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2004年06月30日(水)
「モスバーガー」の「モス」の謎

「思わず話したくなる 社名&商品名の謎」(田中ひろみ著・日本文芸社)より。

(「モスバーガー」の会社の『(株)モスフードサービス』の社名の由来について)

【じつは、モスフードサービスの「MOS」は、「Mountain(山)」、「Ocean(海)」、「Sun(太陽)」の頭文字を取ってつなげたものだ。
 「山・海・太陽」が象徴する、「自然と人間への限りない愛情」を込めて付けられた。
 また、「山のように気高く堂々と」「海のように深く広い心で」「太陽のように燃え尽きることのない情熱を持って」事業に取り組んでいこうという気持ちが込められているそうだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この本には、このようにさまざまな社名・商品名が集められているわけですが、あらためて考えてみると、そういう「名前」って、日頃耳慣れているものでも「なんでこの名前?」って疑問に思えてきます。
 「モスバーガー」の「モス」について、筆者は【思い付くのは、怪獣の「モスラ」くらい】なんて書かれているのですが、僕も「most」の略とか、創業者の名前かな、という予想でした。まあ、ハンバーガーさえ目の前に出てくれば、「由来を知りたい!」なんて気持ちも大概はどこかへ行ってしまいますし。
 それにしても、「Mountain(山)」、「Ocean(海)」、「Sun(太陽)」の頭文字、という説明は、あまりによくできていて、「本当に最初からそんなに深く考えてたの?」とか、つい勘繰ってしまうんですけどね。後半の「山のように気高く堂々と…」なんて、あまりに高尚すぎて、「風林火山」じゃないんだから、そんな大仰な!と後付け感が漂ってくるんだけどなあ。

 ちなみに「マクドナルド」は、【カリフォルニアのドライブインの経営者だったマックとディックの兄弟の愛称にちなんだ名前を、アメリカ「マクドナルド」の創業者がこの兄弟からフランチャイズ権を獲得して誕生したもの】で、「ロッテリア」は、【「ロッテ」のカフェテリア」という意味】なのだそうですよ。こちらはシンプル。

 実は、なんとなく語呂がいいから「モスバーガー」にしようかな?とか、そんな感じだったりして…
 まあ、「由来」は成功すれば後からついてくる、と。



2004年06月29日(火)
「電撃ネットワーク」と”Tokyo Shock Boys”

日刊スポーツの記事より。

【過激パフォーマンスで人気の電撃ネットワークの韓国公演(30日〜7月4日)が即日完売したことが分かった。92年から始めた海外公演は15カ国で計400公演にも及ぶ。今年もスペインなど4カ国からオファーがある。ところが、韓国では日本以上に公演内容に規制があるため、当初は成功が疑問視されていた。リーダー南部虎弾は「シモネタ系がだめみたいで、爆竹や花火を使うネタもできないかもしれない」と不安を覚えていたが、5回の公演はあっさり売り切れ。日本では「会場を貸してくれず、公演ができなくなっている」(南部)が、電撃は確実に世界に浸透している。】

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 韓国でも人気なんですね、電撃ネットワーク。
 僕は昔大学の出し物の研究でこの命懸けのパフォーマンス集団の存在を知って以来、そのあまりのバカバカしさと体の張りっぷりに魅せられて、ずっと大ファンなのです。ベンチャーズの「ワイプアウト」が流れると、つい電撃ダンスをやってしまいたくなるくらいに。
 ちなみに、彼らのことを御存知ない皆様は、こちらの公式サイトを御覧下さい。
 たぶん、「あっ、どこかで観たことある!」と思われる方も多いのではないでしょうか。
 実は、電撃ネットワークは”Tokyo Shock Boys”という英語名で、海外でも大人気なのです。彼らの本によると、とくにオーストラリアでは知らない人はいないほどの人気ぶりで、「パンツを履くヒマもなかった」とか。確かに言葉が通じなくても楽しめますし、「そんなことやって、何の意味があるの?」とか考えがちな日本の人たちりも、「クレイジーだぜこいつら、スゴイ!」と感覚的に楽しんでくれる海外の観客のほうが、「電撃向き」なのかもしれませんね。

 そういう意味では、観客のキャラクターを考えると、比較的日本に近いのかな、という感じがする今回の韓国公演の盛況ぶりは、ちょっと意外な気もします。
 しかし、シモネタがダメで、火薬も爆竹も使えないとなると、「コーガン野郎」とか、「花火大好き男」とかもできないかもしれないわけですね。となると、終始サソリと遊んだり、ドライアイスを食べたりしないといけないのかな、と彼らの身が心配です。まあ、どっちにしても危ないことには変わりないのですが。
 
 それにしても、【日本では「会場を貸してくれず、公演ができなくなっている」】という状況は、寂しいかぎり。もうちょっと日本発の文化(?)に理解を示してあげてもいいのではないでしょうか?
 内紛ばかりの狂言師の人たちより、ある意味日本が世界に誇るべきパフォーマーだと思うんだけどなあ…



2004年06月28日(月)
「自衛隊イラク派遣」への奇妙な賛否両論

毎日新聞の記事より。

【防衛庁・自衛隊は7月1日、創設50年を迎える。それに先立ち、航空自衛隊創立50周年記念式典が27日、埼玉県狭山市の入間基地で行われた。自衛隊の半世紀を刻む歴史は、日米同盟の強まりと憲法9条との整合性の中で揺れる歴史だった。91年の湾岸戦争を契機に始まった自衛隊の海外派遣は、主権移譲に伴ってイラクで編成される多国籍軍に参加する事態を迎え、新たな局面に踏み込みつつある。年末までには、今後の防衛力のあり方を定める「防衛計画の大綱」(防衛大綱)の改定が行われ、自衛隊は大きな節目を迎える。】

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 自衛隊創設50年。僕が子供の頃は、「どうして戦争をしない国のはずなのに『軍隊』があるのだろう?」なんて疑問を持っていましたし、「自衛隊は平和の敵」というイメージもありました。
 もちろん、今でも「無くて済むなら、無いほうが良い組織」ではあると思います。
 「必要悪」であるなんていうのは、さすがに傲慢でしょうけど。

 ただ、この50年間で、自衛隊というのは、日本という国に根付いてしまったのは事実です。災害救助活動では体を張ってくれていますし、ひとつの「産業」としても、「もし急に自衛隊が無くなったら?」と想定すると、かなりの失業者が出て、社会不安を引きおこす要因になるかもしれません。いまや、共産党の人たちですら、「自衛隊は即時解散!」なんて言わなくなりましたし。
 現実問題として、それは「不可能なこと」になってしまっています。
 例えば、いくら反対派であっても、洪水で流されそうになったときに、「自衛隊なんかの助けは受けん!」ってそのまま流されるような気概のある(?)人は、あまりいないと思いますし。

 僕は平和が好きですし、これ以上の軍事力の増強は意味がないと思うのですが、今回の自衛隊のイラク派遣と「多国籍軍」への参加については、「自衛隊」を語る人々のなかでも、その「定義」というものに、ものすごく違いがあるのを感じます。
 それで、以下にそれをまとめてみようと思うのです。

(1)自衛隊の存在そのものが許せないのか?
(2)自衛隊がイラクに行くこと自体が問題なのか?
(3)自衛隊がイラクでやっていることが問題なのか?

 大きくわけると、上の(1)〜(3)に問題は集約されるのではないでしょうか?
(1)に関しては、「自衛隊なんか要らない」と考えている人は、そもそも存在自体が「ありえない」のですから、派遣に対する賛成とか反対とかは論外でしょう。

(2)に関して、「自衛隊は日本国内での災害処理や万が一敵に攻められたときにだけ活動すればいい」と考えている人たちは、けっこう多いのではないかと思います。自衛隊の存在そのものに心情的に賛成できなくても、現状追認という立場からすれば、そのくらいが妥当な線なのかもしれません。確かに、現地の人々からみれば「軍隊じゃないから」というのは、あんまり説得力はないような気もしますし。ただ、アメリカの圧力のおかげか、アジア諸国からの「軍事国家ニッポン」を危惧する声は、事態の深刻さに比べれば、あまり目立たないような気もします。

 アメリカ主導の「イラク復興支援」に、日本が関わるべきか?というのがひとつの問題点で、「大義なき戦争の尻拭いを手伝うべきではない」という意見もあれば、「軍隊である自衛隊が海外に出ること自体が許容できない」という意見もあるでしょうし、「自衛隊員が危ないから、イラクに関わるべきではない」という意見もあるでしょう。「自衛隊じゃなくて、民間でやればいい」という考えの人もいるようですし。まあ、現実的には「復興支援に絡んだ利権」というような生臭い問題もあるみたいですけど。

 ただ、ひとつ考えておかなければならないのは、今の時点で日本はアメリカの軍事費を負担してもいるわけなので、「アメリカの蛮行に全く無関係」ではない、ということなのです。殺し屋を雇う費用を出しておきながら、「自分は何もやってない」なんてしらばっくれても、中村主水は許してはくれないでしょう。むしろ、そのほうが悪党度は高いかもしれません。
 そう考えると、「僕たちは知らないよ!」と言えるのかどうか?

(3)に関してですが、確かに「同じ費用を民間で使えば、もっと効果的な支援ができる」のは間違いないと思います。とはいえ、ああいう情勢ですから、人質にとられるかもしれないし、安全も確保できないから、民間で大掛かりな支援は難しいのではないでしょうか。何より、民間団体も自衛隊もお互いに協力してやればいいと思うのですが、どうも彼らはお互いの「守備範囲」を乱されたくないみたいです。せっかく行っているのなら、お互いにより効果的な支援を行えるように仲良くすればいいのにねえ。

 現在の日本で、「即刻自衛隊は解散だ!」と考えている人は少数派でしょうし、逆に、「どんどん軍拡して、世界制服を目指せ!」なんて考えている人もほとんどいないと思うのです。
 そして、「派遣賛成」と「反対」と二極分化されているようで、実際には、その「賛成」と「反対」の内部でも、それぞれさまざまな信条や理由に基づくものなのではないでしょうか?
 今、必要なことは、賛成派にしても、反対派にしても「自分はどの段階、あるいはどの点に関しては『賛成』あるいは『反対』なのか?」というのをある程度自分で認識しておくことのような気がするのです。
 正直、何に対して「賛成」「反対」なのかよくわからない意見が多いし、「賛成」という人にも「ここはちょっと…」という部分もあれば、「反対」という人にも「ここを見直すべきだ」というところもあるでしょうし。

 まあ、「あんまり細かいことばかり言っていても、何も決まらないじゃないか!」というのも、事実ではあるんですけどね。



2004年06月27日(日)
「ハガキ」と「封書」では、どちらが面白いのか?

