教育大助教授(書写学習内容論)の話 正しい文字を速く書く学習は中学校の書写にしかない。試験で速く字を書いたりするのに影響する。いかにパソコンが普及しようと字を書くことはなくならず、子供の学ぶ権利を侵す行為だ。】

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 僕は「字が汚い」とか「読みにくい」とか言われ続けて生きてきたので、確かに、「字がきれい」というのは、それだけで羨望の対象なのです。
 そういう意味では、昨今の「人に読ませる書類はワープロが当然」という文化の恩恵をものすごく受けているのですが、その一方で、年賀状がいかにも印刷だったりすると「手書きの風情が懐かしいなあ」なんて思ってみたりもするのです。
 ワープロが出始めのころは、ワープロで印刷してあるだけでも「本みたい」なんてみんな感心して、「読みやすくてキレイ」とそれだけ大学のレポートの評価も高くなっていたような記憶があるのですが、今となってはワープロ書きだと「他の人のレポートの丸写し?」と疑われたりするのがオチなのです。「同じものを作成する」という意味では、ワープロというのは便利すぎるところがあるのかもしれません。手書きのレポートであれば、仮に丸写しであっても「写すための手間」というのがありますし、写している間に少しは頭に入ったりもするわけですから。
 小学校の宿題の「漢字100字」(って、今もあるのでしょうか?)をワープロで印刷したら、全く効果がありませんしね。

 しかしながら、「キレイな字を書くことによるメリット」というのが、僕たちにとっては年々低下してきていることも確かです。どんな達筆な字も、ワープロより読みやすいってことはないし、授業時間がどんどん削られていくなか、学校から「習字の時間」が減らされていくのも、致し方ないかなあ、という気もするのです。同じように「文化」であった算盤も、今ではあまり優遇されていないようですし。

 とはいえ、こういう時代だから逆に「綺麗な字を書ける人」というのは、ものすごく魅力的に感じたりすることもあるんですよね。「字」というのはけっこう性格が出るものですし、筆跡鑑定なんていうのがあるくらい個性が出るものですから、日頃賑やかで明るい感じの人が、ちょっとしたメモなどに整然とした字を書いているのをみると、なんだかハッとさせられます。

 ところで、「綺麗な文字」といえば「日ペンの美子ちゃん」というのをご存知でしょうか?
(参考リンク:『日ペンの美子ちゃんア・ラ・カ・ル・ト』)
 僕はこれを書きながら「最近すっかり見なくなったな美子ちゃん、今の時代は、さすがに『習字』じゃないものなあ」と思いながら検索してみたのですが、美子ちゃんは、まだ現役だったのです。
 僕は小学生のころ、マンガの裏表紙によく載っていたこのマンガの「字さえうまければ、それだけで周囲の人から一目置かれたり、カッコいい彼ができたりする」という、あまりにも御都合主義の内容を苦笑しながら読んでいたものです。そんなの「ヒランヤ・ラピス」と同じようなものなんじゃないの?って。まあ、「美味しんぼ」だって似たようなものなんですけど。
 でも、これだけ美子ちゃんが長い間現役生活を続けているところをみると、「字が綺麗な人は幸せになれる」というのは「歴史的事実」なのか「伝統的な共同幻想」なのか、よくわからなくもなってくるのです。
 どちらにしても、「字が綺麗」というのは、少なくとも悪いことではないし、「自分の手で書く」というのは、記憶のためには「見えるだけで覚える」よりは効果的だと言われています。
 ただやっぱり、「学校の授業で何を優先すべきか?」と考えた場合に、目に見える効果が出にくい、というのは事実なのでしょうが。
 「美子ちゃん」も、以前は「伝統的な書道塾への挑戦」だったのだしねえ。




