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2007年05月15日(火)
「息子が投稿した小説を返却していただけませんか?」

『小生物語』(乙一著・幻冬舎文庫)より。

【角川書店の雑誌「ザ・スニーカー」の編集部に、ある日、このような電話がかかってきたそうである。
「スニーカー大賞に息子が投稿した小説を返却していただけませんか?」
 スニーカー大賞というのは、ライトノベル系小説のコンテストのことである。電話の相手は女性で、息子が応募した原稿をどうしても返してほしいと受話器越しに訴えてきたそうである。応対した編集者は「それはできません」と返事をして、応募要項に「原稿の返却はできない」という記述があることを説明したそうである。
「でも、どうしても返してほしいんです」
 母親は泣いて引き下がらなかったそうである。
「息子が死んでしまったんです。生前に息子がどんなものを書いていたのか知りたいんです」
「ザ・スニーカー」の編集者は応募されてきた封筒を探して返送したそうである。
 実話だそうです。
 ちなみにその息子さんは23歳だったそうです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「応募原稿というのは、コピーくらいとっておくものではないのか?(まあ、パソコンで書いて、データは自分で消してしまっていたのかもしれませんが)、という気もしなくはないのですが、この話を読んで、僕はいろんなことを考えてしまいました。この23歳の男性はどういう死にかたをしてしまったのだろう、とか、お母さんは、どこで息子が「スニーカー大賞に応募していたこと」を知ったのだろう、とか。

 そして、もうひとつ思ったのは、何かを「形にして遺す」というのは、書いている本人が意識している以上に「重い」のだということでした。
 それは、プロの作家のみならず、アマチュアの小説家志望者、あるいは僕のようにWEBで日記や文章を書いている人にとっても。
 例えば、何らかの事故や急病で僕が突然死したとして、実際の僕を知る人が、僕の「生前考えていたこと」として、ここを僕の妻や兄弟に教えたとします。そんなとき、僕の妻や兄弟は、ここを読んで、どんなことを考えるのでしょうか? あるいは、もっと個人的な日記のようなものを、書いている人が亡くなってしまった後に見せられたとしたら……

 もし、そこに自分の悪口が書いてあっても、残された人は反論しようがないし、本人の「真意」を確認する術もないのです。本人が誰にも言えずに抱えていた悩みが記されていたとしても、いまさら、死者の相談に乗るわけにもいかないわけで。
 でも、そういう「どうしようもない過去の現実」というのは、色褪せることなく、WEB上では残ってしまうんですよね。そして、それを目の当たりにすることは、残された人間にとって、必ずしも「良い結果」ばかりをもたらすとは限りません。むしろ、「知らなければよかった」と感じることも多いのではないでしょうか。

 このお母さん、息子さんの「作品」を読んで、どう思ったのだろう?
 僕はそんなことを考えてしまうのです。
 もし、そこに「悩み」が書かれていれば、「どうして相談してくれなかったのだろう?」「私がもっと息子をちゃんと見ていれば」とお母さんは自分を責めたのではないかなあ。
 まあ、「スニーカー大賞」への応募作だということですから、「萌え系」のキャラクターが活躍するエンターテインメント系のファンタジー作品とかの可能性が高いのではないか、とは思いますけど、もしそうなら、息子の作品を読んだお母さんは、いったいどんな気持ちになったのでしょうか……

 「遺すことができる」時代だからこそ、かえって「遺しておくもの」には、日頃から気をつけておいたほうがよさそうです。誰だって、明日も絶対に生きているとは限らないのだし。
 僕たちは「遺すこと」ばかり意識しがちだけれど、むしろ「捨てるべきものは、忘れずに捨てておく」ことのほうが、大事なのかもしれませんね。