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HELEN&HEAVEN
Helen
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2004年02月25日(水)
1トンの塩



最近、読み終えた文章の書き方の本に名文が抜粋されていたので忘れないうちに書き留めておく。

イタリア文学者の須賀敦子さんのエッセイ。

筆者はミラノにてイタリア人と結婚して姑と共に同居を始めた。

結婚して間もない頃、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた筆者にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、1トンの塩を一緒に舐めなければだめなのよ。」

とっさに喩えの意味がわからなくてきょとんとした筆者に、姑は、自分も若い頃、姑から聞いたのだといって、こう説明してくれた」と原文は続く。

<1トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、1トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まぁいってみれば、気が遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら>

このエッセイは読書のすすめにつながります。

『文学で古典といわれる作品を読んでいて、ふと、いまでもこの塩のはなしを思い出すことがある。この場合、相手は書物で、人間ではないのだから、「塩をいっしょに舐める」というのもおかしいのだけれど、すみからすみまで理解し尽くすことの難しさにおいてなら、本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ているかもしれない。読むたびに、それまで気づかなかった、あたらしい面がそういった本にはかくされていて、ああこんなことが書いてあったのか、と新鮮な驚きに出会いつづける』

『長いことつきあっている人でも、なにかの拍子に、あっと思うようなことがあって衝撃をうけるように、古典には、目に見えない無数のヒダが隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかったヒダがふいに見えてくることがある。しかも、1トンの塩とおなじで、そのヒダは、相手を理解したいと思い続ける人間にだけ、ほんの少しずつ、開かれる。イタリアの作家カルヴィーノは、こんなふうに書いている。
“古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい。予想を上まわる、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。”』

Helenが思うには、古典を読み続けることは自身の経験と成長をはかる尺度になって面白いと思う。

10代の自分…
20代の自分…
30代…
40代…
50代…
60代…

三十にして立ったり、不惑に惑ったり、よたよたおろおろしながら、みな人生を過ごしていくんだろう…

そんな中でも、経験や身に付いた知識は、予想外の見識を自分にもたらしてくれる。

あまたの歴史書を読んで、古典を知った気になるなと評論家・小林秀雄もいさめていた。
知った気になっていることが実は一番知らないことなのかも知れない・・・・・ネ。