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2004年11月30日(火) ■ |
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「気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」 |
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読売新聞の記事より。
【電車内で高校1年の女子生徒(16)を取り囲み、体を触るなどしたとして、大阪府警少年課と泉南署が、岸和田市内の高校1―3年の男子生徒3人(16―18歳)と会社員の少年(17)を強制わいせつ容疑などで逮捕していたことが29日、分かった。 同じ車両に乗り合わせた他の大人の乗客数人は見て見ぬふりで、女子生徒は「恐怖で声も出なかった。気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」と、泣きながら話したという。 調べによると、男子生徒らは10月11日午後10時10分ごろ、阪南市を走行中の南海電車(4両)内で、女子生徒を無理やり座席に座らせ、両側から挟み込むように座った2人が約25分間にわたり、体を触るなどした疑い。残りの2人は座席の前に立ち、「もっとやれ」などと大声ではやし立てたという。 4人のうちの1人が女子生徒の同級生だったため、女子生徒側から被害届を受けた府警が捜査していた。】
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もちろん、こんな酷いことをする少年たちが、いちばん悪いのは間違いありません。でも、この【「気づいていたのに、誰も止めてくれなかった」と、泣きながら話した】という女の子の様子からは、彼女を傷つけたのは、この破廉恥な少年たちだけではなかった、ということが伝わってくるのです。もし自分がこんな立場になって、みんな見ているはずなのに誰も助けてくれなければ、人間不信に陥るだろうし。 とはいえ、これだけ少年犯罪が連日報道されているような世の中では、周りの大人たちだって、少年たちに対して恐れを抱くのはやむをえません。ここで「やめろ!」と、この性質の悪そうな少年たちを刺激したら、あとでどんな復讐をされるかわからない。そんなふうに想像すると、この「傍観していた大人たち」だって、「自責の念」を感じながら、見て見ぬふりをしていたのではないでしょうか。僕だって、その現場に居合わせたら、「まあ、同じ高校生同士のことだし、大人が口を挟んでも…」とか自分に言い訳をして、結局何もしなかったのではないか、という気がするのです。「どうして周りの人は助けてあげなかったんだ!」と憤る一方で、「そんな情けない大人」の気持ちもよくわかるのです。 おそらく今回の事件は、まさに「氷山の一角」で、実際には被害届けが出されない(あるいは出せない)この手の犯罪は、もっともっとたくさん起こっているのでしょう。 僕は最近、あまりに今の大人は子供に甘すぎるのではないか?子供を恐れすぎているのではないか?と感じることが多いのです。それは、小さい子供にしてもそうで、他人に迷惑をかける子供に対して厳しく接する大人は、どんどん減ってきています。なんといっても、「自分の子供はかわいいから、よそで何をやっても許されるのだ」という錯覚に陥っている親が多すぎます。そして、「多種多様な価値観」を認めようとするあまり、「なんでもあり」に陥っているのではないか、とも思うのです。何をやっても「子供だから」で、叱るにしても「他の人に怒られちゃうでしょ」。 「怒られるからやるな」では、「怒られなかったら、何をやってもいい」と勘違いする子供だっているはずです。「友達親子」とか言うけれど、20も30も年が離れた人間を、親子だからという理由で同じ感性を持つ存在として理解できるというのは、あまりに楽天的なのではないでしょうか。
実際は、古文書を解読したら「最近の若い者は…」と書いてあったなんて話もありますし、こんな腐ったガキばかりじゃないとは思うんですけどね。実際にこうして取り上げられるのは、極端な例ばかりだし。 とりあえず、僕がこれを読んで思ったのは、まずは大人たちが、もっと勇気を持たなくてはいけないなあ、ということ。本当は、子供というのは、大人が考えている以上に大人を恐れているはずだし。そして、そういう勇気が、もっと正しく評価される社会にしなくてはならない、ということです。「危ないから、他人のフリしておいたほうが安全だよ」というような「処世術」ばかりが評価される世界は、あまりにも情けない。 それでも、「じゃあ、暴走族が屯している中に飛び込んでいって注意する勇気があるのか?」と言われれば、「やっぱり怖いからダメ」なんですよね。こういうのには、やっぱり自分の「戦力」とか「状況」というのを考えずにはいられません。 日本という国だって、北朝鮮の横暴には「ヒドイ国だ!」と反論できても(それができるようになったのすら、つい最近のことなんだけど)、アメリカ軍の兵士が沖縄で起こした問題については、なんとなく口が重くなってしまいますし。 この大人たちだって、「もし自分が小川直也やヒョードルだったら…」と悔しい思いをしていたのかもしれないし、「力のない正義」というのは、少なくとも個々のケースに関しては、頼りない、絵空事にすら思えてくるのです。 その一方で、そういう「力への希求」こそが、際限のない争いの元凶なのかもしれないけれど。
それでも、もし僕がこんな光景を目にしたら、大人として、今度はがんばってみようと思うのです。ひょっとしたら、助けた女の子が、エルメスのティーカップとか贈ってきてくれるかもしれないしね。
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2004年11月29日(月) ■ |
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僕たちの「ドラクエ」と彼女たちの「ヨン様」 |
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産経新聞の記事より。
【二十六日午後零時十分ごろ、来日中の韓国の人気俳優、ペ・ヨンジュンさん(32)が宿泊していたホテルニューオータニ(東京・紀尾井町)の正面玄関近くで、ペさんを見ようと集まったファンの一部が転倒、十人が軽傷を負った。同ホテルによると、ペさんは事故後、「迷惑をかけた」と宿泊予定をキャンセルし、チェックアウトした。 ペさんは来日に備え、今回のような事故を憂慮して総額百億ウォン(約十億円)を超える傷害保険に加入しており、負傷者の治療費は保険から支払われる見込み。 警視庁麹町署の調べでは、負傷者は四十三−五十一歳の女性。現場では約千人のファンがぺさんの出発を待っていたが、正午ごろ、ホテル側が混乱を避けるため、ペさんがホテル内にいるにもかかわらず「出発しました。解散してください」とアナウンス。 ファンが帰りかけたところ、ペさんを乗せた車が正面玄関から現れ、ファンに取り囲まれたまま約三百メートル走行。大分県から来た女性(51)はタイヤに足をひかれたという。事故の瞬間、悲鳴と歓声が交錯。携帯電話や靴が散乱し、パニック状態となった。 ホテルや警視庁の打ち合わせでは裏口から出る予定だったが、ペさん側は事前の合意を守らず正面に現れたという。
≪事故で予定イベント中止 「胸痛む」ペさん、笑顔なく≫ 「事故が起こってしまい、笑顔で応えることができません。申し訳ない」。ぺさんは六本木ヒルズ(東京都港区)で会見し、深々と頭を下げた。約三百人の報道陣を前に約十分の会見では沈痛な表情。 「徹夜でホテルの前で待っている人たちを無理に帰すことはできませんでした」「非常に残念で胸が痛む。ファンの方が大きなけがでないよう祈っています」。ほほ笑みの貴公子、といわれた「ヨン様」から笑顔が消えた。 ペさんは都内で開かれる写真展や写真集の宣伝のため二十五日に来日した。この日は六本木ヒルズで、二十七日から始まる写真展の内覧会に出席するため、ホテルニューオータニを出た。事故で、ぺさんが出席する予定だったテープカットやトークショーなどはすべて中止となった。 年末恒例の「ベストドレッサー賞」を選考する社団法人日本メンズファッション協会はこの日、ペさんをインターナショナル部門で受賞者に選んだ。二十九日に帰国するため、三十日の授賞式は欠席する。】
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この「ヨン様」フィーバー、40代くらいの女性が中心になっているそうなのですが、こんな事故まで起こってしまって、ほんとうにバカバカしい感じもします。スタッフも、そんな状況で正面から出てくればリスクがあるということは承知の上で、それでも「熱狂的なファンに囲まれるヨン様」の映像が欲しかったのかな、とか勘繰ってしまいもするのです。来日前に100億ウォン(訳10億円)の損害保険にも加入していたそうですから。 それにしても、今回のヨン様の「誠実な」対応は、「怪我人が出るかもしれない」のを承知の上だったのかもしれないとしても、たいしたものだなあ、とは思ったんですけどね。 ただ、世間では、この「ヨン様フィーバー」を面白おかしく連日報道しているのですが、今朝のワイドショーでは、ヨン様の追っかけをやっている女性たちの半数くらいは、以前にもジャニーズのアイドルとか宝塚などの「追っかけをやるような、熱狂的ファン」だったそうです。そして、彼女たちは、「ヨン様は私のもの!」というような感じではなくて、むしろ、「ヨン様」というのはあくまでも偶像で、その「追っかけサークル」の一員であることを楽しんでいるかのように、僕には思えました。「ヨン様」というのは、中年女性が追っかけをやっても許される対象でしかないのかな、という気もします。「若い頃のときめきを取り戻したみたい」と言うのは、本当は「ヨン様のおかげ」ではなくて、「ときめきを取り戻したい」という気持ちが先にあって、ヨン様というのは、そのためのツールでしかなかったのかもしれません。相手が好きになっての恋愛というよりは、恋愛したいから相手を探すとか、そんな感じ。 それにしても、ヨン様というのは、よくできた人ですよね。今回の事件に対する対応も誠実だし、ファンも大切にしています。でも、そういう「完璧さ」みたいなのって、完全に今の日本の芸能界とは逆行しているのです。今は、「普通の人っぽい芸能人」のほうが人気が出る時代ですし、「裏の顔」とか「私生活」を売り物にしている人もたくさんいます。もしヨン様が日本の芸能界にいたら、「リアリティがない、本音が伝わってこない人」として敬遠されていたのではないでしょうか?そういう意味では、「ヨン様」というのは、この女性たちにとっては「誠実な男性像」というよりむしろ、「古き良き時代のアイドル像」を投影するのにふさわしい存在なのでしょう。今の日本にはいないタイプ、なのではなくて、「今の日本では売れないタイプのプロモーションのやりかたが新鮮」だっただけのことかも。 「ヨン様」というのは、僕たちの世代にとっての「ドラクエ」みたいなもので、もはや、本人の魅力の域を超えて「誰かとコミュニケーションする(友達をつくる)ためのツール」になっている面もありそうです。「ヨン様」という共通項で、仲間作りをするほうが目的になっている人も多いのではないでしょうか。僕の学生時代の記憶では、何かのファンになるのって、その対象そのものを自分で好きになるというよりは、その対象を好きな友達になんとなくつきあっているうちに夢中になってしまう、というパターンが多かったですから。
いや、僕だって、1万5千円の写真集が5万部即日完売するくらい儲けさせてもらえれば、ファンを大事にだってするし、満面の笑みだってがんばってつくりますし、いくらでもサービスしそうな気もするんですけどねえ。
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2004年11月28日(日) ■ |
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堀内社長と清原部長の不毛な権力争い |
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共同通信の記事より。
【巨人への残留を示唆している清原和博内野手について、堀内恒夫監督は28日、報道陣から清原と会談する可能性を問われ、「予定が詰まっていて暇がない。そんな暇はないんだよ」と冷ややかな態度を見せた。 堀内監督の起用法を清原が批判するような形となったことで、清原の去就に注目が集まっている。この問題について、滝鼻卓雄オーナーは26日に「しこりの残らない方法論をとりたい」と早期収拾を図る意向を示していたが、堀内監督は「オーナーの発言は聞いていない」と話した。】
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僕は巨人ファン・清原ファンではないのですが、この件に関しては、世間では「冷遇されている」清原選手に同情的な意見が多いみたいですね。「たかが選手」なんていった某オーナーのこともありますし、「選手の権利を守れ」という一連の動きもありますし。 でも、正直今の清原選手というのは、堀内監督、あるいは巨人というチームにとって「獅子身中の虫」であることは間違いないでしょう。球界きっての人気選手であることはまちがいないけれど、最近は怪我で試合に出られないことも多く、このようにマスコミを使って自分の意見を主張されては、堀内監督としては「面白くない」し、「指揮官としての沽券にかかわる」はずで。 これが野球チームでなくて一般の企業であれば、高額の給料をもらっていて、上司と折り合いが悪く、自分の派閥をつくってワガママを通そうとする、という社員がいれば、まず粛清の対象になるに決まっています。まあ、簡単にそうできないのが、「人気商売」の難しさなんでしょうけれど。 こういう影響力のある選手というのは、監督としては使いにくいはずですし、正直「やりにくい」のでしょう。それにしても、この堀内監督も「了見の狭い人」であることは間違いなくて、どちらにしてもあと1年契約が残っているのだから、わざわざ「公然と無視」してみせなくても、表面上は笑顔を作って握手して、試合で使えないようなら2軍で干してしまえばいいんじゃないかと思うのですが。「そんな暇はないんだよ」なんてマスコミ経由で間接的に戦うよりは、直接会って「チームのためにがんばってくれ!」とか言っておけば、それが建前だとわかっていても、誰も何も言えないはずなのに。「時間が無い」って言うけれど、話なんて1時間もあれば済むのだし、この二人、どんなに話し合っても心から理解しあえるわけもないからこそ、「形式」というのは大事なのです。
それにしても、こういうふうにお互いのプライドを守るために意地を張り合えば張り合うほど、もう後には引けなくなっていくものなんですよね。この二人は、まさにその典型例で。立場から考えれば、堀内監督のほうが、もう少しズルくなればいいんでしょうけど。来期結果を出さなければ自分のクビが危ない、という切実な事情があるにせよ。 でも、大人になったり、偉くなったりすれば、この手の「上司と部下の仲違い」というのは、けっこうよく見かけるものなのです。結局はどっちもどっちで、振り回される周りの人たちとしては、両者への信頼とモチベーションが、どんどん低下していくだけ、なんですけどねえ。
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2004年11月27日(土) ■ |
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英語が通じないイギリス、英語が通じるフランス |
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JRA(日本中央競馬会)の広告記事での、武豊騎手とF1レーサー・佐藤琢磨さんとの対談より。(11/23に読売新聞掲載分)
【インタビュアー:海内へ出て苦労した点はどんなところですか? 佐藤琢磨:僕は明確な目標があったので、慣れない土地での不自由な生活も、逆に目標に集中できてよかった。 武豊:2000年に騎乗の拠点をカリフォルニアに移したことがあって、その時は言葉の壁に悩みました。2001年には拠点をフランスに移したんですが、まだマシでした。フランス人は外国人がフランス語を話せるわけがないと思っているので、お互い片言の英語で会話して…。言葉の面ではイギリスが一番きつい。 佐藤:イギリス人は、世界中の人が英語を話せると思ってますから(笑)。 武:そうそう、えっ、話せないの?!という感じで(笑)。レース面では、海外では注目されていないので気楽でした。その分、周囲の対応が悪かった。なめられないよう、きつい乗り方をしていたら対応が変わりました。 佐藤:きつい乗り方って? 武:譲らない、引かない、押されたら押し返す、強気で制す。佐藤さんの走りも強気だよね。ヨーロッパGPでフェラーリのバリチェロとやりあってたし。 佐藤:挑戦して攻めていかなければチャンスはつかめない。それで接触しても、正しいと思ったことならひるむことはないですよね。】
