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2008年12月20日(土)
浦沢直樹さんが語る、「三谷幸喜さんと僕の共通のこだわり」

『QJ(クイック・ジャパン)・vol.81』(太田出版)の「総力特集『漫画の底力』」の「1,5000字インタビュー・浦沢直樹」より。取材・文は吉留大貴さん。

【インタビュアー:浦沢先生は漫画というものに対してどこか客観的な視点を持って接しているように感じます。

浦沢直樹:もともと漫画家になりたかったわけではないですからね。就職活動で小学館を受けて、面接のときについでに原稿を持って行ったら、たまたまの流れで漫画家になっちゃったっていうのが僕のキャリアのスタートですから。でも貧乏はしたくないし(笑)、とりあえず食ってかなきゃいけないし、かといって魂も売りたくない。そうなると職業としてどこで帳尻を合わせるかを考えるじゃないですか。そりゃ初めて印刷物になって雑誌に載ったときも嬉しくなかったと言えば嘘になるけど、「憧れが実現した!」という感じは正直なかったですね。……手塚治虫先生の『陽だまりの樹』と隣り合わせで自分の漫画が載ったときは、さすがに「すごい!」と思ったけど。
 僕の場合、単に絵が上手く描けちゃっただけなんです。嫌味に聞こえるかもしれないけど。だから漫画を生業にする際に、「絵が描けることをツールとしてどう使おうか」って考えながら、今までやってきた感じなんですね。

インタビュアー:キャリアの最初から”プロデューサー・浦沢直樹”という視点を持っていたということ?

浦沢:そういう感じが近いでしょうね。絵に関しては子供のころから異常に敏感だったし。例えば小学生のとき、アニメの『巨人の星』を見てると、4、5チームで作画しているのが分かっちゃうんですよ。それで、「ローテーション的に考えると来週はあのチームが作画だな。来週は良い場面だけどあのチームで大丈夫かな?」とか心配するような、イヤな子供だった(笑)。他にも『侍ジャイアンツ』と『アルプスの少女ハイジ』は同じアニメーターが描いてるってパッと見ただけで分かって。「別々のアニメーション会社で作っているのに、なんで同じ人たちが描いているのか、子供のころ気になってしかたなかった」とスタジオ・ジブリの鈴木敏夫さんにこの間お会いしたときに話したら驚いてました。まあ、そうやってクレジットを見たり調べたりしているうちに、宮崎駿・高畑勲・大塚康生という名前や、荒木伸吾という優れたアニメーターを、知らず知らずに覚えていったりもして。

インタビュアー:ちなみに、浦沢先生の考える漫画原作のアニメの最高傑作って何ですか?

浦沢:漫画をアニメ化ね……難しいけど……。『ど根性ガエル』とか好きでしたね。キャラといい、背景といい。あとやっぱり『ルパン3世』だな。あの爆発シーンは革命的だった。

(中略)

インタビュアー:時代を飾るアイテムを順列組み合わせにするのではなく、自分なりに組み替えることで、単なる嘘とは異なる仕掛け=トラップができる。このトラップの設定の巧さが、浦沢作品の根底を支えている気がします。

浦沢:もっと単純に、際どく言ってしまうと、僕には「男子の精通が始まっていない/始まっている」というラインがあるんじゃないかな。中学を起点にしてしまうと、どうしてもセクシャルな気持ち悪さが出てくるんですね。それが僕の生理に合わないんだと思います。

インタビュアー:例えば、あだち充さんのように、高校生を主人公にしても極端なまでに現実のセクシャルな要素を排除する作家もいますよね。でも、あそこまでそぎ落としてしまうと、逆に「性の不在」が強調されてくる。一方、浦沢先生は同じく高校生が主人公の『Happy!』ではある程度セックスを描いているし、『20世紀少年』では、ポルノ映画のポスターや平凡パンチといった具体的なアイテムを使って、少年なりの性的な部分を描いている。つまり、作家が設定したボーダーラインが目立ちにくいんですね。

浦沢:それは簡単に言うと、「笑えるうちが華だ」ってことですよね。これくらいがちょうどいいというラインを作品ごとに常に意識してますから。もちろん描こうと思えばいくらでも踏み込んだ絵を描けるけど、どんどん読者を限定してしまうことになるでしょう。別に僕はそういうのを見せたいわけじゃないから。もしセクシャルなところに踏み込んだとすると、少なくとも「ファミリー向け」の作品ではなくなってしまう。僕は自分の作品を何とかしてお茶の間に届けたいんです。だから自分の中で危険信号が点ると、急ハンドルを切るようなことをたまにやりますね。これ以上直進すると何かが限定されてしまう、というときにね。

インタビュアー:「お茶の間に届けたい」という思いはどこからきたのですか?

