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2003年09月30日(火) ■ |
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福山雅治の偉業に「えっ?」と思ってしまった男。 |
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サンケイスポーツの記事より。
【4人組ロックバンド、ロードオブメジャーが24日発売の初アルバム「ROAD OF MAJOR」でオリコンチャート初登場1位を記録。インディーズの初アルバムの初登場首位は史上初の快挙。インディーズの首位は史上3組目、初登場での首位は同2度目。同シングルチャートは福山雅治(34)の「虹」が、平成7年のH Jungle With t(浜田雅功と小室哲哉のユニット)以来、8年5カ月ぶりに5週連続1位を記録した。】
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いきなり、ロードオブメジャーの話は、こっちに置いとかせていただきます。 それで、僕が「えっ?」と思ったのは、そのあとの福山雅治さんの「虹」が、8年5ヶ月ぶりの5週連続1位!というところなのです。 つまり、この8年5ヶ月間、5週連続1位の曲は出ていなかったということなんですね。 もちろん、ミリオンセラーは何曲もあったわけですが、その中でも5週間連続1位すらなかったなんて… たぶん、今の中高生なんかは、「5週連続1位なんて、奇跡的!」とか思っているに違いありません。 でも、僕の中には、あの怪物番組「ザ・ベストテン」の幻影が生き続けているのです。 西城秀樹「ヤングマン」の「9999点!」とか寺尾聡「ルビーの指輪」の「12週(だったよね?確か)連続1位!」とかを観てきた人間にとっては、5週間なんて、たいしたことないんじゃないかなあ、という思いが、ついつい胸をよぎってしまいます。 しかし、今から考えると、「どうして同じ曲が12週間も1位なの?」とか思ってしまうかもしれませんね。当時は、ビデオなんてほとんど普及していませんでしたから、好きな歌手の動いている姿を観るのもけっこう大変だったのです。 そういう意味では、昔に比べて、音楽の選択肢というのは圧倒的に増えているんでしょう。
まあ、最近は「何曲連続初登場1位」の人たちとかもいて、なるべくたくさんの曲が1位をとれるように、「棲み分け」をしているのかもしれませんが。
その一方で、「H Jungle with T」とかでも、「懐かしいなあ」とか思っていたりもするんですけど。
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2003年09月29日(月) ■ |
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巨人・堀内新監督=「抵抗勢力」という解釈 |
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報知新聞の記事より。
【中5日と先発完投。登板間隔が短くなり、責任回数は長くなる。堀内氏は一見、矛盾した2つの目標を同時に実現させる考えだ。
現役時代の経験から「中3日、中4日でもできた」という。背景にあるのは根性論ではない。メンタルとコンディションのバランスだ。「登板間隔が短いと、考える間もなく出ていく。その方がいい場合もある。中6日で打たれたら、1週間に1度なのに何でだ?と(周囲が)考えるだろ」調整期間が長すぎると体調の維持が難しい。特に負けた後は次回登板まで長く感じるもので、精神面も不安定になりがちだ。
「つぶしたくないから」と極端な登板間隔の短縮はしないが、近年の巨人では異例の中5日ローテーションの確立を目指す。6連戦の場合は、火曜日に投げた投手が中4日で日曜日に回る。】
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アンチ巨人の僕としては、頼もしい堀内さんの監督就任、という感じです。 まさか、本当に原さんが辞任しちゃうとは思っていなかったのですが。
まあ、この世間の「原監督解任バッシング」には、実際のところ、原監督を惜しむ気持ちと同時に、後任の堀内監督に対する不満という要素も大きいのではないかなあ、と。 僕が堀内さんの現役時代をよく知らない(もちろん、200勝以上もした名投手だというのは、知識として持ってはいますが)ということもありますが、少なくとも野球解説を聞いている限りでは、ちょっと時代錯誤で偉そうなことばっかり言っている人、という印象がありました。 投手コーチとしての実績、なんて言いますが、巨人というのは、もともと優秀な完成品を多く集めてきているチームですから、あんまりアテにはならないと思います。今のオリックスの投手陣を再建したとかなら、崇め奉りますけど。
多くの若い野球ファンにとっては、時代が逆行したというか、自民党総裁選で亀井さんが小泉さんに勝っちゃったような感じなのではないでしょうか?
それに「自分の若いときは…」とかいう指導者に、あまりロクな人がいないというのは周知の通り。だいたい、200勝投手を基準に「俺ができたから、お前もできるだろ!」とか言われる巨人の投手陣がちょっとかわいそうです。 人並み外れた能力があったから、200勝もできたわけで、巨人のピッチャーがみんな名球界クラスなら、監督が何もしなくても優勝できますよ普通。 西武の松坂クラスばかり10人くらいいるような投手陣なんて、ありえない。
それに、投手の登板間隔については、最近はフォークやスライダーといった、肩や肘に負担がかかる変化球がないと打者を抑えられなくなり、投手の負担は増していく一方なのです。それに応じて、中6日が主流になっているわけで。 野球を知っている若い人で、「一週間に一度なのになんで打たれるんだ!」なんていう人は、あんまりいないと思われます。 メジャーリーグは、先発の登板感覚は短い(中4日が当たり前)ですが、先発投手の球数をチェックして、早めの継投をするチームがほとんどです。
まあ、ひょっとしたら1年くらいはピッチャーがムリすればそれでやっていけるかもしれませんが…
「名選手、必ずしも名監督ならず」というのは、昔から言われていることです。 名選手には、そうでない人間の気持ちや「選手たちが、どうして自分と同じことができないのか?」がわからない。 もちろん、野村監督のように、名選手と名監督を両立させた人もいるのですが。 堀内新監督は、果たして、そのジンクスを打ち破ることができるでしょうか?
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2003年09月28日(日) ■ |
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オトコの深層心理を浮き彫りにする、戦慄の心理ゲーム! |
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「愛のトンデモ本」(と学会著・扶桑社)より。
(心理学者・齋藤勇さんの著書「心理ゲーム恋愛編」(ネスコ・文藝春秋)に対するツッコミの文章です)
【このような質問がある。
《◆か・つ・こ・ほ・ふ・す・う・ゆ・ぬ・く・し・い
一番美しいと思うひらがなは?》
この質問で何を調べようというのだろうか? その解説はこうである。
あなたのロリコン度はどのくらい?
(中略)
選んだ文字によって、その人の好みの女性像が見えてきます。
い・こ・う……ロリコン つ・く・し……超ロリコン ほ・ぬ・ふ……妖艶タイプ ゆ・か・す……年相応 】
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この本の解説によると、「画数が少なく、空間的にも小さい文字を美しいと答えた人は、女性の未成熟なういういしさに好意をもつ人です」ということなのだそうです。 それとは逆に、「ほ・ふ・ぬ」など画数も多く、空間的にも大きな文字が美しいと答えた男性はロリコンとは逆で、妖艶でセクシーな円熟した女性が好きなタイプといえます」だそうです。
もちろん、この齋藤さんの本の内容について、統計学的に調査したとかいう記述はなく、洒落の範囲なのかもしれませんが、それにしても…という気がします。 だいたい、ひらがなに「美しさ」とか、好き嫌いなんてのがあるのかどうか? 自分や好きな人の名前に含まれている文字に愛着がある人もいるかもしれませんが、普通、あんまり意識したことはないと思うのです。
いくらなんでも、この本は極端だと思われるかもしれませんが、僕たちが大好きな心理ゲームというのは、せいぜい星占いや血液型占いと同レベルのものなのではないかなあ、という気がします。 人間の性向なんて、何種類かの類型的なタイプに、そう簡単に分類できるわけではないですし。 ましてや、星座占いなんてのは、1億2千万人が、12種類の運命にキッチリ分けられるわけでもなく。 でも、そう言いながらもなんとなく、「B型の人とは気が合わない」とかいうのと同じように、心理学者の言うことだから…と信じてしまっている人もいるんじゃないでしょうか? 新聞の星座占いなんて、朝読んだら、その日に何が起っても当たってるような気がするし、夜に読むと全然当たっていなかったりするものです。
そういえば、先日、TV番組で細木数子さんが出演されていたとき、出演者のたくさんの芸能人に「あなたは大きなカネを掴む!!」と言っていたのには、大笑いしてしまいました。 まあ、大勢の人にそう言っておけば、誰か大金持ちになって「ありがとうございました」ってお礼してくれますからねえ。外れた人は「占いだから」って文句の言いようもないし。
大事なのは、言っている内容よりも「心理学者が言っている」とか「細木さんが言っている」という理由で、それが正しいと思い込んでしまう人がいること、なんですよね。
それにしても、単純に考えて、男の半分は大なり小なりロリコンなんでしょうか? う〜ん、それは確かに、そんな気もしなくはないかも…
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せっかくなので、ちょっと宣伝させてください。 (たぶん、ココにこんなに人が来ることは2度となさそうなので)
「いやしのつえ」がメインサイトですので、お立ち寄りいただけると嬉しいです。
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2003年09月27日(土) ■ |
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「邪教の徒」の著作を現代に伝えてきた人々 |
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「ローマ人の物語〜ローマは一日にして成らず(上)」(塩野七生著・新潮文庫)の文庫版序文より。
【長かった中世時代を通じての書物とは、修道僧たちの苦労の結果である筆写本であったのでした。人間の手で一字一句を書き写していくのですから、当然のことながら部数も限られてくる。値のほうも高価になる。それゆえに、一般の読書人には手の届かない存在でありつづけたのです。印刷技術の発明は、この限界を取り払った。しかも、利点はこれだけではなかった。
修道士たちは、彼らにとっては邪教の徒であるギリシアやローマ時代の人々の著作でも、まじめに筆写はしてくれたのです。古代の著作が現代にまで遺れたのは、彼らのおかげであったと言っても言いすぎではない。しかし、修道僧とは、キリスト教に生涯を捧げた人々です。キリスト教徒が読むには適していないと法王庁が定めた作品は、筆写はされても、修道院の奥深くに眠る歳月がつづいたのでした。
それを探し出し世に出したのが、ルネサンス精神に目覚めた人々です。この人々の探究心の源は、ルネサンスの別名と言ってもいい「古代復興」が示すように、キリスト教が支配する以前の文化と文明への関心にあったからでした。そして、この精神運動と呼応するかのように、印刷技術の発明が起る。出版業の誕生は、この二つがドッキングした結果です。】
