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遠子(桜井都)

初日 最新 目次



 名無しのメロディ(ミスフル)(司馬と比乃)

 音のない歌が聞こえた気がした。









 入学式直後の学校は落ち着かない空気に満ちている。
 不確かな記憶や新しすぎる情報を胸一杯に掻き込むことだけで精一杯の新入生は特にそうだ。
 まだどこかぎくしゃくした人間関係ばかりの教室を置き去りにして、比乃はその日屋上への階段を駆け上がっていた。

「いっちだん、にーだん」

 三段、四段。
 静かすぎる階段を歌いながら一歩ずつ昇る。
 小さな窓からこぼれ落ち、辺りに広がる太陽の光。決して暗くはないが、採光の小ささに明暗がくっきりと分かれている。人気のない踊り場は埃と比乃の声以外何も見当たらない。
 ここに、誰か一人でもいたら何か違うだろうに。
 比乃はふとそう思い、まだ高校に入ってから親しい友人が出来ていないことを思い出す。
 けれど、何せ入学直後だ。これから部活も入る予定であることだし、さほど焦りは感じない。まだまだこれからだ。

「きゅーだん、じゅーだん」

 残すところはあと数段。
 一度ぐっと狭い段の上で足の裏を踏ん張らせ、跳ねた。

「よっ!」

 タン、と軽い音がして、両足で着地する。
 思っていた以上に綺麗に決まり、比乃はひとりでにまりと笑う。
 上機嫌のまま屋上へのドアを開けた。
 その途端、顔のすぐ前を羽音が横切った。


「………ッ!!」


 急すぎて声も出なかった。
 びっくりしたまま目を見開き、空へと舞い上がっていく白い鳩を見ていた。
 一体何事かと思う。
 またいきなり飛んではこないだろうかとびくびくしながら半分開いたドアに、そっと背丈の低い身体を滑り込ませる。
 後ろ手で静かにドアを閉め、ほっとした瞬間また羽音が聞こえた。
 そうっと歩き、ドアの前からは死角になっている屋上の一番端を覗いた。

「……………」

 風に散らされる髪が見えた。
 同じ学校の制服を着た男子生徒。見覚えがあるようなないような感じで、比乃は声を掛けるどころか自分たち以外誰もいない場で近付いても良いのかすら躊躇った。
 髪の隙間から見えるヘッドホン。そばに置いてあるウォークマンから細い線が伸びている。目許を隠す色のついたサングラス。
 やわらかな線の横顔は少し大人びて、集まっている鳩にパンをちぎって投げる指が長い。
 唇が何か呟くように動いていた。

(…歌ってる……?)

 風の音や羽音にまぎれて、彼の声は比乃に届かない。
 けれど空気からそれが歌だとわかった。

 どんな歌を歌っているのだろう。

 ふと、そう思った。
 そして疑問はそのまま興味へと繋がった。


(友達になれるかな)


 何気ない予感を覚えた新学期。
 晴れた屋上の出来事だった。










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 林さんとこのイラストにふと触発されて。
 あははは直リンクだわ場面ネタ借りたりとかごーめーんー(私信)(あははじゃない)。
 ピノさんは誰とでも仲良くなれそうで、その実自分なりに友人は厳選するタイプのように思えました。どんな基準だかは敢えて考えないけど。

 よーしこの調子で笛以外も地味に増やしていきたいものですなー。

2003年05月30日(金)



 ふたり(オリジナル)

 喧嘩して、眼鏡を壊した。







「…どぉしよ…」
「なに情けない声出してんのよ。自分が悪いんじゃない」

 ばっかねえ。
 ふんと鼻息で笑った幼馴染みに、一弥は実はひそかに痛む頬骨のあたりを右手で押さえ、涙目になって同じ歳の彼女を見上げる。

「なー侑ー」
「裏口なんか合わせないからね。自分で何とかすれば? ま、出来なくていつも通りおばさんにバレでおじさんに叱られて来月の小遣いパーって感じ? ほんっとあんたってバカ」
「…だって、あいつらムカつかねえ!?」
「ムカつくわよ当たり前でしょ。でもね、あんたクソどもに挑発されてそれに乗って、それでも怪我させないよう注意して殴る蹴るして、結局自分は顔に傷作ってるあんたは、やっぱりバカなのよ」