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世界をまたにかけて活躍する2人の対談、非常に興味深く読ませていただきました。考えてみると、競馬とF1などのモータースポーツには、ある共通点があるのです。それは、「競技者本人の力だけでは、勝負に勝てない」という点。もちろん、水泳とか陸上とかの「競技者本人の実力」がクリアに反映されそうな競技ですら、トレーニング環境とか用具とかで、どうしても差が出るものではあるのでしょうが、競馬やモータースポーツで勝つには、どうしても「強い馬に乗ること」や「速いマシンのシートを得ること」が必要とされるのです。いくらミハエル・シューマッハでも、三輪車では僕が乗る自動車より速く走ることは不可能でしょうから。一般的に、これらの競技では、「実力のある騎手、あるいはパイロットに、いい馬や車が集まる」のですが、それとは別にスポンサーの意向であるとか、それぞれの選手や関係者の「政治力」みたいなものも要求されるのです。そういう点で、彼らには「日本人である」ということによって支援を受けられる面もあれば、不利な面もあるんですよね。 この武さんのインタビューに出てくる「カリフォルニアとフランスでの言葉の壁」を読んで、僕は留学経験者の先輩の話を思い出しました。「英語が得意」だったはずの先輩は、現地で仕事をする上で、やっぱり言葉の壁に最初は悩まされたそうです。 「だって、『お客さん』に対して話すときと、スタッフの一員として話すときとでは、全然話すスピードが違うし、こっちがわかっているかどうかなんて、いちいち確認してもくれないから、慣れるまでは相手が何を言っているのかわからなくて、本当に辛かった」とのことでした。そういうときには、同じアジアから来ている留学生の人たちが、すごく親切にしてくれたそうです。彼らも、同じような経験をしていたから。 英語というのは、ビジネスや学問の世界では「世界共通語」という認識をされていますから、「喋れないほうが悪い」というような感じなんですよね。僕たちとしては、今さら他の言語が世界征服をしたり、エスペラント語の復活を望んでもしょうがないので、それに適応していくしかありません。 彼らが「言葉の壁」に悩まされずに学会で発言したり、論文を読み書きできるのには、羨ましいのと同時に、「あいつらは英語圏で生まれたってだけじゃないかよ、ケッ!」とか内心毒づいてみたりもするのですけど。 ちょっと観光客として「聞こうとしてくれる相手」と話すには、日本人にとっては英語圏は比較的ラクなところなのですが、この武さんの話のように、「普通にパートナーとして接する」場合には、かえってハードルが高くなってしまう場合もあるようです。むしろ、お互いに片言英語のほうが「相手の話を聞こうという姿勢」があるだけ話が通じやすかったり、親近感もわきやすいみたいで。ほんと、英語圏の人々に対しても「お前らも少しは日本語を学ぶ努力をしてみろよ」とも思うのですが。 ただし、日本に短期免許で乗りに来る外国人騎手たちは、みんな日本語を学んだり、日本のファンや関係者に一生懸命アピールしています。ちゃんと相手の文化に敬意を表しているのです。「一流」というのには、そういう姿勢も含まれるのかもしれません。 そうそう、このインタビューからわかるもう一つのことは、「お行儀良くしていたり、つつましくしていたら認められず、強引にでも自分の力を誇示してみせないと一目置いてくれない文化というも存在するのだ、ということです。「なめられない」ためには、「礼儀」よりも「力」がないと難しいのかな、やっぱり。それとも、勝負の世界では、「力」こそが「礼儀」なのだろうか。
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2004年11月26日(金) ■ |
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浮気する遺伝子 |
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時事通信の記事より。
【女性が浮気するのは遺伝子のせい−。英セントトマス病院の研究者らは25日までに、このような傾向を示す調査結果を公表した。人の性的行動と遺伝的要因を明確に結び付けたのは初めてで、結果は来月出版される医学誌ツイン・リサーチに掲載される。 19歳から83歳の女性の双子1600組以上を対象に、過去の性的行動について聞き取り調査を実施。その結果、浮気をしたことがあるとした人のうち「遺伝的要因による」と判断されたのは41%で、これは遺伝の影響でがんなどの病気を発症する割合より高かった。】
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こちらが、そのイギリス・セントトーマス病院のサイト(英語)なのですが、この病院はずっと「双生児の研究」をやっているところなのですね。それで、こんなふうに「双子1600組以上」という多数のサンプルを対象にできたのだなあ、と僕は感心してしまいました。それにしても、1600組ということは、少なくとも3200人以上の人を対象に、「過去の性的行動」なんてデリケートな問題を「聞き取り調査」するなんて、「本当なのか?」と思ってしまうのも事実ですが。たぶん、この病院は、そのような研究に協力してくれる双生児たちを常に多数確保し続けている、ということなのでしょうけど、ある意味「セクハラ」だしねえ。 正直、この記事から僕が受けた印象は、竹内久美子さんの遺伝子論と同レベルの「トンデモ理論」なのでは?というもので、そもそも「浮気」の定義って何なのか?とか(パートナー以外の相手とどこまで行けば「浮気」なのか?というのは、議論が分かれるところではありますよね。「精神的浮気」まで広範囲に含めるのか、それとも、「肉体的な関係」が必要条件なのか)、考えはじめたらキリがありません。「遺伝子と浮気の因果関係」というのは、おそらく「遺伝子的に近い双生児では、ひとりが浮気していれば、もうひとりも浮気している割合が高い」=「遺伝子は、浮気しやすさに影響を与える」というような理論なのではないかと僕は予想しているのですが、そういうのは、遺伝子の問題というよりは、育ってきた家庭環境とかの問題のほうが大きいのではないのかなあという気もします。双生児の場合は、2人とも比較的類似した環境で育ってきた場合が多いでしょうし。 とはいえ、誰かの子供として生きていると、自分の親の絶対にマネしたくないようなマイナス面が、やっぱり自分にも宿っていることを自覚して愕然とすることは、おそらく大部分の人が経験してきているのではないでしょうか?「家庭内暴力の被害者であった子供は、親になると自分の子供に暴力をふるってしまうことが多い」そうですし。人間って、基本的には自分が体験したり、あるいは学んだりしたことしか行動を選択できない生き物だから。「家庭環境が複雑だった」という人は、恋愛行動において、ものすごく生真面目だったり、逆に奔放だったりする人が多いような感じもしますし。 もちろん「複雑ではない、理想的な家庭」なんて現実にはほとんど存在せず、みんな、多少は問題を抱えながら生きてはいるとしても。 結局、そうやって形成された「人格」というものが、どこまで「生まれつきの遺伝子的要因」で、どこからが「環境的要因」なのかは、当の本人には客観的な判断は不可能なんですけど。
病気の中には、「遺伝子の影響」が強いものが存在します。それは医学的事実で、それに対しては、「病気になりやすい人」への生活習慣の改善をお願いすることもありますし、病気の種類によっては、「遺伝子治療」以外には道がない、とう場合もあります。 しかしながら、浮気まで「遺伝子のせい」にしてしまうのは、はたしてどうなのでしょうか?それよりなにより、万が一「浮気遺伝子」が発見されたとしても、そんなのどうしようもないのでは。「浮気遺伝子への遺伝子治療」なんて認められないでしょうし、「オレの(あるいはワタシの)浮気は、遺伝だからしょうがない」という言い訳に使われるのが関の山、ですよね。 それとも、「あなたは浮気しやすいから、くれぐれも気をつけるように」とか、「生活指導」するのだろうか。現実には「浮気者」が、それで浮気しなくてすむとも、思えないんだけどなあ…
【附記】実は、この記事を読んだとき、「なんてトンデモな研究なんだ、どうせ自分の病院の機関誌とかに発表しているだけの『いっちゃってる人々』に違いない!」とツッコミを入れる気満々だったのですけれど、この病院のサイトの「研究実績」を見ていたら、"New England Journal of Medicine"とか、"Lancet"とかの「かなりちゃんとした(と世間的に評価されている)医学雑誌」にも、この病院からの論文が掲載されていて驚愕しました。研究の世界というのは、奥が深いというか、わけわかんないというか……
もっとも、逆にこの病院での研究だから、この「浮気遺伝子」理論もそれなりに評価の対象になったのかもしれませんけど。そういう「先入観」っていうのもあるからなあ。
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2004年11月25日(木) ■ |
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「娘。」「弘、」そして「美奈子.」 |
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サンケイスポーツの記事より。
【実力派女性ボーカリスト、本田美奈子(37)が「子」の後に「.(ドット)」を付け、「本田美奈子.」に改名したことが24日、わかった。 都内ホールで行われた25日発売のクラシックアルバム「時」(コロムビア)の発表会見で明らかにした。改名については、「ドットを付けると画数が31画になり、開運のために変えました。いつでも歌手として人として女性として輝いていたいのでドットを付けました」と説明した。 「時」はソプラノボーカル集。14曲中「人知れぬ涙〜オペラ『愛の妙薬』より」や自作詞「エデンの東」など4曲をソプラノで歌いあげた。 12月1日に東京・北の丸の日本武道館で行われる「アクト・アゲインスト・エイズ(AAA)」に参加、同22、23日に新宿文化センターでクリスマスコンサートを開く。】
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本田美奈子.さんの略歴はこちら。
僕の記憶の中の本田美奈子さんといえば、ヘソ出しの衣装で「マリリ〜ン」と歌っていた人、だったのですが、現在ではボーカリストとして非常に高く評価され、ミュージカルにも多数出演。それも、元アイドルとしての「客寄せパンダ」としてではなく、歌の力を評価されてということなのですから、なんだか不思議な気分にすらなります。「歌は上手じゃないけれど、かわいいアイドル歌手」だと思っていた人たちが、現在ではすっかり「実力派ボーカリスト」になっている例(たとえば、松田聖子さんとか中森明菜さんだって、アイドル時代には『歌唱力がある』なんて評価する人は少なかったのですから、トレーニングとか場数を踏むというのは、ミュージシャンにとっても大事なことなのかもしれませんね。まあ、大部分の人は、場数を踏む機会そのものが与えられなかったりもするのでしょうが。 本田さんは、単身アメリカにボイストレーニングに行ったりして、かなり努力をされたようで、「1986年のマリリン」の「一発屋」に終わるかと思われていたのに、実力派ボーカリストとして復権されたわけです。
それにしても、「本田美奈子」から「本田美奈子.」への改名、というか、「.」の付加価値というのは、いったい何なのでしょうか?ほかにこういう「記号つき芸能人」の代表選手としては、「モーニング娘。」や「藤岡弘、」さんなどが挙げられます。「モーニング娘。」は「。」まで含めてグループ名、と「ASAYAN」でナインティナインの2人が喋っていたシーンを今でも僕が覚えていたり、「藤岡弘、の「、」は、「まだまだ未熟、いまだ完成の域に至らず」という自省の念をこめてつけているのだ、とかいうことを知っていたりするというのは、やはり一部のマニアにとってはインパクトがある、ということなのでしょうね。僕が知っている藤岡さん情報なんて、このほかには、「元仮面ライダー」と「せがた三四郎」「マムシ注意の看板を自分で書いていた」ということくらいなのですから。「モーニング娘。」以来、「変わった付属物」というのもみんな慣れっこになってしまっているような気もしますが、まだ「それなりの意味と効果はある」のでしょう。 もし、「モーニング娘。」の「。」が無かったら、ここまで人気が出なかったのではないか、ともなんとなく思えてくるのです。日本語的には、名詞にいきなり「。」がつくのってヘンなのだけれど、その違和感をうまく利用しているのだなあ、と。逆に今では、「娘。」で通用してしまうくらいになってしまいました。 ところで、本田さんの「縁起のいい字画」という理由なんですが、「.」って、そもそも英語表現で、しかも記号なのだから、占いなどの「画数」に入るものなんでしょうか?そもそも「本田美奈子」だって固有名詞だし。 僕のノートパソコンにはテンキーがついていないので、この「.」を入力するのって、かなりめんどくさい、とかつい考えてしまうのです。 昔、五木ひろしさんが売れるまで何度も芸名を変えた、という話のように、売れなかったり、うまくいかない人が名前を変えて再起をはかるというのは理解できるのですが、今回の「.」は、いったい何を求めているのでしょう?僕にはよくわかりません。今は仕事もうまくいっているみたいだし、紛らわしいだけじゃないのかなあ… それとも、順調なようでいても、本人にはそれなりの苦悩がある、ということなのだろうか。 どうせだったら、「本田・美奈子」とか、「本田☆美奈子」とか、「本田美奈子Z」とかのほうが、面白いと思うんだけどねえ。「1画増やせば、すべてがうまくいく」ならば。
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2004年11月24日(水) ■ |
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「JFK暗殺コンテスト」という「不謹慎なゲーム」 |
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「IT mediaニュース」より。
【41年前の11月22日、ダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領をプレーヤーが再び「暗殺」する歴史シミュレーションゲームが登場した。さらに、このゲームを使った「暗殺コンテスト」が最高10万ドルの賞金付きで行われるという。 スコットランドのゲームデベロッパー、Traffic Managementが開発したゲーム「JFK Reloaded」は、プレーヤーが暗殺犯とされるリー・ハーベイ・オズワルドとなり、狙撃の腕を競う。 コンテストは2005年2月21日に締め切られ、暗殺に関する報告書のWarren Commission Reportに最も近い狙撃をしたユーザーに賞金が与えられる。ゲーム購入者は10回分の狙撃をコンテストに申し込むことが可能だが、追加で10回分の狙撃コンテスト申し込みトークンを購入(4.99ドル)できる。賞金は、最初に1万ドルが提供されているが、その後はトークンの購入代金が積み立てられ、最大で10万ドルの賞金が提供されるという仕組み。 ゲームの容量は13Mバイト。9.99ドルを支払うとデモモードが解除される。Windows 98以降に対応。Windows XPと800MHz以上のプロセッサ、NVIDIA GeForce 3相当のグラフィックカードを推奨している。】
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「参加料」約10ドルですから、日本円では1000円くらい、ということになりますね、この「JFK暗殺ゲーム」。ケネディ暗殺犯(とされてますが、実際には謎が多いと言われています)オズワルドの視点でこの事件を「体験」し、ケネディを狙撃する「ゲーム」だそうです。画面はかなりリアルで、実際にオズワルドがJFKを狙撃した地点から、ケネディの体を狙撃し、【暗殺に関する報告書のWarren Commission Reportに最も近い狙撃をしたユーザーに賞金が与えられる】のだとか。間違ってジャクリーヌ夫人を狙撃すると「減点」になるという「付加要素」なども入っているそうですよ。
僕は今朝のテレビで、このゲームのことを耳にしたのですが、当然のことながら、いまだにJFK神話が根強く残るアメリカでは、このゲームに対する非難轟々らしいのです。ところが、これを開発したメーカーは、それらの非難に対して、「これはあくまでも『歴史を追体験するゲーム』であり、このゲームを通じて歴史に興味を持ってもらいたい」とのコメントを出しているそうです。なんだかもう、そこまでやるのか…としか言いようがないのですけど。
この「JFK暗殺ゲーム」に関しては、僕も含めて、多くの人が眉をひそめるのではないでしょうか?実在の人物を「狙撃」して「スコアを競う」なんて、悪趣味極まりない。 しかしながら、そう言いつつ「ゴルゴ13」を楽しく読んだり、「架空の人間を狙撃するゲーム」を楽しく遊んだりしているのも、また事実。 「狙撃モノ」としては、フランスのド・ゴール大統領暗殺未遂事件をモチーフにしたと言われる、フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」という名作もありますし、「スナイパー」に憧れる人(とくに男子)は、けっして少なくなさそうです。 だいたい、このゲームだって、「人を狙撃するゲーム」だからモラルに反しているというよりは、「ターゲットが英雄・JFKである」というのが問題で、ビン・ラディン容疑者がターゲットだったら、あんまり非難されないのではないかなあ、という気がしますし。
