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2007年09月26日(水)
「文学に限らず表現というものは、最終的にはこういう瞬間のために存在すべきなのである」

『平凡なんてありえない』(原田宗典著・角川文庫)より。

(「永遠の表現」というエッセイの一部です)

【ちょっと前の話になるが、東京の荒川でトラックによる轢き逃げの事件があった。被害者は自転車に乗った母子で、即死だった。事件の数ヵ月後、新聞社が残された父親を訪ねて取材した記事が、朝刊の片隅に載った。取材記者の幾分冷徹な質問に答えて、父親はこんな内容のことを語っていた。
「真夜中にふと目が覚めて、急につらくなって眠れなくなることがあります。そういうときは、山本周五郎の『長い坂』を読んだりして気を紛らわせています」
 この記事を読んだ瞬間、ぼくは思わず立ち上がりそうなほど興奮して、
「山本周五郎えらあいッ!」
 と叫んだ。そうなのである。文学に限らず表現というものは、最終的にはこういう瞬間のために存在すべきなのである。打ちのめされ、落ち込んで、涙も涸れてしまっているような人に何らかの勇気を与えたり、休息を与えたりすること。視覚や聴覚を超えて、心とやらが存在するのならばその部分に、直接訴えかけてくるもの。優れた表現には、そういう奇跡のような力がある。】

〜〜〜〜〜〜〜

 原田さんは『長い坂』と書かれていますが、この作品は、山本周五郎さんの「三大長編」のひとつに数えられる名作で、

【徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目覚める。学問と武芸に励むことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず、工事の完成をめざす。 】 

 というのが、そのあらすじなのだそうです(僕は未読)。
 被害者の夫であり、父親であった男性が「気を紛らわせるために読んでいた本」がこの作品だったというのは、なんだかちょっと不思議な印象を僕は受けたのです。
 「屈辱的な事件を経験した」という点で、この男性は自分の姿を主人公の小三郎に投影していたのかもしれませんが、そういう作品は最近の小説にもたくさんありそうですし、歴史小説ではなくても、もっと「投影しやすい」ものも少なくないはずです。
 あるいは、「気を紛らす」という意味では、もっと自分が置かれた状況と全然関係ないような「笑える小説」とかを読むのではないだろうか、とも感じます。

 でも、僕はこれを読みながら、「内容と置かれた状況との関連」云々ではなく、「人がどん底の状態にあるときに、とりあえず気を紛らわせて、時計の針を進めてくれる」というのは、間違いなく「表現の大きな役割」であり、「たしかに文学に限らず表現というものは、こういう瞬間のために存在すべき」なのではないかと思ったのです。

 大事な人を失ったとき、失恋したとき、あるいは、もっと身近な例としては、夜なかなか寝付けないときや何もやる気力がおきないとき……
 そんなとき、僕を優しく包んでくれて、「充電期間」を与えてくれたのは、さまざまな「表現」たちでした。「感動の超大作」こそ表現の醍醐味だともてはやす人は多いけれども、本当に落ち込んでしまって「うけとめる力」も涸れてしまっているときには、「くだらないギャグマンガ」や「淡々としたエッセイ」が、僕を救ってくれたこともたくさんあったのです。
 表現された「内容そのもの」に救われるのではなくて、「何かに没頭することによって、時間をやり過ごすこと」のほうが、結果的には多かったのではないかという気もするんですよね。「本当に辛いとき」の最大の特効薬は、「時間の経過」なのですから。

 「時間つぶし」「気分転換」というのは、一般的には褒め言葉ではありませんが、それこそが、「表現の大きな役割」なのではないかと僕はこれを読みながら感じました。「勇気」とか「感動」なんていうのは、副産物でしかないんですよね、きっと。