 早口で言ってのけ、彼の幼馴染みはばさりと質量のある長い髪を背中に跳ね上げた。
 昂然ときらめく双眸。引き結ばれた桜色の唇。同じ歳だというのに、彼女はいつも彼の姉役だ。
 わかっていて、一弥はもうすっかり誰もいなくなって教室の床の上ではあと息を吐いた。掃除のし忘れか、綿埃がころころと転がった。

「…ったく、ほんとに馬鹿のまねごとやめなさいよ」
「まねごとじゃない」
「あんたにはそのつもりでも、あたしにはそう見えるのよ。喧嘩するなら完璧に勝つか完璧に負けるかどっちかにしたら?」
「…………………」
「ま、明日からしばらくコンタクトで我慢しなさい」
「…ん」

 うなずいた一弥が、立っている侑に手を伸ばす。
 ぴくりと侑の整えられた細い眉が動いた。

「なんのつもり?」
「や、立ち上がらせてくれねえの?」
「甘ったれんじゃない」

 このバカ、と侑がやってられなさそうに顔をしかめた。
 くるりと身を翻すと短いスカートの端が揺れる。

「ほら、帰るわよ」

 一弥、と呼ぶ声はまるでためいきのようだ。
 バカだバカだと連呼しながら、それでもいつも一弥を見捨てることをしない彼女。
 よいしょと立ち上がり、一弥はその背を追う。自分より背の低い彼女にはすぐに追いつける。

「…なー、侑ー」
「なによ」
「腹減らねえ?」
「減らない。寄り道せずに帰るんだからさっさと歩けバカ」

 お前のほうが歩くの遅いじゃん。
 そう言ったら間髪入れずに平手で殴られた。










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 何の考えもなくオリジナル。
 カップルというよりも姉さんと弟テイストの組み合わせが書きたかったのです。
 これからも気が向いたら書くか…も?(アテにならないことこの上ない)

2003年05月17日(土)



 雨の向こう側に(デジモン02)(丈とミミ)

 雨で滲んだ道路の向こうに差し込む耀光。







 学校帰り、塾への道を急いで歩く。
 朝から降り出した雨は、昨日発表された梅雨入り宣言を示すかのように鬱陶しい湿気を運んでくる。勉強は嫌いではないが、こんな日に外を歩かなければならないのは少し憂鬱だ。
 入学して三年近く経ちすっかり慣れた学校の制服が雨粒に濡れ、このまま塾に行ったらきっと冷えるだろうなと、思わず漏らした吐息は通りの車道の音に阻まれて、丈自身も気付かなかった。
 ふと、その雨特有の雰囲気を消す明るい声が聞こえた。
 馴染みのある、綺麗なソプラノだった。


「丈せんぱーいッ」


 名前を呼ばれて、思わず周囲に視線を巡らせる。忘れもしない、とても綺麗な声。
 声の持ち主は、ほどなく見つけることが出来た。

「…ミミくん」

 彼女は、車道の向こうで明るい桃色の傘を持ち、こちらに向かって手を振っていた。視線が合うと、にっこり笑った。小さな小学生だった頃と変わらない笑顔だった。

「これから塾ですかー?」
「うんそうだよ!」

 雨と、車の音に負けないように、大声で話しかけてきたミミにつられて、自然と丈も声を張り上げる。

「頑張ってねー丈先輩!」
「うん、頑張るよ!」

 なんだか少し馬鹿みたいな会話になったが、二車線の道路を隔ててする会話などこんなものだろう。通りかかる人が、道路を挟んで会話する二人を少し怪訝そうな顔で見ているが大して気にしないことにした。

「じゃあ、僕もう行くから!」
「うん、またねー先輩!」

 ひらひらと手を振って、通りの向こうの桃色の傘が遠ざかる。
 時間があったらすぐ向こうに行って、少し話でもしたかったが、塾があるのでは仕方ない。残念に思いながら丈も歩きはじめた。

