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2007年02月08日(木)
「夢を与える」

『文藝』2007年春号(河出書房新社)の「【対談】高橋源一郎×綿矢りさ」より。

(綿矢りささんの最新作『夢を与える』についての、綿矢さんと高橋源一郎さんとの対談記事「21世紀版・日本の『感情教育』―『夢を与える』をめぐる5つの質問」の一部です)

【高橋:これはテーマにも関係してくるんだけど、『夢を与える』というタイトルは最初から決まっていたの?

綿矢:そうですね。変えることも考えはしましたけども、ラストが決まったときに「これしかないな」と思って。

(中略)

高橋:さっきの質問に戻るけど、『夢を与える』というこのタイトルはなぜ?

綿矢:この言葉が本当にきらいなんですよ(笑)。だから使ってみようかなと思って。

高橋:なるほど。これは誰が誰に「夢を与える」んでしょうかね。授業ではいろんな説が出たんです。
 まず最初に考えられるのは、テレビ局等が夕子を通して一般の人に夢を与えるということ。つまり主体はテレビ局、与えられるのは一般の人、視聴者です。それで夕子は媒介。それからテレビ局じゃなくて世間というものが夕子を媒介にして人々に夢を与えるという説もありました。他には、夕子がお母さんに夢を与えているという説もあります。

綿矢:なるほど。

高橋:あとは、さらに解釈すると、夢を与えるはここではテレビタレントということになっているんですけれども、小説もそうではないかと。だとすると小説家が読者に夢を与えるということがこの小説の裏にある。その担い手は夕子なのか綿矢りさなのか、だからそこでモデル問題になってくる。夕子がテレビ局の媒介であったように綿矢りさも媒介であるということですね。つまり小説家も夢を与える存在だとするならば、ここではネガティブに使われているから、小説家としての自己否定ということではないかと。さらにうがった見方としては、『インストール』や『蹴りたい背中』で読者に夢を与えたけれど、「その夢はもう忘れてください、もうこれからは夢を与えられません」と言ってるという説がかなり濃厚だったんです(笑)。
 それで途中から夕子は綿矢さんがモデルというよりも、綿矢さんが小説の中に送り込んだ自分の分身で、いわゆるモデルとか私小説じゃなくて、要するに綿矢さんの小説のアイディアを代行してくれる存在であるのではないかという議論にもなりました。つまり夕子は夢を与える媒介なんだけれども、代行をするというその部分においては小説家あるいは小説のメタファーである。じゃあこの「夢を与える」というのはポジティブな意味かというとポジティブな意味ではないので、小説というのも実はテレビ局が与えているように幻にしかすぎない、だから近代小説が否定されているんだと。
 そう言われると何となく説得力があるでしょう、作者にとっても(笑)。

綿矢:そうですね、そんなにいろんなパターンがあるとは勉強になります(笑)。もう本当に全部驚きという感じで、正直に言わせてもらうと、私はそこまでは考えてなかった。本当に、ぼんやりとこの言葉に向かい合って作った小説だから。

高橋:言葉にね。

綿矢:はい。だから私の中でもまだ答えが出てない。

(中略)

綿矢:作者としては、単純に夕子が主人公で(笑)。

高橋:あ、そう(笑)。

綿矢:もしお母さんが主人公だったら、「夢を託す」とかにします。

高橋:でもこの小説でやっぱりキーになっているのは「夢を与える」というフレーズだっていうことを綿矢さんがさっき仰って、きらいな言葉って言ったけど、じゃあこれはどこから来たの?

綿矢:これはよく聞く言葉ですね。先ほどはこういう言い方はないのではないか、っていうお話だったんですけど。

高橋:みんなさ、「夢を与える」って文章にすると偉そうじゃない、って言うんです。

綿矢:普通に「夢を与える仕事に就きたい」とかみなさんよく仰ってますよね。文章にするとさらに偉そうなんですけど、でも私はやっぱりこの言葉があまり好きではなくて。

高橋:でもさ。好きじゃない言葉をタイトルにするっていうのもすごいことだね(笑)。

綿矢:そうですね。地味かなとか思ったりしたんですけど。

高橋:全然地味じゃないよ(笑)。

綿矢:でもやっぱり昔から結構考えさせられることが多い言葉だなって。

高橋:じゃあずっと気にはなっていた?

綿矢:はい、なっていましたね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今日、2月8日発売の綿矢りささんの新刊『夢を与える』についての綿矢さん自身の言葉。今の日本の小説家で、綿矢りささんほど新刊が出ることが話題になる作家は、村上春樹さんくらいのものでしょう。こんなふうに話題になるということに対して、御本人はどう考えているのか、プレッシャーはないのか(ないわけがないのですが)、というようなことを僕はつい考えてしまうのです。

 この対談では、高橋源一郎さんが『夢を与える』という言葉に対して、「誰が誰に『夢を与える』のか?」と綿矢さんに尋ねているのですが、綿矢さん自身は、その「読解」に対して、やや困惑しているようにすら僕には思えました。でもまあ、今の彼女の立場からすれば、読者から主人公の夕子のモデルは綿矢さん自身であり、この作品は綿矢さんからの「もう私は夢を与えるのに疲れました」というメッセージなのではないか、というふうに読まれるのは致し方ないのかな、という気はしますよね。

 誰かに「夢を与える」仕事というのは、非常に限られたものです。スポーツ選手や芸能人、あるいはサーカスのパフォーマーなど、星の数ほどある職業のなかの、ごく一部でしょう。しかも、スポーツ選手や芸能人で「子供たちに夢を与えられるような」人というのは、ごくひとにぎりの成功者だけですし、他人に「夢を与える」というような発想は傲慢な感じはします。確かに、「夢」なんて、誰かに与えられるようなものじゃない。もちろん、僕はこの言葉について、「なんとなく嫌な感じ」というくらいの印象しかなくて、こんなふうに指摘されるまでは、綿矢さんのように「嫌い」になるまで深く考えたことはなかったのですけど。
 そして、綿矢さんの「子供時代から『夢を与える』という言葉は嫌いだった」という発言からは、きっと彼女も僕と同じように、「自分は他人に『夢を与えられるような』立場になることはないだろうな」と考えていたことがうかがえます。しかしながら、綿矢りさという小説家は、若い作家志望者たちにとって、まさに「夢を与える」存在になってしまっているのです。それは、彼女にとって、いったいどんな感じなのでしょうか?

 それにしても、小説家というのは、ひとつの言葉に対して、ここまでいろんなことを考えるのかと本当に驚いてしまいました。僕は『夢を与える』というタイトルを聞いて、内心、「なんかパッとしないタイトルだなあ」と思っていたのに。