「好戦的なゲーム」は許されるのか?というのは、長年議論されていることで、ゲームというのが誕生した当初から問題視されているのです。それこそ「兵士が単なる数字であらわされていただけの時代」から。 某ゲーム雑誌で、以前、太平洋戦争を扱っているシミュレーションゲームに対し「あの戦争をゲームにするのは冒涜であり、子どもに『兵士をひとりの人間ではなく、数字としてしか見られない』というような悪影響を与えるのではないか」という批判の投書がありました。それに対して、ゲーム制作者や雑誌サイドは、「ああやってゲーム化することによって、歴史に興味を持ってもらったり、当時の日本がいかに無謀な戦争をしていたのか理解してもらいたい」とコメントしていたのですが、僕は子供心に「この言い訳は苦しいな…でも、『戦争ゲーム』っていうのは、やっぱり面白いしなあ…」と感じたものでした。ゲームは「好戦的な人間の代償行為というか、ガス抜き」なんだ、という意見もあったのですが、それに対しても、「それを『代償行為』のままで抑えきれる人だけなのか?」なんて言われると、正直自信は持てません。「もしもボックス」があれば、「好戦的ゲームが有る社会」と「無い社会」では、どう違うのか見てみたい気持ちもあるんですが、実際にはそんなこと不可能だし。
この「JFK暗殺ゲーム」は、おそらく多くの人が「不謹慎」だと判断するでしょう。でも、その一方で、「どこまでが不謹慎なゲームなのか?」というのは、なかなか難しいところ。そもそも、そんな「線引き」が可能なのかどうか? 周りが思っているよりは、実際に遊んでいる人間は「ゲームはゲーム」だと割り切っているような気もするし、ゲームファンとしては、そう思いたいんですけどね…
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2004年11月23日(火) ■ |
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「熱烈なファン」という名の免罪符の傲慢 |
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日刊スポーツの記事より。
【NBAは19日のピストンズ−ペーサーズ戦で観客を巻き込んだ乱闘騒ぎを起こした両軍9選手に対して、厳重処分を科した。観客に暴行したロン・アーテスト(25=ペーサーズ)は今季の残り73試合すべてが出場停止になり、禁止薬物使用以外ではNBA史上最も重いペナルティー。9人で延べ143試合出場停止の大量処分で、主力を欠くペーサーズは厳しい戦いを強いられる。ピストンズもこの日のボブキャッツ戦に8人しか出場できず、第2延長の末の辛勝だった。 プロスポーツを根幹から揺るがす暴行事件に対して、NBAは類のない厳重処分を下した。「新ロッドマン」と呼ばれる破天荒なアーテストはB・ウォーレスとの乱闘で騒動の発端になった。さらに観客に襲いかかる暴走は重罪と見なされた。20日のマジック戦を含め今季残り73試合の出場停止処分。薬物使用以外では97年に監督の首を絞めて68試合の停止になったスプリーウェル(ティンバーウルブズ)を上回るNBA史上最も重い処分だ。 緊急会見でスターン・コミッショナーは、怒りと悲しみをにじませた。「NBAにかかわって21年になるが、最悪の事件。プロスポーツの手本にならなければならないのに、卑劣な行為だ」と選手に猛省を促した。NBAでは選手のマナー低下が問題になっている。毎年、新人研修会を行うなど対処してきたが、危ぐしていたことが現実となってしまった。今後、選手の指導を徹底する一方で、過激なファンへの対策や会場警備も検討し直すという。 処分を受けたのはペーサーズのロン・アーテスト(25)ジャーメイン・オニール(26)スティーブン・ジャクソン(26)と、ピストンズのベン・ウォーレス(30)ら。ピストンズは今後の試合で警官と警備員を増員する。 乱闘はペーサーズが97−85とリードした第4Q残り45秒に起きた。アーテストの反則から両軍もみ合いに発展。試合が中断していた際、氷の入ったカップがスコアラー席に横になっていたアーテストの顔面に当たったことで、アーテストが激高。スタンドに入ってファンを殴り、ジャクソンも加勢。さらにコートに入った客をアーテストとオニールが殴り、ウォーレスはペーサーズの選手と乱闘した。試合はそのまま打ち切りとなった。】
ちなみに、日本でもこんなことが(共同通信)
【Jリーグは16日、1部(J1)鹿島に対し、10月23日にカシマスタジアムで行われた浦和戦で一部の鹿島サポーターが禁止されている発炎筒などを使用したり、ピッチに乱入してMF本田泰人ともみあった問題で、けん責処分と制裁金100万円を科した。 観客席に空き缶を投げ返し、観客のピッチ乱入のきっかけをつくった本田は厳重注意とした。】
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それにしても、このNBAの乱闘騒ぎはものすごいというかなんというか…僕もその映像を観たのですが、選手同士でのコート内での乱闘ならともかく、スタンドにまで入っていって、ファンに殴りかかるというのは、やっぱり「暴挙」ですよね。もっとも、そのキッカケとなった心無いファンの行為に関しては、アメリカ国内でも、「アーテストが厳しく処分されるのなら、この『ファン』も、それなりの処分を受けるべきだ」という声も大きいそうです。もちろん、プロスポーツ選手ともなれば、多かれ少なかれ、ファンからの罵声を浴びせられるのも「仕事のうち」なのでしょうが、では、「ファン」がやることなら、どんなことに対しても耐え忍ばなければならないのか?と問われたら、「それはおかしい」と言わざるをえません。だいたい、こういう「迷惑なファン」のおかげで、この試合を観に来ていた大部分の良心的なファンは、試合が途中で打ち切られるという酷い目にあったわけですから。そりゃ、一部には、「歴史的乱闘の目撃者になった」ことを世論でいる人だっているかもしれないけれど。 それにしても、「ファンとしての流儀」がなっていない人というのは、けっして少なくないような気がします。僕だって、コンサートに行ったときに、後ろの席の女の子がずっとカラオケ状態で大声で熱唱していて、「オレはお前のコンサートに来たんじゃないっ!」と内心怒りまくっていたこともありましたし、野球の試合で、酔っ払って下品な野次を飛ばし続けるオッサンの隣の席になってしまい、終始息苦しい思いをしたこともありました(結局途中で帰りましたが)。コンサートやスポーツの試合で、「黙って正座して観ろ」なんていうのはあんまりですし、ときどき飛んでくる野次なんてのは、それはそれでひとつの「風情」みたいなものではあるのですが、やっぱりそれも程度問題。少なくとも近くに座っている人が困ってしまうような人は、「迷惑ファン」のカテゴリーに入れざるをえないでしょう。にもかかわらず、本人たちは「熱烈なファン」だと思い込んでいるのです。 余計なおせっかいなんだろうけど、どうしてそこまで他人のことに夢中になれるのか、僕には理解不能です。というより、自分の日頃鬱積した不満の捌け口としているだけなのにもかかわらず、「ファンを大切にしろ!」なんて相手に強制するのは、逆に「ファンの暴力」みたいなもののような気もします。「自分たちは『ファン』だから、『サポーター』だから、選手やチームは自分達に感謝し、言いなりになるべきだ!」って言うのは、あまりに理不尽なのではないでしょうか。「一般人」同士であれば、いきなり氷の入ったコップを誰かに投げつけたら、そりゃケンカになってもしょうがない。観客側には、相手は「公人」であり、「ファンを大事にしなければならないスポーツ選手」だから、やり返してこないに決まっている、という「甘え」があったと言われても仕方ないでしょう。日常生活で、あんなゴツイ大男にケンカを売るなんてことは、この「迷惑ファン」だって、まずありえないはずだし。 ある意味、これだけ情報が氾濫している社会になって、選手とファンの距離は、とくにファン側からすると、近づきすぎている面もありそうです。お互いに一歩引いて敬意を持って接すれば、こんなバカバカしい騒ぎは起きないはずなのに。 スタンドに殴りこみなんていうのは度を越した行為ですが、こうなる下地というのは、たぶんあったのだと思います。これからは、野球の試合でも、観客をファールボールから守るネットではなくて、選手を観客から守るためのネットが必要になるかもしれません。 「選手も人間で、オレ達と一緒だ!」と言うのなら、まず、自分の隣の人に迷惑をかけないようにしましょうよ、その人も「同じ人間」なんだからさ。
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2004年11月22日(月) ■ |
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「ドラゴンクエスト」が変えたもの |
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毎日新聞の記事より。
【人気ゲーム最新作「ドラゴンクエスト8」が27日、発売される。子どもたちが学校を休んでゲーム販売店の前に行列をつくるなど過去に社会現象ともなったビッグタイトルのため、発売元のスクウェア・エニックスは販売開始時間を午前7時に指定するなど発売前から話題を呼んでおり、400万本を超えることも予測される。】
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「ドラゴンクエスト8」、本当に今週末発売なんですね。毎回毎回待たされるので、逆に出るという実感が湧かなくなっているような気がするくらいです。今回はむしろ、いつもよりアッサリ発売されるなあ、と感じられます。毎回「年内発売予定」と言いながら、本当にその年の内に出たことはありませんでしたから。 「ドラゴンクエストの歴史」というのは、ある意味では、「ゲームという存在が、社会的に認知されていく歴史」でもあったのではないでしょうか。「ドラゴンクエスト1(便宜的に『1』をつけておきますね)」では、週刊少年ジャンプが異様に持ち上げている、有名人が大勢で作っているゲーム、という感じだったのですが、「1」を遊んでロールプレイングゲーム(以下PRG)の面白さにハマった人が続出したのです。「ドラゴンクエスト2」のときには、売り切れが続出して争奪戦が話題となり、朝のワイドショーで「これが、その『ドラゴンクエスト2』です!」なんて、たぶんゲームのことなんて全然知らない司会者が、なにか異次元からの物体であるかのように紹介していて、僕は「ゲームの画面がテレビの普通の番組に映し出されていたこと」にひそかに興奮していまったものです。それまでのゲームへの認知度というのは、ファミコン前までが「不良がやるもの」で、ファミコン以降は「所詮コドモの玩具」というのが世間の目だったので、この「陽のあたる場所」へのゲームの進出というのは、本当に画期的なものだったのです。 「ドラゴンクエスト3」では、ビッグカメラでの大行列が話題になって、「スーパーマリオブラザース」と肩を並べる「ゲームの代名詞」になりましたし。「RPG」を他人に説明するときには、「経験値を上げてキャラクターを成長させて…」とか長々と語るよりは、「ドラゴンクエストみたいなゲーム」と一言で済ませたほうが通りが良いくらいですからね。 ただ、その一方で、あまりの人気に「ドラクエカツアゲ事件」とか「学校を休んで行列に参加」とか、教育上望ましくない事件で槍玉に上げられることが多かったのも事実です。「正義の勇者として、悪いヤツらを倒して世界を救う」というゲームを、他人からカツアゲして遊んでも面白いのだろうか?と僕は思うのですが、「それはそれ」と割り切れる人もいるみたいなんですけどね。 まあ、最近めっきり発売間隔が開きまくっている「ドラゴンクエスト」シリーズというのは、ゲームファンにとっては「お祭り」みたいなもの。実際は、近所のセブンイレブンであらかじめ予約でもしておけば、この秋空の下行列しなくてもいいのでしょうし、そのほうがよっぽどラクダと思うのですが、「行列してでも手に入れたい」というよりは、むしろ「行列すること」も含めてのひとつのイベントなのかな、という気もします。
それにしても、「1」が発売されてから現在までの20年近くのあいだには、いろんなものが変わっていきました。「ファミコン」は「プレイステーション2」になり、デパートのオモチャ売り場でしか買えなかったゲームは、街のあちこちにあるコンビニや専門店で気軽に入手できるようになりました。以前は同級生に聞こうかどうか散々迷ったゲームの攻略情報は、ネットで簡単に知ることができます。そして、寒空の下、手持ち無沙汰で並んでいた人たちの手には、携帯電話が握られています。そして、ゲームの話題は、ゲーム専門誌だけではなく、ごく普通の趣味のひとつとして、世間に溢れるようになりました。ゲームの話題が、「カツアゲ事件」みたいなネガティブな内容以外で、こんなふうに新聞に載るなんて、20年前の僕は思ってもみなかったのに!
ゲームに対する人々の嗜好が細かく分かれてしまった今、「ドラゴンクエスト」というのは、最後の「共通項」なのかもしれません。僕などは、「8」で遊ぶ前からすでに、「きっと、これを遊んでしまったら、『9』が出るのは、また5年後とかなんだろうなあ…」と寂しくなりつつあるんですけど。
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2004年11月21日(日) ■ |
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ある億万長者のメールボックス |
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asahi.comの記事より。
【米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長に送りつけられる迷惑(スパム)メールの数は1日400万通近くに上ることが分かった。世界最大手のソフトウエア会社の創業者で、世界一の資産家でもある同氏が標的になっているようだ。ただ、同社によると社内の迷惑メール駆除システムを経て本人のメール受信箱に届く迷惑メールは数通だという。 同社のスティーブ・バルマー最高経営責任者(CEO)が滞在先のシンガポールで明らかにした。マイクロソフトには正規のメールと迷惑メールを選別する特別な技術があり、社内の一つの部署がほとんどまるごとその対策にあてられているという。 バルマーCEO自身も大量の迷惑メールを受け取っているという。同CEOは「当社の迷惑メール対策技術のおかげで、そのうちで自分の手元に届くのはわずか10通程度だ。もしみなさんが迷惑メールに悩んでいたら、社内の情報技術(IT)部門に対して、迷惑メール対策の最新技術を導入しているか問いただしてみたほうがいい」と自社技術のアピールを忘れなかった。】
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1日400万通なんて、普通のメールボッボックスなら、一日中受信し続けても受信しきれませんよね。さすがに凄いというか、凄すぎて想像もつかないというか… まあ、これを読んで思うのは、有名人とかお金持ちというのもラクじゃないよなあ、ということです。今の世の中では、普通の社会人でもイヤになるほどのパソコン上でのスパムメールや郵便物のダイレクトメール、勧誘電話などにさらされざるをえないのですが、世界一のお金持ちとして知られているゲイツ会長のところに送られてくるであろう、その手の「オトクな投資」であるとか「寄付の依頼」というのは、それこそ世界各国から莫大な数がやってくる、ということなのでしょうね。逆に、その400万通のスパムメールから、ゲイツ会長のもとに届けられる数通の迷惑メールというのは、どんな高度の技術を駆使しているのか、ちょっと気になりますけど。 それにしても、メールが使われ始めた時代の「メールが来ると嬉しかった時代」というのは、もう過去のものになってしまいましたね。「ポストペット」なんて、あっという間に「あの頃は良かったよねえ」なんて「回顧グッズ」化していますし。メールボックスを開くたびに、「来るな加奈!」「出ていけmiyu!」とか毒づいている人も多いのではないでしょうか。「配信停止」に送ったら、「使われているメールアドレス」ということが相手に知られて、さらにスパムが増えるらしいですし…
まあ、この記事を読んだ人の多くは、「ゲイツ会長とか、マイクロソフトの偉い人への大事な用件は、メールで送るのはちょっと不安だな」と思ったのではないでしょうか?なにしろ、400万通の中からだから、かなり厳しくスクリーニングしているのでしょうし、実際に読んでもらうための競争率は、ものすごく高そう。 「メール」というシステムの普及に大きな役割を果たしたはずのマイクロソフトが、今度は「迷惑メール退治は、うちに任せろ!」なんて言っているのは、まさに「マッチポンプ」という感じではありますし、「いい商売だよなあ」という気もしますけど。
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2004年11月20日(土) ■ |
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ある新入社員の人生を変えた、一冊の分厚い本 |
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「ファミ通」2004年11月26日号のコラム「浜村通信」(書き手・浜村弘一)より。