「あ、せんぱいーっ」

 そのとき再び道路の向こうで、ミミが叫んだ。振り返ったその先に、雲間から差し込む光のような笑顔。

「偶然だけど、会えて嬉しかった! またみんなで遊ぼうね、先輩ッ!!」

 純真爛漫な彼女らしい、ストレートな台詞だった。思わずきょとんとしたが、すぐに丈も笑顔になる。

「うん! また遊ぼう!」

 そしてまた、通りのあちらとこちらで笑ったあと、手を振って別れる。
 塾へ再び歩き出しながら、丈の口許に淡い笑みが浮かぶ。
 普通なら無視してもおかしくない距離と場所だったのに、わざわざ声を掛けてくれたことが嬉しかった。小学校を卒業して、同じ学校になることのない歳の差のせいか疎遠になりがちだった彼女の変わらない笑顔が嬉しかった。
 会えて嬉しい、だなんて素直に言える彼女を、素直に好きだと思える。

(まったく、…変わらないな、ほんと)

 泣いて笑って怒って叫んで。あの夏の冒険での、ミミの真っ直ぐな表情を思い出す。
 もうすっかり思い出のなかだけの存在になりがちな、あの夏の冒険。現実に慣れ過ぎた今となっては夢だったのではと思うこともあるが、彼女の笑顔だけはいつまでたっても風化しない。

 空は灰色、空気は雨。梅雨入り直後の湿度の高さ。
 そんなことを一瞬でも忘れられた、鮮やかで綺麗な笑顔。なんとなく、殺伐とした日常を忘れて優しい気持ちになる。あの笑顔が、ふと浮かんだ微笑みの奥にいつまでも消えない。


 そして見上げた空の向こうに、太陽が見えた。









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 やあ懐かしい。
 ……や、ほら、笛ばっかりじゃいたたまれなくて(そして毎度毎度使い回しで)。

 丈先輩とミミちゃん。
 光子郎さんとミミちゃんの組み合わせも好きなんですが、この二人も好き。

2003年05月16日(金)



 先に立つ者(笛)(渋沢と風祭)

 あのときの自分がそこにいた。







 嫌な予感があった。
 フィールドの上で、朽ちるように倒れた小さな身体。心の強さに身体の成長が追いつかず、いつももどかしげに必死に走っていた年下の少年。


「風祭……!!!」


 最初にその名を叫んだのは、一体誰だったのか。
 渋沢は覚えていなかった。
 けれど、予感があった。
 やるせなくなるような気持ちを味わうことになるのではないかと、自分より一回り以上も小さな背中にその予感を抱いてしまった。
 気付かなければよかったのか、それとも先にわかっていてよかったのか。
 判断出来なかった。






「…そうか」

 数日経ち、電話で渋沢は彼の具合を聞いた。
 電話の向こうにいる、かつて同じ学校に在籍していた彼はやけに落ち着いているように見えた。けれど渋沢にはそれが未だ現実を自身が認められずにいるが故の落ち着きだと知っている。
 衝撃はこれからだ。これから、気持ちではどうしようもない肉体の現状を思い知る。
 そんなかつての自分を思い出したとき、渋沢は膝がじくりと痛むのを感じた。あるはずのない痛み。過去の傷だけが現在の風祭に同調している。

『…折角、選抜メンバーになれたのに残念ですけど』

 僕はここで退場みたいです。
 笑みさえ含んで告げる声。表情は渋沢には見えない。けれど彼はきっと笑っているのだろう。前を向こうと必死になって。

「…風祭」

 かすれた声になった。動揺していることを渋沢は悟られまいと心がけていたが、そう上手くはいかなかったようだ。押し隠して受話器を握る手に力を込めた。

『何ですか?』

 穏やかな声。日なたのイメージを背負った少年。
 似合わない。怪我や、そんなもので阻まれるような未来は。
 そしてあの頃の渋沢自身も阻まれたくなかった。
 このやるせなさはきっとなってみなければわからない。幾度もそう思った。頑張れと言うしかない周囲に感じた苛立ち。今にきっと風祭も味わうだろう。予測出来てしまう自分が悲しかった。

 何を言えばいいのだろう。
 あのとき、同じように怪我を負った自分のことを考える。


(何を言えばいい?)


