私がたまにする遊びと申しますか、書籍を使った余興があります。
たまたま手にした書籍を(中程でも頭の方でも最後の方でも構いません)、指で押し広げ『ぱっ』とページを開いてみるのです。 勘の鋭い方なら啓示的な出会いがありますでしょう。↓ 【今、どうして、この文章に出会ったか?これは偶然か・必然であるか?】
第六感に関わらず、しばし現実を忘れて言葉の知恵の輪(謎解き)に、はまって行く楽しみがあります。
昨日、たまたま手にした本は、とうに廃版になった昔むかしの雑誌「国文学」のシリーズ物でした。ちょっと前、インターネットのUSEDストアで取り寄せたものです。
ある評論家に絡めた「歴史認識の問題」の文章が、パッと開いたページにありました。
ゲーテの言葉を分析してある文章からの引用でしたが「歴史の“見方”を見て、歴史を見ていると信じている態度。」を批評した文章でした。
“過去というものは所詮現在のフィルターを通じてしかとらえられない。”
“努めて古人(歴史上の人物)を僕らに引き寄せて考えようとする、そういう類の試みが、果たして僕らが古人と本当に親しむに至る道であろうか。”
わからないことを、わかろうとせずに、マニュアルを読んでわかった気になる。 自ら調べようともせずに、他者に尋ねて、近道しようとする。
そんな怠慢を自分はすることがあるので、耳の痛いところでもあります。
人は『他』を判断する時に、自分の方から『他』へ寄ることはあまりせず、自分の方へ『他』を引き寄せて答えを出しがちだと思います。
all or nothing の考え方を指し示しておいて、いざとなると言い逃れをすることもままあります。
例えば…
「A」という意見に固執している人がいました。
あまりにも「A」を推奨され、『「B」は信用ならない、「B」でヒドイ経験があります。』 なんて、ことあるごとに仰られていたものですが、私はあえて反対意見を述べたことはありませんでしたが、その方の「B」に対する(私の)印象は、相当、不審を抱かれているのだなというものでした。「B」に対する肯定的意見を一度も聞いたことがなかったからです。 人の思想は自由であります。何を信じようと、人様に迷惑をかけない限り、是です。
私は、できうる限り「ファジーな人間で居たい。」のが望みです。 何かにつけ【全否定をすることは、したくありません。】 ↑これは『私』の『誰に対する』でもない「 私 自 身 の 信条」 …と私なりの命題を交えた私の「B」に対する意見を“申し上げますと、「私は“B”を全否定する気は毛頭無い」とご立腹のようでした。どうやら、その方に対する意見ととらわれたようですが、それは、その方が『他』を自らの尺度の方へ引き寄せられたのでしょう。まぁ、いわゆる世間一般で言う自惚れというやつでしょう。
いえいえ、「あなたが部分否定されようと全否定されようと、あなたの自由です。私がファジーで居たいだけなのです。」とは申し上げませんでした。
何を話ししても一緒でしょう。 似たような話は何度もありましたし、わかった「つもり」でおられても(基本的に他者を自己に引き寄せてわかったつもりでいても)自分からは寄って行くことはしないものだからです。
私にとっては、「A」も「B」も同等で、どちらに比重を置くこともできない事の事実がすべてです。 その方にとって、「B」は全否定こそしないけれど、「信用ならぬ。」とことあるごとに仰られていたので、当方の見解は、もう、部分否定も・全否定も同じ印象で、何を仰られてもあまり感じえません。
ようするに都合の悪いときだけ反旗を翻すというような手段にも幼稚さを感じますし、自己を正当化する上で言葉を取り繕ってばかりいては、根幹の部分が曖昧になってしまう…
喩え「○○が嫌いなら、一生○○を嫌いで、お行きなさい。」と思いますが、「○○の全部が嫌いではない。」のなら、○○に対する具体的な意見を最初から述べなきゃね。 エスパーではないのですから、それこそ、そこまで「 フ ァ ジ ー に 」気を利かせて読めませんよ。
最初に私の本能が予見した通り、 つきあうのは困難と努力を伴うもので、さしものファジー(←これは真の意味でね♪)を目指す私もつきあって居られるほどの暇は持ち合わせてはいません。私は自身の心の声をまだ全部聞き取れてはいない。ちょっと集中したいのです。 「自分自身を信じている。」けれども、他者にぐだぐだ押しつける気もありません。
話しが逸れてきました。
会社の経理パート・G藤さんの口癖のような「普通は」という尺度に「私は」と、すり替えて、人は自身の意見を穿ちがちですが、 なぜ「私は…」と最初から言えないか?
「事実」が曖昧模糊なまま、意見を言うのもはばかれる「他者」に置き換えて述べる近道を選びたいのか…
そのような保身に偏重した意見では、訴えるモノが少ない。
かと言って…
「私は、こう思います!!」の意見も事実確認が、個人の少ない体験の元では、印象も薄い。
ここに、アイロニーが発生するわけですが…
私としては、なるべく、この隙間を埋めたく、経験と知識を積んで行きたいと思っています。
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