月のシズク
mamico



 秋。引っ越し日和

台所から流れてくる、朝ごはんの匂いで目が覚めた。
「お風呂できてるから、入っておいで」
親友の恋人さんが、馴れた手つきで食事の支度をしていた。

私はもそもそと起き出し、熱く焚かれた湯船に身を沈める。

昨晩、ふたりが飲むために注文しておいたという、2003年のボジョレーを飲んだ。
もちろん、彼女の写真の前には、なみなみと注がれたワイングラスが置かれ、
果たされなかった約束を、形だけでも、果たしてあげた。あんなに飲んだのに、
ぜんぜん酔わなかった。どんなに飲んでも、これっぽっちも酔えない気がした。
「いたこでも、幽霊でも、夢でも、何でもいいからさ、もいっぺん彼女と話がしたい」
と、彼が云う。失った人への愛は、どれだけ言葉にしても、語り尽くせなかった。

病院の宿舎を引き揚げる前夜。私は新幹線に乗ってやって来た。
そして、親友が生前暮らしていた別宅、彼女の恋人さん宅に泊めてもらった。

「とにかく料理が上手なの。すごく美味しくて。私、ここに住み始めてから、
お料理を忘れちゃったよ」と、親友が誇らしげに云っていた通り、恋人さんの
腕前は相当なもので、夕食も、朝食も、普段の私からは信じられないくらい
たくさん食べた。朝風呂から上がると、彼女が絶賛していた、卵焼きができていた。
ふんわりした黄色で、きれいな形をし、口に入れると、しゅわっと溶けた。

「なんかさ、嫌になっちゃうくらい天気がいいよ。引っ越し日和、っていうのかな」
窓の外は、真っ青な秋空で、山は紅葉し、ススキがゆらゆら揺れていた。
朝食の後、紅茶をのんで気合いを入れ直し、彼女が勤務していた病院へ向かう。

病院の敷地内にある彼女の部屋は、もうすでにいくつも荷造りがされていた。
彼女のご家族と合流して、片っ端から遺品を片付ける。棄てるもの、実家に送る
もの。ちゃっちゃと分別する。たくさんのゴミ袋と段ボール箱が積まれてゆく。

「ここにはほとんど住んでなかったのにね。物持ちがいい子だったから」
お母さまが腰に手を当てて苦笑し、とっちらかった部屋を見渡す。

午後には、引っ越し業者が来て、あっという間に荷物がトラックに積まれた。
私たちは、空っぽになった彼女の部屋を振り返る。窓に、赤いカーテンが
吊られたままだった。それをそのままにして、ドアに鍵をかけた。

それから高速に乗って、駅まで送ってもらった。
形のない悲しみを、ぽっかりと空いた虚無感を、やるせない想いを、胸にかき抱く。
彼女が好きだったCDを聞きながら、私は彼女が何度も見たであろう風景を見送る。
夕暮れ。山の稜線が赤く燃え、東の空に一番星が光っていた。

2003年11月25日(火)
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