 痛めた膝。状況によっては今後も再発しかねないと専門医から忠告を受けた。
 人生における情熱の大半を傾けたものから、引き離される気持ち。心ばかりは強くそれを渇望するのに、身体は意思通りにいかない焦りと不安。
 怖いという意味を、あのとき初めて知った。
 風祭もそれを知ってしまう。知ってしまわなければ先には進めないだろう。
 わかってしまう切なさに、渋沢は目を伏せた。


(俺は、何を言って欲しかった?)


 あのとき。
 支えようとしてくれた周囲に、望んだ言葉は何だった?
 光明を探して藻掻くのに、必要な気持ちは一体何だった?

 考え、押し寄せてきた辛い記憶に耐える。
 これからきっと、以前の渋沢と同じ思いを、あるいはそれ以上の絶望を知ってしまうかもしれない少年への言葉を探す。
 それは同情なのだ。けれど、あのときの自分はきっと救われただろうから。
 同じように少しでも再生への足がかりになって欲しいと思った。
 同じ思いをした奴もいると、彼が少しでも孤独さを薄らがせるように。



「諦めるな」



 沈黙の果てに出てきたのはそんな言葉だった。

「…辛いことは、よくわかる。これからもっと大変で、もっと苦しいと思う。
 でも…諦めたり負けたりしないでくれ」

 言ってからひどく一方的になったことを渋沢は自覚した。
 まるで自己憐憫だ。彼が諦めないことで、自分も諦めなくていいと安心を得るような狡さを含んでいたことに、口に出してから気付いた。
 けれど綺麗ごとを言っても仕方がない。言って欲しくないことも、きっとあのときの自分と一緒だ。何を言っても事態は変わらないのだから、余計な期待は逆に苛立つ。


「待ってるから」


 あの場所で。
 たとえ敵同士になっていても、いつか必ずあのピッチで巡り会おうと祈りにも近い気持ちでそう思う。
 あのときの渋沢も仲間にそう言われることを望んでいた。
 待っていると、確かにあの場所はお前の居場所だと言って欲しかった。
 言ってくれたのは、今の親友だ。


「必ず、戻ってこい」


 不屈の精神でも医学の発達でも何でも利用し使い果たして、またあの場所に。
 少しでも伝わってくれていればいいと思う。
 待つ者がいることは、彼が一人ではないということを。


『…はい』


 返ってきた言葉の端に滲んだ、涙の気配。
 泣けばいいと渋沢は思っても言わなかった。


「また会おう」




 帰還の挨拶を少年たちは待っている。
 あの場所で。





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 そういえば最終回付近に書いていたものもあったと、引っ張り出してみました。
 笛で怪我といえばゴールキーパー陣(シゲは?)渋沢か小堤。でも差し迫り感覚としては、今後とも再発しかねない渋沢さんかなあ、と思ったわけで。
 ちっちゃい主人公とでっかい脇役でした。

2003年05月15日(木)



 Missing(ハリポタ)(リドル)

 そっと触れてくれる優しい手のひらを探していた。








 夢を見ていた。
 覚えのない父が、こちらを見て蔑んだ笑いをしている。


 ―――…汚らわしい。
 ―――欲しくなかったさおまえみたいな子。


 だからどうしたと夢うつつに、父と同じ名の少年は思う。
 望まれて生まれなくても構わなかった。過去がどうであれ、いま自分はここにいて生きている。それだけでいい。

 ―――お母さん。

 ささやくような声で言うのは、かつての幼かった自分だ。
 生まれてすぐに母を失い、育ちの場となった孤児院で、寂しくなるといつもいつも記憶の向こうの母に呼び掛けた。

 ―――ぼくは、『まほうつかい』なの…?

