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2007年02月07日(水)
「才能があるのに売れていない作家」しか愛せない編集者

『妖精が舞い下りる夜』(小川洋子著・角川文庫)より。

(『シュガータイム』という作品に関する、小川さんの思い出)

【思い出の多い作品です。「マリ・クレール」に1年間連載しました。
 ある日の夜中、突然面識のない編集者の方からお電話をもらいました。「完璧な病室」を読んだ。とにかく連載小説を始めよう! というのです。声は大きいし威勢がいいし、話の内容は突拍子もないし、唖然としてしまいました。デビューして1年かそこらで、まだ100枚以上のものを書いたことさえない新人に、連載小説なんてできるわけがないと、わたしは思い込んでいましたから。
 けれどそんなことにはお構いなく、その方は自分がどれだけ小説というものに心を動かされてきたか、いい小説を読みたいと切望しているか、情熱的に語りました。言葉を挟む余地なんてありません。彼の頭の中には、既に「マリ・クレール」での連載の計画が明確に出来上がっていたのです。
 それでも「わたしみたいな若造に、どんなものが書けるか自信がありませんし……」などと言ってぐずっていると、一段と声を大きくし、「三島由紀夫が『花ざかりの森』を書いたのは16の時だ!」と叫びました。その勢いに恐れおののき、思わずイエスと言ってしまったのです。それが安原顯(やすはら・けん)氏との出会いでした。
 毎月毎月二十枚を積み重ねてゆき、一つの物語に作り上げる作業は、もちろん初めてのことですから、精神的に厳しいものでした。原稿を送ってから電話が掛かってくるまでの数日は、不安で仕方ありませんでした。でも安原さんはいつも、小説に対するそのあふれる情熱で、わたしを励まして下さいました。
 勇気を出して書いてよかったと思っています。他人に左右されず、自分のやり方で書いてゆくのが、本来の作家の姿でしょうが、私の場合は自分で自分のことが何も分かっていないので、強引すぎるほどの編集者の方にぐいぐい引っ張られると、思いもよらない作品を書いてしまうのです。】

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 「博士の愛した数式」「ミーナの行進」などの作品で知られる作家、小川洋子さん。この「シュガータイム」という作品は、1991年に単行本として発行されているのですが、この作品が生まれたきっかけは、編集者・安原顯さんからの1本の電話だったそうなのです。安原さんと言えば、僕にとっては、この「村上春樹自筆原稿流出事件」の一方の当事者であり、村上さんに対する加害者というイメージが強いのですが、小川さんからすれば、安原さんは、(ちょっと煩くて煙たいけれど)「自分の世界を広げてくれた恩人」なのですよね。いや、村上春樹さんが書かれた「ある編集者の生と死」においても、少なくとも村上さんが「小説を書いているバーテンダー」だった時代の安原さんは、村上さんのよき理解者であり、支援者でもあったのです。村上春樹さんにしても小川洋子さんにしても、もし彼らが駆け出しの時期に安原さんと出会っていなければ、「売れなかった」ということはなかったとしても、その成功までの道のりは、現在よく知られているものとは違っていた可能性が高いような気がします。

 僕はこれを読んで、安原顯という編集者は、「素晴らしい小説を書きそうな売れていない若手作家」が大好きな人だったのだなあ、と感じました。そして、彼らを情熱的に支援するにもかかわらず、実際に自分が支援してきた作家が「売れっ子」になってしまうと、今まで応援してきたはずの人にもかかわらず、その作家に嫌悪感を抱かずにはいられなくなるのです。でも、それって結局、安原さんは、相手を嫌いになるために応援しているようなものですよね。たぶん、彼自身は、自分のそういう嫉妬めいた感情を認めたくはなかったのだろうけれど。

 人というのは、ほんとうにさまざまな面を持っているものだな、と僕はこれを読んで感じました。少なくとも小川洋子さんにとっての安原顯さんは「大恩人」です。そして、「才能があってまだ売れていない作家しか愛せない編集者」というのは、文学界にとっては貴重な存在であっても、本人にとっては辛い人生だっただろうな、と僕には思えてなりません。