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そして、印刷技術の発明と人々の「読書欲」が、教会からの精神的、経済的な自立をすすめ、出版業を発展させていった、という流れを塩野さんは書かれています。。 この文章の中で僕が気になったのは、中世時代に書物を筆写していた修道僧たちのことでした。彼らが、キリスト教の教義に外れた、もしくは人々が読むのにふさわしくない、と考えていた本に対しても一生懸命筆写していたことが、その後の文化の伝承に繋がっていくわけですから。 もちろん、筆写されることもなく歴史に消えていった書物もたくさんあるのでしょうが… それにしても、キリスト教の教義に生涯を捧げたはずの修道僧たちにとって、これらの書物を筆写するというのは、いったいどんな心境だったのでしょうか? 「なんで俺がこんな本を…」とかブツブツ言っていた人もいたでしょうし、「教義はさておき、この本は人類の遺産として遺しておく必要がある」という意識を持っていた人もいたでしょう。 中には、勉強がしたくて修道院に入った人もいたかもしれません。
「書き写す」という行為は、価値を認めていたということですが、その一方で、それらの写本は教会の奥深くに秘蔵されていたわけです。 それらの「教義に合わない本」のハマってしまった修道僧なども、きっといたんでしょうね。
人間というのは、ほんとうに矛盾したところがありますね。 教徒のためにならない、と考えていたものを一生懸命に保存し、伝承してきたのですから。 現代から考えたら信じられないような宗教裁判や、戦争の引き金になったりと、宗教にはある種の「罪」もあるでしょう。 しかし、このようなおおらかさも抱えていたからこそ、人類の文化は今まで生き延びてきた、ということなのでしょうね。
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2003年09月26日(金) ■ |
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暴力のチカラ。 |
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時事通信の記事より。
【暴力団追放を掲げた北九州市小倉北区鍛冶町のクラブ「ぼおるど」が暴力団組員に手りゅう弾とみられる爆発物で襲撃され、従業員が重軽傷を負った事件で、姉妹店で営業を再開していた同クラブが休業していることが25日、分かった。 「ぼおるど」は事件が起きた5日後の8月23日から、同じビル2階の姉妹店「かるぼ」で営業を再開。小倉北署は24時間態勢で警備に当たっていた。 しかし、同クラブ経営者が今週初めごろ、同署の渡辺晋也署長を訪ねて「当分の間、店を休業します」と伝えた。同クラブの閉じられたシャッターには「お客様はじめ従業員にこれ以上、ご迷惑が掛かりましてはおわびの方法がありませんので」などと書かれた張り紙があった。】
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たぶん、現代の日本に生きる人間の多くは、「暴力反対」だと思うのです。 でも、こういうニュースを聴くと「暴力の効果」というものを考えてしまいます。 悔しいけれど、やっぱり「暴力のチカラ」というのは、かなり強いものなのだなあ、と。
このクラブの経営者は、北九州の繁華街の「暴力団追放運動」に、ずっと関わってきた人物だそうです。そのため、地元の暴力団から目の敵にされ、今までも糞尿をまかれたり、イヤガラセを受け続けていたとか。そして、ついに今回の手榴弾投げ込み事件が起こったのです。 犯人1人が死に、従業員9人が重軽傷を負われた今回の事件のあと、街の声は「暴力団許すまじ!」というものでした。 8月19日には、福岡県議会が「暴力団壊滅」を全会一致で決議しています。
しかし、現実問題として、僕が北九州の人間で、今夜飲みに行くとしたら、やっぱり「ぼおるど」には行かないと思うのです。やっぱり、お酒を飲むんだったら楽しんで飲みたいし、警察官に警備されているようなクラブには近寄りがたい。何か事件があったときに巻き込まれるのはゴメンこうむりたい。 それは、多くの人の偽らざる心境なのではないかなあ、と。 従業員だって、「暴力団反対よりも、当面自分が安全な店のほうがいい」と思うのは、自然な感情だと思いますし。
心の中ではこのクラブを応援しつつも、やっぱり店には行かない。 目の前で身内が襲われているならともかく、わざわざそんな危ない橋を渡りたくない。
おそらく、それが普通の人間というやつで、そして、そういう感情こそが、「暴力」というものを実際の威力以上に効果的にしているのです。 「巻き込まれたらイヤだ」をどんどん広げていくと、「とりあえず、目をつけられたらイヤだから、アメリカの味方をしとくか…」というような発想になってしまうのではないでしょうか。 アメリカ=暴力団というのは短絡的&失礼だとは思うのですが、かの国が世界最大の「暴力」を掌中にしていることは事実ですし。
ヤクザ映画が大好きだったり、「番長」なんて呼ばれて乱闘のときにひときわ輝く野球選手がいたりするのをみると、「僕たちはけっこう暴力が好きなんじゃないか?」と暗澹とするときがあります。自分自身の中にも、暴力的な衝動を感じることもあるのです。
暴力にはチカラがあります。それは間違いないこと。 「ペンは剣より強い」なんて、理想論です。 でもね、そんな理想論すら失われたら、終わりだと思う。
先日、「イスラエル空軍のパイロットのうち二十数人が、アラブ人地区への空爆の任務を拒否した」というニュースを聞きました。 彼らは、「その任務に黙って従っているよりはるかに危険な行動」を示したわけです。 両者の戦闘力を考えたら、任務を拒否して処罰されるよりは、言われた通りに空爆していたほうが、はるかに危険は少ないはず。 無力な市民を巻き添えにしてしまう空爆ではあっても、その任務を拒否することには大変な勇気が要るはずです。
僕たちは、「暴力反対!」とお題目を唱えながら、暴力を見て見ぬふりをして、暴力に負けている一方、実際に戦争をやっている人たちが、命をかけて暴力のチカラに抗おうとしているのです。なんだか、ちょっと恥ずかしい。
まずは「本当は暴力が好きな自分」と戦うことからなのかもしれません。
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2003年09月25日(木) ■ |
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東京大学がMacintoshを選んだ理由。 |
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朝日新聞の記事より。
【東京大学が、大学院と学部の全学生約3万人や教職員が学内で使う共用パソコンで、アップルコンピュータのデスクトップ型「iMac(アイマック)」を来年3月から導入する。現在の共用機は、無償で公開されている基本ソフト(OS)「リナックス」をベースにした簡易パソコンだが、5年の更新期を迎えるのを機にマックに切り替える。現在は原理的にはOS最大手のウィンドウズも使えるが、来年3月以降は、一部の高機能パソコンを除き共用パソコンの大半でウィンドウズが使えなくなる。
東大は、駒場第1と本郷、柏の3カ所のキャンパスに共用パソコン約1400台を置き、情報交換網システム(LAN)で結ぶ。
マックを導入する理由について、東大では「ウィンドウズに比べて様々なソフトの導入がしやすく、不具合が起きても自分で直しやすい利点がある」と説明している。
アップルコンピュータの日本法人は、米国で実績がある教育機関向けの市場開拓を進めてきたが、「パソコン1000台を超える規模の受注は初めて」としている。 】
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日本マクドナルドの経常利益赤字転落、オリックスのマック鈴木火ダルマ、と厳しい状況が続いている(?)Mac陣営としては、久々の朗報と言えましょう。 何で今さら、Macなの?と思う人も多いと思うのですが、研究者とか医者とかクリエイターのような、「ちょっと人とは違う仕事」をしていると自負している人種は、けっこうMacが好きなのですよ実際。 まあ、そういった個人個人の好みはともかく、僕も研修医の最初のころはMacを使っていました。しかしながら、田舎の電気屋に一台だけ置いてあったパワーブックですから、メモリの増設をしないとどうしようもないにもかかわらず、店員も「いや〜、Macのことはよくわかんないんですよね〜」なんて言ってましたけど。数 日後にプレゼンテーションしないといけない状況で、急いで買って帰ったのですが、ソフトをインストールしようとしていきなりメモリ不足になってしまったのにはびっくり。増設しないと4Mくらいしかメモリが無かったのだと思います、確か。
そんなこんなで、そのMacはまともに使いこなせなかったのですが、気持ちとしてはマイナーなMac派、ではあったわけです。医者というのは、デザイナーと並んでMac好きな人種といわれていて、周りもMac派が多かったですし。
しかし、4年前に買い換えるときに、ソフトの多さと価格からWindowsに転向して、それ以来は、Windowsマシンをメインで使い続けています。 今では、Macの使い方はほとんどわかりません。 「どうして、このマウスはボタンが1つしか無いんだっ!」って。 実際、医者の世界でも、最近入ってきた研修医たちは、どちらかというとWindows派が多いんですよね。主に使うソフトがパワーポイントやWORDであれば、全然困らないわけですから、同じくらいの性能で安いほうがいい、というのはある意味当然でしょう。
世間では圧倒的にWindowsが多いのに、なぜにいまさら、日本でいちばん大きくて影響力のある大学がMacなの?将来困らないのかな…とか疑問になりませんか?偉い人でMacフリークがいるのかな、とか思ってみたり。
たぶん、価格の問題とか、ウイルス対策とか、いろんな問題があるのでしょうけれど、それでも今回の東大のMac導入は、ちょっと不思議な感じがしました。
「ひょっとして、職員にネットワークゲームをさせないため?」などと勘繰ってしまったのは、僕だけですよね、きっと。
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2003年09月24日(水) ■ |
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テレビショッピングでは買わないものと買ってしまうもの。 |
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時事通信の記事より。
【「今回限り限定販売」「通常1個1万円のところを6個で1万円」。テレビ番組で貴金属や健康器具などを紹介、販売するテレビショッピング番組に対する苦情が増えているとして、公正取引委員会が実態調査したところ、消費者の誤認を招きやすい事例が多数あったことが24日、分かった。 公取委によると、調査は昨年9月と10月、全国の消費者モニター40人が地上波をはじめBS、CS、ケーブルテレビの各ショッピング番組をチェックする形で実施。その結果、88番組、407の商品の表示に問題があったことが判明した。 代表的な例としては、「限定何個」「残りわずか」などと極端に希少性を強調したものや、単品で販売したことがないと思われるような貴金属を「通常1個1万円のところを今回は6個で1万円」などと表示したケースがあった。 また、健康飲料やブラシで、スポーツ選手や多くの美容師が使っているとそれぞれ誤認させるような表示もあったという。】
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確かに、テレビショッピングというやつは、よく考えてみれば怪しい限り。 1万円の商品を限定300名としたら(しかも、売っている人たちの言葉を信じるならば、「たいへんお得な商品」だとしたら)、その商品の儲けって、はたして、あのテレビの番組の枠を買えるくらいの金額があるのだろうか?って。 だって、限定1本の包丁をさらに1本!なんて、タダかよ、と。 まあ、流通経路をスキップできるのと通販会社の宣伝という側面もあるだろう、という感じで、僕はあんまり深くは考えていなかったのですが。 なんにしても、慈善事業ってわけじゃないのは確かでしょう。
実際、通販で買うものって「自分でもよく価値がわからないもの」がほとんどだと思います。 自分がよく知っている商品については、「これ、安くないんじゃない?」と思うことも多いですし。 例えば、「最新型パソコンが、プリンターやデジカメまでついて、なんと、17万円!」なんて言われて、よく型番をみてみれば、「それって、パソコンもプリンターもデジカメも、全部旧型の機種じゃないの?」ってツッコミたくなることってないですか?
