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2007年11月11日(日) ■ |
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「本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」 |
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『のはなし』(伊集院光著・宝島社)より。
(「『好きな理由』の話」というエッセイの一部です)
【2年ほど前になるか、自分の担当しているラジオの深夜放送に立川談志家元をお呼びした時のこと。もともと古典落語の道をドロップアウトして今の世界に逃げ込んできた僕としては、談志家元は特別な存在で、何より6年間の修行時代にピリオドを打った理由の一つが「名人立川談志」の落語だった。 仕事疲れか、それが素の状態なのか、不機嫌そうにスタジオ入りした家元。僕は「機嫌を損ねて帰ってしまわないうちに…」とばかりその話をした。 「僕は落語家になって6年目のある日、若き日の談志師匠のやった『ひなつば(古典落語の演目の一つ。短く軽い話で特に若手の落語家がやる話)』のテープを聞いてショックを受けたんです。『芝浜』や『死神(ともに真打がおおとりで披露するクラスの演目)』ならいざ知らず、その時自分がやっている落語と、同じ年代の頃に談志師匠がやった落語のクオリティの差に、もうどうしようもないほどの衝撃を受けたんです。決して埋まらないであろう差がわかったんです。そしてしばらくして落語を辞めました」 黙って聞いていた家元が一言。 「うまい理屈が見つかったじゃねえか」 僕はうまいことをいうつもりなんかなかった。ヨイショをするつもりもない。にもかかわらず「気難しいゲストを持ち上げてご機嫌を取るための作り話」だと思われている。あわてて「本当です!」といい返したが「そんなことは百も承知」といった風に家元の口から出た言葉が凄かった。 「本当だろうよ。本当だろうけど、本当の本当は違うね。まず最初にその時のお前さんは落語が辞めたかったんだよ。『あきちゃった』のか『自分に実力がないことに本能的に気づいちゃった』か、簡単な理由でね。もっといや『なんだかわからないけどただ辞めちゃった』んダネ。けど人間なんてものは、今までやってきたことをただ理由なく辞めるなんざ、格好悪くて出来ないものなんだ。そしたらそこに渡りに船で俺の噺(はなし)があった。『名人談志の落語にショックを受けて』辞めるんなら、自分にも余所にも理屈が通る。ってなわけだ。本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」 図星だった。もちろん『ショックを受けて辞めた』ことは本当だし、嘘をついたり言い訳をしたつもりなどなかったが、自分でも今の今まで気がつかなかった本当の本当はそんなところかもしれないと思った。10年もの間、いの一番に自分がだまされていたものだから、完全には飲み込めていないけど。 いろんな物や人が好きな理由にしたってそうだ。「家庭的だから」「目が綺麗だから」「平井堅に似てるから」「さっぱりしてるから」「デザインに丸みがあって、堅い材質の中にも温かみがあるから」。そんなもの理屈だ。本当の本当は「好きだから」以外の何ものでもない。】
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ラジオ番組の収録中に、こんな凄い言葉を投げかけられた伊集院さんは、談志家元にどんな返事をしたのでしょうか?僕だったら、いきなりこんなふうに言われたら、思わず絶句してしまいそうです。
何かを選んだり、何かを捨てたりするときに、どうしても、その「理由」を考えてしまいますよね。こういう理由があったから、自分はこうしたんだ、というふうに。 それは、確かに「本当のこと」なのだと僕も思いますし、逆に、長年続けてきた何かを捨てるときには、自分自身に対する「言い訳」が必要なのではないかとも感じるのです。「小学校時代から続けてきたピアノ」や「3年間付き合ってきた恋人」を「飽きたから」「好きじゃなくなったから」というような、ぼんやりとした感情で終わらせてしまうのは、なんだか自分に対しても申し訳ないような気がするのです。「やめてしまったこと」だけではなくて、「そんないいかげんな理由でやめてしまった自分」にも嫌気がさしてしまいますし。
人間の感情というのは絶対的なものではなくて、その場の状況において、プラスの方向に振れたり、マイナスの方向に振れたりするものです。 もし、伊集院さんが自分の落語の才能に自信を持ち、やる気に満ちている時期に、この談志師匠の『ひなつば』を聴いたとしたら、「この人に追いついてやる」「この人を超えたい」と、さらに向上心を刺激されたかもしれません。 そういう意味では、談志家元の言葉は、まさに「正論」なのでしょう。
まあ、こういうのって、「好き嫌いで選んだつもりだったけれど、後から考えたらそれなりの理由があった」という場合もあるのではないかという気もしますし、「理由」が先か、「漠然とした感情」が先か、なんていうのは、けっこう曖昧なものかもしれませんが。 ただ、後になって考えてみると、「漠然とした感情」が全く存在しないのに、なんらかの「理由」だけに基づいて何かを選んだり捨てたりすることは、ほとんど無かったように思われます。
しかし、この話からすると、談志家元自身も、同じような経験があって、その「辞めたいと思った理由」というのを自分自身で突き詰めていったことがあるのでしょうね。自分が何かをやめるときの「理由」すら許せないというのは、なんて厳しい生き方なのでしょうか……
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