夢を見た。
病院の前に自転車を止め乗ったまま最上階の5階を見上げる私。
最上階の病室から、見下ろす私。 歩道でポカンと見上げる私と見下ろす私の心の会話。
(まだ、5階の病室に居そうな気がする。)
(いえ、もうこの病院には居ない。)
(彼の終の棲家になってしまった。)
(そうね、いつもここから発信していたね。)
(まだ、思念が残留していそうな気がする。)
(会いたいね…。)
(会いたい。)
『癌が再発しました。』と携帯メールを受け取ったのは去年の梅雨時分だったか…。 彼からのメールは殆ど削除できないまま今に至るのだが、つら過ぎてよほど気力が充実している時でないと確認できない。
焦ってかけつけた病院は会社からわずか1.5キロ。 自転車で5分くらい。
祇園の姉ちゃん達が入れ替わり立ち替わり…ニコニコと嬉しそうな彼。
意外と元気そうで、病人らしくなかった。
最後の祇園の姉ちゃんが「じゃ、私、出勤の用意があるから…。」と帰ったあと…あまり病人に負担をかけては…と思い、 私も「じゃ、出勤の用意があるから♪」とウケを狙っておいとましようとしたら、いつにもまして厳しい顔で押しとどめた彼。
「僕の人生のカウントダウンは始まっているんやで!」
そんなこと、元気そうな丸顔の童顔に言われたって信憑性がない。
「一昨年、大腸癌を切除したとき、全部取り切れてなかったみたいや。これから厳しい抗ガン治療が待っている。」
彼は軽度の大腸癌だったので、人工肛門は右側だったように記憶する。 軽度→右 中度→真ん中 重度→左 切除する腸の長さによって決まる。
裏日記の『ブロイラー』日記にかいたとあるボランティアの場所で知り合った。 会社から出向でその期間、派遣されているらしかった。私はアフターファイブにお手伝いしていた。 人工肛門の話は公認の事実だったが、打ち明けられるまで健常者と疑わなかった。 ボランティア期間は彼のマンションと私の最寄り駅が近かったため、ほぼ毎晩、駅まで送ってもらっていた。(もっとも彼の部屋には行ったことはないけれど。)
ヘビースモーカーで癌になってもなお「僕はたばこと女性の乳首は一生吸い続けます!」と医者に公言した彼。 もっとも回春は途中で失ったようだが…。
その日が、 危篤の日と同じくらいに印象に残っているのは…しみじみと彼の半生を聞かされたからだ…。 平成7年あたりから続けて、兄・父親・妹・弟…自ら命を絶った兄以外は全部、悪性の腫瘍で亡くなった。
痛みを伴う腫瘍のために暴れる父親に看護の家族は憔悴しきり「お前、いついつまでに逝けよ。」と亡くなった兄の代わりに父に引導をわたしたこと。
血液の癌のため莫大な治療費をかかる弟を心の底で疎ましく思うのと、治療費を稼ぐのに忙しすぎて、つい病室へ向かう足が遠ざかりがちだったこと。 「弟はこの薄情な兄を恨んでいるかもしれない。未だに、弟の日記を読むことができない。」そして最後に… 「年老いた母親を一人残しては死ねない。」とつぶやいた。
彼の名字は珍しく「元々は渡来人で、蘇我入鹿の子孫。日本では源氏にも平氏にも属さない兵隊の末裔だよ。」と教えてくれた。
おそろしく頭の回転が速く切れ者の彼は、名参謀だった。 彼が居なかったらボランティアは無事終了しなかったに違いない。
直近の写真日記にも書いたが、ボランティア仲間を含む彼との花見は最初で最後になってしまった。
享年48歳。
今年は… 桜を見て心底「切ない」と思った。
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