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2007年04月11日(水) ■ |
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「心中」と「ダブル・スウィサイド」 |
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『作家の生きかた』(池内紀著・集英社文庫)より。
(「心中」と題された、太宰治さんの項の一部です)
【心中は外国語にならない。どうもそのようだ。英語にくわしい人にたずねると、少し考えてから「ダブル・スウィサイド」と言った。ダブルベッドと同じで、二人用の自殺。ドイツ語でも同様で、「二重の自殺」といった意味の味けない言葉をあてる。 あるとき、ウィーンの映画博物館で日本映画の特集があった。誰の作だったか忘れたが、有名な心中事件をとりあげていた。セリフは全部、ドイツ語の吹き替えになっている。男が女を死に誘い、女が同意した。 「二人して幸せに死のうよ」 とたんにホールのどこかで一人がプッと吹き出した。そのあとはもうメチャメチャ。死を決めた二人が改めて愛を誓い合い、思い入れたっぷりなセリフを口にするたびに笑いが起きた。 青い目には悲劇が喜劇に見えたのだ。愛している、だから死のう――その非論理性がノンセンスそのものに思えたらしい。それに自殺という、きわめて個人的な行為を、まるでハイキングの日取りを決めるように誘い合って決めるところが、なんともおかしい。そのあともホールは笑いにつつまれていた。ひとたび喜劇に見えると、もう悲劇にもどれない。スクリーンの二人が深刻な顔で語れば語るほど、ますますおかしさがこみあげてくる。涙をしぼらせるはずの映画が腹の皮をよじらせて終了した。 太宰治はその心中を三度している。一度目は一方が生き残り、他方が死んだ。二度目は両方とも生き残った。三度目は両方とも死んだ。ダブルの自殺につきものの経過を、そっくり体験したことになる。古今を問わず心中沙汰は数多くあったにせよ、三通りの終わり方をくまなく体験した人は珍しいのではあるまいか。】
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これを読んで、映画『LIMIT OF LOVE 海猿』がニューヨークで上映されたとき、「主人公役の伊藤英明さんが携帯電話を使ってプロポーズするクライマックスのシーン」で、ニューヨークの観客たちが「こんな状況下で携帯を4、5分も使いプロポーズまでするなんて」と大爆笑していたというエピソードを思い出しました。「ドラマチックなシーン」というのは、あまりにその状況が極端すぎると、ちょっとしたきっかけでコントになってしまう場合もあるんですよね。もちろん、この「心中」に関しては、「自殺は罪悪である」というキリスト教の教義を背景に持つ西洋人たちと、「死はすべてを浄化してくれる」という日本人の観念の違いも大きいのでしょうけど。
そう言われてみれば、海外の文学作品では、「心中」が描かれているものって記憶にありません。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』は、「心中」に近いものかもしれませんが、あの作品も「二人で話し合って幸せに死んでいった」わけではなく、「それぞれが個別に絶望して死んでいった」のです。アメリカでのカルト的な宗教団体の「集団自殺」が報道されることがありますが、あれも、日本的な「心中」とはちょっと違いますしね。 いくらなんでも、死のうっていう人たちを笑いものにするなんて……と日本人である僕は考えたりするのですが、ウィーンの人たちにとっては、「笑ってしまうくらいあり得ない話」なんだろうなあ。「せっかく愛し合っているのに、なんでわざわざ自分たちで死んじゃうの?」って感じなのでしょうか。 まあ、某W辺淳一先生の『失楽園』とか、『愛の流刑地』なんていうのは、「心中を美化する文化」を持っているはずの日本人にも、思わず失笑してしまった人は多かったようですし、江戸時代の「心中物」に対しても、現代では、「心中するくらいなら、死んだ気になって頑張ればいいのに」と思う日本人のほうが多かったりするのかもしれませんけど。
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