私が今の家に住んでから10年になるが、10年の精神的な重みはあまり感じられず、10年のあいだ蓄積したガラクタで家が「┗(-_-;)┛オ・・オモイ… 」と言うている。
数度の引っ越し経験の後、「タンス類は必要ないな。」との実感を得た私は、和洋のタンスを持たない。 鏡台も母に貰ったけれど、場所ふさぎになるので捨てた。
タンスは押入があったら必要ないと思う。 押入のフスマをはずし、上段には突っ張り棒をすると衣類が掛けられる。 下段には、便利な収納ケースが活躍する。 この収納ケース、多少、値段がはるのが難点だ。
日々着替える小間物達はどうするか? コロ付きの半透明収納ケース5段を買って、上から「靴下」「下着」「Tシャツ」「短パン」などとわけて、しまっている。 うちは脱衣所が狭いので、居間と台所をつなぐ廊下においてある。
「いつか使うかも?」と取り置いた物品を使うことは、殆どない。
針金ハンガーは洗濯物を干すときに便利だが、クリーニングの度にどんどん溜まるので、どんどん捨てていかねば…。
京言葉の先生は、マンションにお住まいだが、いつ訪れてもオープンハウスのような簡素さで、整理整頓収納のお手本にしている。 その空間は、生活臭が殆どしないくらい。
先生のレクチャアの一つに「予備をおかないこと。」というのがある。
洗剤でも食品でも、安いと「どうせ使うモノだから。」と買いだめしちゃうよね。 それらの品物が知らず知らずに溜まって、私の生活を浸食し、私に無言の圧力をかけるのよ。
さらに先生は「要るモノ」「要らないモノ」「中間」のカテゴリにわけ「中間のモノは1年〜3年の間に処分」しなさいと言う。
ちなみに先生自身のカテゴリには「中間」というのは存在しないそうだ。
「狭いマンション暮らしだから、モノが増えると困るのよ。」然り。
狭くても広くても、モノは増えると困る。
最近の笑い話というか、明日は我が身というか、身につまされる話しがある。
だいたい70歳を過ぎたあたりから、ご婦人方は「押入の整理を始めている」そうだ。
そのココロは「いつお迎えが来てもいいように。」
うちの母も「ある年齢が来たらトラック呼んで捨ててもらう。」と言っている。 そう彼女はネズミ年生まれなので、その溜め込みようは凄まじい。
だいたい「お迎え」というのは、若かろうが老かろうが(笑)生きとし生けるもの総てに公平にやってくるものだからして、「若い」の上にあぐらをかいていていてボンヤリしているうちに、ある日、突然クルマにはねられ没してしまうやもしれぬ。
私の場合は、今の縦長の家ではなくて、も少しフラットな家への引っ越しをもくろんでいるので、ラクに引っ越ししたいがための所作でもある。
モノへの執着心を捨てると、簡素化はかなり進む。
この世に執着する値打ちのあるものは、モノには置き換えられないと思う。
私はmokoさんの「来るモノ拒まず・去る者追わず…川の流れのようにサラサラ」としたスタンスが好き。
今日、我がサイトを整理して、やっと決心がついたので(そんな大げさなモノでもないが)Diary2とサヨナラした。
このDiary1の方は1日のうちに数度の日記が書けないのが唯一の難点なんだが、よく考えりゃ、1日1度の日記もかけてない。 『たまに能弁になる』時とかのためにDiary2はストックしておけないよ。
そもそものコンセプトの… Diary1→建前 Diary2→本音
も、日常の感情の揺れのなかでは分けがたいしね。 表裏は一体で、常に反転するあやうさも持っている。
そんなこんなで、形のあるモノ無いモノのシンプル化を目指している昨今である。
パソコンもプリ○スになってから、外付けのスピーカーが要らなくなってスッキリした。
頭の中は… シンプル以前の問題で、モノを考える力が弱くなっているような気がする。
なんとかしなくては…ね。(笑)
|