僕には、宝飾品や台所用品、ダイエット食品の「適正な市場価格」なんて、全然わかりません。 日頃興味もあんまりないし(本当は、ダイエット食品には、興味ありますけど)、積極的に買おうとしたこともほとんどありません。 そういう目であの番組を観ると「安い!かもしれない…」という心境になってくるのです。 そして、いかにも自分に必要なもののような気がするから不思議なものですね。 自分の興味が無かったものだから、なおさら「どんなものなんだろう?」と興味が湧くし、商品を見てみたくなるのです。 自分に理解できるもの(僕にとってのパソコンなど)では、「安さ」を感じないし、あまり心が動かないのに。
ものの値段には、それなりの理由がある、ということでしょう。 もっとも、100円ショップのように、「大量現金仕入れで、原価100円以上のものを安く仕入れて売る」なんてケースもあるので、消費者にとっての上手い買い物の方法だって、存在するのは間違いないのだけれど。 でも、「自分で本当の値段がイメージできないもの」については、よく考えてから買ったほうが良さそうですね。 まあ、お見合いと同じで、釣書以上の実物には、なかなかお目にかかれない、ってことで。
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2003年09月23日(火) ■ |
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「やってもらえないとわかってもらえない」 |
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「ファミコン通信」2003年9月26日号の記事より。
(「ドラゴンクエスト8」を開発中のゲームデザイナー・堀井雄二さんのインタビューより)
【インタビュアー「ゲームの置かれている状況が変わってきましたよね」 堀井「ゲームにはふたつの要素がありますよね、ひとつは暇つぶしの要素と、もうひとつはエンターテインメントの要素。暇つぶしは、いまは携帯電話のメールとかインターネットでできてしまうんです。だから、ゲームが売れなくなったと。本当にやりたいゲームしか買わない」 インタビュアー「そうすると、ゲームの作りかたも変わってきますね?」
堀井「やっぱり、やってもらえないとわかってもらえない、ということがありますよね。実際、やればおもしろいのだけれど、やるまでにいたらないという惜しい作品が多い。ちゃんと遊べるゲームが10000本くらいしか売れなかったしますから」】
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あるゲーム作家のインタビューに、「ファミコン初期のころは、作ったどうしようもないゲームが『20万本しか売れなかった』ということで会社からお灸をすえられた」という発言がありました。 本当に、昔は「どんなゲームでも売れる」という時代だったのです。 発売されるゲームの種類そのものが少なくて、僕たちは常に新しいゲームに餓えている状態でしたから。
でも、最近は「一部の有名ゲーム以外は、売れない時代」と言われています。「売れない」という先入観があれば、そういった新しいゲームには開発費も人手も時間もかけられないでしょうから、一部の続編ゲーム以外は、いいものをキチンとつくること自体が難しくなっているのです。 おまけに、ゲーム自体もどんどん複雑になってしまって、「暇つぶしの道具」から、一生懸命説明書を読まないとついていけないものになってしまいましたし(もちろん、手軽に楽しめるものもたくさんあるのですが)、そのおかげで、とっつきが悪くなってしまった印象は否めません。
それでも、「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のような有名ゲームの続編は、「きっと面白いはず」というプレイヤーの信頼がありますから、最初のとっつきが悪くても「もう少しガマンして遊んでみよう」と思ってもらえるわけです。 でも、これが無名のゲームだったら「つまんない」でオシマイ。 いや、それどころか、現在のようにゲームが氾濫している状態だと、面白くても宣伝がされていなければ「手にとってももらえない」という状況のようです。
僕も、きっとこの世界には、僕が見落としている面白いサイトや面白いゲームや本、面白い人がたくさん隠れているという気がするのです。 でも、その存在に気がつくこともなく、生き急いでいく人生。 今のやりたくてもやる暇がないゲームたちを昔の僕にタイムマシンで送ってあげたくて仕方ないくらいなのに。
もちろん、「ドラゴンクエスト」のように、「常に期待される存在」には、それなりのプレッシャーもあるのでしょうが。
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2003年09月22日(月) ■ |
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病気の子供を置き去りにした母親の「残酷性」について。 |
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秋田魁新報の記事より。
【病気の6歳の長男を連れ出して置き去りにしたとして25歳の母親が保護責任者遺棄容疑で逮捕された事件で、山形県警捜査一課と村山署は19日午前、行方不明になっている長男翔君(6つ)の捜索を始めた。
事件は今年5月初め、容疑者(母親)が翔君を連れて岩城町の実家を家出。2人はその後、同容疑者が出会い系サイトで知り合った男性(29)と山形県村山市内のアパートで暮らしていたが、翔君は6月から行方が分からなくなっていた。 】
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僕は今朝のワイドショーでこのニュースを知ったのですが、この25歳の母親は風俗店勤務、交際相手の男性は、無職で出会い系サイトで知り合った、と、まさに「いいかげんな母親像」が強調された番組構成だったと思います。 いや、僕も正直、「これは酷い話だ…」と絶句してしまいましたが。
でも、そのワイドショーのコメンテーターたちが、この翔君の話題で涙を流し、「ひどい母親だ!」と怒リまくっていたのを観て、なんとなく、違和感を感じてしまったのも事実。 たとえばこれが、「60歳の息子が、介護疲れで90歳の父親を殺害!」なんて話であれば、けっこうみんな「介護も大変だろうしね…」とか同情してしまうのではないでしょうか? 「弱い立場」であることは、子供でも寝たきりの高齢者でも同じことなのですが。
僕は子育ての経験はありませんが、仕事柄、障害を抱えてしまった子供や親御さんに接する機会は何度かありました。やっぱり、それはとても大変なことなのです。 子供のために仕事をやめなければならなかったり、「かわいそうねえ、うちの子は丈夫でよかったねえ」という同情で修飾された憐れみを受けたりするのは、非常に辛いことのようです。 翔君が「死んでしまって遺体を埋められた」のか、あるいは、殺されてしまったのかは、今の時点ではわかりませんが、いずれにしても、この母親は「ひどい母親」で、無責任だと僕も思います。 多くの障害を持つ子供を育てる親たちは、辛い状況に耐えているのですから。
でも、その一方で、「親が無責任だ」「子供がかわいそうだ」 という、この母親を責めるだけの結論は、あまりにも短絡的なのではないかなあ、という気もするのです。 もし自分が、この母親の立場だったら…と考えると、僕は普通に子育てをする自信がありません。25歳で、はたしてどの程度、自分の人生を子供のために犠牲にできるだろうか… 「それが親というものなんだ」と言われたらそれまでなのですが。
いちばん良いのは、「最初からを子供つくらない」ということなんですけどね。 親が寝たきりになるのは自分の責任ではないにしても、子供ができるのは自分の責任の場合が大部分であるわけですから。まあ、若いから、風俗店勤務だからいいかげんな母親だ、というのも、先入観のなせるわざなんですが。
でも、本当になんとかならなかったんでしょうか?実家の親に預けるとか、施設に預けるとか。それが簡単なことじゃないってのもわかりますけれど…
今回の事件で、最大の被害者が翔君であることは間違いないことです。ひとり取り残されたときの彼の気持ちを想像すると、やりきれない気持ちになるのです。
それにしても、「普通に子供を育てていく」というのは、なんて大変なことなのだろう、とあらためて考えてしまいました。「親の責任」とはいうけれど、まさに、「子供に親は選べない」一方で、「親も子供を選べない」わけですし。
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2003年09月20日(土) ■ |
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仙台文学館の館長給与額の妥当性と「文学館」の存在意義。 |
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河北新報の記事より。
【仙台市が管理する仙台文学館(青葉区)で、館長を務める作家の井上ひさし氏に市が2002年度に支払った給与と観覧料総収入の差がわずか14万円で、01年度は給与の方が100万円近く上回っていたことが19日分かった。同日の市議会決算等審査特別委員会で市が明らかにした。
井上氏は1999年3月の開館当初から市歴史文化事業団非常勤嘱託職員の立場で館長を務めており、月額50万円、年間600万円の給与が支払われている。02年度の勤務日数は延べ13日間だった。
文学館は99年度に約5万2000人の観覧者が訪れたが、2000年度は約3万人、01年度は約2万500人まで落ち込んだ。02年度は約2万4500人と持ち直したが、減少傾向が続いている。
「井上氏の貢献度は大きいが、(給与額には)割り切れない思いもある」と指摘した委員に対し、市民局は「井上氏の人的ネットワークを活用させてもらっている上、文学館の看板的な存在で(給与は)妥当だと思う」と理解を求めた。
「就任丸5年を迎える来春を区切りに、名誉館長に就任してもらってはどうか」との提案に対し、藤井黎市長は「(就任5年は)1つの大きな検討の時期だと思う」との考えを示した。】
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仙台文学館は、東北新幹線の仙台駅よりバスで約15分の立地。入館料は、大人400円、こども(小中学生)100円、高校生200円。ただし、特別展・企画展は別料金、ということです。
この記事からすると、要するに「年間延べ13日しか勤務していない井上ひさし館長が、毎月50万円もの給料をもらっているのはおかしい」というのが、「わりきれない思い」の委員の意見なのでしょう。 その気持ちは、わからなくもないですが。
