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2010年06月25日(金) ■ |
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「校正」というのは、誤字脱字を直すだけの仕事じゃない。 |
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『編集者の仕事』(柴田光滋著・新潮新書)より。
【それはともかく、ゲラから始まる大事な作業が校正。私が書けるのはあくまで編集者から見た校正であって、本職の方からすれば物足りないかぎりでしょうが、その仕事に対する敬意だけは失わずに記すつもりです。 出版界ではしばしば「校正、畏るべし」と言いならわす。もちろんこれは『論語』における「後生、畏るべし」のもじりなのですが、編集者の側から長年にわたって数え切れないほど痛切に感じてきました。 校正は編集者もしないわけではありませんが、本来は別の役割。編集者はどうしても流して読んでしまうので、きちんとした校正はまずできないからです。 幸いなことに私はすぐれた校正者に恵まれ、何度となく命拾いをしてきました。言わば命の恩人。さらには、自分で本を出してみて、校正のありがたさを著者の立場からも実感することができました。一応は編集者ですから、あまり恥ずかしい原稿にはしたくない。そう心して書いたつもりなのですが、ひどい誤記がいくつもありました。 ここでは一つだけ挙げておきます。ギター好きであった高校生の頃に出会って感嘆した言葉「ギターは音が小さいのではない。遠くで鳴っているのだ」をベートーヴェンの言葉としてしたところ、「ストラビンスキーではないか」と指摘されました。四十数年も前に読んだ本で調べ直してみると、たしかにその通り。ベートーヴェンの言葉は「ギターは小さなオーケストラである」でした。両者をいつからか入れ違えていたわけです。 編集者として扱った原稿なら数知れず。ほんの少しだけ思い出を記しましょうか。ある歴史小説で、これぞというタイミングで後白河法皇が出てきたのですが、「この時点では後白河法皇はすでに亡くなっています」。嗚呼! また、ある小説では主人公が北海道の海岸で北斗七星を見る美しい場面があったのですが、「この時期にこの場所からは見えないはずです」とあり、詳しい説明が付いていました。またしても、嗚呼! 昔も今も「校正、畏るべし」。 校正者が疑問(現場ではもう少し柔らかく「ギモン」と書く)を出す場合、典拠となる資料のコピーが時には何種類も添付されています。ネット上の情報で簡単に済ますようでは、素人ないし怠惰な校正者と言われても仕方ありません。】
参考リンク:『番線――本にまつわるエトセトラ』(琥珀色の戯言)
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僕のイメージでは、「校正」というのは、作家の原稿の誤字脱字を添削していくだけの仕事だったのですが、この『編集者の仕事』という新書を読んで、「校正者の凄さ」を思い知らされました。「漢字に詳しければ誰にでもできる簡単なお仕事」どころか、どれだけ幅広い知識と粘り強さが必要なのかと感心してしまうばかりです。「ギモン」には、ちゃんと「ソースを提示しなければならない」みたいですし、それも「Wikipediaで調べました」ってわけにはいかないでしょう。 ここまでやらなければならないのであれば、校正者には、おそらく、「音楽関係」とか「歴史モノ」というような、それぞれの「専門」もあるのでしょうね。それにしても、エッセイなどではさまざまな話題が語られていることが多いでしょうし、ここで紹介されているエピソードでいえば、ギターの話などは「とりあえず確認してみる」のもわかりますが、後白河法皇の話や北斗七星の話などは、サラッと読み流してしまいそうな気がします。 個々の誤字脱字を直すだけでなく、物語の全体像を把握していないと、ちゃんと「校正」することはできないわけで、著者と同じくらい丁寧に読み込んでいないとできない仕事なんですね。 まあ、すべての作品が、これほどていねいに「校正」されているといわけではないのでしょうけど。
こういう「本の裏方」の仕事を知ると、「電子書籍で著者と読者を直結すれば、本が安くなるし、出版社なんて要らない!」というのは、少し不安な気もします。本の内容というのは、こうして間に人の手が加わることによって、間違いなく「正確」にはなるでしょうから。
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