【いま週刊ファミ通の編集長をやっているバカタール加藤、加藤克明も、そんな修羅場の中から育っていったひとりだ。入ったばかりのころの加藤は長髪で細身。なかなかの男前だったように記憶しているが……記憶違いかもしれない。配属されてすぐにボクの隣に席をもらった加藤。でも、雑誌制作の経験はまったくなく、原稿書き、編集作業とも、ほとんどやったことがなかった。入って最初の数週間、加藤には仕事らしい仕事がなかった。せっかく出社しているのに、仕事をしないのは申しわけないと思ったのだろう。ある日、加藤はボクに、「何をやればいいか、教えてください」と聞いてきた。教えるといっても、編集業務は現場の作業の中で覚えるものがほとんど。勉強できることといえば、人の書いた文章をたくさん読むことくらいしかない。だから加藤には、「とにかくなんでもいいから、分厚い本を読め」とアドバイスした。ボクの机の上にある書籍でいちばん分厚いもの。それは知恵蔵だった。翌日から加藤は、朝早くに出社しては知恵蔵を読み、時間が来れば家に帰る。そんな毎日を送ることになった。取材から帰って席に戻ると、隣の席で知恵蔵を読みふける加藤。指示したのはボクだけど、さすがに不安になってきて、聞いたことがあった。「それ、おもしろいか?」。すかさず加藤は「けっこうおもしろいです!」と明朗に答えた。数日後、加藤はついに、知恵蔵を読破した。その報告を受けたときは、ある種、不思議な感動に襲われたのをいまでも覚えている。『サラリーマン金太郎』の主人公、矢島金太郎は、入社して数週間、庶務部で鉛筆削りばかりやっていたことがあった。それはとても辛い仕事だったと思うが、知恵蔵の読破とどちらを選ぶかと言われたら、ボクは鉛筆削りを選ぶかもしれない。】
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「毎日仕事場で知恵蔵を読んでいるだけの生活」って、考えようによっては、「リストラ部屋」みたいな感じですよね。いや、確かに読みなれれば「けっこうおもしろい」ものなのかもしれないけれど、そればっかり一日中やっているのは、かなりの苦行だと思います。入社してすぐの時期だったから「とにかく何かをやっていないと不安」だったのかな。 このエピソードを読んで、僕は今までも自分の周りにいた、何人かの加藤さんのような人たちのことを思い出しました。彼らは不器用で、他人よりも要領が悪くて、傍からみれば「そんなに真面目にやらなくてもいいのに」という感じの生き方をしていました。それこそ、同じ練習を毎日飽きもせずに繰り返したり、同じ問題集をボロボロになるまでずっと使っていたり。 でも、そういう「不器用な人たち」と競争すると、最初に「コツ」を掴むのは「要領のいい人」なのですが、時間の経過とともに確実に「要領のいい人」たちを追い抜いていくのは、こういう「不器用だけど、迷わずに自分がやると決めたことを一途に続けられる人」だったような気がします。「器用貧乏」という言葉がありますが、何かをちょっとかじっただけで「できたような気になる」という器用な人というのは、結局は「広く浅く」という感じになってしまうことが多いようです。 もちろん、器用なのは悪いことではないのですが、それ以上に、こういう「自分がやると決めたことを疑わずにやり続けられる力」というのは、長い目でみれば素晴らしい結果を生み出せるのかもしれません。まさに「ウサギとカメ」の童話のように。
「一途に目標に向かえる人」というのは、本当に可能性がある人なのだと思います。もちろん、その「目標」というのがマイナス方向であれば、これほど困った人もいないという気もしますけど。 それにしても、この「知恵蔵」一冊読め!って、結果的には美談だけど、イヤになって辞めたりしていたら、単なる新入社員イジメかも… 若いって、夢とか目標があるって、やっぱり強いよね。
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2004年11月19日(金) ■ |
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「サッカーは国と国との代理戦争」って言うけれど… |
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スポーツ報知の記事より。
【国際親善試合が17日、各地で行われ、イングランドは同国代表主将デービッド・ベッカム(29)、FWマイケル・オーウェン(24)が所属するレアル・マドリードの本拠地でスペインと対戦。地元観客から人種差別のば声が飛び交う荒れ模様の中、0―1でスペインに敗れた。試合後、英国のブレア首相が遺憾の意を表明するなど波紋が広がった。
政治問題に発展? ブレア首相「遺憾」 レアル・マドリードの本拠地サンティアゴ・ベルナベウが“修羅場”と化した。スペイン代表の国際試合500試合目を記念して行われたイングランド戦は、試合前から殺気にも似た異様な熱気に包まれていた。 試合が始まると、もはやサッカー場ではなかった。イングランド代表の黒人DFアシュリー・コールがボールを持つたびに、5万人を超すスペイン人サポーターが人種差別を意味するサルの鳴き声をまねる大合唱を続ける。それは後半途中に出場したMFシャーン・ライトフィリップスが出場した際も同様だった。 レアルに所属するMFベッカム、FWオーウェンが、興奮したFWルーニー、MFランパードら僚友をしきりになだめる。親善試合とは名ばかりのラフプレーの応酬。もはやベッカムもプレーに集中できる状態ではなかった。ほとんど何もできないまま後半15分に交代。「観衆のこういう(人種差別)コールは今まで聞いたことがない。驚いた。全世界のサッカーからこういうことは排除すべきだ」と訴えた。エリクソン代表監督も「ああいう試合中の人種差別コールはサッカーの権威を汚す行為」と憤った。 試合前日の会見に伏線があった。スペイン代表のルイス・アラゴネス監督が先月、アーセナルの黒人FWアンリ(フランス)に対して発した人種差別発言について、英国人記者が執ように質問を繰り返すと、怒った指揮官が「英国こそ植民地で何をしたんだ?」と過去の歴史を持ち出してやり返したのだ。 事態を重く見たイングランド・サッカー協会(FA)は17日、この問題について国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)に報告書を提出。スペイン協会にも強く抗議した。英国政府もトニー・ブレア首相、リチャード・ケイボーン・スポーツ相が声明を発表する事態に発展した。親善試合が両国に深い傷跡を残した。 ◆騒動の発端は ことの起こりは、スペイン代表が10月のW杯欧州予選ベルギー戦を前にした合宿中、若手有望株のFWレジェス(21)=アーセナル=に対し、チームメートのフランス代表FWアンリを引き合いに「お前の方があの黒いのよりずっとうまい」と発言。これに対し、英国、フランスのメディアなどが一斉に反発。一時は同監督の解任を求める運動にまで発展した。 ◆ルーニー暴挙喪章投げ捨て 【チェスター(英国)18日=森昌利】17日に行われたスペインとの親善試合で、新ワンダーボーイ、イングランド代表FWウェイン・ルーニー(19)=マンU=が、開始からけんかファイトを仕掛け、見かねたエリクソン代表監督に前半42分、交代を告げられた。その際、完全に頭に血が上ったルーニーは興奮。9日に死去した元同国代表主将エミリン・ヒューズ氏のために黒い喪章を付けていたが、ルーニーはこの喪章を投げ捨てる暴挙。18日付の英大衆紙は一斉に「大失態」「馬鹿な少年」と見出しを付け、ルーニーを批判。エリクソン監督は「彼はまだ若い。自分のやったことを知り、反省している」とかばった。】
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よく「サッカーは、国と国との戦争です!」と解説者席で断言している人(具体的には、ラモスさんとか)がいるのですが、僕はそういうコメントを聞くたびに、そんな「擬似戦争」にまで、勝利を目指す必要があるのだろうか?とか、でも、そういうのが「ガス抜き」になっているのだろうか?とか、考えてみたりするわけです。 先日の中国の「日本バッシング」とかを観ていると、「スポーツの世界での平等」なんて、所詮机上の空論というか、理想論でしかないのだろうな、なんて思いながら。 でも、そういう「野蛮な国」というのは、どうやら中国ばかりではなくて、この記事を読んでいると、イングランドとかスペインもそうなのだな、と思えてくるのです。もとはといえば、スペイン代表の監督が、フランス代表のアンリ選手を「あの黒いの」呼ばわりしたことが問題の発端らしいのですが、ここまでくると、もう水掛け論みたいになっていますし。それにしても、このスペイン代表のルイス・アラゴネス監督の一連のコメントというのは、一国の代表監督としては、あまりに幼稚というか、大人気ないものであることは間違いないのですが。 今回のスペインの観客のリアクションにしても、結局愚弄されたのは黒人選手ですし、そういう意味では「人種差別意識」というのは、根強いものなのだなあ、とあらためて感じさせられました。 こういうのが「サッカーの権威を汚す行為」であることは間違いないのでです。でも、その一方で、サッカーというスポーツがワールドカップなどを通じて過剰に「国家の威信」に関わっていたり、サッカーの結果が国家間の紛争に発展したりしているのは、そういう「国家間の代理戦争」という一面を、このスポーツが持っているから、でもあるのでしょう。日本人である僕からすれば、イングランドとスペインなんて、そんなに歴史的な軋轢がなさそうな国でさえ(そういえば、エリザベス女王の時代のスペイン「無敵艦隊」の敗戦、なんて歴史的事件もありましたけど)、こんなに大きなトラブルになっているのですから、アジアでの日本と中国の競技場での軋轢なんて、いたしかたないことなのかな、という気もします。 それにしても、「サッカーは国と国との戦争」であるならば、そこまで「代理戦争に勝つ」ことにこだわる必要があるのかな、と思ってしまうのも事実です。結局、人間っていうのは「争い」が好きな動物で、サッカーで代償されているうちは、まだマシなほうなのかもしれませんけどね。
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2004年11月18日(木) ■ |
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荒野の『ギター侍』 |
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スポーツニッポンの記事より。
【人気若手お笑い芸人・波田陽区(29)が17日、東京・池袋サンシャインシティ・アルパ噴水広場で、CDデビューライブを行った。メジャーデビューシングル「ギター侍のうた」を同日発売。持ちネタの「残念!」「って言うじゃない」「斬り!」の3つが流行語大賞にノミネートされるなど人気急上昇中。熱いパフォーマンスで、集まったファンらを沸かせた。 「♪流行語大賞〜、流行語大賞〜、ノミネート60個が決まったよ。その中でも“ヨン様”がNo・1大賞を取りますよ、って…言うじゃな〜い。でも…一番はやったのはヨン様ファンのオバさんですから!残念!だんな様はほったらかし斬り〜っ!」 イベント会場には平日の夕方にもかかわらず、土、日並みの2000人が詰め掛けた。太鼓や三味線など5人のバックコーラスを従え、新曲を披露。多くの長寿番組を持つ明石家さんまに対して「でもあんた結婚生活はすぐおわっちゃいましたから」、紅白歌合戦の常連の和田アキ子に対しては「でもあんたどうみても白組ですから」。 現在、人気急上昇中。侍の風貌(ふうぼう)にアコースティックギターを抱え、有名人を毒舌で“斬りおとす”スタイルがウケている。 日本テレビ「エンタの神様」に出演し、お茶の間デビューしてから約8カ月。これまで堺正章や関口宏、優香、小泉首相まで、斬ってきた著名人の数は100人に上る。 1年を振り返り「半年前までやっていたコンビニのバイトを辞めたぐらいで何も変わっていない」と謙虚なコメント。 しかし、先月29日に発売された著書「ギター侍の書」は10万部を売り上げ、12月1日にはDVD「ギター侍は波田陽区」の発売も決定するなど絶好調。 斬られたタレントから「許さない」と狙われているという毎日。「10年以上彼女がいない」と嘆くが、これから周囲の熱い視線を浴びる日々が続きそうだ。】
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大人気の「ギター侍」こと波田陽区さん。有名人を容赦なく「斬る」というのが持ち味なのですが、こういうスタイルというのは、人気が出れば出るほど難しくなってくる面もあるようです。先日は、某化粧品メーカーを斬ってしまったばかりに、そのメーカーがネタをオンエアしたテレビ局のスポンサーから降りるという騒動もありましたし。もっとも、【斬られたタレントから「許さない」と狙われているという毎日】というのは、どこまで信憑性があるかわかりませんけど。 コロッケさんは、モノマネしたタレントから感謝されているらしいし、「替え歌メドレー」の嘉門達夫さんは、♪きっと君は関西人〜(原曲は、山下達郎「クリスマス・イヴ」) とか、替え歌をやっているすべての原曲のアーティストたちに許可を得ているそうですし(中には、「どうしても使用許可がもらえなくて、お蔵入りになった」というネタもあるのだとか)。おそらく「ネタにされるのも有名税」という業界だから、芸能人同士では、内心面白くなくても、目くじらを立てにくいところもあるでしょう。もっとも、波田さんも「テレビでやれるネタ」とか「CDに収録できるネタ」というのは、「ステージ上の目の前の観客の目にしか触れない状況でやるネタ」とは、多少違っていたり、内容を変更せざるをえないところもあるかもしれません。今のように大人気になってしまうと、なおさら、ね。 井戸端会議でマダムたちが芸能人にどんなに酷い悪口を言っても、「ほとんど実害がない」ので訴えられたりはしませんが、これだけ露出が多くなってしまうと、良くも悪くも「影響力」が出てきますから。
「やたらと他人の悪口ばかり言っている人」というのは、「ある程度他人に悪口を言われても仕方がない」というのが一般的な感覚でしょう。となると、「ギター侍」は、本当にいつ刺客に斬りかかられてもおかしくないのも事実。「ネタ」だからといって、喜んで観てくれるファンだけではなくて、「斬られた人」のファンの中には、それこそ目の敵にしてくる人だっているだろうし。僕が「毒舌」で売っているタレントたちを凄いと思うのは、彼らは、他人の悪口を言うかわりに、自分への反感をも引き受けなければならない、という点なのです。誰も見向きもしてくれなければ、リアクションそのものが無いでしょうが、売れれば売れるほど、そういう「反動」も大きくなっていくはずだし。
今の「若手お笑い芸人ブーム」というのは、そういう意味では「ギター侍」にとっては、「喜んで斬られてくれる身内が多くて、助かっている」という面もあるのかもしれませんね。
…それにしても、こういうお笑いのネタって、文字で読んでもあんまり面白くないですね。 やっぱり、材料だけではなくて、「どう見せるか」というのが、腕のみせどころなんだろうなあ。
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2004年11月17日(水) ■ |
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恋する権利、恋される権利 |
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「ニシノユキヒコの恋と冒険」(川上弘美著・新潮社)より。
【恋とはなんだろうか。人は人を恋する権利を持つが、人は人に恋される権利は持たない。わたしはニシノさんに恋をしたが、だからといってニシノさんがわたしに恋をしなければならないということにはならない。そんなことは知っていたが、わたしがニシノさんを好きであるほどはニシノさんはわたしを好きでないことがつらかった。つらかったので、ますますニシノさんを恋しく思った。】
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「ダ・ヴィンチ」の2004年12月号の「夜回り先生」こと水谷修さんのインタビューの一部です。
【僕はね、小さい頃から本当に友達がいなかった。”自分は、自分は”だった。3歳で山形の寒村にある祖父母の家に預けられ、母親のいない淋しい暮らしをしていた。人に自慢するものなんて何もない、貧しいから周りは相手にしてくれない、と思い込んでいた。いい友達もたくさんいたはずなのに、ずっとひとりで生きてきた。大人になってもやっぱりそれは変わらなくて、周りとはぶつかるし、孤立していたんだ。自分の生き方を正直に生きれば、ずっとひとりでもいいと思っていた。そんな僕に生き方を、まっとうに受け止めてくれたのが子どもたちだったんです。僕を求めてくれた。友達にしてくれた。だから大切にするんじゃないかな。人から求められるって幸せなことだから。】
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ひとつは「恋愛」、ひとつは、恋愛だけではない「愛情一般」についての文章です。【人は人を恋する権利を持つが、人は人に恋される権利は持たない。】本当にその通りで、自分が誰かを愛することは自由だけれど、誰かに自分を愛することは強要できないはずです。でも、やっぱり「愛されたい」「必要とされたい」というのが、大部分の人の本音ではないでしょうか。 そして、「愛される」ということに人は慣れてしまいがちで、すぐに「愛されて当たり前」という驕りを抱いてしまうわりには、「愛されないこと」に対しては、なかなか寛容にはなりきれないものです。ほんと、褒め言葉には感謝をあらわさないのに、悪口にはすぐに反応してしまうというのは、僕にとっても他人事ではなくて。