それにしても、年間約2万5千人、という入場者数は、週一回の休館日があったとして、だいたい1日平均80人くらいの入場者数、ということになりますね。もちろん季節や曜日によっても違うでしょうし、寒さの厳しい地域ですから「冬場はほとんど人が動かない」ということで、季節による差もけっこう激しいのでしょうが。 それにしても、開館時間が1日8時間として、1時間に10人。うーん、さすがにちょっと閑散としてるかな…という感じですね。 ただ、こういう「文学館」というのは、日本中にたくさんあるのですが、実際に年間5万人の来館者があるところは、日本中でも10箇所くらいなのだそうです。
「文学館」の中には、人気作家個人(たとえば、太宰治とか)を扱ったものと、その地域の歴史的な流れを扱ったものがあるらしいのですが、仙台文学館は、後者にあたります。ちなみに、扱われている作家は、島崎藤村や土井晩翠、真山青果など。魯迅も仙台で学んでいたことがあるそうです。 しかしまあ、正直なところ、やや地味なラインナップというか、エース不在というか、好きな人じゃないとキビシイかな、という感じですね。 「絵画」というのは、例えばピカソの絵なら、ピカソに対する知識がなくても、それを見ることによって、人はなんらかの感情を持つことは可能です。先入観がある人はあるなりに、そして、ない人はないなりに。
しかし、「文学」というのは、ある程度予備知識を必要とするものです。 テレビ番組などで、ある作家の人生を知って、作品に興味を持つことは珍しいことではないかもしれませんが、文学館の展示物として何の予備知識も無しに、有名作家の貴重な初版本、とか直筆の手紙、なんてのをいきなり見せられても、「字、読みにくいよ、これじゃ編集者は大変だったろうなあ」というような感慨しか抱かない人も多いでしょう。 まあ、興味がない人は、最初から来ないのかもしれませんが。
それに、特別展などで頑張っているとはいえ、こういう施設は、とくに常設展については、なかなか更新されないホームページみたいなものですから、時間が経つにつれて入場者数が減少してくるのには、致し方ない面もあるのではないかなあ、と思います。
僕個人としては、井上ひさしさんの給料は全然不当なものではないと考えているのです。 この地味なラインナップの文学館がそれなりに話題になったのは井上さんの知名度が大きかったでしょうし、1年間に延べ13日現場で勤務していたとしたら、井上さんの1回の講演料などを考えたら、むしろリーズナブルな価格なのではないかなあ、と。 こういう施設は、あまり大赤字では困りますが、お金のことより多くの人に観てもらうことを重視すべきだと思いますしね。 まあ、井上さんは槍玉に上げられただけで、その他の人々の人件費や施設の維持費を考えたら、毎年かなりの赤字なんでしょうけれど…
こういうニュースを聞くと、あらためて、「文学を広めることの難しさ」を考えてしまいます。 やっぱり、受け手の側の努力の必要性は、絵画や彫刻より高いのではないかなあ、と。 逆に、「美術館に行かなくても『本物』に接することができる」というのは、大きな魅力なんですけどね。
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2003年09月19日(金) ■ |
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那珂川に、飛び込む阿呆に観る阿呆。 |
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日刊スポーツの記事より。 【福岡ダイエーホークスのパ・リーグ優勝が間近となり、福岡県は19日午前、九州最大の歓楽街である福岡市・中洲の那珂川に架かる「福博であい橋」に、川に飛び込まないよう呼び掛ける立て看板を増設した。 県は阪神のセ・リーグ優勝が近づいた4日に1枚目の立て看板を設置。19日には4枚増やしたほか、水深調査の結果も掲示した。福岡県警はダイエー優勝の場合、600人態勢での警備を検討している。 同橋は歩行者専用の橋で、川を管理する県によると、橋から川底までは約8メートルあり、干潮時には水位が数十センチにまで下がることがある。99年と00年にダイエーがリーグ制覇した際は、この橋から合わせて約900人がダイブ。打撲などのけが人が多数出た。】 〜〜〜〜〜〜〜〜 「飛び込む人たち」は、大阪だけじゃない、と。 報道によると、道頓堀に飛び込んだ人たちは5300人(ただし、これは水増しされていて、実際は2000人くらいだった、という説もあります)もいたそうなのですが、ここまでくると、もう圧倒的としか言いようがないですね。 「行政の責任」って言っても、どうこうできるレベルじゃありません。 飛び込んで(飛び込まされて?)亡くなられた方もいらっしゃったようですが、「飛び込まないで!」というワイドショーのアナウンサーも、口でそう言っているだけで内心は、「どんどん飛び込んだほうが、面白い映像になる」なんて思っているんじゃないでしょうか?実際に止めているシーンは、まったくありませんでしたし。 それにしても、九州最大の歓楽街である、この中州の橋は、飛び降りるには危険すぎるところです。 橋は川底から結構高いし(8メートルというのは、ビルの2〜3階くらい)、水位も低いので、前回のときも怪我人続出でした。 ここに何千人も飛び込めば、とんでもないことになりそうです。
「繁華街からの川への飛び込み」を誰が始めたのかはわかりませんが、何も大阪と同じことをしないでもいいのになあ、という気もしますが。 しかし、この看板、「行政は予防しようとした」という言い訳以上の利用価値は、たぶんないでしょうね。よく歓楽街で「ここで小便するな」という看板が、「ここでみんなやっているんだな」ということで、酔客の絶好の排尿スポットになってしまっているように、かえって「ああ、ここがみんな飛び込む場所なんだな」というアピールにしかなっていないかも。 だいたい、「飛び込みたい人」っていうのは、野球チームとかサッカー日本代表のファンというより、日頃の鬱憤の捌け口を求めているようなものですからねえ。
この「飛び込みプレイ」を止めさせる唯一の方法って、おそらく、マスコミがこういう「熱狂的なファン」を自称する人々の行為を一切報道しないことではないか、という気がします。 そういうのが流行りだとか、それをやれば目立てる、という先入観がなければ、「それでも飛び込む!」っていう人は、あんまりいないんじゃないでしょうか? でもねえ、僕を含めて、やっぱりみんなそういうニュースを観て、「バカだねえ」と言うのがけっこう好きなんですよね。踊る阿呆に観る阿呆。
まあ、「祭り」なんてのは、基本的に危険なものなのかもしれませんけど。リオのカーニバルなんて、それが当然のように、毎年何人か亡くなられる方がいますし…
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2003年09月18日(木) ■ |
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ハドソン高橋名人が語る、「裏技」のルーツ。 |
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「CONTINUE(コンティニュー)Vol.11」(大田出版)の記事「高橋名人インタビュー」より。
(一世を風靡した、ファミコンの「裏技」のルーツについて)
【インタビュアー:「裏技」という言葉もありましたよね。 高橋名人:そうそう。裏技もこの頃(1985年の秋くらい)に生まれた。ファミコン版『ロードランナー』で、ハシゴで右手を上にして止まっていると敵がすり抜けていって死なないという一種のバグが発売後に見つかって、すぐに100万本も出荷しちゃってて「どうしよう」となった(笑)。それでコロコロ(コミック・小学館)さんとも話をして、「だったら、これに名前をつけるといいんじゃないか」ということになったんです。 「普通のプレイが表なんだから、裏ということで、裏の技…裏技!いいじゃん!」と。だから、すべての裏技は『ロードランナー』が始まりです。それで裏技という言葉ができたから、「隠しコマンドとか入れてみるのも面白いなぁ」ということで、狙っていろいろ裏技を入れたの。そしたら、とあるメーカーがバグをすべて裏技と言い張っちゃうなんてことをしたりして。画面が止まったら「これは画面が止まる裏技です」とかね。どう見たってバグだろって(笑)。それでウチは「それバグ技じゃん!バグ技と裏技は違うんだ!」と主張したね。ウチも最初はバグだったのに(笑)。】
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懐かしい&面白くて、ついつい長い引用になってしまいました。 16連射!で一世を風靡し、マンガやゲームの主人公にまでなった、高橋名人こと高橋利幸さんのインタビューの一節です。
ファミコン直撃世代だった僕には、「裏技」(ウルテク、なんて言い方もありました)探しに夢中になった時期が確かにありました。 「グラディウス」の最強コマンドとか、「ゼビウス」の無敵モードとか。 当時のファミコン雑誌には、普通のゲーム紹介記事より「裏技」のページの方が多かったような記憶すらあります。
その裏技のルーツが、この『ロードランナー』というゲームのバグだったんですね。しかし、このバグが発見されたとき、開発担当者およびバグをチェックする人は、顔面蒼白になったに違いありません。 100万本も売れた大ヒットゲーム、しかも当時はカートリッジトによってゲームが供給されていましたから、これを回収して直してもとに戻す、なんてことは、あまりにも非現実的なことでしょう。大損害確実。
しかし、そこに大逆転の発想が。 「コロコロコミック」は、あの頃は子供たちの流行を支配していましたから、バグが「裏技」になってしまうことによって、僕たちは、ゲームに「誰も知らない裏技を探す」という新しい遊び方を見つけたのです。 途中からはメーカー側もそれに気がついて、あえて「隠しコマンド」や「隠しステージ」を入れていましたし。
「裏技」のルーツは「バグ」だったわけですが、確かに、どう考えてもバグで、何の役にも立たないのが「裏技」として紹介されていたこともけっこうありました。 「スーパーマリオブラザース」の256面なんてすごく有名で、「カセット半分ずらし」とか、子供心にも、「それは壊れてるだけなのでは…」と思うような「裏技」でしたし。 「これをやってファミコンが壊れても編集部は責任を持ちません」って書いてありましたが、そりゃそうだよね。壊そうとしてるようなものだもの。 それでも、その「256面」の掲載誌はバカ売れしたのです。