「中島らもの特選明るい悩み相談室・その2〜ニッポンの常識篇」(中島らも著・集英社)より。

(川上弘美さんとの「巻末対談」の一部です。「明るい悩み相談室」に投稿されてくる相談の内容について。)

【川上:すごい競争率だと思うんですよ。
 中島:週百通ぐらい来てた。新聞社からはノーチェックで、封を切らずにそのまんまおれのところに転送されて来るんです。でも、おもしろいのは、封書よりハガキですね。
 川上:ハガキ?
 中島:たぶん、ハガキっていうのは、だれの目にも触れるわけでしょう。で、あっけらかんとして書き飛ばしてくるわけですよね。封書は、内面をのぞかれたくないみたいな自意識が強いのが多いから、おもしろくない。
 川上:つい書き綴っちゃうんですね。じゃあ、恋文なんていうのも、ハガキで書いたほうがいいものが書けるのかもしれないですね。でも、多分、普通の人生相談だと封書が本流なんでしょうね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 普通に考えたら、気合を入れて「他の人には読ませられないような話」と書いてきているはずの封書のほうが面白い内容のものが多いんじゃないかな、と思いますよね。
 まあ、この「明るい悩み相談室」というのは、質問も深刻なものというよりネタっぽいやつがほとんどなのですが。

 確かに、封を開けないと読まれない「封書」というのは、ハガキより文章も長いでしょうし、読まれにくい分だけ恥ずかしい話とか本音も書きやすいのではないか、というイメージがあります。もらう側だって、ハガキが来れば、サッと裏返して内容を読んで「ふむふむ」という感じですが、封書を読むには、ある種の「緊張感」がありますよね。
 些細なことをわざわざ封書で送ってくるはずがない、というイメージもありますし。
 ハガキの場合、何かの拍子に読まれてしまう可能性はありますし、もし読まれても「読まれたのかどうか?」というのはわかりません。郵便局の人とか家族が読んでも、証拠は残りませんから。まあ、郵便局の人はわざわざ読んだりはしないとは思うのですが、ハガキの場合は逆に「読まれても仕方ない」という面もあるわけです。

 こういうのは、「ハガキと封書」に限らず、実際の生活で相談を受ける場合でもそうですよね。
 「内緒の話があるんだけど…」と言われてドキドキしながら話の続きを待っていたら「それだけ?」なんていうことは、けっこう多いような気がします。逆に、普通の会話の中でポロッと出てきた「ひみつの話」のほうが、はるかに「まさか…」と思うようなものが多かったりするんですよね。
 伝える側に過剰な自意識が働いている場合には、伝えられる側にとっては、その自意識がかえって鼻についてしまうこともありますし、「他の人に知られてもいいや」という開き直りが、洗練を生むことだってあるのです。
 もともと、「悩み相談」の場合は、採用されれば人目に触れるものですし。
 それに、「恋文」なんていうのは、あまりに自意識過剰なものより、ハガキに書けるような内容のほうが、受け取る相手にとっては読みやすいのかも。「重すぎる」恋文は、かえって引かれることもありそうだし。もちろん、恋の行方は別として。

 これって、サイトでもそうなのではないかな、という気もします。
 「会員制」とか「内輪だけのサイト」なんていうのは、おそらくあまりたいしたことは書かれていない場合が多いのではないでしょうか?
 「秘密日記」の中には、間違って読んでしまったら、そのあまりの自己陶酔っぷりに「キミの言いたいことはわかったし、読むほうが気持ち悪いから、永遠に秘密にしといて!」なんて思うものありそうです。

 あまりに周りを意識しすぎて媚を売りまくっているのも、それはそれでつまらなかったりもするのですけど。



2004年06月26日(土)
小川直也が嫌いな「リアル・ファイト」

「Number・605」(文藝春秋)の記事「小川直也・拭えない総合格闘技への違和感」より。小川さんと話している相手は、小川さんを鍛えた明治大学の監督・原吉実さんです。小川さんが中央競馬会のサラリーマンから格闘家に転身したときのエピソード。

【プロレスには客が入らない。地方の巡業へ行けばそれがよくわかる。
「小川、昔みたいな盛り上がりはもう期待できねえぞ」
「そうですね」
 小川もそれは百も承知しているのだ。
「でもお客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです」
「そんなこと言ったってお前、プロレスはショーだぞ。それで夢を見られんのか」
「ショーだからこそ見られるんです。思う通りに、お客がこうなって欲しいと願う通りのことがやれるんですから」
 そんな会話が続くと、小川はよくアメリカで人気の高いショープロレス、WWEの話をした。そして、
「きっと日本もアメリカと同じ状況になります。総合格闘技に流れた客がきっとプロレスに戻ってきます」
 と熱っぽく語るのだ。】


【小川はUFC(アメリカの総合格闘技団体)に出場している選手の何人かから「本当はリアル・ファイトはやりたくないんだ……」という言葉を聞いた。高額の賞金を得てもそれは一時のことにすぎない。選手にだって家族と生活がある。本音は誰もが息長くリングに上がり続けることを望んでいる。
「みんな、プロレスをやりたいのだ」
 それが小川の感じ取った彼らの本音だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 『堕ちた野獣』ボブ・サップ」に対し「有名になってお金持ちにもなったし、ハングリー精神が無くなって弱くなったんだな」と評価することは簡単なのですが、この文章を読んでみると、そりゃ、あれだけ「失いたくないもの」を手に入れてしまえば、ハングリー精神をキープするなんてムリなのが普通だろうな、とも思えてきます。
 無名で貧乏で、このチャンスに賭けないと明日はどうなるかわからない、という人間なら命を賭けられる場面でも、何かを得てしまった人間にとっては、「そこまでムリしなくても…」という気持ちになるのは、「当たり前」のことですよね。
 もちろん、そういう「守るべきものを持った人間」にも、それなりの強さというのはあるのですが、むしろその強さというのは「自分が致命的な怪我をする前にギブアップする勇気」だったりするものですし。

 僕は「プライド」のリングの上で「ハッスルポーズ」とかのパフォーマンスをやっている小川選手に対して、「真剣勝負なのかこれは?」と疑問を抱いてしまうのですが(もちろん「八百長」とか言っているのではなくて、今までは小川選手が勝ちやすい相手との試合が組まれていたのではないか?という疑念です)、小川選手に、ここまで「プロレス」に対するこだわりがあるとは知りませんでした。
 「ショーだからこそ夢を見られる」というのは、オリンピックという舞台で「日本の夢を打ち砕いた男」として誹謗中傷を浴びせられた小川選手ならではの気持ちなのかもしれませんけど。

 たしかに「リアル・ファイトの何が楽しいんだ!」というのは、選手側の「本音」なのかもしれません。実際、あんな危険な闘いを「対戦相手である」という以外に何の恨みつらみもない相手とやるのは、「いくら大金を積まれてもやっちゃいられない」と感じる選手がいるのはおかしくないと思うのです。自分が傷つくのはイヤだろうし、他人を傷つけるのだって辛いはず。
 それでも「パンと見世物」を求める市民のために血を流したローマ帝国の剣闘士たちのような「リアル・ファイト」を求める人々の声は小さくはなっていないようです。

 今日のボブ・サップの試合を観た印象は、「あそこまでして闘う必要は、もうサップには無いのではないかな」ということでした。もちろん強くないとサップにとっての「売り」が無くなるわけですが、一度失われたモチベーションって、そう簡単に戻ってはこないのでしょう。

 「リアル・ファイト」に疲れた人たちが、本当にプロレスに戻ってくるかどうかはわかりません。日本人には、マジックショーに対してすら「うまく騙されるのを楽しむ」というよりは「騙されないぞ、どんな仕掛けなんだ?」という目でみてしまう人が多いらしいので、いわゆる「ショー感覚のヤラセ全開のプロレス」は、主流にはなりえないのではないかな、という気もします。
 「事実は小説より奇なり」
 「ショーだからこそ夢を見られる」
 結局、最後は二極分化していくものなのかもしれませんが…

 



2004年06月25日(金)
守られる「加害者」と責められる「被害者」

時事通信の記事より。

【茨城県岩井市の市道脇草むらに県立高1年平田恵里奈さん(16)=同県猿島町=が放置され死亡した事件で、発見される2時間ほど前の20日早朝、平田さんの自転車が見つかったコンビニエンスストアのベンチで、平田さんとみられる女性が、仮眠するように横になっているのが目撃されていたことが、25日までの境署捜査本部の調べで分かった。
 このコンビニは、岩井市内にあり、午後11時から午前6時までは閉店。自宅への帰り道沿いにあり、同本部は平田さんが自宅に直行せず、ベンチにいた理由などを調べる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は今日、朝そんなに早く出かけなくてもよかったので、久々にワイドショーなどをのんびり眺めていたのです。例の佐世保の事件で「若者の風紀の乱れ告発モード」に火がついたらしくて、最近はその手の事件が報道されることが多いようなのですが、この「茨城・高1女子殺害事件」というのが、今いちばんワイドショー的には大きく扱われているみたいでした。
 でも、僕はその番組を観ながら、なんだかすごく違和感を感じていたのです。その原因について考えてみると、要するに、その「報道」というのは、被害者であるこの女子高生の足どりを辿る、という名目で、彼女の最近の生活の乱れや(親が旅行に出た後学校に行かずに昼間から友達とカラオケボックスに行っていたとか、そういう話)謎の「スリランカ人」の存在などを、まるで悪趣味なドラマのように流していました。
 それを観ていた僕も、「そんな乱れた生活をしてたら、事件の被害者になるのも『自己責任』という面もあるんじゃないかなあ…」と思うくらいに。

 しかし、考えてみると、そういう「被害者の生活の乱れ」とか「プライベートな情報」なんていうのをこんなふうに扇情的に垂れ流すのって、「必要な報道」なのでしょうか?加害者側の状況であれば「どうしてそんな犯罪を行ったのか?」ということを知るのは予防策になるかもしれませんし、第一、彼らが社会的に非難されるのは仕方がないところです。
 でも、どうして被害者なのに、こんなふうに間接的に「乱れた生活」について、全国ネットで大公開されないといけないのでしょうか?
 少年犯罪であれば、加害者の側については「人権保護」という名目で個人情報は極力隠されるのに、被害者の側について、このような「死者に鞭打つような報道」がなされているのは、どうも理解できないのです。「情報を得るため」にしても、ちょっと度が過ぎるのでは。
 「知る権利」とかいうけれど、そんな細かい情報が本当に必要なのは警察や司法関係者だけであって、一般視聴者にとっては「単なる興味の対象」であり、その報道によって残った家族は「かわいそうに…」という表向きの世間の対応とは裏腹に「あの夜遊びしてスリランカ人に携帯買ってもらってた子の…」という目で見られてしまうわけです。
 たぶん、そういう下世話な情報を好む人が多いからこそ、そういう報道が成り立つのだとは思うのですが…

 守られる「加害者」に、暴かれ、晒される「被害者」。
 もう少し「知らせない良心」とか「知ろうとしない善意」とかがあっても、いいんじゃないのかなあ。



2004年06月23日(水)
「怪人二十面相」と「バトル・ロワイヤル」

「面白い小説を見つけるために」(小林信彦著・光文社)より。

【江戸川乱歩の「怪人二十面相」と「少年探偵団」も、前記の古本屋で借りて読んだものだ。「少年探偵団」の発端部に、上野公園を歩いている大学生の影が白い歯を見せてケラケラと笑う有名な場面がある。今度、改めて読み直してみたが、いま読んでも非常にこわいのである。

(中略)

 東京空襲が噂されたそのころ、ぼくらの日常は、奇々怪々な流言飛語に充たされていた。たとえば、子供をさらう<赤マント>、町内の××はアメリカのスパイらしいという囁き、あの爆弾(のちの原爆)が日本で完成したらしいという希望的風聞。そうした暗い時代に読む<黒い魔物>の物語は、かくべつの味わいがあった。
 作者みずから<画期的な歓迎を受けた>と回想するこの少年物シリーズが、昭和十一年から十五年にかけて執筆されたことは、記しておく必要があるだろう。しだいに戦時色が濃厚になる時期(二・二六事件から日独伊三国同盟成立まで)に書きつがれた物語は、<怪人>を出すことが許されなくなる「大金塊」で、いちおうの終止符が打たれる。刻一刻と濃くなる世相不安と乱歩独特のネクラ気質が、まれにみる恐怖の感情を、無数の子供たちにあたえたと見るべきだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 江戸川乱歩の作品たちは、発表から50年くらいたってから読んだ僕も「言葉にできないような恐怖感」を覚えました。とはいっても、僕の場合は「少年探偵団シリーズ」を半分くらい読んだだけなので、あまり本格的な乱歩の読者とはいえないわけですが。
 でも、この小林さんの回想を読んでいると、戦争に突入するという時代背景のなかで、乱歩の作品たちが当時の子供たちに与えたインパクトというのは、きっと「過去の作品」として読む僕たちには想像もつかないものなのだと思います。もちろん、子供たちにとっては他の娯楽が非常に少ない時代でもあったでしょうし。
 僕たちが「禍々しい、想像もつかない」と感じてしまうような<赤マント>とか<他国のスパイ>というのは、当時の子供たちにとっては「荒唐無稽」なものではなくて、リアルな存在だったみたいですから、「怪人」だって、けっして「ありえない存在」ではなかったはずです。
 
 僕がこの文章を読んで思い出したのは、今話題の(?)「バトル・ロワイヤル」のことです。僕は正直なところ、「趣味の悪い話だなあ」というくらいの感想しか抱かなかったのですが、最近「バトル・ロワイヤル」に感化されたという子供たちが、いくつもの信じられないような事件を起こしています。 
 そのために「魔女狩り」のように「バトル・ロワイヤル」が非難されたり、DVD発売が延期されたりしているわけですが、おそらく、その「責任」は、「バトル・ロワイヤル」だけが負うべきものではないのだと思います。この作品をここまで「負の神格化」に導いたのは、おそらく現代という「時代背景」なのでしょう。今の子供たちには「リアリティのある世界観」なのかもしれません。
 それが、文学としての完成度以上に、子供たちへの作品の影響力を増幅しているんでしょうね。
 大人になってしまった僕は、「あんな荒唐無稽で残酷なだけの話…」とか、つい考えてしまうのですけど。

