月のシズク
mamico



 お盆をすぎると

夕方、よく冷房の効いたコンビニから出たとき、なまあたたかい風にお線香
の匂いがかすかに混じっていた。その匂いを確かめようと、鼻腔を膨らませ
てみたが、もうそこに香りの所在は消えていた。空を仰ぐと、勢いの弱まった
夏の空に、日が暮れてゆくところだった。

お盆をすぎると、とたんに夏が気配をうすめる。
殊に今年は、雨ばかりで肌寒く、華奢なサンダルも、露出の多い夏服も
あまり登場することはなかった。日焼け止めさえも、まだたっぷり残った
ままである。暑ければ「暑い」と文句を言うくせに、夏という季節の使命感
を放棄したような中途半端さは、余計に苛立たしく感ぜられた。
異常気象などと云う、大義名分を持った言い訳は、この際さしおいて。

子どもたちは、どうしているのだろう?と、してもしょうがない心配を抱き、
向かいの兄弟(小学校高学年くらいの男の子たち)をベランダから観察した。
背丈が同じくらいの彼らは、どっちがお兄さんだか弟だか、はたまた双子
なのかは判らないが、よく一緒に遊んでいる。マンションと彼らの家を挟む
一方通行の細い道路でキャッチボールをしたり、ふたり揃ってどこかへ出か
けていったりする彼らの姿を、私はしばしば目撃していた。

お昼近くに、珈琲カップを片手にぼんやりベランダで煙草をのんでいると、
彼らが何処からか帰ってきた。ふたりともよく日に焼けて、半ズボンを
履いていた。兄とおぼしき方が、お勝手口の上に点きっぱなしになっていた
夜灯をパチンと消して、「ただいまー」と家の中に入っていく。
弟(とおぼしき方が)、兄の後に続き「腹へったー」と叫んでいる。

夏の子供らしい彼らを見て、よしよし、と思った。
学校からも、宿題からも逃れて、退屈そうに遊んでいる彼らの夏やすみを、
よしよしと思う。どこか身をもてあまし気味で、とことん退屈しつくしていた、
あの頃の私と彼らは、さして変わらないように見えた。そして、お盆を過ぎた
頃に突然襲ってくる、学校へ戻らなければならない小さな喜びと、長いお休み
が終わってしまう焦燥感に、何度も愕然としたことを覚えている。
彼らも身体のどこかで、そう感じているのだろうか?


2003年08月20日(水)
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