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2003年08月11日(月)
もしも、そこに「終わり」があるのなら。

【JR仙台駅前のams西武仙台店は10日、すべての営業を終え、21年間の歴史に幕を閉じた。大勢の常連客や元従業員が店を訪れ、閉店を惜しんだ。
 10日は、午前10時半の開店前から大勢の買い物客が列をつくった。開店時には、感謝の意味を込めたひまわりの花約2000本を配布。店内は終日混雑し、この日の売上高は約9000万円と、ここ数年にはない数字だった。】

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 僕たちが今こうして普通に生活をしている間に、いろんなものが終わっていきます。
 それは、テレビ番組であったり、さまざまなイベントであったり、会社であったり。
 こうして僕がキーボードを叩いている瞬間にも、この地球のどこかで誰かの命が終わりを告げているのでしょう。
 
 この記事のように、かつて人気があった店の閉店や遊園地やプラネタリウムの閉鎖を目の当たりにすると、人々は口を揃えて「もったいないなあ」とか「どうして閉めちゃうの?」とか言うのです。
 その原因は、多くの場合「お客さんが少なくなったから」だというのに。
 閉店することが決まってはじめて、多くの人が押し寄せてきて「惜しかったね…」と呟く。それは、もう長い間繰り返されてきた光景。

 僕は仕事柄、たくさんの人が亡くなる場面に立ちあってきました。
 多くの家族は、「死に目に会う」ことを重視しますが、考えてみると、「死に目」なんていうのには、亡くなる寸前の人間にとっては、あまり意味がないものです。
 「何かして欲しいことがある?」なんて訊かれても、そもそも、死に際の人間にできることなどそんなにありはしませんし。
 どうせだったら、もっと元気なときにいろいろしてあげていれば良かったのに、などと、ついつい思ってしまうのです。
 しかしながら、僕自身も、自分の親の死の場面で、同じ後悔をしてしまったわけですが。
 そう、理解してるつもりでも、それをなかなか実行できないものなんでしょうね。

 でも、僕はやはり、「死に目に会う」という行為には、意味があるんじゃないかなあ、と思っています。
 それは、死んでいく人のためというよりは、これから生きていかなければいけない人たちの区切りとして。
 「死に目」なんていうのは、今まで大事なものを放っておいた自分への言い訳なのかもしれないけれど。

 おそらく、この世界に「終わらないもの」なんて存在しないはず。
 個体としての人間はもちろん、人類にだって、いつか終わりが来るのでしょうし。
 考えようによっては、誰にも知られずに朽ちていったり、戦争や事故による突然の死にみまわれることだって少なくはないのですから、「死に目」というのがあることは、幸せなことなんでしょうね。

 本当に大事なものは、今この瞬間に掴んでおかないといけない。明日でも、一時間後でもなくて。
 そう思いながらも、いろいろなしがらみやルールを自分で作ってしまい、どうしようもなくなってしまう。本当は、自分で抜けられないと思い込んでいるだけの仕事や会えないと思い込んでいるだけの人ばかりかもしれないのに。

 まあ、そんなに難しい話じゃなくて、お盆だから実家に一本電話を入れるとか、そんなのでも充分だとは思うんですけどね。
 きっと、そういうちょっとした気遣いが、自分の人生を救うこともあるはずだから。






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2003年08月03日(日)
かわいそうな鶴。

共同通信の記事より。

【広島市の平和記念公園で約14万羽の折り鶴を燃やし学生が逮捕された関西学院大(兵庫県西宮市)は3日、学生や職員らから折り鶴を募集し、広島市に届けると発表した。同大は「最終的に何羽集まるかは分からないが、大学としておわびの気持ちを表したい」(広報室)と話している。
 折り鶴を燃やし器物損壊容疑で文学部4年の山本淳哉容疑者(22)が逮捕された翌日の2日、平松一夫学長が広島市を訪れ陳謝した。同大広報室によると、事件後、学生らの間から「何かしないと(気持ちが)治まらない」との声が上がり、自分で折った折り鶴を事務局へ持参した学生もいたため、募集を決めた。
 学生のほか、職員や卒業生、一般の人も対象に5日正午まで募集、6日の平和記念式典までに広島市に届けるという。】