浦沢:例えば僕はハリウッドの名匠、ビリー・ワイルダーが大好きなんだけど、あんなに面白い作品をみんなが忘れていってしまうことに対する反発があるからかもね。面白いものはお茶の間に届けられるべきなんです、ずっと。たぶん三谷幸喜さんも同じように考えているんじゃないかな。何をやるにしろ、最終的にはお茶の間に流せない作品はやらないという基準を、僕は捨てたくないんでしょうね。】

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 現代を代表する漫画家のひとり、浦沢直樹さんの1,5000字という長いインタビューの一部です。
 浦沢さんは『YAWARA!』『MONSTER』『20世紀少年』『PLUTO』と、大ヒット作を描き続けておられるのですが、その作品の人気と知名度のわりには、「漫画家・浦沢直樹」本人はあまりメディアに露出しておらず、このインタビューはかなり貴重なものだと思います。

 この浦沢さんの話を読むと、世間の「漫画家志望の子供たち」の多くは、「人気漫画家になる人は、子供のころからこんなに違うものなのか……」と、ガッカリしてしまうのではないかと心配です。
 「僕の場合、単に絵が上手く描けちゃっただけなんです」という浦沢さんにとっては、「絵が上手く描けること」というのは単なる「自然に身に付いていた能力」でしかなくて、「絵を上手く描けることを、どう利用したらうまく生きられるか」というのが「悩みどころ」だったのです。
 多くの漫画家志望の人たちが「まず絵を上手く描くこと」に悩まなければならないことを考えると、「有利」であったことは間違いないでしょう。
 実際は、インタビューではこんなふうに答えておられても、かなり研究したり練習したりされた可能性もありますが、少なくとも、そういうトレーニングも浦沢さんにとってはあまり苦にはならなかったようです。
 それにしても、世の中には、こんなにアニメの内容じゃなくて「絵そのもの」にこだわっている子供がいたのだなあ。
 『ど根性ガエル』の好きなところとして最初にあがるのが「キャラ」と「背景」だし、『ルパン3世』は「爆発シーン」だからなあ……
 そういう「細部」を客観的に評価し、そこにこだわることができる性質というのが、浦沢さんの「個性」なのでしょう。

 このインタビューで僕はいちばん印象に残ったのは、浦沢さんが三谷幸喜さんの名前を挙げつつ、「自分の作品がお茶の間で流れることへのこだわり」を語っておられる部分でした。
 僕は三谷幸喜さんの作品、とくに映画を観ていると、ストーリーの緻密さや伏線の消化のしかたの上手さにに感動するのと同時に、「三谷作品だから、登場人物が惨殺されたり、ものすごく不幸になったりはしないのだろうな……」というような「物足りなさ」を感じてしまうのです。
 たまには、「三谷幸喜らしくない」ものすごくグロテスクな作品とか、理不尽な展開の作品とかを作ってみればいいのに、とも思います。技術的には、そういう作品でも面白いものが描けるはず。
 似たような「三谷幸喜っぽい」作品ばかり書いている三谷さんには、もう「冒険心」が無くなってしまっているのではないか、というようなことを、つい考えてしまうんですよね。

 でも、この浦沢さんの話を読んでいて思ったのは、「お茶の間に届くような作品を描く」というのは、「手抜き」ではなく「多くの人に届けるために、あえて自分の表現に制約を設けること」なのです。
 それは、少なからず表現の幅を狭めてしまうはず。
 創作者からすれば、エロ・グロをはじめとした過激な表現というのは、読者を制限してしまうかわりに、それだけてひとつの「オリジナリティ」として評価されることもあります。
 いずれにしても、「面白いもの」じゃないと生き残れない世界ですから、そこで自ら「制約」を設けるというのは、少なからずハンデを背負うことになるでしょう。
 そして、浦沢さんの場合、「ボーダーライン」を「漫画家・浦沢直樹のボーダーライン」ではなく、「作品ごとに設定している」というのは、けっこうすごい話ですね。
 浦沢さん自身がマンガ界の『MONSTER』なのかも……