 「暗い物語が時代を暗くする」わけではなくて、「暗い時代には、暗い物語がよく似合う」たぶん、そういうことなんだろうなあ。
 いまを生きる人間としては、後世の人々に「あの時代は『バトル・ロワイヤル』の背景に相応しかった」なんて言われるのは、ものすごく心外で不愉快なのですが。
 



2004年06月22日(火)
楽しく生きるために守るべき二つのこと

「アヒルと鴨のコインロッカー」(伊坂幸太郎著・東京創元社)より。

【「ポジティブに考えたほうがいいって」わたしは偉そうに、助言などをしてみた。
「琴美なら、死ぬ瞬間にも前向きなことを考えそうだな」
 わたしは人差し指を立てる。「楽しく生きるには二つのことだけ守ればいいんだから。車のクラクションを鳴らさないことと、細かいことを気にしないこと。それだけ」これは日頃から、ドルジにも言っていることだった。
 ブータンでは車がとにかくクラクションを鳴らすらしいのだ。運転も乱暴だし、騒々しい、とドルジから聞いた。クラクションのあの音は、人間が発明したものの中でもっとも不要なもののひとつだと、わたしは確信している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 車を運転しているときには、人格が変わるひとっていますよね。日頃温厚なイメージだったのに、遅い車を煽ったり、ジャマな歩行者に舌打ちしたり…
 車というものに守られていると、人というのは強気になったり、本性が出たりしがちです。でも、僕は「日頃元気いっぱいなのに、車の運転席に座ったとたんに大人しくなる人」というのをあまり見たことがありませんから(とくに男性)、車というのは人間を強気にさせがちなものなのかもしれません。
 まあ、確かにピストルを持っている人が気が大きくなるように、車に乗っているかぎりは僕だって丸腰の小川直也にも負けませんから。もちろん、ぶつかって相手が生きてたら後が怖いですけど。
 大型トラックの運転手が横暴な運転で一般車両を脅かすみたいに、「事故を起こしたら後からとんでもないことになる」というのを頭で理解していても、人間というやつは「ぶつかっても自分は死なない」というような状況だと、ついつい自分の優位に浸りたくなるみたいです。

 そもそも、あのクラクションというのは、何のためにある機能なのでしょうか?「警笛区間」という、視界の悪いところで、お互いの存在を確認するというのが本来の役割であって、別に他人を脅かしたり、自分が怒っていることをアピールするためのものではないはずです。
 それなのに、世間には「無意味なクラクション」を鳴らしたがる人というのは、けっこう多いんですよね。「そんな運転するんじゃない!」という怒りのクラクションや、渋滞で苛立ってのクラクション。
 しかし、考えてみてください。僕もそうなんですが「運転が苦手な人」にとって、後ろの怖そうな車にクラクションを鳴らされるほど動揺することはありません。「早く行かなくちゃ…」なんて気も焦ります。そんなの、かえって事故のもとじゃないですか?自分より運転の下手なドライバーの車は、事故を起こしても構わないんですか?
 要するに、そんなクラクションは自分の苛立ちをぶつけて他人を困らせたり不快にさせたりするだけで、交通安全にとっては不要どころか有害きわまりないのです。
 鳴らしている本人の自己満足、ただそれだけ。
 お礼の「ピッ」ってやつくらいは、許容範囲だとは思うけど、あれはあれで過剰な礼儀かな、という気もするし。
 僕は、やたらとクラクションを鳴らす車には、「お前が苛立っているからといって、そのうるさい音で周りの車にまで苛立ちを撒き散らすんじゃない!」と説教してやりたくなります。むろん、そんな勇気はありませんが。
 あんなにビービー鳴らして猛スピードで走り抜けていった車が、次の信号待ちではすぐ隣、なんてことはよくあることですしね。

 ほんと、あれだけ不快な音をよくも開発したものだと、逆に感心してしまいます。
 車の運転中以外でも、みんなが「自己満足のクラクション」を鳴らすのをもうちょっと我慢することができれば、少しは生きやすくなるのになあ。



2004年06月21日(月)
「ありがとう駅」よりも「エロマンガ島」

毎日新聞の記事より。

【高知県南国市が、第三セクターの土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」に、「ありがとう駅」の愛称の駅を誕生させる。本来の名前は「後免町(ごめんまち)駅」。子ども時代を駅周辺で過ごした「アンパンマン」の作者、やなせたかしさん(85)の発案。隣駅も「後免(ごめん)駅」で、「ごめん」「ありがとう」の“駅名フレーズ”で全国にPRする。

 過去に「幸福駅」など本来の駅名が話題になったケースはあるが、南国市は「駅に愛称を付けるのは珍しいのでは」としている。駅ホームに「ありがとう駅」と書いた看板を新たに設置。7月4日の同線開業2周年イベントで発表する。切符や時刻表、車内アナウンスなどは従来の「後免町駅」だが、浜田純市長は「現代人が忘れがちな感謝の言葉で駅を呼んでもらい、同時に後免の名前を広めたい」と話している。

 これまで、胸の内に秘めていた謝罪の言葉を全国から募集した「ハガキでごめんなさい」コンクールなど、町おこしのアイデアを提供してきたやなせさんは、「二つの言葉をそろえて発音するだけでも気持ちがいい。観光にも役立ててほしい」と喜んでいる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は鉄道マニアではありませんが、子供の頃から「知識マニア」だったので、面白い駅の名前とかは、けっこう覚えていたような記憶があります。今はもう、ほとんど忘れてしまったのですけど。
 「御免」という駅についても「ああ、そんな名前の駅があったなあ」というのは覚えていて、「ごめん〜ごめん〜」と駅員さんがアナウンスするのは、なかなか楽しそうだなあ、なんて。
 でも、この「ありがとう」という駅名には、どうも興味がわかないんですよね。
 逆に、わざとらしさみたいなのを感じてしまいます。

 「エロマンガ島」というのを御存知でしょうか?
 バヌアツという南太平洋の国にあるこの島は、日本の子供たちに、長い間親しまれているのです。それはまあ、「エロ」という、その世代の子供たちにジャストミートするキーワードが含まれていることが主な理由なのですが、何より僕にとって面白く感じられたのは、「世界には、そういう『日本人からしたら、考えられないような名前』というのが、ごく自然につけられている土地があるんだなあ」ということでした。「エロマンガ」を普通に発音して、そこでずっと暮らしている人たちがこの世界にいるのだ、というのは、なんだかとても不思議な気持ちがしませんか?

 「ごめん(御免)」という駅が有名になったのは、その駅名が何かを狙った人々によって作為的につけられたものではなく、昔から伝わってきた地名だからなのだと僕は思います。
 そういう歴史や伝統を持っているからこそ、好事家の好奇心というのはソソラレルわけで。
 この「ありがとう駅」みたいな、「人為的につけられた、美談を目的とした珍名」というのは、正直なところ「あざといなあ…」としか感じられないんだよなあ…

 もし「エロマンガ島」が、日本人の大金持ちがどこかの島を買い取って自分でつけた名前だったら、きっと小学生の僕も面白くもなんともなかったと思うしね。



2004年06月20日(日)
真夜中に靴を作ってくれる「コンピューター」

「許してガリレオ!」(ゲッツ板谷著・ダイヤモンド社)より。

(この本の挿絵を描いている西原理恵子さんへの「家族に自分の仕事をどうやって理解させてますか?」という板谷さんの質問に対する、西原さんからの「返信」)

【返信・私は先日母に「コンピューター買いなさい。そしたら勝手にマンガかいてくれるぞね。」と言われました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 いくらなんでも、寝ている間に靴を作ってくれるコビトさんの童話じゃないんですから…と言いたいところなのですが、この手の「誤解」は、他人事ではないんですよね。
 ワープロという道具が流行りはじめたとき、「ワープロを持っている」というだけで、「こういう資料を作って!」というような依頼を受けた経験のある人は多いと思いますし、「Macさえあれば、自分も簡単に綺麗な絵が書ける!」という希望を持ってマッキントッシュを手に入れた人も多かったのではないでしょうか?
 でも、現実としては、ワープロというのは、あくまでも「文章を綺麗に打ち出すための道具」でしかなくて、肝心の「何を書くか?」という問題を解決してくれる道具ではありませんし、マックペイントを使ったからといって、ヘタな絵が急に上手になるわけではないのです。もちろん、これらの道具は「文章が書ける人」や「絵心がある人」にとっては便利なことこの上ないのですが、だからといって、自動的に何かをやってくれる道具ではありません。
 それでも、世間には、「パソコンさえあれば何でもできる」とまではいかなくても、スライド作りとか表計算なんてのは、「パソコンさえあればほとんど人間の負担はない」なんてイメージを持っている人も少なくないのです。日頃自分でパソコンを使っている人間にとっては、所詮パソコンというのは「道具」でしかない、なんてことは常識なのですが。
 日頃パソコンを使わない人の「パソコン使えば、そのくらい簡単だろ?」という態度に不快な思いをしたことがある人もけっこう多いはず。
 「ホームページを作りさえすれば人がたくさん来てくれて、人脈が広がる」とかいうのも、たぶんこの手の幻想のうちのひとつ。

 パソコンというのは、本当に便利な道具であり、現代人の生活には手放し難いものになってきました。
 でも、やっぱり道具はあくまでも使う人あっての道具なので「自動的にマンガはかいてくれない」のです。
 それでもたぶん、今の世の中にも「パソコンなんて全然役に立たない」と思っている人と「パソコンさえあれば、何でもできる」と思っている人というのは、相当な数、存在しているんですよね、きっと。



2004年06月19日(土)
「バカな国会議員」の無限ループ

読売新聞の記事より。

【国会議員の学歴詐称や、年金未納・未加入の続出に有権者は失笑させられた。24日に公示される参院選を前に、こうした問題には沈黙する政治家が多い。一方で「私は違う」と“潔白証明”に動き出す人も。「年金完納」の文字を事務所やホームページに掲げたり、卒業証書のコピーを用意する出馬予定者。「当然のこと」で有権者にアピールする、笑えないPR合戦が繰り広げられている。

◆HP活用

 東京選挙区に出馬表明した青島幸男さん(無所属)のホームページには、「年金完納済」の大きなマークが。国民年金手帳の写真を公開し、「自慢しちゃいますけどね」とも。その上で、年金制度のわかりづらさや、集めたお金のずさんな使われ方に対し、怒りを持って立ち上がるよう呼びかけている。

 香川選挙区の現職、山内俊夫さん(自民)も自らのホームページで、「大学卒業後、現在に至るまで年金への未加入期間および未納はございません」と高らかに。スタッフは「問い合わせが多く、身ぎれいなことを広く知らせたかった」という。

◆張り紙効果

 「国民年金を完納しています」。静岡選挙区の現職、海野徹さん(民主)は「完納」の2文字を赤で目立たせた張り紙を2枚、事務所に出した。菅直人・前代表が辞任に追い込まれた時に、「大丈夫か」といった電話が相次いだための“窮余の策”。それから問い合わせや党への批判は聞かれなくなり、陣営幹部は「効果は抜群」と胸を張った。 ◆これが証書

 私立大学の卒業証書が1枚、壁に飾られている。鳥取選挙区で立つ新人の土屋正秀さん(民主)の事務所。14日、「清廉潔白をアピールできる」と出入り口近くの目立つ場所を選び、証書のコピーを張った。

 「学歴詐称の議員と同列に見られたくない。しかし演説で『卒業してます』と訴えるのも変だから」と党県連幹部。支持者からは「ほっとした」「安心して応援できる」との声が寄せられているという。

 兵庫選挙区から出馬する新人の宮本一三さん(無所属)の事務所には、米・ハーバード大の博士号取得証書と国立大学の卒業証書のコピーがある。支持者らから求めがあれば、いつでもファクスで送れるよう用意した。「準備万端。すぐ対応します」とスタッフは腕まくりしていた。】