ああ、それにしても懐かしいなあ、「裏技」なんて。 あのころのゲームには、作り手にも受け手にも、「ゲームなんだから、楽しければなんでもあり!」っていうおおらかさがあったような気がします。 最近では、ゲームが多すぎて、裏技探してる余裕もないものね。 何かあったら、すぐ「リコール!」だし。
昨今トラブル続きの●イクロ●フト社も、ハドソンを見習ったらいいかもしれませんね。 「セキュリティーホールが…」 「それは、コンピューターの情報を外部に漏らすことができる『裏技』です」 「ウイルスに感染して、パソコンがおかしいんです」 「ああ、パソコンをフリーズさせる『裏技』ですね」
やっぱり、ちょっと厳しいかな…
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2003年09月17日(水) ■ |
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「みんなで遊園地!」って、あんまり楽しくないかも… |
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「トゲトゲの気持」(阿川佐和子著・中央公論新社)のエッセイ「当世遊園地事情」より。
(阿川さんが昔からの友人と女性2人で最近遊園地に行ったときのエピソード)
【選んだアトラクションの乗り場に着くと、 「一つのボックスに二人ずつお座りください」 係員の指示に従い、ボックスに足を入れる。と、座った座席は縦に細長く、シーソー版のようにまたぐ格好になる。しかも前後に境がない。ここに二人が前後ピッタリ密着した状態で、両足を広げて座れと言うのか。 「なんだか不気味」 安全ベルトを締めると二人の身体がさらに接近する。 「ちょっと、そんなにくっつかないでよ」 「しょうがないじゃない。触っちゃうんだから」 照れると笑いが止まらなくなる。しかし、発車する前から興奮しているのは私たちぐらいで、他の若者乗客は、さして気にしている様子がない。いかにもデートらしき男女のカップルも、平然とした顔で密着している。 ギャーヒーと、急降下急カーブに悲鳴を上げたのち、地上にもどってまたもや驚いた。見渡せば、どの乗り物も前後ラヴシート状態なのである。】
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いや、30代、未婚、もちろん子供無しの僕にとっては、遊園地という場所は、最近すっかり縁がなくなってしまった場所ではあるのですが。 これを読んでいて、今から10年くらい前、大学の部活で遊園地に行ったとき、とても辛い気持ちになったことを思い出しました。 そのときは、部活のメンバー20人くらいで、けっこう大きな遊園地に行ったのです。都会っ子なら露知らず、僕たちはウブで硬派を自認していましたから、行動は、基本的に男女別でした。 でも、そのころから遊園地ってやつは、すっかりカップル仕様になっていたんですよね。 アトラクションは、みんな2人単位のシートになっており、運悪く3人で行った日には、ひとりはあぶれてしまいます。後ろの席にひとりポツンと座っているのは、すごく居心地が悪かったです。 男2人、女1人でジェットコースター!というような状況でも、結局男2里が並んで座って…というふうになっていました。もちろん、男1人に女2人だと、女2人が並んで…ということに。 まあ、今から考えたら、勿体無いオバケが集団で登場しそうな話なのですが、みんなの目があるから、特定の人とイチャイチャするわけにもいかないし、「大勢で行く遊園地っていうのも、なんだか面白くないなあ…」と心から思ったものでした。
遊園地が「みんなの遊び場」から「カップルのデートスポット」に特化してしまったのは、今から考えると、バブルの頃からでしょうか… 家族連れは、ディズニーランドのような大型テーマパークに行くようになってしまい(逆に、行かざるをえないようになったのかも)、絶叫マシーンの過激さが、遊園地の生き残りの鍵になってしまっています。
それにしても、最近のカップル用遊園地のアトラクションでの密着度って、確かにすごいですよね。 お前ら人前でそんなにベタベタするな!って八つ当たりしたくなるくらい。 別に、ジェットコースター上で密着しなくても、後から2人で密着すればいいのにねえ。
あれに男2人で乗るのは、別の意味で勇気が要りそうな気がします。
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2003年09月16日(火) ■ |
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松井秀喜の阪神優勝に対する「素っ気無いコメント」 |
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日刊スポーツの記事より。
【ヤンキース松井秀喜外野手(29)は、阪神優勝の感想を求められると「特にないなあ」とあっさりとしたものだった。 かつては阪神ファンだった松井だが、10シーズンも巨人で過ごす間に、当然ながらその気持ちはだいぶ薄れてしまった。 その巨人が優勝争いから早々と脱落し、連覇を逃したことについても「いろんな年があるということ」と、淡々とした感想だった。】
〜〜〜〜〜〜〜 なんというか、こんな質問をすること自体がバカバカしい、としか言いようがないんですが… 確かに松井選手がプロ入りする前は、阪神ファンだったと言われているのですが、巨人で10年間プレーして、今年ヤンキースに移籍したばかり。一緒にやってきた、チームメイトの心中を思えば、「おめでとう」なんてお世辞でも言えるものではないでしょう。 まあ、巨人についても、「淡々とした感想」ということで、さすがにオトナだなあ、と思います。 内心、「俺にそんなこと聞くなよ」とか思っているかもしれないけれど。
世間は「阪神優勝で大盛り上がり」、ということになっていますが、僕の住んでいる九州などは静かなものですし、おそらく、日本の大部分はクールな反応なのではないでしょうか? それは、阪神が人気がない、ってわけじゃなくて、いくら野球がメジャーなスポーツでも、贔屓のチームが優勝したくらいで川に飛び込んだりする人はごく少数なわけで、おそらく興味がなかったり、ファンだとしても、嬉しくて晩酌の量が増えたり、テレビを観て舌打ちしたり、というレベルの人が大部分だと思うのです。 テレビやスポーツ新聞などで大々的にとりあげられているために「社会現象」のようにイメージじけられているだけのこと。阪神優勝で道頓堀に飛び込んだ人は、きっと、ワールドカップのときも飛びこんでたんじゃないかなあ。 あのときだって、日本中で暴徒が大暴れしていたわけじゃないですから。 流行りモノ、というのは、「みんなが興味がある」と思われがちですし、興味を持った人ばかりメディアで強調されるために、なおさらそういうイメージが植えつけられがちなのですが、多くの人は「無関心」である、というのが現実なのです。 だって「阪神優勝、どうですか?」というインタビューに対する「関心ないです」という市民のコメントがテレビに放映されることなんて、絶対にないですよね。 マスコミにとって面白い、極端なものが抽出されて「世論」というやつは作られていくわけです。
松井選手だって、ヤンキースは優勝争いの最中で、日本のプロ野球どころじゃないはずなのに、そんな質問をされて、迷惑だったんじゃないでしょうか? だって、どう考えても「特にない」とか「関係ない」としか答えようがない質問ですから。 どうせなら、新庄選手に聞けば、面白いコメントをしてくれたような気もしますが。
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2003年09月15日(月) ■ |
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アンチ阪神にとっての阪神優勝(阪神ファン閲覧禁止)。 |
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「大阪の神々」(わかぎゑふ著・集英社文庫)より。
【大阪にあり、大阪人の話題の中心になり、商売人が得意先の相手と喋るきっかけを常に提供してくれるのだから、タイガース様々ということなんである。 商売人がそう思うということは、つまり家の「お父ちゃん」が思うということである。一家の中で父親が阪神ファンなら必然的に子供もそうなる。それが三世代くらい続いているので、阪神の人気は不動のものになっていったのだろう。いずれにしても、大阪の飲み屋で阪神タイガースの悪口だけは言わないことだ。周りが立ち上がるとか物騒な話ではなく、他の客が気分よく飲めないので、店主が「金はええから出ていってくれるか」と言い出すからである。 極度の阪神ファンのことを「虎キチ」と言うのだが、うちの近所のタバコ屋のおばちゃんもそうだった。阪神が負けると店を閉めてしまうのである。 私が子供のころの話だが、今みたいに自動販売機でタバコを売ってない時代だったので、店を閉められては明日のタバコに困ると、父親が閉められる前に買いに走って行ってたのを覚えている。】
〜〜〜〜〜〜〜
阪神ファンの皆様、リーグ優勝おめでとうございます。
さて、残念なことに僕は阪神ファンではありませんので(というか、アンチ巨人・阪神です)、どうか、純粋な阪神ファンの方は、この先は読まないで、他のファンの方の文章を読んで優勝の喜びに浸っていただくよう、謹んでお願いいたします。
ということで、僕は阪神というチームが大嫌いです。 あれだけ巨人を敵視しながら、金をばらまいて戦力補強し、星野監督がマスコミを巧妙に使っているところをみていると、なんだかなあ、と思ってしまうのです。結局、プチ巨人が、巨人がコケたから優勝しただけ。チームが強くなったとたんに雨後のタケノコのように出現しまくる、にわかタイガースファンの人々や「経済効果が…」などと騒ぎまくるマスコミも。そんなの、スポーツの結果とは別だろ、と。
しかし、この、わかぎさんの文章を読んでいると、「まあ、たまには勝たしてやってもいいかな」という気もしてきます。 長年「弱い阪神タイガース」を応援し続けてきた人々にとっては、今日はまさに「晴れの日」なのでしょうから。
僕は広島ファンなので、今年の阪神、とくに金本選手については、誰か頭にデッドボールでも食らわしてやれ!とずっと思っていましたし、いかにも昔から阪神の選手だったように振舞う姿に今でも納得できません。 阪神ファンからすればヒーローでも、広島ファンからすれば、単なる裏切り者でしかないわけです。ましてや移籍した翌年に優勝してしまうのですから、恨み骨髄に徹す、という感じ。 テレビで彼の姿を観るたびに、チャンネル変えてましたし。
あるチームが優勝する、ということは、その裏に、「優勝できなくて悔しい思いをしているチームと、そのファンがいる」ということなんですよね。 今回は阪神の番だった、ということだけなのですが、まあ、おかげで喜んでいる人たちがあんなにたくさんいるんだから、今年は仕方がないよね、というふうに考えることにしましょうか。 確かに、阪神というのは、なんのかんの言っても、日本で有数の「愛されているチーム」なのでしょうから。