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 学生の不祥事、というのが最近続いています。
 この大学生、就職先が決まらずに、留年も決定、むしゃくしゃしてやった、というふうに供述しています。
 僕たちからすると、なんてバカなことを…という気がするのですが(本人は、まさかバレるとは思ってなかったんだろうけど)、容疑者の大学4年生にとっては(しかも、関西学院大学というのは、関西の私学の名門ですから)切実な問題で、もう自分の人生は終わりだ…と感じてしまうような状況だったんでしょうね。ある意味、こういうのが「エリートの弱さ」なのかもしれません。
 しかし、あの平和公園というのは、もと広島在住の僕にとっては聖地であり、あそこで悪さをする人間がいるなんて信じられません。少なくとも原爆資料館に入ったことがある人なら、あの場所で敬虔な気持ちにならざるをえないと思うんだけど。
 この間は、落書きしてたヤツもいたしなあ。
 彼は早朝にこの暴挙に及んだそうですから、たぶん、原爆資料館には行っていなかったと思われますが、それにしても「人類の平和よりお前の就職なのか!」と言ってやりたい気もします。
 ただ、人間というヤツは、たとえば振られた直後なんか、「人類が滅亡してしまえ!」なんて思ってみたりもするわけですよね。残酷な話だけど、僕たちは、世界の平和のために自分の財産を全額投げ出したり、ボランティアに参加したりはしないわけです。
 それでも「やってはいけないこと」というのはあるはずで。

 この大学生の暴挙は、平和への希望を踏みにじる、子供じみた行為であることは間違いありません。ただ、そういう追い詰められた気持ちはわからなくもないのです。
 22歳の彼にとっては、就職とか卒業というのは、この世界の大部分を占める問題だったのかもしれませんから。
 ただ、そういう状況に陥ったときに、どう対処して生きていくか、というのはとても大事なことで、そこで人間の価値なんて決まってくるものなのでしょう。
 いつでも絶好調、なんて人はいないわけですから。

 僕はこの学生、早稲田の「スーパーフリー」の連中みたいな確信犯的なところは感じないし、罪は罪として、立ち直ってくれればいいなあ、と思っているのです。
 彼は平和への祈りを踏みにじりましたが、彼の衝動に対して、折り鶴が身代わりになってくれたような気もしますし。人間を傷つけなくて良かった。
 それに、この機会に、もう一度平和について、原爆について考えてみてもらいたいと思うのです。この学生の行為へのおわびというのと同時に、あらためて平和を祈って、戦争の犠牲になった人たちを悼む気持ちを持つにはいい機会ではないかなあ。

 しかし、14万羽って、大変な数。たぶん彼1人で折るとしたら、一生かかってもムリでしょうね…



2003年08月02日(土)
「バカボンな生き方」は、けっこう大変なのだ!

「FLASH」7・29号(光文社)の記事「これが天才バカボンの真実なのだ」より。

(現講談社取締役の五十嵐隆夫さんが、「バカボン」の作者・赤塚不二夫さんの担当編集者時代を回想して)

【最高に驚いたのは担当5年目のころ。10本立ての70ページでやることになって先生は「条件としてアイデアのために帝国ホテルで3日間泊めろ、お前もいっしょだ。ここのステーキがうまいから予約しといてくれ」と。
 夜になるとアシスタントが家族や彼女まで次々に連れてきて全部で12〜13人になった。みんな帰って打ち合わせだと思ったら、銀座に飲みにいこうと…。2日目も同じで中勘定すると2日間で100万円ちかくなってた。編集長に連絡すると「バカ野郎! で状況は」、「まだ何もやってません」で、また「バカ野郎!」でホントまいったよ。でもそのあと3日で70ページを仕上げましたからね、その集中力と合理的な仕事には本当に驚きましたよ。】

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 遊ぶときは遊ぶ、仕事するときは仕事をする、マンガ以上にマンガ的な人生を志向する赤塚不二夫さんらしいエピソードです。僕もこんなふうに、メリハリをつけて仕事ができればいいのになあ、とこの話を読んで嘆息ひとつ。
 しかし、一見豪快にみえるこのエピソードなのですが、その反面、赤塚さんという人の人生観みたいなものが、よくあらわれているような気もします。
 考えてみれば、帝国ホテルに泊まって、大勢で大宴会、なんてことをやらなければ、この70ページの「バカボン」を書くのに5日間かかっても良かったわけですよね。
 それが、豪遊してしまったために、時間は少なくなり、もう逃げられないという状況に自分を追い込んで、3日で書き上げてしまう。
 カッコいい!と思う一方、これは大変だったろうなあ、という気もします。
 当時の赤塚さんほどの人気マンガ家であれば、先に「バカボン」を3日で書き上げてしまってから、編集部に「ご褒美」を要求したとしても、たぶんかなえられていたのではないでしょうか?(それとも、先に書いたら知らんぷりされてしまうのかな)
 それでもあえて先に遊んで…というのは、自分を追い込んで作品を仕上げるのと同時に、彼自身が「赤塚不二夫の生きざま」みたいなものへのこだわりがあったのではないでしょうか?
 要するに「ええかっこしい」な生き方。
もちろんこれは、悪い意味ではなくて。