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 もうすぐ参議院選挙なんですねえ。なんだか最近、選挙ばっかりやっているような気がします。
 正直、僕は選挙というものにサッパリ興味が湧かなくて、それというのも「選挙に立候補するような人が嫌い」で「うるさい選挙カーが嫌い」で「どうしてわざわざ誰に入れても後悔するような投票に参加する必要があるのか、とか思ってしまうのです。まあ、「それでもいちばん後悔しないような人を選ぶべきだ」というのも、頭では理解しているのですが。
 そりゃ、死にそうになったら嫌いな食べ物でも食べないわけにはいかないしねえ。
 でも、選挙の開票速報番組を観るのは、わりと好きです。

 それにしても、「学歴詐称なし」とか「年金完済」とをアピールするような選挙って、いったい何なんだろう?とか思ってしまいます。「嘘つきじゃない」というのをアピールしたいのはわからなくもないのですが、学歴を詐称していなかったり、年金を完済していたりすれば国会議員としての適性があるのだとしたら、そこらへんのサラリーマンは議員候補だらけです。「正直であること」や「誠実であること」というのは確かに人間としての美徳だとは思いますが、政治をやる人間に本来期待されることというのは、そんな「当たり前のこと」ばかりではないはずです。

 もっとも、これは候補者側ばかりの問題ではなくて、有権者側の問題もあるのだと思います。「学歴」とか「年金未納」なんていうのは、みんな本気で怒っているというよりは、政治家同士の揚げ足のとりあいになってしまって、それを見世物のように楽しむ、というのが周囲のスタンスになってしまいました。だって、「学歴」なんて普段は全然わからないし、「東大出ているからこの人は信頼できる!」なんて思わないはず。東大のOBであれば、後輩だからと投票することもあるかもしれませんけど。
 年金未納に至っては、国民の4割の未納者は、「そんなに払ってるってのは偉いことのなのか…」と事態の推移を見守っていたと思います。そのうち「公職追放」とかいうことになったらどうしよう、とか。
 国民年金のキャンペーンとしては効果絶大だったかもしれませんが、「お前らはどうせ議員年金もらえるんだからいいよなあ」なんて「やっかみ半分」の面もあったような気がしますし。
 僕は別に、ちゃんと仕事をしてくれれば、年金くらい貰えていいと思うんだけどなあ。
 待遇を良くすることによって、もっと有能な人たちが議員になってくれるのなら、むしろもっと好待遇にしてもいいくらいです。

 最近の「牛歩戦術」とかのバカバカしい映像を観ていると、なんだか情けなくなってきます。でも、その一方で、僕はこんなことも考えるのです。
 「この人たちは、選挙に立候補して議員になることを志したときは、けっしてこんな『牛歩戦術』なんて、ほとんど効果のないパフォーマンスをやりたくて入ったわけではないんだろうな、と。
 もちろん、その「名誉」にとらわれた人もいるのかもしれませんが、その人なりに「日本の将来を憂いて」、自分がやってやろう、と思っていた人たちのほうが多いのではないでしょうか。
 でも、そんな「憂国の士」たちが、議員になったとたんに議場で居眠りし、メールを打ち、汚いヤジを飛ばし、揚げ足を取り合うのです。
 それはそれで、なんだか信じられない話。
 そもそも「牛歩戦術」だって、バカバカしいことはこの上ないけれど、あの年齢の方々が、あんなふうにずっと立ち続けてゆっくりゆっくり歩くのは、ものすごく辛いことだと思うのです。トイレにだって行きたくなるだろうしさ。
 ほんと、そんな気力・体力があるのだったら、もっと有効に使う方法はないんだろうか?
 たぶん、やっている本人たちもそう思っているはずだと信じたいのだけどなあ…

 政治家というのは、本当に怖い仕事だなあ、と感じます。
 「日本を変えよう!」と意気込む有能な若者たちが、議員になったとたんに「党議決定」とか「牛歩戦術」なんてバカバカしい4字熟語に縛られて、ああいう愚かしい集団に埋没してしまうなんて!
 心のうちでは、「今はこうして耐えて、自分たちが偉くなったら変えてやる!」とか思っている人もいるんじゃないかなあ。
 でも、そういうのって部活の「シゴキ」と一緒で、自分が先輩になったら「これが伝統だ」とか偉そうに言って、後輩に「党議決定」を押し付けたりするものなんですよね、きっと。
 「自分たちも耐えてきたから、お前らも耐えて当然」って。
 で、斬新な抵抗手段も思いつかないから、「とりあえず牛歩」「しょうがないから野次」みたいな感じ。
 それじゃあ、何も変わらないのだけど、そういう「悪しき伝統主義」みたいなものは、実際に日本中にあるわけで。
 「日本の政治家はみんな、あんなことをやってバカだ!」とか言っている人の会社では、今日もお決まりの社長講話が行われているのです。

 「政治家がバカだから、日本は良くならない」
 そうやって「バカな政治家」に責任を押し付けて「かわいそうな国民」だと自分を慰めてみても、事態は一向に変わるわけもないんだけどなあ。

 そう思いつつも、そんな禍々しいものには関わりたくないのも本心で…



2004年06月18日(金)
「もう男友達としか飲まない!」

夕刊フジの記事より。

【ロックギタリスト、布袋寅泰(42)と女優の高岡早紀(31)のW不倫が18日までに発覚したが、双方のコメントが話題になっている。

 W不倫は同日発売の写真週刊誌「フライデー」が報じたもの。今月中旬の夜、東京・六本木のバーなどで2人が腕を絡めたりキスをする写真を掲載した。

 これに対し布袋本人は17日、マスコミ各社へのファクスで「いやぁ…火遊びが過ぎました。(妻で歌手、今井)美樹ちゃんにはその夜帰宅した際に、彼女(高岡)と会った事を伝えたので、今回の報道に関して笑って許してくれました。当分は男友達と飲もう! と心に決めました(笑)」などとおおらかコメント。

 一方、高岡の所属事務所も堂々「本人のコメントは特にない。マスコミの皆さんが調べたことが事実だと思ったら、そう思ってくれて構わない」。

 高岡は夫で俳優の保坂尚輝(36)との不仲説も根強く、なかばヤケ気味と見られなくもないが、トボける芸能人よりはましといえそうだ。】

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 いやあ、おおらかですねえ、美樹ちゃん!
 というか、【その夜帰宅した際に、彼女(高岡)と会った事を伝えたので、今回の報道に関して笑って許してくれました。】って、「会った」という情報と「2人が腕を絡めたりキスをする」という行為の間には、かなり深刻な乖離がありそうなんですけど…
 でも、考えてみれば、布袋さんと今井さんは、「略奪愛カップル」として一世を風靡したわけですし、「あの人のことだから、『会った』=タダじゃすんでないだろうけど、まあ、そういう人だからなあ…」なんて今井さんが「悟りの境地」に達していたら、それはそれで、「そういう夫婦関係」ってやつもアリなのかな、なんて周りとしてもあきらめムードになってしまうのですが。
 彼らの間で、実際にどんなやりとりがなされたかはわかりませんけど、いずれにしても「まあ、因果応報かな…」というのが僕の正直な感想。
 「配偶者よりも他の異性に優しくできる人」っていう「博愛主義者」は、多くの場合自分が配偶者の座に納まった場合でも、その「博愛っぷり」を発揮するものみたいですしね。

 でもなあ、芸能界とかを見ていると、「バカだなあ」なんて言いながら、この人たちの「不倫」とかにいちいち大騒ぎして踊らされているマスコミや僕たちのほうがバカなのかもしれないな、という気もしてくるんだよなあ…
 本当は、マスコミが騒がなかったら、この人たちは不倫しないような気も…



2004年06月17日(木)
「もっとも子どもに見せたくない番組」

共同通信の記事より。

【日本PTA全国協議会が16日公表した調査で、親の26%が「子どもに見せたくないテレビ番組がある」と答え、トップには「ロンドンハーツ」が挙がった。
 調査対象は小5と中2の子どもと親。見せたくないとした親の17%が「ロンドンハーツ」を挙げ、次いで「水10!」が13%、昨年トップの「クレヨンしんちゃん」は11%、「志村けんのバカ殿様」が7%だった。
 理由は「ばかばかしい」「常識を逸脱」「言葉が乱暴」など。
 だが、親が見せたくなくても実際には子どもが「いつも見ている」「たまに見ている」と答えた割合は「ロンドンハーツ」が全体の50%、「バカ殿様」は80%に達した。
 親の6%は「サスペンス番組」も「残酷な場面が多い」「生命を軽んじる」として、見せたくないと答えたが、子どもの38%が見ていた。
 逆に「親が見せたい番組」のトップは「プロジェクトX」の27%で、2位の「どうぶつ奇想天外!」「その時歴史が動いた」の10%を大きく引き離した。】

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 僕は最近「8時だョ!全員集合」のプロデューサーが書いた本とか、アニメ「北斗の拳」の制作の人のインタビューとかを立て続けに読んだのですが、この「子どもに見せたくない番組」にランクインするというのは、制作サイドにとっては複雑な感情みたいです。
 ひとつはもちろん、社会的非難を受けているという辛い気持ち。でも、その一方で、「自分たちの番組も、ここまでメジャーになったか…」という感慨もあるみたいなのです。社会的影響力がある、とでも言えばいいのか…
 それにしても、「クレヨンしんちゃん」や「バカ殿様」に対して「バカバカしい」とか「常識を逸脱」なんていうのは、それで怒るほうもなんだかなあ、という気もします。もともとそういう「バカバカしさ」や「非日常性」を追求している番組なのにねえ。
 「8時だョ」のプロデューサーは、こんなことを書いていました。「子どもは、大人が観ても面白いものだからこそ観たがる。『子供騙し』には引っかからないよ」と。
 僕が子どもの頃を思い出してみても、確かに、子供向け番組に対しては「こんな子どもっぽいの、面白くない!」とか感じていたような気がします。大人が「子供向け」と称してつくった「清く正しい子ども番組」というやつには、全然食指が動きませんでしたし。

 ただ、「ロンドンハーツ」と「水10」は、「子どもに見せたくない」って気持ちはちょっとわかるなあ。僕は「ロンドンハーツ」は、面白いとは思うけど観たらなんとなく自己嫌悪に陥るし、「水10」は、けっこう番組のネタのなさをイジメでカバーしようとしているような気がするから。でも、「子どもに」というか、「自分の好きな人には、こういう番組を喜んで観てほしくないなあ」とは感じます。
 まあ、「子どもに観せたくない番組」と決められるということは、少なくとも親の側は「観ている」か、最低でも「観たことがある」のは事実でしょうからねえ。
 本当は、「オトナはバカな番組観てるよなあ…」なんて、子どものほうが内心バカにしながら観ていたりするものなのかも。

 ところで、「残酷な場面が多い」「生命を軽んじる」のが問題ならば、本当に「もっとも子どもに見せたくない番組」は、「ニュース」なのではないかな、と僕は思うんですけどね。



2004年06月16日(水)
復活の「YOUはSHOCK!」

スポーツ報知の記事より。

【「大都会」(1979年)の大ヒットで知られるロックバンド・クリスタルキングが、84年に発売したシングル「愛をとりもどせ!!」のセルフカバー盤を20年ぶりに発売する。同曲は当時テレビで放送されたアニメ「北斗の拳」の主題歌。昨年末に登場したパチスロ機「北斗の拳」が大人気となったことから、大当たり連発時に流れる同曲も再ブレークを狙って緊急発売となった。

 セルフカバーが決まった「愛をとりもどせ!!」のオリジナルは、人気アニメ「北斗の拳」の主題歌として1984年10月に発売され、約50万枚のヒットを記録した。その後も定番アニメソングとしてカラオケなどでも人気の一曲となっていたが、今年に入ってブームが再燃。その火付け役となったのは、昨年末にパチンコ店に登場したパチスロ機「北斗の拳」だ。

 同パチスロ機は、ケンシロウやラオウなど人気キャラが活躍する液晶画面と、パチスロ初心者でも簡単に出玉が稼げるゲーム性が受け、現在50万台を超える大ヒット。パチスロ史上最高の人気作で、販売台数はギネスブックに申請中だ。】

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「僕たちの好きな北斗の拳(別冊宝島717)」(宝島社)でのアニメ版「北斗の拳」の製作スタッフ座談会より。

(参加者は、高見義雄さん(プロデューサー)、芦田豊雄さん(シリーズディレクター)、須田正巳さん(キャラクターデザイナー)です。ただし、今回の引用部には須田さんのコメント部分はありません)

【司会者:オープニングで、一番最初にクリスタルキングを使ったのは、高見さんの希望なんですか?

