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2012年08月15日(水) ■ |
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「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」 |
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『本の雑誌』2012年8月号(本の雑誌社)の連載エッセイ『続・棒パン日常』(穂村弘著)より。
(穂村弘さんが、雑誌の企画で、いまはアナウンサーになっている同級生のIさんと一緒に卒業した名古屋の私立高校を訪れたときの話)
【記憶が白い理由が全く思い当たらないわけではない。何もなかったからだ。高校生活を営む上で多少なりとも発生する筈の恋愛やクラブ活動を巡る出来事が私の身には何も起こらなかった。アルバイトをしたこともなかったから、小学生の生活と大差ない。周囲の大人しい友人たちの場合もそれに近かったと思う。 女の子と自転車の二人乗りをしたことがない。文化祭で喫茶店をやったとき、一緒にカーテンをつくったくらいか。空白の中に友達や女子から名前を呼ばれた記憶はいくつかあって、それが自分にとっては貴重な出来事だったからだろう。名を呼ばれるだけのことが珍しい。誰も私に用はないのだ。 映画や小説とはちがって、現実には何もないということがある。わかっている。しかし、それを認めるのは勇気がいる。それとも現実はそんなものなんだろうか。何もないのが普通なのか。調査したわけじゃないから不明。 「何てことない高校生活で何にもなかったんですよ」。同行の記者に向かってI君が云った。その穏やかな口調に勇気を得て、そうなんです、何にもなかった、と私も云ってみる。口に出して、ちょっとほっとした。何にもないのはおそろしい。】
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穂村さんは、このエッセイのなかで、当時の記憶、駅からの道筋や周囲の景色、校舎の配置などがほとんど記憶に残っていないことに驚いた、と仰っておられます。 僕は男子校出身で、卒業して以来、20年くらい母校を訪れていないのですが、この穂村さんの話を読んで、なんだかすごくホッとしたんですよね。 僕も、もし同じような状況になったら、きっと「何もない」だろうから。
でも、実際のところ、こういう状況に置かれたら、人は「何か」を探してしまうと思うのです。 とってつけたような「面白いエピソード」を、かなりのフィクションをまじえて、作り出してしまうかもしれません。 やっぱり、「何もない」のは、怖いし、「高校時代に何もなかった人」だと、他人にみなされるのは、ちょっと恥ずかしい。
この話のなかで、Iさんの「何にもなかったんですよ」という言葉を読んで、僕も少し勇気がわいてきたのです。 ああ、アナウンサーになるような人でも、高校時代「何もなかった」んだ、って。 逆に「すごすぎて、何も言えない」ような思い出があった可能性もありそうですが。
けっこうみんな「何もなかった」のですよね。 それを口にするのは、けっこう勇気がいることなのだけれども。
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