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2007年08月26日(日) ■ |
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中国のデパートから、プラモデルが消えたわけ |
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『日本プラモデル興亡史』(井田博著・文春文庫)より。
(小倉の「井筒屋模型部」の店主として、また、雑誌『モデルアート』の創刊者としてプラモデルの歴史を見続けてきた著者が、昭和30年代の終わり、プラモデルがようやく認知され、大ヒット商品も出てきた頃のことを振り返って)
【ところがプラモデルが売れ始めると問題点も出てきました。そのひとつは「箱絵や見本のようにできない」というものでした。私の店ではこれぞと思うキットは必ず完成品を作ってショーケースに展示していました。これがあるとないとでは、売れ行きが全然違います。デパートですから親子連れのお客さんがやって来て、子供にせがまれるまま、ショーウインドーを指さしながら「これちょうだい」と買っていくのです。 私も随分と作りましたが、古くからの店員。岩河敏さんは作るのが早く、また滅法うまかったものですから、新製品ができるや否や、ショーウインドーに完成品が並ぶ、といった具合で、それが私の店の名物でもありました。休みともなると九州各地からお客さんが「どれ、井筒屋に新しいのが入っているかな」とウインドーを覗きにきていたようです。岩河さんには後に『モデルアート』に載せる完成品も作ってもらうようになりました。 ただ、中には「箱絵に書いてあるようにできない」とか「おたくのウインドーに飾ってあるようにできると思ったから買ったのに」と商品を返しにくる親御さんもいました。そんな時には、プラモデルは説明書を見ながら自分で組み立てるのも楽しみのうちなのですとか、色を自分で塗るのが楽しいのですよとか、説明するのですが、その応対には苦労させられました。今はプラモデルを子供に買い与える親の方も、プラモデルがどんなものか知っていますから、そんな無茶なことは言いませんが、プラモデルが出始めた頃はそんな様子だったのです。 そんなことを懐かしく思いだしていたら、先日上海のプラモデル屋に行ったという人から、中国でも最近までデパートでプラモデルを置いていたが、箱絵の通りできない、と苦情を言う客が多く、デパートはプラモデルの扱いをやめたところがほとんどだ、と聞かされました。 中国は1980年代からプラモデルが入り始め、今では国産メーカーもできているのですが、かつての日本のようなことが起きているのだな、と妙に感心した次第です。】
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僕も子供のころ、デパートの玩具売り場のショーウインドーに並べられた、プラモデルの「完成品」を見て、「これを自分の手で作ろう!」と思ったことが何度もありました。 でも、不器用な僕が、プラモデルをイメージ通りに「完成」させられたことって、ほとんどなかったんですよね。 単に「パーツを枠から外し、接着剤をつけて、組み合わせるだけ」のはずなのに、僕が作ったプラモデルは接着剤がはみ出してしまっていたり、パーツどうしが少しズレて接着されていたりと「失敗作」ばかりだったのです。 「綺麗に色を塗る」なんて、もう、夢のまた夢。 それでも、「今度こそは丁寧に、箱絵のように作ってやる!」と決心しては、また、粗悪品を作り出す、ということを繰り返していたものです。 今から考えてみると、プラモデル作りほど、子供のころの僕に「自分の不器用さ」を思い知らせてくれたものはなかったのかもしれません。 僕のような経験をした人間が子供にプラモデルを買い与える時代ですから、「箱絵に書いてあるようにできない」なんてクレームをつけてくる親というのは、さすがにもうあまりいないのでしょう。 自分の子供が作ったプラモデルを見て、その出来の悪さに責任を感じてしまうことはありえそうなのですけど。
ここで紹介されている「中国のプラモデル事情」に関しては、これだけを読むと「うーん、中国らしいエピソードだ……」というようなことをつい考えてしまうのですが、実際は、1960年代の日本でも、「同じようなこと」が起こっていたようです。僕はこれを読んで、もしかしたら、今の中国というのは、一昔前の日本と似たところが多いのかもしれないな、と感じました。 もちろん、社会体制の違いは大きいのですが、少なくともプラモデルに対する一昔前の日本人の姿勢は、そんなにスマートなものではなかったのですから、中国という国も、これからまだまだ変わっていく過程にあるということなのでしょう。「日本のような国になること」が幸福なのかどうかはさておき。 まあ、同じようなクレームでも「デパートで扱うのをやめるほど」という「程度の差」には、やはり、国民性の違いもありそうな気もしますが。
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