高見:いやあ、僕の希望じゃないですけど、やっぱりああいうヒロイックな、刹那さとか永遠なるものとか、そういうテーマを感じさせるようなものを選んだんですよ。今までのラブコメとは違うものを探して、ちょっと背伸びしたというかね、結構実験でしたね。

芦田:ミュージシャンには一種の一発屋っているじゃないですか。まどかひろしとか、横浜銀蝿とか。そこはかとなく行動とかがおかしいんですよ。その典型がクリスタルキングで、一人がちょっといかれたお兄ちゃん、一人がアフロヘアー。あれはもうギャグですよね。だからハマった!あれを選んだのはすごいことなんだよ(笑)。

高見:いろいろ推薦してくるのもあったんだけど、クリスタルキングが一番ぴったりだったよね。キャラクターが変だったから。

芦田:「YOUはSHOCK!」だからね!「ARE」じゃなくて、日本語の「は」なんだよ!(笑)!あれは強烈だし、今でもカラオケで歌ったりすると、盛り上がっちゃう。次はうじきつよしさんなんだけど、うじきさんもおかしいですよね。『北斗の拳2』ではトムキャットのトムも歌ってますし、本当、よくこんなに一発屋を集めたよね(笑い)。】

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 芦田さんテンション高すぎです…
 まあ、この対談が行われた時期には、芦田さんも、まさかパチスロの「北斗の拳」がここまで大ヒットして、「YOUはSHOCK!」が、ここまで話題になるなんて夢にも思わなかったでしょうけど。
 僕は子供の頃に「ザ・ベストテン」で「大都会」の「あーアーーーはてしないーー」という出だしをそれこそ耳にタコができるほど聞かされましたから、あの「クリスタルキング」が「北斗の拳」のオープニングテーマを歌うと聞いたときには、正直ちょっとビックリしました。まだ芸能界にいたんだな、なんて。
 それで、流れてきたオープニングテーマが「YOUはSHOCK!」ですから…
 僕は今朝のラジオで、この曲が再発売されることを知ったのですが、今回あらためてこの対談を読むまで、「YOU ARE SHOCK!」と、どっちだったかなあ、とあまり自信が持てませんでした。あらためて考えると、「YOUはSHOCK!」っていうフレーズは凄すぎです。当時まだ中学生だった僕でも「その英語は何なんだ!」とツッコミたくなりました。
 いや、「YOU ARE SHOCK!」でも、日本語に訳せといわれると「どういう意味なんだそれは…」と悩んでしまいますが。
 そ、それにしても「行動がおかしい」とか「一種のギャグ」とか、言いたい放題だなあ…
 当時は「どうしてこんなに一発屋ばかり集めたんだろう?」と思わせるラインナップだったわけですが(正確には、うじきさんのバンド(子供ばんど)は、この「北斗の拳」のテーマ一発だけになってしまったんですけどね)、それも、制作者側からは「刹那」とか「永遠なるもの」とか、いう裏テーマがあったのか…と感心してしまいました。
 でも、「ふられ気分でロックンロール」ですよ、トムキャットの「一発」って…「刹那」というか、狙っていたとしか思えない。

 そういえば、僕たちも先日の飲み会では、この「YOUはSHOCK!」でものすごく盛り上がったのです。ほんと、ものすごく爽快なんですよ、「YOU ARE SHOCK!」ってみんなで叫ぶと。
 大ヒットアニメの主題歌ということもあって、僕たちの世代にとっては、売り上げの記録以上に強烈に記憶に残る曲だったんだろうなあ。

 しかし、「キャラクターが変だったから一番ぴったりだった」って、褒めてるんだか貶してるんだか…



2004年06月15日(火)
養老先生が「科学者失格」の烙印を押された理由

時事通信の記事より。

【市民団体「タバコ問題首都圏協議会」(渡辺文学代表)が5月31日の世界禁煙デーに合わせて実施した「タバコをやめさせたい有名人」を選ぶコンテストの結果がまとまり、今年はタレントの和田アキ子さんが1位に選ばれた。2位、3位にはそれぞれ常連の木村拓哉さん、明石家さんまさんが入った。
 和田さんは昨年の3位からトップに浮上。応募者からは「顔が広そうなので、和田さんがやめれば芸能界の喫煙率が下がるはず」とのコメントが寄せられた。木村さんに対しては「これから世界で活躍したいなら禁煙しないと」、さんまさんには「トーク番組でひっきりなしに吸っている。人気者なので、やめれば影響力が大きい」との声があった。
 4位以下はビートたけしさん、宮崎駿監督、松本人志さんらで、8位に養老孟司さんが初登場。「ニコチン依存では科学者としての信用が薄い。禁煙してニコチンの真実を語ってほしい」と要望が付け加えられた。島田紳助さんは本来3位の得票を得たが、今年から禁煙しているためランキングから除外された。】

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 要するに「社会的に影響力がありそうな、タバコを吸っている有名人ランキング」みたいなものですね。有名人っていうのは、それはそれで辛いものだなあ、なんて思ってしまいました。
 「タバコは体に悪い」というのは周知の事実なんだから、本人たちも「わかって吸っている、もしくは止められない」はずなのにね。
 まあ、僕自身はタバコは吸いませんし、タバコの煙は苦手です。最近の嫌煙運動で、交通機関でタバコの煙を吸って、ただでさえ酷い乗り物酔いがさらに酷くなることがなくなったのは、心からありがたいと思っています。立場上他人に「禁煙してください」という機会も多いですし。
 でも、このアンケート結果を見ると、なんだかなあ…という気もするのです。
 とくに、【8位に養老孟司さんが初登場。「ニコチン依存では科学者としての信用が薄い。禁煙してニコチンの真実を語ってほしい」と要望が付け加えられた。】なんてくだりでは、「養老先生も大変だなあ」と僭越ながら同情してしまいます。
 養老先生は、脳の研究の世界的権威なのですが、実際のところ「ニコチンの真実」なんてのは守備範囲外なのではないでしょうか?「有名な学者」だからといって、自分の専門外の領域の「真実」なんて語りようもないと思いますし…
 それに、「タバコを吸っているかどうか?によって、「科学者としての信用」にかかわるのか、と考えると、聖人君子でないと学者として認められないのだろうか?とも思うのです。
 僕はアルコールを嗜みますが、肝臓の悪い患者さんに「お酒は止めてください」と指導する機会はけっこうあります。まあ、多くの患者さんは自分の体のことですから「わかりました」と言ってくださるのですが、中には「じゃあ、先生は酒は飲まないんですか!」と食ってかかってこられる患者さんもいらっしゃるのです。こういうときは、なんだか悲しくなってきます。
 「肝臓が悪い患者さんにとって、アルコールは体に悪影響を与える」というのは、いままでの研究や経験に基づいた「客観的な事実」です。その「客観的事実」というのは、その患者さんの目の前の医者が酒を飲もうが飲むまいが、変わりようがありません。だから、その質問自体は無意味なのです。僕が酒を飲もうが飲むまいが、その答えで急に酒が体に良くなったりはしません。
 患者さんにとっての答えは「自分が止めるか止めないか」の二者択一のはず。
 でも、僕たちは、目の前の人間に対して、往々にしてそういう「やつあたり的なモラル」を求めがちなんですよね。僕は別に、サッカーの監督が女性キャスターと不倫してようが、政治家が芸者と変態プレイをしていようが、彼らの本来の仕事である「監督」や「政治」に関して有能であれば、「無能だけどモラルが高い監督や政治家」よりは、はるかに優れていると思います。もちろん、「八百長をする監督」や「賄賂を貰う政治家」は問題外ですし、それぞれの家族に対する責任というのは別にあるのですが。

 僕は養老先生がタバコを吸っていても(僕に向かってフーッと煙を吐きかけられたら怒りますよそりゃ)、それを「科学者として失格」と責めるつもりはありません。「養老先生の研究内容」と「喫煙者であること」は、別問題です。お体のためには止めたほうがいい、とは思うんですけどね。
 
 「タバコは体に悪い」それはもう、客観的な事実です。呼吸器にも悪影響があるし、発癌率も上昇します。でも「タバコを吸う人は悪い人なのか?」という問いには、「そういう嗜好と人格は、直接は関係ないんじゃない?」と答えます。もちろん、アル中で周りに迷惑をかけるようなレベルになったり、快楽殺人が趣味なんていう「迷惑な嗜好」を持つ人は話が別だけど。

 「禁煙の推進」は、本当にすばらしいことだとは思うのです。
 でも、「タバコの害を説くこと」と「喫煙者を責めること」というのは、必ずしも同じことではありません。
 実は「タバコを吸うような悪いヤツ」になりたくてタバコ吸ってる人って、けっこう多いのではないかなあ、という気もするんですよね。



2004年06月14日(月)
大統領とファーストレディと「愛されなかった娘」と

朝日新聞のコラム「天声人語」の6月13日分より。

【「よく私が父の部屋に入っていくと、父は読んでいたメモから目を上げて、いったいこの子は誰なのだろうという顔をしたものだ」。レーガン元米大統領の娘パティ・デイビスさんが幼いころの思い出を『わが娘を愛せなかった大統領へ』(KKベストセラーズ)でつづっている。】

全文はこちらを読まれてください。そんなに長いものではないので、ぜひ。

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 「理想の家族」というのは、所詮、フィクションの中にしかないのでしょうか?
 僕は、子供の頃には「お母さんが働いている家庭」なんてのに憧れていましたし、休日にお父さんが家にいて、家族サービスをしてくれるような家庭を羨ましいと思っていました。いろんなものを「アレ買って!」とねだりながら、その一方で「お金さえ出せばいいと思っている」なんて反発もしていました。傍からみたら、「幸せそうな家族」に見えていたのかもしれないけれど、その「幸福」を実感した記憶というのは、ほとんどないような気がします。
 もちろん「当時は気がつかなかっただけ」なのかもしれませんが。
 
 この「天声人語」で語られている「現在の世界最高の権力者」である、アメリカ大統領の家族の物語は、僕に人間の、そして家族の「業」みたいなものを突きつけてきます。
 「理想の家族」を演じ続けなくてはならない運命を抱えてしまった、どこにでもあるバラバラになってしまった家族の肖像。
 地上最高の権力への階段を登るために、レーガン一家が捨ててきたもの。
 どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションだか境界がわからなくなってしまった「家族」という関係。

 僕は30年以上も生きていますから、「休日は家にいて家族サービス」という親の家庭が必ずしも家庭円満なわけでもないし、ほとんど親が家に帰ってこないような家でも、それなりに仲良くやっていける場合もある、ということを知っています。理想の家庭を築くための方程式というのは存在しないのでしょう。
 今の僕にはその方程式がわからないだけで、世界のどこかには存在するのかもしれないけど。
 「不幸な家庭」を築きたいと考えている人なんて誰もいないはずなのに、すれ違いというのは起こってくるもの。

 元大統領の葬式の際に、パティさんは「心をこめた父親をしのぶ挨拶」を行い、ナンシー夫人は棺に頬を寄せて別れの言葉を囁きました。
 「死」がすべてを洗い流したのか、時間が解決してくれたのか、娘も大人になったのか、それとも、そういう「満たされないもの」もまた、「家族」という繋がりの宿命なのか。

 「完璧な人間なんていない」
 そんなことは、誰かに言われなくてもわかっているはずなのに…

 「完璧な家族」を演じる「普通の家族」って、たぶん「悲劇」ではない、「どこにでもある光景」でしかなくて、それがまた僕をせつなくさせるのです。



2004年06月13日(日)
本当の「被害者」は誰だ?