僕は、今日と明日は絶対に、スポーツニュースやニュースサイトは観ないようにしたいと思います。観たらまた腹立ってくるし。
それにしても、今年もプロ野球はつまらなかったなあ… 全体のレベルが下がってるよ絶対。
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2003年09月14日(日) ■ |
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「敬老の日」が廃止されるかもしれない時代 |
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共同通信の記事より。
【5人に1人が高齢者−「敬老の日」にちなんで総務省が発表した統計調査によると、15日現在の65歳以上の人口(推計)は昨年より71万人多い2431万人で、総人口に占める割合も19・0%となり、人数、割合ともに過去最高を更新した。 男性は1026万人(男性人口の16・5%)で、初めて1000万人を超えた。女性は1405万人(女性人口の21・5%)。75歳以上は、昨年より51万人増え1053万人となったが、男性384万人に対して女性が669万人と男性の1・7倍だった。 日本の65歳以上の割合は、イタリア18・2%(01年)、ドイツ17・1%(同)フランス16・1%(03年)など欧米諸国を上回った。1990年ごろは各国を下回っており、日本の高齢化は急速に進んでいる。】
〜〜〜〜〜〜〜
日本の高齢化社会は、本当に急速に進んでいるみたいです。 病院で働いている人間にとっては、65歳なんて、まだまだ若いというのが実感なのですが(それも科によって違うとは思うのですけどね)。 もちろん、人間にとって命はもっとも大事なもののひとつですから、長生きできるようになった、ということは素晴らしいことだと思うのです。 でも、その一方、いろいろな歪みが生じてしまっていることも事実で。 高齢者の介護の問題にしても、最近では、90歳の親に60歳の子供、なんてケースは、けっして珍しいことではないのです。 「お年寄り」が「お年寄り」を介護しなくてはならない時代。 それにもかかわらず、法制度の改正により、病院では経営上長期療養が難しくなってしまい、高齢者は家族が世話をしていかないといけなくなっているわけです。 「家族なんだから、自分の親の世話くらいするのが当然」 それは、確かに「正論」ではあります。 しかし、その「正論」のために、自分の人生を犠牲にして、親の介護をしなくてはならない人も、どんどん増えてきているのです。 親の介護をしている間に自分も年をとってしまい、解放されたら、すぐに自分が介護される順番… こうなってくると、高齢化社会というのは、けっして人間の「実際の寿命」が長くなっているわけではないんじゃないか、とすら思えてきます。 「病院は冷たい」なんて言われますが、実際のところ病院だって経営的にはいっぱいいっぱいで、これ以上自分の足を食べて生きていくわけにもいかない状況なのです。
そして、人口構成がこうなってしまった以上、60歳代の人を「年寄り」扱いしていられなくなってもいるんですよね。それは、年金問題などでも明らかなことで、これからの日本は、どんどん高負担で低福祉の状態にシフトしていかざるをえないでしょう。「人間を長生きさせるための医療」に対するコスト制限も厳しくなっていくでしょうし。 そのことを社会問題として認識していたとしても、自分の身内の生死となると、それはまた別の話。できるなら長生きしていたいのが人情でしょう。
ところで、この「5人に1人」という数字に、実感がわいてこない人もけっこう多いのではないでしょうか? そう、病院の中や田舎のように、若者の目にふれないところに、お年よりは集まってしまっているのです。そして、若者は高齢化社会を実感できず、日頃は新聞の記事を読んで「ふーん」と思うだけ。 そして、自分の親の介護が必要になったときに驚愕する…
実は、そういう「お年寄りが隔離されている状態」というのが、今の日本のいちばんの問題なのかもしれませんね。 5人の中に1人のお年寄りではなくて、お互いにあまり交流がない、100人のお年寄りのコミュニティと400人の「若者」のコミュニティ。
「お年寄りを敬う」という「敬老の日」は、果たして、いつまで続けていけるのでしょうか…
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2003年09月13日(土) ■ |
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キャンプ道具と片付けの才能 |
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「もう少しむこうの空の下へ」(椎名誠著・講談社)より抜粋。
【すぐにテントを張った。この半年ほど都会の仕事に追われていて、ずっとキャンプをしていなかったので、野営道具一式を入れたザックが行方不明になっていた。妻にそのことを言うと彼女が今まで使っていたテントがあるという。
チベットには特別に誂えたテントを持っていくのでそれは今回使わない、というので、そっくり借りてきた。私はどこかでキャンプすると、テントでもなんでもそのまま丸めてくしゃくしゃにしてザックに入れてしまうので、広げるとその前のキャンプの時の砂や小石などが落ちてくる。しかし妻のそれは、いつもきちんと洗ってたたんでいるようで、新品のようだった。
キャンプ用品は、多少面倒でも使って収納するときには丁寧にきちんとやった方がいい。何か壊れていたり部品が不足していたりすると次のキャンプの当日になってまったく困ったことになるのだから…、高校時代から山に登っていて、沢山のキャンプを経験している妻は、いつもだらしなく使い終わった道具を放りこんで帰ってくる私にそう忠告していた。】
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ああ、これは片付けが苦手な僕としては、ものすごく身につまされる話です、もちろん、キャンプ道具に限らずに。 そうなんですよね、使い終わって、収納するときにキチンとしておけば、あとで取り出して使うときにすごくラクになりますよね。とくにこういう「山登りの道具」なんていうのは、ヘタしたら命にかかわりかねませんし。
しかしながら、例えば僕がキャンプから帰ってきたとすると、やっぱりそのときは疲れているでしょうし、「やっと帰ってきた!」という意識ばっかりが先に働いてしまい、やっぱり椎名さんと同じように、「あとでちゃんと片付ければいいや」ってことで、くしゃくしゃにして放りこんでしまうと思います。 そして、「片付けなきゃ」ということをわかっていながらもずっとずっと先送りにして、いつの間にか忘れてしまうんですよね。 こういうことは、「その場できちんとやる」ことが大事、だということなのでしょう。 「たまにしか使わないけど、大事なもの」であれば、なおさらのこと。
そういうふうに「しまうときに、次に使うときのことを考えておく」というのは、頭で考えるのは簡単なんですが、実行するのってけっこう大変なことです。 でも、少しずつでも意識して、習慣づけていくしかないんでしょうね。 個人的には、ザックにテントを豪快に丸めて放りこんで帰ってくる椎名さんというのはカッコいいなあ、とか思ってしまうんですが。
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2003年09月12日(金) ■ |
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「聞き上手」になるための、ちょっとした秘訣 |
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「気まずい二人」(三谷幸喜著・角川文庫)より。
(「人と話すのが苦手」という三谷さんが、「テレビを観ていて気になったみなさん(女性に限る)」との対談企画を終えての感想)
【この仕事で、普段テレビでしかお目に掛かれない憧れの皆さんにお会いして、じっくりお話し出来たのは、非常に貴重な体験でした。 ただし、ゲストの方々には、大変な迷惑を掛けたようです。 特に初期の頃は異常なほどに緊張していたため、ほとんど話が耳に入っていませんでした。今、読み返しても、会話を進行させようという心意気が微塵も感じられない。 対談のホストとしては、あまりに口数が少なく、しかもガチガチになっているので、ゲストの方は、逆に気を使って下さって、聞いてもいないのに、色々と楽しいお話を披露して下さいました。 そういう意味で、僕はかなりの聞き上手なのかも知れません。】
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世間には、「話し上手」「聞き上手」を自認している人はけっこうたくさんいるものです。 そして、多くの場合、「話し上手」という人は、他人が聞いている、いないにかかわらず自分のしたい話を延々と続け、「聞き上手」という人は、他人に「ねえ、何か面白い話してよ〜」とか言っていたりするわけなのですよね。 まあ、人間と人間の間には「相性」というのがあります。 「ずっと話してくれる人が寂しくなくて好き!」という人もいるでしょうし、寡黙な人の背中に魅力を感じる人もいるでしょうから、どういうのが「話し上手」なのか、定義するのは非常に難しいことだとは思うのですが。
僕はこれでも、「聞き上手」と言われることたまにあるのです。 自分ではその理由がよくわからなかったのですが、以前、後輩がこんなことを言ってくれました。 「先生は、話を黙って聞いてくれるからいいんですよ」って。 確かに、外来でお年寄りの話をずっと聞いていたりすると、ついつい話を切りたくなるんですよね。何かの統計では、医者が他人の話をじっと聞いていられる時間は、“5分”くらいなのだとか。 「短い!」と言われるかもしれませんが、自分の興味がある話や面白い話ならともかく、お年寄りの毎回同じ話を聞かされるのは、けっこう大変なこともあるのです。 「ああ、またシベリアの話から始まるのか…」と暗澹たる気持ちになることもしばしばなんですよね。次の患者さんも待っているわけですから。 それでも、「ただ話を聞いてあげる」だけで、患者さんというのは(とくに症状が安定している人は)、けっこう満足感があるらしいですし。
逆に、相手が異性などだと、自分が主導権を握りたくて、やたらと「話そうとしてしまう」という傾向もあるみたいです。 酒の席などで、他人同士の話を聞くともなく聞いていると、「これは、二人とも自分のことを話しているだけだなあ…」と思うことって、ないでしょうか?
