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2007年03月08日(木) ■ |
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村上龍さんが語る「現代における文学の役割」 |
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『文藝春秋』2007年3月号(文藝春秋)の記事「特別鼎談・我らが青春の芥川賞を語ろう」(湯川豊著)より。
(石原慎太郎さん(『太陽の季節』昭和30年下期)、村上龍さん(『限りなく透明に近いブルー』昭和51年上期)、綿矢りささん『蹴りたい背中』(平成15年下期)の3名の芥川賞作家による鼎談の一部です)
【石原慎太郎:文学には時代時代の役割があって、バルザックやドストエフスキーの頃だったら、一生に一度もパリやペテルブルグに行くことがない人間のために、街の様子を描写するという叙事詩としての役割があった。でも、とうの昔にそんな役割はなくなっていますね。
綿矢りさ:小説が情報を伝える役割を持っていた時代もあったんですね。SFとか、空想の未来を作るために言葉を使うんじゃなくて、実際に存在する場所の情報を文字で輸入していたとは。私はそういう時代をすっ飛ばしているものですから。
村上:今、パリの様子を知る目的でバルザックは読まないものね(笑)。
石原:文学の大きな主題であるモラリティだって、現代ではインモラルなものがこれでもかと視覚化されて氾濫している。そこで龍さん、こういう時代の文学の役割というのは何なのかねえ? とても難しい時代にきていると思うけど。
村上:新聞の三面記事を見れば、あらゆるタイプの心の闇が溢れていますからね。ただ、僕が思うのは、未来になって、たとえ医療技術が高度に発達して寿命が200才まで延びても、人間がナイトメア、つまり悪夢を見なくなることはないと思うんですよ。ヒトゲノムがすべて解明されても、全世界が民主的になっても、人間の精神は過剰で、社会性から切り離された自由な部分が必ずあって、だから不安定で、摩擦や矛盾は必ずあると思うんです。文学は解決策を提示するわけじゃないし、癒すこともできないけれども、疑問を示すとともに、ある種の人たちに「それはあなただけじゃない、普遍的なことだ」というメッセージを発することはできると思うんです。
石原:面白いなあ。なるほど、文学は悪夢か。
村上:いじめで子どもがたくさん自殺して、文科省も学校も、子どもの自殺の防止策をしきりに考えているけど、自殺を止めさせるのは本当に難しいと思う。校長先生が壇上から「人の命は地球より重い、自殺はやめましょう」といくら言っても、子どもは分かんないですよ。でも、ひょっとしたら、ある種の小説には、自殺しようかなと思っている子どもを止める力はあると思う。「それはあなただけじゃないんだ」というメッセージだったり、あなたは知らないかもしれないけれども、人生はこんなに複雑なんだ、それをもっと知った方がいい、知るためには今死なないほうがいいよ、というメッセージとしてあり得るんじゃないかな。人が悪夢を見るということは、誰だって自殺の誘惑にかられる危険性があるということですよね。そういうときには、案外、文学に存在価値があると思うんですけどね。
綿矢:文学は内面の深い描写も多いので、知らない世界を広く深く知ることができます。
石原:文学の持っている毒が、自殺しようとしている子どもの心を揺さぶっることがありうるということですね。とても重要なキーワードだねえ。ナイトメア。】
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うーん、さすがは村上龍。と感動しながらこの部分を読んでいたのですが、考えてみれば、これもちょっと強引な理由付けではありますよね。だって、「文学には自殺しようかなと思っている子どもを止める力がある」としても、場合によっては、「自殺しなくてよかったはずの子どもを自殺に駆り立てる力もある」ように感じられますし。それでも、こういうことを即座に言葉にできる村上龍さんって凄いな、と圧倒されるのは間違いないのですが。石原慎太郎さんなどは、すっかり村上龍さんに頼りきってこの対談を乗り切っている、という印象です。
この鼎談を読んでいて僕が感じたのは、どんどん「文学」の存在価値を見出しにくい時代になってきているのだろうな、ということでした。確かに、現代の日本人は海外の情景を文学で知るよりは旅行番組やホームページで知るほうが一般的でしょうし、実際に自分で旅をして「体験」することだって、ごく一部の地域を除けば、そんなに難しいことではないのです。 ただ、それでもわからないのは「他人が本当は何を考えているのか?」であり、それを知ることができるというのは「文学」の最後の役割なのかな、とも思います。最近の小説では「特別な人」よりも「ごく普通の人」が描かれることが多いように感じられるのは、「特別な人」のことは、他のメディア(例えば、新聞の三面記事や情報誌のインタビュー)で知ることができるからなのかもしれませんね。
僕自身は、「存在意義」はさておき、「読む」「読んで知識や他者の体験を蓄積する」ことそのものに快楽を覚える人間は、一定の割合で存在するのだ、というような気もしているんですけど、彼ら(というか僕ら)が、いつまでも「文学」に忠誠を尽くすのかどうかは、正直わかりません。人類の歴史からみれば、「文学」そのものが、過渡期の一時的な現象なのかもしれませんしね。それこそ、1万年後の人類からすれば、「文学」も、僕たちにとってのルービックキューブのブームと同じようなものになってしまう可能性だってあるでしょう。あるいは、他人が考えていることがわかる機械が完成すれば、誰も「文学」になんか見向きもしなくなってしまうかも。 それでも、今の時点で、「文学」というのは、ある種の人々の心を動かすことができるツールであるというのは、まぎれもない事実なのです。
ところで、この鼎談のなかの別のところで、石原さんと村上龍さんが「文学には毒が必要なのではないか」と仰っているのに対して、綿矢りささんが【私はどちらかというと、今は、読んだあと居心地の悪さの残る本よりも、心がきれいになるような浄化作用のある本が求められているように思います】と仰っていたのが僕にはすごく印象的でした。僕はちょうど村上さんと綿矢さんの中間くらいにあたる年齢なのですが、確かに、斬新な、よりインモラルなものを求める気持ちがある一方で、「もう『毒』はお腹一杯だよ……」という気分は、僕にもあるんですよね。
そう仰っている綿矢さんの新作が、ものすごく微妙な後味の『夢を与える』だったりするのが、「文学」というものの面白さなのかもしれませんが。
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