「見返りを求めるのなら、それは『愛』ではない」と、よく言われます。「ただ、惜しみなく与えるものが『愛』である」と。 しかしながら、本当の「与えるだけの愛」というのは、まずありえないのではないかな、と僕は実感しています。もちろん「好意」とか「お礼」などとして即物的に返ってくることを期待していないとしても「自己満足」だって、ひとつの「見返り」ではありますし。 僕もどちらかというと「他人に頼るのが得意ではない」人間で、水谷先生の言葉は心に響きます。「他人になるべく迷惑をかけないように頑張って生きているのに、どうして愛されないんだろう?」なんて昔は思っていたけれど、今から考えてみると「誰も頼りにできない(甘えられない)人間というのは、誰からも頼りにされない」のかもしれません。人間というのは、僕が考えていたよりもずっと、頼られたい、という生き物なのだなあ、って。 実際は、僕が「頼っていなかった」と自分で思いこんでいた時代だって周りの人たちは陰に日向にものすごくサポートしてくれていたのですけどね。 そんなことにも気がつかずに、「頼らない自分」に酔っていた、という情けない話。
「愛される権利」なんて、誰にもないのです。もちろん「愛する権利」だって、過剰に行使してストーカーになっても困りますが。 「自分を愛すること」を誰かに強要するよりも「愛してくれる人」「求めてくれる人」を大切にしたほうが幸せに近いはずなのに、どうしてそういうわかりきった「妥協」ができないんだろう? でも、やっぱり「愛されたい」んだよね、みんな。
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2004年11月16日(火) ■ |
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でも、「恋愛下手」ですね。 |
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日刊スポーツの記事より。
【故田宮二郎さんの長男で俳優の柴田光太郎(38)が15日、紀宮さまとの婚約が内定した東京都職員の黒田慶樹(よしき)さん(39)を祝福した。柴田と黒田さんは、学習院初等科から大学までをともに過ごした30年来の友人。「クロちゃん」「しばちん」と呼び合う仲で、高等科時代は同じ写真部に所属。大学時代のゴルフサークルでも一緒だったという。婚約について「全く知らなかったので驚いたが、自分のことのようにうれしい」と語った。 柴田は黒田さんについて「誠実で信頼できて、清潔感のある人。でも恋愛下手ですね」と話した。10年ほど前、一部週刊誌が、紀宮さまのお相手候補として黒田さんの名を挙げた。仲間内で「クロちゃんどうなのよ? 」と冷やかすと、黒田さんは「そんな話か、ハハハ」と笑うだけだったという。 これまで独身だったことについて柴田は「僕もそうだが、クロちゃんも父親を亡くしていて『母親を大切にしたい』と常々、言っていました。その辺を気遣っていたのではないかな」。さらに「紀宮さまの和やかさと、クロちゃんの女性を包み込む雰囲気はぴったり合う。お似合いだと思います」と話した。】
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紀宮さま、黒田さん、とりあえずおめでとうございます。まあ、「婚約の内定」なんていうのは、「予約の予約」みたいでなんだかなあ、とも思いますけど。 実は、僕がこの記事を読んで気になったところというのはお二人のことというよりは、この「恋愛下手」という言葉なのです。日常用語としては、「あいつはオクテだからなあ」とか「手が早いからなあ」という表現は使いますし、「人付き合いが下手」なんて言ったりもしますが、考えてみると「恋愛下手」っていうのは、慣用句のようで実際には使われない言葉です。「じゃあ、恋愛上手っていうのは何なんだ?」とか聞いてみたくもなるし。
まあ、「恋愛上手」=「モテる」、「恋愛下手」=モテない、という意味であるならば、それはそれで理解できなくもないのですが、じゃあ、モテるからといって、いろんな相手をとっかえひっかえして落ち着かないような恋愛が「上手」かというと、ちょっと違うような気もしますし、たとえひとりの異性にしか愛されなくても、お互いにその安定した関係に満足できていれば、「下手」とも一概に言えないでしょう。 恋愛経験が多ければ多いほど幸せになれるっていうものでもないだろうし、モテる人が異性関係で破滅する姿というのは、けっして珍しいものではありません。 そもそも「すばらしいテクニックで異性を振り向かせることができる」というのは、「口説き上手」であって、「恋愛上手」とは違いそうだし。 おそらく、柴田さんの「恋愛下手」という言葉は、同性としての「アイツはいいヤツなんだけど、女の子に対しては積極的になれないんだよねえ」というニュアンスなんだと思いますし、悪意はないんでしょうけど。 たぶん、恋愛には「上手」も「下手」もないんですよね。「上手」にやろうとするあまり、失ってはならないものを失うことだってあります。「恋愛経験」だけが価値基準として語られがちですが、本当は、「自分がこの人、と思った相手にしかなびかない」というほうが、「誰彼構わずだけど、経験だけは豊富」というよりも、「恋愛上手」なのかもしれませんしね。
とはいえ、そういう漠然とした「異性にモテまくりの恋愛上手」な生き方に、僕だって憧れてもみるのです。結局は「マメさ」なのかなあ、なんて考えるのだけど、実践するのはやっぱり難しい。
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2004年11月15日(月) ■ |
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「一緒に酒を飲むこと」への過剰すぎるこだわり |
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共同通信の記事より。
【愛知県警港署は15日までに、自分の誘いを断ってほかの人と飲酒していた部下に腹を立て、車でひき殺そうとしたなどとして、殺人未遂の現行犯で、名古屋市中川区小碓通、運送会社役員中原守隆容疑者(34)を逮捕した。 調べでは、中原容疑者は13日深夜から14日未明にかけ、同市港区のパブで部下の三浦政光さん(29)=三重県四日市市別名=に殴るけるの暴行を加えた上、店の前の路上で乗用車を三浦さんの背後から低速で2度ぶつけた疑い。三浦さんは顔や手足に軽傷を負った。 中原容疑者は三浦さんを飲酒に誘って断られた後、社外の友人と2人でこのパブを訪れ、会社の同僚と2人で飲んでいた三浦さんを見つけたという。】
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このニュースを聞いた後だと「そりゃ、こんな上司と一緒に飲みに行くのは嫌だよなあ」と思う人ばかりなのではないでしょうか。一般的に、酔っ払ってトラブルを起こす人というのは、「常習犯」であることが多いようですし。 この34歳の会社役員のやったことは全くもってトンデモない行為で、到底許せないことなのですが、その一方で、この上司の怒りの原因というのは、僕にもなんとなく理解できます。 「一緒に飲みに行こう」と誘った部下が、「すみません、今日は用事が…」と言って自分の誘いを断ったにもかかわらず、他の同僚と飲みにきているという「浮気現場」を目撃すれば、やっぱり腹も立つでしょうから。 もし、この部下が一緒に飲んでいた相手が部下の恋人だったりすれば、おそらく「付き合いの悪いヤツだな」と苦笑しこそすれ、こんなトラブルにはならなかったような気がするんですが。 この場合の「自分の誘いを断って、他の同僚と飲んでいた」という状況ほど、「自分のことが嫌い(もしくは、疎ましいと思っている)」という真情を表している光景はありません。「飲みに行く時間があった」にもかかわらず、この部下は自分より同僚を選んだわけだし。 部下の立場からすれば、上司のお酒に付き合わされるというのは、けっして心楽しいことばかりではないでしょう。そういうお酒が好きな人もこの世には存在するのですが(中島らもさんは、若い頃、そんな「つきあい酒」の名手だったそうです)、大部分の人は、「楽しいフリをするのが上手いか下手か」という違いだけだと思います。この上司の場合、どうも、「自分の若いころは…」というような自慢話とともに、延々と説教しそうなタイプだろうし。 「そういう付き合いも仕事のうち」という上司は、現代でも少なくはないかもしれませんが、今の若者の本音としては、多くの人が「なんで仕事場以外でも、上司に奉仕しなければならないんだ…」なんじゃないかなあ。 こう言ってはなんですが、今の若者は上司と酒を飲みに行くより、家でゲームをやったりDVDを観たりしているほうが楽しい、という人も多いのです。ひょっとしたら、「上司のお酒に付き合う」というのは、夜にやることが無かった時代の遺物なのかもしれません。僕もそんなに付き合いが悪いほうではないと思うのですが、誘われたときに「この間は断ったから、今日あたりは付き合っておいたほうがいいかな」という計算を無意識にしてしまうレベルの「付き合いのよさ」ですから。
とはいえ、この部下のほうも、「遠慮させていただく」のであれば、その日は飲みに行くのは自粛するとか、せめて上司が行きつけの店は避けるというくらいの「配慮」は必要だったかな、とも思うのです。ここまでやる凶暴な上司はそんなにいないでしょうが、こういう気まずい光景は今夜も日本中で繰り返されているのでしょう。 上司からすれば、これほど露骨な「自分への嫌悪感を実感する行為」というのはあまりない感じがします。とくに「酒好きの人」にとっては、「酒の誘いを断られる」という他人の行為には、かなり「自分を否定された」ような印象を受けるようです。飲み会を好まない人がイメージする「ご遠慮します」とは、かなり大きなギャップがあるんですよね。
自分で思いこんでいるほど、酒好きの人って、「性質の良い酒飲み」ではないことが多いのです。そして、飲み会に興味がない人が考えているよりはるかに、酒好きの人というのは「誰かと一緒に酒を飲むこと」にこだわりを持っているのです。 この両者のあいだの壁は、日頃感じている以上に高いものなのかもしれませんね。
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2004年11月14日(日) ■ |
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謎のコカ・コーラ大国・日本 |
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時事通信の記事より。
【米清涼飲料最大手、コカ・コーラの中国市場復帰から今年で25周年を迎えたが、この間に中国国内で1日1000万缶強、総計1000億缶のコーラが飲み干されたことが14日までに分かった。北京五輪が開催される2008年までに中国は日本などを抜き、米国、メキシコに次ぐ世界第3のコーラ市場になる見通し。華僑向け通信社・中国新聞社などが伝えた。】
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最近何かと日本との軋轢が多いように感じられる中国なのですが、あれだけの人口を有する国でもありますし、豊かになればコカ・コーラの消費量が上がってくるのは、当然のことだと思われます。僕は逆に、「日本がまだコーラ大国であること」のほうに、むしろ違和感を感じたのです。 コカ・コーラ社のサイトによると、【大正3年(1914年)に出版された詩人・高村光太郎の処女詩集<道程>のある作品には、早くもコカ・コーラの名が見られます。しかし、日本でコカ・コーラの製造販売が本格的に始まったのは昭和36年(1961年)のことです。】とありますから、日本人の口に入るようになって90年以上は経過していますが、日常的に飲まれるようになってからは、半世紀にも満たない、ということでしょう。確かに、僕が小学生だった25年くらい前には、コーラというのは珍しい飲み物ではなかったけれど、子供にとっては、「御馳走の範疇」だったような気がします。あの炭酸も、慣れるまでは鼻がツーンとしたりして、そんなに美味いとも思えなかったのですが。 それに、当時は「歯が溶ける」なんてさんざん言われていたものだし。
今では、僕が大人になって自由に使えるお金ができたこともあり、コーラはたやすく買える飲み物になりました。でも、実感として、コカ・コーラは相変わらずものすごく有名なのですが、「コカ・コーラを飲んでいる人」というのは、そんなに多数派ではないような印象があります。 けっこうみんな「甘すぎるから」とか「カロリーを考えて」とかいうことで、日常的にはお茶やコーヒー(カロリーを考慮するのであれば、加糖の缶コーヒーというのは、あまり解決にはならないんですけど)を飲んでいる人のほうが、多いのではないでしょうか? それでも、こういう話を聞くと、日本自体が「清涼飲料水大国」なのか、コーラマニアみたいな人が、日本のどこかで大量消費しているのだろうか?などと考えこんでしまいます。いったい誰がそんなにコーラを飲んでいるのだろう? 大人になって考えるに、コーラって、アルコールが飲めない状況でのビールの代わりのような気もするんですけどね。
コカ・コーラ、マクドナルド、ミッキーマウス。アメリカ文化というのは、政治的な信条を超えて、「世界帝国レベル」に達しているのかもしれませんね。それが、「人種にかかわらず、美味しいと思える味」なのか、コマーシャリズムの成果なのかは、正直僕にはよくわかりませんが。
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2004年11月13日(土) ■ |
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「ネットバトルのしかた・十箇条」 |
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「まれに見るバカ女」(別冊宝島編集部・編、宝島社)の遙洋子さんの項より(書かれているのは、ルポライター・与那原恵さんです)。
【八〇年代、リブを知らない女性たちにとって上野(千鶴子、略歴はこちらを御参照ください)が「ヒーロー」となった遠い昔を、遙洋子は追体験しているのかもしれない。そう、上野が八〇年代のヒーローになり得たのは「論争だけはめちゃくちゃ強かった」からだと斎藤美奈子は書いているが、遙が上野に学んだ理由も、何より「みごとに勝ち続けている」からなのだから。そして遙は、「ケンカのしかた・十箇条」を会得する。 いわく、開き直る、「わからない」「○○って何」を連発する、相手の質問をそのまま返す。広い知識をもつ、ワクを越えた発想をする、言葉に敏感になることは大事。相手をふりまわすには、間をあけないこと。声を荒げない。そして以上すべてに通ずるのは勉強すること、だそうだ。 本人はケンカと言うが、つまり「論争」だ。こういう論争、楽しいですか。私はイヤですね。とくに十箇条前半部分の態度の人とは話をしたくない。お互いを理解し合う、その差異を認め合うという態度ではないと思う。全共闘の公開討論じゃあるまいし。 そういえば、こういう「ケンカ」をテレビでやるとバツグンに強い女性がいましたね、野村沙知代。先鋭的フェミニストに特徴づけられるのは、自分はゼッタイに正しいと確信する態度である。しかし、学問というものは、自らを疑うことが求められるのではないか。】
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遙洋子さんのサイトはこちらです。今回は、遙さんの主張とはあまり関係のないことを書きますが、ご参考までに。
この「ケンカのしかた・十箇条」は、そのまま「ネットバトル」にも応用できそうな感じです。 WEBサイトをやっていると、「世の中にはけっこう『議論好き』の人が多いのだなあ」と感心するのですが、正直なところ、僕は「ディベート」というのが苦手です。なんだかかみあっていない内容をお互いに投げつけあって、「結論を出す」ことよりも「相手を言い負かす」ことばかりに熱心な人ばかりのような気がするし、「ディベート好き」という人って、内容で相手を説得するというよりは、「テクニック偏重」の人が多いと思いませんか?「アラスカに住んでいる人々に氷を売るのがマーケティングの力だ」という有名な言葉があるのですが、極論すれば「ディベート好き」の人のなかには、「氷を売ることの意味」よりも、「氷を売ることができるという自分の技術の証明」を重視している人もいるような印象があるのです。 この「ケンカ(論争)のしかた・十箇条」を読んで、僕は暗澹たる気持ちになりました。確かに、後半の「広い知識を持つ」から「勉強する」という部分は基本的に納得できるのだけど(間をあけない、というのはなんだかまくしたてられているみたいでイヤ)、前半の【開き直る、「わからない」「○○って何」を連発する、相手の質問をそのまま返す】という光景は、テレビの画面上だけでなく身近なところでもよく目に(耳に)するものではないでしょうか。「ディベートのテクニック」の名の下に、こんなふうにエキセントリックに相手を攻撃して、あまりのとりつくしまの無さに沈黙してしまった相手を「論破」して喜んでいる人は、けっして少なくはないのです。 ネット、とくに個人サイトなんているのは、僕も含めて「何か言いたい人々」の集合体なわけですから、「ディベートしたい人」の割合が高いのは必然的だという面もあるでしょう。でも、「相手の話を聞く姿勢」がなくて、「オレが正しい!」という主張を大声でやるだけの「ディベートの達人」であることに、何の意味があるのでしょうか? 周りは納得したから黙っているのではなくて、辟易して黙っているだけなのかもしれないのにね。
本当の『ディベート』に必要なのは、喋り方や相手の困らせ方という表面上のテクニックではなくて、相手を理解しようという気持ちなのだと思いますし、大事なのは「自分が勝つこと(あるいは、勝ったような気になること)」ではなくて、「より正解に近い結論にたどり着くこと」のはずです。
あなたが欲しいのは「有意義な結論」ですか? それとも「優越感」?