時事通信の記事より。

【4月にイラクで武装グループに拘束された元人質のフリージャーナリスト郡山総一郎さん(32)が12日、名古屋市で講演し、「やり方は褒められたものではないが、あそこまでイラクの人を追い込んだのは何か。僕らではなく、彼らが被害者だと思う」などと話した。
 自衛隊派遣後のイラク情勢について、郡山さんは「親日だった分、反動が激しかった。私たちを拘束したのが穏健派だから良かったが、自衛隊派遣で対日感情が変わったことを身をもって知った」と指摘。帰国前後に人質の自己責任を問うバッシングが起きたことには「見て聞いたことを伝えるのが私の自己責任」と反論した上、「若い人がイラクへの関心を持ったのは良かった」と話した。】

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 確かに、彼ら(武装グループの人たち)「も」被害者である、と僕は思います。彼らの置かれている現状というのを考えると、そりゃ、座して死を待つより、一矢でも報いてやる、と考えてもおかしくないだろうし。「どうしてテロなんて酷いことをするんだろう?」なんて、とりあえず平和な日本国民である僕などは思わずにはいられないのですが、それはあくまでも今の自分がテロなんて割に合わないことはやらない、と考えているだけのことで、実際にあんなふうに言いがかり的にアメリカ軍に空爆とかされたら、「黙ってはいられない」人がいるのは、全然不思議ではありませんし。
 現在の日本人というのは、、「絶対主義」という世界観からは比較的解放されていて、物事を多角的に見るという習慣がありますから、イラクの人たちに対してそんなに敵愾心を抱いてもいないと思うのです。イラクの人たちも災難だなあ…と思っている人も多いのでは。
 歴史的には、日本人は「有色人種」として西欧に差別を受けてきた時代のほうがはるかに長いはずですし、アメリカ人の中にだって、そういう差別感情が完全に無くなってしまったわけではないでしょう。

 それでも、「人質になった人たち」の言動に対し、多くの日本人が「自己責任だろ!」と罵倒したり、反論したくなるのは、なぜなんでしょうか?
 たぶん、ひとつは「信じるものが無い人間」が「あるものに対して狂信的である人間を目にしたときの恐怖感」みたいなものでしょう。自分を拘束した相手を「向こうが被害者だ」なんて、やっぱり常識的ではないだろうし、この人たちは、仮に東京タワーに飛行機が突っ込んできたとしても、「彼らは被害者だから仕方がない」とか言うのではないだろうか?なんて気もしてくるのです。
 「戦争反対!」「自分たちは弱者!」という「絶対正義」に基づいた主張というのは、実は、彼らが嫌いぬいている「アメリカの正義」と本質的に同じものではないのか、とすら感じます。僕からすれば、いくら被害者でも、外国人を「拘束」するのはやりすぎだし、それが彼らの側からすると「やむをえない事情」に基づいていたとしても、僕たちはそこまで「ものわかりのいい日本人」でいてあげる必要はないでしょう。彼らが彼らを守らなければならないのと同じように、僕たちだって自分や身の回りの人々を守らなければならないのだから。

 それに、アメリカだって実際問題としては、「追い込まれている」のです。もちろんその「程度」は、空爆を受けた地域に住む人々の比ではないかもしれないけれど、平和な街にいきなり民間機が突っ込んできたりすれば、それはもう、「今度は自分の番かも…」なんて不安になるのは当然だし、少しでも将来の禍根になりそうなものは言いがかりをつけてでも潰してしまえ、という「極論」に傾いてしまうのは、やむをえない面もあるのです。「だって、何かが起こってからでは遅いし、次の被害者は自分や家族かもしれないんだぞ」と言われたら、「そんなの杞憂だよ」と断言する自信がありますか?
 テロをやっているのが一部の狂信者たちだとしても、疑心というのは、どんどん広がっていくものです。狂牛病や鳥ヘルペスに対する世間の反応をみると、そういうのは万国共通のものではないでしょうか。

 もちろん、この両者に関しては、大国であり、少しは余裕があるアメリカのほうが譲歩すべきだと僕も思います。そういう「アメリカ国民の危機感」みたいなものを一部の勢力がうまく利用しているという側面も囁かれていますし。
 でも、お互いにそういう「恐怖感」を抱いているという事実は、忘れてはならないことだと思うのです。

 それに、もうひとつ僕はずっと疑問だったのですが「日本が自衛隊を派遣したこと」だけが、対日感情の悪化の原因なのでしょうか?実際、イラク戦争においては、日本はその莫大な戦費のうちのかなり大きな金額を負担しています。問題にするのなら、そのことから問題にすべきなのではないでしょうか?
 「殺し屋を金で雇うのはセーフだけど、自分の手を汚したらアウトなの?」とか考えてしまいますし、第一、自衛隊は現地の人たちのために厳しい環境で頑張っているというのに。どうせイラクに行くなら、現地の人たちに「自衛隊は占領軍じゃない」ってアピールしてくれないものでしょうか?
 もちろん、「軍隊という誤解」を受けているのは仕方がないと思うのです。でも、これは「金で殺し屋を雇ってしまった国」にとっては、せめてもの罪滅ぼしではないのかなあ。これは、日本にとっても「苦渋の選択」なわけだし。
 大事なのは「テロリストにならなくても、安心して生活できる環境をつくっていくこと」でしょう。

 僕は、もし相手が「被害者」だからといって、自分が拘束されたり命を奪われたりするのは嫌なのです。やっぱり、そこまでものわかりがいい人間にはなれません。

 結局、ごく一部の人を除いて、みんな「被害者」なんだけどね…



2004年06月12日(土)
皇太子ご夫妻の「相談相手」

産経新聞の記事より。

【宮内庁の林田英樹・東宮大夫(だいぶ)は十一日の定例記者会見で、皇太子さまが「気軽にいろいろ相談できる人を」と要望されたことを明らかにした。これを受けて宮内庁は、皇太子ご夫妻のご相談相手を外部から求めるため、検討に入ったという。
 宮内庁は、皇太子さまが先月の訪欧前に「(雅子さまの)キャリアや人格を否定するような動きがあった」と発言されたことを受け、平岩外四・元東京電力会長(八九)ら四人いる同庁参与との面会の機会を設けるなどして、ご夫妻に率直に思いを語ってもらうことを想定していた。
 林田東宮大夫は「相談できる人」の年代について「シニアや、もう少し若い方」と述べ、七十−八十代の参与のほかにも、ご夫妻がより年齢の近い人を望まれていることを示唆した。
 また、皇太子さまが「人格否定」発言後の一部報道について、「事実に反した報道がみられ、天皇、皇后両陛下にご心配とご迷惑を掛け心が痛む」と発言したと述べ、憂慮されていることを明らかにした。
 具体的には、敬宮愛子さまが同年代の子供と触れ合う機会を作るために皇太子ご一家で行われていた公園での散策が、両陛下のご意向でできなくなった−などとした一部報道について、「事実でなく、殿下との間でも話題になった」という。】

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 「気軽に世間話ができる人」であれば、なんとかならなくもないと思うのですが…
 僕はあまり誰かに「相談」しようと思うことってないんですよね。友達少ないし、話す前に「こんなこと話しても、相手も困るだろうし」なんて、自分の中で消化してしまうことが多いから。
 もちろん、「先人の知恵」が必要な場合には、教えていただくことはありますけど。
 この記事を読んで僕が思ったのは、そう簡単に皇太子さまの「相談相手」になれるような人がいるのだろうか?ということです。

 たとえば、もしあなたが誰かに自分の家庭の問題を相談しようと思ったとき、どんな人に相談しますか?
 僕なら(もし相談するとすれば、ですけど)、自分に年や境遇、考え方が近い同僚、もしくは、今まで同じような経験をしてきたと思われる年の近い先輩が、その相手になると思います。「人間は年齢じゃない」とはいうけれど、僕の家庭問題を自分の父親くらいの年齢の人とか、20歳くらいの若者に「相談」するというのは、相手にとっても酷というものでしょう。
 そして何より、「天皇家、しかも皇太子家の立場とかしきたり」に対して、実感を持って「親身になれる人」なんて、民間にいるのかなあ…なんていう気もします。やっぱり、そういう「生まれつきの生活環境や常識の違い」みたいなものは、想像力だけで埋まるものではないでしょう。
 傍からみると、本当に皇太子殿下の立場が理解できて「相談相手」になりそうな人って、秋篠宮くらいではないのかな。
 普通の民間人だと、「相談」というより、「ああ、そんなことがあるんですね、大変だなあ…」なんて感嘆するだけで終わってしまいそう。

 天皇家の人々も人間なのですから、さまざまな悩みもあるのだと思います。でも「孤高」というのもおそらく、皇室の宿命なんですよね。そう簡単にワイドショーで「うちのカミサンが…」なんて言えない立場だから、みんなそこに価値を見出すわけで。

 他人に「相談」することって、考えてみればそんなに根本的な解決になることではないのです。多くの「相談者」の真の目的は「話してスッキリする」ことであって、適切なアドバイスを求めることではなかったりしますしね。



2004年06月11日(金)
生活のために「働く女性」と選択肢としての「専業主婦」

共同通信の記事より。

【政府は11日午前の閣議で2004年版の「男女共同参画白書」を了承した。
 それによると、女性の就業をめぐり、「子供ができてもずっと職業を続ける」と中断なし就業を支持する男性が1992年の19・8%から02年は37・2%とほぼ倍増。「子供ができたら職業をやめ、大きくなったら再び職業を持つ方がよい」の一時中断型支持(31・8%)を逆転した。白書は、この意識変化に関し「賃金の伸び悩みやリストラ増加など厳しい経済情勢が影響している」と分析している。
 一方、女性側の意識をみると、中断なし就業支持が増加傾向にあるものの、02年は38・0%で、一時中断型支持が40・6%と上回った。
 夫婦と子供2人の「モデル世帯」で妻が子育て後にパートタイムで再就職した場合、生涯収支の試算は約2400万円の黒字。しかし妻の収入がなければ黒字分の大半はなくなり、厳しい家計の状況が浮き彫りとなった。男性に失業・転職など収入面でのリスクがあるため「今後、家計に占める女性の収入の割合が高まる」と見込んでいる。】

参考リンク:「男女共同参画白書・平成16年版 」の第1部・第3節 男女の意識とライフステージ

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 本題に入る前に。
 この「男女共同参画白書」というのは、WEB上でも見ることができるのですが、けっこう見にくいし、おまけにこの意識調査について、どういう年齢層の人の何人くらいを対象にして調査したのかがわからない(もしくは、非常にわかりにくい)んですよね。こういうのは、そのデータの信頼度にかかわってくることなので、キチンと明示しておいてもらいたいと思います。

 さて、共働きじゃないと、経済的にやっていけない、というのはひとつの「現実」なのかもしれません。でも、それだけが「共働きの理由」ではないような気がします。経済的には共働きを要しない家庭でも夫婦ともに働いている家庭は多いですし。
 僕の母親は、専業主婦だったのですが、僕は子供心に「うちのお母さんも働けばいいのに」とか「女性も仕事を持つべきだ」なんて考えたりもしていたのです。「男女平等」が強く叫ばれていた時代だったし、「働いている友達のお母さん」とか「夕方誰もいない家に帰って好きなテレビを観られる」なんてことに、ちょっと憧れる時期でもありましたし。
 今から考えれば、そういう友達には、それなりの不満もあったのでしょうけど。
 まあ、僕は今でも自分の妻には働いていてもらいたいと考えてはいるのですが、その理由というのは経済的な面というより、「ずっと家にいることで、本人の能力を潰したくない」というのと「ずっと家で待たれていたりすると、僕にとってもプレッシャーが大きい」という気持ちがあるんですよね。
 そういう意味では、この共働きに対する社会の考えの変化としては、経済的な側面と同時に、男の「自信と見栄の喪失」みたいなものも背景にあるのかもしれないなあ、なんて思いました。
 
 実際医者という仕事をしていると、当たり前なのですが周りは「働く女性」ばかりなわけですが、同僚の先生の話を聞いていると、「やっぱり家のことをやってくれるのはありがたい」という男も多いのです。逆に医師免許を持っていても「普通の専業主婦」になる道を選択する人だってけっこういるし、そこまで割り切れなくても、資格を生かしてパートのような形で健診に行ったりするようなケースも多いみたいです。逆に、経済的に満たされていれば、必ずしも「社会に出て働く人生」に喜びを感じる人間ばかりではない、というのも事実だと思います。
 こういうのは、どちらが正しいのかはなんとも言えませんが、今から考えると僕の母親も4人も子供を抱えていましたから、「主婦業だけに忙殺」されていたのかもしれません。
 僕も年をとって、こんなことを考えるようになりました。「専業主婦なんて…」と言う人も多いけど、人間の一生なんて、身近な人間ひとりでも幸せにできれば、それはそれで立派なものなのではないか、と。プール一杯分の水は、ひとりの人間にとっては莫大な量ですが、もしそれが日本中に降り注ぐ雨になるとしたら、僕たちはその水滴を感じられるかどうか?

