この頃、強く思う事は(先の日記にも書いた通り)運命って予め決まっているように思えてならない。
抗い難いモノを感じる。
「あの日あの時あの場所で…」君と出会わなかったら、今の自分はどう変化するか?
ども・こも、ない。 しかるべくタイミングでしかるべき時に出会うように、なっとるねん。
よく「今のままで18歳の自分に戻る事ができたら…。」あるいは「20歳の自分に…(戻る事ができたら)。」なんて言葉を言い聞きもしたりするが、ある人によると「たとい戻ることができたとしても同じ道を選択する。」そうだ。 それは、多感な年頃の私の意識に強烈に残った。
その時は、単なる『習慣としての選択』なのかな?って考えてた。
例えば、いつも電車に乗り込むときスグ左側の席へ移動するとか…。 窓際を選ぶとか…。
今にして思えば、運命の轍ってあるような気がする。
この頃、「しゃらくさい。」と思うことは、某国から翻訳して出版される自己啓発のたぐいの本だ。
☆私が、こう変わったらボスもこう変わってくれた♪
あるいは「ボス」のところを「伴侶」と置き換えてみてもイイかも知れない。
人間は変わるべきポイントで変わり、変わらないポイントでは不動のままではないか?それを「変わった」と陳述するのは、大いなる錯覚のような気がしてならない。でも、それはそれで、ある意味しあわせな見解だと思う。
私は秘かに来年にある決断をしているのだが、今から10年以上も前に霊視占い師に近しいことを言われた事が決断時に蘇った。 「そんな事はあり得ない。」霊視占い師から神託された時は確かに内心、反駁していたのに…。 勿論、その時に催眠術をかけられた…という事ではありません。(笑) 昨年、急激に運命の変転を迎えた私には予感するところもある。 当たっているかいないかは、来年にならないとわからない。
去年末に近い頃、いとこが亡くなった。 それも十年以上も前に夢に見た。
霊視占い師も夢を見た私も、一時的に時空を超えていたのかな。 アインシュタインの原理が正しいとすると、それもあながち夢想ではあるまい。
親より大人より先に、人智を越えた何かがひいたレールに乗っかっているような気がするな。
そうすると… 出来レースを生きねばならない理由は何だろう。
先の世の借金返し?
この世でも借金をこさえているような気がしないでもない。
借金か貯金か?
それを決めるのは浅薄な自身の知恵でないことは確か。
「そなへんは、あまり深く考えたらイカン。考えすぎると江藤淳みたいになるでぇ…。」と歯医者のジィちゃん先生は言っていた。
江藤淳:
戦後日本を代表する文芸評論家 1998年、妻を亡くす。 1999年7月21日、自殺。66歳。 遺書:
【心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳】
妻を亡くし、自身も脳梗塞の発作による身体の不自由から死を選んだと言われているが… 歯医者のジィちゃん先生曰く、 「考えすぎたから。」だそう。
私は「知ってしまったから。」だと思う。
この頃思うことは、自殺でも他殺でも病死でも… 寿命が尽きるという原理においては、一緒で… 例えば、宗教では「自死」は魂がさまようからというような理由のため禁止されている事が多いが、そうとも断定できない『何か』が、あるような気がしてならない。 それを江藤淳は知ったというか、悟ったんではないかな?
人間は… どう逆らったって死ぬ時は死ぬねん…。 それが私の出した結論です。
生まれてきたからには、一生懸命、楽しく、生きて行くのが責任かな?と思う。 うつらうつらと、まどろみつつ…。
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