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2004年11月12日(金) ■ |
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「ミスコン」をめぐる、京大の物騒な前夜祭 |
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京都新聞の記事より。
【京都大の学園祭で21日に開催が計画されている「ミス&ミスター京大コンテスト」をめぐり、学内で混乱が起きている。主催の学生グループに対し、反対する学生団体がジェンダー(社会的性差)やスポンサーの問題などを指摘し中止を要求。公開で話し合ったが物別れに終わった。京大は伝統的にミスコン批判が強いだけに、「京大初」という企画の行方に注目が集まっている。 コンテストは「第46回11月祭」の企画の一つ。1、2年生有志による実行委が、学園祭を盛り上げ「京大のイメージを良い方向に押し上げたい」と企画した。10月から募集を始め、男女5人ずつの候補者が決まった。当日は男女ペアのゲームやウエディングドレス姿で審査し、投票で初代のミスター京大、ミス京大各1人を決める。 これに対し、文学部や農学部の自治会を中心とする学生たちが反発し、メールなどで反対意見を出した。10日夜には公開の協議が開かれ、学生約50人が参加、双方の代表が約5時間にわたって議論したが平行線だった。 反対する学生は、性の商品化、スポンサー介入による商業主義などを問題視。女性候補者だけがある男性誌に掲載されたことを追及した。一方、主催側は、「容姿だけで選ぶのではない、企画規模からスポンサーは必要」といい、雑誌掲載については「企画の認知度を上げるため」とする。 近年では2002年に神戸大・六甲祭のミスコンが、反対で中止になった。「反対意見には分かる部分もあり、何とか妥協点を見いだして開催したい」と主催側。11月祭事務局は「板挟みで困っているが、民主的な解決を探りたい」という。 評論家・森毅さん(京大名誉教授)の話 早くも前夜祭が始まった感じやね。どっちにしても盛り上がってええんやないの。祭りの原則は盛り上げることと、今まで考えなかったことをやること。賛成派も反対派も既成概念を打ち破って新しいものを生むきっかけにしてほしいね。】
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この記事の一番の読みどころは、最後の京大名誉教授・森先生のコメントかもしれません。「火事と喧嘩は江戸の華」的な開き直った解釈というか、「お祭りなんだから、話題になったり、学内騒然となるのも悪いことじゃないさ」という一種の悟りの境地すら感じさせられます。「血の気の多い若い衆が集まってるんだから、しょがないや」という余裕。もちろん、当事者はそんなに悠長に構えてもいられないでしょうけど。
一時期は「女性蔑視の象徴」として槍玉に挙げられ、学園祭や公共のイベントでは忌避されてきた「ミスコン」ですが、最近の一般的な状況というのは、どうなのでしょうか? もちろん、地方自治体などが主催することはほとんどないのだとは思いますが(その代わり、「○○娘」なんていうのは、けっこうあるみたい)、あの「モーニング娘。」の大オーディションの影響からか、「男に品定めされる場としてのミスコン」というよりは、「女にとっての自己アピールの場としてのミスコン」というふうに捕らえている女性が増えてきて、一時期のような「ミスコンは女の敵!」という田嶋先生のような人は、そんなに目立たなくなってきたのかもしれません。 実は、僕がこれを読んで感心したのは、「京大って、今でもアツイんだなあ」ということでした。僕が通っていた田舎の少人数大学では、こういうイベントに対して「実行委員の人、がんばってね」という感じで、僕を含めたモラトリアム派の学生は、「学園祭なんて、かったるいなあ」というムードが漂っていたものです。それでも、始まってしまって少しお酒でも入れば、それなりに楽しんでもいたんですが。 たぶん、僕の大学でこういう反対意見とかが出ても、5時間も真面目に「議論」されるなんてことは、まずありえなかったでしょう。トラブルが起こりそうになったところで、実行委員が逃げ腰になるか、抗議する側が「相手にも友達がいるから」というような感じで手加減するかで、「落としどころ」が探られることになったはず。
僕は見目麗しくない人間なので、「ミスコン」というイベントそのものには、コンプレックスを刺激されるためなのかあまり興味も湧かないし、「ミスコンに出るような女性は、それだけでちょっとなあ…」とかうそぶいてみるような学生時代を送っていました。現実としては、僕が「ちょっとなあ」なんて言う以前に、相手から構ってもらえるわけもなかったのだけど。 それでも、「見た目の美しさ」というのは、才能というか、生まれつきのものだけではなく、「美しく見せるための努力」というのが不可欠であるということを考えれば、必死で勉強して「頭のよさ」「偏差値の高さ」を人生の武器にしようとする人がいるならば、自分の容姿を懸命に磨いて「見た目の美しさ」を武器にしようとする人がいるのも、また仕方がないことではないかな、という気もします。「容姿は努力したってどうしようもない!」って言うけれど、「努力したらできる」はずの勉強だって、結果的には努力をしない人のほうがはるかに多いわけだし。 それを「学園祭」というイベントの中の「コンテスト」で、顕在化するのが妥当かといわれれば、「京大に入ったくらい頭がいいはずの連中が考え抜いたアイディアというのが、単なる『ミスコン』っていうのは、ちょっとレベルが低くないかい?」というのが率直な印象なのです。 「真面目で頭がカタイ京大生」という世間のイメージを嫌ったのだろうか。
実は、「反対派」も話題作りのために実行委員たちが仕込んでいたりして。それなら、「さすが京大!」って感じもしますけど。
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2004年11月11日(木) ■ |
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「歯止めが利かなかった」66歳のオトコ |
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日刊スポーツの記事より。
【警視庁少年育成課と町田署は10日までに、児童買春禁止法違反などの疑いで、東京都調布市菊野台、医師当間正三郎容疑者(66)、都内の高校1年の少女(15)ら計3人を逮捕した。 当間容疑者は東京都北区中十条2丁目で内科・泌尿器科の診療所を経営。約5年前から患者の女子高生らに援助交際を持ち掛け、これまでに少女約70人と診療所内でわいせつな行為を繰り返し、ビデオで撮影していた。 調べによると、当間容疑者は6月、少女から紹介を受けた都内の高校1年の女子生徒(16)に6万円を支払い、診療所内でわいせつな行為をした疑い。少女は3万円の仲介料で当間容疑者に女子生徒を紹介した疑い。 当間容疑者は「自分では歯止めが利かなくなっていた。捕まってよかった」と供述している。】
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こういう「トンデモ医者」が登場するたびに、「医者ってやっぱりモラルに欠ける」なんて一括りにされがちな同業者としては、「捕まってよかった」なんて言うくらいなら自首しろよ、とか思わなくもないのですけど。 いや、こう言ってはなんですが、日本中に医業を生業としている人間は、何十万人というわけで、この人ひとりのせいで、「医者って反社会的」という先入観を持たれるのはなんだかやるせない。 しかしながら、「受診した女子高生に援助交際をもちかけ」とか「診療所内でわいせつな行為」なんてのを読むと、同業者としては「地に堕ちたな…」と情けなくもなるのです。そんなことされたら、普通の病院でも、若い女性は病院で診察を受けるのに、不安を抱くようにもなるでしょうし。 そして、診療所という「アンタッチャブルな空間」が、この医師のこんな行為の温床になったというのも事実でしょうから。 それにしても、僕を驚かせたのは、この猥褻医師の年齢が66歳という年齢であったことです。確かに閉経というひとつの区切りがある女性と違って、男性の場合は高齢でも生殖能力があるケースも珍しくはなく、ハリウッドスターなどは還暦を過ぎてからの子供というのもときどきみられます。とはいえ、一般的な日本人のイメージからすると、66歳というのは、「セミリタイア」という感じで、年金をもらって悠々自適、という年齢ではないでしょうか。 少なくとも、「自分でも止められないような性欲」をもてあましているような年ではないだろう、と30代前半の僕は、考えてしまうわけです。 この「66歳男性」が、異常体質ならいいのですが、正直なところ、「金があって」「自由にできる空間があって」「若い女性と手篭めにするチャンスがあって」という状況であれば、「歯止めが利かなくなる」男の高齢者というのは、けっして少数派ではないのかもしれない、という気もします。病院勤めをしていると、人間の「いつまで経っても、枯れてしまえない面」みたいなのを目の当たりにすることだってありますし。 もちろん、だからといってこんな行為に及ぶのは、人間として恥ずかしく、情けないことだと思います。この人は、66歳にもなって、今まで築き上げてきた社会的な地位も信用も失ってしまったのですし、この診療所も潰れ、家族も非難をあびることになるでしょう。猥褻な行為を行った女性が約70人で、この医師が一連の「行為」に使ったお金が合計一千万くらいだそうですから、相手にとっても「上客」だったから、ここまでバレなかった、のかもしれません。 そういう意味では、この窓口となった女の子にも問題はあるのですが、「未熟さ」を利用するというのは、大人としては恥ずべき行為です。
リスクを頭の中では自分でも認識していた(つもり)はずなのに、実際はこんなふうに行きつくところまで行ってしまうという、「性欲」というものの理不尽さと禍々しさ。年を取ったからといって、人間「枯れる」ばかりじゃなくて、若い頃なら「将来のためにならない」とガマンできていたことも、「何年生きられるかわからない先のことよりも、現在の快楽」という誘惑に負けてしまうこともあるのかもしれません。 「高齢者の性」というのは、本当に難しい問題ですね。お互いが大人で、それを望んでいて、可能な体であれば、年齢を理由に否定するべきものでもないでしょうから。「もう年なんだから」と他人は言うけれど、そういう「客観」と自分の本音の部分での「主観」の間の溝は、永遠に埋まることがないのでは。
「人間はいくつになっても、悟れない生き物」であるということだけは、きっと真実なのでしょうけど。
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2004年11月10日(水) ■ |
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その女は隣で、ほんとうは何を考えているのか |
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「ダ・ヴィンチ」2004年12月号(メディアファクトリー)の特集「江國香織をもっと知りたい」より。
(最年少で芥川賞受賞を受賞された綿矢りささんから、江國さんへの質問)
【綿矢:『マミーカー』から『熊とモーツァルト』までの『文学界』での連作小説、それから『間宮兄弟』などには熱心に野球観戦する男の人が出てきますが、江國さんはそういう男の人をどう思いますか?描写からなんとなく愛を感じるような気がするんですが……。
江國:どうだろう。熱心に野球観戦する男、というのは、反恋愛なイメージがあります。そういう男の人の隣にいると、私なら淋しくなるんじゃないかな。でも、そういう男の人を優しく眺める女の人に、ちょっと興味があります。男が野球に熱中しているあいだ、その女は隣で、ほんとうは何を考えているのか、とか。】
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僕は、綿矢さんの質問のなかに出てくる、江國さんの小説中の「熱心に野球観戦する男」の描写を読んだことはないのですが、自分を省みると「熱心に野球観戦をする男」の部類である僕としては、なんだかものすごく興味深いやりとりでした。 こういうのって、「野球観戦」に限らず、「電器屋のパソコンコーナーでいつまでも動こうとしない男」とか「競馬場でオッズが表示された画面の前で、ずっと考え込んでいる男」にも、あてはまるに違いありません。 世間には、いろんな女性がいるのだし、「正解」なんてないのかもしれませんけど、「自分の趣味じゃない場所で、自分のことを見向きもせずに何かに夢中になっている男」と一緒にいる女性というのは、どんな気持ちなんでしょうか? 僕の場合は、買い物に付き合わされても、「ちょっとオレ、本屋で待ってる」とか言って逃げてしまうパターンも多いのですが、世間のカップルには、相手のことをいつまでもその場で待っている女性って、けっこういるような気がします。正直「趣味じゃない場所で、ああやって付き合わされているのって、あんまり面白くないだろうなあ」なんて他人事としては思うんですけど。 とか言いながら、僕だって美術館で、一緒に来た人に「足が痛い!」と言われるまで気がつかずに絵を観ていて「しまった…」ということもありますから、偉そうなことは言えません。野球場で酔っ払ってクダまいたりされたら、「最悪!」って感じだろうなあ。
「一緒に待ってるよ」ってパートナーを優しく眺めている、というタイプの女性はけっして少数派ではないのでしょうが、僕は「そういうのって、つまらなくないのかな?」とか、つい思ってしまうのです。 「ひょっとして、優しい女だと思わせようとする計算なのでは…」なんて、ひねくれた考えが、頭をよぎってみたりもするし。
「そうやって、何かに熱中しているあなたが好きなの」とう言葉の裏で、ほんとうは、何を考えているのだろう?