 僕は「働く女性」を肯定するのと同じように、「専業主婦を選ぶ女性」も肯定したいと思うのです。それは、どちらかが正しい、というよりは、「優れた働く女性」もいれば、「優れた専業主婦」だっているんですよ、きっと。逆に、働いていればいいってものでもないだろうし。
 もちろん、夫婦の関係としてお互いに理解しあえれば、専業主夫だってアリだと思います。僕の周りの女性医師は、みんな「お嫁さんが欲しい!」って言ってますしね。

 いずれにしても、「子供に構う時間を確保するのが難しい時代」であるのは、間違いないことなのですが…



2004年06月10日(木)
負けるなシャープ!!

共同通信の記事より。

【シャープが液晶テレビの製造技術が特許侵害されたとして、台湾メーカーに販売停止を求めている問題で、液晶テレビを販売している大手スーパーのイオンは10日、シャープとの取引を全面的に中止すると発表した。
 取引中止の期間は未定。同社は理由について「本来、メーカー間で解決すべき問題を、小売りの段階まで巻き込むのは遺憾。シャープがイオンのブランドを傷つけてまで自己中心的な企業活動を進める以上、取引を中止する」などとしている。
 イオンはシャープ製の液晶テレビのほかにエアコン、冷蔵庫、電子レンジなど、年間で約70億円販売しているという。イオンはシャープとの取引を当面の間中止、在庫品は撤去を含め対応を検討する。】

関連リンク:台湾製液晶TVで特許侵害、シャープが仮処分申請(読売新聞)

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 イオンさん、それはあまりに「ジャイアン的」ではないですか?
 「本来メーカー間で解決すべき問題」なのは確かなのですが、「自社のブランドイメージを傷つけた」からといって、こんな恫喝めいたことをするなんて!
 
 「東元電機がシャープの特許侵害を実際にしていたのかどうか?」というのが問題の本質であって、実際に特許侵害をしていたのなら、それは許されない行為だと思います。シャープという会社にとって、液晶の技術は、まさに「血と汗と涙の結晶」なのですから。
 それを流通業界の「勝ち組」であるのをいいことに、「うちの看板に傷をつけやがって!」なんて凄むのは、正直なところ腑に落ちません。確かに、その東元電機の製品を「イオン」のブランドで売っていたのだとしたら、ブランドイメージの失墜は免れないでしょうけど、もしシャープの訴えが「濡れ衣」であるならば、堂々と争えばいいものを。
 
 「本来、メーカー間で解決すべき問題を、小売りの段階まで巻き込むのは遺憾。」なんて言ってますが、巻き込まれるどころか勝手に介入してきて商品撤去をやろうとしているのは、イオン側のほうなのに。そして、この70億円もの売り上げを失うのは、シャープにとって痛いことは間違いないわけで。

 シャープは、日本が世界に誇れる企業のひとつだと思っていますし(最初に買ったコンピューターもシャープ製だったし)、こんな恫喝行為に負けてもらいたくありません。イオンにとっては自分の会社のブランドイメージだけが大事なのかもしれませんが、長い目でみれば、そういう問題についてはこんな形の「脅し」よりも、事実関係をハッキリさせたほうが、「消費者に信頼される企業」なのではないでしょうか?こんなのがまかり通ったら、大企業はやりたい放題になってしまいます。
 電器製品に限らず、食品や生活用品でも、「大企業の横暴」が通るようになったらと思うと、不安でなりませんし。

 こんなイオンの横暴なんかに、負けるなシャープ!!



2004年06月09日(水)
寿司屋のカウンターが「高い」理由

「東海林さだおの味わい方」(東海林さだお著・南伸坊編・筑摩書房)より。

【寿司屋……
  寿司屋は、一人の人間が、もう一人の人間の一口分を、わざわざ一口分に形づくって食べさせる商売である。
 食事の始めの一口から、終わりの一口まで、全部一口分にこしらえてくれる。あとはもう口に入れるだけ、という状態にしてくれる。】

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 「寿司屋のカウンターは高い!」というイメージってありますよね。いくら腕のいい職人さんが握った寿司だからといって、どうしてあんなに値が張るんだろう、なんて思いませんか?回転寿司に行けば、それはもう最高級店にはかなわないかもしれませんが、少なくとも寿司屋のカウンターで食べるものと、値段ほど質は違わないような気がします。
 あと、「タクシーって、どうしてあんなに高いんだろう?」なんて思ったことはないでしょうか?車を運転して目的地に行くだけなのに、あの運賃は公共交通機関に比べて高すぎるんじゃないの?って。

 僕はずっと、寿司屋のカウンターとかタクシーというのは「提供されるものに比べて割高」というイメージを持っていたのですが(ほんとうは、寿司屋のカウンターにそんなに縁があるわけでもないんですけどね)、この東海林さんの文章を読んで考えるに、これらの値段は、それなりに「適正価格」なのかもしれないなあ、という感じもしてきました。

 寿司の味の構成要素は、一般的には「ネタとシャリ」なんて言われています。もちろんこの言葉の中には「素材」だけではなくて、料理する人の「加工の仕方」というのも含まれているわけです。
 そこまでは、当然のことですよね。

 でも、よく考えてみると、カウンターで寿司を食べるとか、タクシーに乗るというのは、「寿司を食べる」「車で移動する」という自分の行動のために、他人に「時間と手間を使わせる」ということなんですよね。逆に、1時間なら1時間、誰かの時間を占有してしまうわけですから、やっぱりそれに見合った「対価」というのは必要なのかな、と思うのです。
 もちろん、すべての寿司職人やタクシー運転手が、その対価にみあっただけの「仕事」をしてくれているかというと、そうでもない気はしますけど。

 確かに、「魚と米」という状況から「あとはもう口に入れるだけの寿司」を作るというのは、お客の側からはわからないような手間がかけられているので、一概に「高い!」なんて言ってしまうのも理不尽なのかも。
大量生産のハンバーガーとか牛丼(今はありませんが…)などは、味はさておき、明らかに、店員ひとりが自分のために使ってくれる時間と手間が少ない食べ物、なのですから。

 そういう観点からすれば、「なんの変哲もない家庭料理」というのを世の男性が崇拝するのも、「好みにあっている」とか「懐かしい」というだけではないようです。
「作っている人がかけている手間と時間」を食べる家族の人数で割れば、材料は安くても、かなりの「高級料理」なんですよね。



2004年06月08日(火)
「池田小事件」と「思い出にかわること」

毎日新聞の記事より。

【「子どもが思い出になっていくのが、たまらなくつらい」。事件から丸3年がたった8日、大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)は鎮魂の祈りに包まれた。安全なはずの学校で、8人もの児童の命が絶たれたの乱入殺傷事件。犠牲になった当時2年南組の女児の母と、同西組の酒井麻希ちゃん(当時7歳)の父肇さんが、癒やされぬ思いを語ってくれた。】

記事の詳細は、こちらをご覧ください。

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 誰が言いはじめたのか僕も知らないのですが、「人間は、忘れることができるから、生きていける」というのは真実だと思います。でも、その一方で「忘れてしまうのが辛いこともある」というのも、また事実。
 忘れるのも辛いし、思い出すのも辛い。あの「池田小学校事件」が残した傷跡は、とくに当事者にとっては、あまりに大きいものです。
 常識が捻じ曲がってしまった人間が、自分の都合で8人もの子供の命を奪いました。そこには、「動機」もなく、「目的」もなく、ただ、「そこにいた生徒たちを殺したいから殺した」という、どうしようもない荒野が広がっているのみです。
 「安全な学校を!」とは言うけれど、そんな人間が常に生徒を狙っていることを想定して、厳戒態勢をとり続けるなんて難しいというのは、たぶんみんな理解していると思うのです。アメリカみたいにガードマンが常駐しているような学校よりは、社会に開かれた学校のほうが「教育」という目的には合致しているのではないか、とも思いますし。
 現実問題として、あの宅間のような人間に狙われたら、子供の力ではどうしようもないという気もするし、仮にガードマンがいても状況は変わっていたかどうか…
 ある意味、命を奪われた子供たちは「不運だった」としか言いようがないのではないか、とすら感じられるのです。
 交通事故に遭ったのと同じような「不幸」だったのではないか、と。
 当事者は、もちろんそんなふうな「置き換え」はできないでしょうけど…

 残された人間は、この事件から何かを教訓としなければならない、という気持ちを持ち続けながら生きています。関係者ではない僕からみると、「この事件というのは、異常な人間によって起こった不幸な事件」であって、そこから「残された人たちが、学ぶべきこと」というのが、いくら考えても浮かんでこず、それがまた「救いようのなさ」を助長しているような気がするのです。
 
 それでも、「何か」をこの事件から学ぼうとして、結局、人生の元の地点にも辿りつけずに、時間だけが過ぎていきます。「忘れて新しい人生を」なんて他人が言えることでもないし、当事者にとっては、そうすることは不可能なことで。
 僕たちは、節目節目にニュースや新聞で思い出すことはあるくらいですが、当事者にとっては、その記憶は自分の命が終わるまで、途切れることなく続いていくはず。

 「忘れることは悲しいけど、思い出すのも辛い」
 世界っていうのは、前に進んでいるつもりでみんな同じところをぐるぐると回っていて、何か起こるたびに「誰がこんな世の中にしたんだ!」なんて、実際には存在するはずもない特定の「誰か」を責め続けて、また同じところをぐるぐる回っているだけなのかも、などと思うことがあるのです。

 こうやって考えることができるというのが、唯一の「生きている人間の特権」なのかもしれませんし、少しずつでも前に進んでいると信じたいのだけれど…



2004年06月07日(月)
「偉大なる大統領」ロナルド・レーガン

日刊スポーツの記事より。

【旧ソ連との本格的軍縮と冷戦終結に道を開いた米国の第40代大統領ロナルド・レーガン氏が5日午後(日本時間6日未明)、カリフォルニア州の自宅で死去した。93歳だった。アルツハイマー病を患い、米カリフォルニア州の自宅で療養していた。

 保守主義に基づく「強い米国」の象徴として2期8年を全うした。楽観主義を振りまき「グレート・コミュニケーター(偉大なる対話者)」と呼ばれ、引退後も高い人気を維持してきた。

 ブッシュ大統領は5日、訪問先のパリで「米国を回復させ、世界を救った偉大な米国人が去った」と弔意を示した。ワシントンで国葬が営まれるが、日程は未定。

 レーガン氏はハリウッドの映画俳優から政界に転身。カリフォルニア州知事を経て、1980年11月の大統領選で共和党から出馬。現職のカーター大統領(民主党)を破って当選、史上最高齢の69歳で大統領に就任した。

 ペレストロイカ(改革)路線のゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任したのをとらえて包括軍縮交渉を開始。87年12月に「中距離核戦力(INF)廃棄条約」に調印し、本格的な核軍縮を達成。緊張緩和の流れを決定的にした。】

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 レーガン元大統領の病状が思わしくないことは、これまでにも再三報道されてきましたし(パーキンソン病で、ナンシー夫人のことも誰だか理解不可能な状態、というようなことも言われていました)、93歳という年齢もあって、この訃報を耳にしたときの僕の印象は「そうか…」という一抹の寂しさとある種の納得が入り混じったものでした。しかし、その後のさまざまな取り上げられ方を観ていると、ロナルド・レーガンという大統領は、僕が抱いていたイメージよりもはるかに、世間に(とくにアメリカの人々に)とっては、「偉大な大統領」だったのだなあ、と感じました。
 レーガン大統領の任期は、1980年から8年間ですから、僕にとっては、「政治」というものをなんとなく意識し始めた時期から、大学に入る前、という時期でもありましたし、高校の寮で聞いた「ベルリンの壁が崩壊した!」というニュースには、本当に驚いたものです。当時は、「俳優上がりで『強いアメリカ』ばかりを謳っている、やや時代錯誤気味のオッサン」というのが、僕の正直な印象でしたし、中曽根元首相との「ロン・ヤス」なんて、馴れ馴れしい人だなあ、なんて軽薄さすら感じていましたから。
 冷戦時代の終焉は、レーガン大統領とソ連のゴルバチョフ大統領の活躍が、もちろんあったとは思いますが、貢献度に関しては、ゴルバチョフ>レーガンのような気がしますし、ある意味「時代に恵まれた人」だったのかもしれないなあ、なんて思います。共産主義の崩壊は、思想的な行き詰まりというよりは、経済的な要因が大きかったわけですし。