2004年10月03日(日)
「我が野球人生に、一片の悔いなし!」

毎日新聞の記事より。

【ヤクルトで98年に最多勝と沢村賞を獲得した中日の川崎憲次郎投手(33)が3日、現役引退を表明した。同日ナゴヤドームでの今季最終戦となったヤクルト戦に先発登板。一回を無失点に抑えた後に記者会見し「プロとして見せる球がなくなった。これ以上格好悪いところを見せられない」と理由を語った。
 川崎は2日に落合監督から来季の戦力外通告を受け、引退を決断したことを明かした。16年間のプロ生活の思い出としてヤクルト時代の4回と今年の中日の優勝を挙げ、「野球人生に悔いはない。人に恵まれ、自分は本当に幸せ者でした」と目を真っ赤にして語った。
 川崎は1989年に大分・津久見高からドラフト1位でヤクルト入団。鋭いシュートを武器に93年に日本シリーズで最高殊勲選手賞を受賞。98年には17勝を挙げて最多勝と沢村賞をダブル受賞するなどエースとして活躍した。通算成績は237試合に登板、88勝81敗2セーブ、防御率3.69。
 00年オフにフリーエージェント(FA)で中日に移籍したが、右肩痛で昨季までの3年間は1度も1軍登板はなかった。落合監督が就任した今季は開幕戦を含む2試合に登板したが、どちらも打ち込まれた。
 昨年は実績がないにもかかわらず、オールスターゲームのファン投票、先発投手部門で1位に。川崎は「他の選手やそのファンに申し訳ない」と出場を辞退するとともに、ファン投票のあり方にも一石を投じたことで話題となった。】

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 そろそろ「引退」とか「戦力外通告」なんて言葉を耳にする時期になってきました。川崎投手が、まさに「鳴り物入り」でヤクルトから中日に移籍したのは2000年のシーズンオフ。彼の明るいキャラクターはヤクルトの「名物」のひとつでしたし、チームにもかなりの愛着があったと思われたのに、中日に移籍したのは、正直なところ意外な気持ちになったのをよく覚えています。当時は、交渉担当者の「誠意」の問題だとか、年俸などの条件的な問題だとか言われていましたが、彼は大分の高校出身ですし、どうして中日に?と不思議に思ったものです。移籍先が巨人とかであれば、(僕はアンチ巨人なので)「いい気はしないけど、話としてはわかる」のですけど。
 中日に移籍してからの川崎投手は、怪我に泣かされて、まさに「鳴かず飛ばず」の状況でした。それでも、契約に従って、去年までの3年間は1軍での登板機会が全くなかったにもかかわらず、1年間に2億円の年俸をもらい、契約最終年の今年も、契約上年俸の最高ダウン率が25%までと決まっていたことから、1億5千万円の年俸をもらっていたのです。
 こちらでは「ノーモア川崎」なんて書かれてしまっていますが、川崎投手自身のファンのみならず、ヤクルトファンも中日ファンも「複雑な思い」を抱き続けていたのはまちがいないでしょう。
 陰でリハビリやトレーニングに励んでいたとしても「何も結果を残さないで、4年で7億5千万」というのは、「不良債権」に呼ばわりされても仕方ないところ。ましてや、ヤクルトファンにとっては「裏切り者」で、中日ファンにとっては「役立たず」なのですから、まさに立つ瀬がありません。
 去年の「オールスター事件」というのは、「ネットのネガティブな力」とまざまざと見せつけられた事件でした。2年半マウンドに立っていなかった川崎投手が、「ファン投票1位」でオールスターゲームに選出されてしまったのですから。
 「怪我で苦しんでいる選手に対する冒涜行為」というコメントが出る一方で、それは「何の結果も出せないのに『契約』で高額年俸を貰い続けていることに対する『報い』だという言葉も交わされていたのです。
 まあ、そういう「晒し上げ」のためにオールスターのファン投票が使われるべきではないのかもしれませんが、それにしても、その行為に賛同する人があまりに多かったというのも事実。
 今年も「意外な開幕投手」に指名されたものの、考えてみれば、これは最初で最後の落合監督の「予想外のオレ流」だったのかもしれません。実際、この起用以外の今シーズンの落合野球には、そんなにセオリー無視の采配はありませんでしたし。でも、あの開幕戦で川崎投手が打ち込まれたあとの大逆転劇が、結果的には今シーズンの中日の優勝に繋がったような気もするのです。