 僕たちは、こういう豪快なエピソードに対して「いいなあ、うらやましいなあ」と憧れてしまうのだけなのですが、当の本人にとっては「やせがまん」に近いものがあるんじゃないかなあ、という気もするのです。

 ちなみに、この「帝国ホテル事件」のことは、後に「バカボン」のネタになったそうですよ。
 豪遊しながら、頭の中は「バカボン」のことで一杯だったのかもしれませんね。

 豪快に生きるのもラクじゃない、とか思うのは、僕が小心者だからなのでしょうか。



2003年08月01日(金)
ネット上の「悪戯」は、現実社会では「脅迫」かもしれない。

共同通信の記事より。

【京都府警ハイテク犯罪対策室と伏見署は1日、会社の元同僚女性に「殺す」などと1000回以上書いた電子メールを送ったとして、脅迫容疑などで京都市南区久世殿城町、会社員田中由直容疑者(33)を逮捕した。
 調べでは、田中容疑者は2月20日午前10時20分ごろ、以前勤務していた京都市伏見区のオートバイ販売会社のパソコンに、女性従業員(33)の名前を挙げて「殺す、死ね」の文言を1152回も繰り返し書いたメールを1回送信し、女性に閲覧させて脅した疑い。
 ハイテク犯罪対策室によると、田中容疑者は昨年10月、トラブルから同社を辞職。「会社を困らせてやろうと思った」と供述しているという。
 また田中容疑者は、同社のホームページを管理するプロバイダー(接続業者)のサーバーコンピューターに不正アクセスし、オートバイの販売価格を勝手に書き換えるなどの嫌がらせもしていたという。】

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 「殺す、死ね」を1000回!
 たかがメール、とはいえ、やっぱり気持ち悪いものですよね。
 僕のように、ネット慣れしている人間にとっては、「氏ね」なんて慣用句(?)とはいえ、やっぱりものすごく不快だし、心配にもなると思います。
 この容疑者、33歳にもなって、退職してから1年近くにもなる会社への嫌がらせに執念を燃やしていたなんて、さすがにトラブルで辞めさせられた人だなあ、と納得してしまうのですが。
 そんなパソコンの技術があるんだったら、それをマトモな方向に活かせばいいのに、というのは、たぶん傍観者としての意見なんでしょうけどね。

 メールとかネットというのは、怖いところがあって、何をやるにしても、ついつい表現が過激になってしまいがちです。
 これだけたくさんの情報が溢れているネットの世界では、より過激で、より極端じゃないと、誰も振り向いてはくれませんから。
 実社会のように、表情とかニュアンスでわかってもらうことが難しいから、どんどん言葉が強くなっていくのです。
 メールには「死ね、殺す」と1000回書けても(コピー&ペーストもできますしね)、手紙に1000回「死ね」と文字を書く(ワープロで印刷するにしても、けっこう大変なはず)のはもっと大変でしょうし、電話で1000回なんてとうてい不可能。面と向かってだったら、たぶん3回目くらいで捕まります。
 たぶん、この犯人はネット世界のイタズラ程度の認識で普通の人を脅かそうとしたんでしょうけど、相手にとっては、悪質な脅迫だったわけです。
 僕の同僚の先生が、まだ呼び出しがポケベルだった時代に「シネシネシネ」というメッセージが送られてきたことがあるのですが、それはもう、すごく気持ち悪かった記憶があります。
 「普通の人」にとっては、こういうのはすごく効くのです。

 それにしてもこの人、そんなにパソコンに詳しいのに、脅迫メールなんか送ったら誰が送ったか調べればバレるってことは、全く頭に無かったんのでしょうか?
 結局、自分が自分が、と常に主観的になってしまって、状況を客観的に判断できない人なんでしょうね、きっと。
 よく槍玉に挙げられる「2ちゃんねる」ですが、実はあれに書き込んでいる人たちの大部分は、実社会では「普通の人」なんですよね。まあ「普通の人があんなことを書くの?」と言われるかもしれませんが、現実は、「普通の人」のガス抜きのための非日常の場として、あの巨大掲示板群は存在している面もあるわけで。
 だからといって、何を書いてもいい、ってわけではないけれど。
 少なくとも、現在のところ、ネット上の常識≠実社会の常識だということは、僕も含めて、みんなが頭に入れておかなくてはならないと思います。

 「ついつい、表現が過激になっていないか?」
 「批判のための批判になってしまっていないか?」
 「自己主張に溺れて、他人を思いやる気持ちに欠けていないか?」
 
 まあ、あんまり堅苦しくなると、面白くなくなってしまいますが、実際、ネットというのはもう、現実社会の一部になってきているわけですし。

 しかし、「殺す、死ね」1152回って…いったい誰が数えたんだろう?