だいたい、付き合いが長くなってくると「ああ、勝手に行ってくれば」って話になるんですけど……
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2004年11月09日(火) ■ |
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「偉人」野口英世、その栄光と挫折と狂熱と。 |
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福島民報の記事より。
【新千円札の“顔”として話題の猪苗代町出身の細菌学者・野口英世博士が、書生として青春時代を過ごした会津若松市の会陽医院で仲間と写っている貴重な写真が西会津町で見つかった。渡部鼎(かなえ)院長のもとで書生長を務めた同町出身の長谷沼兵作(のちに票策)の子孫に当たる長谷沼勉さん(49)=農業、同町新郷冨士字井戸尻1088=宅の土蔵に、他の数枚とともに眠っていた。新札の登場に合わせたように日の目を見た博士の若き日の面影に、関係者の関心が高まっている。
[会陽医院で撮影/机の上、両手見せる] スナップ写真の1枚は会陽医院内の一室。書物などが積まれた机のそばで博士と書生の長谷沼兵作、斎藤根之吉の3人が写っている。野口博士は写真に写る時、手術した左手を隠しているケースが多いが、この写真では両手を机の上に見せている。写真の裏には明治27(1894)年との記述があった。 野口博士は16歳だった前年の同26(1893)年5月から約3年間、医術開業試験受験のため、やけどをした左手の回復手術を受けた縁で渡部院長の会陽医院に住み込み、基礎医学や語学を学んだ。一方の兵作は、渡部院長の父思斎が西会津町で開いていた私塾「研幾堂」で学んだのちに会陽医院の書生となり、野口博士ら後輩の面倒を見ていた。のちに渡部院長が代議士になると一緒に上京したともいわれる。勉さんによると今の行政書士のような代書業を営んでいたという。昭和7年、東京で59歳で亡くなった。 一緒に見つかった写真は庭でのスナップ、渡部院長のポートレートなど。野口博士の医学の道へのスタートとなった若松時代の写真はごくわずかしか残っておらず、野口英世記念館の八子弥寿男館長は「これらの写真は初めて見るもので、特に院内と建物の写真は珍しい。新千円札発行とともに、11月9日に博士の誕生日を迎えるに当たり、日の目を見たのは大変意義がある」と話した。】
記事全文+写真は、こちらからどうぞ。
参考リンク: ひたすら一途…「狂熱」の人(野口英世博士を題材にした小説「遠き落日」を書かれた、渡辺淳一さんが野口博士を語ったインタビュー記事です)。
Doctor's Ink 『千円札の人・野口英世、その生涯について』 『野口英世・人類のために生き、人類のために死せり』
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今日、11月9日は、新千円札でふたたび脚光を浴びている、野口英世博士の誕生日なのだそうです。父親から「家は貧しく、左手が火傷で動かないにもかかわらず、不屈の努力で当時の日本では稀有な世界的学者になった偉人・野口英世」の話をさんざん聞かされた僕からすると、大学時代に渡辺淳一さんの小説で読んだ「遠き落日」での、酒好き・女好きで、身近な人々から多額の借金をしまくり、自堕落な生活を送りつつも研究の鬼でもあったという野口英世像は、衝撃的なものでした。裏を返せば、「研究熱心なこと意外は、単なる『困った人』でしかなかったともいえるわけで。 実際に、野口博士の業績というのは、医学の世界では「黙殺」されているに等しいもので、高校の歴史の時間に名前が出てくることはあっても、医学部の細菌学の講義で名前が出てくるということはほとんどなかったですし。 ただ、野口博士の業績が「誤っていた」原因は、渡辺さんも仰っておられるように、野口博士が追っていた病原体が、「細菌」ではなく、当時の顕微鏡では診ることができなかった「ウイルス」であったためですから、「運が悪かった」としか言いようがない面もあるのですが。 野口博士の一般的なイメージというのは、「左手のケガ」と教科書に載っていた「お母さんのシカさんの手紙」と「黄熱病の研究中に、アフリカで客死」というものだと思います。でも、そういう「偉人・野口博士」と「人間・野口英世」のギャップが18歳の僕には失望を与えたのは「失望」でしたが、今になって考えると、そういうコンプレックスや自堕落な面も併せ持っていて、自分の野心とか欲望に忠実な人というのは、ものすごくリアルで「人間らしい」存在だと感じられます。もちろん、実害を受けた人たちは、それどころではないとしても。 「偉人」レベルではなくても、実際に僕たちの周りにいる「凄い人」というのが、身内からみれば「困った人」「扱いが難しい人」であることは、けっして珍しいことではありませんし。 「偉人」というのは、「違人」であるのかもしれませんね。 渡辺さんの「狂熱の人」という言葉は、とにかく溢れる自分のエネルギーを何かにぶつけて生きざるをえなかった野口英世という人を、よく表現した言葉だと思います。参考リンクの『野口英世・人類のために生き…』に書いたように、日本では「業績が誤っていた」ということで医学界からは「黙殺」に近い扱いを受けている野口博士ですが、海外では研究者としての姿勢そのものが評価され、尊敬されている国もあるのですから、少なくとも「間違った生涯」ではなかったと思います。
それにしても、前にも書いたのですが、樋口一様さんとか野口さんとか、生前お金に困っていた人たちが相次いでお札のモデルになるというのは、なんだか皮肉な感じもしなくはないのです。
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2004年11月07日(日) ■ |
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「オリックス・バファローズ」から逃げ出す人々 |
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時事通信の記事より。
【分配ドラフトを翌日に控えた7日、オリックスと近鉄がそれぞれ最後の全体練習をした。 前日、球団から近鉄・礒部外野手のプロテクト除外を説明され、個別の意思によってプロテクトのメンバーが決まったことに「正直、モチベーションが下がっている」と川越投手は話した。早川外野手は「(どちらに行くか)少しどきどきしている。プロテクトは拒否できないものだと思っていた」と球団の姿勢を批判した。 近鉄は、練習終了後に選手会長の礒部が「チームはばらばらになるが、近鉄のユニホームを着てやったことに誇りを持って新しい所でも頑張ってほしい」とあいさつし、一本締め。プロテクト入りが確実な北川は「プロテクトされるのは選手としてはうれしいが、気持ちとしては合併球団ではやりたくない」と複雑な表情だった。】
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新規参入球団「楽天ゴールデンイーグルス」にすっかり話題を奪われてしまって影が薄くなった観もある合併球団・オリックス・バファローズですが、両チームに振り分けられる形になる選手たちの気持ちには、複雑なものがあるようです。 野球選手としては、実力を評価されて25人のプロテクト枠に入ることは名誉なことだとわかっていても、オリックスというチームは年俸や待遇などで「渋い」と言われているチームですから、とくに旧近鉄の選手たちにとっては、合併球団入りは内心歓迎したくない心境なのかもしれません。 どうせ新しいチームでやるのならと、資金も豊富そうでゼロからの出発という楽天に魅力を感じる選手も多いのでしょうし、あわよくばこの機会に他の人気球団に移籍を…と考えている選手もいるようです。 近鉄の選手会長で、合併に最後まで抵抗した礒部選手は、最後まで「心情的に合併球団でプレーするのには抵抗がある」という意志を貫いて、結局、プロテクト枠を外されました。今日の報道では楽天でプレーすることになりそうですが、オリックスの川越選手のコメントの【「正直、モチベーションが下がっている」】というのは、新球団の選手たちの本音なのではないでしょうか。 選手会長として合併を阻止できなかった悔しさは理解できるのですが、だからといって、自分の責任の中で誕生した(とはいっても、誰が選手会長でも、あの合併劇を阻止することは難しかったとは思いますが)「オリックス・バファローズ」に入りたくない、と元選手会長が駄々をこねるのは、周りの選手からすれば、あまりいい気持ちにはならないでしょう。 「礒部は、自分が球団にモノが言える立場であることを利用して、逃げるのかよ…」と内心面白くなく思っている選手もいそうです。 実力社会だから仕方が無い面もありますが、多くの選手たちは、「契約してもらえるだけでありがたい」と、自分の身の振り方を天に任せている状況なのに。 メジャー挑戦を表明している中村選手や合併球団入りに消極的と言われている岩隈投手などにしても、立場の強い選手たちは、結局はこの合併劇でも自分のワガママを通そうとしている姿が目立っています。中村選手などは、近鉄への愛着って言うけれど、今年の成績では不良債権と言われても仕方ないですし、梨田監督の下では、選手起用に対して自分が親交のある選手を起用するように口出しをしていたという噂もありますから、合併新球団としては「選手としては惜しいけど、あの年俸だし、メジャー行きでもいいかな…」というのが本音かもしれません。
礒部選手が近鉄消滅が決まったときに流した涙は、けっして嘘ではなかったと思います。でも、他人は「そのあとの身の振り方」について、けっこう厳しい目で見ているものです。合併球団入りを自分がイヤだと思うならなおさら、率先して合併球団でプレーするほうが「責任者としてあるべき姿」だという気がするんですけどねえ。イヤだと感じている選手は自分以外にも大勢いるわけだろうし。 「選手会長だったから、合併球団でプレーするのはイヤ」なんていうのは、「船長だったから、沈んだ自分の船なんか見るのもイヤだ」と言っているのと同じなのでは。 こういうゴタゴタを見ていると、「結局、こういう『自分さえ良ければ』という姿勢が、近鉄を潰し、野球界を衰退させているんじゃないか?」とも感じられるのです。
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2004年11月06日(土) ■ |
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「『天職』がどこかにあるはず」という幻想 |
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「週刊アスキー・2004.11.16号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。
(「ユニクロ」のファーストリフティング社代表取締役会長兼CEO、柳井正さんとの対談の一節です)
【進藤:早稲田大学をご卒業後、ジャスコに入社されましたが10ヶ月で退社されたそうですね。
柳井:面白くなかったからじゃないですか。僕自身が商売に向いていないんじゃないかと思っていて。ワガママだったんですよね。それでいまのままで勤めていても仕方がないなと思ってしまって。
進藤:なぜ商売に向かないと思われたんですか?こんなに向いていらしたのに(笑)。
柳井:結果としてはそうなんですけど(笑)。だから、僕はよく若い人に言うんですけど、自分が向いているとか向いてないとか、そういうことはやってみるまでわからない。ひとつの仕事を続けていけば、だんだん好きになって、けっこう自分でも向いているなって思うようになるんじゃないかって。
進藤:それにしても、向いてないと思われたのは、なにかそんな出来事があったんですか。
柳井:真剣に考えていなかったんでしょうね。僕、できれば仕事をせずに一生過ごしたかったもので。
進藤:それは私も大賛成(笑)!
柳井:ハハハ!だから、いまのフリーターの人みたいな感じだったんだと思います。世の中自体のことも、あまりわかっていなかったですし。】
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今日のお昼ごはんはラーメンだったのですが、そのラーメン屋は昔からある老舗で、スープはもう齢70くらいと思われる店主が、ずっと作り続けているのです。その店主がキビキビと厨房で働いている姿を見るたびに、「ああ、これってこのおじいさんの天職なんだろうなあ、こうして変わらない味のラーメンを日々作っていくのが生きがいなんだろうなあ」と僕は解釈していました。でも、考えてみれば、この店主だって、この店をはじめた当初、あるいは料理人として修行をはじめてからすぐ、「これが自分の天職だ」なんて思っていたのでしょうか? 僕は料理人の修行をしたことはないのですが、たぶん、修行をはじめて最初の頃は、「もうイヤだ、やめたい…」と考えたことは一度や二度ではないと思います。「料理人なんて向いてない」と感じたことだってあるでしょう。今から半世紀くらい前の「修行」の厳しさは、現代の比ではなかったでしょうし。 僕も研修医として仕事をはじめたときは、正直「ああ、向いてないなあ…」と毎日溜息ばかりついていました。手術とか内視鏡などの検査といった、自分のイメージにある「医者としての仕事」はほとんど何もできず、患者さんの診察をする以外は、上の先生の言うとおりの検査のオーダーをしたり処方をしたりするばかりで、いわゆる「雑用係」みたいなもので。その割りには、患者さんと看護師さんたちスタッフと上の先生たちとの板ばさみになることが多くて、本当に毎晩寝るときには、「明日が来なければいいのになあ」なんて思っていたものです。明日どころか、その30分後にポケベルで呼ばれたりするのですが。
でも、今はそれなりに自分ができることも増えたし、仕事にもやりがいを感じることが多くなりました。不思議なもので、自分の実力がつくと、それまで冷淡な態度だったスタッフも、それなりに仲間としての敬意を持って接してくれるようになったような気もしますし。 もちろん今でも「向いてないなあ」と落ち込むこともありますが、それでも、「向いていないなりの自己コントロール」というようなものも少しずつ身についてきました。 たぶん、最初の頃に「医者に向いていない」と思っていた僕は、医者だけではなく、「何の仕事にも向いていない人間」だったのでしょう。
「向いていない仕事に、いつまでもしがみついている必要はない」というのは正論なのだけれど、本当に「向いていない仕事か?」というのは、実際のところ、その仕事をある程度自分のものにしてみないとわかりません。 例えば、野球部に入ったばかりの1年生が、「練習が毎日ランニングと球拾いばかりだから、野球は自分に向いていない」と判断するのは、やっぱり勿体無いと思いませんか? 過度のシゴキやイジメはさておき、どんな仕事でも、自分の身につけようと思えば、辛い時代はあるものだろうし、逆に「何の努力もせずにできるような単純作業」は、長い目でみれば、面白くないような気がします。
とはいえ、仕事というのは難しい面もあって、個人的には優秀な研究者だからといって管理職としてスタッフをまとめる才能があるとは限らないし、素晴らしい営業マンでも営業部長として業績を上げられるかというのは、また別の話だったりもするわけで。 「名選手、必ずしも名監督ならず」という言葉がありますが、とくに組織に属する人間にとっては、同じ業種でも自分のポジションによって向き・不向きがあったりもしますから、本当に難しいところではあるんですけど。
この年になってようやくわかったけれど、「天職がどこかにある」というのは自分勝手な思い込みで、何かを自分の「天職にする」しかない、そういうことなのでしょうね、きっと。
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2004年11月05日(金) ■ |
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サッカー日本代表に「消化試合」は許されないのか? |
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共同通信の記事より。
【日本サッカー協会は5日、ワールドカップ(W杯)アジア1次予選3組最終戦のシンガポール戦(17日・埼玉)の日本代表18人を発表、ジーコ監督が代表チームに功績のあった選手を招集したいと提案し、注目された三浦(神戸)ら現役の元代表は選ばれなかった。アテネ五輪代表の大久保(C大阪)が9カ月ぶりに復帰した。 日本は既に5戦全勝で来年の最終予選進出を決めたことから、欧州組も招集しなかった。大久保以外はW杯1次予選のメンバーで、ジーコ監督は「選手たちの声を率直に受け止めた」と説明。チーム内は控え選手の出場機会を求める声が大勢であることを尊重した。 チームは9日に集合してさいたま市内で合宿。。選手は13、14日の天皇杯全日本選手権のためいったん所属クラブに戻り、15日に再集合する。】
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ジーコ監督が、「消化試合」であるシンガポール戦に、今まで日本代表を支えてきたカズこと三浦和義選手や中山雅史選手などを招集して、彼らの花道を作ってあげたい、と発言した当初の雰囲気は、「それもいいんじゃないかな」というものだったと思います。世間一般の「代表戦はなるべく観る」という程度の「サッカーファン」の多くも、「消化試合なんて面白くないし、いいアイディアだ」と考えていたのではないでしょうか。 でも、僕が予想していた以上に、このジーコ監督のアイディアに対する風当たりは強くて、結局、「出場機会が無かった、若い選手たちを試す」という方針になったようです。 僕としては、「せっかくのいい機会だったのに、残念だなあ」という気持ちと「確かにここで油断していたらダメだ。ワールドカップ出場そのものだってまだまだ遠い道のりなのだし、日本は『ワールドカップに出て当然の国』じゃないのだから」という気持ちが半々といったところです。
しかし、実際問題として、「若手を試す」ためのこのシンガポール戦、果たしてどの程度「テスト」のために役立つかは疑問のような気がします。いくら「真剣勝負」と言ってみたところで、シンガポールの選手たちにとっては「消化試合」の観は否めないものでしょうし、「できれば日本に一泡吹かせてやりたいけど、相手も若手の『お試しモード』だし、とりあえず試合をして、あとは日本観光だな」というレベルかもしれません。こんな試合で怪我したくもないだろうし。 出場機会に恵まれなかった日本代表の選手にとっては「雰囲気に慣れる」ことは大事なんでしょうけど、消化試合でのテストというのがあまりアテにならないのは、プロ野球の消化試合を観ていてもわかります。もちろん「試さないよりマシ」なのも事実ですが。
こういうエピソードを耳にするたび、僕は「やっぱり日本人は真面目だよなあ」と、考えてしまうのです。今年のオリンピックの野球の予選の最終戦で、日本を研究し尽くしていたオーストラリア代表は、わざとカナダ代表に負けて予選4位となり、予選1位通過の日本を準決勝で対戦するようにしたそうです。 でも、もし逆の立場で、日本が「負けたほうが先のことを考えれば有利」な状況であったとしても、おそらく大部分の日本人は「目の前の勝負にワザと負ける」という行為に納得できないという気がします。「相手に失礼」とか言う人も多いからなあ。 あのときのオーストラリアの立場で言えば、「予選最終戦のカナダ戦を全力で戦って勝ち、さらに準決勝でキューバに勝てばいいじゃないか」という発想が、日本の常識。 勝つことが将来的に不利になるような状況ですら、「全力投球」しなけばならないという、一種の強迫観念に囚われているんですよね。
僕はこういう機会にこそ「肩の力を抜くトレーニング」とか「負けてもいいから、試合を楽しむシミュレーション」をやっても良かったのではないかなあ、とか考えてもいるのです。常に緊張の糸を張り詰めていようとしても、人間の精神力には限界もあるのだし、こんな「機会」は、この先そんなにあるとは思えないから。 まあ、ジーコ監督が、普通の「親善試合」ではなくてワールドカップ予選でこんな「企画モノ」を考えたのも、「ワールドカップ予選じゃないと、なかなか盛り上がらない日本のサッカーファン」という背景もあったのだとは思いますけど。 この調子なら、「普通の親善試合」だって、なんらかの「次につながる意味」を求めてしまうものだろうから、どうせなら、この「注目される消化試合」くらい、往年の功労者たちのプレーを楽しみながら観たかったと思うのは、僕だけでしょうか?
