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2007年12月22日(土) ■ |
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戦国時代の鉄砲の「本当の威力」 |
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『本の雑誌』2008年1月号(本の雑誌社)のコラム「グランド・ヒストリーへの長い旅」(神谷竜介著)より。
【ここ十数年、鉄砲伝来に関する研究の進展は著しいそうで、かつての常識はずいぶん見直しを迫られているらしい。宇田川武久『真説 鉄砲伝来』(平凡社新書)と鈴木眞哉『鉄砲と日本人』(ちくま文芸文庫)を読んで正直悄然。ありゃ、むかし習った話とけっこう違うのね。 種子島にポルトガル式の鉄砲が伝来したのは1543年(天文十二)年というのが公式発表(?)。ところが、江戸時代になってから書かれた『鉄炮記』に基づく記録で信憑性はかなり疑わしい。どうやら「種子島」以前に一部の倭寇勢力によって日本に持ち込まれていたのは確実とのことだ。 おまけに鉄砲の威力、精度、汎用性についても疑問が呈されている。鉄砲と言われて真っ先に頭に浮かぶのは大河ドラマの合戦シーンである。果敢につっこむ戦国最強の武田騎馬軍団。柵の向こうから三列に組まれた織田の鉄砲隊が火を噴くと、さしもの騎馬隊もバタバタと倒れ、斯くて日本古来の合戦術に革新をもたらした織田が戦国の世に終止符を打って天下布武への道を開く……。 どうやら全然違うらしい。この当時の鉄砲の殺傷能力は15メートル以上離れたらほぼゼロ。最長で150メートルまで敵を倒せた弓矢に比べてお粗末きわまりない性能。しかも命中精度はお話にならないレベルで、駆け抜ける馬上の敵を狙い澄まして撃つなんて不可能。さらに火薬を入れて弾を込めて火をつけて引き金を引く一連の発射作業は、三列に重ねたくらいで押し寄せる騎馬隊を片っ端から打ち落とせるほど早くできっこない。鉄砲がこの時期までに戦術・戦略レベルで日本の合戦に激変をもたらした可能性はどうにも低いのだそうだ。うわーん、大河ドラマのバカ〜。 そうなれば今度は、それ以外の要素が織田の強さを下支えし、戦国の幕引きのドライブになったということだから、新たな疑問と課題が生まれて楽しいのだが、それでも「うーん」という気はする。】
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織田・徳川連合軍と武田(勝頼)軍との「長篠の戦い」は、「織田・徳川軍の鉄砲隊が大活躍し、武田の騎馬隊を打ち破った歴史的な合戦なのだと、僕もずっと思っていました。 馬止めの柵に行く手を阻まれる武田の騎馬隊を、柵の間から三列に並んだ鉄砲隊が次々と撃ち倒していったというのが、まさにこの合戦の「イメージ映像」だったんですよね。 ところが、このコラムによると、そのイメージは歴史的事実とは異なるものなのだとか。確かに、「殺傷能力があるのは15メートルまで」「命中精度も低い」というのが事実であれば、三列に並んだくらいでは、一発撃ってまた時間をかけて弾を込めて……という戦法に比べたら有効性は上がるとしても、鉄砲隊の力だけで合戦の結果た左右されるというほどの「決定力」はなさそうな気がします。 そもそも、この「長篠の戦」は、通説では織田・徳川連合軍3万5000の兵力に対して、遠征してきた武田軍の兵力は1万5000。おまけに武田軍は内部分裂で戦わずして本国に引き返した部隊もいたのだとか。いくら歴史的に「弱かった」とされている織田軍でも、「大きなミスさえなければ負けるはずがない戦い」ではあったのです。 実際のところ、戦国時代の日本の合戦で「鉄砲の力で勝敗が決した」とされているものって、この「長篠の戦」以外に僕は知らないんですよね。 もちろん、この「長篠の戦」以降は、織田信長による「天下布武」が着々と進行し、大きな野戦そのものが少なくなり、城攻めが多くなったというようなこともあるのでしょうが、その後も鉄砲は合戦において一般的な兵器のひとつとはなったものの、コストがかかることもあり、明治維新によって日本に近代的な軍隊が創設されるまで「主力兵器」にはならなかったのです。
400年以上も昔のことについて、「ここ十数年で研究が著しく進展した」というのもすごい話ですよね。僕たちが「歴史的事実」だと認識していることのなかには、まだまだ後世の人間が「物語をそのまま史実だと思い込んでしまったこと」がたくさん隠されているのでしょう。
実は、元弓道部の僕がこの文章でいちばん驚いたのって、「最長で150メートルまで敵を倒せた弓矢」という話だったんですけどね。150メートルって、どうやってそんなに飛ばすの?そもそも、的が見えないのでは……
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