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2008年04月12日(土)
『赤ちゃんポスト』に捨てられた「障害を持つ子ども」

『週刊SPA!2008/4/15号』(扶桑社)の『勝谷誠彦のニュースバカ一代』Vol.280「『赤ちゃんポスト』の巻」より。

【私はそれをこのコラムでは『子捨て箱』と名づけた。昨年5月から熊本市で運用が始まった『こうのとりのゆりかご』なる赤ちゃんポストである。あれからほぼ1年。無責任なメディアはその後の経過について知らぬ顔をしているが、三月末までに捨てられた子どもは16名だという。「熊本には捨て子の山が出来るだろう」とあちこちで書いた私の危惧はほぼ当たったと言っていいだろう。しかし、そうした「数」以上に深刻な事態が3月に捨てられた子どもの中で起きていたのである。
 3月31日に配信された共同通信は、3月中にポストには3人の子どもが預けられたと紹介した中で<うちひとりは障害があるとみられる>と報じた。読んだ私は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を感じた。これはもっともあってはならない差別ではないか。かつてナチスは第三帝国で優生思想と称して障害者を抹殺した。それらへの深い反省から人類は出産前診断で判明する障害や病気を持つ胎児の中絶にも極めて慎重になってきた。ましてや出産後に障害がわかったからといって子どもを遺棄するということは、生命の尊厳に対する根本的な挑戦である。あるいは親は「障害のせいではなく経済的理由」などを言うかもしれない。しかしそれは本人だけが知ることであり永遠に他人にはわからぬことだ。少なくとも『子捨て箱』の存在が親の行為のハードルを下げたことは間違いないと私は思う。】

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 設置・運用されたときには大きな論議を呼んだ『こうのとりのゆりかご』なのですが、たったの1年で、その話題はすでに「風化」しつつあるようにも感じます。僕もこの勝谷さんのコラムを目にしたときに、「ああ、そういえばそんなのが話題になってたな」と思い出したくらいですし。
 約1年間で16人の子どもが預けられたという事実には、正直、「僕が予想していたより少ないな」なんて考えたりもしたのです。

 ここで勝谷さんが語られている「障害がある子どもが捨てられたこと」に関しては、僕もいたたまれない気持ちになりました。そんなことが「許される」ようになったら、それこそ「優生思想」の復活ではないか、と。
 そして、『こうのとりのゆりかご』が、そういう行為を「助長」してしまう可能性が高いのも事実でしょう。誰も見ていない、「捨てた」後はいろいろ詮索されることもない、となれば、確かに「ハードルは下がる」でしょう。

 その一方で、「じゃあ、健康な子どもを『経済的な理由で捨てる』ことは許されるのに、障害がある子どもを捨てることは許されないのか?」とも思いますよねやっぱり。
 障害を持つ子どもは、それゆえに、「よりいっそうしっかり守られて生きていくべき」だと僕も思います。しかしながら、人類全体として「そうあるべき」であったとしても、当事者として、自分が障害を持つ子どもの親となった場合、「この子は障害があるんだから、親のお前たちが、ちゃんと責任持って育てるんだぞ!」というプレッシャーをかけられ続けるのは、すごくキツイことだと思うんですよ。

 そりゃあ、自分が当事者でなければ、いくらでも理想を語ることはできるでしょう。現在は、「当事者」になる確率が低いので、みんな「自分にはそんな『特別なこと』は起こらない」と信じ、傍観者として理想を語り、その親たちの困惑と奮闘を「微笑ましく見守る」っています。
 でも、障害を持つ子どもが産まれる可能性が、もし30%くらいだったら、「出産前診断を認めよう」って人が多数派になるんじゃないかという気が僕にはするのです。

 「出生前診断による産み分け」を認めることは、生命としての尊厳に関わる問題だということは、みんな理解しているつもりでも、「自分の子どもが障害を持って生まれてくるかもしれないことへの覚悟」っていうのは、そう簡単にできるものではありません。「覚悟」しているつもりでも、それが現実になれば受け入れるのは大変なことでしょう。

 親にとって、自分の子どもはとにかくかわいいものだ、何があっても愛せるものだ、と思いたいけれども、実際に「経済的負担」「多くの『自分の時間』を割かなければならないことへの不満」というのもあるはずです。

 「じゃあ、この『ゆりかご』が無かったら、16名の子どもたちはどうなっていたと思う?」と問われたら、どう答えればいいのでしょうか。
 僕はやっぱり、この『ゆりかご』が今の世の中に存在することの「意義」を否定できないのです。
 「そんな酷いことをする親が悪い!」
 確かにそうです。世間の多くの親たちは、どんな「不肖の子ども」でも、親としての責任を果たすために頑張っているのです。自分が大人になってはじめてわかったけれど、誰かの親であり続けるっていうのは、本当にすごいことですよね。

 「障害を持った子どもが生まれてくる」のは、親のせいではないし、ましてやその子ども自身が悪いわけでもない、そして、どんなにその負担が大きなものであっても、「親が責任を持って育てなければならない」。

 結局、世の中というのは、一部の「不運な人々」に責任を押し付け、大部分の人はそれを「運命」だと見て見ぬふりをすることによって成り立っているのだろうか、そんなことを考えずにはいられません。

 『赤ちゃんポスト』の存廃を論じるのではなく、もっと、社会全体が「自分が親だったかもしれない子どもたち」をサポートしてあげることを論じてもらいたい、僕はそう思っています。