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2004年11月04日(木) ■ |
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「楽天よ、ファンを大切にしろ!」って言われても… |
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河北新報の記事より。
【プロ野球の新球団「楽天イーグルス」の誕生を祝い、本拠地の宮城球場(仙台市宮城野区)で3日、行われた歓迎セレモニーで、雨のスタンドで待たされたファンの一部が怒りだす一幕があった。降雨で予定が狂ったのに加え、主催した宮城県の対応のまずさが手伝い、祝賀ムードにすっかり水を差された格好。「ファンを大切にしろ」と怒声も飛んだ。 県によると、セレモニーは当初、グラウンドで行われる予定だった。スタンドを一般客に無料開放し、楽天の三木谷浩史社長と浅野史郎知事とによる協定調印を盛大に演出する手はずだった。 ところが3日の仙台は朝から大雨で、県は球場2階の会議室に会場を変更。出席者は関係者に限定し、正午から約1時間、調印のほか、三木谷社長や田尾安志監督のあいさつなどのセレモニーを行った。 詰め掛けた約2000人のファンは行き場がなく、「最後に抽選会があります」との説明を受けて、ほとんどがネット裏で立ったまま傘を差して待ち続けた。この間、状況説明はほとんどなく、30分程度が過ぎたころから「どうなっているんだ」「スタッフじゃなくファンを大切にしろ」と怒りの声が飛び交った。 セレモニーは窓越しに公開され、会議室前の通路もファンであふれた。が、実際は声しか聞こえず、怒ったファンが「見えないぞ。座って取材しろ」と、報道陣を怒鳴り飛ばす場面もあった。 宮城野区の女性(69)は「テントを張るなどしてグラウンドで調印式を行えなかったのか」と怒りが収まらない様子。兵庫県からわざわざ来たという男性(46)は「関西なら暴動が起きている。スタンドにセレモニーの音声を流すなど工夫すべきだ」と不満をぶちまけた。 県宮城球場フランチャイズ支援局の担当者は「できる限りのことをしたが、必ずしもすべての人に満足してもらえなかったかもしれない」と済まなそうな表情。楽天広報部は「雨の中、集まっていただいたのに、不愉快な思いをさせて申し訳ない。11月中にファンの方々と対話できる機会をあらためて設けたい」と語った。】
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「楽天イーグルス、波乱の船出」という感じなのですが、仙台市民の9割は「先に名乗り出てくれたライブドアを応援していた」という調査結果もあり、この新球団が地元に受け入れられるかどうかというのは、これからの球団運営にかかっているのでしょう。 それにしても、この対応はいかにもまずい印象で、去年の日本ハムは北海道移転の際に、SHINJO選手の公開契約とか、とにかくファンにアピールしようと一生懸命だったのと比較すると、ちょっと「殿様商売的」という気がします。確かに、テントを張ってでもグラウンドでやるか、別の会場で行うかにしたほうが良かったのでしょう。 ただ、今回の新球団誕生の経緯には、福岡へのダイエーホークス移転とか北海道への日本ハム移転と違って、仙台市民にとっては「長年待ちに待ってやっと来てくれた球団」というより、「地理的な問題で、なぜか2球団(候補)が急に乗り込んできた」という感じなのではないでしょうか。もちろん、野球好きの人にとっては嬉しいには決まっているのですが、2004年に東北に新球団ができるなんて、地元の人でも今年の元旦には思ってもみなかったのでは。 「売り手市場」になってしまった仙台の人たちが、どこまでこの「楽天イーグルス」に対して愛着を感じられるかというのは、大きな課題です。僕はダイエーホークスが福岡に移転してきてから現在の人気球団になるまでの過程をずっと見てきましたが、ダイエーだって、移転してきた当初は、地元の人たちは「博多は西鉄ライオンズ(=西武ライオンズ)」という意識が色濃く残っていて、西武戦ではビジターの応援のほうが賑やかだったくらいですから。 そんな球団運営の困難をなんとか力技によって乗り越えた一方で、高塚前社長の不祥事のような「歪み」が出てしまったのも事実で。
今回の楽天の新球団というのは、正直言って、楽天側も「50年ぶりのゼロからの新球団」という状況にまだ対応しきれていない面もあるでしょうし(だって、「前例」は50年前ですから)、それはある意味「仕方のないこと」のような気もします。楽天のスタッフだって、今年の元旦には、自分たちがプロ野球の球団経営をやるなんて夢にも思っていなかっただろうから。 僕は、「ファンを大切にしろ!」とか「関西なら暴動だ」とか叫ぶ「自称ファン」の人たちにも、ちょっと違和感があるのです。今の「楽天イーグルス」にあるのは、監督の田尾さんとスタッフと三木谷社長とキーナートさんくらいで、肝心の選手はまだひとりもいない状態なのに、「この人たちは、いったい何のファンなのだろう」って思いませんか?確かに、爽やかなイメージの田尾監督にはファンも多いかもしれないけれど、今の「東北楽天」は、まだ名前だけの存在に等しいのに。 たぶん、仙台市民にとって、「長年待ち望んだ球団」であれば、ファン候補の人たちも「まだ球団側も運営に不慣れなんだから仕方がない」と大目にみてくれる面もあったと思うのです。 でも、「突然やってきて、先に名乗りをあげたライブドアを追い落とした楽天イーグルス」に対して「ファン」たちは、最初からかなり高いレベルの「手馴れたファンサービス」を要求しているように感じられます。いくらなんでも、それはちょっと難しいのではないでしょうか。
いくら資金があっても、あの老朽化した宮城球場を本拠地にして、合併球団のプロテクトから外れた選手と他球団から集めた戦力外や出番が少なかった選手、そして新人や外国人の寄せ集めチームが、一年目から「にわかファンが満足するような結果」を残せるほど甘くないと思うのです。どんなにがんばって選手をかき集めても、おそらく「レギュラーが怪我したら、その代わりに出てくる選手は大幅にレベルダウン」という感じでしょう。 それは、当然のことなんですけどね。
ゼロからの新球団なんだから、応援する人たちも一緒にゼロからの苦難を乗り越える覚悟がなければならないはずなのに、この「ファンとの温度差」というのは、けっして現時点では「楽天的」にはなれないものだと思います。 球場・気候・周辺人口と交通の便などからの今後の球団経営の困難を考えると、草葉の陰の人のほうが、むしろ「いいとこどり」だったのではないかなあ。
それでも、「ゼロからの新球団立ち上げ」っていうのは、ものすごく魅力的なコンテンツではあるんですけどね。
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2004年11月03日(水) ■ |
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「俳優というのは、本当にありがたい」 |
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2004年11月3日の記事「アジアンスター」のトニー・レオンさんのインタビュー記事より。
【インタビュアー:どんな役をやっても繊細でソフトなイメージが強いが、本気で怒ることはあるのか?
トニー・レオン:実はあまりないんですよ。映画以外ではね(笑い)。なぜかと言うと、とても運動が好きなので、普段の生活や撮影などでプレッシャーはあるのですが、運動で解消してしまうんです。だから、自分の暮らしが常に穏やかになります。もちろん、私も人間なので、みっともない一面もあるのですが、悔しかったり、怒ったりしても、その感情をその場で出すよりは、映画の役づくりに生かそうとか、前向きな方向に切り替えるようにしています。怒りや嫉妬があると、自分自身が不愉快になります。だから、いつも思うのですが、俳優というのは、本当にありがたい職業です。】
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日本の女優さんといえば、私生活でも「私は女優よ!」とマネージャーをどやしつけ、「灰になるまでオンナ」とかいう人が多いのではないか、というイメージがありますし、俳優さんも「役者魂!」というような方が目立つのですが、いまやアジアを代表する世界的スターであるトニー・レオンさんのこの発言というのは、民族性の違いなのか個性の違いなのか、とにかく僕には新鮮に感じられました。 彼の言葉は、ある意味ものすごく合理的なもので、世間で「不眠症」に悩む人のなかで、その要因として「運動不足」がある人は、けっして少なくないと言われていますし。 確かに、体を動かすというのは、ストレス解消のひとつの方法なんですよね。僕は運動嫌いなので、正直、あまり気乗りがしない手段ですけど。 ところで、僕はこのインタビューを読んで、こんなことを考えました。 「正直に、欲望に忠実に生きる」「自分の感情をありのままに出す」ということが、どんどん正当化されている世の中なのですが、はたして、そういう世の中が「生きていきやすい」のかどうか? もちろん、世界中の人々が「非暴力・不服従」のマハトマ・ガンジーのようになることは不可能だとしても、みんな何かをガマンしながら生きているというのが、正常な状態なのだと思うのです。 トニー・レオンは、「自分は俳優だから」と答えていますが、役者という仕事に限らず、多かれ少なかれ、生きているというのは何かを演じているということなのではないでしょうか。 「本当の自分」というのは、たぶん「自分で作ろうとしている『本当の自分像』みたいな、作為的なもの」にすぎないのに、それを理由にして、自分の欲望を正当化している人があまりに多すぎる、そんな気がしています。 例えば明治維新の日本を支えた人たちは、「プライドの塊」の「ええかっこしい」だと思いますが、現代人は「自分に正直に」という言葉に踊らされて、自分の生き方におけるプライドを捨ててしまっているというのは、悲しくて情けないことなのではないかなあ。
僕は、「本当の自分」なんて世界の何処にもいないと思う。 「自分」というのは、今ここにいる、ただそれだけのつまらないけれど、かけがえのない存在。 それでも、怒りや嫉妬は、絶えることもなく、どこからか湧いてくるのだけれど。
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2004年11月02日(火) ■ |
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あんたたちは、犬か! |
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「ああ、腹立つ」(阿川佐和子ほか・新潮文庫)より。
(有名人たちの「腹が立つこと」に関するショートエッセイ集の中から、阿川佐和子さんの「お犬様時代の憂鬱」より。)
【あるとき、飼い主の手から離れた大型犬が紐を引きずりながらこちらに飛んできた。誤って紐が手から滑り落ちたのだろうが、犬のほうは大喜びだ。解放感のあまり、あっちの家の壁、こっちのビルの入り口めがけて好き放題に放尿し、そのあげくに私に突進してきたのである。思わずキャッと悲鳴を上げたところ、飼い主は私に謝るどころか、「こら、○○ちゃん」と愛犬の名を呼ぶばかりで、ようやく紐をつかむと、ヘラヘラ笑って通り過ぎていった。 犬好き人間の最大の欠陥は、自分の犬を愛おしく思うがあまり、こんなかわいい犬を愛おしく思わない人間はいないと信じていることだ。犬が怖いと思っている人や、犬にそれほど愛情を感じない人間もいるということをまったく考慮していない。 だいたい、飼い主同士の会話を聞いていると耳をふさぎたくなりますね。 「まあ、エリザベスちゃんのお母さん」 「あら、ミケランジェロちゃんのお姉ちゃんだあ」 あんたたちは、犬か!】
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この「あんたたちは、犬か!」には、思わず吹きだしそうになりました。確かに、犬の母親やきょうだいは犬のはず。 それはさておき、僕も以前実家で犬を飼っていたので、やっぱりかわいい(そしてときには憎たらしい)生き物であるというのは理解しているつもりです。本当に、「家族の一員」という感じですし。 よく世間で言われている「犬に服なんか着せやがって!」というのも、正直違和感はあるのですが、飼い犬というのはけっこう寒がりで、うちの犬は寒くなるとコタツに入りこんできたりしていましたから、犬の本心としては、「じゃまだけど暖かいしなあ」とか考えているんだろうか、とか思うこともあるのです。ドックフードより美味しい肉とかのほうが好きだし、番犬やっているよりは、家でゴロゴロ(+ときどき散歩)しているほうが好きなんだなあ、と感じましたし。 「動物好きの人に、悪い人はいない」なんて言葉もありますが、それは一面の真実であると同時に、困った面も併せ持っているような気がします。「自分を悪い人だと思っていない人は、けっこう迷惑な人であることが多い」ですから。 僕の知り合いに、大の犬嫌いの女性がいて、その理由は「小学校時代に友達が犬に噛まれたのを目の前で見たから」なのだそうです。こうなるともうトラウマともいうべきもので、いくら周りの人が「犬ってかわいいのに」と説得しようとしてみたところで、その先入観というのは、なかなか拭い去れるものではないと思います。そりゃ、嫌いにもなりますよね。 でも、世間の「動物好きの人」は、自分の分身でもある愛らしく巨大な「エリザベスちゃん」を散歩させているとき、「エリザベスちゃん」が彼女のほうにじゃれて飛びかかっていっても、「あーらごめんなさいねー」とか、そういう感じのことが多いのだそうです。彼女は、身震いするほど怖い思いをしているというのに。 「嫌煙権」とがあるなら、「嫌犬権」だってあってもいいはずだ、と感じている人は、けっして少なくはないと思われます。 「人間のようにかわいがっているし、家族と一緒」おと言ってきながら、こういう悪戯や糞の処理などに関しては、「だって、犬なんだもの、しょうがないじゃない」という態度の人は、けっして少なくないような印象があるのです。 「犬のやることなら、なんでも許せる」なんていう「良い人」ばかりではない、ということを愛犬家の人々は、理解しておくべきでしょう。 ものすごく可愛いのは、よくわかるんだけど、他人に強要できない愛情っていうのもあるのだから。 とはいえ、「ミケランジェロちゃんの飼い主さん」というのも、ちょっとヘンではあるよなあ。
そんなことを言いながら、あまりにキチンとしつけられていて、飼い主の命令どおりに完璧に「動く」犬を見ると、それはそれで「動物らしくなくて、かわいそうだなあ」とか僕もつい考えてしまうんですけどね。
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2004年11月01日(月) ■ |
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天気予報の変人 |
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西日本新聞の記事より。
【「雨」のはずが晴れ、「晴れ」のはずが雨―。十月三十日から十一月一日朝にかけての福岡県内の天気予報が外れ、福岡管区気象台には、予報を見て週末の外出を控えるなどした市民らからの苦情・問い合わせが百件以上寄せられた。同気象台は「低気圧に伴う雨雲の大きさの予測がずれた。ご迷惑をおかけした」と平謝りだ。 同気象台によると、三十日の同県内は、九州の南にある低気圧の影響で終日雨が降ると予報。降水確率も60―70%としていた。しかし、当日は日本の北にある高気圧の勢力が強く、低気圧の雨雲が同県まで広がらず晴れたという。 気象台には同日、「外れたじゃないか」といった苦情などの電話が、多いときで一時間に約十五件、日中だけで計約百件かかったという。 一方、一日朝は高気圧に覆われ晴れると予報していたものの、福岡市内などで午前七時すぎから一時雨が降った。これは、日本海にある別の低気圧の雨雲が同県内にかかるとは読んでいなかったためという。気象台には、同日午前、数件の苦情電話があったという。 同気象台は「予報の精度が上がるよう、努力していきたい」と話している。】
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この「過剰反応」は、相次ぐ台風上陸や地震などの大きな天災で、みんなナーバスになっていることや、秋の行楽シーズンでもあり、休みを利用してアウトドアで楽しもうという人が多かったことが原因なのでしょう。
それにしても、確かに天気予報が当たらないのは困ったものではあるけれど、気象台に苦情の電話をかける人がこんなにいるということには、僕はちょっと理解できない気がするのです。 そりゃ、洗濯物を干しているときに雨が降ってきて、「天気予報では、ずっと晴れって言ってたじゃないか!」と腹が立つことはありますが、その腹立ちまぎれに電話を握りしめ、即座に気象台に抗議電話をかけるなんてことはありません。そもそも、気象台の電話番号なんて知らないし、わざわざ電話帳で調べたり番号案内で尋ねたりするほどの気力もありませんし、仮にそのステップにまで達したとしても、実際に抗議電話をかける前に正気に戻るはずです。「降水確率」とか「予報」という言葉そのものが、すでに「不確定要因を含むもの」であって、絶対確実なら「天気予定」でいいのだし「晴れor曇りor雨」があらかじめ決まっているものなら、雨が降る「確率」というのは、0%か100%にしかなりません。残念ながら、現在の自然化g区でも、天気を完全に予想するというのは不可能なのです。 そんなこと、みんな本当はわかっているはずなのに。
それでも、こんなふうに「抗議電話」や「抗議メール」を送る人というのは、後を絶ちません。僕はなんだかこういうのって、すごくイヤだなあ、と感じてしまうのです。報道の内容が偏向していたり、私人を傷つけるものであったような場合はともかく、天気予報の結果とかイラクで拘束されてしまった人の家族とかに「直接抗議する」ことによって、何かメリットがあるとは思えないのですが。 だいたい、こういう場合の気象庁や人質家族の対応というのは「平謝り」しかないでしょう。「外れるから『予報』なんだよバカ」とか「心配ではあるけれど、24歳の息子が今現在どこにいるかを100%親が把握している家族って、そんなに多数派なのか?」とか言い返したくなっても、それは自分たちの立場を悪くしてしまうだけのことだから。 でも、彼らが謝ったところで天気は予報通りになるわけでもなく、テロリストは人質を解放してくれるわけでもありません。 要するに、こういう「相手を謝らせるためだけの抗議電話をかける人々」というのは、「絶対に反撃されることのない安全な場所から、他人を一方的に責めたてて悦に入っているだけ」なのです。 「正義」を隠れ蓑にした、単なる「うさばらし」なんじゃないの?
そんなに気象台と仲良くしたいのなら、「今日の予報は当たって嬉しかったです。ありがとうございました!」とちゃんと当たったときも評価してあげないと、「不公平」なんだけどなあ。
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