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2008年05月19日(月)
無意識に「リアルな世界にもリセットボタンがある」と思ってしまうことの怖さ

『街場の現代思想』(内田樹著・文春文庫)より。

(「離婚について」という章の一部です)

【うちのゼミの学生の話。新しいゲームが出たので、3日くらい家にこもってゲームに耽っていた彼女はゲームをクリアしたあと、寝不足のままぼんやりと久しぶりに学校に出てきて、友だちと話しているときに、その子に向かって「言ってはいけないこと」を言ってしまった。そのとき、とっさに右手が「リセットボタン」のありかを探っていたそうである。
 味わいの深い話である。
 この逸話の興味は、ゲームのやりすぎでリアルな世界にもリセットボタンがあると思ってしまった幻覚にではなく、「リセットボタンがある」と無意識に思っていたせいで、友だちに向かって不用意な発言をすることを自制できなかったということの方にある。つまり彼女はリセットできることを前提にしたとき、無意識に「言ってはならないこと」を選択的に口にしたのである。
 あまり知られていないことだが、「やり直しが利く」という条件の下では、私たちは、それと知らぬうちに、「訂正することを前提にした選択」、すなわち「誤った選択」をする傾向にある。
 自動車の免許を取ったばかりの新米ドライバーは決して中古車を買ってはいけないとよく言われる。「運転が未熟なので、ぶつけて傷つけるかもしれないから、中古に乗る」という発想をしている限り、ドライバーは無意識に自動車を「ぶつけよう」と思うようになる。考えてみれば当然だ。「ぶつけても平気」という理由で、わざわざ購入した中古車である。ぶつけなければ買った意味がない。】

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 この文章を読んで、僕が免許を取ったとき、親が「絶対に新車に乗るように」と言っていたのを思い出しました。僕は当時「どうせぶつけるし、中古でいいんじゃない?」なんて答えた記憶があるんですよね。あのときは、「中古車って、どこかに隠れたトラブルを抱えている可能性があるから、新車に乗ったほうがいい」という理由なのだと思っていたのですが。
 それに、「新車だから、絶対にぶつけちゃいけない」というのって、かえってプレッシャーになるのではないか、とアガリ症の僕は考えてしまいます。
 でも、こうして内田先生が書かれているのを読むと、「ぶつけよう」と無意識に思うようになることのほうが、緊張することよりもはるかに危険だということのようです。

 京都新聞による小学生へのアンケートで、「死んだ人は生き返ると思いますか?」という問いに対して、約1割の生徒が「生き返る」と答えた、というニュースが伝えられていました詳細はこちらを御参照ください
 問題は、「死んだ人は生き返ると思っていること」そのものではなくて、「どうせ生き返るのだったら、殺してもいい」、あるいは「それなら、傷つけてみよう」と無意識に行動してしまうことにある、ということなのでしょう。
 『ドラゴンクエスト5』の「ビアンカとフローラ、どちらと結婚するか?」という選択(僕なら迷った挙句に夜逃げしてしまいそうですが)のように、「どちらが正しいとはいえない選択」もあるのですが、ゲームでは、ついつい、「間違っているであろう選択肢」を選んでみたくなる衝動ってありますよね。例えば、『ドラゴンクエスト1』のラスボスの「私の手下になれば、世界の半分をお前にやろう」というような「問い」って、明らかに「罠」なのですが、あれを「選んでみた」ことがある人は、かなり多いはずです。
 「どうせ、リセットしてやり直せばいいや」と思うと、無謀な選択にも、抵抗感はすごく少なくなるどころか、むしろ、その「無謀な、不正解であろう選択肢」を選んでみたくなるのです。

 「ゲームはゲーム、現実は現実」でしょうし、「だからゲームをやっていると自制心が失われる」なんて言うつもりはないのですが(ゲーム内で「やってはいけない行為」をやってみるというのは、ある種のストレス解消にもなるでしょうから)、こういう例を聞くと、「現実にリセットボタンがある」と無意識に思っている人というのは、僕も含めて、けっこういるのではないかと不安になってきます。

 ネットというのも、「何かクレームがつけられたら、書き直せばいいや」って、考えがちな場所ではあるんですよね。見た人は、「書き直す前の過激な内容」しか記憶に残らないのに。