 今日の「引退試合」で川崎投手は、古巣ヤクルト相手に1回を投げ、3者連続三振にきってとりました。どんな思いでマウンドに立っていたかは想像もつきませんが、おそらく、「このまま引退してしまう悔しさ」と「やっと引退できるという安堵感」が入り混じっていたのでしょうね。
 端からみれば、「四年間何の結果も出せなかった人」でも、本人にとっては、本当に辛くて長い日々だっただろうし。
 「そんなに悔しいのなら、年俸返上しろよ」とか「契約が残っていてもさっさと引退しろよ」という声もありましたが、もし自分が川崎投手の立場だったら、「このままでは引退できない」し「今後の生活を考えたら、貰える給料は貰っておきたい」に違いありません。
 いずれにしても、川崎投手の事例は、「野球選手の長期契約」について、球団側にとっては大きな「反省材料」になったのだとは思います。

 【「野球人生に悔いはない。人に恵まれ、自分は本当に幸せ者でした」】
 ヤクルト時代は何度も優勝もして、「けっして不幸な野球人生」ではなかったのでしょう。
 でも、やっぱり「4年間も何もせずに給料もらえたしね」と言われてしまうのは仕方がないような気がします。陰でどんなに厳しいトレーニングをしていたとしても、2億円貰っているのなら、イヤミを言われるくらいの「責任」はついてまわるものだろうし。
 もしずっとヤクルトにいれば、同じ「怪我で引退」にしても、もっと違った感慨もあったのかもしれないけれど、その場合、おそらく年俸は大幅に下がり、4年間も待ってはもらえなかったとしても。

 そういう意味では、川崎投手は「運が良かった」のか「悪かった」のか、なんとも言えないところです。
 何事にも完璧な「幕引き」というのは、本当に難しいものですね。
 



2004年10月02日(土)
「ネットでできる」だけでは、何の価値もない時代

「批評の事情〜不良のための論壇案内」(永江朗著・ちくま文庫)より。

(山形浩生さんに言及した章の一節です)

【山形は『アマゾン・ドット・コム』(ロバート・スペクター著・日経BP社)という本の解説も書いているのだけれども、そのなかで指摘しているのは、アマゾン・ドット・コムを創業したジェフリー・ベゾスがプリンストン大学を優秀な成績で卒業して、証券会社や通信会社、デリバティブ会社を渡り歩いて(なかには最年少で副社長というポストを与えられた会社もあった)、そのうえで「インターネットで何ができるか。インターネットでなければできないのは何か」を熟考したうえで書籍販売に帰着したことを重視している。そして山形は、アマゾン・ドット・コムの本質は流通業であり、インターネットは販売ツールのひとつでしかないことを指摘している。つまり、デスクと電話帳さえあれば誰でもできるSOHO的なものとアマゾン・ドット・コムは根本的に違うのだ。アマゾン・ドット・コムは、IT関連企業ですらないといっていいかもしれない。だが、ベゾスはインターネットを使って情報のやりとりを高度高速化し、そこに意思決定と行動の迅速化を結びつけて巨大ビジネスにした。IT革命の本質とはここにある。】

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 大事なのは、「インターネットを使うこと」ではなくて、「インターネットというツールを利用して何をするか?」ということだ。
 僕にはここに書いてあることを完璧に理解できているという自信はないのですが、おそらく、こういう内容ではないのかな、と思います。
 そして、多くの「IT企業」が嵌ってしまっている「落とし穴」というのは、ここにあるのではないでしょうか。
 ネットを巡回していると、本当にたくさんのネットショップがあります。売られているものも、食品・電気製品・本・情報etc…と、本当にたくさんの種類があるのですが、正直なところ、「ここで何か買おうかな」と目に留まるようなネットショップというのはほとんどありません。それは、デザイン的な問題もあるのでしょうけど、「ネットで買うことに意義を見出せないもの」というのは、やっぱりあるんですよね。