「取らんとするものは、まず与えよ」という言葉があります。 他人に話を聞いてもらいたい場合、まず、他人の話に耳を傾けることって、けっこう大事なのではないでしょうか。 「他人の話に耳を傾けない人」と長時間話していたいと思いますか? しかし、そう考えると「聞き上手」なんてのは、ただ黙っていればいい、ってことになってしまいますよね。やっぱり、「適度なリアクション」も大事。 そうしないと「何よ、さっきからずっと黙ってて!私の話を聞いてるの?」ということになってしまいますし。
「聞き上手」を「質問上手」だと思い込んでいる人が多いような気がするのですが、僕は「黙り上手」のほうが「聞き上手」なんじゃないかなあ、と思います。 嘘だと思ったら、一度「とにかく途中で話を切らない。相手の話を最後まで聞く」と決めて、誰かと話してみてください。 黙って他人の話を傾聴するのって、意外とたいへんなのです。
「聞き上手」への道って、遠いよなあ…
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2003年09月11日(木) ■ |
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どうしても慣れることができない、5%の憂鬱。 |
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「アシモフの雑学コレクション」(アイザック・アシモフ著、星新一編訳・新潮文庫)より。
【あのネルソン提督は、一生、船酔いに悩まされた。人間の五パーセントは、どうやっても揺れになれることができない。】
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あの「トリビアの泉」の冒頭の「人間は無用な知識(トリビア)の数が増えることで快感を感じる事ができる唯一の動物である。」という言葉で有名なのが、このアイザック・アシモフなのです。 彼は、「ロボット三原則」で有名な「われはロボット」などの作品で名高いSF作家でもありました(というか、本業は作家なんですけどね)。 アシモフは、さまざまな「トリビア」の収集家として有名でもあり、科学解説のエッセイや科学者の人名事典、歴史の本などもたくさん書いているそうです。 この本は、彼が集めたそのような知識をジャンル別に分けて短いセンテンスで解説したもので、まさに「トリビアの泉」の原典といえるでしょう。
ちょっと脱線してしまいましたが、ネルソン提督といえば、トラファルガーの海戦で無敵艦隊といわれたスペインの艦隊を撃破し、イギリスの制海権を確立した英雄なのですが、そんな「海の男」であるはずの彼も、船酔いに悩まされていたんですね。 日本でいえば、咸臨丸でアメリカに行った勝海舟は、艦長でありながら、船酔いで船長室からほとんど外に出られなかったのだとか。 海嫌いだったからこそ、自分の船が沈まないように必死に頑張ったのかもしれません。
実は、僕もこの5%に属する人間なので、このアシモフの言葉が、すごく印象に残ったのです。 子供の頃から、船酔いはおろか、車酔い、飛行機酔いなど、さまざまな乗り物酔いに悩まされてきたのですが、「どうやっても5%」ということは、乗り物酔いに苦しんでいる人は、もっともっと多いに違いありません。 しかし、あの苦しみっていうのは、乗り物酔いしない人には、まったく理解できないみたいで、挙句の果てには「甘えん坊は乗り物酔いしやすいんだって」とか言われる始末。デリケートなだけなんだってば。
とかいいつつ、最近、前ほど酔わなくなってきたんですよね。 この間なんか、酔い止めの薬を飲んでいたとはいえ、1人乗りくらいのセスナ機にも乗れたし。 やっぱり、「慣れ」という要素はけっこう重要ではあるようです。 まあ、それはそれで、「鈍感な人間になってしまった」ような気がして、ちょっと寂しくなってみたりもするのですが。
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2003年09月10日(水) ■ |
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サイモン&ガーファンクルのすれ違いと和解。 |
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ロイター通信の記事より。
【「サウンド・オブ・サイレンス」などのヒット曲で知られる米男性デュオのサイモン&ガーファンクル(ともに61)は、9日に当地で記者会見を行い、20年ぶりの米国ツアーを行うと発表した。 10月18日のミシガン州オーバーンヒルズを皮切りに、32都市で公演する予定。 サイモン&ガーファンクルは、米国内だけで4000万枚余りのアルバムセールスを記録する成功を収めた。しかし、ソロに転向したサイモンの成功や、デュオ時代の楽曲の印税と作者表記をめぐるトラブルで、2人は互いに疎遠になったとされる。 しかし、今年2月のグラミー賞授賞式で2人は約10年ぶりに共演し、功労賞を受賞。これが和解につながった。 サイモン&ガーファンクルは1993年にニューヨークと日本で公演したが、本格的ツアーは欧米やアジア、オーストラリアを巡回した82―83年以来。】
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僕はもちろん、サイモン&ガーファンクルをリアルタイムで体験したわけではないのですが、彼らの美しいハーモニーは大好きです。そういえば、音楽の教科書にも「明日にかける橋」が乗ってたなあ。 ”Like a bridge over trouble water ”でしたっけ。 僕は、彼らの解散の理由は、「音楽性の違い」とか、そういう理由だと思い込んでいたのですが、この記事が事実であれば、ようするに「金と名誉」というのが、彼らが仲違いしてしまった理由だということですね。 なんだか寂しい話ですが、例えば日本の音楽業界では、作詞・作曲者の印税収入が売り上げの各3%程度なのに対して、実際に歌っている人の印税は1%くらいなのだそうですね。 要するに、歌っている人は、有名にはなるけど、金銭的には恵まれない、と。もちろん、テレビやイベントなどの出演料というのはあるんですが。 日本でアイドル歌手なども作詞をしたがる理由には(まあ、作曲よりは素人にとっては「手を出しやすい」と思われるんでしょうね)、こういう側面もあるようなのです。 名前の表記も、以前、ビートルズのジョンとポールが、それぞれが創った曲での名前の表記の順番でトラブルを起こしたことがありますし、映画俳優などでは、スタッフロールの順番が気に入らなくて降板した人もいるらしいですし。
こういうのは、ポール・サイモンが「僕の曲が良かったから売れた」と言えば、アート・ガーファンクルが「僕の歌が良かったから売れた」と言う、という、まさに水掛け論になりがちなんでしょう。 本当は、どっちが欠けても売れなかったんだろうけど。
たぶん彼らも最初は、お互いに歌が好きで、成功を収めたくてデュオを組んだのでしょうに。 みんなが認める名曲の裏には、いろんなすれ違いや葛藤がある、というのは、よく言われることですが、なんだか悲しくもあります。
若いころは夢を抱いて協力しあい、成功するとお互いに「自分のおかげ」と仲違い。年をとると、やっぱり「昔の仲間」と仲直り… 一生憎みあったままよりは遥かにいいことなのでしょうが、結局、どんな有名人も(むしろ、有名人であり、成功者だから、なのかもしれないけど)、同じことを繰り返しているんですよね。 どうせなら、もっと早く…といちばん思っているのは、本人たちなのかもしれませんが。
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2003年09月09日(火) ■ |
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マンガの生原画は、誰のものなのか? |
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毎日新聞の記事より。
【弘兼憲史さんや渡辺やよいさんら人気漫画家の生原画が、倒産した出版社から大量に流出し、漫画専門店で売られていることがわかった。被害にあった漫画家らが結成した「漫画原稿を守る会」が8日、東京都内で会見し、流出原画の返却などを訴えた。
流出したのは、「さくら出版」に預けられた原画で、同社は昨年12月に倒産。今年5月、渡辺さんの原画約1000枚が中野区の漫画アニメ専門店で売られていることがわかり、渡辺さんが、さくら出版から持ち込まれたのを確認した。弘兼さんらの原画もみつかった。「守る会」によると、同社から返却されていない原画は20人以上の約8000枚にのぼる。】
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人気漫画家の「生原画」っていうのは、ファンにとっては垂涎の的なわけで、今回のこの事件で、自分の原画が知らないところで商品として売り飛ばされていることに対する弘兼さんや渡辺さんの憤りは、当然のことだと思われます。 もう8年くらい前のことなのですが、僕はマンガ家(なんて書かなくても、みんな知っているとは思うけれど)鳥山明さんの作品展を観に行ったことがあります。 実際の生原稿というのは、ものすごい迫力があるもので、線の強弱やトーンの濃淡、モデルとなった写真との比較などをみていると、書いた人間の息遣いが伝わってくるような感じがしました。 中でも驚いたのは、マンガの線というのは、(当たり前のことなのですが)ほとんどが1本1本手書きで、「真っ直ぐな線」というのが存在しないんですよね。一見滑らかに見える線でも、手書きですから、よく見ると微妙に曲がっていたりぶれていたりするのです。 また、そういうのが機械的に引かれた線より、絵に温かみを与えているような気がしました。