 声が応えることは決してない。
 わかっていながらも、問い掛けたい気持ちは消えなかった。
 ほかの子たちには出来ない、奇妙な出来事を引き起こす自分。ほかの子たちにはわからない蛇の言葉を理解出来る自分。幼心にもそれが、周囲の大人たちの驚愕と畏怖を呼び、厭われる原因であることを知っていた。

 ―――…おかあさん。

 どうか教えて。
 お願い応えて。
 ぼくはどこに行けばいいの―――








 はっとリドルは現実を取り戻した。
 天蓋つきの、四本の柱に支えられたベッドの上で、リドルはしばらく目を見開いたまま動けなかった。やっと意識がはっきりしたのは、白々と窓から差し込む月の光をしばらく見つめてからだった。
 …そうだ。ここはもうあのマグルの孤児院じゃない。ここはホグワーツのスリザリン寮で―――あそこじゃない。
 喉がひどく乾いて、冷や汗で服の襟が濡れていた。顔も覚えていない両親と、幼い自分の夢を見たときはいつもこうだ。

「…Tom Marvolo Riddle」

 かすれた声で正確な自分の名を綴る。
 一体母は、どんな思いで自分を育てた父の名と、自分を捨てた男の名を、生まれてきた息子につけたのだろう。
 もう生きてはいない人間に理由を問うことは出来なかったが、もしも母との再開が叶うのなら訊いてみたかった。

「おかあ…さん…」

 涙がこぼれるのはなぜだろう。
 両親など今となってはどうでもいい人たちなのに。今更知ってもどうしようもない人たちなのに。
 いや、ちがう。
 固く毛布を握りしめて、リドルは嗚咽を漏らさぬよう口を引き結んだ。
 どうでもいいわけじゃない。幼い頃は、ずっとその姿に恋い焦がれていた。
 けれどいつの頃が、どうでもいい存在だと、もう自分に関係のない存在だと思い込もうとしていた。

「そうしなければ…僕は生きていけなかった…」

 寂しさで心が押しつぶされそうだった。
 だから、忘れようとした。そうするのが一番楽な方法だったから。
 けれど思い出そうにも姿の浮かばない母の面影は、今も夢に見るほど思慕を持って脳裏を横切る。

「おかあさん…ぼくは…」

 僕は魔法使いになりました。
 あなたと同じ、魔術の徒となりました。
 …よろこんでくれますか?

 ばかだ、とリドルはそんな自分に失笑した。
 忘れようと、関係ないと言い切ろうとするそばから、もう二度と会えない母を探して問いかけている。
 母を失って十年以上過ぎても、自分はまだあの人を探している。


「お母さん…」


 …あなたは。

 僕の選んだ道を、許してくれますか―――








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 古すぎるぐらい古い小ネタ。
 すいません、ファイルの日付を見たら2001年5月15日とかありました。二年前ですか…。

 いいんだか悪いんだかわからないことに、まだまだ過去のストックは残っているのでこれからもちらほら出していこうと思います。や、ほら、笛ばっかじゃアレだしさー…。

2003年05月11日(日)



 桜の詩(ホイッスル!)(渋沢と三上)

 初恋はどんな人でしたか?








「年上の綺麗な人だったな」

 あまりにも穏やかに彼がそう言ったので、三上は驚いた顔を隠さなかった。

「マジ? 年上?」
「…何だ、その面白そうな顔は」

 昼食時の昼休み。牛乳パックを右手で握り潰さんばかりに意気込んだ三上に、渋沢は目許をしかめてみせた。

「なあ、いくつぐらい年上だったんだ?」
「俺が小学校に上がったぐらいのとき、二十三か四ぐらいだったから…十六か十七ぐらいか?」
「幼稚園の先生とかか?」
「いや違う」

 三上としては妥当な線を狙ったつもりだったが、教本のような箸の持ち方をしている渋沢にあっさり首を振られた。

「んじゃどういう人だったんだよ。なあ?」
「…だからお前は、どうして人の話にはそんなに目を輝かせるんだ」
「細けえこと気にすんな大将!」
「俺はキャプテンだ」

 さらりと言い返した渋沢はそれ以上言う気がないようだった。
 しかしここで終わられては半端に聞いてしまった三上の気が済まない。

「なー、それで、どんな人だったんだ?」
「だから、十七ぐらい年上の綺麗な人だ」
「そんなんでわかるか。だいたい6つや7つのときなんてな、大抵の年上は『キレイなお姉さん』になるだろうが」
「何言ってるんだ、美人はいくつになっても美人だぞ」