 僕はほとんどネットで買い物をすることはないのですが、僕の周りにはネットショッピングを利用する人はけっこういます。そして、ネットショップで1ヶ月街の「人気のお菓子」なんてのを御相伴させていただくこともあるのです。でも、そういうものの中で「リピーターとして、何度も買いたい」と思うようなものは、ごくごく一部です。
 「確かに美味しいけど、近所のあの店のできたてのシュークリームのほうが美味しいね」というような結論が出てしまうことが、けっこう多いんですよね。
 とくに食品だと、どうしても商品ができてから手元に届くまでに時間がかかりますし。
 そして、ネットショッピングの「家にいながら買い物ができる」というのは、必ずしもメリットばかりではないのです。
 僕のようなひとり暮らしの20〜30代くらいの人間にとっては、家を開けている時間が1日の大部分を占めていますから、「家に送ってもらう」というのは、かえって面倒になってしまうことも多いんですよね。「宅急便が来るまで家で待っている」というのは、かえって時間のムダのような気もするし、不在者通知に対して宅急便会社に連絡をとって、予定を決めて、というような手続きは、かなり煩わしくも感じるのです。
 ごく一般的に流通しているもの、例えば村上春樹の「アフターダーク」を買うのであれば、ネット書店を利用するより仕事帰りにでも近所の書店に寄ったほうが、はるかに便利なような気もします。「ネットで買い物ができる」とはいっても、ケーブルを通じてその場で商品がダウンロードできるようなものでなければ、ネットショッピングのメリットというのは、まだまだ「田舎では見つけにくい商品を簡単に見つけられる」とか、「他の商品と値段の比較がしやすい」とか「関連商品をまとめて見ることができる(これは、amazonの大きなメリットだと思います)」というところなのではないでしょうか。

 「ネットショップ」というのは、世間ではかなり一般化しつつあるようなのですが、実際のところ、その売り上げは一部の「勝ち組」を除けば、けっこう厳しいものがあるのが実情なのではないでしょうか?何年か前にある雑誌で読んだ「ネットショップ開業記」の記事では、何人かが開業に挑戦して「1ヵ月で1万円も売れれば御の字」という結果が出ていました。
 簡単にそのへんで買えるようなものを買うために、「大丈夫かな、ここ」と思うようなネットショップにカード番号とかを通知するのは怖いですしねえ。
 売り手のほうは「ネットで買い物ができるんだぞ、すごいだろう」と思いこんでいても、買い手のほうは「このくらいだったら、自分で買い物に行ったほうが便利」というレベルのネットショップって、けっこう多そう。
 「ネットで買える」というだけでは、もう売れない時代なのです。
 こういうのって、個人サイトのオーナーの「どうだ、オレはホームページ作ったんだぞ、すごいだろう。きっと人気サイトになるぞ」という「主観的な評価」と、来訪者側の「こんなサイト、どこにでもあるし、珍しくもなんともない。つまらねえなあ」という「客観的な評価」のギャップにもよく似ているような気もします。

 「ライブドア」と「楽天」の争いを外野から観ていて思うのは、「この『時代の最先端のIT企業の人々」というのは、『インターネットで』何かをやること」にばかり目が向いていて、その「インターネットのメリットを活かせる『何か』について考えることがないのではないか?」ということです。
 「こんなこともネットでできる」のはいいけれど、「こんなこと」をやるための手段として、ネットというツールが優れているのかどうか、という評価が甘いのではないかなあ、と。
 例えば「ネットによる新球団のリアルタイム試合配信」なんて、「じゃあ、誰がそれを観るの?」って思いませんか?
 たぶん多くの人はYahooの無料の試合速報で十分だろうし、コアなファンはスカイパーフェクTVに入るでしょうから。
 amazonがアメリカの書籍販売で成功したのは、値段を下げたのと検索をしやすくしたからで、単に「ネットで本を売っていたから」ではないのです。
 
 「ネットで○○ができる!」というだけでは、誰も見向きもせず、「ネットで○○がラクに(もしくは楽しく、安く)できる!」でないと勝負にならない時代です。
 もう、インターネットは、「目的」じゃなくて、単なる「手段」でしかないのだから。