ただ、日本の出版界の伝統として、マンガの生原稿というのは、けっこうぞんざいに扱われてきた、という一面もあるのです。 以前読んだ本によると、太平洋戦争後に多数創刊されたマンガ雑誌では、生原稿を細かく切って「読者プレゼント」にすることが、作者の許可など無く、ごく当たり前に行われていたそうです。 もちろん、当時はマンガの地位自体が低くて、生原稿そのものは金銭的価値がほとんど無かったらしいのですが。 そのおかげで、散逸してしまって復刻できない作品も少なくないのだとか。 マンガはいまや、日本を代表する文化でもありますし、小説の原稿のほとんどがワープロになってしまった現在、原画は貴重な資料でもあると思われます。 ただ、今回の件では、もう売られてしまったものを購入者に「返せ」というのは難しそうですし、今後の新しいルール作り、というのが目的なのかもしれませんが。 戦後の「細かく切って読者プレゼント」の時代から、曖昧になってきた部分の確認、という意味で。
でも、なんとなく、好きなマンガの生原稿の切れ端をもらって喜ぶ子供たち、という時代に共感する気持ちも捨てきれないような気もするのです。 大部分のマンガというのは、「大勢の人に消費されてこそ価値がある」文化のような印象がありますし。 本当に難しいのは「原画に値段が付くような作品」を描くこと、ではあるんでしょうけど。
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2003年09月08日(月) ■ |
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「森のいかめし」が、「駅弁日本一」になった理由。 |
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「翼の王国」(全日空の機内誌)9月号の記事「森のいかめしキャラバン隊長」(佐藤隆介・文)より。
【(株)いかめし阿部商店の本社は、森駅からすぐのところにあった。むろん単なるオフィスではなく製造所でもあって、森駅と駅前の柴田商店で売る分は毎日ここで作っている。しかし、その数は微々たるものだ。駅弁とはいえ、「森のいかめし」の最大の販路は全国のデパートにあるからである。
(中略)
専務によれば、森のいかめしの全国デパート巡回販売は例年九月から翌春三月まで、師走を除いた六ヵ月が勝負だ。この半年間の間に何と二百五十回もの実演販売を各地のデパートで遂行しなければならない。
(中略)
一度に三つか四つのデパート販売ならチーム編成も楽なものだが、同時に十店以上となると話は簡単ではなくなる。ちなみに、これまでの同時出店の最高記録は十七店。こういう非常事態に際しては、キャラバン隊といっても隊員たった一人ということもある。】
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北海道名物の駅弁「森のいかめし」の名前は、「駅弁日本一」として、耳にされたり、実際に口にされたりした方も多いのではないでしょうか? 僕の友人も、北海道物産展で、この「森のいかめし」を見つけて買ってきたそうです。 「思ったよりイカは小さくて柔らかくて食べやすく、美味しかった。こういう機会でもないと、食べられないしね」という感想を述べていました。 実際のところは、「こういう機会でないと」と言いつつも、「森のいかめし」は、地元北海道で売られているよりも、デパートの物産展や駅弁祭りなどでの売り上げが、現在では大部分を占めているようなのですが。 ちなみに、この「いかめし」に使われているイカは、地元北海道産だと僕も思っていたのですが、実際のところは、ニュージーランド産のマイカなのだそうです。当初は北海道産のイカだったのが、材料難から世界中を探して見つけたのがこのイカで、「北海道産よりも、煮ても柔らかくて美味しい」のだとか。 こうして考えると、海外産のイカを材料に、全国のデパートで販売しているわけですから、この食べ物が、発祥の地とはいえ「森のいかめし」として売られていること自体、ちょっと不思議な気がしてきます。 今は、どこの「名物駅弁」も、そんな感じらしいということなのですが。
しかし、僕自身も旅行に行く際に、駅弁を買う機会は、ほとんどなくなりました。 新幹線の駅で売られている駅弁の種類も数も、僕が子供の頃に比べると、圧倒的に少なくなってしまった印象があります。 乗り物のスピードアップによる乗車時間の短縮の影響もあるでしょうし、ほかほか弁当やコンビニの店舗が増えたことにより、「冷たくて(中には、温められるような特殊な構造になっているものもあるらしいですが)、割高」な駅弁というのは、生き残りに苦戦している状況なのでしょう。 ところが、デパートなどでは逆に、「その駅でしか食べられない」というイメージのために、名物駅弁がものすごく売れてしまう、らしいのです。 もちろん、この「森のいかめし」には、秘伝の味つけという武器があるのも事実なのですが。
実際に旅に出てみれば現実的な選択をしているにもかかわらず、家にいると旅の雰囲気を求めてしまう… みんな、所詮そんなものなのかもしれませんね。 ちなみに、この「森のいかめし」は、小ぶりのイカが2匹入っていて470円。 量は、実際に食べた友人によると「一食分としては、ちょっともの足りないくらい」だそうです。
こうして考えると、食べ物というのは、舌や鼻だけではなくて、記憶や想像力も使って味わうものなのかもしれませんね。 「森のいかめし」は、イカとご飯と調味料(実際の味付けは醤油とザラメだけなのだとか)そして、いまや本物の旅では感じることができなくなってしまった「旅情」を味わうための駅弁なのでしょう。
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2003年09月07日(日) ■ |
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「お姉さんの時代」は、そう簡単には終わらない。 |
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「まだふみもみず」(壇ふみ著・幻冬舎文庫)より抜粋。
【私の母は私よりずっと寛容だから、孫に自分のペンダントをゆずったりする。 「わあ、きれい!」と、姪は目を輝かせる。 「でも、本当にもらっちゃっていいの?おばあちゃん、いらないの?」と、さかんに心配するので、「だって、おばあちゃん、もうそういうのしないでしょ」と請け合った。 姪は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに大きくうなずいて、「そうよね、おばあちゃん、『お姉さんの時代』終わっちゃったもんね」と言った。 姪はときどき鋭い文学的センスを発揮する。 私が思わず「アハハ」と笑うと、姪はペンダントから私に視線を移し、キッパリと言った。 「アンタもでしょ」 「お姉さんの時代」は、そう簡単には終わらない。しかし、そのことを姪に理解してもらうには、あと三十年待たねばならない。】
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いきなり年齢の話をしてしまうのは不躾だとは思うのですが、この文章を書かれたときの壇さんのご年齢は、40歳代半ばです。
「人間は、年齢によって変化していくもの」というのは、ひとつの事実ではあります。食べ物の好みや物事についての考え方。 たとえば、年をとって歯が弱れば「固い食べ物は苦手」になるでしょうし、自分が立っているのがキツイ状況になれば「席を譲らない若者はけしからん!」という気持ちになるのが普通です。 実際、将来の年金のことを心配している幼稚園児なんてのは、ほとんどいないでしょうし、ビールなんて、子供が飲んでも「苦い!」だけの飲み物でしょうから。
ただ、その一方で、人間というやつは、周りがみているほど自分の年齢を実感できていない生き物なのではないかなあ、という気もするのです。 僕も30代前半になるのですが、じゃあ、20代と何が違うのか?と問われたら、階段上がるのが面倒になったとか、お腹の贅肉が気になる、とか、酒の肴のような食べ物が好きになってきた、ということくらいのものです。 実際、階段上がるのは、昔から面倒ではあったのですが。
子供からみたら、30歳は立派な「大人」であり「オジサン」です。 でも、自分がその年齢になってみると、自分ではまだ「お兄さん」くらいのつもりなんですよね。 別に若作りとかいうのじゃなくて、実感として。 自分が年を取ったというよりは、周りに自分より子供な人が増えてしまったために、仕方なくオトナの役をやらされているような感じ。
僕はなんとなく、自分が60になっても、70になっても、ずっとこんな感じなのではないかなあ、と危惧しているのです。 ずっと、自分では「お兄さん」のつもりの「お爺さん」。 それとも、いつか、ペンダントを気持ちよく孫に譲れる日が来るのでしょうか?
実際は、壇さんのお母さんも、内心煮え切らないまま、ペンダントを孫にあげているのかもしれません。「おばあちゃん」を演じるために。 この文章を読んで、「あなた(壇さん)も、あと三十年待たないとわからないみたい」なんて、思ったのではないかなあ。
いくつになっても、そんなに簡単に悟れるものではないですよね、きっと。 それがわかるようになっただけ、僕も年をとったということなのかな。
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