 しかしながら、僕の中で「アメリカの大統領」というイメージを映像にしてみると、その演壇に立っている人の顔は、ロナルド・レーガンに似ているような気がします(次点はクリントン)。アメリカでは、ケネディやリンカンーン、ワシントンという偉大な大統領に並ぶ評価をされているのだとか。
もちろん、まだ記憶が生々しい時代と「歴史」の一部とでは、比較のしようがないところもあるのですが。
 リアルタイムでの日本にとってのレーガン大統領は「アメリカの都合」を押し付けてくる、「アメリカ至上主義者」である一方で、日本という同盟国に対して、例の「いかにもアメリカ人」な明るくて希望に満ちた表情で、「友人」として語りかけてくる存在だった気がします。
 少なくとも、そんなに「凄い大統領だ」というイメージではなかったのになあ。
 そこが、「愛される理由」なのかもしれないけれど。

 今朝のテレビで、当時の中曽根首相と会談した場所の地元の人が、この訃報に対して、こんなことを言っていました。「役者上がりなのに、大統領にまで偉くなられて、本当に凄い人だと思います」就任時には、レーガン大統領が「B級のハリウッド俳優出身」であったことは、さんざん笑いものにされていたような記憶があるので、歴史というのは、人間の評価をこういうふうに変えていくものなのだな、なんて感慨深く感じました。豊臣秀吉も、当時の人にとってはこんな感じだったのでしょうし、田中角栄という人も、しだいに立志伝中の人物になりつつあるようですし。

 僕の中では、好き嫌いは別として、いちばん「自由の国・アメリカ」の大統領らしい大統領だったと思います、レーガンさんって。自由の国といっても、ケネディ家とかブッシュ家みたいな「名門」じゃないと、なかなか大統領になれないのは、日本もアメリカも同じだから。



2004年06月06日(日)
本当の「リスク」とは何だろう?

「翼の王国」(全日空の機内誌)2004年6月号のコラム「起業家のリスク」(文・斎藤清美)より。

【だが、リスクとは何だろう?
 アメリカのある教授がビジネススクールの学生に、何をリスクと思うかと尋ねたところ、一人の学生が「アントレプレナー(起業家)になること!」と発言し、他の学生たちもうなずいた。すると、その教授は一人のアントレプレナーの言葉を引用した。
『どんなことがリスクだろう?収入源が一つしかないことだと私は思う。サラリーマンはリスクを背負っている。給料の出所が一か所しかないからだ。ビル清掃会社はどうか。客が100社あれば、収入は100か所から生じることになる』。(「となりの億万長者」トマス・J・スタンリー、ウイリアム・D・ダンコ 早川書房)
 不祥事の発覚やトップの経営判断の誤りで、突如会社が傾くことがある。サラリーマンの場合、個人の努力とはまったく無関係に、突然会社の外に放り出され安定収入を奪われるリスクがつきまとう。それでいて、どんなに頑張って働いても給料は「安定」していてさほど上がらないのだから、考えてみると実に割に合わない商売だ。】

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 確かに、「自分で会社を起こして独立」なんて話を聞くと、僕も「大丈夫かなあ…」なんて感じてしまいます。まあ、テレビとかに出てくる「起業家」の人たちには、怪しい人が多いので、そういうイメージが染み付いてしまっているということもあるのですが。
 しかし、こういうふうに言われてみると、確かに「サラリーマンというのは、割に合わないリスクを背負わされているにもかかわらず、『安定している』という幻想のもとにこき使われている職業なのかもしれないなあ」なんて気もしてきます。
 最近世間を騒がせた、銀行や自動車メーカーの不祥事にしても、実際に現場で働いている社員の人たちは「自分にはどうしようもない状況」にもかかわらず、矢面に立たされて、顧客に「お宅のメーカーは…」なんて責められたり、リストラの危機に直面したりしているわけです。そりゃ、同じ会社の「社員」であっても、ディーラーで働く一社員が日本中での状況を把握しているわけもありませんし、リコールのお知らせができる権限もないに決まっているのに。
 会社の上層部にとっては、これは「因果応報」なわけです。今まで自分たちがやってきたことの「結果責任」ですから、同じ社会的非難を受けるにしても、当然のことのような気がします。
 逆に、彼らはうまくやっていれば、賞賛を一身に浴びていたのだから。
 自分で車を運転していれば、事故に遭う前にハンドルを切ることもできるでしょうし、結果として事故にあっても「自分の責任」として諦めもつくでしょう。
 でも、他人が運転している車で事故に遭うというのは、やっぱりなんだか心残りなところもありますよね。

 ひょっとしたら「安定している」というのは、「自分で責任を取らなくてもいい」という本当の理由を隠すための表向きの自分への言い訳なのかもしれないなあ、なんて思いました。
 とはいえ、他人を乗せて運転するというのは、けっしてラクなことではないのでしょうし、無謀な運転をされては他のドライバーにも迷惑がかかるのも間違いないことなのですが。



2004年06月05日(土)
まず、「ドラえもん」を全巻買わなくちゃ、と考えた。

「ぼくドラえもん・第6号」(小学館)に寄稿された、よしもとばななさんの「共通の言葉」という文章より。

【子供ができたとき、まず考えたことは「ドラえもん」を全巻買わなくちゃ、ということだった。「ほかにやることあるでしょう?」と今は冷静に思えるけれど、そのときはとにかくそうしなくちゃ、と思ったのだ。

 私は幸福なことに、「ドラえもん」の中に出てくる子たちとほぼ同じ時代を生きている。おやつはどら焼きで、まだ居候なんていう概念が生きていて、海外旅行が珍しくて、原っぱや土管があるあの時代だ。

(中略)

 この漫画が存在すること自体がすでにビッグなビジネスであることを、藤子先生は意識していなかったわけではないだろう。でもなによりも、読者の子供たちに向かって先生は描いていた。一日一日の時間をけずって、もしかしたら命もけずって、先生はこの日本の社会にある種の健全さを示し続けていたのだと思う。

(中略)

 私は、私の息子にも無造作に、いつもその辺にある本として、読みながらいつのまにか寝ちゃってよだれがついてしまうような感じで、ドラえもんを読んでほしい。それで、せりふとか考え方とかの中に、自分も参加しているみたいな気持ちになってほしい。いつのまにかあの漫画に出てくる生き生きとした人たちが息子の中にも友達みたいに存在していてほしい。のび太くんは映画以外では全然ヒーローじゃなくてなまなましく弱いけれど、その弱いところも嫌いにならないで、許してほしい。】

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 よしもとさんは僕より7歳年上ですから、「ドラえもん」のリアルタイムな印象は、僕よりもさらに強いんだろうな、なんて思います。
 僕も「ほぼ同世代」ではあるのですが。
 
 子供ができたときに、まず考えたことが「ドラえもんを全巻買い揃えること」だったというのは、僕にはとても印象深い話でした。
 僕は旅行の準備をする際に「着替えとか歯磨きセット」よりも先に「旅行のあいだに読みたい本」をピックアップするのを優先してしまうタイプなので。
 もちろん、現実問題としては「ドラえもん全巻」よりも必要不可欠なものはたくさんあったのだろうけど、よしもとさんが最初にそんなふうに考えたというのは、彼女のやや浮世離れした人柄とドラえもん、そして生まれてくるわが子への愛情が伝わってくる話なのではないでしょうか?

 世の中には、いろんな褒め言葉があるとは思うのですが、「自分の子供に読ませたい」というのは、最上級の褒め言葉なんじゃないかという気がしますし。

 僕も「ドラえもん」が大好きな子供でした。そのころの僕は、ドラえもんが出してくれるひみつ道具に憧れて、「僕だったら、あれをもっとうまく使いこなせるのに」と苛立たしく感じたり、「さようなら、ドラえもん」の回で、ドラえもんが安心して未来に帰れるように、ボロボロになって自分ひとりでジャイアンと闘ったのび太の姿に涙したりしていたものです。
 
 大人になった僕には、本当は、ドラえもんに出てくるキャラクターたちは、みんな弱くて、ずるくて、ワガママな連中だということがよくわかるのです。でも、それこそ「人間」なんだよなあ、という気もしてくるのです。だからこそ、憎めないし、共感できるのでしょう。
 第一「ドラえもん」って、映画版以外でハッピーエンドの話は、ほとんどないんですよね。

 子供にとっての「健全さ」って何だろう?もう大人になってしまった僕にとっては難しい問題です。
でも、この文章を読んで「真剣に子供のほうを向いているけど、子供騙しじゃない」ってことなのかな、なんて考えました。

 僕も、自分の子供に「ドラえもん」をさりげなく読ませたいなあ、と思っています。きっと気に入ってくれるのではないかなあ、と。
 とはいえ、子供にとっては、僕は「サザエさん」を観ているときのような印象で、「近所にこんな公園なんてありえない…」とか感じたりするのかもしれませんけどね。




2004年06月01日(火)
「健康的な人たち」を支える「不健康」

日刊スポーツの記事より。

【女子ホッケー日本代表にビッグボーナスが飛び出した。日本ホッケー協会は5月31日、都内でアテネ五輪代表16選手と日本マクドナルド株式会社との2年間のスポンサー契約(推定1000万円)締結を発表した。全国3800店舗のマクドナルドに勤務する約13万人の店員が制服に応援バッチをつけ、サポーターになるという。そして選手が何より喜んだのは…。
 今後2年間、マクドナルドで「食べ放題」の特権が与えられた。代表選手には顔写真入りメンバーズカードが送られ、全国どこでも自由に食事できる。いつもは厳しい表情の三浦主将も「てりやきマックバーガーが大好き。五輪まではヘルシーに我慢しますが、終わったら毎日行くかも」。副将の森本は「遠征先でも行ける。マクドナルドの全国制覇を目指します」と興奮を隠せなかった。
 女子ホッケーといえば従来の年間強化費は約2000万円。サッカーの180分の1の額。遠征もままならず、ホテル代わりに大学の寮に宿泊していた。強化費ねん出の募金まで始めていた。だが今月から遠征での自己負担も消え、すべてが代わりつつある。】

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 女子ホッケー日本代表の選手の皆様、おめでとうございます。あれだけ日夜努力しているのに、手弁当で遠征とかされていたわけですから、この1000万円のマクドナルドからのスポンサー契約は、非常に嬉しいことでしょうね。せっかく日本代表になったのに、マイナー競技であるばっかりに、自ら募金活動ではちょっとかわいそうですから。
 もっとも、世界には強化資金を集めるためにヌード写真集を出したケースもありますから、「マイナー競技にとりつかれてしまった人々」というのは、その競技のためなら苦難を厭わなくなっていくのかもしれません。
 逆に、バスケットボールのNBA選手を集めた「ドリームチーム」なんて、同じ「オリンピックに出場する選手」でも最高級ホテルに宿泊して、超一流シェフを連れてきていたりするわけですから、「お金になる競技かどうか?」で、同じオリンピック種目、同じメダルでもかなりの差があるような気もします。
 だからこそ、こうやって同じフィールドに立てる「オリンピック」というのは、価値があるものなのかもしれませんが。

 それにしても、女子ホッケーの年間強化費が年間2000万円で、サッカーがその180倍、というのは凄い格差ですよね。もちろん、競技人口が少ない分だけ、オリンピックへの道は「広き門」にはなるのかもしれないけど、ここまで待遇が違うと思うと、やっぱり情が移るしなあ。

 マクドナルドとしては、年間1000万円のスポンサー契約というのは、けっして「ものすごい金額」ではないと思います。あれだけ日頃からテレビでCMを流している会社ですから、宣伝広告費はその100倍くらいはあるのではないでしょうか?
 でも、そんな「ちょっとした善意」というくらいの金額で、女子ホッケーの選手たちは大助かりだし、メダルにでも手が届けばマクドナルドも万々歳でしょう。ひょっとしたら、こうして「マクドナルドがスポンサーになった!」と報道されている時点で、十分元は取ってたりもするのかも。

 しかし、こうして考えてみると、「健康」の象徴のようなスポーツ界をスポンサーとして支えている企業の多くは、酒やタバコやファーストフードといった「あまり健康的でない嗜好品の業界」なんですよね。
「五輪まではヘルシーにガマンする」っていう主将のコメントは、裏を返せば「マックはヘルシーじゃない」ということだから。

 とすると、このコメントはマズイような…