 したり顔で言われても全然楽しくない。ずずずと音を立ててストローから牛乳を吸い上げながら、三上はこの友人をどうつついたら本音を言わせられるか考えた。

「…どんぐらい好きだった?」

 ふと、そんな疑問が沸いた途端口から出た。
 渋沢は聞いた意味がわからないように不思議そうな顔をした。

「どのぐらい…って、小学校に上がるかどうかの頃だぞ?」
「でも程度ぐらいわかるだろ」
「そう言われてもな…。憧れてはいたけど、もう結婚してたし」

 最初からかなうはずないってわかってたからな。
 渋沢はそう言って、過去の憧憬を秘めた笑みを見せた。
 その言葉は、想いが叶わないことと、相手の想う人に敵わないという二つの意味を持って三上の耳には届いた。

「…ってか、人妻!?」
「響きとして微妙だが、知り合ったときにはもう既婚者だったな」

 相変わらず何のためらいもなく淡々と言う渋沢を、三上は何となく「負けた」と思った。渋沢らしいと言えばらしいのかもしれないが、その歳で人の奥さんに懸想していたというのは何気なく驚嘆に値した。
 こいつってほんと計り知れねえ。
 すでに空になりかけた牛乳パックを右手に持ち直しながら、三上はほのぼのとした表情で弁当を食べている友人のことをそう思った。

「何かな、桜みたいな人だったな」
「は?」

 不意に渋沢が言い出し、三上は顔を上げた。

「その人のことだ。最初に会ったのが春っていうせいもあるんだろうが、第一印象が桜の花みたいな人だって思った」
「桜?」
「ああ。白いっていうか、少し透けた薄いピンクというか、ああいう感じだな」

 その説明で三上が思い出したのは、よくあるソメイヨシノの花だった。
 一重咲きの薄紅。はらはらと舞い落ちる光景は、日本の春を一番よく表している。あの可憐さに喩えられるのだとしたら、儚げな美人だということなのだろうか。

「お前、夢見がち」
「うるさい」

 三上がにやりと笑って揶揄すると、渋沢は眉間のあたりに皺を寄せた。照れくさいのだろう。その顔はいつもの彼より幼く、三上はきっとその人に対するときの渋沢はいつもそんな顔をしているのだろうと思った。
 淡い恋心を抱いた人を、花に比喩するとは随分ロマンチストだ。渋沢は現実主義者のタイプに属するほうと思っていたが、やはり初恋の人というのは特別なのかもしれない。

「いいだろ、人の趣味だ」

 口端でとはいえ、笑い続けている三上に、渋沢がむきになった声を上げた。
 普段すまして大人びた顔をしているだけに、その様子が可笑しい。すっかり空になった牛乳パックを机に戻し、三上は空いた右手で頬杖を突いた。

「ベツに? 悪くないんじゃね? すっげ楽しいこと聞いた気はするけど」
「…誰にも言うなよ」
「なんか言ったかー?」
「誰にも言うなよ!」
「い、言わねえよ! ってかいきなり胸ぐら掴んで脅すなボケ!」

 机の向かいから腕を伸ばして脅しつけたその剣幕に三上は心臓を跳ねさせたが、赤い顔でそうされでも全く怖くないことにも気付いた。
 ただ、この友人にもそういった子供じみた部分があることに親近感を抱いた。
 そっとシャツを掴む手を解かせ、まあ落ち着けと嫌味のない笑みを浮かべた。ぶすくれた渋沢の顔など滅多に見られるものではなかった。

「…言うんじゃなかった」
「そう言うなっつーの」

 呟いた渋沢に三上は苦笑で応える。
 つい先ほどまでは当分このネタで遊んでやろうと考えていたが、予想以上に相手の深い部分に触れている情報らしいので、仕方なくその考えを棄却した。

「誰にも言わねえから、今度続き聞かせろよ」
「…………今度な」

 かろうじて渋沢がひきつった笑いを見せた。
 対する三上は可笑しそうに、口許で笑っただけにしておいた。








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 幼稚園ぐらいの克朗少年が、桜の下で年上のお姉さんに憧れる図、というイメージが浮かんだのです。いやそれだけ。

2003年05月06日(火)

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