先日、『十戒』という映画をビデオでやっと見終わった。
長いので、幾日間にわけてコマ切れにみた、モーゼの十戒。
人が人の上に立つことも下になることも、不条理だということを改めて認識した。
十戒
1.神は一つである。
2.偶像を崇拝してはならない。
3.神の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を守る。
5.父母を敬愛せよ。
6.人を殺すなかれ。
7.姦淫するなかれ。
8.盗むなかれ。
9.偽証するなかれ。
10.貪欲になるな。
耳に痛いことばかり・・。(笑) 儒教の教えにも通じるものがありますね。
7番目の『姦淫』についてですが、旧約聖書では、性を決して蔑視していないのです。性を尊重し、大切であるからこそ、旧約の厳しい性倫理があります。性が“聖”であり、重要であるからこそ、不正な性交(不倫、近親姦、神殿娼婦、獣姦など)を姦淫と呼び、性/聖を汚す不義行為として、厳しく罪としたのです。
夫婦愛の関係が人間関係の出発点であり、しかも神と人との関係の原点としています。旧約聖書では、神と人との関係がしばしば夫婦愛の関係に譬えられています。エロスはアガペの原形として尊重されているのです。
キリスト教ではエロスとアガペに分けて、エロスは男女間の愛で、アガペが神への愛でありより高級だとしていますが、プラトニック(プラトン的な)ラブというように、そもそもアガペという観念もギリシャ哲学からのもので、旧約思想にはもともとありません。夫婦の愛も神の愛も同じなのが、霊肉一元論のヘレニズムの思想なのです。性への偏見は全くないのです。 ↑ − ここまでは、引用させていただきました。
↓ − ここからは、貴蔵さんに教えていただきました。(新聞の切り抜きより)
本来の「エロス」とはセックスなどの狭い意味ではなく「自分の足りないところを補い合う愛」という意味であり、「求める愛」である。
対してアガペは自分の持てるものを他者と分かち合いたいとする「与える愛」であり云々...
・最近は相手に要求することの多いエロス的な愛が氾濫している ・無償で他人に尽くすアガペ的な愛は敬遠されがちである ・そのため、現代の人間関係はギスギスしているのかもしれない。 ・どんなに愚かしく見えても同じ地球上の今を生きる人間同士、もっとアガペ的な 愛を送ろう
切り抜きの筆者は上智大学教授のアルフォンス・デーケン氏。
最近、今更ながらに思うことは 「愛」ってなんやろう?
例えば、私は私自身を愛するみたく隣人を愛したいとは思うけれど、腹の立つこともままある。 この頃思うことは、彼も彼女も私を映す鏡なのではないか。−ということです。
例えば、あの人の“こすっからい”点が妙に気になるのは、それは自分の中にもそのような点を包括してい、まざまざと見せつけられるから、腹が立つのでは?と思う。 可愛い自分には甘く過大評価したい、汚い部分なんて観たくないよ。
20歳前後で運命が変わるような関わりをした人が居て、それは良くない方へで、私は長い間その人を恨んでいた。
アメリカで英語を学んでいたとき、在住の日本人の年長者にそのことをチラリと話すと、彼は仏教徒であったが「許しなさい。」と即答したね。
「許せるわけないやないの、ずいぶん苦しんだで。」反発心しか湧いてこなかったけど、未だに“許せる”ような境地に居るとは言い難いけれど、憎しみからは解き放たれたような気がする。
しかし、“許す”という行為が出来ないで居ると、ずいぶん、精神衛生上良くないというか、自分自身がシンドイね。
それに捕らえられて後退こそすれ、一歩も前へ進めないからです。 一歩も前へ進めないということは、これは人生に於いては損失だと思う。
そんなこと理屈ではわかってはいても、なかなか、感情が『yes』と言うてくれなかった。 些細な感情の行き違いから他人を傷つけた、友を失ったりもした。 それはそれで、『縁』の物という言い方もできるし、本当にそれだけの関係やったかもしれぬ。
今、身近で他人の過去の失態を許せない人が居る。 傷をおったまま、ともすれば、その傷を押し広げては味わっている様子でもある。
じくじくじくじく、執拗に過去と相手を責め立てる。
若かりし頃の自分を観ているようで、とても、辛い。「堪忍して。堪忍して。」と何度も思う。
今仮に、その人に「許せ。」と言ってもそれはできない道理で、とてもじゃないけれど口に出すことはできない。
『日にち薬』− 時間の経過がその人のささくれた感情をおしなべてくれるのを待つのみなんです。
せめて、「仲違いはやめようぜ!アガペの愛を持ちましょう。」 ちょっと幼稚な方法かもしれないが、心の中で念力よ発生せよと、一生懸命祈ってます。
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